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平成版三春古蹟漫歩 「八幡町末江戸街道の古蹟」



古蹟漫歩 「八幡町末江戸街道の古蹟」

三春城下入り口の一つ、江戸街道は、江戸時代初期の寛永年間に、時の三春城主松下長綱(当時の三春3万石)が三春城下の中世城下町から近世の城下町への城下整備の中で開かれたもので、この地方で最も古い街道筋でした。

その後、幕末まで秋田家五万五千石の歴代藩主が、参勤交代の為江戸、三春間の往来を続けて来た道です。

街道は、城下八幡町末の郭外、現在の踊り場から、松本床屋さんのアクトと曽田石材店の間を抜け、桜川にかかる旧八幡下橋を渡って八幡様の参道下に出るという、城下町独特のカギの字の道で、今とはちょっと違う道がありました。



八幡町末黒門~画像は三春町史より



因みに、江戸時代の城下絵図を見ると、八幡町から踊り場までの道筋は、三春大神宮前を桜川に向かって左に折れ、大神宮下の神明橋の手前を右に折れ、川沿いに進んで、法華寺下を右折すると、城下郭内と郭外分ける郭境黒門がりました。

この黒門を抜けて現武田酒店に向かって踊り場に出るといった、ここもカギの字の道筋となっていました。



並松坂


さて、江戸街道は、現在の並松の旧道坂道を上り、今のバイパスを突っ切って、丘を越えて沼之倉団地入口の向え側、現大幸建築作業がの横を通り、いわゆる鷹巣街道の出るようになっていました。

昔は、並松の地名の由来にもなっていますが、あの坂道の両側には、城下町の入り口らしく松並木が繁っていたと伝わっています。

坂を上り詰めた辺り(現牛舎小屋付近)は、安達太良から吾妻にかけて、奥州連山の白雪が眺められ、遠望の良い場所ですが、江戸後期には「大砲場」と呼ばれていました。

大砲場は、江戸末期の安政の頃、城下北町に屋敷を構えた三春藩士熊田嘉膳(くまだかぜん)が、8年間、水戸史観・尊王攘夷論の本拠地である水戸藩に留学して修めた、反射炉による西洋式の大・小砲製作研究の成果を実験した場所です。




貝山分岐


熊田嘉膳は、淑軒と号します。
領内岩井沢渡辺家の出身で、三春藩医熊田家を継ぎます。
三春藩校講所で漢学、二本松で医学、後に江戸で西洋医学を学び、長崎にて蘭学を学びます。三春帰郷後の嘉永六年ペリーが浦賀にやってくると、志願して浦賀に走り、情勢を視察して藩に報告しています。後に蘭学を元に大砲鋳造の研究に没頭します。
 
水戸藩の藤田東湖と交流し、安政三年、水戸藩の反射炉を築き大砲を鋳造する計画に際し「砲銃鋳造掛」として招かれ大砲制作に携わったが、安政の大獄で、水戸藩主徳川斉昭烈公が幽閉されるにおよび安政六年職を辞して三春に帰藩します。

三春帰藩後、全国の諸藩より砲銃鋳造の招聘が相次ぎ、会津藩や相馬藩の鋳砲指南として従事していました。






苦心して造った大砲を、大砲場の高台に据え、藩主以下家老重臣視察の中で、熊田の指揮により、鉄砲鍛冶町田貢(北町)が火縄に火をつけ発射!
“轟音”が山野に響き渡り、砲弾は西北方向の雲間を縫い平沢の水田に達したといいます。

当時の人々を驚かしたその砲身は、現在(昭和30年代当初)、城下中町の本陣の蔵に眠っているという。


志置場


大砲場から、300米ほど先に行くと、藩庁時代の御仕置場(首切場)があり、罪人を渡らせた“涙橋”、首をさらした“首さらし場”の跡、そして南無阿弥陀仏の六文字を刻んだ供養碑など、雑木林の中に埋もれています。





さらに、もう少し進むと沼之倉山、ここから明治の初年に旧制安積中学(現県立安積高等学校)建築の用材木を切り出したと記録されています。

沼之倉、現白山荘の山裾に、白蛇石と呼ばれた大石が、二重に街道に突き出ていた。

当時通行する人々は、白蛇が出るといって近寄らなかったが、数度の道路拡張によて今はその痕跡を残してはいません。

尚、その先には、御小屋跡がありました。

参勤の長の道中は、略式の旅姿で旅程をこなしていた殿様以下の隊列が、三春城下の出入り口につけ、ここで仕度替えをして、正式なお姿にて行列を整えて、お国入りしたとされます。





その付近にあったという“天狗橋”も、今は見当たりません。

お殿様のお通りとなれば、磐城守山藩(現郡山市田村町守山)境まで、村人総出で掃き清め、奉行役人の下見検見まであったとされるこの街道、追いはぎも出たという山道も、今は改修されて駕籠に代わって自家用車が往来しています。


古い絵図の画像は、いづれも画像は三春町史より

春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:24 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
くさ (草)地蔵  八幡町裏町、さくら川沿いにある智法院跡地 日向文書参照




くさ (草)地蔵

八幡町裏町、さくら川沿いにある智法院跡地の向かいに小堂があり、石造·木造2体の地蔵歳尊が配られています。

「くさ地蔵」と呼ばれ、疱瘡やくさっぽ(できもの)平癒に御利益があると伝えられ、現在でも人々に親しまれています。





八幡町の二部氏が所有、管理しており、現在地に移ったのは、明治から大正のころであると伝わります。

内陣には、安永2年の建造の銘があり、別当は江戸時代、現中町地内にあった修験宗八幡山大光寺であったことがわかっています。






二度ほど移転を繰り返したと伝えられ、大光寺の八幡山という山号から当初八幡神社付近にあり、その後愛宕神社下(丈六側の中段窪地)に移ったことも考えられます。


日向文書参照








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:45 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
三春城下享保十四年「商売諸職書上」 三春城下八幡町 朝日屋豆腐店



三春城下八幡町にある朝日屋さんは、創業大正14年、三春城下名物の「三春あげ」の製造販売店です。


大豆や水という原材料にこだわり、毎朝風味豊かな味を求めておいしい豆腐や油揚げ造りに精魂を傾けている頑固な豆腐屋です。


中でも、出来立てのがんもどきは逸品で、ちょこっと醤油を垂らせばビールのあてに最高です!


その朝日屋豆腐店を営んでいる小林さんから、江戸後期の三春城下の豆腐店を記した一覧表を頂戴いたしました。

享保十四年(1729年)の示された「商売諸職書上」をアレンジされたものです。




三春城下六町には、108軒の豆腐屋を記録されています。


三春城下には臨在宗、曹洞宗の寺院が多く、その禅宗では、修行の一環として菜食を中心とする精進料をいただきます。そのためどうしても不足しがちなたんぱく質を補うために、豆腐が重宝されていました。

新町に豆腐屋が多いのは、地内に曹洞宗寺院の天澤寺、州傳寺、に多くの雲水が修行出頭していた事や、三春藩領内総鎮守大元帥明王社にの別当職である真照寺やそれに付随する修験寺(現在は廃寺)が多く存在したことや、半農を許された下級武士が多く居を構えていたことにより凍み豆腐を下僕名義で造っていたことに由来されるものと考えられています。








江戸時代中期以降の秋田藩政下になると、それまでは主に僧侶や武士の食べ物であった豆腐は一般にも広まり始めます。

それ以前は、「ハレの日」の食べ物で、祭りやお盆、お正月、あるいは冠婚葬祭などの特別の日にだけ豆腐料理を食することができたと伝えられ、赤飯・白ふかし、餅のように、改まった日に食する食べ物とされていました。

特に農民にとっては非常に贅沢品とされていた食材で、江戸幕府三代将軍・家光時代に出された御触書「慶安御触書」には豆腐は贅沢品として、農民に製造することをハッキリと禁じています。


豆腐が身分の分け隔てなく食されるとその旨さが評判を読んだのでしょう、天明2年(1782年)には、『豆腐百珍』豆腐の料理本が出版されています。

朝日屋の豆腐や一覧には、天保7年(1837年)の頃の豆腐の大きさも記載されています。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:38 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
写真集「三春の蔵」 OSAMU MATSUSITA




三春出身で現在関西にお住いのアマチュア写真家OSAMU MATSUSITA松下修さまの三春の~写真集第一弾の「三春の四季」に続く第2弾「三春の蔵」です。


商都三春の城下にある「蔵」を三春の四季と共に切り取ってあります。







松下さんは、現在は桜丘に移転されましたが、おじいさんの実家が新町だったということで、とても親しみがわいています。

関西から三春へ帰省の折に、撮影したということです。








中を拝見いたしますと、どの構図も素晴らしくテーマをストレートに表現されているように心に響いてきます。

郷土三春の、いつもの風景、日常のはずなんですが、とても芸術的に映し出され、神々しいほど三春の蔵が輝いています!








三春出身、そして三春を外から見る写真家のファインダーの先には・・・・・

三春がアートになっていました。

カッコいいですね!








店内に配していますのでご自由にご覧ください。

尚、早速近所の方々が集まって「宗一ちゃんとこの孫さんかい!」「〜ちゃんの息子だべか?」「健ちゃんのお姉さんの息子だべ~」「ん、これはどこだべ?」などと井戸端会議がはじまりました。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 04:51 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
三春藩儒者倉谷鹿山先生の墓 大桂寺跡延命地蔵堂





鹿山先生の墓

八幡町末、横丈六と呼ばれる場所に大柱寺というお寺がありました。

今は畑に囲まれた中に少しの墓石が見ることができます。

ここに「鹿山先生之墓」と刻まれた一基があります。

三春藩儒者倉谷鹿山の墓である。

墓誌に拠ると、諱は強。字は子勉。

父は軍七、母は山口氏、三春藩秋田氏に代々微禄で仕え、寛政8年教授、12年学長となり、在職40年、天保4年11月13日,75才で亡くなったことがわかる。

鹿山の通称は又八といった。

死亡から逆算して、宝暦9年の生れだが、出生地については三春町内の説もあるけれども、常葉町の鹿山だという説が正しいらしい。

どうして三春に出て来たか・・・家老の荒木氏が船引の本陣か、庄屋で、本を読みながら風呂番をしていた少年を見けて、引きつれて来たのが又八だったと伝説めいた話が残っている。

しかし、一説には、親が商人だったが、商を好ます、学問に熱中したともいう。

漢学の手ほどきは、村医杉田某及び白河藩の原助という人に学んだ。


25才頃、杉田村医の紹介と愛蔵の書籍に金3両とを貰い江戸に上り、林祭酒の門に入って数年、その学頭になった.

林祭酒は林大学頭で、昌平黌(しょうへいこう)の学頭に推されたと見るべきだろう。

その後、長崎に遊び中国人から晝画を学んでいる。







そして、寛政5年、当時の三春藩主秋田倩季に招かれ、士族に列し、100石を賜わって藩学校明徳堂(この名は倩季が名づけ、自書の額が現に小学校に残っている)の教授となった。

寛政12年には初代の学長となり40年在職しているので、子弟の数はどれ程だったろうか。

.鹿山は酒を好み、書画をよくしたので、町内は勿論、地方の旧家にその筆墨が残っている。



昭和7年に元町長鎌田悌次郎氏が主宰して百年祭を行っている。









大桂寺(廃寺)があり、年代不詳(昭和初期?)ですが、無住になったときにご本尊はじめ仏具すべては同じ曹洞宗である城下荒町の龍穏院に引き継がれました。


墓地には三春藩儒者倉谷鹿山の墓があります。


大桂寺の読み方は“だいけいじ”ですが、地域の人々はその昔は“だいけじ”と呼んでおり、無住になった後も縁日になると縁日になると子供たちや近所の人たちが集まり数珠回しなどをしていました。








現在は、大桂寺延命地蔵を納める地蔵堂が建っています。

大桂寺跡延命地蔵堂
正保 2年、秋田氏入部と共にその菩提寺龍穏院が、現在の鎮座する三春城下荒町の山内に建立されます。

その地には以前より曹洞宗大慶寺(大桂寺)がありましたが、龍穏院三春開山に伴い、八幡町横丈六地内に移されました。

しかし、明治6年の八幡町火災により全焼し、再建されず、廃寺との運命をたどりました。

後に、境内にあった地蔵菩薩の石像(延命地蔵)を配る小堂が建てられ、今にその姿を伝えています。旧墓地に藩校明徳堂初代校長倉谷鹿山の墓が残っています。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:22 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
三春物語736番三春城下八幡町末「ジウ屋敷」
三春城下八幡町末「ジウ屋敷」
八幡町末、城下境の日蓮宗法華寺の外側、三春城下黒門外に「踊り場」という地名が残ります。
江戸期にあった大桂寺の門前にあたります。

ここは、城下と農村の境目、所謂「隈」地帯で、非人居住区に当たります。
そこの地続きの城下黒門(郭門)の外居住区に10軒ほどの穢多と呼ばれて差別を受けていた人たちが、かつて住んでいたといいます。
そこから数百㍍離れたところには、ジウ屋敷というものがあったといいます。
江戸期の秋田藩政時代に、八幡町の小肝煎がその地域を支配していたからでしょうか、近代以降、行政的に八幡町に組み込まれていました。
穢多とは、士農工商の下に位置した人々で、非人と同等の扱いを受けていました。

もともとは 死のけがれにかかわる仕事に従事するものとして このえた・非人は そういう身分としてつくられた。
人にしろ牛馬にしろ屍の処理は 血のけがれとともに 忌み嫌われていたようなのです。



三春盆踊りの原型として考えているのは相馬盆踊りです。
江戸時代、人口減少に悩む相馬藩は移民政策を断行。
新潟・北陸方面から多くの浄土真宗門徒の移住者を招きます。
後の相馬盆踊りは、この「浄土真宗相馬移民」の手でもたらされたと考えられています。
その過程において、相馬藩領と境を接する三春藩領へ飢饉のたびに流入及び避難してきた方々によってもたらされ、やはり浄土系の時宗踊念仏と融合して現在の三春盆踊りの原型が形成されていったと考えられます。
飢饉のときの避難所として三春藩が用意していたのは三春城下八幡町末黒門外の旧裁判所付近とされています。


八幡町末城外の踊り場とは、文字通り念仏踊りをする場所、後の盆踊りをした場所を指しています。
江戸中期から末期に頻繁に発生し多数の死者を出しました飢饉により領内からの避難民の受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所(旧裁判所跡地)が近くにあります。
この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、
その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。

盆踊りでは人々が「編み笠」を被って踊りをしています。
これは、「あみがさ」というのは「阿弥(あみ)笠」ですから、阿弥陀経=浄土宗系門徒という図式になります。

明治末から大正期の”盆踊り最盛期”、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
同じ、地蔵盆では、州傳寺の「一時地蔵尊祭」と天澤寺の「身代わり地蔵尊祭」と重なって近郷近在からたくさんの踊り子が来場しました。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。



| ryuichi | 05:26 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
NHK「新日本紀行」八幡様の長獅子


昭和49年5月放送
NHK「新日本紀行・山の 城下町で」【ナレーター】福本義典

山の城下町~春の訪れを告げる八幡神社祭礼~です。
約40年前ですかね・・・・

私が子供のころ、祭礼や盆踊り、そして街並みなど、テレビの収録が三春各地で行われていた時期があります。

当時「ディスカバー・ジャパン」小京都・小さな鎌倉
山陰の小京都と呼ばれた津和野は、水路に鯉が泳いでいることは当時有名になリました。
今でも、津和野での、この風情は素敵ですね!

それまでは、若い女性が旅行をすることは日本ではあまりなかったのですが、1970年の
大阪万博で国内旅行が定着し、その後当時の国鉄が「ディスカバージャパン」のキャンペーンを始めました。
ディスカバー・ジャパンとは、1970年10月から、当時の国鉄が大阪万博後の旅客減を想定して始めた、紙媒体および映像による一大キャンペーン。
名所や旧跡を急いでまわるのではなく、郷土料理や、名産のお菓子をゆっくり楽しむ
“癒し”がテーマの旅。

 川端康成のノーベル賞受賞講演をもじった「美しい日本と私」なるコピー、作詞家の永六輔出演のTV番組『遠くへ行きたい』とのタイアップなど、新しい広告戦略が展開された。 
キャンペーン全体として、陰りを見せ始めた、これまでのような団体旅行ではなく、個人旅行の増大をもくろんだものであった。
そのため、「日本の発見、自分自身の再発見」がキャンペーンのテーマに設定されます。
 
同じころに、ファッション雑誌“an・an”“Non・no”が旅先を紹介し、1978年の山口百恵の「いい日旅立ち」のヒットでブレイクしたのは、覚えている人多いんじゃないでしょうか。
 アンノン族とは、1970年には『アンアン』、翌71年には『ノンノ』が創刊され、両誌は各地の「小京都」「小鎌倉」金沢や高山、倉敷・萩・津和野・小樽、そして三春などの街並み、信州の宿場町妻籠・馬籠などを特集した。

 これにより、若い未婚女性の個人もしくは小グループでの旅行というスタイルが生まれ、同キャンペーンの相乗効果で、“アンノン族”と呼ばれるようになります。
 
当時は、まだ“おやじ”が旅の中心で、旅行といえば夜の大宴会が楽しみでしたが、歓楽色を廃し、女性観光客を呼び込むことができるかどうかというわけで、「アンノン族」に紹介された観光地は、いわゆる「小京都」「小鎌倉」とよばれるような、落ち着いた静かな歴史を感じさせる“おしゃれで静かな街”でした。
 
当時、「アンノン族」が訪れた観光地は、今でも「何々の小京都」「何々の鎌倉」と呼ばれるところが多く、いまでも素敵なところが多いですよね。です。

さすけねぇぞい三春!



| ryuichi | 05:47 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町::八幡神社 |