2025-08-15 Fri
KFBシェア放送日8月15日分 「三春盆踊り 北町天神ブース」 髙橋龍一
https://youtu.be/YhN9efH9NUs?si=AJqV61QdrHVXFDFa
・今回は発想を変えて、三春盆踊と同時に北町天神ブースで開催される三春町商工会北町支部、北町若連及び三春町商工会青年部合同で主催のお祭りゲームブースの紹介をメインにしたいと思います。本格的なビリビリ棒、射的、鉄球落とし(いずれも北町若連のハンドメイド)、商工会青年部(型抜き・くじ引き)、そして、味処山惣(やまそう)屋台ブースにて生ビールや“盆踊りおつまみ”を紹介する。
場所は、北町天神広場 盆踊り会場とは別の一角(約50メートル離れる)
立地としては、盆踊り会場を望める場所で、途中に展開するキッチンカーブースも望めます。
〇当日の流れ 髙橋、深谷悠大(小5)リポート 案内役 北町若連
1. 盆踊り会場 四つ角をバックに北町天神からスタート 振り向いて天神ブースへ
2.三春盆踊りの告知 昨年の三春盆踊りVTR 昨年の三春盆踊の様子をナレーション
・江戸時代より300年以上続いている三春伝統の夏の風物詩。8月15日・16日の2日間、大町の「おまつり道路」で行われます。
・通常の盆太鼓や踊りや会場の雰囲気 単調なリズムでどなたでも踊れる
・5mの大櫓若連の太鼓衆による迫力満点内な“ばちさばき”も見どころの一つです。
・最終盤 盆踊りの終わりを告げる“〆の太鼓”として、踊り子を散らす“散らし太鼓”、
通常とは違うという意味の名称“莫迦囃子(ばかばやし)”にはいると、より一層に力の入ったダイナミックなばちさばきとなって、櫓が揺れるほどの太鼓に変わります。
盆踊りが終わる寂しさと、また来年も会いましょうという、思いの中で踊り子はもちろん、来場の方々からの大きな手拍子と歓声という喝さいを浴び、フィナーレを迎えます。
3.北町天神内北町若連及び商工会支部北町ゲーム・露店ブース (奥の蔵側に設置・案内所来客のため駐車場3台分空ける)
・本格的なビリビリ棒、射的、鉄球落としその他 ゲーム体験
・商工会青年部(型抜き・くじ引き)
4.北町味処山惣(やまそう)屋台ブースにて、生ビールや盆踊り仕様おつまみ試食 乾杯!
5.〆 三春盆太鼓で踊って みんなで踊って シェア!
三春盆踊り
100人居れば100人の盆踊りがあります。
太鼓を叩く人、踊る人、見る人、屋台露店の人、そして先祖供養の人などなど様々な方々が盆踊り(お祭り)というワードで一つになって、それぞれが楽しんでいる。
上記は、昨年のシェア!です
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 13:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |
2025-08-14 Thu

お盆はもともと正月と対をなす、祖先の魂をお祀りする行事。
江戸時代までは旧暦7月15日がお盆の中心でした。
ちなみにこの日は必ず満月で、街灯のない時代、祖先の魂が迷わずに家に戻れるように、真夏の明るい夜をお盆の中心に決めたようです。
もともと伝統ある盆踊りの多くは、戦国時代に戦死者の霊を祭るために始まったところが多いようです。
しかし、社会が安定するにつれ、念仏踊りや風流踊りの影響を受けて、共同体の楽しいイベントのひとつになっていきます。
そして、盆踊りが今のような庶民の楽しみになったのは、江戸時代。
三春城下の盆踊り
祈りの形から民俗芸能が生まれました。
現在の盆踊りは、仏教の先祖供養の意味合いが濃くなつていますが、もとは神や精霊を迎える祭りの一つです。
闇につつまれた静寂と祖先供養の敬虔な気持ちが満ちる踊る姿は、美しい「祈り」の姿であって、近頃よく表現されているような「妖艶」なものではありません。
魂に響く太鼓の音や魂を引き込む番楽の動きと同様に、流れるように様々に変化する踊りは、観客の魂と一体となって、清らかな祈りを捧げているように見えました。
江戸期の、三春盆踊りには、江戸時代の飢饉の際、越後や北陸から田村地方に流れてきた避難農民によりもたらされたと考えるのが妥当だと面ます。
八幡町末、城下境の日蓮宗法華寺の外側、三春城下黒門外に「踊り場」という地名が残ります。
江戸期にあった大桂寺の門前にあたります。
ここは、城下と農村の境目、所謂「隈」地帯に当たります。
江戸中期から末期に頻繁に発生した飢饉により領内からの避難民受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所とは隣接します。
この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、多数の死者を出しましたが、その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。
また、城下では新町の競り市場での盆踊りが有名でした。
こはは、明治から大正昭和の初めにかけて庚申坂新地遊郭があったことに由来します。
また、新町は、半農の商人や足軽が居住していた町というところも関係しているのかもしれません。
さらに、楽内や込木と境を接しているため、城下の中でも身分制度が希薄的な感覚があった地域です。
遊女がこの時だけは、郭の外に出て自らが楽しめた行楽で、踊り手もその御女郎につられて多数集まってきたと伝わっています。
江戸期以後、特に大正から昭和にかけての盆踊りは、男女の出会い的要素が多分に多く含まれていました。
時代的に、まだ、貞操観念の希薄や非人差別が尾を引いていた時代に、老若男女よも不合法な男女の出会いを求めて、太鼓や踊りをするためにも編み笠をかぶって顔を隠すこともあったように思われます。
昭和40年代に、それまで各字町内会で独自に叩き、踊っていた三春伝統盆踊りを「観光三春盆踊り」として統一して、町内ごとの盆踊り廃止論に端を発した近年盆踊り事情
100人居れば100人の盆踊りがあります。
太鼓を叩く人、踊る人、見る人、屋台露店の人、そして先祖供養の人などなど様々な方々が、盆踊り(お祭り)というワードで一つになって、それぞれが楽しんでいる。
笠を深く被って顔を隠すようにして踊る地域があります。
顔を隠すことでその人の個性や日常性を消し去り、「依代としての人」になるものでしよう。
正に夏から秋に向かう頃に行われる盆行事は、こうした日本固有の精霊信仰と、仏教の孟蘭盆会が習合してできた行事です。

大正期の踊り場での「盆踊り}
踊り手は、浴衣を着て踊ります。
浴衣とは、本来「ハレ着」とされています。
「ハレ着(晴れ着)」というのは「ハレ(非日常)」に着るものです。
祭礼で山車を曳く人、神輿を担ぐ人、その他、祭りに関係する人は、古来より礼装として浴衣を着ていました。
浴衣の語源は「湯帷子(ゆかたびら)」で、神に奉仕したり、物忌みをする者が、沐浴の後で着る物という意味がありました。
いまは綿の単衣ですが、古には麻の単衣でした。
湯帷子(ゆかたびら)は江戸時代になると、盆踊りの流行でさまざまに変化し、また、元禄のころになると、湯治場の温泉浴衣がつくられます。
さらに、浴衣は合羽代わりの道中着にも用いられるようになります。
日本の庶民の暮らしに深く根づいた伝統芸能ですが、盆踊りは、明治時代の神仏分離令と昭和初期戦争中の遊興禁止令と近代に入ってから二度も国から禁止されています。
竹久夢二「三春盆踊り」 三春町史より
三春盆踊りでは、みんな手ぬぐいを頭に掛けて、いわゆる“ほっかぶり“をして踊っていました。
これは、お盆という意味のから(祭礼時も同じ意味)、この手拭は“身を改める”という意味合いあったようです。
ほっかぶりをする手拭の効果は、各所で見られるように深い編笠などと同じように、盆踊りの「仮装性」を表すものだとも考えられています。
顔を隠して誰かわからなくすることにより、盆にこの世に戻った祖霊・精霊が、ともに踊っているということを示しています。
もちろん、顔を隠すことで、誰彼気がねなく思いっきり踊れるという解放効果もあったことでしょう。
三春盆踊りは、参加も服装もまったく自由ですから、普段着でまったく気にせず踊っていますが、手拭一本あっただけで気分はもう盆踊りモードに突入です。
三春盆踊りのメイン会場となる大町お祭り広場では、月明りと電球提灯、そして、それらを邪魔しないようにと、世界的な照明デザイナー石井 幹子(いしい もとこ)さんにデザインされた街路灯が配され、女性をよりいっそう美しくみせる仕掛けでもあり、趣ある雰囲気を醸し出しています。
そして、昨今の若い女性は、メイクや髪形もばっちり決めて、浴衣を着ておしゃれをしている可愛い方が多く、手ぬぐいをかぶって顔を覆う若い女性はだんだん少なくなっているようです。
盆踊りの衣装の定番ともいうべき踊り浴衣も、お洒落聞きこなしている方が多くみられます。
その多彩な柄がおしゃれで、見ている方も着る方も楽しいものですね。
三春盆踊りも、お盆に招いた御霊をあの世へ送るための念仏踊りが始まりとされています。
尚、江戸時代の武士はどうやら盆踊りの参加については、禁じられていたらしく、幕末の越後長岡藩家老河井継之助を描いた司馬遼太郎著小説「峠」
この小説の中に、「 河井継之助は長岡甚句の盆踊りが大好きでよく 行ったのですが、この盆踊りには武士は参加できないことになったいたそうです。
しかし 継之助は、妹の浴衣を借りて、 顔をほっかぶりで隠して遅くまで町の人と踊ったという 」と記載されていました。
盆踊りの夜、ほろ苦い思い出はあります。
若い頃の話です。
当時は三春の在郷では青年団主催の盆踊りが各地で盛んに開催がありました。
もちろん城下でも観光盆踊りから新町はじめ城下各町でありましたが、ここは男若集がメインとなり踊りに若い女性がいても賞味期限赤信号点滅か知り合いだらけという状況です。
しかし、青年団の盆踊りには女性がワンサカ居ます。このチャンスを逃すてはないと私たち城下の新町若連は選抜隊を結成して応援と称して今日は中郷、明日は中妻、そして…といった具合に出張太鼓に出向いていました。
そして、ここは当時最大の盆踊りが繰り広げられおり、各地の青年団が集まり、色鮮やかで華やかな浴衣、そして各青年団の法被に白い短パンを纏った若い女性で溢れていました。
漂う匂いも汗と香水が合わさり漂っています。ここは桃源郷か!マハラジャか!という感じでした。
こうなると太鼓どころではありません。ギターを弾いている場合ではなかった若かりし頃のロックンロールパティーの如く、ダンスフロアーでチークタイムまで一直線の再来です。
踊り手に混ざり、ぼんぼり提灯に照らされた素足、そしてうなじが妙に光り輝く若い女性青年団員のみなさんと楽しいひと時を過ごしました。
楽しいひと時というのはあっという間に終わりがやってまいります。
するとお待ちかねの懇親会か開催されようとしています。
私たち新町もすっかり仲良くなった女の子達と手を取り合ってその懇親会の会場に向かいますと「ここから先は青年団だけです」と役員さんに冷たく止められました。
「エ、そりゃあんまりですよ、マハラジャでも黒服に止められたことのないんですぜ〜お兄さん」ってなもんです。
するとお手伝いの区長のおじさん達から声がかかり「オレげの婆っパが作った漬物と日本酒があっからこっちで呑め〜」と区長や老人会の役員さんと誰もいなくなった盆踊り会場の櫓の下で男だけの酒盛りとなりました。
時折り、宴会場の会館からは若い女の子たちの楽しそうに笑う声が漏れ聞こえてきます。その声は夜もふけるまで真っ暗になった盆踊り会場にこだましていました。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:17 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |
2025-05-01 Thu

「はなまつり 2025」 お釈迦様の誕生日 稚児行列
三春町仏教和合会・三春町各宗寺院護持会
・令和7年5月5日(月・祝日 こどもの日)
・集合場所 三春城下大町「三春町交流館まほら」 午前9時30分集合
・到着寺院
申し込み場所 三春町仏教和合会各寺院
真照寺・州伝寺・天澤寺・紫雲寺・福聚寺・法蔵寺・光善寺・龍穏院・華正院・高乾院・菊川屋・三春町商工会事務局
各自の用意 白足袋 草履、帯
・前日の5月4日午後4時より、冠・衣装をお渡しいたし、簡単なお遊戯(踊り)指導いたします。
稚児行列に参加されるお子様と保護者の方のご出席をお願いいたします。
申込用紙は、新聞折り込み他申し込み各寺院のございます。
三春城下にある11ヵ寺のお寺さんが集う三春町仏教和合会。
各宗派を超えたお寺さんの会です。
毎年、5月5日の端午の節句である子供の日に行われる稚児行列、そして歳末助け合いへの浄財を集めるために、和合会加盟のお寺の和尚さんたちが、年に二回の托鉢を行っています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |
2025-04-24 Thu
皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会
昭和9年5月4日、皇居内済寧館にて開催された皇太子殿下御誕生奉祝の天覧武道大会の記録です。
旧制田村中学校(現県立田村高等学校)の柔道部を出場していました。
田村高校柔道部の大先輩 内藤忠さん宅のお邪魔した際に拝見させていただきました。
名だたる田村の柔道の大先輩が出場されています。
さらに、大日本柔道誌
弘道館出版です。
柔道の歴史や心構えなどが記載されていました。
久しぶりに身が引き締まりました。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |
2025-04-17 Thu
「小さな城下町三春」に春の訪れを告げる、八幡神社の参道に祭堤燈が並び始め、桜の開花が気になる季節になりました。
旧三春秋田藩五万石の城下町、三春の入り口にある八幡神社(明治初期の神仏離反により、村社格にて旧八幡大菩薩宮を改名)の縁起は、「田村郡神社明細」によれば、戦国期の天文年間に京都岩清水八幡宮よりの勧請(分霊)したとあります。
また「田村郡郷土史」には永正元年三春田村氏の初代田村義顕が居城を守山(現郡山市)より三春に移した際に、田村家祖先以来尊信してきた八幡大菩薩と大元帥明王を三春に移し、ともに三春城の大志田山の一郭(現田村大元神社境内)に勧請(分霊)したと記されてあり、現在も田村大元神社の境内には八幡神社の末社が熊野神社の末社と供に本殿の左右に祀られてあります。
後に江戸時代の正保二年、安倍姓安東秋田家・初代俊季が、常陸宍戸より三春入府の際に、前の三春城主松下氏による近代城下町整備の継続として、八幡大菩薩宮を現在の場所(雁木田)である城下黒門外(現日蓮宗法華寺付近)に移しその門前を八幡町としました。
八幡様は、本源を九州の宇佐八幡といわれます。
この宇佐八幡という人(?)は、奈良時代に奈良東大寺造営など大和朝廷の国家建設に埒腕を発揮して、朝廷より大菩薩号を贈られ王城鎮護の神として崇められました。
後に征夷大将軍となる源義家が、宇佐八幡大菩薩の生まれ変わり八幡太郎と称したこともあり、甲州武田信玄をはじめ代々清和源氏系の氏神として崇められ、戦国時代の武家政権の発達とともに、武人的性格の中で武家に篤く信仰されるようになりましたが、三春藩主安倍姓安東秋田氏は、その祖先安倍安東一族が「前九年の役」「後三年の役」で大和朝廷と源八幡太郎義家に敗れたと言う歴史があるためか、三春藩秋田氏からは冷遇されて、三春城下の境を示す黒門(現在も黒門遺構として桜川沿いに古い石垣が僅かに残っています)の外に移転されたと言われます。
境内には一対の苔むした石灯篭がありますが、これはその昔山賊に襲われた下総結城の商人が、八幡様のご加護により助けられ、そのお礼に寄進した話は有名です。
春の祭礼は、4月の第三日曜日に行われます、神輿還御は、満開の夜桜並木と祭堤燈のかもし出す幽玄な雰囲気の中で、神輿還御の先祓いとなる八幡町若連の勇壮な「長獅子」が供奉奉納され、三春の春を彩ります。
蒼龍謹白 合掌
| ryuichi | 03:05 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |
2024-08-30 Fri
三春盆踊唄 唄唱:村田賢治 伴奏:笛・大太鼓・小太鼓・鉦
昭和06年(1931年) コロムビア 俚謡 26361-A
三春櫓音頭 唄唱:村田賢治 伴奏:笛・大太鼓・小太鼓・鉦
昭和06年(1931年) コロムビア 俚謡 26361-B(34729)
懐かしいおレコードが出てまいりました!
クレジットの通り昭和6年、戦前の三春盆踊りの櫓歌です。
現在の三春甚句は、昭和40年代末ごろに城下各字に在った盆踊りを一本化して「三春観光盆踊り」を組織した時に”正調三春盆踊り”、そして。”正調三春盆歌”として造ったもので、私たちが子供のころに新町セリ市場の盆踊りで聞いていた三春盆歌とは違っていたような気がしていました。
私の父親くらいの年代の方に、盆歌の歌詞を聞きますと、今の盆歌とは語呂や符帳が合いません。
それらをずっと不思議に思っていましたが、このレコードを聴いて、その違いからやっと理解しました。
もちろん民謡の三春甚句のお座敷歌とは全くの別物です。
戦前のセリ場の盆踊り。
当店がまだ以前の店舗で、店内から真照寺の松の木が生えていたころの話です。
昭和39年生まれの私にはおぼろげな記憶しかありませんが、なんとなくテンポの速いこの三春櫓踊唄や三春櫓音頭のメロディーが記憶の彼方から蘇ってきました。
歴民の先輩よりこの三春盆踊の古い音源をお聞きして、探していました。
レコードのことは当店の次男坊が詳しいので探してももらおうと聞き居てみたところ・・・なんと城下北町の料理屋「山惣」の店内に飾ってあったと云うのです。
さっそく、山惣の支配人松村さんにお聞きしたら「これのことかなぁ~」とこのレコードを出してくれました!
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:39 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |
2024-08-16 Fri
三春盆踊り
三春の盆踊りは、県内でも特に盛んで、かつては盆の期間中はもとより、八月を盆の月として、十三夜盆・二十日盆・二十三夜盆・地蔵盆・晦日盆等々約半月に渡り三春各地で盆踊りが盛大に繰り広げられてと伝わっています。
三春盆踊りが、もっとも盛んだったのは大正期で、時間の規制などなく朝方まで踊り明かしたと伝えられ、宗教的要素よりは、娯楽として三春町民の楽しみであったといいます。
三春盆踊りの起源は、室町期の時衆念仏踊り説や参勤交代で三春藩士が江戸で習い覚えた説など、はっきりしていません。
大正期が最盛期というのは、三春経済の発展や遊郭の遊女や芸者の参加、そして若い男女の出会いの場などの要因が重なり合って盛り上がったと考えられています。
唄は七七七五調で、かつての三春甚句音頭取りは、熟練の強者が多く居まして、その場その場で即興唄を作り上げ、音頭取りと踊り手の掛け合いで踊りがおこなわれたといわれます。
旧暦のお盆十四日から十六日が新町と八幡町、十七日が北町、二十日が荒町、二十四日が新町一時地蔵等、月末まで連日盆踊りが開催されていましたが、社会情勢の変化など紆余曲折の中で縮小傾向にあります
現在は三春観光盆踊りとして、各地区太鼓保存会を組織して、帰省客の帰り足となる8月15日16日に、大町お祭り広場で開催されています。
山郷の盆踊りも青年団の解散などで、澤石・斉藤地区など一部を除いて消滅して仕舞いました。
最盛期、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
同じ、地蔵盆では、州傳寺の「一時地蔵尊祭」と天澤寺の「身代わり地蔵尊祭」と重なって近郷近在からたくさんの踊り子が来場しました。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。

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