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修験 智法院跡地 八幡町裏町 日向文書参照





智法院跡地 八幡町裏町

八幡町の川沿いの銭湯「ぬる湯」の川向かいに小嗣が2つ残っています。

これは明治維新前まであった修験「智法院」の跡地であります。






裏に花協岩の露出地があり、いかにも霊地の趣がありましたが急傾斜地整備のため今は残っていません。

明治新政府の主導する廃仏希釈、修験道廃止の方針の中で、修験秋元丹波は還俗し、智法院は秋葉神社と改称しました。

その後の活動の詳細は不明ですが、廃寺の後も、祈祷、占い、投薬などで庶民との関わりを持ち続けたらしく、人々は今でもその辺りを智法院屋敷と呼んでいます。





現在は平成の河川改修があり、その家並みも姿を消してしまいました。

跡地に残る小嗣は、稲荷社と秋葉社であると伝わっています。また、智法院には水天宮が配られていたという言い伝えが残っています。

三春大神宮の鎮座する神垣山側の右上山腹には旧橋本神社の跡地(現在は宮司宅敷地内に移設)も基壇の石のみを残しています。

日向文書参照







三春城下懐かしの写真展 城下中町商店街 新春初夢大売り出し!チラシ 商店街の会長が釜屋(カマヤ)さんです!


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| ryuichi | 04:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町 |
横丈六末の小さな地蔵堂 日向文書参照



横丈六末の地蔵堂(草地蔵)

昭和の横丈六改修時に近くに住む橋本金義氏が道路端の泥の中に小地蔵像が埋まってい

るのを発見し、横丈六路地の西端にお祀りしました。





明治の廃仏毀釈の時に、町内の寺院から持ち去られたものと考えられます。

後に、近くに住む影山勝夫氏が小堂を立てこれを安置し、今に至っています。

日向文書参照






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| ryuichi | 05:17 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町 |
三春城下八幡町末 踊場橋付近の「地蔵尊」 日向文書参照



三春城下八幡町末 踊場橋付近の「地蔵尊」

八幡町雁木田入り口の道沿いにあった地蔵尊。

道路拡幅前に住んでいた上樫氏が管理していましたが、道路拡幅工事に際して、自身の菩提寺である福察寺に移動させました。

明治時代に上樫氏の先祖が、自宅裏のさくら川に落ちていた地蔵尊をお配りしたものです。

江戸時代、八幡町末に安置されていた六地蔵の一つともいわれていますが、正確には不詳です。


日向文書参照


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| ryuichi | 04:21 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町 |
三春城下八幡様参道の大井戸




三春城下八幡様参道の大井戸

三春城下より会津へ通じる会津街道口は、八幡町末踊り場にある旧おどり場商店と現アクト(床屋)の間を通る会津街道沿いの左側のあった清水です。
当時は、巨石を掘り窪めた石の手水鉢があり、その手水石が道しるべとなっていたようです。

この旧会津・若松街道から城下に入る人、関東街道・近世の江戸街道から城下に至る人々が汲み、そして、身支度を整えるための化粧水として使用された清水と伝わっています。








かつて、永井家の先で会津・若松街道は右折していましたが、八幡小路(現八幡神社参道へ通じる道)は、道を直進し三春川(桜川)を渡る八幡宮参道沿いにあることから亀井清水と並ぶ大勢の方々が利用したと考えられます。





明治になり国道288号線が 踊り場を直進するようになってから八幡様の参道は旧江戸街道から入るように架け替えられて現在の形への変貌しました。
この時、清水脇にあった三春城下街道口六地蔵も江戸橋(現雁木田橋)のたもとに移されています。





三春城下 懐かしの写真展 昭和50年代中頃の三春駅 春



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| ryuichi | 04:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町 |
平成版三春古蹟漫歩 「八幡町末江戸街道の古蹟」



古蹟漫歩 「八幡町末江戸街道の古蹟」

三春城下入り口の一つ、江戸街道は、江戸時代初期の寛永年間に、時の三春城主松下長綱(当時の三春3万石)が三春城下の中世城下町から近世の城下町への城下整備の中で開かれたもので、この地方で最も古い街道筋でした。

その後、幕末まで秋田家五万五千石の歴代藩主が、参勤交代の為江戸、三春間の往来を続けて来た道です。

街道は、城下八幡町末の郭外、現在の踊り場から、松本床屋さんのアクトと曽田石材店の間を抜け、桜川にかかる旧八幡下橋を渡って八幡様の参道下に出るという、城下町独特のカギの字の道で、今とはちょっと違う道がありました。



八幡町末黒門~画像は三春町史より



因みに、江戸時代の城下絵図を見ると、八幡町から踊り場までの道筋は、三春大神宮前を桜川に向かって左に折れ、大神宮下の神明橋の手前を右に折れ、川沿いに進んで、法華寺下を右折すると、城下郭内と郭外分ける郭境黒門がりました。

この黒門を抜けて現武田酒店に向かって踊り場に出るといった、ここもカギの字の道筋となっていました。



並松坂


さて、江戸街道は、現在の並松の旧道坂道を上り、今のバイパスを突っ切って、丘を越えて沼之倉団地入口の向え側、現大幸建築作業がの横を通り、いわゆる鷹巣街道の出るようになっていました。

昔は、並松の地名の由来にもなっていますが、あの坂道の両側には、城下町の入り口らしく松並木が繁っていたと伝わっています。

坂を上り詰めた辺り(現牛舎小屋付近)は、安達太良から吾妻にかけて、奥州連山の白雪が眺められ、遠望の良い場所ですが、江戸後期には「大砲場」と呼ばれていました。

大砲場は、江戸末期の安政の頃、城下北町に屋敷を構えた三春藩士熊田嘉膳(くまだかぜん)が、8年間、水戸史観・尊王攘夷論の本拠地である水戸藩に留学して修めた、反射炉による西洋式の大・小砲製作研究の成果を実験した場所です。




貝山分岐


熊田嘉膳は、淑軒と号します。
領内岩井沢渡辺家の出身で、三春藩医熊田家を継ぎます。
三春藩校講所で漢学、二本松で医学、後に江戸で西洋医学を学び、長崎にて蘭学を学びます。三春帰郷後の嘉永六年ペリーが浦賀にやってくると、志願して浦賀に走り、情勢を視察して藩に報告しています。後に蘭学を元に大砲鋳造の研究に没頭します。
 
水戸藩の藤田東湖と交流し、安政三年、水戸藩の反射炉を築き大砲を鋳造する計画に際し「砲銃鋳造掛」として招かれ大砲制作に携わったが、安政の大獄で、水戸藩主徳川斉昭烈公が幽閉されるにおよび安政六年職を辞して三春に帰藩します。

三春帰藩後、全国の諸藩より砲銃鋳造の招聘が相次ぎ、会津藩や相馬藩の鋳砲指南として従事していました。






苦心して造った大砲を、大砲場の高台に据え、藩主以下家老重臣視察の中で、熊田の指揮により、鉄砲鍛冶町田貢(北町)が火縄に火をつけ発射!
“轟音”が山野に響き渡り、砲弾は西北方向の雲間を縫い平沢の水田に達したといいます。

当時の人々を驚かしたその砲身は、現在(昭和30年代当初)、城下中町の本陣の蔵に眠っているという。


志置場


大砲場から、300米ほど先に行くと、藩庁時代の御仕置場(首切場)があり、罪人を渡らせた“涙橋”、首をさらした“首さらし場”の跡、そして南無阿弥陀仏の六文字を刻んだ供養碑など、雑木林の中に埋もれています。





さらに、もう少し進むと沼之倉山、ここから明治の初年に旧制安積中学(現県立安積高等学校)建築の用材木を切り出したと記録されています。

沼之倉、現白山荘の山裾に、白蛇石と呼ばれた大石が、二重に街道に突き出ていた。

当時通行する人々は、白蛇が出るといって近寄らなかったが、数度の道路拡張によて今はその痕跡を残してはいません。

尚、その先には、御小屋跡がありました。

参勤の長の道中は、略式の旅姿で旅程をこなしていた殿様以下の隊列が、三春城下の出入り口につけ、ここで仕度替えをして、正式なお姿にて行列を整えて、お国入りしたとされます。





その付近にあったという“天狗橋”も、今は見当たりません。

お殿様のお通りとなれば、磐城守山藩(現郡山市田村町守山)境まで、村人総出で掃き清め、奉行役人の下見検見まであったとされるこの街道、追いはぎも出たという山道も、今は改修されて駕籠に代わって自家用車が往来しています。


古い絵図の画像は、いづれも画像は三春町史より

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| ryuichi | 04:24 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町 |
くさ (草)地蔵  八幡町裏町、さくら川沿いにある智法院跡地 日向文書参照




くさ (草)地蔵

八幡町裏町、さくら川沿いにある智法院跡地の向かいに小堂があり、石造·木造2体の地蔵歳尊が配られています。

「くさ地蔵」と呼ばれ、疱瘡やくさっぽ(できもの)平癒に御利益があると伝えられ、現在でも人々に親しまれています。





八幡町の二部氏が所有、管理しており、現在地に移ったのは、明治から大正のころであると伝わります。

内陣には、安永2年の建造の銘があり、別当は江戸時代、現中町地内にあった修験宗八幡山大光寺であったことがわかっています。






二度ほど移転を繰り返したと伝えられ、大光寺の八幡山という山号から当初八幡神社付近にあり、その後愛宕神社下(丈六側の中段窪地)に移ったことも考えられます。


日向文書参照








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| ryuichi | 05:45 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町 |
三春城下享保十四年「商売諸職書上」 三春城下八幡町 朝日屋豆腐店



三春城下八幡町にある朝日屋さんは、創業大正14年、三春城下名物の「三春あげ」の製造販売店です。


大豆や水という原材料にこだわり、毎朝風味豊かな味を求めておいしい豆腐や油揚げ造りに精魂を傾けている頑固な豆腐屋です。


中でも、出来立てのがんもどきは逸品で、ちょこっと醤油を垂らせばビールのあてに最高です!


その朝日屋豆腐店を営んでいる小林さんから、江戸後期の三春城下の豆腐店を記した一覧表を頂戴いたしました。

享保十四年(1729年)の示された「商売諸職書上」をアレンジされたものです。




三春城下六町には、108軒の豆腐屋を記録されています。


三春城下には臨在宗、曹洞宗の寺院が多く、その禅宗では、修行の一環として菜食を中心とする精進料をいただきます。そのためどうしても不足しがちなたんぱく質を補うために、豆腐が重宝されていました。

新町に豆腐屋が多いのは、地内に曹洞宗寺院の天澤寺、州傳寺、に多くの雲水が修行出頭していた事や、三春藩領内総鎮守大元帥明王社にの別当職である真照寺やそれに付随する修験寺(現在は廃寺)が多く存在したことや、半農を許された下級武士が多く居を構えていたことにより凍み豆腐を下僕名義で造っていたことに由来されるものと考えられています。








江戸時代中期以降の秋田藩政下になると、それまでは主に僧侶や武士の食べ物であった豆腐は一般にも広まり始めます。

それ以前は、「ハレの日」の食べ物で、祭りやお盆、お正月、あるいは冠婚葬祭などの特別の日にだけ豆腐料理を食することができたと伝えられ、赤飯・白ふかし、餅のように、改まった日に食する食べ物とされていました。

特に農民にとっては非常に贅沢品とされていた食材で、江戸幕府三代将軍・家光時代に出された御触書「慶安御触書」には豆腐は贅沢品として、農民に製造することをハッキリと禁じています。


豆腐が身分の分け隔てなく食されるとその旨さが評判を読んだのでしょう、天明2年(1782年)には、『豆腐百珍』豆腐の料理本が出版されています。

朝日屋の豆腐や一覧には、天保7年(1837年)の頃の豆腐の大きさも記載されています。





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| ryuichi | 05:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下八幡町 |