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「三春絵図」 三春町まちづくり協会特別街並み部会発行(昭和63年発行) 春爛漫




「三春絵図」 三春町まちづくり協会特別街並み部会発行(昭和63年発行)






三春城下大町の「鳥文」様より、懐かしい「三春絵図」をいただきました。


約30年前に三春まちつくり協会の特別街並み部会から発行された町民向けのパンフレットです。







江戸時代中期の寛政5年(1793年)の三春城下絵図、そして裏面には現三春城下絵図に寺社仏閣を記した地図が掲載されています。



寛政五年といえば、三春藩主は8代秋田 長季(あきた ながすえ)公が、従五位下大炊頭に叙任した年です。

城下では、天明五年(1784年)に発生した化け猫騒動の火種となる「天明の大火」からの復興し城下に落ち着きを取り戻したころ何だろうと思います。








私が三春昭進堂入社前ですが、以前どこかで見た記憶がありました。






三春の歳時等も記載されてあります。







三春の先輩たちの気概を感じます!



なんとそれを、鳥文さんは見つけ出して持ってきてくれました。


今は見ることのできない修験等のお寺の記載も見えます。








現在、三春昭進堂で発行している「平成版三春物見遊山」の改訂版に記載したい名前がゴロゴロ出ています!






春、桜を愛でに三春へ

桜で彩られた小さな城下町三春



昨日の紫雲寺境内の🌸



滝桜を筆頭に枝垂れ桜が咲き誇り

山桜や染井吉野が彩りを添えます





昨日の王子神社の🌸



三春が古より、春陽の郷と呼ばれる由縁です




昨日の雪村庵の紅枝垂れ桜





昨日の真照寺三門より




真照寺宇内、紅枝垂れ老櫻”蒼龍”も開花しました🌸



花神 三木宗作作



春陽郷三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:51 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
平成版今昔物語「三春領寺院(三春城下) 天保六未年調」

画像は三春町史より

三春領寺院(三春城下) 天保六未年調 〇印は現存寺院

1  〇龍穏院  曹洞宗 荒町
2  〇法蔵寺  時 宗  荒町 
3  〇高乾院  臨済宗 荒町
4   西福寺. 真言宗  
5  〇真照寺  真言宗  新町
6   若王寺  真言宗
7   宝来寺  山伏大光
8   千住寺  時 宗
9   泰平寺  真言宗
10  文珠院  真言宗
11 〇福聚寺  臨済宗  後免町
12  明王院  天台宗
13 〇天沢寺  曹洞宗  清水
14  幸照寺  真言宗
15  陽照寺  真言宗
16   成就院  真言宗
17  清水寺  天台宗
18  大光寺  山伏修験宗
19 〇州伝寺   曹洞宗  新町
20  普明院  先達
21  磐若寺  真言宗
22 〇紫雲寺  浄土宗  大町
23  宝憧寺  天台宗
24  常楽院  先達
25 〇光岩寺  浄土宗
26  智宝院  山伏修験宗
27  和光院  先達
28  玉宝院  先達
29  大聖院   先達
30  来光院  先達
31 〇法華寺  日蓮宗  八幡町
32 〇光善寺  浄土真宗  荒町
33  万福寺  真言宗
34  吉祥院  先達
35  大桂寺  曹洞宗
36 〇花正院 天台宗寺門 荒町

以上、法院三十六ヶ寺

一寺領
龍穏院五十石
真照寺 六十石十三両
高乾院 六十石
宝来寺五十石


| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
影山常次著「田村小史」 序文



影山常次著「田村小史」

旧中妻村神山文書をもとにして書かれた「田村小史」

三春地方の閉塞された歴史に風穴を開けて、敗者の視点から見た地元の歴史「三春地方の郷土史」に光を当てた影山常次さんの功績に敬意を表しその序文を原文のまま掲載たします。


序文

「知る」と云う事は「愛する」の始めであって、親愛なる交情も、尊敬しも、歓喜の念もあらゆる美徳も真に「知る」と云うことから生れて来ます。

美るわしい伝統に栄える、吾が大和民族の郷土の山川風土、この1木1草、我々の日常眼に触るこの石、この文字、何れも吾が祖先の貴き遺物であり、その裡に私共と血を同じくする先人の生活、思想文化が生きて居るのであります。

新しき世界に向って真現の探求に精進する智的努力は瞬時も忽せにしてはなりません。
而して古きを探ねて新しきを知るの用意を忘れて、その智的探求が大地を忘れ中空に浮動する生半可な物知りとなることを戒めたいと思います。

常に郷土を知らぬ人は不幸で恥しいことだと存じます。仮令自分の郷土でなくとも縁あってその土地に住む人、その土地を一層探求して知ることがその土地を愛することで、相親しむ基となり、我国のあらゆる土地を通して吾々は人生の悦びを知ることが出来るのでしょう。

楽しんで研究し、研究して楽しむことが出来ながらも日本民族としての歓喜と衿持とを、知らず知らずに培われ、郷土研究ほど意義深いものはありません。
村の部落に埋れた1個の碑石から無名の義人を見い出し、或は篤農の偉人を発見する、峠の茶屋の老媼から孝子節婦の話を聞くことが出来、1枚の古瓦から千年以前の我が祖先が建設した飛鳥朝の文化を偲ぶ事が出来るのであります。





郷土研究に志す人々亦た今日までの研究を空しくすることなく、特に若い学徒も青年も謙遜な態度と鋭い学問的良しを持て郷土資料を蒐集して、これに学問的な系統を与えて体系化し、明日への偉大な文化建設に先んじ、その足元から実行努力を望みたいと願う。

私はこの意味を深くして郷土観に微力を寄せてまいりました。
熱情の材料を綴り、粗雑ながらも“たわむれ”の小史として実を結ばしたくこの挙に出ました。

この小史には総て町村毎の詳かを期すことが出来ませんので遺憾の数々があります。
故に次回「ぞく編」町村伝説風土誌を稿録して町村毎の文化、芸術、信仰、人材、産業等を詳細に致すことを約したいと存じます。

本史の出版に際し、先輩各位のご援助とご指導に深甚な謝意を表します。

昭和三十三年(一九五八)八月

作者識 影山常次


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:50 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
平成版今昔物語「三春藩領内制禁 元禄十一年御触書」




三春藩領内制禁

三春藩も、公儀御触に関連して、領民の生活と風儀にかかわる制禁がたびたび出されていました。

元禄十一 (1698)年十一月には全般にわたる領内制禁が出されており、三春町史には、主な項目の内容は次のように記してあります。

一、火の用心随分念入のこと。

一、百姓共男女衣類は布、木綿を着し、半襟、袖口、腰带、下着に至るまで絹類を着すべからず。

一、櫛こうがいべっ甲無用、蒔絵あり不相応のもの堅く無用のこと。

一、木綿合羽·傘,雪駄.足駄無用のこと。但し、在給人,庄屋.御目見申上候者.庄屋の惣領は格別のこと。

一、婚礼の料理は1汁:二菜に過ぐべからず、酒三ぺん取り、肴二種たるべく候。
平日拠なき用事にて一類共寄合の節は一汁一菜たるべきこと。

一、葬礼の節野送りの道具木綿の類無用。石塔へ箔等を入れる儀無用。

一、百姓家作石据えの普請無用のこと。

一、百姓共城下へ罷り出候節、諸奉公人へ不礼なきよう仕るべきこと。

一、御用にて諸役人在郷へ罷り出候節、賄上下共に一汁一菜たるべし。有合せに任せ魚鳥の類に限らず少々の物たり共買調えの儀堅く無用、酒出し申すまじく候。

一、寺院、社家、修験方にて祭礼、日待·年始等に限らず、御一家の者への振舞も軽く仕り、過、酒なきよう仕るべく候。

一、前々定の通り博奕の儀は急度相慎み、軽き諸勝負事たり共致すまじく候。

一、浄瑠璃語りの類、或は商人と号し内々遊芸の者、一宿は格別一日たり共滞留仕りまじきこと。

一、酒出店棒手振等は格別、村々にて揚酒無用のこと。







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| ryuichi | 06:18 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
平成版三春古蹟漫歩 「三春五万石城下 三春藩秋田氏家老屋敷」



秋田藩家老屋敷
三春五万五千石秋田家の重臣は、三春本城を中心としてその周辺の要所を占め、散在していました。

南町御城坂中段の右側は、城代家老秋田調季規の屋敷です。
当初は700石でしたが、寛政の頃秋田太郎左衛門の時代に1000石に加増されました。

出身はいわゆる秋田由来の出羽、その祖先は安倍季高となりますが、そのまた祖先をさかのぼれば山舘信濃入道だということで、代々山舘秋田氏と称して格式第一の重臣でした。
従って、二丁歩余の屋敷を持ち、大変立派な庭園がありました。現在の秋田さんの屋敷は昔の3分の1程度しか残っていません。






同じく御城坂中段の左側の浪岡(北畠秋田)さんは、北畠秋田氏と呼ばれ、公卿北畠親房の流れをくむ名門です。出身は伊勢。

慶長五年の関ケ原の戦後、秋田実季が恩賞問題で徳川に異を唱えた罪により伊勢朝熊に流された頃に、北畠宇近が、秋田姓と500石を拝領して仕官します。

後の寛文年間に500石加増され名門の別格宿老として重臣に列せられます。

今は桜の名所お城山の休憩所として観桜のお客様をおもてなしされています。

三春藩の重臣では、家老(年寄衆)より上席で別格の御両家として、代々荒木氏(丹波の波多野家臣の細工所城主荒木山城守氏綱の子で明智光秀家臣となった荒木氏清の子孫) とともに城代あるいは上席家老を勤めました。




荒木内匠の屋敷は、南町の現保健環境センターです。
荒木氏の本国は丹波、藤原高次の子孫とされています。

正徳5年12月、忠臣滋野多兵衛の切腹によって様々な流言が飛び交い、伝説的な尾びれが付いた、所謂「化け猫伝説」を生んだ荒木氏です。
その事件によって藩主輝季が隠居して、息子である頼季が三春秋田氏五代藩主を相続しています。

寛文の頃までは600石、内匠の代になり900石に加増されています。

当時は、御城、藩主御殿以外では荒木屋敷だけに高価な瓦屋根が葺かれていたと伝わっています。




細川孫六郎相之の屋敷も、南町で現在の遠藤病院のお城側の梅花園辺りでした。

石高700石、本国は山城国、源氏京兆細川右京太夫昭元を祖とする客分家老でした。

京兆細川氏は、室町末期の“応仁の乱”東軍義視派総帥で四管領家であった細川勝元の子孫となります。

また、初代三春藩主秋田俊季母堂の円光院は、織田信長の妹お市と浅井長政夫妻の娘“お犬”と、管領家細川昭元の間に生まれた娘となります。

同じ客分家老の老臣に列した細川縫殿助350石の屋敷が、桜谷の三春町歴史民俗資料館下付近にありました。この細川氏は桜谷細川氏と呼ばれ、前期の細川の分家です。




城跡東側、清水の家老屋敷

三春秋田家の家臣団の筆頭藩士の中に、藩主に近く、世臣譜に公族と記された「御一門」と呼ばれた家がありました。

秋田竹鼻季一氏。竹鼻家は鹿季次男の家系 屋敷・清水(天沢寺向)
安倍氏からの秋田由来となる譜代の重臣で石高400石

清水山舘秋田広松氏。御城坂山舘秋田氏の分家です。350石

秋田中津川仲之助氏。中津川家は鹿季の三男の家系 屋敷・南町(現在の高齢者住宅)中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。

秋田檜山(薦土)作兵衛季章氏。檜山(薦土)は貞季次男の家系 屋敷・入清水西側
秋田由来の譜代の重臣で、檜山(薦土)姓を名乗っていました。300石でしたが後に500石へ加増されています。





各家の幕末の当主は、山舘家が秋田調、中津川家が秋田仲之助、竹鼻家が秋田斎、薦土家が秋田作兵衛で、これに小野寺市太夫、秋田(佐塚)広記を加えた6名が最高職の年寄りを勤め、幕末動乱の混乱期を乗り切りました。

桜谷佐塚秋田氏。秋田広記実昆、石高500石。
この家老屋敷は桜谷にありました。

細川屋敷の向かい側です。

その資料からして幕末の動乱期に一番活躍した家老です。

大浦秋田氏。秋田鵜右工門 石高500石。南町遠藤病院裏手にあり、荒木屋敷の向


昭和30年代の広報三春内コラム参照



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平成版三春今昔物語 「参勤行程 江戸への往復」

三春城本丸


三春今昔物語 参勤行程 江戸への往復

昨今、映画「超高速!参勤交代」の続編「超高速!参勤交代 リターンズ」も公開され大変好評でした。

三春藩の参勤交代の旅行行程を見てみましょう。

旧藩時代の参勤による旅は、籠、馬の乗り物以外は、皆徒歩ということになります。

三春城下から江戸へ63里(一里=4km)の旅は、5泊6日程かかりました。

道中案内によると、三春城下から江戸愛宕下(西新橋愛宕)にある三春藩江戸藩邸までの工程は、城下八幡町末江戸街道を通り、奥州街道を上るルートがとられます。





並松坂~ 沼之倉~ 当蓮寺坂(鷹巣手前にあった寺、現在廃寺)~ 鷹巣~ 一里塚~ 大井戸清水~ 蓮倉~ 洗い~ 赤沼~ 守山(松平大学頭二万石城下)~須賀川~ 笠石~久来石~矢吹~不間瀬~太田川~作山~喜連川~氏家~白沢 ~宇都宮(宇都宮丸屋小平方が藩の定宿)~雀宮~石橋~小金井~ 小山~間々田~野木~古河~中田~栗橋~猿手~松戸~粕壁~越貝~佐岡~千寿(現千住)~今戸橋~浅草御門~塩留橋~本所~日本橋~京橋~尾張町~愛宕下三春藩邸。



この長い道中、名所旧跡や土地の風物に旅愁をまぎらしながら、気長に歩き続けたのでしょう。

しかし、藩の行く末を左右するような、何かの突発的な事件があり、注進(報告)が火急を要する場合は「早駕籠」が用いられました。
6人ないし8人の担ぎ手が交代で、昼夜通して走る続けたといわれます。



城下追手門


保安の不十分だった昔のことですので、道中には“追いはぎ”や“すり”、“こま”などが徘徊しが横行していて、一人旅は禁物とされていた時代でした。

尚、文化年間の初期(220年ほど前)、藩主秋田孝季の奥方になった因州鳥取藩主池田35万石の姫君が、道中揃えの行列で二カ月余もかかって三春入りしたという昔語りなどまりますが、その工程と費用が気になるところです。



城下大町桝形


昭和20年代の広報三春内コラム参照



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三春小学校「明徳門」 旧三春藩学校(講所)正門



三春小学校「明徳門」旧三春藩学校(講所)
わが母校、三春小学校の正門に「明徳門」とよばれる旧三春藩の藩校であった講所の門が据え付けられています。

学校に藩政時代の門といって、パッ!と思いつくのは、東京大学の赤門(加賀前田百萬石藩邸の門)や、上田真田藩十万石の上田高校の正門などですが、国内を探しても、江戸時代の門を正門とする公立学校は少ないんだろうと思います。



この門は、戦後になって現在の歴史民俗資料館の駐車場に、前の三春警察署が新築されたときに現在の場所に移設されたものです。
今の歴民駐車場の敷地には旧三春藩の藩校がありました。

この藩学校は「講所」と呼ばれ、江戸中期の明和か安永年間に時の三春藩主秋田倩季(千季)候によって創設されましたが、天明5年未明に発生した後に云う“化け猫関連の城下大火”によってお城とともに消失しました。

大火からの復興の中で、教育機関の充実を痛切に案じた倩季は、大火からの復興が一段落付いた寛政年間に藩校の再建・竣工する運びとなりました。




新制藩学校の「講所」は、江戸は湯島聖堂から、書生杉沢謀と鳥居章左エ門を招き、門弟山地順祐、平賀英助が教師となったと記録されています。

その後、江戸から丹羽雲記、二本松から村瀬主税などを招聘して振興をはかったので、講所出身者からは倉谷鹿山、奥村俊蔵、大関甚山、山地立固などの当代一流とされる儒学者を輩出します。




この講所は、一名では「明徳堂」と呼ばれています。創設の藩主秋田倩季が名付け、自ら筆をとって「明徳」のと書かれた扁額を賜ります。
現在、明徳門に掲げられている「明徳堂」の扁額は、その書えお写して作ったものです。

明徳とは、儒学・大学という本にある「大学(大人)の道は明徳を明らかにするにあり」に由来し、“明徳の精神(くもりのない立派な特性)”「清く・正しく・美しく」として今も小学校の児童に受け継がれています。

当時、儒学者(漢学者)として、また書家、画家として有名だった倉谷鹿山もこの明徳堂の教師をされており、学長という制度を作った最初の学長だと伝わっています。

常葉は鹿山の生まれの又八(鹿山の俗名)が、藩主である倩季に見いだされ、藩士に取り立てられ百石を給せられます。

これは、鹿山本人の頭脳明晰さもすごかったんでしょうが、士農工商の時代に、それを見出して士官をさせたという倩季候の英明さも素晴らしい殿様だったのでしょう。

現在の講所門(現明徳門)も、天明の大火以後の建築でしょうから、約200年三春の教育を見続けているわけです。






この講所は、明治維新・廃藩置県後の明治8年、磐前県(現福島県の一部)師範学校として、苅宿仲衛校長の下で再開校されますが以前の藩学校のようには振るいません。

後に、本荘曽根作、熊田嘉善、山本演次郎、勝沼富造の四人が教師として努力しますが、同15年田村中学校(旧制)が出来たこともあり、師範学校は振るわずに、同19年に閉校してしまいます。

その後、蚕業取締所がしばらく置かれていましたが、昭和の中ごろに講堂、そして青年学校となり、三春警察署へと変わっていきました。

この門、以前は木羽葺きの屋根でしたが、銅板で覆われ現在の場所へ移転されました。






古より三春は、殿様や武士階級などのある一定の知識階級のものだけではなく、一般庶民までが教育に関心を持ち、知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などを総称する、いわゆる民度の高さなんだろうと思います。

それが、明治以降も受け継がれ、現在に至っています。

豊かになった現代の日本では、その日さえ楽しければいいという刹那的な生き方で、夢や目標を持つことを忘れてしまった人が多くなっていると感じます。
だからこそ、古の三春人が持った気概や情熱を現代に生きる私たちが学ばなければならないと思います。

そして、この三春町での教育を通じて、ひとりでも多くの子供たちが学ぶことの尊さを感じて欲しいと願っています。






「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」                         
                          
 司馬遼太郎著 『坂の上の雲』(第一巻「あとがき」)より



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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