2025-06-26 Thu
「お陰参り」伊勢の神宮さんへ塵壺発刊の御礼詣と秋田城介安倍實季入道さまに報告御礼
「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」発刊の御礼の意を込めて、伊勢の神宮さんと朝熊永松寺安東實季公墓所に「御礼参り」に行ってきました。
かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。
今回は、「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」発刊の御礼ということで外宮さんに於いて神威感謝の御神楽御祈祷を受けました。
御祈祷の祝詞の中でお一人お一人の住所と名前が呼ばれ、自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと “ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、畏敬の念に駆られます。
山神さまへの御礼参拝もしっかりとしてきました。
参詣後は、お祓い町にて直会です。
伊勢の美味しい食べ物やお酒を堪能しました。
おかげ横丁の蕎麦やうどんの店ですが、蕎麦も二八の本格派です。
店長に曰く、社長(赤福)から本物をするようにとの指示が徹底しているそうです。
そして、宿泊は神宮会館です。
そして翌朝は早朝参拝。
偶然にも毎回お世話になる、早朝参拝が始まった平成10年より案内をしている元支配人の井田さんにも塵壺の謹呈させていただきました
井田さんからは伊勢の神宮さんを通じて人生のあり方などをご教示いただいています
さすがに、神宮さんの塵壺の奉納をできませんが、現代の御師である井田さんに謹呈したしだいです。
伊勢神宮参拝に先立って、まずは・・・
お伊勢さんへお参りと云ったら三春人には外せない場所があります
秋田安東実資公の墓所永松寺さんにて方丈様にご挨拶をして墓参。
高乾院殿前侍従秋田城之介安倍實季入道殿、墓参に参上しました!
神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)にある三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所がある「石城山永松寺」へ参拝です。
實季公は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。
その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-01-10 Fri
2025.正月 「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参
還暦のこの一年を、無病息災に過ごせたという御礼の意を込めて、伊勢の神宮へ初詣「御礼参り」に愛妻を伴って初詣に行ってきました。
かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。
今回は石破茂総理大臣の伊勢路宮参拝と同じ日程でしたので、警備の関係からの各種制限を考慮して、ご祈祷は内宮さんに於いて御神楽御祈祷を受けました。
御祈祷の祝詞の中でお一人お一人の住所と名前が呼ばれ、自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。
参詣が少しずれれば規制が入りこの状況でした。
外宮さんにも詣でます。
参詣後は、お祓い町にて妻と直会です。
伊勢の美味しい食べ物やお酒を堪能しました。
そして、外せないのが参道脇にひっそりと佇む「焼きかき」の屋台
震災前ですからもう十年以上前から神宮参拝の折には寄らせていただいています。
「毎度どうも~、三春から遠路遥々ご苦労さんです」と声をかけられる常連?となりました。
伊勢志摩名物の生きた牡蠣やサザエ、巨大あさり、イカなどを水槽から取り出して目の前で捌いて供してくれます。
コレがまた絶品😋
どうにもこの雰囲気が好きで有名寺社仏閣の付近では必ず探してみます。
そして、宿泊は神宮会館です。
夫婦水入らずの直会です。
そして翌朝は早朝参拝
毎回、それぞれの担当者の観点からのお話で、それぞれのアプローチが面白く毎回勉強になります
伊勢神宮参拝に先立って、まずは・・・
お伊勢さんへお参りと云ったら三春人には外せない場所があります
神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)にある三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所がある「石城山永松寺」へ参拝です。
實季公は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。
その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。
「我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓
尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の落慶は令6年の予定です。
翌日は、先の中田町郷土歴史研究会の歴史講の際に、中田町下枝鎮守「菅布禰神社」の由来書にあった同社の御祭神「猿田彦命」の総本社鈴鹿の椿大神社へご挨拶を兼ねて参りました。
椿大神社は、経営の神様松下幸之助さんも信仰した“お導きの神様”です。
広大な境内には松下幸之助氏が寄贈した茶室もあり、夫婦でお茶をいただいてきました。
また、夫婦円満の神様としても信仰があり結婚式場ができる宿泊所「椿会館」もあります。
今回は、京都と嵐山に二日目の宿をとりました。
三春藩主菩提寺高乾院前住職、一周忌を迎える義兄の故岡祖伸和尚への遺徳を忍んで、和尚の修行された天龍寺僧堂への参拝です。
僧堂での座禅はかないませんでしたが、祖伸和尚を忍んで庭園を見ながら、しばし坐ってみました。
また、天龍寺は、南朝の初代天皇である後醍醐天皇を弔うために建立された禅寺です。
御春輩が後に加勢した南朝方北畠顕信や守永親王とのご縁もあります。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2023-05-12 Fri
GW明けの定休日を利用して、伊勢朝熊の永松寺へ、二百年ぶりの本堂再建浄財を布施させていただくべく、妻を伴って伊勢へ水入らずの夫婦旅行です。
方丈さまに庫裏に仮安置した安倍実季公とそのご家族のお位牌にお拝。
安倍入道秋田城ノ介殿のお墓参りを済ませ、方丈さんと記念写真❗️
墓所の周りの杉木立がきれいに伐採されていました。
神宮さんの山々が見えています。
付き人 交野五郎佐衛門奉納の天和元年(徳川綱吉御代1681年)の灯篭があります。
尚、交野氏に伝わる言い伝えでは、三春交野氏の祖は石田三成の御落胤で関ケ原の合戦の折に秋田実季が三成よりその子供を託され生育したと伝わっています。
落慶が楽しみです。
そしてここは伊勢ですので春陽三春藩の家中藩士に倣い、神宮さんに参拝です。
神宮会館に宿泊して神宮早朝参拝。
翌日は「大人の修学旅行」と洒落込み奈良観光です。
法隆寺、薬師寺、そして、東大寺〜 東大寺さんの大仏は圧巻です。


事前に小野保赤沼金屋衆の大仏建立のレクチャーを受けていましたので、大仏さん慈愛溢れるそのお姿を拝観するだけで涙が溢れ時の経つのを忘れてしまいます。



宿泊も春日大社さんの寺領若草山の麓、奈良公園の中にある旅館「むさし野」さん。

鹿がウヨウヨいて「コレぞザ奈良❗️」奈良風情を満喫できます。

夕方の大仏拝観、そして、早朝に春日山大社参詣には絶好のロケーションです。
二月堂

そして、翌日は、家内のたっての希望で琵琶湖湖畔にある15代目楽家当主が設計に関わった者側美術館です。

窯元が自分の作品をより良く見せるために作られた美術館、そして茶室、まさにトータルで現代の茶の湯の世界を思う存分堪能できました。


ちょうどロビーでモデルさんの撮影撮影をしているところに遭遇しました
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あまりの美しさに見とれ、無理を言って、その撮影風景を写真に撮らせていただきました

15代楽直人氏の作品と美術館、そして撮影会思いっきり日を堪能させて頂きました

また滋賀に来たらやはり近江八幡の八幡堀は外せません。
鬼平犯科帳の、そして、雲霧仁左衛門のあのロケ地です。

鬼平気分でパチリ!
最後の最後に、安土城、東近江の友人が小学校の頃に遠足で登ると言う安土城まだまだ整備をされていませんが、織田信長に思いを馳せることができました

今回も様々な出会いがあり、日本を満喫できたそんな小さな旅でした。

やはり、当店の女将であり子供たちの母である家内への感謝のたびです。
大事な人が喜んでくれる旅というのは何をやってもどこに行っても楽しいもので、料理もことさら美味しく感じます。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2023-02-22 Wed
「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参 塵壺380号 令和5年2月発行
今年、還暦を迎えるので“一生に一度は「御伊勢詣り」”と云われる伊勢の神宮へ妻を伴って初詣に行ってきました。
かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。
また、外宮・内宮両社に於いて御神楽御祈祷を受けますと、御祈祷の祝詞でお一人お一人の住所と名前が呼ばれます。
自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。
神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)という集落に三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所があることをご存じでしたか?
禅寺「石城山永松寺」という古刹の宇内(境内)にある實季公の墓所は時が止まったかのようにひっそりと佇んでいます。
この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の姉)”です。
即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。
三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。
天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後し
て蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。
同年の「九戸政実の乱」の鎮圧や慶長20年(文禄元年)からの太閤朝鮮派兵、そして伏見城の築城などに従事、「関ヶ原合戦」では、徳川家康より「慶長出羽合戦」に於いて上杉、佐竹(西軍)に与したとの嫌疑をかけられ、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石への転封を命ぜられ常陸宍戸藩初代藩主となりますが水軍を取り上げられ「安東水軍」は終焉を迎えます。
後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。
本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。
幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。
千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。
實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。
幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。
]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。
「
我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓
尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の再建工事が令和5年2月26日より始まります。
蒼龍謹白 さすねけぇぞい三春! 拝
以下、三春秋田氏から永松院へ役領を寄進した際の受領書
右として
高乾院殿前拾遺空巖梁空大居士の墓所の掃除料) 謹んで永松庵の下に寄付し終えた。
そもそも、寛永年中秋田城介安倍実季が、常州(常陸) 宍戸から勢州(伊勢)に赴かれるときに、愚臣交野重兵衛常信、早川又兵衛氏職らが駕籠に付き従って、朝熊の郷に住んだ。
家務を統括し、侍として、しもべとして奉仕すること三十年たったことだが、ついに万治巳亥の年(万治二年/一六五九)に易簀(他界)となった。その後、奥州三春城主 (秋田) 安房守盛季がその功績に感じ、俸禄を賜り、子孫も連綿とつながり今も絶えていない。
しかし、実季の遺徳である愚子孫らは、雨にも風にも志は馳せるといえど、百里の外の海が阻むところ、山が阻むところにて、古い墓所の塵や芥を掃うことができず、徒に時が移ること数十年、今に至った。
宝永戊子の年(宝永五年/一七〇八)、五十回忌をここに迎え、孝心のある曾孫(秋田) 信濃守輝季が孝養として田地を永代茶ノ湯料としてなぞらえて寄進した。
【不俊(不肖の私)たちまたはその後付き従った者の僅かの畑地は永松庵の落芥を掃くに要するものである。】
宝永六年三月
(日向訳)
伊勢度会郡朝熊村
石城山永松庵
中巌座元
※ 渡邊日向 訳
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2022-05-13 Fri
令和4年「お陰参り」 伊勢神宮参拝と秋田城之介安倍實季入道墓参の旅
江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記「御代参日誌」
三春から江戸、箱根、富士山、桑名、伊勢神宮、北野天満宮、熱田神宮、そして鎌倉鶴岡八幡など、行く先々でのエピソードや当時の風俗をユーモラスに描き、今にも書物から飛び出しそうです。
伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松寺にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・秋田城之介安倍實季入道公墓所にも参っています。
私も春商戦の三連休となりますので、コロナ禍の中ではありますが感染対策を十分とって伊勢参りと安倍實季公の墓参にでかけました。
「世界平和・疫病退散祈願・家内安全・商売繁盛」を祈願したく、外宮、そして内宮さんに於いて御祈祷を受け参拝してまいりました
祭神の豊受大御神は約1,500年前、天照大御神の食事を司るために招かれた食と産業の神様です。
御祈祷の祝詞の中で代表の方々お一人お一人の住所と名前が呼ばれます。
自分の番になり福島県田村郡三春町新町にて三春昭進堂を営む髙橋龍一〜 と呼ばれますと畏敬の念に駆られます。
やはり日本人でよかったなぁと思う瞬間です。
宿泊は外宮さん近くの定宿「紅葉軒」
名物女将さんと記念写真!
お土産までいただきまして、ありがとうございます。
内宮参詣
俗界と聖界との懸け橋といわれる宇治橋を渡り、五十鈴川で手を洗い清めます。
そして、御正殿、風日祈宮さま、荒祭宮さまへ!
日本人の総氏神である天照大御神がお祀りされています。
御神楽御祈祷を受けて身が引き締まりました。
丁度この日は、裏千家献茶式が大神楽殿で行われていたので、御神楽殿での御祈祷となりました。
直会です。
清々しい気持ちで一献!
伊勢神宮内宮参道 門前町“おはらい町”
宇治橋から五十鈴川に沿って続くおよそ800mの美しい石畳の通りには、お伊勢さん特有の切妻・入母屋・妻入り様式の町並みが軒を連ねます。
この通りには、伊勢名物赤福餅で有名な赤福さんの本店、榊原物産店さんはじめ、たくさんの土産物店や飲食店などの商家が建ち並び、参拝後の町歩きがたのしめます。
江戸時代には、伊勢参宮を「お蔭参り」と呼んでいました。
語源を辿りますと、江戸時代伊勢神宮に参拝する間、ことに20年に一度の遷宮のとき、人は身分制度に縛られないという考えがあり、奉公人が主人に無断で伊勢参りをしても咎められることはなかったとされています。
しかし、雇い主に無断で出るわけですから、満足な旅費などあるはずもありません。
それでも、伊勢へ通じる街道筋の裕福な人たちがお金や食物を提供してくれる「お蔭」で、困ることはなかったとされています。
“おかげでお伊勢さんに参詣することが出来た” そこから「お蔭詣り」という語源が出来たとされています。
榊原物産店は伊勢神宮内宮への宇治橋に近い場所にあります。
ご存知の方も多いと思いますが、以前、女将さんにその話を伺ったことがあります。
「伊勢参りには、来るだけでお金がかかります。これは今も昔も変わりません。私たちお伊勢さんの門前で参拝の方々に商いをさせてもらっています。ここで利益を多く載せて商売をしていては罰が当たります。お伊勢さんに支えられている商人は昔からみなそうして商売を続けてまいりました。」
”一生に一度は御伊勢詣り”と云われる、伊勢神宮です。
心の芯から浄化されるような気がいたします。
お蔭様詣りと云われますが、こうして参拝できるのも、家族、お客様、そしてご縁のある皆々様のお蔭と、心より御礼を申し上げたくなるような神様です。
かつて、司馬遼太郎氏は”お伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益がるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称されていましたが、まさにその思いをこの静寂が訪れ誰も居ない内宮さんで共有することができます。
この神域の滞在中、神威とも云うべき「風」が音を立てて体内を通り抜けていく感覚があります。
そして、凛と張りつめた気が浸透していくかのような感じが肌に伝わってきます。
一歩一歩歩みを進めるたびに地面からビリビリといった具合に足元からパワーが伝わってまいります。
これがお伊勢さんの神威なんでしょう。
ありがとうございます。
三春から伊勢まで約700キロ、遠い道のりではありますが、来て良かった!
丁度この日は、11日。御神馬の参勤の日です。
出発前に高屋敷稲荷神社の鈴木宮司様より、1の付く日には御神馬様の参勤が朝あるので拝見して御利益を頂いたら・・とのレクチャーを居受けていました。
午前8時、早朝内宮さん参道に御神馬のお出ましです。
約五十人の方々のその光景を一目拝見し御利益を頂こうと参集していました。
私も臨場することが出来ました。
秋田実季公墓所 伊勢朝熊永松寺へ墓参。
秋田城之介・安倍姓安東入道実季公墓所
永松寺、伊勢神宮より少し外れた伊勢朝熊山の麓にある臨済宗南禅寺派の禅寺。
山門脇の階段を上った小高い丘に実季公の墓所はあります。
戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道
江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季(あきたさねすえ)はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。
長男の初代三春藩主秋田俊季との不和に加え、従来からの檜山系と湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとも考えられています。
寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされ、万治2年(1660年)、同地にて死去。
享年85
実季には、正室円光院と側室との間に、6人の男子と3人の女子をもうけていますが、朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。
片山というのは姓であり、出身や俗名は明らかにはなっていませんが、後年落飾した後は法名を「穹静院」と号しています。
お千世方は、実季公の第二子であると思われます。
千世姫は、実季が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘であり、片山氏は実季に最も尽くし、そして、最も愛された側室であった事だろうと想像がつきます。
しかし、そんな平穏な暮らしの中、寛永14年(1637)3月、愛娘の千世姫が、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。
片山は、不遇の中、異郷の地で娘を亡くしたことを憐れんで、落飾し“穹静院”と号して、夫である実季と共に、亡き愛娘の菩提を弔いながら余生を送ります。
そして、片山氏本人も、承応元年(1652)12月、夫である実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。
永松寺住職様には、墓所まで足をお運びいただきありがとうございます。
また、本堂にご案内いただき、實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌に手を合わせることが出来ました。
重ねて御礼を申し上げます。
秋田教方萬金丹
伊勢神宮参拝のお土産として名高い「秋田教方萬金丹」
萬金丹は、江戸時代、旅の道中に常備する万能薬とされていましたが、主に胃腸の不調を改善するもので、その効能は、食欲不振、消化不良、胃弱、飲みすぎ、食べすぎ、胸やけ、胃もたれ、はきけ(胃のむかつき、二日酔い、悪酔、悪心)などとなっており、又、配合されている生薬には、下痢、腹痛にも効果があり、その用途は幅広いものでした。
この処方の起こりは奥州三春城主の祖、生駒安倍・安東ノ姓秋田城之介・秋田実季によると伝えられている。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記::伊勢神宮参詣 朝熊永松寺 |
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