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三春城下享保十四年「商売諸職書上」 三春城下八幡町 朝日屋豆腐店



三春城下八幡町にある朝日屋さんは、創業大正14年、三春城下名物の「三春あげ」の製造販売店です。


大豆や水という原材料にこだわり、毎朝風味豊かな味を求めておいしい豆腐や油揚げ造りに精魂を傾けている頑固な豆腐屋です。


中でも、出来立てのがんもどきは逸品で、ちょこっと醤油を垂らせばビールのあてに最高です!


その朝日屋豆腐店を営んでいる小林さんから、江戸後期の三春城下の豆腐店を記した一覧表を頂戴いたしました。

享保十四年(1729年)の示された「商売諸職書上」をアレンジされたものです。




三春城下六町には、108軒の豆腐屋を記録されています。


三春城下には臨在宗、曹洞宗の寺院が多く、その禅宗では、修行の一環として菜食を中心とする精進料をいただきます。そのためどうしても不足しがちなたんぱく質を補うために、豆腐が重宝されていました。

新町に豆腐屋が多いのは、地内に曹洞宗寺院の天澤寺、州傳寺、に多くの雲水が修行出頭していた事や、三春藩領内総鎮守大元帥明王社にの別当職である真照寺やそれに付随する修験寺(現在は廃寺)が多く存在したことや、半農を許された下級武士が多く居を構えていたことにより凍み豆腐を下僕名義で造っていたことに由来されるものと考えられています。








江戸時代中期以降の秋田藩政下になると、それまでは主に僧侶や武士の食べ物であった豆腐は一般にも広まり始めます。

それ以前は、「ハレの日」の食べ物で、祭りやお盆、お正月、あるいは冠婚葬祭などの特別の日にだけ豆腐料理を食することができたと伝えられ、赤飯・白ふかし、餅のように、改まった日に食する食べ物とされていました。

特に農民にとっては非常に贅沢品とされていた食材で、江戸幕府三代将軍・家光時代に出された御触書「慶安御触書」には豆腐は贅沢品として、農民に製造することをハッキリと禁じています。


豆腐が身分の分け隔てなく食されるとその旨さが評判を読んだのでしょう、天明2年(1782年)には、『豆腐百珍』豆腐の料理本が出版されています。

朝日屋の豆腐や一覧には、天保7年(1837年)の頃の豆腐の大きさも記載されています。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:38 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
写真集「三春の蔵」 OSAMU MATSUSITA




三春出身で現在関西にお住いのアマチュア写真家OSAMU MATSUSITA松下修さまの三春の~写真集第一弾の「三春の四季」に続く第2弾「三春の蔵」です。


商都三春の城下にある「蔵」を三春の四季と共に切り取ってあります。







松下さんは、現在は桜丘に移転されましたが、おじいさんの実家が新町だったということで、とても親しみがわいています。

関西から三春へ帰省の折に、撮影したということです。








中を拝見いたしますと、どの構図も素晴らしくテーマをストレートに表現されているように心に響いてきます。

郷土三春の、いつもの風景、日常のはずなんですが、とても芸術的に映し出され、神々しいほど三春の蔵が輝いています!








三春出身、そして三春を外から見る写真家のファインダーの先には・・・・・

三春がアートになっていました。

カッコいいですね!








店内に配していますのでご自由にご覧ください。

尚、早速近所の方々が集まって「宗一ちゃんとこの孫さんかい!」「〜ちゃんの息子だべか?」「健ちゃんのお姉さんの息子だべ~」「ん、これはどこだべ?」などと井戸端会議がはじまりました。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 04:51 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
三春藩儒者倉谷鹿山先生の墓



鹿山先生の墓

八幡町末、横丈六と呼ばれる場所に大柱寺というお寺がありました。

今は畑に囲まれた中に少しの墓石が見ることができます。

ここに「鹿山先生之墓」と刻まれた一基があります。

三春藩儒者倉谷鹿山の墓である。

墓誌に拠ると、諱は強。字は子勉。

父は軍七、母は山口氏、三春藩秋田氏に代々微禄で仕え、寛政8年教授、12年学長となり、在職40年、天保4年11月13日,75才で亡くなったことがわかる。

鹿山の通称は又八といった。

死亡から逆算して、宝暦9年の生れだが、出生地については三春町内の説もあるけれども、常葉町の鹿山だという説が正しいらしい。

どうして三春に出て来たか・・・家老の荒木氏が船引の本陣か、庄屋で、本を読みながら風呂番をしていた少年を見けて、引きつれて来たのが又八だったと伝説めいた話が残っている。

しかし、一説には、親が商人だったが、商を好ます、学問に熱中したともいう。

漢学の手ほどきは、村医杉田某及び白河藩の原助という人に学んだ。


25才頃、杉田村医の紹介と愛蔵の書籍に金3両とを貰い江戸に上り、林祭酒の門に入って数年、その学頭になった.

林祭酒は林大学頭で、昌平黌(しょうへいこう)の学頭に推されたと見るべきだろう。

その後、長崎に遊び中国人から晝画を学んでいる。







そして、寛政5年、当時の三春藩主秋田倩季に招かれ、士族に列し、100石を賜わって藩学校明徳堂(この名は倩季が名づけ、自書の額が現に小学校に残っている)の教授となった。

寛政12年には初代の学長となり40年在職しているので、子弟の数はどれ程だったろうか。

.鹿山は酒を好み、書画をよくしたので、町内は勿論、地方の旧家にその筆墨が残っている。



昭和7年に元町長鎌田悌次郎氏が主宰して百年祭を行っている。









大桂寺(廃寺)があり、年代不詳(昭和初期?)ですが、無住になったときにご本尊はじめ仏具すべては同じ曹洞宗である城下荒町の龍穏院に引き継がれました。


墓地には三春藩儒者倉谷鹿山の墓があります。


大桂寺の読み方は“だいけいじ”ですが、地域の人々はその昔は“だいけじ”と呼んでおり、無住になった後も縁日になると縁日になると子供たちや近所の人たちが集まり数珠回しなどをしていました。








現在は、大桂寺延命地蔵を納める地蔵堂が建っています。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:22 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
三春物語736番三春城下八幡町末「ジウ屋敷」
三春城下八幡町末「ジウ屋敷」
八幡町末、城下境の日蓮宗法華寺の外側、三春城下黒門外に「踊り場」という地名が残ります。
江戸期にあった大桂寺の門前にあたります。

ここは、城下と農村の境目、所謂「隈」地帯で、非人居住区に当たります。
そこの地続きの城下黒門(郭門)の外居住区に10軒ほどの穢多と呼ばれて差別を受けていた人たちが、かつて住んでいたといいます。
そこから数百㍍離れたところには、ジウ屋敷というものがあったといいます。
江戸期の秋田藩政時代に、八幡町の小肝煎がその地域を支配していたからでしょうか、近代以降、行政的に八幡町に組み込まれていました。
穢多とは、士農工商の下に位置した人々で、非人と同等の扱いを受けていました。

もともとは 死のけがれにかかわる仕事に従事するものとして このえた・非人は そういう身分としてつくられた。
人にしろ牛馬にしろ屍の処理は 血のけがれとともに 忌み嫌われていたようなのです。



三春盆踊りの原型として考えているのは相馬盆踊りです。
江戸時代、人口減少に悩む相馬藩は移民政策を断行。
新潟・北陸方面から多くの浄土真宗門徒の移住者を招きます。
後の相馬盆踊りは、この「浄土真宗相馬移民」の手でもたらされたと考えられています。
その過程において、相馬藩領と境を接する三春藩領へ飢饉のたびに流入及び避難してきた方々によってもたらされ、やはり浄土系の時宗踊念仏と融合して現在の三春盆踊りの原型が形成されていったと考えられます。
飢饉のときの避難所として三春藩が用意していたのは三春城下八幡町末黒門外の旧裁判所付近とされています。


八幡町末城外の踊り場とは、文字通り念仏踊りをする場所、後の盆踊りをした場所を指しています。
江戸中期から末期に頻繁に発生し多数の死者を出しました飢饉により領内からの避難民の受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所(旧裁判所跡地)が近くにあります。
この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、
その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。

盆踊りでは人々が「編み笠」を被って踊りをしています。
これは、「あみがさ」というのは「阿弥(あみ)笠」ですから、阿弥陀経=浄土宗系門徒という図式になります。

明治末から大正期の”盆踊り最盛期”、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
同じ、地蔵盆では、州傳寺の「一時地蔵尊祭」と天澤寺の「身代わり地蔵尊祭」と重なって近郷近在からたくさんの踊り子が来場しました。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。



| ryuichi | 05:26 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
NHK「新日本紀行」八幡様の長獅子


昭和49年5月放送
NHK「新日本紀行・山の 城下町で」【ナレーター】福本義典

山の城下町~春の訪れを告げる八幡神社祭礼~です。
約40年前ですかね・・・・

私が子供のころ、祭礼や盆踊り、そして街並みなど、テレビの収録が三春各地で行われていた時期があります。

当時「ディスカバー・ジャパン」小京都・小さな鎌倉
山陰の小京都と呼ばれた津和野は、水路に鯉が泳いでいることは当時有名になリました。
今でも、津和野での、この風情は素敵ですね!

それまでは、若い女性が旅行をすることは日本ではあまりなかったのですが、1970年の
大阪万博で国内旅行が定着し、その後当時の国鉄が「ディスカバージャパン」のキャンペーンを始めました。
ディスカバー・ジャパンとは、1970年10月から、当時の国鉄が大阪万博後の旅客減を想定して始めた、紙媒体および映像による一大キャンペーン。
名所や旧跡を急いでまわるのではなく、郷土料理や、名産のお菓子をゆっくり楽しむ
“癒し”がテーマの旅。

 川端康成のノーベル賞受賞講演をもじった「美しい日本と私」なるコピー、作詞家の永六輔出演のTV番組『遠くへ行きたい』とのタイアップなど、新しい広告戦略が展開された。 
キャンペーン全体として、陰りを見せ始めた、これまでのような団体旅行ではなく、個人旅行の増大をもくろんだものであった。
そのため、「日本の発見、自分自身の再発見」がキャンペーンのテーマに設定されます。
 
同じころに、ファッション雑誌“an・an”“Non・no”が旅先を紹介し、1978年の山口百恵の「いい日旅立ち」のヒットでブレイクしたのは、覚えている人多いんじゃないでしょうか。
 アンノン族とは、1970年には『アンアン』、翌71年には『ノンノ』が創刊され、両誌は各地の「小京都」「小鎌倉」金沢や高山、倉敷・萩・津和野・小樽、そして三春などの街並み、信州の宿場町妻籠・馬籠などを特集した。

 これにより、若い未婚女性の個人もしくは小グループでの旅行というスタイルが生まれ、同キャンペーンの相乗効果で、“アンノン族”と呼ばれるようになります。
 
当時は、まだ“おやじ”が旅の中心で、旅行といえば夜の大宴会が楽しみでしたが、歓楽色を廃し、女性観光客を呼び込むことができるかどうかというわけで、「アンノン族」に紹介された観光地は、いわゆる「小京都」「小鎌倉」とよばれるような、落ち着いた静かな歴史を感じさせる“おしゃれで静かな街”でした。
 
当時、「アンノン族」が訪れた観光地は、今でも「何々の小京都」「何々の鎌倉」と呼ばれるところが多く、いまでも素敵なところが多いですよね。です。

さすけねぇぞい三春!



| ryuichi | 05:47 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町::八幡神社 |
三春城下末八幡神社春季祭礼「長獅子」奉納


三春城下末、八幡町にある八幡神社春季祭礼の長獅子による先払い宮立の様子です。
こちらも約20年前の映像になります。
八幡町は、この八幡様があるから八幡町という町名になりますが、江戸期の秋田公との関係により、村社として城外に建立されています。
古の昔、東北に北の王国を築き、五大洲(世界各国)と交易をしていた秋田公の祖「安倍氏」が、「前九年」「後三年」の役により源氏によって滅ぼされたことに由来します。
八幡様とは、源氏の氏神です。

「10年は一昔」といいますが20年となると懐かしさが倍増です。
みんな若い!



さすけねぇぞい三春!


三春昭進堂 髙橋龍一



| ryuichi | 06:13 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町::八幡神社 |
三春物語545番「久成山法華寺」
三春城下八幡町末櫻川沿いにある、日蓮宗法華寺です。
慶長18年(1613)、三春が会津蒲生領の一部だった頃に開山された日蓮宗です。



本堂には徳田研山(2代目)の筆による巨大な天井画があり、「鳴き龍」になっています。
境内にある桜は有名です。



| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |