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戊辰の役と三春藩 戦火から城下を救った戦い! 橋元文書「春陽思ひ附阿津免草」参照




戊辰の役と三春藩 橋元文書「春陽思ひ附阿津免草」参照


嘉 永 六(1853)年ベリーの率 いる黒船来航以来、騒然たるなかで、三春藩においても武器・武具の製作やら参勤作法改正に伴なって、文久三(1863)年には、農民を対象に金1500両を献金きせ、さらに元治元(1864)年には、世情の不穂な動きに対して日光警衛を命ぜられために、金3500両を町方および在方より調達している。

幕府勢力進討の勅命をとりつけた薩摩、長州、土佐を中心とする西軍は、江戸城無血入城を果たしたのち、幕府の根を断つために、会津藩、庄内藩討伐へと奥州めがけて押し寄せてくる。

三春藩をはじめ東北諸藩は、朝延に対して恭願 の意を示したが、奥羽諸藩を動員して会津藩(元京都守護職・新選組を預かり)と庄内藩(元江戸新徴組頭取))を討てどの命令が出されるに及んで、その真意を疑い、私的な薩摩・長州の憎しみと解し、西軍の理不尽に対抗する動きに変わってくる。






会津藩や庄内藩のたび重なる謝罪や恭順 を認めず、しかも奥羽諸藩が本気で会津·庄内両藩を攻めなければ「奥州みな敵」という西軍の官軍権力をかさにきたやり方に対しては、諸藩も屈することはできないという態度になってきた。

そのため、 四月二十日に仙台藩主伊違慶邦、米沢藩主上杉斉憲の呼びかけに応じて、当該会津、庄内両藩を除く奥羽二十五藩すべての代表が白石城に参集し奥羽列藩同盟が結成される。

そこでは、西軍への協力を拒否することと、改めて会津、庄内の両藩を救済するということが決議される。

三春藩は藩主秋田映季(当時11歳)の名で奥羽列藩同盟は、「朝延に反旗をひるがえすのでなく、朝延を利用して私暴の挙に出ている薩摩や長州の非を追及する」というものの、目前に迫った西軍を迎え撃つ作戦計画も企てられた軍事同盟であった。





三春藩は、すでに一月十五日に家臣の湊宗左衛門 (江戸詰御近習目付)を京都に出頭させ、「奧羽征討援軍」(会津攻めに協力)についての沙汰書(指示命令書)を受けており、幼少の藩主を抱えながら、 西軍に味方すべきか東軍の義に尽すべきか、列藩同盟条約には「同舟海を渡るごとく信をもって義を働く」とか「私をはかりて利をいどなむなかれ」ともある)藩論は容易に定まらなかった。

しかし、「会津 には同情するが、西軍は錦の御旗を奉じているので朝敵にはなりたくない。いかにしたら御家安泰が可能か。」という方向で藩論が続一されていく。

このようにして、 東西いずれの陣営にも味方であると思わせなければならない行動が開始される。

政府軍が来る前に三春藩の真意がばれれば、裏切り者として列藩同盟の攻撃を受けつぶされてしまうのである。

三春藩は、手薄になっている棚倉城を守るため、家老秋田太郎左衛門が藩兵を率いて石川郡岩法寺村(現玉川村)に陣し、他の同盟諸藩とともに政府軍と戦う。

この時(22日)奉勅のことを知り三春藩は兵を引く。24日には棚倉落城。






棚倉出陣を問われ、京都にいる三春藩家老秋田広記らは、約定に反したということで疑われ禁足を命じられることになる。
しかし、もともとの出陣している三春組は藩内の細かな事情までわかるはずはないし、会津藩や奥羽同盟諸藩の手前もあり戦ったわけである。


この棚倉の戦いでこりたのか、(事情が変化している)七月十六日の浅川の戦いでは、機会が過ぎたころ参戦し形式だけの戦をしています。

これは、三春藩のみに在らず、奥羽同盟盟主の仙台藩しかりである。


しかし、三春藩は今度は列藩より反同盟の疑いをかけられる始末になる。

列藩同盟に署名した大浦帯刀が秋田伝内と改名したり、 同盟との連絡保が、重役から外事掛(新設)に交替したことも疑惑の目で見られていたのである。





白河城、棚倉城の次は三春城攻略へと主力を移動させてくる西軍の動きに対して、東軍は、二本松の防波堤である三春城を守るべく三春藩領へ他藩の者が続々集結していた。

七月二十三日朝には、平城を落したた(十三日) 西軍の一隊(主カは相馬めがけで北上)が、磐城街道より仁井町(小野)方面に侵入の情報が入り、三春藩主力部隊と応授に来ている会津藩約70人、仙台藩約50人、福島藩約60人をその方面に向けた。

国境の広瀬村では、三春藩家老秋田勘解由の三春組が守備を固めていたが、小競り合いを演じた程度で武器(使い物にならない旧式の火縄銃等)を捨て敗走している。

仁井町から三春へ向けての道案内は、仁井町と堀越村の神官二名が務めている。

八月三日には田村郡の神官を中心 に官軍の護衛隊を結成、先導、連絡、渉外、慰霊の任にあたる。
この者たちが明治の神仏分離・廃仏毀釈では、打ちこわしの煽動者となる。

ニ本松藩約50人は、ニ十六日早朝、三春兵が案内人として守山方面に向け出発させ、赤沼村に待機させている。
この機会を待っていたように、中通りの西軍が三春めがけて進攻してくる。






ニ十六日午前十時に「政府軍米たる」の非常を告げる早鐘・早太敷三つ重打ちが鳴り響いた。

三春藩はもともと恭願する事前工作ができているから、藩主後見役秋田主税をはじめ家老たちが柴原村や貝山村、鷹巣村へ出向いて恭願を願い出た。

棚倉以来、意の通じている西軍の断金隊隊長の美正貫一郎(土佐藩下級藩士)のはからいで恭願・無血開城が叶います。

太鼓の音で城下は大騒ぎになり、数日前から家財を運搬、妻子を在方に預けた者もあったが、町人は逃げて行く者が多くなり、家も家財を整理して婦女子を逃がしたという
ニ十六日の昼ごろには、政府軍の城下入りが始まった。

西軍の最初は中津川村を経由した一隊で、太敷や笛を鳴らして隊列を整えながら柴原道より三春へ入った。

その数は2000人ほどで弾薬や荷物がいっぱいあった。やがては、貝山や鷹巣道からも官軍は来訪、さらには守山筋からも三春城下に入ってくる。その総軍勢5~6000人、ほかに人足1〇〇〇人ほどであったという

ニ十七日には磐城口の軍勢6000人、ニ十八日に3000人というように続々と西軍が入ってくる。三春町村の人口は一挙に3倍半にふくれあがり、家中、町家をとわず分宿し、まるで市のようににぎやかだった。

戦火をまぬがれた町民は、夜中も休まず苦にしないで働き、互いの無事を喜び合い政府軍を歓待したという。

三春藩は無事「無血開城」を済ませたが、新たに政府軍征討戦争の全面協力という仕事が待ちかまえていた。

三十六日午後六時過ぎには、ニ本松攻めの先発隊400人ほどが出発し、ニ十七~ 八日には近村から微発した軍夫を動員、三春兵の道案内で本宮·二本松へと兵を繰り出した。






ニ十七日には、西軍参謀局軍監局より後見役秋田主、家老荒木国之助、小野寺舎人が呼び出されている。

そのどき、「御居城・御領地・兵器・人民・共に追って沙汰あるまで預かりおく」、「諸事是までの通り」はよいとしても、「役は勿論、万端さしつかえないように心得よ」と申し渡された。

主な賦役には、 「西軍の食料と馬の準備、軍夫の徴発」「西軍の諸藩の道先案內」「参謀局会計局の世話」(はじめ 御殿、後に総督が来たため春山新左衛門宅)、「大病院の賄」(西軍のために竜穩院に設置、病院内で死亡した者六6~7O名)などである。

会津攻撃に際しては「中山口へ兵隊五十人差し出す」ことや、「弾薬運送のための人馬」を命ぜられ、人足達は最前線で弾薬を背負い兵隊に付き添って戦場を駆けめぐったのである。

三春近辺はもとより領内全域から徴発された人足は、多少の分補り品を持ち帰ったものの、みな死に物狂いであり、実際死亡した者も十教名に及んでいる。

現福島県の主な町は戦火で焼かれたり、戦場と化して荒されたりした(白河、棚倉、植田、平、須賀川、本宮、郡山、二本松、浪江、福岛、若松など)。

三春町は、相馬中村などとどもに無傷で残った。

このことは、明治の新しい世を迎えても、政治経済文化の面で県内有数の都市として残り、にぎわいを見せるのであるが、旧体制が順壊されなかったということが近代化への道にも影響を及ぼすことになるのである。







上記の戊辰の役と三春藩 橋元文書「春陽思ひ附阿津免草」参照は、三春城下検断職(今の米国的な町長職) 回春堂橋元柳助が、慶応三年から明治十四年まで日記風に書き留めておいた橋元文書を参照して執筆しています。

薩長などの西軍を途中から官軍と表記しています。


この「思ひ・・」の中には、三春城下の商人が見聞きした幕末動乱の様子が克明に記載されていて、貴重な資料と共に江戸末期から明治への転換期を体験した三春人の息遣いが感じられます。

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「美正貫一郎建臣之碑」 三春町歴史民俗資料館・三春自由民権運動記念館




「美正貫一郎建臣之碑」 三春町歴史民俗資料館・三春自由民権運動記念館

土佐断金隊隊長 美正 貫一郎(みしょう かんいちろう)、美正建臣とも称す。
土佐藩士。土佐迅衝隊一番司令。

1868年(慶応4年)3月、甲州の旧武田家臣の子孫らが、同じ旧武田家臣の子孫である板垣退助の元へ与力すべく約150名が出頭し、土佐藩ではこれらにて遊撃隊を組織し、3月17日江戸に転じて後、この部隊(総勢約150人)を断金隊と名付けてその隊長に任ぜられた。

1868年(慶応4年)閏4月21日、日光の今市で合戦し、転じて北上する。

当時、三春藩は奥羽列藩同盟に加っていたが藩論は二分していましたが、三春藩の下級藩士である河野卯右衛門や、河野広中(信次郎)らは、密かに使者を仕立て官軍総督の板垣退助らと会いうべく奔走しますが、各武士であり河野らが藩の全権を委託されているとは思えず美正が窓口となり、三春藩の帰順を受諾していました。

貫一郎は、三春城の無血開城に尽力して、三春藩は、7月26日に奥羽越列藩同盟を離脱、これによって三春藩は帰順し、三春城下が戦火に晒されることも避けられて多くの人命・財産が救われました。





三春開城の後、三春藩首脳は、貫一郎の功を慕い滞留を求めたが、貫一郎はこれを固辞して二本松城攻略のため本宮市へ向かう。

1868年(慶応4年)7月27日、増水した阿武隈川を渡る際に、鉢巻を巻いた頭に日章旗を立て濁流に飛び込み、忠勇無比にして壮絶なる討死を遂げた。享年25。

三春藩では、戊辰線の戦火から城下を守った美正貫一郎の徳を讃えて「美正貫一郎頌徳碑」が三春城内に建てられ、さらにその功を偲び、美正神社が創建されたが、のち荒廃して取り壊され、代わりに、この1984年(昭和59年)12月、「美正貫一郎建臣之碑」が建立された。

また、毎年、春と秋の彼岸の期間中に、龍穏院小書院には土佐断金隊隊長「美正貫一朗」の掛け軸が掲げられます。


貫一郎の討死後は、尾崎彦四郎行正(尾崎行雄の父)が断金隊の隊長となりさらに転戦しました。







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田村郡郷土史




田村郡郷土史


刊行の辞

田村郡郷土史は、田村郡教育会が明治三十七年に刊行したものの再刊である。






内容は田村郡全域の沿革·史蹟名勝·地理·戸口·交通産業·人物·風俗等を詳述したもので、田村郡に関する唯一最高の郷土史として高い評価を得ている。


しかるに、本書は、刊行後七十年以上経過した現在、全く見ることのできない貴重書となっており、久しく復刊が熱望されていたものである。






歴史図書社 昭和五十二年八月発行








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佐久間庸軒旅日記 佐久間庸軒著 安政5年戊午 船引町教育員会編 平成2年7月発行




佐久間庸軒旅日記 佐久間庸軒著 安政5年戊午
船引町教育委員会編 平成2年7月発行

またまた面白い本が手元に届きました。

一昨年より、三春町つくり公社で「三春町内神社仏閣の算額巡り&和算遊び手習い」を開催していましたのでご存じの方も多いと思います。

佐久間庸軒は、江戸時代後期から明治時代にかけ活やくした最上流和算家で三春藩士。

文政2年(1819)田村郡石森町(田村市船引町石森)に生まれます。

本名を纉(つづき)といいます。

天保7年(1836)、18際で二本松藩の最上(さいじょう)流和算家渡辺治右衛門に入門。さらに、和算研鑽の旅を続け、嘉永7年(1854)に研究成果を「当用算法」や「算法起源集」など著書も多くあります。

佐久間派の開祖として三春藩藩校「明徳堂」で算学を教え、新政府の絵図編纂御用も勤めていました。

維新後には自宅で塾(庸軒塾)を開いて農民や町民に算術や算学測量を教えています。

その門弟は2000名を教えます。





 庸軒が活躍した時代、和算はブームとなり、全国各地で上層階級から庶民へと広がっていきました。

和算を志す数学者や数学愛好家は、難問を解くことに成功すると、神社や寺に算額を奉納するようになりました。

これは、問題が解けたことを神仏に感謝し、自分の業績を世に知らしめるためでもありました。

また、和算好きはそれらの算額を見て回り、難問に挑戦しては腕を磨き、時には他の和算者に向けて問題だけを書いた算額を奉納して、和算対決の様相を呈していたこともあったようです。

三春町内の神社仏閣には、難問を解いた算額、問題だけ載った算額などが奉納されています。







佐久間庸軒の数度にわたる旅日記は、遊歴の算術家として江戸末期の日本各地を旅して算学をひろめ、最上流和算を作り上げた時の修行旅日記です。

天保十三年(1842)の庸軒路程記1~6は参詣に重きを置き、安政五年(1858)の九州辺天草の旅の九州遍路1~6は算術修行に重きを置いているようです。

庸軒などの「遊歴の算家」は、全国を旅して回り、行く先々で数学者と問答を行っています。地方に高名な数学者が訪れたと聞けば、地元の算術好きが列をなして教えを請い、臨時の数学塾が開講されていたようです。

庸軒の九州遍路行では訪問した算術家は34名(内31名は印鑑を押捺)に上っています。


この時代、様々な学問を修練しようとすれば、師を求め師に会うこと以外自分の学問を向上させる方法がありませんでした。

これは算術と言わず、医学、経済学、建築土木、そして政治等々志あるものはすべて諸国を周遊し師を求めていました。

時には滞在先で自分が先生となり講義を行うなどもありました。


本書では三春を発ち、江戸・箱根・桑名・伊勢・京都・岡山・山陰津和野・博多・長崎・本渡・熊本・宮島・信州善光寺・日光経由三春という行程での算術修行です。
一部船旅もありますが、もちろん9割以上が徒歩の旅路です。

全国津々浦々を旅する遊歴算家の活躍によって、和算ブームは草の根の広がりを見せて日本の隅々まで高度な数学が広まっていき日本独自の数学・算術である和算文化を築き上げていきました。


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平成版今昔物語「三春領寺院(三春城下) 天保六未年調」

画像は三春町史より

三春領寺院(三春城下) 天保六未年調 〇印は現存寺院

1  〇龍穏院  曹洞宗 荒町
2  〇法蔵寺  時 宗  荒町 
3  〇高乾院  臨済宗 荒町
4   西福寺. 真言宗  
5  〇真照寺  真言宗  新町
6   若王寺  真言宗
7   宝来寺  山伏大光
8   千住寺  時 宗
9   泰平寺  真言宗
10  文珠院  真言宗
11 〇福聚寺  臨済宗  後免町
12  明王院  天台宗
13 〇天沢寺  曹洞宗  清水
14  幸照寺  真言宗
15  陽照寺  真言宗
16   成就院  真言宗
17  清水寺  天台宗
18  大光寺  山伏修験宗
19 〇州伝寺   曹洞宗  新町
20  普明院  先達
21  磐若寺  真言宗
22 〇紫雲寺  浄土宗  大町
23  宝憧寺  天台宗
24  常楽院  先達
25 〇光岩寺  浄土宗
26  智宝院  山伏修験宗
27  和光院  先達
28  玉宝院  先達
29  大聖院   先達
30  来光院  先達
31 〇法華寺  日蓮宗  八幡町
32 〇光善寺  浄土真宗  荒町
33  万福寺  真言宗
34  吉祥院  先達
35  大桂寺  曹洞宗
36 〇花正院 天台宗寺門 荒町

以上、法院三十六ヶ寺

一寺領
龍穏院五十石
真照寺 六十石十三両
高乾院 六十石
宝来寺五十石


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影山常次著「田村小史」 序文



影山常次著「田村小史」

旧中妻村神山文書をもとにして書かれた「田村小史」

三春地方の閉塞された歴史に風穴を開けて、敗者の視点から見た地元の歴史「三春地方の郷土史」に光を当てた影山常次さんの功績に敬意を表しその序文を原文のまま掲載たします。


序文

「知る」と云う事は「愛する」の始めであって、親愛なる交情も、尊敬しも、歓喜の念もあらゆる美徳も真に「知る」と云うことから生れて来ます。

美るわしい伝統に栄える、吾が大和民族の郷土の山川風土、この1木1草、我々の日常眼に触るこの石、この文字、何れも吾が祖先の貴き遺物であり、その裡に私共と血を同じくする先人の生活、思想文化が生きて居るのであります。

新しき世界に向って真現の探求に精進する智的努力は瞬時も忽せにしてはなりません。
而して古きを探ねて新しきを知るの用意を忘れて、その智的探求が大地を忘れ中空に浮動する生半可な物知りとなることを戒めたいと思います。

常に郷土を知らぬ人は不幸で恥しいことだと存じます。仮令自分の郷土でなくとも縁あってその土地に住む人、その土地を一層探求して知ることがその土地を愛することで、相親しむ基となり、我国のあらゆる土地を通して吾々は人生の悦びを知ることが出来るのでしょう。

楽しんで研究し、研究して楽しむことが出来ながらも日本民族としての歓喜と衿持とを、知らず知らずに培われ、郷土研究ほど意義深いものはありません。
村の部落に埋れた1個の碑石から無名の義人を見い出し、或は篤農の偉人を発見する、峠の茶屋の老媼から孝子節婦の話を聞くことが出来、1枚の古瓦から千年以前の我が祖先が建設した飛鳥朝の文化を偲ぶ事が出来るのであります。





郷土研究に志す人々亦た今日までの研究を空しくすることなく、特に若い学徒も青年も謙遜な態度と鋭い学問的良しを持て郷土資料を蒐集して、これに学問的な系統を与えて体系化し、明日への偉大な文化建設に先んじ、その足元から実行努力を望みたいと願う。

私はこの意味を深くして郷土観に微力を寄せてまいりました。
熱情の材料を綴り、粗雑ながらも“たわむれ”の小史として実を結ばしたくこの挙に出ました。

この小史には総て町村毎の詳かを期すことが出来ませんので遺憾の数々があります。
故に次回「ぞく編」町村伝説風土誌を稿録して町村毎の文化、芸術、信仰、人材、産業等を詳細に致すことを約したいと存じます。

本史の出版に際し、先輩各位のご援助とご指導に深甚な謝意を表します。

昭和三十三年(一九五八)八月

作者識 影山常次


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平成版今昔物語「三春藩領内制禁 元禄十一年御触書」




三春藩領内制禁

三春藩も、公儀御触に関連して、領民の生活と風儀にかかわる制禁がたびたび出されていました。

元禄十一 (1698)年十一月には全般にわたる領内制禁が出されており、三春町史には、主な項目の内容は次のように記してあります。

一、火の用心随分念入のこと。

一、百姓共男女衣類は布、木綿を着し、半襟、袖口、腰带、下着に至るまで絹類を着すべからず。

一、櫛こうがいべっ甲無用、蒔絵あり不相応のもの堅く無用のこと。

一、木綿合羽·傘,雪駄.足駄無用のこと。但し、在給人,庄屋.御目見申上候者.庄屋の惣領は格別のこと。

一、婚礼の料理は1汁:二菜に過ぐべからず、酒三ぺん取り、肴二種たるべく候。
平日拠なき用事にて一類共寄合の節は一汁一菜たるべきこと。

一、葬礼の節野送りの道具木綿の類無用。石塔へ箔等を入れる儀無用。

一、百姓家作石据えの普請無用のこと。

一、百姓共城下へ罷り出候節、諸奉公人へ不礼なきよう仕るべきこと。

一、御用にて諸役人在郷へ罷り出候節、賄上下共に一汁一菜たるべし。有合せに任せ魚鳥の類に限らず少々の物たり共買調えの儀堅く無用、酒出し申すまじく候。

一、寺院、社家、修験方にて祭礼、日待·年始等に限らず、御一家の者への振舞も軽く仕り、過、酒なきよう仕るべく候。

一、前々定の通り博奕の儀は急度相慎み、軽き諸勝負事たり共致すまじく候。

一、浄瑠璃語りの類、或は商人と号し内々遊芸の者、一宿は格別一日たり共滞留仕りまじきこと。

一、酒出店棒手振等は格別、村々にて揚酒無用のこと。







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