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「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎



「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎

官軍となった西軍による会津戦争の際に三春からも荷駄人足として各村から人足として駆り出されています。
時に慶応四年七月二十六日 (1868) 。
三春藩庁より領内の村々に人足(15歳~60歳まで)の要請があり、筆者伊藤好三郎は、その日の内に三春城下に入り人間人馬人足を勤めています。
従軍記は、八月二十日に二本松から玉ノ井村(現大玉村)に移動した所から軍用記覚付帳が始まっています。


慶応四辰年 軍用記覚付帳  八月二十日~九月九日

1、 七月二十六日、三春町に繰り込み人馬おつとめ

仰々慶応四辰年 八月二十日
二本松を出立し玉ノ井村と申す所に参り候、所定より壱里半程先に、二本松藩丹羽丹波と申す家老が山の中に屯ろ致し、其所にて二日、夕七ツ時頃にすぐ戦いに進み大戦に相成り
官軍様方に壱人の怪我、その晩玉ノ井村に引帰り宿際に相成り候。

次二十一日、早朝に石筵村と申す所に四里ほど参り、其所より壱里半程先のぼり石筵峠
と申す所に会津公の大掘抜六七ヶ所有る所を打ち破り 会津勢弐千人程人数に御座候。

官軍様方怪我人六七人あと会津勢怪我人数多し、人馬石筵峠にて泊り申し袋、その時人馬
に逃げられ申し候、怪我をいたし所に敵方参り候、自軍方も驚き入り申し後、まことに驚き入り、官軍様方戊成峠より大原村新田に宿際仕え候。

次廿二日、人足馬方共も泊りに相成り、官軍様方は猪苗代迄に攻め込む、人馬共大原に泊る。

明廿三日、朝七ツ半頃に大原を出立にて人馬引立て申し候、官軍様方は猪苗代より乗り込み致し、十六橋より強清水、滝沢口まで戦いに御座候、其所より怪我人数多し御座候、会
津勢かこめずみるみる数多く散り々に遣られ、滝沢で人馬四五人流れ玉にて怪我を致し九半頃に若松へ操込む、大手門より繰込み三四丁ほど城に近づき申すに御座 。

大筒小筒にて終ち合いの最中、屋敷に火をかけ大火事に相成り、城中に大筒をかける。

人馬滝沢町に参り馬を休め、又、馬を引立し、城の近くまで引付け候の所、滝沢より町中に死人数多く有り。
廿四日、朝より戦い相成り申し候。町内には一人もおらず候。







廿五日、朝六ツ時より大戦に相成り城中からも攻撃があり、昼八ッ半迄に休みなく戦いに相成り候、大玉小玉の雨が降るが如く町中に参り驚き入り、丸の内の薬倉に火を掛け大地
震の如く大雷様如く 家の壁も崩れ大地に伏し驚き入り奉り候、煙の様態はたとい方もな
し 夕五ツ頃に城中より切り出し、その時、官軍方関の声を上げて押しかいし申し候。

〇廿五日 勢至井堂口より官軍様方繰り込み申し候、戊成口損じるに御座候、中山口は、二日、彦根様御人数繰り込み申し候、三日、格別なこともなし

明廿六、朝四ッ頃より夕七ッ頃まで大戦に御座候。

廿七日は、格別の戦いもなし。

廿八日も、その通り、廿九日、朝五ッ頃、津川口より勢井志堂口(勢至井堂口)の敵方が集まり五六千人程にて参り城中に入ると致す所 官軍様方七日町にて相おり、城中に入らんとする所を破り すぐ大戦に相成り城中より切り出し話の外の戦い致し敵方へ官軍様より大筒を撃ち掛け外内に廿五六人ほど突けかい致し、敵方のほうにて三百六七拾人ほど死人と申するに御座候。
官軍様方は五拾六七人の怪我、晦日には、少々戦いに御座後。

一日にも二日にも三日にも格別の戦いもなし四日にも五日にも格別のこともなし 町にも
なし。
五日、津川口より官軍様方参りすぐ大合合戦に御座候、百姓とも嫌がりいたし、鉄砲を撃ちかけられ我さきと逃げる、蓑や鎌わらじも置き皆逃げ申し候、
その時、てき(敵)方死人数多し地に伏し堀に伏し大合戦に御座候、

官軍様方もけがを致しその時、津川口より攻めかけ官軍様方何万人となしに六日七日八日と数しれず繰り込み申し候。
九日、大火事に御座候、七日町より滝沢町までも燃え広がり申し候、その時、大合戦に御座後、大筒小筒の撃ち合い、その時、人馬だんな方も地に伏し堀に伏し壁にかくれ大合戦に御座候。

会津人馬つとめる、瀬川には薩州六半匁大清作方おつとめ、貝山三人組 作吉、倉ノ助、藤三郎氏組三拾六人組二本松人馬、三春人馬入り混ざり若松に繰り込みに付人馬は、貝山人馬拾人1.勘右衛門 1.田作1、今朝治1、玄治右衛門 1、慢次郎1、柳多 1、藤ノ烝氏方は薩州三半匁大四半匁報奨人馬相つとめ、七人と三人合わせ拾人

以上







この従軍記は、8月20日現大玉村の玉ノ井村から始まり9月9日会津城下大合戦までの約20日間の記録で終わっていますが、三春から二本松藩攻略(7月29日落城)の人足に出たのは三春藩の記録にあり、二本松藩とは親藩の間柄の為か記録するのをためらったのかもしれません。


尚、9月22日の会津城落城迄参戦していたかは不明ですが、9月9日以降の行動は激戦の為に書き留めておく余裕なかったのではないかと想像されます。


別の記録には会津城下の激戦に於いて三春人足は最前線迄鉄砲や大砲の玉など武器弾薬を運搬していたと記されています。


戦後の記録には貝山村からの10人の人足が徴発されていますが戦傷者もなく禅無事に帰還したと記されています。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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伊勢の神宮さんへ夫婦で初詣⛩です。!2023.1.16 



伊勢の神宮さんへ夫婦で初詣⛩です。

薮入りとされるこの日、正月の休日(1泊2日)を使っての参拝です。

私は昭和39年1月20日生まれですので、還暦を迎えます。


出立まえに、三春藩主祈願所眞照寺、三春藩領内総鎮守田村大元帥神社、そして、高屋敷稲荷神社へご挨拶の参拝。







以前に、高屋敷稲荷神社の宮司様より伊勢神宮参拝のレクチャーを受けまして・・・



まずは、夫婦岩で有名な二見ヶ浦。

これからも夫婦仲良く余生を暮らせるようにと、ふたりで手を合わせて来ました。






外宮さん、内宮さん、両社に於いて神様への感謝と日本、そして世界平和を祈願のために御祈祷を受けました。

何と、外宮さんでタイミングなのでしょう・・あの広い拝殿に於いて私たち二人だけでお祓いを受けることがdきました。






また、内宮さんではそれなりの人数でお祓いを受けましたが、名前を呼ばれる段になって郡山周辺の参拝者が多いのには驚きました。


「御伊勢講中」もあったように聞きました。





コロナ感染予防等観点からもお祓い町、おかげ横丁での飲食は避けようと考えていましたが「赤福本店」は外せません。


これから夫婦水入らずの直会です♪







宿泊はもちろん「神宮会館」です。






翌日は、御世話になっている外宮近くの宿「紅葉軒」さまにご挨拶して・・・







江戸後期の三春藩士中村寛亭・匡(ただし)は、藩命を受けて三春藩主代参として三春から畿内まで従者2名を連れて伊勢神宮参詣へ向かいます。

伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松院(寺)にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・安倍秋田實季入道(あべあきたさねすえにゅうどう)の墓所にも参っています。





私も、今生では一番といっていいくらい秋田實季公の初め歴代秋田候のお名は絵を多用していると持っていますので、伊勢神宮参拝のおりには、實季公の菩提寺石城山永松寺様へのご挨拶と墓前への参拝をしております。





・朝熊(あさま) 永松寺 住職 百合齊道様 三重県伊勢市朝熊町1212

三春藩主初代秋田俊季公の実父 日之本将軍(ひのもとしょうぐん)と呼ばれた秋田安東実季公(あきたさねすえ)の墓所はあります。

戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道

 江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。

凍蚓(とういん)”凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、秋田実季は約30年、伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を送り、1660年に死去しました。享年85。
和歌や文筆を残しています。






朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。

お千世方は、実季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘で、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。

そして、片山氏本人も、實季氏の死去の8年前に実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。






尚、永松寺様では、本堂の再建工事が令和5年1月26日より始まります。








”一生に一度は御伊勢詣り”と云われる、伊勢神宮です。 心の芯から浄化されるような気がいたします。

お蔭様詣りと云われますが、こうして参拝できるのも、家族、お客様、そしてご縁のある皆々様のお蔭と、心より御礼を申し上げたくなるような神様です。

かつて、司馬遼太郎氏は”お伊勢参り”を

「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益がるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」

と称されていましたが、まさにその思いをこの静寂が訪れ伊勢の神宮さんで共有することができます。

この神域の滞在中、神威とも云うべき「風」が音を立てて体内を通り抜けていく感覚があります。

そして、凛と張りつめた気が浸透していくかのような感じが肌に伝わってきます。

一歩一歩歩みを進めるたびに地面からビリビリといった具合に足元からパワーが伝わってまいります。

これがお伊勢さんの神威なんでしょう。


ありがとうございます。

三春から伊勢まで約700キロ、遠い道のりではありますが、夫婦そろっての参詣でしたので、楽しい伊勢神宮参詣でした。





三春へ帰還の際には、高屋敷稲荷神社さま、眞照寺さまへお土産を以て帰還の報告と御礼、そして、大元帥明王さまへ参詣し報告・・







これにて”笠脱ぎ”として伊勢神宮参詣記を締めさせていただきます。

おかげさまで、晴れやかな新年と、還暦を迎えられます。


関係各位の皆様、御世話になりました。


ありがとうごじました。


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三春藩駒奉行 徳田研山三代の墓





徳田研山三代の墓

荒町竜穏院、向って左手の丘の中腹に、徳田家の墓がある。

研山の名で、馬の絵をよく描いた、好時、好展、甘露の、いわゆる徳田三代-研山三代の墓が列んでいる。

初代研山は三之丞好時、七代藩主倩季(よしすえ)に仕え、大坪流の馬術を修め、天明4年5月に駒奉行所に召出され添役となり、文化4年奉行に昇進、文政3年には江戸邸監に補せられている。

天保2年死去。


三之丞は絵を学び、山水花鳥も画いたが、特に武者及び馬の絵に秀でていた。

羅漢や鹿山との交友も深く、藩主も之を賞その絵を封外に出すことを禁じた程である。


初代研山は、絵を学ぶ道は、画帳を摸写するだけでなく、自然の風物を写生することが大切だとして、放牧馬の写生に専念したという。

その作品は地方の旧家で見ることが出来るが、荒町の馬頭観音と三春大神宮(文化14年奉納)の絵馬額が絶品と言ってよかろう。







二代研山好展は通称三平、弘化3年大坪流馬術の皆伝を受け、嘉永4年に駒奉行になっている。

父の画才を継いで、やはり、馬絵をよくした。

大作として現存しているものは、荒町馬頭観音の献額、法華寺天井の龍の図がある。

なお、三春大神宮の木馬像は、石森の伊東光運の作だが、その下絵と製作指揮は、この二代!研山だったと伝えられている。



三代研山も三平といい、甘露とも号した。

藩政末期から明治にかけて、これも専ら馬の絵をかいたが、その作品は、到底父祖の雄渾さには及ばなかった.




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「五人組御仕置帳寫 天保十五辰年」 塙代官小笠原仁右衛門 天明八戊申年正月吉日 




「五人組御仕置帳寫 天保十五辰年」 塙代官小笠原仁右衛門 天明八戊申年正月吉日 


三春在方鷹巣村の名主か組頭を務めていた橋本梅右衛門の資料です。

村の長として業務上の資料として使用して(写)いたのではないかと思われます。





  

『五人組』は、近世の村方及び町方支配のために設けられた、五戸の単位による近隣組織です。

 その主な目的は、相互監視と連帯責任にあるとされますが、住民同士の互助と言う意味合いもあったようにも見受けられます。

 『五人組帳』は、五人組の構成員が署名押印した帳簿と、守るべき法令を記した『前書』とで構成されていました。


五人組御仕置帳
   条々
 一 前々従 公儀度々出候御法度

   書之趣弥以堅相守御制法之儀
   
  不相背様ニ村中小百姓下々迄 可申付事

・・・・








五人組仕置帳は、前記の五人組の趣旨と共に宗門人別改の意味もあり、五人組の相互・連帯責任を負わせて、キリシタン禁制の徹底を図ったとも読み解かれ、宗門改. と五人組の両制度の充実をうかがわせるものとなっています。



三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂



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三春藩御用證書 「名字帯刀仰付相続状」



三春藩御用證書 「名字帯刀仰付状」


万延元庚申年

鷹巣村名主 橋本梅右衛門(二代)から、三春藩庁への家督相続願い。


鷹 巣 村
橋本梅右衛門 (※二代目)
倅 忠助(※三代・婿養子忠兵衛)

梅右衛門儀近年病身ニ相成
御城下往来不自由二相成候ニ付
竈頭倅忠右衛門江相譲度旨
無余儀事ニ付、願之通申付候
依之忠右衛門江親代之通、栗原
新田弐石為給地、永々被下代々
苗字帯刀 御免御目見被
仰付候
十二月廿八日







三春藩主秋田安房守から同橋本梅右衛門あてに名字と帯刀、及び栗原新田差配を後継である婿養子の忠右衛門へ許すことを認めた文章です。



鷹巢村
橋本梅右衛門

右之者 天保十四卯年
献金之訳ヶ以代々苗字
家內人別改 御免
被 仰付候処、右之奉
報御恩沢度、志願を被控
当年於 龍穏院様重
記御年回被為を御法
会前御破損、則御修
覆之後 承知仕候二付
嘉永七寅年御用
才覚金三分、船田久
五郎方より譲受候、嘉永四
年御証文金七両江
今度被仰付候、才覚金
壱両外二金四両継金
仕、都合金拾弐両三分
右為御修覆料指上度
旨、願之通可指上右躰
願置候様、兼々豊事 (※豊事 = 法事)
出情之故 之義、尤之
事二付、為御褒美栗
原新田弐 石為給地、永々
被下代々苗字帯刀
御免御目見被
仰付候

万延元庚申年
四月二日
御用向被仰付候

橋 本 梅 右 衛門








名字帯刀の他に「栗原新田」の差配許可の継続を記されています。


「栗原新田」

江戸期の三春五万石秋田藩政下、寛文年間のころに、時の三春藩郡奉行栗原兵右衛門は、領内の村々にある荒地や未開拓地の開墾指導を行いました。
 このとき開墾された新田を「栗原新田」と総称しました。



栗原新田は三春藩領全域におよび、約二十年後の享保十七年には新田総石高は738石に及びました。
 後に発生する、天明期や天保期の凶作による飢饉では、東北諸藩では犠牲者が続出する中で三春藩の犠牲が少なかったのは、この栗原新田が寄与すところも大きいと考えられます。


本文中に記載されている橋 本梅右衛門末裔の鷹巣の橋本様よりお預かりしました。




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「銘盡」江戸期の刀工名参考書 後鳥羽院御宇奉行鍛冶結番次第  論語解集




宇賀神様の御縁となる「田村の庄」の著者である橋本史紀様より「銘盡」後鳥羽院御宇奉行鍛冶結番次第という料紙漉返風の書物をいただきました。

旧書名「刀剣書」(仮題)とする、江戸期の刀工名参考書です。





「後鳥羽院御宇番鍛冶次第」







「山城内京系図之事」(以下、古来の諸国鍛冶の系譜集)





「近代之鍛冶上手之分」

「諸国同銘其外頭字寄分」(同銘のある刀工名を頭字毎に一覧にしたもの)等のきさいがあります。


天保頃江戸版の後鳥羽院御宇奉行人并鍛冶結番次第です。

尚、国書総目録には、寛永2年刊『後鳥羽院御宇番鍛冶之次第』あります。



図はありません。








無刊記ながら、江戸末期~明治初期に本山修験権大僧都に在った鷹巣威徳院春晃で、後の田村春衛の名が記された「天保十五(弘化1年12月改元)甲辰年八月」の記載あります。


この威徳院春晃とは、橋本氏のご先祖様にあたります。








書名にある「番鍛冶(ばんかじ)」は、鎌倉時代、後鳥羽院の命により、1か月交替で院に勤番した刀工で、「御」という敬称をつけて「御番鍛冶」(ごばんかじ)とも称されています。

勅撰集『新古今和歌集』で知られる後鳥羽上皇は、「承久の乱」承久3年(1221)、起こり、後鳥羽上皇の軍勢が、鎌倉幕府執政北条氏率いる鎌倉御家人衆に合戦で敗れ、隠岐に流されます。
この承久の乱の後に、南北朝時代の内乱が展開することとなります。






後鳥羽院は刀剣の製作を好んだとされています。

院は京都粟田口久国、備前国信房にその業を授けられ、承元2年、諸国から名のある刀工12人を召して番鍛冶として、水無瀬において毎月、刀を作らせました。





正月 - 備前国則宗
2月 - 備中国貞次
3月 - 備前国延房
4月 - 粟田口国安
5月 - 備中国恒次
6月 - 粟田口国友
7月 - 備前国宗吉
8月 - 備中国次家
9月 - 備前国助宗
10月 - 備前国行国
11月 - 備前国助成
12月 - 備前国助延









こちらは、「論語集解」です。

「平安東厓先生孝訂 武江書林 千鍾堂藏版」とあり 版心に「千鍾堂藏版」と記されています。

江戸期の日本橋通一丁目にあった武江書林 千鍾堂蔵版です。






嘉永二甲寅年三月1849年 北野内 橋本忠吉絽軌と記されています。


172年前の書物です。


橋本様のご先祖様が学ばれ子供たちに教授された教科書なんでしょう。


大切に拝読させていただきます。







論語の中で大切にしている言葉があります。

「人知らずしてうらみず、また君子ならずや」

人に認められようが認められまいが、そんなことを気にしてはいけない。君子というものは、そういうことにこだわらない人のことである。と解しています。

そうありたいと願っていますが。それが一番難しいところです。

宇賀神様への奉仕等もその通りです。

何百年ものあいだそこに在ったであろう「宇賀神様」と「宇賀神桜」です。

人知れずい誰かが手入れをしてきたものなのでしょう。

人が生きてくうえで特に大切にしたい陰徳の教えに通ずるものだと思っています。

今回、ご縁があり宇賀神様とその周辺整備に携わらせていただいたお陰で、橋本様、高屋敷宮司様はじめご縁をいただいた全ての方々に、改めて大切にしなければならないものを教えられ学ばせていただいています。


貴重な本をありがとうございます。









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田村大元神社 彫刻 伊東光運・伊東九賀之助 ご縁




先の塵壺355号に田村大元神社神門「随神門」の事を記載させていただきましたが、すっかり呑み込んでいたのと、再確認の不足で彫刻の作者の氏名をご記載してしまいました。

何度も表記・書いたりお話している名前です。
本来ならば、伊東光運と記すべき使命を→伊藤光雲と間違えてしまいました。
朝には、文字の誤記載の指摘のお電話もあり助かりました。
ありがとうございます。

気を付けたいと思います。







午後に、三春城下ボランティアガイドをされている桜ケ丘にお住いのS様から、問い合わせがありました。
S様はご近所ということもあり旧知の仲です。

お話を伺うと、自分の母方の先祖を調べていたら、今日の塵壺に出ている伊東光運の息子伊東九賀之助まで遡れたということでした。








平成11年晩夏に行われた「田村大元神社仁王像平成大修理」完成お披露目のパレードの折にお母様とその様子を見に行った際に「私のご先祖様が造った仁王様だよ!」と話されていたそうです。

電話を切った後、現在の田村大元神社社殿が明治32年に再建されますが、その時の寄付長を数冊(旧三春藩領内村分の内)をお預かりしています。





その中に旧文殊村の寄付受帖があった事を思い出し、中を開いて見てみると、石森の帳面に「伊東九賀之助」と名前が見えます。
記載の伊東九賀之助は、光運の孫(息子?)で父と一緒に大元帥明王社仁王様や仁王門の彫刻に携わった仏師です。

これも何かの御縁なのでしょうか?時空を越えた繋がりを感じます。






尚、この寄付受帖には趣意書と完成予想絵図面があります。

棟梁の名前(橋本強吉)は見えますが、彫刻師の記載はありません。

また、本殿・拝殿が記された絵図面の彫刻は現在の田村大元神社のそれとは違います。


伊東九賀之助が彫刻に携わったかは確認が取れていませんが・・・多額の寄付金を奉納されているようですので興味をそそられます。






仁王尊二躰及び仁王門ですが、大元神社は、寛文10年7月晦日に火災に見舞われ炎上消失してしまいます。
後に、本殿拝殿は再建され、仁王門は、幕末の慶応元年の竣工です。
その時に、仁王像二躰はこの門に安置されていました。





尚、塵壺記載の通り大元帥明王社として建造された仏教色の強い本殿、拝殿は上記の明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の影響により、明治二年に取り壊されます。

現在の社殿は大元神社として明治32年に再建されたものです。





この仁王様は、東大寺仁王尊二像の象徴されるような筋肉隆々で胸を反らし威を張るような姿ではなく、体のラインが全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢をとっています。

まるで参道上がってきた参拝者に、「悪いことはしてはいねがー!」と子供を”諭している”ようにも見えます。






三春藩主秋田氏の出身が青森、そして秋田の沿岸部となれば、「佞武多祭り」や「なまはげ」を想像したくなりますね。

また、仁王像の下絵は三春城下の絵師中村寛亭だとも伝えられている。











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