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三春物語690番「福島縣護國神社」
福島氏の中心部、春のお花見で賑わう信夫山の中腹に「福島護国神社」はあります。
 神社の由来書によると、「明治12年10月4日、相馬・三春・若松の三カ所にあった招魂場の御霊を合祀し招魂社として創建された」とあります。
創建当時は「信夫山招魂社」で後に「福島招魂社」、昭和14年に「福島縣護國神社」と改称されましたが、戦後GHQの占領下に置かれ存亡の危機に陥ったため、伊勢神宮の天照皇御神をお祀りして「大霊神社」と改称。
昭和27年9月に再び「福島縣護國神社」と復称して現在にいたります。
 現在の社殿は昭和12年に造営され、戊辰の役からから大東亜戦に至るまで、国家平安の為の御英霊6万9千柱をお祭りしているそうです。






| ryuichi | 22:26 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語679番「小野保 東堂山満福寺昭和羅漢」


坂上田村麻呂の東征の折、副将軍としてこの地にきた小野永見
この小野永見の子は、815年(弘仁6年)に陸奥守に任ぜられた小野岑守であり、その子小野篁は小野小町の父である。



平安の頃、小野篁(おののたかむら)が陸奥守として田村市滝根町の一部を含めて「小野六郷」と総称したのが「小野」の発祥といわれています。
小野篁(802年~852年)は平安時代初期の学者、歌人、官吏で「令義解」の選者として有名で、小野道風や小野小町の祖父になる人です。



小野篁の冥土通いと云えば、京都の「六道の辻」にある六道珍皇寺。
この地は六道世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の入口とされ、参議・小野篁が夜毎に珍皇寺の井戸から冥土に通い、閻魔大王に仕えて庶務の仕事を処理し夜明けに戻って朝廷に出勤した・・・という伝説も生まれています。



戦国時代三春城主田村義顕公は、三春入城後、嫡子隆顕を三春におき、さらに本拠の守りを固めるため次男憲顕を船引城主に、そして三男の顕基(梅雪)を小野城主に封じたとされ、この頃小野の保に触手を伸ばし、掌握しつつあったと思われる。



東堂山の中腹には、大同2年(807年)に奈良の高僧徳一大師によって開山されたといわれる満福寺があります。
古くから家畜繁盛・守護のご利益があるとして広く信仰を集めてきました



天然記念物に指定されている杉並木の表参道を抜けると、巨大な自然石の上に建つ鐘楼にたどり着きます。
巨石の上に建立された万延2年(1861年)建立の鐘楼は、近世木造建築の粋を集めた見事なものです



 羅漢の奉納は昭和60年から始まり、喜怒哀楽を表したもの趣味を楽しむ姿など、宗教観にとらわれず豊かな表情とユニークな姿は微笑ましくも感じます。





| ryuichi | 06:43 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語673番「鬼生田鎮守見渡神社」

鬼生田の廣度寺の門前にある見渡神社です。



寛文十年の勧請とされています。
旧神号三渡大権現としていました。
境外末社として、熊野神社・見渡神社・愛宕神社・諏訪神社・菅原神社・八幡神社があります。



氏神社(うじがみしゃ)は、産土神社(うぶすなじんじゃ)、鎮守社(ちんじゅしゃ)ともいい、各地区の氏子の人たちが、昔からその地区で代々受け継いできた御社殿をお守りし、地区や氏子の安全守護を祈願し、各祭典を奉仕してきています。
氏神社は、神様をお祀りしている単なる宗教施設というだけではなく、その地区の生活の中心として、又地区の文化、伝統の継承、日本の心、霊魂の継承としての大きな役割を負っております。



| ryuichi | 05:06 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語674番「初午大祭・舞木白岩高屋敷稲荷神社」


「初午」稲荷神社の祭日

旧暦二月の最初の午の日を「初午」といい、お稲荷様のお祭りで、五穀豊穣や商売繁盛、子孫繁栄など、あやゆる祈願の対象となっています。

今年は、3月16日です。
稲荷神の信仰は、農耕を司る倉稲魂神(宇迦之御霊神)を祀って五穀豊穣や福徳を祈願するものですが、キツネを稲荷神の使いとして油揚げを供えたり、初午団子などを作る風習もあります。



初午の日は、三春の各所にある屋敷稲荷さんには、「初午祭」として五色の色鮮やかな旗が風に靡いています。
このお稲荷さんは、人々に近い神様と云われています。商売繁盛・五穀豊穣・家内安全・無病息災祈願、所願成就の神様であり、お稲荷神の神使は狐といわれ、油揚げや赤飯などをお供えします稲荷の名は「稲生り」から来たという説もあり、食物の神、農耕の神とされ、祭神は宇迦之御魂の神で、五穀をつかさどる農業神でした。




農村では、初午の儀礼は春の耕作の初めに田の神を山から里にお迎えするという意味もありました。
江戸時代には田沿意次が邸内に稲荷を祭って出世したところから、町民に稲荷が開運の神として非常に盛んに信仰され、町々の小網や屋敷神には、圧倒的に多く稲荷が祭られていました。



舞木の白岩高屋敷稲荷神社


三春の中でも、旧暦の初午の日に「初午祭」が挙行される、高屋敷(白岩)にある高屋敷稲荷神社は、舞木の稲荷様として親しまれています。
参道の約150本の朱塗りの鳥居で有名ですが、戦前までは四千本の鳥居がありました。
これは商売繁盛の神様として昔も今も変わりなく商人は、商売繁盛を祈願しその成功と折りには祈願成就御礼として、朱塗りの鳥居を建立するといわれます。

高屋敷稲荷神社「初午祭」
 三月十五日(火) 午後六時 宵宮祭
 三月十六日(水) 午前十時 初午大祭祭典
    諸祈願祈祷
    :午前八時半より
    :祭典終了後は、午前十一時より随時祈祷 

 高屋敷稲荷神社の案内には「初午の日にお参りすると福が授かるということから「福参り」とも云われています」とあります。
皆様も「福参り」をして商売繁盛・家内安全を御祈願してはいかがですか。



また農業を営む人は五穀豊穣の御礼としてやはり朱塗りの鳥居を奉納したといいます。
日本全国はもとより、三春の地より、遠く海外へ移民した人々の成功御礼の建立があり、朝鮮・ハワイ・ブラジル・満州などからの建立がありました。
高屋敷稲荷神社「初午祭」では、午前十時よりお神楽奉納や餅つき振る舞いが行われ、商売繁盛・祈願成就を祈願する多数の参拝客で賑わう事でしょう。



初午は、江戸時代では、子供が寺小屋へ入門する日でもあったそうです。
初午のほか、十二支に初をつけたものは次の通りです。



初子(はつね・・・正月または11月の最初の子の日・子の日遊びが行われた)
初丑(はつうし・・・夏の土用のうちの最初の丑の日・鰻を食べる風習がある)
初寅(はつとら・・・正月最初の寅の日・毘沙門天に参詣する日)
初卯(はつう・・・   〃  卯の日・初卯詣が行われる)
初辰(はつたつ・・・  〃  辰の日・防災のまじないをする日)
初巳(はつみ・・・   〃  巳の日・弁財天に参詣する日)
初申(はつざる・・・旧暦2月の最初の申の日・春日神社の祭典)
初酉(はつとり・・・正月または11月の最初の酉の日・浅草鷲神社の祭礼)
初亥(はつい・・・正月最初の亥の日・摩利支天に参詣する日)




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| ryuichi | 05:22 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語603番「上石の不動堂と不動桜」


 三春城下の南二里、旧上石村は戦国期三春田村氏の要害田村四十八舘の一つ上石舘がありました。
現在、その舘跡には、上石不動堂と「上石の不動桜」があります。


江戸時代の末頃に、三春藩士がこのお堂を寺子屋として使用し、その名残が天井などの落書きに見受けられるそうです。



不動明王をまつる不動堂の境内にあるためこの名がついたとされ、滝桜の子孫と伝えられています。



滝桜の子孫と言われるだけあって、流石の風格。紅色の花を美しく咲かせていました。



不動明王は悪魔を降伏するために恐ろしい姿をされ、すべての障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わないものを無理矢理にでも導き救済するという役目を持っておられ真言宗の教主「大日如来」の使者です。
お姿は、目を怒らせ、右手に宝剣を持ち左手に縄を持つ大変恐ろしい姿をしておられますが
そのお心は人々を救済しようとする厳しくもやさしい慈悲に満ちております。


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| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語602番「中津川野橋地蔵堂」





三春城下の南三里余、旧中津川村の野橋地蔵堂です。


戦国期の天正年間(1573~92)、三春田村氏の家臣中津川兵部が居城した中津川館(なかつがわたて)があり、田村四十八舘の南の要害としていました。



付近には、道祖神的な地蔵も見られます。





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| ryuichi | 04:40 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
三春物語595番「木目沢の観音寺宝篋印塔」
木目沢の観音寺宝篋印塔(ほうきょういんとう)

経をおさめて仏をたたえる塔婆の一形式。中世以降主として石造塔に用いられた。
宝篋印塔の名は、内部に『宝篋印陀羅尼』を納めたことに由来する。
『宝篋印陀羅尼』とは、一切如来の全身舎利の功徳を集めた呪であって、四十句からなる。
これを誦すれば、地獄の先祖に極楽に至り、百病・貧窮の者も救われるという。

宝篋印塔形式の典型を述べると、まず基礎は方形で、上部を段形二段でせばめ(蓮花座とすることもある)、上に方形の塔身を安置する。塔身四面には四方仏またはその種字を刻む。屋根(または笠)は下部に段形二段を作って斗きょうに代え、軒先は直線の帯状となり、四隅に飾(耳・耳飾・突起ともいう)を立てる。
屋根面も五・六段の段形とし、頂上に相輪を置く。ただし詳細にみると、時代差・地域差・個体差はある。





同経の説くところによると、「若し人この経を書写して塔中に置かば、この塔は一切如来の金剛蔵の卒塔婆となり、また一切如来陀羅尼秘密加持の卒塔婆とならん」そして「この塔に一香一華を供え礼拝供養すれば八十億劫生死重罪が一時に消滅し、生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わる・・・」といった功徳が説かれています。







木目沢の観音寺



宇内にある桜の巨木。
桜花は見事です。


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| ryuichi | 04:10 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |