2023-08-10 Thu
塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東愛季、実季父子木造座像」令和5年8月発行
小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東愛季、実季父子木造座像
福井若狭湾に面する小浜市。
その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。

本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.
その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の祖父である安倍安東愛季、そして、実父である実季父子の木造座像が安置されています。

「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、“鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。
羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。
また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。
鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。
応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。

安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。
三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。

安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の朝廷・尊朝法親王の要請により安東実季が父である盛季の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の改修を行っています。
安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。

もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。
三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。
以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんど
う)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。

先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。

さらにもう一つ。
時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。
平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。

征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。

阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で
処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。

「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。

蒼龍謹白 来てみねぇげ、田村! 拝
小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺
〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5
若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分
小浜駅よりタクシーで10分
拝観時間 9時~16時
○拝観料
ひとり 400円
団 体 360円(20人から)
330円(50人から)
○北陸三十三観音霊場》 五番
○北陸不動尊霊場》 三十六番
○若狭観音霊場》 十二番
○宝の道七福神霊場》
○数珠巡礼の会》
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2023-06-12 Mon
以前、ある食事会で隣席でご一緒させていただいた方ですが、奥様の旧姓が海老名で級は会津藩湖南奉行そして戊会津戦争の折には白川口軍事奉行として白河城攻防戦の指揮官だった、海老名衛門季久の末裔でした。会津藩家老海老名家を最近調べていたもので、あまりの御縁に驚きました。
白河城下の龍興寺山内には、戦死塚と刻まれた東北諸藩の列藩同盟戦没者を供養した石塔があり、その傍らに会津藩軍事奉行「海老名衛門季久慰霊碑」があります。
海老名衛門は、敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている会津藩軍事奉行です。
嘉永4年、房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。
その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍します。
海老名衛門は、会津藩では公事美行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して家督を息子である季昌に譲り隠居していましたが、慶応四年の戊辰戦争に際して軍事奉行に復帰し、白河に赴きます。
最も激戦だった慶応四年五月朔日の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に布陣していた奥羽越列藩同盟軍が、新政府軍の攻撃に圧倒されて敗走、この責を負い切腹します。
享年五十二歳
この「海老名衛門君碑銘」は明治十七年に長男季昌が建て、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものです。
現地案内板参照
長男季昌は、「禁門ノ変」においては、藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、は幕末の京へ赴きます。
後に、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、横山常守と行を共にします。
しかし大政奉還が行われるなど会津藩に危機が迫り、11月28日(11月3日)に帰国。
戊辰戦争と会津戦争では、鳥羽・伏見の戦いに参戦し負傷。
会津に帰還後各地を転戦しますが、会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となり、この間家老へ就任している。
海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署しています。
会津藩降服後は、一時東京で幽閉され、赦免されたのは1872年(明治5年)のこと。
斗南へ赴いたが短期間で会津へ戻ります。
1875年(明治8年)警視庁警部補となり、1878年(明治11年)山形県西村山郡郡長、そして、自由民権運動福島事件では、民権運動の取締りを行っています。
後に、信夫郡、北会津郡、石川郡、東白川郡の各郡長を務め、警察官としては警部、警視属し、後に初代若松町長となり、市制移行に尽力。
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2023-05-01 Mon

「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎
官軍となった西軍による会津戦争の際に三春からも荷駄人足として各村から人足として駆り出されています。
時に慶応四年七月二十六日 (1868) 。
三春藩庁より領内の村々に人足(15歳~60歳まで)の要請があり、筆者伊藤好三郎は、その日の内に三春城下に入り人間人馬人足を勤めています。
従軍記は、八月二十日に二本松から玉ノ井村(現大玉村)に移動した所から軍用記覚付帳が始まっています。
慶応四辰年 軍用記覚付帳 八月二十日~九月九日
1、 七月二十六日、三春町に繰り込み人馬おつとめ
仰々慶応四辰年 八月二十日
二本松を出立し玉ノ井村と申す所に参り候、所定より壱里半程先に、二本松藩丹羽丹波と申す家老が山の中に屯ろ致し、其所にて二日、夕七ツ時頃にすぐ戦いに進み大戦に相成り
官軍様方に壱人の怪我、その晩玉ノ井村に引帰り宿際に相成り候。
次二十一日、早朝に石筵村と申す所に四里ほど参り、其所より壱里半程先のぼり石筵峠
と申す所に会津公の大掘抜六七ヶ所有る所を打ち破り 会津勢弐千人程人数に御座候。
官軍様方怪我人六七人あと会津勢怪我人数多し、人馬石筵峠にて泊り申し袋、その時人馬
に逃げられ申し候、怪我をいたし所に敵方参り候、自軍方も驚き入り申し後、まことに驚き入り、官軍様方戊成峠より大原村新田に宿際仕え候。
次廿二日、人足馬方共も泊りに相成り、官軍様方は猪苗代迄に攻め込む、人馬共大原に泊る。
明廿三日、朝七ツ半頃に大原を出立にて人馬引立て申し候、官軍様方は猪苗代より乗り込み致し、十六橋より強清水、滝沢口まで戦いに御座候、其所より怪我人数多し御座候、会
津勢かこめずみるみる数多く散り々に遣られ、滝沢で人馬四五人流れ玉にて怪我を致し九半頃に若松へ操込む、大手門より繰込み三四丁ほど城に近づき申すに御座 。
大筒小筒にて終ち合いの最中、屋敷に火をかけ大火事に相成り、城中に大筒をかける。
人馬滝沢町に参り馬を休め、又、馬を引立し、城の近くまで引付け候の所、滝沢より町中に死人数多く有り。
廿四日、朝より戦い相成り申し候。町内には一人もおらず候。

廿五日、朝六ツ時より大戦に相成り城中からも攻撃があり、昼八ッ半迄に休みなく戦いに相成り候、大玉小玉の雨が降るが如く町中に参り驚き入り、丸の内の薬倉に火を掛け大地
震の如く大雷様如く 家の壁も崩れ大地に伏し驚き入り奉り候、煙の様態はたとい方もな
し 夕五ツ頃に城中より切り出し、その時、官軍方関の声を上げて押しかいし申し候。
〇廿五日 勢至井堂口より官軍様方繰り込み申し候、戊成口損じるに御座候、中山口は、二日、彦根様御人数繰り込み申し候、三日、格別なこともなし
明廿六、朝四ッ頃より夕七ッ頃まで大戦に御座候。
廿七日は、格別の戦いもなし。
廿八日も、その通り、廿九日、朝五ッ頃、津川口より勢井志堂口(勢至井堂口)の敵方が集まり五六千人程にて参り城中に入ると致す所 官軍様方七日町にて相おり、城中に入らんとする所を破り すぐ大戦に相成り城中より切り出し話の外の戦い致し敵方へ官軍様より大筒を撃ち掛け外内に廿五六人ほど突けかい致し、敵方のほうにて三百六七拾人ほど死人と申するに御座候。
官軍様方は五拾六七人の怪我、晦日には、少々戦いに御座後。
一日にも二日にも三日にも格別の戦いもなし四日にも五日にも格別のこともなし 町にも
なし。
五日、津川口より官軍様方参りすぐ大合合戦に御座候、百姓とも嫌がりいたし、鉄砲を撃ちかけられ我さきと逃げる、蓑や鎌わらじも置き皆逃げ申し候、
その時、てき(敵)方死人数多し地に伏し堀に伏し大合戦に御座候、
官軍様方もけがを致しその時、津川口より攻めかけ官軍様方何万人となしに六日七日八日と数しれず繰り込み申し候。
九日、大火事に御座候、七日町より滝沢町までも燃え広がり申し候、その時、大合戦に御座後、大筒小筒の撃ち合い、その時、人馬だんな方も地に伏し堀に伏し壁にかくれ大合戦に御座候。
会津人馬つとめる、瀬川には薩州六半匁大清作方おつとめ、貝山三人組 作吉、倉ノ助、藤三郎氏組三拾六人組二本松人馬、三春人馬入り混ざり若松に繰り込みに付人馬は、貝山人馬拾人1.勘右衛門 1.田作1、今朝治1、玄治右衛門 1、慢次郎1、柳多 1、藤ノ烝氏方は薩州三半匁大四半匁報奨人馬相つとめ、七人と三人合わせ拾人
以上

この従軍記は、8月20日現大玉村の玉ノ井村から始まり9月9日会津城下大合戦までの約20日間の記録で終わっていますが、三春から二本松藩攻略(7月29日落城)の人足に出たのは三春藩の記録にあり、二本松藩とは親藩の間柄の為か記録するのをためらったのかもしれません。
尚、9月22日の会津城落城迄参戦していたかは不明ですが、9月9日以降の行動は激戦の為に書き留めておく余裕なかったのではないかと想像されます。
別の記録には会津城下の激戦に於いて三春人足は最前線迄鉄砲や大砲の玉など武器弾薬を運搬していたと記されています。
戦後の記録には貝山村からの10人の人足が徴発されていますが戦傷者もなく禅無事に帰還したと記されています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2023-01-19 Thu
伊勢の神宮さんへ夫婦で初詣⛩です。
薮入りとされるこの日、正月の休日(1泊2日)を使っての参拝です。
私は昭和39年1月20日生まれですので、還暦を迎えます。
出立まえに、三春藩主祈願所眞照寺、三春藩領内総鎮守田村大元帥神社、そして、高屋敷稲荷神社へご挨拶の参拝。
以前に、高屋敷稲荷神社の宮司様より伊勢神宮参拝のレクチャーを受けまして・・・
まずは、夫婦岩で有名な二見ヶ浦。
これからも夫婦仲良く余生を暮らせるようにと、ふたりで手を合わせて来ました。
外宮さん、内宮さん、両社に於いて神様への感謝と日本、そして世界平和を祈願のために御祈祷を受けました。
何と、外宮さんでタイミングなのでしょう・・あの広い拝殿に於いて私たち二人だけでお祓いを受けることがdきました。
また、内宮さんではそれなりの人数でお祓いを受けましたが、名前を呼ばれる段になって郡山周辺の参拝者が多いのには驚きました。
「御伊勢講中」もあったように聞きました。
コロナ感染予防等観点からもお祓い町、おかげ横丁での飲食は避けようと考えていましたが「赤福本店」は外せません。
これから夫婦水入らずの直会です♪
宿泊はもちろん「神宮会館」です。
翌日は、御世話になっている外宮近くの宿「紅葉軒」さまにご挨拶して・・・

江戸後期の三春藩士中村寛亭・匡(ただし)は、藩命を受けて三春藩主代参として三春から畿内まで従者2名を連れて伊勢神宮参詣へ向かいます。
伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松院(寺)にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・安倍秋田實季入道(あべあきたさねすえにゅうどう)の墓所にも参っています。
私も、今生では一番といっていいくらい秋田實季公の初め歴代秋田候のお名は絵を多用していると持っていますので、伊勢神宮参拝のおりには、實季公の菩提寺石城山永松寺様へのご挨拶と墓前への参拝をしております。
・朝熊(あさま) 永松寺 住職 百合齊道様 三重県伊勢市朝熊町1212
三春藩主初代秋田俊季公の実父 日之本将軍(ひのもとしょうぐん)と呼ばれた秋田安東実季公(あきたさねすえ)の墓所はあります。
戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道
江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。
凍蚓(とういん)”凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、秋田実季は約30年、伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を送り、1660年に死去しました。享年85。
和歌や文筆を残しています。
朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。
お千世方は、実季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘で、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。
そして、片山氏本人も、實季氏の死去の8年前に実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。
尚、永松寺様では、本堂の再建工事が令和5年1月26日より始まります。
”一生に一度は御伊勢詣り”と云われる、伊勢神宮です。 心の芯から浄化されるような気がいたします。
お蔭様詣りと云われますが、こうして参拝できるのも、家族、お客様、そしてご縁のある皆々様のお蔭と、心より御礼を申し上げたくなるような神様です。
かつて、司馬遼太郎氏は”お伊勢参り”を
「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益がるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」
と称されていましたが、まさにその思いをこの静寂が訪れ伊勢の神宮さんで共有することができます。
この神域の滞在中、神威とも云うべき「風」が音を立てて体内を通り抜けていく感覚があります。
そして、凛と張りつめた気が浸透していくかのような感じが肌に伝わってきます。
一歩一歩歩みを進めるたびに地面からビリビリといった具合に足元からパワーが伝わってまいります。
これがお伊勢さんの神威なんでしょう。
ありがとうございます。
三春から伊勢まで約700キロ、遠い道のりではありますが、夫婦そろっての参詣でしたので、楽しい伊勢神宮参詣でした。
三春へ帰還の際には、高屋敷稲荷神社さま、眞照寺さまへお土産を以て帰還の報告と御礼、そして、大元帥明王さまへ参詣し報告・・
これにて”笠脱ぎ”として伊勢神宮参詣記を締めさせていただきます。
おかげさまで、晴れやかな新年と、還暦を迎えられます。
関係各位の皆様、御世話になりました。
ありがとうごじました。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2022-12-05 Mon
秋田氏藩政時代、三春城下町村には、検断(町役人、延宝六年後は3人)5人、町年寄10人 (同七人)を決め、大町、荒町 、中町、八幡町、北町、新町の各町に、小肝煎・長町人を1人ずつおいていました。
その他の村は、幾つかの代官の管轄下に分かれ、村ごとに庄屋(以前は肝煎と称し、ニ2~3ヵ村に1人)をおき、その下に庄屋補佐役どしての組頭や長百姓を数名おいていました。
また、庄屋の中で特に有カな者を割頭として代官所ごとに年番で当たらせていました。

尚、庄屋の大部分は、戦国時代の田村家旧臣からの館主を含む郷士から帰農した者でしたが、庄屋役の林の売買も公然と許していたため、百姓に代わる村もありました。
ことに天明の飢鐘 以降は変化が著しく、2~3の村の兼任庄屋もみられます。
庄屋や組頭には役料として土地を給されたり、米が与えられたりしていました。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2022-12-04 Sun
徳田研山三代の墓
荒町竜穏院、向って左手の丘の中腹に、徳田家の墓がある。
研山の名で、馬の絵をよく描いた、好時、好展、甘露の、いわゆる徳田三代-研山三代の墓が列んでいる。
初代研山は三之丞好時、七代藩主倩季(よしすえ)に仕え、大坪流の馬術を修め、天明4年5月に駒奉行所に召出され添役となり、文化4年奉行に昇進、文政3年には江戸邸監に補せられている。
天保2年死去。
三之丞は絵を学び、山水花鳥も画いたが、特に武者及び馬の絵に秀でていた。
羅漢や鹿山との交友も深く、藩主も之を賞その絵を封外に出すことを禁じた程である。
初代研山は、絵を学ぶ道は、画帳を摸写するだけでなく、自然の風物を写生することが大切だとして、放牧馬の写生に専念したという。
その作品は地方の旧家で見ることが出来るが、荒町の馬頭観音と三春大神宮(文化14年奉納)の絵馬額が絶品と言ってよかろう。
二代研山好展は通称三平、弘化3年大坪流馬術の皆伝を受け、嘉永4年に駒奉行になっている。
父の画才を継いで、やはり、馬絵をよくした。
大作として現存しているものは、荒町馬頭観音の献額、法華寺天井の龍の図がある。
なお、三春大神宮の木馬像は、石森の伊東光運の作だが、その下絵と製作指揮は、この二代!研山だったと伝えられている。
三代研山も三平といい、甘露とも号した。
藩政末期から明治にかけて、これも専ら馬の絵をかいたが、その作品は、到底父祖の雄渾さには及ばなかった.
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2022-11-27 Sun
平山省斎(せいさい)は、本名・平山謙二郎、省斎は号。三春藩士黒岡氏の出身。
江戸に遊学。
嘉永三年、幕臣 小普請組平山源太郎の養子となる。
安政元年(1854)堀織部正に従って蝦夷地を巡察し、安間純之進とともにアメリカ軍艦の応接に当り無事に退去させます。
後に江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の側近として外国奉行などをつとめる。
文久2年(1862)箱館奉行支配組頭勤方、同3年組頭となり、慶応2年(1866)外国奉行に任じ、同3年若年寄に昇進しますが、幕末動乱の中で徳川政権の終焉を見届けます。
明治維新にて徳川慶喜静岡移住に伴い平山も慶喜に随行して静岡に移る。
維新後、静岡にて本庄(松平)宗秀より永世と神道の奥義を学ぶ。東京の日枝神社や大宮の氷川神社の神職となり、神道大成教を創始しています。
| ryuichi | 03:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
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