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塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季公、実季木公造座像」令和5年8月発行




塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」令和5年8月発行

   小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季公、実季公木造座像 



福井若狭湾に面する小浜市。

その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。







 本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.

その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の実父である実季、そして、その八代前の先祖で小浜寺を再興した中興祖ともいうべき安倍安東康季の木造座像が安置されています。







「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、“鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。


羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。

平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。

また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。



鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。

応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。


応永5年(1398)に焼失し、後花園帝よりその財力と「京役」職責に於いて永亨8年(1436)、安東盛季、康季の父子に「再建の勅命」綸旨を拝受します。

この時分は、盛季死去し宿敵南部氏との交戦中、さらに、本拠地十三湊が津波により壊滅的な被害を受け蝦夷松前に移籍したころと推察できますが,「日ノ本将軍」の称号を同時に受領して安東氏の威信にかけて再建に取り組みました。

この勅命による伽藍の造営・再建は十一年の歳月をかけ、文安4年(1447)に落慶します。

羽賀寺(勅願寺)縁起には、「莫大ナル貨銭ヲ捧加シ」「奥州十三湊日之本将軍安倍康季、伽藍ヲ再興ス・・・」と康季の功を讃えています。








安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。



三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。






安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の青蓮院門跡尊朝法親王の要請により、先祖の御縁により安東実季が盛季の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の修蔵・改修を行っています。

安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。








もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》




秋田愛季に綸旨 【天正十二年(1584)六月、秋田愛季に、羽賀寺再興の綸旨】
門主傳二十四 (華頂要略十三所収)
龍池院二品法親王 諱尊朝 (十一年)九月十二日、若狭國羽賀寺之事、被遺御書於渡邊宮内少輔。十月廿三日、羽賀寺之事相整。珍重々々。十二月七日、羽賀寺之八木今日参著云々。(十二年正月)同廿九日、若洲羽賀寺為年禮両種二荷進上。六月十日、若洲羽賀寺之事、賜綸旨。
若洲羽賀寺之事、霊亀巳来勅願無雙之精舎歴然候哉。然處近國依錯乱、本堂以下破壊顛倒之由、被聞召候。尤被歎思食候訖。然則叡慮之趣、早被任其由緒、十三湊(秋田愛季)被告申。一寺之再造、以権勢之助成、可致其勵之旨、被加下知者可為神妙候。併為國祈、且御門葉之潤色可有此時之旨、天氣所候也。此由可令洩申青蓮院宮給候也。仍執達如件。
天正十二年六月十日 左中将判(中山慶親)
内大臣僧正御房
内大臣僧正御房 左中将慶親
※参考文献:浪岡町史第一巻史料

○秋田愛季に対して「十三湊」と呼びかけていることは注目される。愛季は羽賀寺再建に対応できず、愛季は羽賀寺再建に対応できず、愛季の子実季により成し遂げられた。





先に発行した塵壺385号令和5年8月発行の中で記載に疑問が残りました。


コラム欄の「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」の中で、羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子と記載しましたが、正しくは、「三春藩初代藩主安東秋田俊季公の実父安倍安東実季公、そして、その8代前の祖先で、羽賀寺を實季公より約150年前に修繕造営・再建した安東康季公の木造座像と記された資料が多数ございます。


 三春歴史民俗資料館第一回企画展 「安東・秋田氏展」図録をみますと、實季僧姿木造座像の背中に陰刻銘文がありとしるされており、凍蚓(とういん)を名乗った晩年の座像だと考えられています。

正式な衣冠束帯の座像は康季とされていますが、従五位上の衣冠束帯の装束からすると實季自身か、実季の父、愛季とも考えられます。


謎が深まるばかりです・・・・


| ryuichi | 04:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
2023.5GW明けの伊勢朝熊・奈良・滋賀の夫婦旅行




GW明けの定休日を利用して、伊勢朝熊の永松寺へ、二百年ぶりの本堂再建浄財を布施させていただくべく、妻を伴って伊勢へ水入らずの夫婦旅行です。


方丈さまに庫裏に仮安置した安倍実季公とそのご家族のお位牌にお拝。





安倍入道秋田城ノ介殿のお墓参りを済ませ、方丈さんと記念写真❗️



墓所の周りの杉木立がきれいに伐採されていました。


神宮さんの山々が見えています。







付き人 交野五郎佐衛門奉納の天和元年(徳川綱吉御代1681年)の灯篭があります。

尚、交野氏に伝わる言い伝えでは、三春交野氏の祖は石田三成の御落胤で関ケ原の合戦の折に秋田実季が三成よりその子供を託され生育したと伝わっています。





落慶が楽しみです。







そしてここは伊勢ですので春陽三春藩の家中藩士に倣い、神宮さんに参拝です。






神宮会館に宿泊して神宮早朝参拝。









翌日は「大人の修学旅行」と洒落込み奈良観光です。






法隆寺、薬師寺、そして、東大寺〜 東大寺さんの大仏は圧巻です。










事前に小野保赤沼金屋衆の大仏建立のレクチャーを受けていましたので、大仏さん慈愛溢れるそのお姿を拝観するだけで涙が溢れ時の経つのを忘れてしまいます。











宿泊も春日大社さんの寺領若草山の麓、奈良公園の中にある旅館「むさし野」さん。




鹿がウヨウヨいて「コレぞザ奈良❗️」奈良風情を満喫できます。





夕方の大仏拝観、そして、早朝に春日山大社参詣には絶好のロケーションです。









二月堂






そして、翌日は、家内のたっての希望で琵琶湖湖畔にある15代目楽家当主が設計に関わった者側美術館です。






窯元が自分の作品をより良く見せるために作られた美術館、そして茶室、まさにトータルで現代の茶の湯の世界を思う存分堪能できました。












ちょうどロビーでモデルさんの撮影撮影をしているところに遭遇しました







あまりの美しさに見とれ、無理を言って、その撮影風景を写真に撮らせていただきました





15代楽直人氏の作品と美術館、そして撮影会思いっきり日を堪能させて頂きました






また滋賀に来たらやはり近江八幡の八幡堀は外せません。

鬼平犯科帳の、そして、雲霧仁左衛門のあのロケ地です。








鬼平気分でパチリ!






最後の最後に、安土城、東近江の友人が小学校の頃に遠足で登ると言う安土城まだまだ整備をされていませんが、織田信長に思いを馳せることができました






今回も様々な出会いがあり、日本を満喫できたそんな小さな旅でした。






やはり、当店の女将であり子供たちの母である家内への感謝のたびです。

大事な人が喜んでくれる旅というのは何をやってもどこに行っても楽しいもので、料理もことさら美味しく感じます。







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:14 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記::伊勢神宮参詣 朝熊永松寺 |
「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎



「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎

官軍となった西軍による会津戦争の際に三春からも荷駄人足として各村から人足として駆り出されています。

時に慶応四年七月二十六日 (1868) 。

三春藩庁より領内の村々に人足(15歳~60歳まで)の要請があり、筆者伊藤好三郎は、その日の内に三春城下に入り人間人馬人足を勤めています。

従軍記は、八月二十日に二本松から玉ノ井村(現大玉村)に移動した所から軍用記覚付帳が始まっています。


慶応四辰年 軍用記覚付帳  八月二十日~九月九日

1、 七月二十六日、三春町に繰り込み人馬おつとめ

仰々慶応四辰年 八月二十日
二本松を出立し玉ノ井村と申す所に参り候、所定より壱里半程先に、二本松藩丹羽丹波と申す家老が山の中に屯ろ致し、其所にて二日、夕七ツ時頃にすぐ戦いに進み大戦に相成り
官軍様方に壱人の怪我、その晩玉ノ井村に引帰り宿際に相成り候。

次二十一日、早朝に石筵村と申す所に四里ほど参り、其所より壱里半程先のぼり石筵峠
と申す所に会津公の大掘抜六七ヶ所有る所を打ち破り 会津勢弐千人程人数に御座候。

官軍様方怪我人六七人あと会津勢怪我人数多し、人馬石筵峠にて泊り申し袋、その時人馬
に逃げられ申し候、怪我をいたし所に敵方参り候、自軍方も驚き入り申し後、まことに驚き入り、官軍様方戊成峠より大原村新田に宿際仕え候。

次廿二日、人足馬方共も泊りに相成り、官軍様方は猪苗代迄に攻め込む、人馬共大原に泊る。

明廿三日、朝七ツ半頃に大原を出立にて人馬引立て申し候、官軍様方は猪苗代より乗り込み致し、十六橋より強清水、滝沢口まで戦いに御座候、其所より怪我人数多し御座候、会
津勢かこめずみるみる数多く散り々に遣られ、滝沢で人馬四五人流れ玉にて怪我を致し九半頃に若松へ操込む、大手門より繰込み三四丁ほど城に近づき申すに御座 。

大筒小筒にて終ち合いの最中、屋敷に火をかけ大火事に相成り、城中に大筒をかける。

人馬滝沢町に参り馬を休め、又、馬を引立し、城の近くまで引付け候の所、滝沢より町中に死人数多く有り。
廿四日、朝より戦い相成り申し候。町内には一人もおらず候。







廿五日、朝六ツ時より大戦に相成り城中からも攻撃があり、昼八ッ半迄に休みなく戦いに相成り候、大玉小玉の雨が降るが如く町中に参り驚き入り、丸の内の薬倉に火を掛け大地
震の如く大雷様如く 家の壁も崩れ大地に伏し驚き入り奉り候、煙の様態はたとい方もな
し 夕五ツ頃に城中より切り出し、その時、官軍方関の声を上げて押しかいし申し候。

〇廿五日 勢至井堂口より官軍様方繰り込み申し候、戊成口損じるに御座候、中山口は、二日、彦根様御人数繰り込み申し候、三日、格別なこともなし

明廿六、朝四ッ頃より夕七ッ頃まで大戦に御座候。

廿七日は、格別の戦いもなし。

廿八日も、その通り、廿九日、朝五ッ頃、津川口より勢井志堂口(勢至井堂口)の敵方が集まり五六千人程にて参り城中に入ると致す所 官軍様方七日町にて相おり、城中に入らんとする所を破り すぐ大戦に相成り城中より切り出し話の外の戦い致し敵方へ官軍様より大筒を撃ち掛け外内に廿五六人ほど突けかい致し、敵方のほうにて三百六七拾人ほど死人と申するに御座候。
官軍様方は五拾六七人の怪我、晦日には、少々戦いに御座後。

一日にも二日にも三日にも格別の戦いもなし四日にも五日にも格別のこともなし 町にも
なし。
五日、津川口より官軍様方参りすぐ大合合戦に御座候、百姓とも嫌がりいたし、鉄砲を撃ちかけられ我さきと逃げる、蓑や鎌わらじも置き皆逃げ申し候、
その時、てき(敵)方死人数多し地に伏し堀に伏し大合戦に御座候、

官軍様方もけがを致しその時、津川口より攻めかけ官軍様方何万人となしに六日七日八日と数しれず繰り込み申し候。
九日、大火事に御座候、七日町より滝沢町までも燃え広がり申し候、その時、大合戦に御座後、大筒小筒の撃ち合い、その時、人馬だんな方も地に伏し堀に伏し壁にかくれ大合戦に御座候。

会津人馬つとめる、瀬川には薩州六半匁大清作方おつとめ、貝山三人組 作吉、倉ノ助、藤三郎氏組三拾六人組二本松人馬、三春人馬入り混ざり若松に繰り込みに付人馬は、貝山人馬拾人1.勘右衛門 1.田作1、今朝治1、玄治右衛門 1、慢次郎1、柳多 1、藤ノ烝氏方は薩州三半匁大四半匁報奨人馬相つとめ、七人と三人合わせ拾人

以上







この従軍記は、8月20日現大玉村の玉ノ井村から始まり9月9日会津城下大合戦までの約20日間の記録で終わっていますが、三春から二本松藩攻略(7月29日落城)の人足に出たのは三春藩の記録にあり、二本松藩とは親藩の間柄の為か記録するのをためらったのかもしれません。


尚、9月22日の会津城落城迄参戦していたかは不明ですが、9月9日以降の行動は激戦の為に書き留めておく余裕なかったのではないかと想像されます。


別の記録には会津城下の激戦に於いて三春人足は最前線迄鉄砲や大砲の玉など武器弾薬を運搬していたと記されています。


戦後の記録には貝山村からの10人の人足が徴発されていますが戦傷者もなく無事に帰還したと記されています。





付記旧三春城本丸跡に建つ明治戊辰役三春藩士烈士碑 
 
戊辰戦争で三春藩は当初、小藩の悲しさゆえ会津を中心とした奥羽越列藩同盟に加盟していましたが、徳川家自ら政権を投げ出したその時代の流れを素早く読んだ、河野広胖らの若い藩士たちが、東山道先鋒総督府参謀であった板垣退助に会見した。

板垣ら西軍と帰順を工作、和平交渉の末に、三春無血開城を果たします。

しかし、その影で列藩同盟に出向していた四人の三春藩士がいました。

彼らは、三春藩の同盟離反を受けて同盟より詰め腹を切らされたり惨殺されています。

ここにも命をとして三春を守った三春藩士が居たことを忘れてはいけません。









明治戊辰役三春藩烈士碑




大関兵庫  ..百三十石/祐筆/明治元年七月二十六日藩論一変、官軍三春入城となったため、たまたま奥羽同盟軍事局に派遣されて福島滞在中東軍の手で殺害


大山巳三郎 ..藩論一変、西軍三春入城の明治元年七月二十六日、仙台に使して二本松に在ったため東軍に捕えられ、殺害された






不破関蔵  ..百八十石、江戸元締用人/藩論一変により西軍が三春に入城した明治元年七月二十六日、出張先の二本松で東軍に捕斬された


渡辺喜右衛門..五両五人扶持、御用部屋物書/西軍三春入城の明治元年七月二十七日二本松にあり、東軍に捕えられ斬殺

--引用;幕末維新全殉難者名鑑--



三春藩の命令で、各村から徴収され軍夫として参加して戦死した三春人です。



橋本周次 
高野村大字高柴 農民
二本松城下にいる、三春藩士不破、大山両氏のもとへ三春藩の帰順を伝える使者として書状を携えて単身出向、両氏と共に帰還に就こうとしたところを二本松藩兵により殺害されます。

石井冨次 享年48 
移村大字上移 農民
会津追討の際、三春藩荷駄隊軍夫としれ参加して戦死

佐藤牛之助 享年40 
美山村大字長外路 農民
会津追討の際、土佐藩輜重隊(荷駄隊)付三春藩軍夫として参加 若松城下七日町付近に於いて戦死

本田庄右衛門 享年54 
移村大字上移字北ノ作 農民
会津追討の際、薩摩藩第十二番隊付三春藩軍夫として参加。
若松城下にて戦死。

鎌田久八 享年21 
移村大字上移字北ノ作 農民
薩摩藩第十二番隊付三春藩軍夫として参加。
若松城下七日町付近に於いて戦死

近内吉十 享年44 三春町
会津追討の際、佐土原藩軍夫として参加
若松城戸ノ原口の戦にて戦死

宗像林太郎 享年22 中妻村大字鷹巣 農民
 会津追討の際、薩摩藩十二番隊付三春藩軍夫として参加。
若松城下の戦いにて戦死

村上久左衛門 享年42 
中妻村大字鷹巣 農民
会津追討の際、薩摩藩軍隊付三春藩軍夫として参加。
若松城 滝沢口の戦いにて戦死

松崎伴吾 享年24 中妻村大字鷹巣 農民
会津追討の際、薩摩藩軍隊付三春藩軍夫として参加。
若松城 滝沢口の戦いにて戦死

鈴木政治 享年20 中妻村大字蒲倉 農民
会津追討の際、薩摩藩軍隊付三春藩軍夫として参加。
食料運搬の際に重症を負い、三春城下三春病院にて戦傷死

上石藤助 享年51 中郷村大字過足 農民
 会津追討の際、土佐藩軍隊付三春藩軍夫として参加
若松城下の戦いにて若松城門間にて戦死



靖国神社合祀







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記::三春秋田氏五万石雑記 |
「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参 令和5年正月






「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参 塵壺380号 令和5年2月発行


 今年、還暦を迎えるので“一生に一度は「御伊勢詣り」”と云われる伊勢の神宮へ妻を伴って初詣に行ってきました。


かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。





また、外宮・内宮両社に於いて御神楽御祈祷を受けますと、御祈祷の祝詞でお一人お一人の住所と名前が呼ばれます。

自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。




神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)という集落に三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所があることをご存じでしたか?

禅寺「石城山永松寺」という古刹の宇内(境内)にある實季公の墓所は時が止まったかのようにひっそりと佇んでいます。






この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の姉)”です。

即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。

三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。





天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後し
て蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。


同年の「九戸政実の乱」の鎮圧や慶長20年(文禄元年)からの太閤朝鮮派兵、そして伏見城の築城などに従事、「関ヶ原合戦」では、徳川家康より「慶長出羽合戦」に於いて上杉、佐竹(西軍)に与したとの嫌疑をかけられ、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石への転封を命ぜられ常陸宍戸藩初代藩主となりますが水軍を取り上げられ「安東水軍」は終焉を迎えます。






後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。

本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。

幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。

千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。





實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。


また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。

幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。


]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。


我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓

尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の再建工事が令和5年2月26日より始まります。







蒼龍謹白 さすねけぇぞい三春!  拝



以下、三春秋田氏から永松院へ役領を寄進した際の受領書

右として

高乾院殿前拾遺空巖梁空大居士の墓所の掃除料) 謹んで永松庵の下に寄付し終えた。

そもそも、寛永年中秋田城介安倍実季が、常州(常陸) 宍戸から勢州(伊勢)に赴かれるときに、愚臣交野重兵衛常信、早川又兵衛氏職らが駕籠に付き従って、朝熊の郷に住んだ。

家務を統括し、侍として、しもべとして奉仕すること三十年たったことだが、ついに万治巳亥の年(万治二年/一六五九)に易簀(他界)となった。その後、奥州三春城主 (秋田) 安房守盛季がその功績に感じ、俸禄を賜り、子孫も連綿とつながり今も絶えていない。

しかし、実季の遺徳である愚子孫らは、雨にも風にも志は馳せるといえど、百里の外の海が阻むところ、山が阻むところにて、古い墓所の塵や芥を掃うことができず、徒に時が移ること数十年、今に至った。

宝永戊子の年(宝永五年/一七〇八)、五十回忌をここに迎え、孝心のある曾孫(秋田) 信濃守輝季が孝養として田地を永代茶ノ湯料としてなぞらえて寄進した。

【不俊(不肖の私)たちまたはその後付き従った者の僅かの畑地は永松庵の落芥を掃くに要するものである。】

宝永六年三月
(日向訳)

伊勢度会郡朝熊村

石城山永松庵

中巌座元


※ 渡邊日向 訳




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伊勢の神宮さんへ夫婦で初詣⛩です。!2023.1.16 



伊勢の神宮さんへ夫婦で初詣⛩です。

薮入りとされるこの日、正月の休日(1泊2日)を使っての参拝です。

私は昭和39年1月20日生まれですので、還暦を迎えます。


出立まえに、三春藩主祈願所眞照寺、三春藩領内総鎮守田村大元帥神社、そして、高屋敷稲荷神社へご挨拶の参拝。







以前に、高屋敷稲荷神社の宮司様より伊勢神宮参拝のレクチャーを受けまして・・・



まずは、夫婦岩で有名な二見ヶ浦。

これからも夫婦仲良く余生を暮らせるようにと、ふたりで手を合わせて来ました。






外宮さん、内宮さん、両社に於いて神様への感謝と日本、そして世界平和を祈願のために御祈祷を受けました。

何と、外宮さんでタイミングなのでしょう・・あの広い拝殿に於いて私たち二人だけでお祓いを受けることがdきました。






また、内宮さんではそれなりの人数でお祓いを受けましたが、名前を呼ばれる段になって郡山周辺の参拝者が多いのには驚きました。


「御伊勢講中」もあったように聞きました。





コロナ感染予防等観点からもお祓い町、おかげ横丁での飲食は避けようと考えていましたが「赤福本店」は外せません。


これから夫婦水入らずの直会です♪







宿泊はもちろん「神宮会館」です。






翌日は、御世話になっている外宮近くの宿「紅葉軒」さまにご挨拶して・・・







江戸後期の三春藩士中村寛亭・匡(ただし)は、藩命を受けて三春藩主代参として三春から畿内まで従者2名を連れて伊勢神宮参詣へ向かいます。

伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松院(寺)にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・安倍秋田實季入道(あべあきたさねすえにゅうどう)の墓所にも参っています。





私も、今生では一番といっていいくらい秋田實季公の初め歴代秋田候のお名は絵を多用していると持っていますので、伊勢神宮参拝のおりには、實季公の菩提寺石城山永松寺様へのご挨拶と墓前への参拝をしております。





・朝熊(あさま) 永松寺 住職 百合齊道様 三重県伊勢市朝熊町1212

三春藩主初代秋田俊季公の実父 日之本将軍(ひのもとしょうぐん)と呼ばれた秋田安東実季公(あきたさねすえ)の墓所はあります。

戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道

 江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。

凍蚓(とういん)”凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、秋田実季は約30年、伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を送り、1660年に死去しました。享年85。
和歌や文筆を残しています。






朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。

お千世方は、実季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘で、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。

そして、片山氏本人も、實季氏の死去の8年前に実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。






尚、永松寺様では、本堂の再建工事が令和5年1月26日より始まります。








”一生に一度は御伊勢詣り”と云われる、伊勢神宮です。 心の芯から浄化されるような気がいたします。

お蔭様詣りと云われますが、こうして参拝できるのも、家族、お客様、そしてご縁のある皆々様のお蔭と、心より御礼を申し上げたくなるような神様です。

かつて、司馬遼太郎氏は”お伊勢参り”を

「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益がるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」

と称されていましたが、まさにその思いをこの静寂が訪れ伊勢の神宮さんで共有することができます。

この神域の滞在中、神威とも云うべき「風」が音を立てて体内を通り抜けていく感覚があります。

そして、凛と張りつめた気が浸透していくかのような感じが肌に伝わってきます。

一歩一歩歩みを進めるたびに地面からビリビリといった具合に足元からパワーが伝わってまいります。

これがお伊勢さんの神威なんでしょう。


ありがとうございます。

三春から伊勢まで約700キロ、遠い道のりではありますが、夫婦そろっての参詣でしたので、楽しい伊勢神宮参詣でした。





三春へ帰還の際には、高屋敷稲荷神社さま、眞照寺さまへお土産を以て帰還の報告と御礼、そして、大元帥明王さまへ参詣し報告・・







これにて”笠脱ぎ”として伊勢神宮参詣記を締めさせていただきます。

おかげさまで、晴れやかな新年と、還暦を迎えられます。


関係各位の皆様、御世話になりました。


ありがとうごじました。


三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



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秋田氏藩政時代、三春城下町村の役方




秋田氏藩政時代、三春城下町村には、検断(町役人、延宝六年後は3人)5人、町年寄10人 (同七人)を決め、大町、荒町 、中町、八幡町、北町、新町の各町に、小肝煎・長町人を1人ずつおいていました。

その他の村は、幾つかの代官の管轄下に分かれ、村ごとに庄屋(以前は肝煎と称し、ニ2~3ヵ村に1人)をおき、その下に庄屋補佐役どしての組頭や長百姓を数名おいていました。
また、庄屋の中で特に有カな者を割頭として代官所ごとに年番で当たらせていました。





尚、庄屋の大部分は、戦国時代の田村家旧臣からの館主を含む郷士から帰農した者でしたが、庄屋役の林の売買も公然と許していたため、百姓に代わる村もありました。
ことに天明の飢鐘 以降は変化が著しく、2~3の村の兼任庄屋もみられます。







庄屋や組頭には役料として土地を給されたり、米が与えられたりしていました。









春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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三春藩駒奉行 徳田研山三代の墓





徳田研山三代の墓

荒町竜穏院、向って左手の丘の中腹に、徳田家の墓がある。

研山の名で、馬の絵をよく描いた、好時、好展、甘露の、いわゆる徳田三代-研山三代の墓が列んでいる。

初代研山は三之丞好時、七代藩主倩季(よしすえ)に仕え、大坪流の馬術を修め、天明4年5月に駒奉行所に召出され添役となり、文化4年奉行に昇進、文政3年には江戸邸監に補せられている。

天保2年死去。


三之丞は絵を学び、山水花鳥も画いたが、特に武者及び馬の絵に秀でていた。

羅漢や鹿山との交友も深く、藩主も之を賞その絵を封外に出すことを禁じた程である。


初代研山は、絵を学ぶ道は、画帳を摸写するだけでなく、自然の風物を写生することが大切だとして、放牧馬の写生に専念したという。

その作品は地方の旧家で見ることが出来るが、荒町の馬頭観音と三春大神宮(文化14年奉納)の絵馬額が絶品と言ってよかろう。







二代研山好展は通称三平、弘化3年大坪流馬術の皆伝を受け、嘉永4年に駒奉行になっている。

父の画才を継いで、やはり、馬絵をよくした。

大作として現存しているものは、荒町馬頭観音の献額、法華寺天井の龍の図がある。

なお、三春大神宮の木馬像は、石森の伊東光運の作だが、その下絵と製作指揮は、この二代!研山だったと伝えられている。



三代研山も三平といい、甘露とも号した。

藩政末期から明治にかけて、これも専ら馬の絵をかいたが、その作品は、到底父祖の雄渾さには及ばなかった.




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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