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春の宵 三春城下の山道散歩  



春の宵 三春城下の山道散歩  













体力増進とダイエットのために運動です。

私の、お昼の時間がないために夕食とお昼が一緒になってしまいます。









ゴミを拾いながら夕闇迫る宵の1時間









真照寺~恵下越歩道~御城山~東館~大元帥明王社(田村大元神社) 








免疫力アップ!






コロナ騒ぎですが、三春城下の春は、何といっても稼ぎ時です!

毎日、夜明け前より仕事です。






尚、三春昭進堂の三春花見だんごは、前年度を参考にしてその日分を製造していますが、当店では朝生ものとして販売いたしております。


午後の早めの段階で売れきれの場合は追加で製造しています。

もちろん、保存料は使用していませんので、翌日には硬くなります。

また、前日の売れ残りは販売いたしません。

夕方には売り切れてしまいますので、ご予約をお勧めいたします。







第2回三春一夜城 昭和63年?より 最後の一夜城




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記秋田氏五万石雑記 |
「五人組御仕置帳寫 天保十五辰年」 塙代官小笠原仁右衛門 天明八戊申年正月吉日 




「五人組御仕置帳寫 天保十五辰年」 塙代官小笠原仁右衛門 天明八戊申年正月吉日 


三春在方鷹巣村の名主か組頭を務めていた橋本梅右衛門の資料です。

村の長として業務上の資料として使用して(写)いたのではないかと思われます。





  

『五人組』は、近世の村方及び町方支配のために設けられた、五戸の単位による近隣組織です。

 その主な目的は、相互監視と連帯責任にあるとされますが、住民同士の互助と言う意味合いもあったようにも見受けられます。

 『五人組帳』は、五人組の構成員が署名押印した帳簿と、守るべき法令を記した『前書』とで構成されていました。


五人組御仕置帳
   条々
 一 前々従 公儀度々出候御法度

   書之趣弥以堅相守御制法之儀
   
  不相背様ニ村中小百姓下々迄 可申付事

・・・・








五人組仕置帳は、前記の五人組の趣旨と共に宗門人別改の意味もあり、五人組の相互・連帯責任を負わせて、キリシタン禁制の徹底を図ったとも読み解かれ、宗門改. と五人組の両制度の充実をうかがわせるものとなっています。



三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂



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三春藩御用證書 「名字帯刀仰付相続状」



三春藩御用證書 「名字帯刀仰付状」


万延元庚申年

鷹巣村名主 橋本梅右衛門(二代)から、三春藩庁への家督相続願い。


鷹 巣 村
橋本梅右衛門 (※二代目)
倅 忠助(※三代・婿養子忠兵衛)

梅右衛門儀近年病身ニ相成
御城下往来不自由二相成候ニ付
竈頭倅忠右衛門江相譲度旨
無余儀事ニ付、願之通申付候
依之忠右衛門江親代之通、栗原
新田弐石為給地、永々被下代々
苗字帯刀 御免御目見被
仰付候
十二月廿八日







三春藩主秋田安房守から同橋本梅右衛門あてに名字と帯刀、及び栗原新田差配を後継である婿養子の忠右衛門へ許すことを認めた文章です。



鷹巢村
橋本梅右衛門

右之者 天保十四卯年
献金之訳ヶ以代々苗字
家內人別改 御免
被 仰付候処、右之奉
報御恩沢度、志願を被控
当年於 龍穏院様重
記御年回被為を御法
会前御破損、則御修
覆之後 承知仕候二付
嘉永七寅年御用
才覚金三分、船田久
五郎方より譲受候、嘉永四
年御証文金七両江
今度被仰付候、才覚金
壱両外二金四両継金
仕、都合金拾弐両三分
右為御修覆料指上度
旨、願之通可指上右躰
願置候様、兼々豊事 (※豊事 = 法事)
出情之故 之義、尤之
事二付、為御褒美栗
原新田弐 石為給地、永々
被下代々苗字帯刀
御免御目見被
仰付候

万延元庚申年
四月二日
御用向被仰付候

橋 本 梅 右 衛門








名字帯刀の他に「栗原新田」の差配許可の継続を記されています。


「栗原新田」

江戸期の三春五万石秋田藩政下、寛文年間のころに、時の三春藩郡奉行栗原兵右衛門は、領内の村々にある荒地や未開拓地の開墾指導を行いました。
 このとき開墾された新田を「栗原新田」と総称しました。



栗原新田は三春藩領全域におよび、約二十年後の享保十七年には新田総石高は738石に及びました。
 後に発生する、天明期や天保期の凶作による飢饉では、東北諸藩では犠牲者が続出する中で三春藩の犠牲が少なかったのは、この栗原新田が寄与すところも大きいと考えられます。


本文中に記載されている橋 本梅右衛門末裔の鷹巣の橋本様よりお預かりしました。




三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂




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「銘盡」江戸期の刀工名参考書 後鳥羽院御宇奉行鍛冶結番次第  論語解集




宇賀神様の御縁となる「田村の庄」の著者である橋本史紀様より「銘盡」後鳥羽院御宇奉行鍛冶結番次第という料紙漉返風の書物をいただきました。

旧書名「刀剣書」(仮題)とする、江戸期の刀工名参考書です。





「後鳥羽院御宇番鍛冶次第」







「山城内京系図之事」(以下、古来の諸国鍛冶の系譜集)





「近代之鍛冶上手之分」

「諸国同銘其外頭字寄分」(同銘のある刀工名を頭字毎に一覧にしたもの)等のきさいがあります。


天保頃江戸版の後鳥羽院御宇奉行人并鍛冶結番次第です。

尚、国書総目録には、寛永2年刊『後鳥羽院御宇番鍛冶之次第』あります。



図はありません。








無刊記ながら、江戸末期~明治初期に本山修験権大僧都に在った鷹巣威徳院春晃で、後の田村春衛の名が記された「天保十五(弘化1年12月改元)甲辰年八月」の記載あります。


この威徳院春晃とは、橋本氏のご先祖様にあたります。








書名にある「番鍛冶(ばんかじ)」は、鎌倉時代、後鳥羽院の命により、1か月交替で院に勤番した刀工で、「御」という敬称をつけて「御番鍛冶」(ごばんかじ)とも称されています。

勅撰集『新古今和歌集』で知られる後鳥羽上皇は、「承久の乱」承久3年(1221)、起こり、後鳥羽上皇の軍勢が、鎌倉幕府執政北条氏率いる鎌倉御家人衆に合戦で敗れ、隠岐に流されます。
この承久の乱の後に、南北朝時代の内乱が展開することとなります。






後鳥羽院は刀剣の製作を好んだとされています。

院は京都粟田口久国、備前国信房にその業を授けられ、承元2年、諸国から名のある刀工12人を召して番鍛冶として、水無瀬において毎月、刀を作らせました。





正月 - 備前国則宗
2月 - 備中国貞次
3月 - 備前国延房
4月 - 粟田口国安
5月 - 備中国恒次
6月 - 粟田口国友
7月 - 備前国宗吉
8月 - 備中国次家
9月 - 備前国助宗
10月 - 備前国行国
11月 - 備前国助成
12月 - 備前国助延









こちらは、「論語集解」です。

「平安東厓先生孝訂 武江書林 千鍾堂藏版」とあり 版心に「千鍾堂藏版」と記されています。

江戸期の日本橋通一丁目にあった武江書林 千鍾堂蔵版です。






嘉永二甲寅年三月1849年 北野内 橋本忠吉絽軌と記されています。


172年前の書物です。


橋本様のご先祖様が学ばれ子供たちに教授された教科書なんでしょう。


大切に拝読させていただきます。







論語の中で大切にしている言葉があります。

「人知らずしてうらみず、また君子ならずや」

人に認められようが認められまいが、そんなことを気にしてはいけない。君子というものは、そういうことにこだわらない人のことである。と解しています。

そうありたいと願っていますが。それが一番難しいところです。

宇賀神様への奉仕等もその通りです。

何百年ものあいだそこに在ったであろう「宇賀神様」と「宇賀神桜」です。

人知れずい誰かが手入れをしてきたものなのでしょう。

人が生きてくうえで特に大切にしたい陰徳の教えに通ずるものだと思っています。

今回、ご縁があり宇賀神様とその周辺整備に携わらせていただいたお陰で、橋本様、高屋敷宮司様はじめご縁をいただいた全ての方々に、改めて大切にしなければならないものを教えられ学ばせていただいています。


貴重な本をありがとうございます。









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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「赤子養育制度」 江戸期の秋田藩政




江戸期の三春藩主秋田氏は、三春入封以来、いろいろな改革や改正を実施してきましたが、窮乏を根本的に克服するには至りませんでした。

その政策の一つに「赤子養育制度」があります。



元禄以後の年貢の収奪は、農民の家族維持すら容易でなくなり、人口減少が目だってきてか人口増を計るためにこの制度は設けられました。

現在の児童手当とも考えられる政策ですが、子どもが生まれると二歳になるまで、米·麦,種を一俵ずつ養育手当として支給しました。

ただし生活困窮者に限るものであり、効果はあまりみられなかったと記されています。

さらに、天明八年には、妊娠·出生の係を村ごとに設け、月々巡回し確認報告することを義務づけ、手当は農家を五段階に分けて支給するよう改めたています。

安永七(1778)年より寛政四(1792)年の間に小児数が千人以上も増え効を奏したかにみえましたが、後の文化·文政期にはふたたび人口は減少しています。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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三春藩主秋田公出郷 村人の山追人足割り当て




三春藩主秋田公出郷 村人の山追人足割り当て

江戸時代、猪や鹿狩などの狩猟は武士の嗜みであり、藩主としての武芸の一つに位置づけられ、心身鍛錬でもありました。

殿様の出郷と称する山追(狩猟)では、猪·鹿などの山追い(狩猟)の際の人足割り当てがありました。

明和七年八月に過足村庄屋宅を本陣として猪追いが行なわれた例です。
この時は猟師14人、勢子(せこ)引の者10人、勢子は過足村中人足と庄屋宅小遣いの者、それに狐田·上石·牛縊村から60人が動員された。

また、高倉村北山も山追いがたびたび行なわれている。

秋には、北山より南の村の勢子は高、倉村庄屋宅詰め、北西側の村の勢子は斎藤村庄屋宅詰めの二手に分かれ、7~8カ村から200人ほどが動員されています。
これが、春の場合となると100人ほどが動員されている。

年不詳ですが、申年十月の堀越村での山追いは、大規模で、七割頭に対し500人を課した。
菅谷割90人·下大越割100人・常業割20人・船引割100人·木目沢割60人·根本割100人·過足割30人が芦沢村に詰めている。

過足割30人は六ヵ村に割り当てられたが、牧野山山追いのときは、過足割50人九ヵ村であるから、もっと大掛かりであったのかもしれない。

天明八年五月二十九日に御巡見使一行が領内に入り常葉村御昼、三春町御泊りで癖日に二本松領小浜村へ抜けた。


三春町史参照


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田村大元神社 彫刻 伊東光運・伊東九賀之助 ご縁




先の塵壺355号に田村大元神社神門「随神門」の事を記載させていただきましたが、すっかり呑み込んでいたのと、再確認の不足で彫刻の作者の氏名をご記載してしまいました。

何度も表記・書いたりお話している名前です。
本来ならば、伊東光運と記すべき使命を→伊藤光雲と間違えてしまいました。
朝には、文字の誤記載の指摘のお電話もあり助かりました。
ありがとうございます。

気を付けたいと思います。







午後に、三春城下ボランティアガイドをされている桜ケ丘にお住いのS様から、問い合わせがありました。
S様はご近所ということもあり旧知の仲です。

お話を伺うと、自分の母方の先祖を調べていたら、今日の塵壺に出ている伊東光運の息子伊東九賀之助まで遡れたということでした。








平成11年晩夏に行われた「田村大元神社仁王像平成大修理」完成お披露目のパレードの折にお母様とその様子を見に行った際に「私のご先祖様が造った仁王様だよ!」と話されていたそうです。

電話を切った後、現在の田村大元神社社殿が明治32年に再建されますが、その時の寄付長を数冊(旧三春藩領内村分の内)をお預かりしています。





その中に旧文殊村の寄付受帖があった事を思い出し、中を開いて見てみると、石森の帳面に「伊東九賀之助」と名前が見えます。
記載の伊東九賀之助は、光運の孫(息子?)で父と一緒に大元帥明王社仁王様や仁王門の彫刻に携わった仏師です。

これも何かの御縁なのでしょうか?時空を越えた繋がりを感じます。






尚、この寄付受帖には趣意書と完成予想絵図面があります。

棟梁の名前(橋本強吉)は見えますが、彫刻師の記載はありません。

また、本殿・拝殿が記された絵図面の彫刻は現在の田村大元神社のそれとは違います。


伊東九賀之助が彫刻に携わったかは確認が取れていませんが・・・多額の寄付金を奉納されているようですので興味をそそられます。






仁王尊二躰及び仁王門ですが、大元神社は、寛文10年7月晦日に火災に見舞われ炎上消失してしまいます。
後に、本殿拝殿は再建され、仁王門は、幕末の慶応元年の竣工です。
その時に、仁王像二躰はこの門に安置されていました。





尚、塵壺記載の通り大元帥明王社として建造された仏教色の強い本殿、拝殿は上記の明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の影響により、明治二年に取り壊されます。

現在の社殿は大元神社として明治32年に再建されたものです。





この仁王様は、東大寺仁王尊二像の象徴されるような筋肉隆々で胸を反らし威を張るような姿ではなく、体のラインが全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢をとっています。

まるで参道上がってきた参拝者に、「悪いことはしてはいねがー!」と子供を”諭している”ようにも見えます。






三春藩主秋田氏の出身が青森、そして秋田の沿岸部となれば、「佞武多祭り」や「なまはげ」を想像したくなりますね。

また、仁王像の下絵は三春城下の絵師中村寛亭だとも伝えられている。











三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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