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「五人組御仕置帳寫 天保十五辰年」 塙代官小笠原仁右衛門 天明八戊申年正月吉日 




「五人組御仕置帳寫 天保十五辰年」 塙代官小笠原仁右衛門 天明八戊申年正月吉日 


三春在方鷹巣村の名主か組頭を務めていた橋本梅右衛門の資料です。

村の長として業務上の資料として使用して(写)いたのではないかと思われます。





  

『五人組』は、近世の村方及び町方支配のために設けられた、五戸の単位による近隣組織です。

 その主な目的は、相互監視と連帯責任にあるとされますが、住民同士の互助と言う意味合いもあったようにも見受けられます。

 『五人組帳』は、五人組の構成員が署名押印した帳簿と、守るべき法令を記した『前書』とで構成されていました。


五人組御仕置帳
   条々
 一 前々従 公儀度々出候御法度

   書之趣弥以堅相守御制法之儀
   
  不相背様ニ村中小百姓下々迄 可申付事

・・・・








五人組仕置帳は、前記の五人組の趣旨と共に宗門人別改の意味もあり、五人組の相互・連帯責任を負わせて、キリシタン禁制の徹底を図ったとも読み解かれ、宗門改. と五人組の両制度の充実をうかがわせるものとなっています。



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三春藩御用證書 「名字帯刀仰付相続状」



三春藩御用證書 「名字帯刀仰付状」


万延元庚申年

鷹巣村名主 橋本梅右衛門(二代)から、三春藩庁への家督相続願い。


鷹 巣 村
橋本梅右衛門 (※二代目)
倅 忠助(※三代・婿養子忠兵衛)

梅右衛門儀近年病身ニ相成
御城下往来不自由二相成候ニ付
竈頭倅忠右衛門江相譲度旨
無余儀事ニ付、願之通申付候
依之忠右衛門江親代之通、栗原
新田弐石為給地、永々被下代々
苗字帯刀 御免御目見被
仰付候
十二月廿八日







三春藩主秋田安房守から同橋本梅右衛門あてに名字と帯刀、及び栗原新田差配を後継である婿養子の忠右衛門へ許すことを認めた文章です。



鷹巢村
橋本梅右衛門

右之者 天保十四卯年
献金之訳ヶ以代々苗字
家內人別改 御免
被 仰付候処、右之奉
報御恩沢度、志願を被控
当年於 龍穏院様重
記御年回被為を御法
会前御破損、則御修
覆之後 承知仕候二付
嘉永七寅年御用
才覚金三分、船田久
五郎方より譲受候、嘉永四
年御証文金七両江
今度被仰付候、才覚金
壱両外二金四両継金
仕、都合金拾弐両三分
右為御修覆料指上度
旨、願之通可指上右躰
願置候様、兼々豊事 (※豊事 = 法事)
出情之故 之義、尤之
事二付、為御褒美栗
原新田弐 石為給地、永々
被下代々苗字帯刀
御免御目見被
仰付候

万延元庚申年
四月二日
御用向被仰付候

橋 本 梅 右 衛門








名字帯刀の他に「栗原新田」の差配許可の継続を記されています。


「栗原新田」

江戸期の三春五万石秋田藩政下、寛文年間のころに、時の三春藩郡奉行栗原兵右衛門は、領内の村々にある荒地や未開拓地の開墾指導を行いました。
 このとき開墾された新田を「栗原新田」と総称しました。



栗原新田は三春藩領全域におよび、約二十年後の享保十七年には新田総石高は738石に及びました。
 後に発生する、天明期や天保期の凶作による飢饉では、東北諸藩では犠牲者が続出する中で三春藩の犠牲が少なかったのは、この栗原新田が寄与すところも大きいと考えられます。


本文中に記載されている橋 本梅右衛門末裔の鷹巣の橋本様よりお預かりしました。




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「赤子養育制度」 江戸期の秋田藩政




江戸期の三春藩主秋田氏は、三春入封以来、いろいろな改革や改正を実施してきましたが、窮乏を根本的に克服するには至りませんでした。

その政策の一つに「赤子養育制度」があります。



元禄以後の年貢の収奪は、農民の家族維持すら容易でなくなり、人口減少が目だってきてか人口増を計るためにこの制度は設けられました。

現在の児童手当とも考えられる政策ですが、子どもが生まれると二歳になるまで、米·麦,種を一俵ずつ養育手当として支給しました。

ただし生活困窮者に限るものであり、効果はあまりみられなかったと記されています。

さらに、天明八年には、妊娠·出生の係を村ごとに設け、月々巡回し確認報告することを義務づけ、手当は農家を五段階に分けて支給するよう改めたています。

安永七(1778)年より寛政四(1792)年の間に小児数が千人以上も増え効を奏したかにみえましたが、後の文化·文政期にはふたたび人口は減少しています。




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三春藩主秋田公出郷 村人の山追人足割り当て




三春藩主秋田公出郷 村人の山追人足割り当て

江戸時代、猪や鹿狩などの狩猟は武士の嗜みであり、藩主としての武芸の一つに位置づけられ、心身鍛錬でもありました。

殿様の出郷と称する山追(狩猟)では、猪·鹿などの山追い(狩猟)の際の人足割り当てがありました。

明和七年八月に過足村庄屋宅を本陣として猪追いが行なわれた例です。
この時は猟師14人、勢子(せこ)引の者10人、勢子は過足村中人足と庄屋宅小遣いの者、それに狐田·上石·牛縊村から60人が動員された。

また、高倉村北山も山追いがたびたび行なわれている。

秋には、北山より南の村の勢子は高、倉村庄屋宅詰め、北西側の村の勢子は斎藤村庄屋宅詰めの二手に分かれ、7~8カ村から200人ほどが動員されています。
これが、春の場合となると100人ほどが動員されている。

年不詳ですが、申年十月の堀越村での山追いは、大規模で、七割頭に対し500人を課した。
菅谷割90人·下大越割100人・常業割20人・船引割100人·木目沢割60人·根本割100人·過足割30人が芦沢村に詰めている。

過足割30人は六ヵ村に割り当てられたが、牧野山山追いのときは、過足割50人九ヵ村であるから、もっと大掛かりであったのかもしれない。

天明八年五月二十九日に御巡見使一行が領内に入り常葉村御昼、三春町御泊りで癖日に二本松領小浜村へ抜けた。


三春町史参照


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| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
田村大元神社 彫刻 伊東光運・伊東九賀之助 ご縁




先の塵壺355号に田村大元神社神門「随神門」の事を記載させていただきましたが、すっかり呑み込んでいたのと、再確認の不足で彫刻の作者の氏名をご記載してしまいました。

何度も表記・書いたりお話している名前です。
本来ならば、伊東光運と記すべき使命を→伊藤光雲と間違えてしまいました。
朝には、文字の誤記載の指摘のお電話もあり助かりました。
ありがとうございます。

気を付けたいと思います。







午後に、三春城下ボランティアガイドをされている桜ケ丘にお住いのS様から、問い合わせがありました。
S様はご近所ということもあり旧知の仲です。

お話を伺うと、自分の母方の先祖を調べていたら、今日の塵壺に出ている伊東光運の息子伊東九賀之助まで遡れたということでした。








平成11年晩夏に行われた「田村大元神社仁王像平成大修理」完成お披露目のパレードの折にお母様とその様子を見に行った際に「私のご先祖様が造った仁王様だよ!」と話されていたそうです。

電話を切った後、現在の田村大元神社社殿が明治32年に再建されますが、その時の寄付長を数冊(旧三春藩領内村分の内)をお預かりしています。





その中に旧文殊村の寄付受帖があった事を思い出し、中を開いて見てみると、石森の帳面に「伊東九賀之助」と名前が見えます。
記載の伊東九賀之助は、光運の孫(息子?)で父と一緒に大元帥明王社仁王様や仁王門の彫刻に携わった仏師です。

これも何かの御縁なのでしょうか?時空を越えた繋がりを感じます。






尚、この寄付受帖には趣意書と完成予想絵図面があります。

棟梁の名前(橋本強吉)は見えますが、彫刻師の記載はありません。

また、本殿・拝殿が記された絵図面の彫刻は現在の田村大元神社のそれとは違います。


伊東九賀之助が彫刻に携わったかは確認が取れていませんが・・・多額の寄付金を奉納されているようですので興味をそそられます。






仁王尊二躰及び仁王門ですが、大元神社は、寛文10年7月晦日に火災に見舞われ炎上消失してしまいます。
後に、本殿拝殿は再建され、仁王門は、幕末の慶応元年の竣工です。
その時に、仁王像二躰はこの門に安置されていました。





尚、塵壺記載の通り大元帥明王社として建造された仏教色の強い本殿、拝殿は上記の明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の影響により、明治二年に取り壊されます。

現在の社殿は大元神社として明治32年に再建されたものです。





この仁王様は、東大寺仁王尊二像の象徴されるような筋肉隆々で胸を反らし威を張るような姿ではなく、体のラインが全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢をとっています。

まるで参道上がってきた参拝者に、「悪いことはしてはいねがー!」と子供を”諭している”ようにも見えます。






三春藩主秋田氏の出身が青森、そして秋田の沿岸部となれば、「佞武多祭り」や「なまはげ」を想像したくなりますね。

また、仁王像の下絵は三春城下の絵師中村寛亭だとも伝えられている。











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三春藩秋田氏 御城下と役人




三春藩秋田氏 御城下と役人


松下氏時代にはほぼ町の形ができていたと思われるが、武家屋敷、足軽屋敷、奉公人屋敷、町人屋敷などの本格的な町割は、秋田氏入封後と考えられます。

城の周辺(南町、山中、清水、北町)と町を囲む“谷”を 家中屋敷(会下谷や桜谷には武家屋敷の名残りをとどめる家かかつてありました)と組屋敷にあて、町入口近辺にも組屋敷(新町末番組・四軒町・弓町等)を配置していました。

松下氏時代に南町にいた町人たちを新町に移住させ、新南町 と称したのもこのころでです。
かれらには米や雑穀の取引をする特権を、町外に過ずる道々の境や、山中新町境、切通しより上下の境など、家中屋敷と町屋敷の境にも、木戸門や黒門を設けて城下を取り締まると同時に、身分的に色分けもしていました。






正保五 (1648) 年 には、江戸街道口、馬場、新町、小旗町、小浜海道の6力所に紫雲住職に許可を出して地蔵を安置し、旧領常陸宍戸から秋田家菩提寺である龍穗院、高 院をはじめ、祈願所である秋田家鎮守古四王大権現別当真照寺や三光院を移し、寺領を与え町口の左右の丘に配して、町全体の配置を軍事的にもつくりあげました。








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天明、天保の飢饉 三春藩



天明、天保の飢饉 三春藩

三春藩に限らず、全国諸藩特に東国では江戸時代を通じてたびたび飢饉に襲われたが、宝暦・天明・天保期のそれは、三大飢饉と呼ばれ幕藩体制にも大きな影響を及ぼしている。
天明二~三年(1782~3年) を中心とする 「天明の飢饉」は全国的なものであったが、特に東北地方はひどい打撃を受けた。

夏の土用になっても雨降り続き、六月以来時々綿入れを着るほどの冷気であったから、救物は実らず不足し、数年続きの凶作のために米倉は底をつさ食糧不足は限界に違した。

家中への扶持も半分に、酒、糀(味噌糀を除く)、飴、おこしなど穀物を原科とする商売を停止などしたが焼石に水の有様。

他国は「穀留(こくどめ)」といって他領内への穀類の持出し禁止の制をしき(三春藩でも四年には新館 に相馬への出米を防ぐ穀留番所を設けている)、他藩に流れるのを防いでいる。そのために藩の重役方が、会津·仙台·越後·関東へ足を運んで米の確保に努めたが思うようにはいかなかった。

天保三年、記録によれば領內各村の米の出来高は皆無の所も多く、葛尾、古道、中山、岩井澤などは稲刈りもせずに捨て置き、その他の村でも稲刈りしても種もみも確保出来ない有様でした。わずかに中郷地区·中妻地区のー部やその他数村から年貢米の上納があっただけと記されています。

農民は年貫の「金納願」を出しているが許されず、あるだけの米を納めなければならなかった(上大越村)。

武家·町人をとわず農民までも食物が欠乏し、山野にあってロにはいるものや、今まで食したことのないものまで採取しては少しでも種にしようど藁餅(わらもち)の作り方まで研究された。

天明四年の正月から五月までの117日間、新町 と北町 において、1人親椀(おわん) ニ杯宛の粥がほどこされ、領内一円より来場して延人数4万0161人が恩恵を受けました。

常葉、葛尾、南成田、北成田でも同様なことがあったが、2月になると村々で餓死する者が続出し、ついに領内で1500名に余る餓死による犠牲者を出しました。

全国諸藩を合わせると百十万人の餓死者を出した空前の「天明凶作」は、直接的には天候不順による冷害や洪水などの災害を契機として起こったのであるが、東北地方の低生産カと、領主による租税の収奪の苛酷さからくる江戸幕藩体制による社会経済そのものの矛盾に負うところも大きく、各藩が独自の経済圏を形成し、自給自足的な体制をとっていたこの時代には他藩に飢饉が起こっても積極的な相互扶助・接助ありませんでした。

「天明の凶作」の50年後に、「天保の凶作」が宿命のようにやって来ます。

天保4年(1833年)がとくに酷く、江戸在勤の藩主()は、幕府より暇をもらい、急遽三春へ帰城して、直ちに領内の水稲作柄を巡視している。
そして飢をまぬかれるために、菜、大根をたくさん作り腹を満たすよう奨励している。

しかし、農業そのものの進歩はあまりみられず、その年の天候回復、五穀豊作成就を祈念して領内総鎮守「大元師明王」、城下総社「神明」宮の両社において御祈祷をするのが通例であった。

たび重なる凶作は、農業の生産力、生活力の低い三春藩の財政を困窮させ、藩政そのものをゆるがしたことはもちろんである。

元文元(1736)年の東郷(当時は領内を大きく3つに分けているが2郷、4郷の時もある) 百姓強訴、寛延二(1749)年の全藩規模の強訴、天保七 (1836) 年の鹿又原騒動なども起きている。

また、藩政改革やら家臣による藩政批判もあり、すべて生活の困窮から出てきている。



江戸時代の凶作のうち、享保17年(1732)、天明二年(1782)~七年(1787)、天保四年(1733)~十年(1739)の凶作は江戸期三大凶作とよばれ、飢饉を伴って、餓死者多数を出したことで知られる。

享保の凶作は西国地方を中心とし、奥羽地方の被害は少なかったが、天明・天保の凶作では奥羽地方全域で被害を出した。

天明三年(1783)は、二月までは暖かい冬とも思えない日が続いたものの、六月より十月まで霖雨止まず冷涼で、袷を着て焚き火を囲んでいた。

六月の大洪水、七月の浅間山爆発と寒気、八月の北風と大霜と災害が続き、畑作物・田作物が皆無となった。

 領内では、天明三年の凶作において秋に収穫したはずの米雑穀が、師走までに貯蔵が底を尽き、三春藩では、城下に救済を求めた領民が多数城下に非難してきたため、八幡町末に集めて翌閏正月から五月まで施粥が実施された。

三春北部の成田村ではでも一ヶ月間施粥が実施された記録が残っていますが、領内の各村で餓死者を多く出しました。

天保七年の凶作では、施粥実施には至りませんでしたが、飢餓に瀕した笹山村などの百姓たちは、当村顔役辰五郎を頭取として鹿又原(現船引)に集まり一揆騒動が起こりますが、大規模な一揆に至る前に鎮圧されました。

また、三春城下での一揆騒動は、元文元年の東郷百姓一揆、寛保二年の五千石百姓一揆、寛延二年の領内惣百姓一揆などは起こり、強訴・諸負担の軽減や減免要求・譜代百姓の待遇改善などを求め城下に迫りました。


三春藩領は阿武隈山系の西側の波浪のように入り組んだ山間に村々が点在する土地で、山間高冷地の農業生産性の低い地域である。

平素より重税が当然化しており、衣食住の倹約が平年でも強いられてきた土地柄であった。

米産地の二本松領に比して米産地でない三春領の被害はより大きく、継続的不作の中で天明凶荒の襲来を受けた。

三春領内の餓死者は1,500人余に上った。

村々の三界萬霊の石塔は、天明飢饉と、後の享保、、天保飢饉における死者への供養塔です。

天明三年(1783)の凶作、四年の飢饉、五年二月の三春城下の大火と災害が続き、天明六年も寒冷が春よりゆるまず、七月の長雨と洪水、八月には暴風雨となって諸作不作。

天明七年には2月・4月に大暴風雨が領内を吹き荒れ、打撃を与えた。



三界万霊石碑は、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔です。

萬霊とは、欲、色、無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界をさし、全ての生物の生々流転(せいせいるてん)してやむことのない世界のことをあらわします。

 その全ての世界の精霊を集め、それらを供養するのが、この三界萬霊石碑なのです。




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