CALENDAR
S M T W T F S
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
<<  2020 - 02  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




平成版三春今昔物語 「参勤行程 江戸への往復」

三春城本丸


三春今昔物語 参勤行程 江戸への往復

昨今、映画「超高速!参勤交代」の続編「超高速!参勤交代 リターンズ」も公開され大変好評でした。

三春藩の参勤交代の旅行行程を見てみましょう。

旧藩時代の参勤による旅は、籠、馬の乗り物以外は、皆徒歩ということになります。

三春城下から江戸へ63里(一里=4km)の旅は、5泊6日程かかりました。

道中案内によると、三春城下から江戸愛宕下(西新橋愛宕)にある三春藩江戸藩邸までの工程は、城下八幡町末江戸街道を通り、奥州街道を上るルートがとられます。





並松坂~ 沼之倉~ 当蓮寺坂(鷹巣手前にあった寺、現在廃寺)~ 鷹巣~ 一里塚~ 大井戸清水~ 蓮倉~ 洗い~ 赤沼~ 守山(松平大学頭二万石城下)~須賀川~ 笠石~久来石~矢吹~不間瀬~太田川~作山~喜連川~氏家~白沢 ~宇都宮(宇都宮丸屋小平方が藩の定宿)~雀宮~石橋~小金井~ 小山~間々田~野木~古河~中田~栗橋~猿手~松戸~粕壁~越貝~佐岡~千寿(現千住)~今戸橋~浅草御門~塩留橋~本所~日本橋~京橋~尾張町~愛宕下三春藩邸。



この長い道中、名所旧跡や土地の風物に旅愁をまぎらしながら、気長に歩き続けたのでしょう。

しかし、藩の行く末を左右するような、何かの突発的な事件があり、注進(報告)が火急を要する場合は「早駕籠」が用いられました。
6人ないし8人の担ぎ手が交代で、昼夜通して走る続けたといわれます。



城下追手門


保安の不十分だった昔のことですので、道中には“追いはぎ”や“すり”、“こま”などが徘徊しが横行していて、一人旅は禁物とされていた時代でした。

尚、文化年間の初期(220年ほど前)、藩主秋田孝季の奥方になった因州鳥取藩主池田35万石の姫君が、道中揃えの行列で二カ月余もかかって三春入りしたという昔語りなどまりますが、その工程と費用が気になるところです。



城下大町桝形


昭和20年代の広報三春内コラム参照



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
三春小学校「明徳門」 旧三春藩学校(講所)正門



三春小学校「明徳門」旧三春藩学校(講所)
わが母校、三春小学校の正門に「明徳門」とよばれる旧三春藩の藩校であった講所の門が据え付けられています。

学校に藩政時代の門といって、パッ!と思いつくのは、東京大学の赤門(加賀前田百萬石藩邸の門)や、上田真田藩十万石の上田高校の正門などですが、国内を探しても、江戸時代の門を正門とする公立学校は少ないんだろうと思います。



この門は、戦後になって現在の歴史民俗資料館の駐車場に、前の三春警察署が新築されたときに現在の場所に移設されたものです。
今の歴民駐車場の敷地には旧三春藩の藩校がありました。

この藩学校は「講所」と呼ばれ、江戸中期の明和か安永年間に時の三春藩主秋田倩季(千季)候によって創設されましたが、天明5年未明に発生した後に云う“化け猫関連の城下大火”によってお城とともに消失しました。

大火からの復興の中で、教育機関の充実を痛切に案じた倩季は、大火からの復興が一段落付いた寛政年間に藩校の再建・竣工する運びとなりました。




新制藩学校の「講所」は、江戸は湯島聖堂から、書生杉沢謀と鳥居章左エ門を招き、門弟山地順祐、平賀英助が教師となったと記録されています。

その後、江戸から丹羽雲記、二本松から村瀬主税などを招聘して振興をはかったので、講所出身者からは倉谷鹿山、奥村俊蔵、大関甚山、山地立固などの当代一流とされる儒学者を輩出します。




この講所は、一名では「明徳堂」と呼ばれています。創設の藩主秋田倩季が名付け、自ら筆をとって「明徳」のと書かれた扁額を賜ります。
現在、明徳門に掲げられている「明徳堂」の扁額は、その書えお写して作ったものです。

明徳とは、儒学・大学という本にある「大学(大人)の道は明徳を明らかにするにあり」に由来し、“明徳の精神(くもりのない立派な特性)”「清く・正しく・美しく」として今も小学校の児童に受け継がれています。

当時、儒学者(漢学者)として、また書家、画家として有名だった倉谷鹿山もこの明徳堂の教師をされており、学長という制度を作った最初の学長だと伝わっています。

常葉は鹿山の生まれの又八(鹿山の俗名)が、藩主である倩季に見いだされ、藩士に取り立てられ百石を給せられます。

これは、鹿山本人の頭脳明晰さもすごかったんでしょうが、士農工商の時代に、それを見出して士官をさせたという倩季候の英明さも素晴らしい殿様だったのでしょう。

現在の講所門(現明徳門)も、天明の大火以後の建築でしょうから、約200年三春の教育を見続けているわけです。






この講所は、明治維新・廃藩置県後の明治8年、磐前県(現福島県の一部)師範学校として、苅宿仲衛校長の下で再開校されますが以前の藩学校のようには振るいません。

後に、本荘曽根作、熊田嘉善、山本演次郎、勝沼富造の四人が教師として努力しますが、同15年田村中学校(旧制)が出来たこともあり、師範学校は振るわずに、同19年に閉校してしまいます。

その後、蚕業取締所がしばらく置かれていましたが、昭和の中ごろに講堂、そして青年学校となり、三春警察署へと変わっていきました。

この門、以前は木羽葺きの屋根でしたが、銅板で覆われ現在の場所へ移転されました。






古より三春は、殿様や武士階級などのある一定の知識階級のものだけではなく、一般庶民までが教育に関心を持ち、知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などを総称する、いわゆる民度の高さなんだろうと思います。

それが、明治以降も受け継がれ、現在に至っています。

豊かになった現代の日本では、その日さえ楽しければいいという刹那的な生き方で、夢や目標を持つことを忘れてしまった人が多くなっていると感じます。
だからこそ、古の三春人が持った気概や情熱を現代に生きる私たちが学ばなければならないと思います。

そして、この三春町での教育を通じて、ひとりでも多くの子供たちが学ぶことの尊さを感じて欲しいと願っています。






「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」                         
                          
 司馬遼太郎著 『坂の上の雲』(第一巻「あとがき」)より



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
三春物語873番「田村乃小史」~北鹿又 佐藤光易様より拝領


北鹿又のお客様、佐藤光易さまより、昭和三十三年発行の「田村乃小史」を頂きました。

著作編集は尼ケ谷の新聞記者影山常次氏。
発行所 田村郡史蹟保存会となっています。



これは大変貴重な冊子で、元来上記の田村郡史蹟保存会の会員向けに造られた175ページの小冊子です。

当店のチラシ「塵壺」を読んでいただいている佐藤様より、自身の伯父様で丈六に住んでいた佐藤金四郎氏から譲り受けたそうで、「塵壺の執筆の参考にしてもらえれば・・・」ということで頂きました。

本当にありがとうございます。



本題を読んでみますと、今までにはない三春及び田村の貴重な資料が満載です。

特に、戦国期の三春城主田村氏家臣団の舘・城配置や、秋田家の三春入城の割り振り等々の第一級品の資料です。

ごはんを食べるのを忘れるくらい読みふけってしまいました。

さーこれから忙しくなるぞ・・・・・



また、こちらは中身を見せていただいたものですが、昭和二年の「田村郡衆議院選挙有権者名簿」です。

まだ、現在の普通選挙とは違い、男性のみの選挙権で、年齢も25歳以上でしたか・・・・



当店の初代で、「おたりまんじゅう」のおたりさんの連れ合いである髙橋民四朗さんの名前も見えました。



こちらも資料としては第一級品です。

田村郡内全ての地名と名前が記されています。

もちろん地名は旧態です。



佐藤様には、本当に貴重な資料を頂いたり見せていただいたりと、心より御礼申し上げます。

また、塵壺への期待の高さに恐縮して、気を引きしめ直したいと思います。



また、その時持参していただいた昭和51年5月28日日付の福島民報の時期です。

佐藤様の伯父にあたる、三春城下丈六の佐藤金四郎氏の自宅にあった「土佐断金隊体長美正貫一郎肖像画掛け軸」の発見の模様を伝える紙面です。




その記事には、当時福島民報に連載中の弊社出身で自由民権運動研究の第一人者髙橋哲夫著「新・河野広中伝」を読んでいてで気が付いたと記されています。

是も不思議なご縁だと思います。
また、先日大先輩より伺った哲夫おんちゃんの言葉とされる「資料は向こうからやってくる」・・・・まさにその通りなんですね。

土佐金隊 美正貫一朗とは
毎年、春と秋の彼岸の期間中に、龍穏院小書院に掲げられる掛け軸があります。
作者は、戊辰戦争当時、三春を戦火から救った土佐断金隊隊長「美正貫一朗」です。

美正貫一朗は、天保15年(1844)1月~明治元年(1868)7月28日、医師・下村惇斎の次男として生れ、23歳で高知城下南奉公町の徒士格美正家を継ぎます。
明治元年戊辰戦争では迅衝隊一番隊司令として出征。
同年3月2日甲州に入り浪士掛探索役となったが、江戸到着後、甲州の有志を中心として遊撃隊を組織し”断金隊”と称してその隊長となり、恩愛よく部下を掌握した。
閏4月21日今市に戦い、各地の探索と宣撫工作を続けて北上し、貫一郎の献身的な周旋によって奥州越列藩同盟の一角であった三春藩の無血開城が実現し、彼の徳を慕う有力者から三春滞留を求められたが実現せず、慶応4年7月27日二本松城攻略のため本宮に向う途中、阿武隈川渡河の際、銃弾に当って戦死したます。

享年25歳

三春名物「おたりまんじゅう本舗」 三春昭進堂

| ryuichi | 05:11 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
三春物語752番「三春城主秋田候上席別格年寄衆(家老)三春細川氏」
最近、細川護熙元首相の都知事選出馬のうわさが巷を賑わしているようですが、江戸期の三春細川氏について少しお話いたします。



三春城主秋田候上席別格年寄衆(家老)三春細川氏

江戸期の三春藩主秋田家家老の三春細川家は、室町幕府の将軍足利氏の一族で、斯波・畠山氏とともに幕府の三管領の一家として将軍を補佐し、さらに西日本七ヶ国の守護を兼ねた名族です。
応仁の乱では東軍の総帥を勤めました。

正五位上右京大夫(右京兆)。阿波・摂津・丹波守護職の細川昭元とお犬の子は、長女が三春藩主秋田俊季父である実季の正室円光院で、次女は加賀藩主前田利常の正室珠姫に仕え、長男元勝は豊臣秀頼に仕えますが、没落し京都で亡くなります。
そして、信長の妹お市は、浅井長政との間に秀吉の側室淀君や、徳川秀忠の正室お江らを産み、このお江の子徳川三代家光と、円光院と実季の子である三春秋田初代の俊季は又従兄弟となります。
また、実季にはお江に仕えて秋田局と呼ばれた姉がおり、前田利常正室の珠姫はお江の娘でした。




 三春秋田氏は、この由緒により外様大名から譜代並の大名へ格上げされ、さらに、この良縁をもたらしたことで、元勝の子細川義元は、秋田家に迎えられます。
そして、家老(年寄衆)より上席で別格の御両家として、代々荒木氏とともに城代あるいは上席家老を勤めました。
後に、義元の二男元明は、細川家の分家を興して、現在の歴史民俗資料館の場所に屋敷を拝領したところから、桜谷細川氏と呼ばれました。

前記した江戸期の熊本藩主細川氏の末裔とされる元首相の細川護熙氏は、京兆家といわれた三春の細川氏が細川氏嫡流ですので、この熊本細川家は分家となります。

尚、「京兆」とは、細川氏が代々右京大夫に任じられたことから、その唐名で京兆家と呼ばれました。



下剋上戦国時代の始まりと云われる応仁の乱
室町幕府の後継者争い端を発したこの「乱」は、時の将軍足利義政の弟義視派と息子義尚派の対立が起ったことに起因します。
義視派には三春細川氏の祖である管領家の細川勝元(東軍)が、義尚派には四職家の山名宗全(西軍)がついて、さらに管領家の斯波家、畠山家の後継者争いも加わり、各地の有力守護大名たちも利害関係からそれぞれの陣営に分かれて、約十年続いた戦乱が幕を切って落とされました。



墓所は、三春城下荒町の三春藩主菩提寺高乾院のあります。

三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 05:33 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
三春物語753番 「田村坪井氏」について
平田の坪井さま

メールありがとうございます。
また、ブログを読んでいただいていますこと、重ねて御礼申し上げます。
さて、お尋ねの件ですが下記のようなことを思い出しました。

私の持っている資料の中からは、戦国大名三春田村氏や、江戸期の秋田氏の家臣団の中に坪井氏の名前を見出すことは出来ませんでした。

しかし、戦国時代の画僧に雪村がいますが、彼は晩年三春に庵を結び、創作活動に勤しんでいます。
雪村の出自は定かではありませんが、常陸国部垂(現在の常陸大宮市)に佐竹氏の一族の長男として生まれましたとされています。

また、現常陸大宮市の在所に坪井という名前の郷があり、そこの出身でしたので“坪井雪村”と名乗っていた時期もあったと伝わっています。
実際、戦国期の常陸の大名佐竹氏の重臣に坪井内膳正とその一族の名前を見ることが出来ます。

鎌倉期以前居り続く佐竹氏の長い歴史の中で、この雪村の様に次男三男は佐竹氏を離れ他家へ仕官や僧籍(技能者としての方便)に入って諸国を放浪したことも考えられます。
特に、関ヶ原以降秋田転封の憂き目にあった佐竹氏家臣団は当時の倣いとして分家を旧領へ配置し、再起を図ったことも考えられますが、佐竹氏の旧領である常陸国には、江戸期に徳川家が入府しますが、農兵分離が進んで久しいこの時に、佐竹の旧臣たちは完全帰農するか、他家へ仕官もしくは移転を余儀なくされて数家は他領へ移ったと記録されています。

この時に、今の水戸から郡山までの水郡線沿線の村々へ移籍したと聞いたことがあります。
ここからは推測の域を脱しませんが、この辺りの坪井氏のルーツも、もしかしたらここらへんに何か関連しているような気がしています。



尚、私は、三春での坪井氏の“平氏の落人”伝説は聞いていません。
また、いわゆる“平氏の落人”の伝説については、その立地的な部分から考察して、それぞれの藩の隠し領地的要素が強く感じられます。
それは、新たに開発した田畑や鉄砲や刀鍛冶等の技能集団を隠すための隔離した地域があり、その周辺の人々が噂話として現在に伝わっていると思っています。
さらに、狩猟民族であるいわゆる“山の民”住処もこの平氏落人伝説の一翼を担っていると思っています。

あともう一つは、坪井という名称に関する由来で、一般には「森の中の狭い地域を”坪”とし、そこに住んでいることを”井”」という由来が伝わっています。
おそらく、この坪井の由来と平氏の落人が混合していったのではないでしょうか・・・

以上、坪井氏と聞いて、推測と主観の域を脱しませんが、私の知る限りの内容を列記してみました。お力になれなくて申し訳ございません。

P.S 坪井さまにメールをしましたがうまく送れなかったようなので、こちらに記載しました。

三春昭進堂 髙橋龍一


| ryuichi | 21:00 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
三春物語744番「磐城国三春北畠浪岡氏」
磐城国三春五万石三春城主安東秋田家臣秋田北畠浪岡氏



磐城国三春五万石三春城主安東秋田家臣秋田北畠浪岡氏

滝桜の代表されるように毎年春に綺麗な枝垂れ桜が咲き誇る小さな城下町”三春”
その城下町の中心地に、大志多山の頂に、舞鶴城と称された三春五万石の城跡があります。
現在、その玄関口であるお城坂の中腹で毎年観桜に訪れる方々に、好意でお茶を振るまっている浪岡家。



この浪岡家はとは、旧三春五万石別格宿老三春北畠浪岡家であり、津軽浪岡御所が天正6年(1578)に滅びた後、秋田を頼って行った御所の一族北畠慶好を祖先として、代々秋田家から秋田の名字と「季」1字を賜り、藩家老職を世襲してきた家系です。

南北朝時代、従三位陸奥守として多賀城(宮城県多賀城市)に下向した北畠顕家(きたばたけあきいえ)の子孫が、青森を支配したことが始めといわれている。
顕家は後醍醐政権に反旗を翻した足利尊氏を奥州から、敗走させたが、再び盛り返した尊氏軍により建武5年(1338)和泉国石津で敗死した。
北畠氏は、南北朝期に陸奥鎮守府将軍となり、南朝方の中心として戦った北畠顕家の後裔である。北畠氏が浪岡に移った時期については、文中年間説・応永年間説のほか諸説があり、明確ではない。

また、京都の公家とたびたび交流を持ち、陸奥の地に小京都と呼ばれるほどの貴族文化を花開かせた。そして京都の公家たちとの交流が深かったことから、浪岡氏の歴代当主は侍従や左中将など、高位の官位を歴任したと伝わる。



安東(後の秋田氏)氏に仕えた北畠浪岡氏は安東氏の宍戸移封さらに三春転封と共に三春へ移住。代々別格家老職として安東秋田家の重臣として要職を歴任し政務を担当します。
三春藩では家臣というよりは別格家という扱いで、御一門四家や荒木、細川上席家老とは異なる一段上の家各にありました。
 
また、三春に移った後の北畠浪岡家では、当主は秋田姓を名乗りますが、北畠浪岡の家名をどうしても残したいという思いから家督前や隠居後、あるいは庶子たちが中津川秋田分家浪岡家や湊浪岡家など浪岡を名乗りました。
さらに、代々秋田浪岡家では北畠浪岡の歴史を調べていたことが記録されています。



幕末動乱にあっては、時の当主秋田右近は三春藩御用人として、その南朝の忠臣北畠顕家の末裔という家系を引っ提げて新政府側との交渉役として上京し、勤皇の志を訴え、和平への道筋を切り開きました。

明治維新後、季慶から九代目の季令氏が、明治24年に正式に浪岡へ復姓します。



三春城本丸跡に石垣を備えた秋田家先祖の慰霊碑があります。
この石垣の部分は明治初年、浪岡家当主浪岡季令氏が中心となって建立したものです。
また、この季令氏、そしてその息である浪岡具雄氏も、家系を詳しく調べ上げていたらしく、浪岡家からの分家湊家や中津川浪岡や中津川秋田家の家系図なども調べ上げていました。



尚、慰霊碑自体は、明治三十年に元三春藩御用人秋田大浦(佐塚)廣記が発起人となって建立したものですが、三春藩勤皇の志を期したので北畠将軍と記載されていますので、浪岡家の先祖になぞらえたものと考えられています。

また、大阪阿倍野区に北畠顕家の慰霊碑が,墓所を囲む玉垣の前にある標石「北畠顕家卿墓」は、浪岡具雄氏が寄進したものです。










| ryuichi | 05:44 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |
三春物語741番「愛宕ノ下大名小路」三春江戸上屋敷


「愛宕ノ下大名小路」三春江戸上屋敷新橋から芝に至る地域を描いた江戸切絵図の尾張屋版「芝口南西久保愛宕下之図」があります。

江戸切絵図は正確に測量して描いたものではありませんが、現在の地図と比べると若干のズレはみられるますが、現在の東京に重なるようにして江戸の町が浮かび上がってきます。
私など、東京散策の折には、この江戸切絵図をたよりに旧江戸城下をか闊歩しています

新橋駅から歩いて15分くらいのところにある「愛宕ノ下大名小路」とあるのは現在のレンガ通りのことです。
ここは現在慈恵医大附属病院の近代的な高層病棟が建っています。
江戸期のこの付近は、三春五万石秋田安房守の上屋敷があった場所に当たります。

大名小路を挟んで松平陸奥守(仙台藩伊達家)の中屋敷。
周辺には浅野内匠頭が切腹した一関田村右京太夫(愛姫縁田村家末裔)の上屋敷など、大名屋敷がずらりと並んでいました。

御存じ桜吹雪の遠山金四郎や幕府の剣術指南役・柳生対馬守などという名前も見えます。
この付近は、町家などはわずかで、江戸の武家が建ち並ぶの武家町でした。

 

江戸大名屋敷といわれてもなじみが薄いかもしれませんが、国持ち大名の参勤交代が江戸幕府によって制度化さ、諸藩にとってはとても重要な江戸の出先機関でした。

藩主が多くの家臣ととも に政務を執るのが上屋敷で、上屋敷が火事に遭ったときの避難所や元藩主の隠居所などに使われたのが中屋敷とされています

いずれも登城に便利な江戸城近くにあり、藩主の江戸常駐の妻子の住まいでもありました。
このほか江戸城から離れた場所に庭園や別荘として使われる下屋敷がありました。

五万石の三春藩でも、上屋敷は西新橋慈恵医大付近、中屋敷は、港区麻布台にある現ロシア大使館付近、そして下屋敷は西新宿東京都庁付近にありました。
いづれも江戸の大火で若干の屋敷替えや移動があったと記録されています。

どの屋敷も幕府から与えられたもので、藩主は参勤交代に伴って屋敷を拠点にした江戸での暮らしと、国許での暮らしを交互に送っていたのですが、江戸市中の火災の多さと移動費、そして江戸での生活費などは諸藩の藩財政を圧迫する要因となっています。


| ryuichi | 05:49 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春藩始末記 |