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船引城址麓 お肴処“割烹御代田” 船引名代庄屋・割頭御代田氏



 船引城址麓  和食 お肴処「みよた」


江戸時代、船引名代庄屋・割頭を務めた御代田氏。

江戸末期の享保16年に、藩命により三春在蛇澤より、分家を残し船引庄屋となります。





その始祖を辿れば、戦国時代の三春城主田村氏の御一門上座になる御代田城主(現郡山市田村町御代田)御代田大和までさかのぼります。

田村家内紛の折には伊達派に付き、田村家改易後には分家して仙台伊達藩に仕官します。




尚、菩提寺は三春城下荒町の法蔵寺です。

お肴処“割烹御代田”は、船引城祉麓の北町通りにあり、江戸時代から続く船引名代の庄屋邸宅跡の庭園を眺めながら、四季折々の旬の味覚を盛り込んだ日本料理をご多能ください。 





特製御代田弁当、そして国産うなぎが名物となっています。

各種ご宴会、接待、法事慶事等、承っています。






尚、庭園の管理は真照寺と同じ磐梯造園の匠の技です!
この時期の庭園樹木の雪吊りは見事です。




 0247-82-0034 船引城祉麓 田村市船引町北町通45


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 15:46 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
「柳橋歌舞伎」平成28年



「柳橋歌舞伎」平成28年度定期公演

本日(平成28年9月18日)、柳橋歌舞伎伝承館(黒石荘)に於いて開催された、「柳橋歌舞伎」平成28年度定期公演に行ってきました。

あいにくの雨でしたが、会場を黒石荘の室内に移しての歌舞伎上演です。






本来ならば、ご覧の客席が舞台となり、広場に畳や茣蓙を引いて客席となり、観劇していました。

当三春昭進堂初代の“おたりさん”からすると、長男の嫁となる私の祖母の実家(長岡氏)が柳橋にあり、そこの当主も歌舞伎に出演しています。

そういってご縁があり、今回案内をいただいていたので顔を出しに行ってきました。





普段なら、秋彼岸と重なり、繁忙期ということでとても行ける状態ではありませんが、今年は雨、そして彼岸の入りの前ということでなんとか時間を調整して臨場することが出来ました。

初めての柳橋歌舞伎です。





受付で差し入れの饅頭と御祝を納め、早速会場に入り観劇です。

雨の中にも関わらず、会場を埋め尽くす、入りきれないお客さんが来場され、丁度中学生の歌舞伎上演の真っ最中で、白熱した演技で、会場内は熱気に包まれていました。

また、会場内には売店が多数出展されていて、大盛り上がりです。




観光協会の資料によると、

柳橋歌舞伎は、柳橋は江戸時代、天領(徳川幕府が、直轄領地として直接支配していた地域)であったために芸能が自由に行われ、菅布禰神社の祭りに村人が芝居や歌などを楽しんでいたことが歌舞伎の始まりになったといわれています。


柳橋歌舞伎の特長は、舞台のセットから台本まですべて柳橋の農民の手で作られたものであること。

また、江戸の歌舞伎と同じく男性のみで演じられることです。 

明治時代、興行の取り締まりや規制が多くなり一時中断しましたが、昭和55年柳橋地区全戸で「柳橋歌舞伎保存会」結成して、の支援を得て復活しています。
現在では、演じる演目は「一ノ谷嫩軍記」など15を数えます。

この秋彼岸の前。

稲刈りの少し前になりますが、この時期に秋の収穫を願って、柳橋の村人が、見様見真似で芝居や歌を楽しんだと伝えられています。






平成の世になっても、目の前で繰り広げられているのかと思っただけで、是には、正直、感動しました!

かつて天領だった柳橋村の生活手ベルの高さがうかがえます。





演目
1 復興支援交流事業 ひょっとこ踊り(富岡町平沢仮設住宅住民等)
2 白波五人男 稲瀬川勢揃いの場 (御舘中学校生徒)
3 義経千本櫻 伏見稲荷鳥居の場 (御舘中学校生徒)
4 一ノ谷嫩軍記 須磨浦組内の場 (柳橋歌舞伎保存会)
5 一ノ谷嫩軍記 熊谷陣屋の場  (柳橋歌舞伎保存会)





柳橋歌舞伎保存会会長 古川嘉徳

柳橋町内会長 宗像興一

主催 柳橋歌舞伎保存会
後援 柳橋町内会 
問い合わせ 024-973-2323事務局宗像





尚、御舘小学校や御舘中学校生とも出演し伝統文化の継承に力をいれています。


御舘小・中学校は、平成18年から文部科学省伝統文化補助事業実践モデル校に指定され、御舘小・中では連携して柳橋歌舞伎の授業を行っています。

来月の10月24日の御舘中学校文化祭でも柳橋歌舞伎が上演されます。


この日も、会場内には、子どもたちから年配者までが、柳橋のほとんどの方々が来場され、一般公開当日の”柳橋の文化祭”的な雰囲気の中で、歴史ある伝統芸能を楽しんでいました。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 17:56 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語345番「荒城の月」


月明かりに浮かぶ旧三春城

その姿から「舞鶴城」とも呼ばれていました。

三春城下をゆっくりと散策してみる。
お城山、桜川、菩提寺、鎮守の森、八幡様、セリ場 ・・・。
静かでゆったりとした時が流れています。
この里は博物館的に建物を保存しているのでなく、人が住んでいて、現実の生活が営まれているのである。
会話、洗濯物、農機具、季節の花が咲く庭、熟れた柿 ・・・ 。
ときどき時雨れてくる濡れた道を歩いていると、傍らから流れてくる生活の息遣い。



お寺さんのある辻から、ひょいっと懐かしい顔に会えそうな気がする。
その地域、その共同体社会での営みの歴史、それが、それぞれの人々の営みの中に秘められています。
地域の営みの歴史の中に、そこに生きてきた先人の汗と苦闘の末築き上げた郷土の歴史・文化・伝統があります。
そこには、そこで生かされたという感謝の心が郷土を愛し、今日まで伝えた人々の無言の祈りとなって窺えます。




| ryuichi | 06:25 | comments (0) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語690番「福島縣護國神社」
福島氏の中心部、春のお花見で賑わう信夫山の中腹に「福島護国神社」はあります。
 神社の由来書によると、「明治12年10月4日、相馬・三春・若松の三カ所にあった招魂場の御霊を合祀し招魂社として創建された」とあります。
創建当時は「信夫山招魂社」で後に「福島招魂社」、昭和14年に「福島縣護國神社」と改称されましたが、戦後GHQの占領下に置かれ存亡の危機に陥ったため、伊勢神宮の天照皇御神をお祀りして「大霊神社」と改称。
昭和27年9月に再び「福島縣護國神社」と復称して現在にいたります。
 現在の社殿は昭和12年に造営され、戊辰の役からから大東亜戦に至るまで、国家平安の為の御英霊6万9千柱をお祭りしているそうです。






| ryuichi | 22:26 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語679番「東堂山満福寺昭和羅漢」


坂上田村麻呂の東征の折、副将軍としてこの地にきた小野永見
この小野永見の子は、815年(弘仁6年)に陸奥守に任ぜられた小野岑守であり、その子小野篁は小野小町の父である。



平安の頃、小野篁(おののたかむら)が陸奥守として田村市滝根町の一部を含めて「小野六郷」と総称したのが「小野」の発祥といわれています。
小野篁(802年~852年)は平安時代初期の学者、歌人、官吏で「令義解」の選者として有名で、小野道風や小野小町の祖父になる人です。



小野篁の冥土通いと云えば、京都の「六道の辻」にある六道珍皇寺。
この地は六道世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の入口とされ、参議・小野篁が夜毎に珍皇寺の井戸から冥土に通い、閻魔大王に仕えて庶務の仕事を処理し夜明けに戻って朝廷に出勤した・・・という伝説も生まれています。



戦国時代三春城主田村義顕公は、三春入城後、嫡子隆顕を三春におき、さらに本拠の守りを固めるため次男憲顕を船引城主に、そして三男の顕基(梅雪)を小野城主に封じたとされ、この頃小野の保に触手を伸ばし、掌握しつつあったと思われる。



東堂山の中腹には、大同2年(807年)に奈良の高僧徳一大師によって開山されたといわれる満福寺があります。
古くから家畜繁盛・守護のご利益があるとして広く信仰を集めてきました



天然記念物に指定されている杉並木の表参道を抜けると、巨大な自然石の上に建つ鐘楼にたどり着きます。
巨石の上に建立された万延2年(1861年)建立の鐘楼は、近世木造建築の粋を集めた見事なものです



 羅漢の奉納は昭和60年から始まり、喜怒哀楽を表したもの趣味を楽しむ姿など、宗教観にとらわれず豊かな表情とユニークな姿は微笑ましくも感じます。





| ryuichi | 06:43 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語673番「鬼生田鎮守見渡神社」

鬼生田の廣度寺の門前にある見渡神社です。



寛文十年の勧請とされています。
旧神号三渡大権現としていました。
境外末社として、熊野神社・見渡神社・愛宕神社・諏訪神社・菅原神社・八幡神社があります。



氏神社(うじがみしゃ)は、産土神社(うぶすなじんじゃ)、鎮守社(ちんじゅしゃ)ともいい、各地区の氏子の人たちが、昔からその地区で代々受け継いできた御社殿をお守りし、地区や氏子の安全守護を祈願し、各祭典を奉仕してきています。
氏神社は、神様をお祀りしている単なる宗教施設というだけではなく、その地区の生活の中心として、又地区の文化、伝統の継承、日本の心、霊魂の継承としての大きな役割を負っております。



| ryuichi | 05:06 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語674番「初午大祭・舞木白岩高屋敷稲荷神社」


「初午」稲荷神社の祭日

旧暦二月の最初の午の日を「初午」といい、お稲荷様のお祭りで、五穀豊穣や商売繁盛、子孫繁栄など、あやゆる祈願の対象となっています。

今年は、3月16日です。
稲荷神の信仰は、農耕を司る倉稲魂神(宇迦之御霊神)を祀って五穀豊穣や福徳を祈願するものですが、キツネを稲荷神の使いとして油揚げを供えたり、初午団子などを作る風習もあります。



初午の日は、三春の各所にある屋敷稲荷さんには、「初午祭」として五色の色鮮やかな旗が風に靡いています。
このお稲荷さんは、人々に近い神様と云われています。商売繁盛・五穀豊穣・家内安全・無病息災祈願、所願成就の神様であり、お稲荷神の神使は狐といわれ、油揚げや赤飯などをお供えします稲荷の名は「稲生り」から来たという説もあり、食物の神、農耕の神とされ、祭神は宇迦之御魂の神で、五穀をつかさどる農業神でした。




農村では、初午の儀礼は春の耕作の初めに田の神を山から里にお迎えするという意味もありました。
江戸時代には田沿意次が邸内に稲荷を祭って出世したところから、町民に稲荷が開運の神として非常に盛んに信仰され、町々の小網や屋敷神には、圧倒的に多く稲荷が祭られていました。



舞木の白岩高屋敷稲荷神社


三春の中でも、旧暦の初午の日に「初午祭」が挙行される、高屋敷(白岩)にある高屋敷稲荷神社は、舞木の稲荷様として親しまれています。
参道の約150本の朱塗りの鳥居で有名ですが、戦前までは四千本の鳥居がありました。
これは商売繁盛の神様として昔も今も変わりなく商人は、商売繁盛を祈願しその成功と折りには祈願成就御礼として、朱塗りの鳥居を建立するといわれます。

高屋敷稲荷神社「初午祭」
 三月十五日(火) 午後六時 宵宮祭
 三月十六日(水) 午前十時 初午大祭祭典
    諸祈願祈祷
    :午前八時半より
    :祭典終了後は、午前十一時より随時祈祷 

 高屋敷稲荷神社の案内には「初午の日にお参りすると福が授かるということから「福参り」とも云われています」とあります。
皆様も「福参り」をして商売繁盛・家内安全を御祈願してはいかがですか。



また農業を営む人は五穀豊穣の御礼としてやはり朱塗りの鳥居を奉納したといいます。
日本全国はもとより、三春の地より、遠く海外へ移民した人々の成功御礼の建立があり、朝鮮・ハワイ・ブラジル・満州などからの建立がありました。
高屋敷稲荷神社「初午祭」では、午前十時よりお神楽奉納や餅つき振る舞いが行われ、商売繁盛・祈願成就を祈願する多数の参拝客で賑わう事でしょう。



初午は、江戸時代では、子供が寺小屋へ入門する日でもあったそうです。
初午のほか、十二支に初をつけたものは次の通りです。



初子(はつね・・・正月または11月の最初の子の日・子の日遊びが行われた)
初丑(はつうし・・・夏の土用のうちの最初の丑の日・鰻を食べる風習がある)
初寅(はつとら・・・正月最初の寅の日・毘沙門天に参詣する日)
初卯(はつう・・・   〃  卯の日・初卯詣が行われる)
初辰(はつたつ・・・  〃  辰の日・防災のまじないをする日)
初巳(はつみ・・・   〃  巳の日・弁財天に参詣する日)
初申(はつざる・・・旧暦2月の最初の申の日・春日神社の祭典)
初酉(はつとり・・・正月または11月の最初の酉の日・浅草鷲神社の祭礼)
初亥(はつい・・・正月最初の亥の日・摩利支天に参詣する日)




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| ryuichi | 05:22 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |