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「身代わり地蔵尊祭礼」 三春城下清水 天沢寺



三春城下清水にある萬年山天澤寺山内にある、安寿と厨子王伝説の残る「身代り地蔵尊」堂です。

地蔵盆の昨日、「身代わり地蔵尊祭礼」が開催され、法要と大数珠繰り、そして、ご詠歌がありました。


地蔵尊祭典では、大数珠繰りが行われます。
参集した方々が大数珠を手繰ります。

大きな房が自分の前に来るまでの間は、お地蔵様の御真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」を一心にお唱え致します。

古来より地蔵盆の大数珠を体に当てると、邪気を払い除け、身を清めてくれると言い伝えられています。





天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」

安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
 
物語は、平将門の子孫で、相馬藩相馬氏と縁のある岩城判官平政氏は、康保4年に賊将が朝廷に背いたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜って岩城に国守として着任してきました。
 
政氏には2人の子があり、姉は家臣・村岡重額の妻となり、弟の政道は父の後を継ぎました。




この政道が、安寿と厨子王の父親です。

しかし、家臣である村岡の陰謀によって父正道が無実の罪を着せられ西国に流罪となります。

安寿と厨子王、母、乳母の4人は、朝廷に無実を訴えようと京へ向かいますが、越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、安寿と厨子王が丹後に、母と乳母は佐渡に売られてしまいます。

 丹後の由良で"山椒太夫"に買い取られた2人は、つらい労働を強いられます。

安寿は、弟の厨子王を密かに逃がしますが、ひどい拷問の末に命を落とします。

一方、厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着きます。




後に、父の無実が晴らされ国守に再任された厨子王は、長い苦難の末、母と再会するというお話ですが、お話の中に2人の災難を身代わりとなって救うお地蔵さまが出てきます。

それは、安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や痛みや傷は消えたそうですが、その代りこのお地蔵さまにやけどの傷があったと伝えられています。




 
この話に出てくる地蔵尊像が、天澤寺境内「身代わり地蔵尊」です。

 かつては1月24日の初地蔵と8月24日の地蔵盆には、多くの参拝者でにぎわい、地蔵和讃や御念仏を唱えてお地蔵さまに感謝し、家族の安全を祈願していました。



 
また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。

 今でも参拝する方々やご家族のその身に降りかかる病気や怪我などの災難を身代わりとなって負っていただけるという有り難いお地蔵さまです。

親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。

亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。

 こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
 





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂




| ryuichi | 03:40 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下歳時・風土記::歳時記 |
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり

子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め地蔵盆には“御霊まつり“が開かれています。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。

亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。

 こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
 
親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。

人々は「地蔵和讃」の御詠歌を唱和、詠じて、親は死んだ子を地蔵に託すことで悲しみを軽減したり、地蔵尊をを敬い賛美して幼子の供養や子供の無事成長を祈ったのでしょう。






私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原地蔵和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。


賽の河原地蔵和讃

これはこの世のことならず

死出の山路の裾野なる

さいの河原の物語

聞くにつけても哀れなり

二つや三つや四つ五つ

十にも足らぬおさなごが

父恋し母恋し

恋し恋しと泣く声は

この世の声とは事変わり

悲しさ骨身を通すなり


かのみどりごの所作として

河原の石をとり集め

これにて回向の塔を組む

一重組んでは父のため

二重組んでは母のため

三重組んではふるさとの

兄弟我身と回向して

昼は独りで遊べども

日も入り相いのその頃は

地獄の鬼が現れて

やれ汝らは何をする

娑婆に残りし父母は

追善供養の勤めなく

(ただ明け暮れの嘆きには)

(酷や可哀や不憫やと)

親の嘆きは汝らの

苦患を受くる種となる

我を恨むる事なかれと

くろがねの棒をのべ

積みたる塔を押し崩す


その時能化の地蔵尊

ゆるぎ出てさせたまいつつ

汝ら命短かくて

冥土の旅に来るなり

娑婆と冥土はほど遠し

我を冥土の父母と

思うて明け暮れ頼めよと

幼き者を御衣の

もすその内にかき入れて

哀れみたまうぞ有難き

いまだ歩まぬみどりごを

錫杖の柄に取り付かせ

忍辱慈悲の御肌へに

いだきかかえなでさすり

哀れみたまうぞ有難き

南無延命地蔵大菩薩


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:39 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下歳時・風土記::歳時記 |
令和3年 三春城下は春爛漫!




三春城下は春爛漫!

例年ならば、三春が一番輝く季節を町民も観光のお客様も、その春を存分に謳歌していただけたんだろうと思います。

今年も春を迎えられた喜びに浸りながら、「日本に生まれてよかった!」、「日本に住んでよかった!」、「日本に来てよかった!」とそれぞれに思いを走らせ・・・・

お陰様で、当店では多数のお客様に御来店いただき三春花見団子やおたりまんじゅう、そして、豆大福の売れ行きが例年と変わらず、お客様には御礼を申し上げます。






三春は四季折々、自然の美しい彩りをうつしだします。


梅。桃。桜が一度に咲き競うと言う地名の由来のとおり、三春の春は春一統の春です。

中でも天然記念物の滝桜は、全国的にも有名で多くの人々を楽しませてくれます。

千年を越えるこの滝桜が、静かに見守ってきた町づくりの移り変わりをひもといてみると、 城下町としての形ができたのは戦国時代でした。

愛姫の祖祖父、田村義顕公が大志田山にお城を築き、大元帥明王社や菩提寺でもある、福聚寺を建てたのが始まりです。






戦乱の世が過ぎ、江戸時代初期には秋田俊季公が三春にはいり、 経済や文化を中心にして旧制の町都市をかたちづくってきました。

三春小学校の明徳堂の門や藩学校、 明治時代には自由民権運動家を育てた正道館の門と町の教育のシンボルでもあります。

自由民権運動は、 西の板垣退助、東の河野広中を中心にして国会開設、 憲法制定を要求する運動を展開してきましたが、加波山事件、そして秩父事件を起こし その幕を閉じました。


江戸時代から、三春に住む人々の労いのある祭りや行事が引き出したようです。

家内安全の祈祭でもある「水かけ祭り」、 一年の縁起、そして町と村の交流でもある「だるま市」、8月15.16日に開かれる「三春盆踊り」などが代表的なもので村々の鎮守様の祭りも、今なお受け継がれています。






ゆっくりと時代の流れをさかのぼっていくと、 三春には日本を代表するものもあります。

戦乱の世、 ただひたすら水墨画を愛した画匠、雪村がおりました。

雪村の作品は外国へ流出したものも多く、今では雪舟と並び評されています。





江戸時代、山村の地である高柴デコ屋敷の農家の人々はいろいろな三春人形を作り始めました。

まず、山村の地でこれだけ艶やかで素朴さを秘めた人形がつくられてきたのか、 不思議でなりません。

貴重な郷土人形を保存するために蔵を移設修復し「三春郷土人形館」を建設しました。
らっこコレクションを中心に展示されており、全国からの入館者で賑わっています。








明治大正時代と、三春は活発な商業活動をしておりました






大正3年には三春・郡山間に鉄道が引かれ、大正12年には田村中学校、 現在の県立田村高等学校が開校され、多くの優秀な人材をおくりだしています。 しかし、明治末期に開通した東北本線は、三春と郡山の経済流通機能を変えてしまいました。






数多くの一途歴史を見守ってきた滝桜は、今年もまた大木の一枝ー枝に可憐な真紅の花を咲かせるでしょう。

先人に、学ぶことの大切さを肌で感じる、新しい町づくりの拠点である歴史民俗浴資料館には、3万点以上の資料が収蔵されています。


今、「古きを尋ね、新きを知る」と言うことわざのとおり、三春は21世紀に向けて新しい歴史への頂点として、しっかりとした町づくりに取り組んでいます。



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春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:31 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下歳時・風土記::歳時記 |
#端午の節句を前に「五月武者幟」を設置しました。




#端午の節句を前に「五月武者幟」を設置しました。


柏餅の販売期間中の掲載となります。






例年、当店の柏餅販売は級の節句までとしていますが、今年の旧節句が6月14日です。


少し早いようなので6月の最終日曜日である6月27日(日)迄の柏餅販売となります。









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 13:57 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下歳時・風土記::歳時記 |
日暮硯 「十三夜 月待供養」 十三夜月見団子



十三夜 月待供養

お月見というと旧暦八月十五日の十五夜がもっとも有名ですが、日本では古来もうひとつ旧暦九月十三日の十三夜もまた美しい月であると重んじていました。

古くから秋の名月を鑑賞する「お月見」の風習と月待ち行事があり、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行したとされています。






月待供養とは、十三夜(虚空蔵菩薩)、十五夜(大日如来、聖観音)、十六夜(大日如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩、如意輪観音)、十九夜(如意輪観音)、二十三夜(如意輪観音)、などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという行事です。




特に、信仰が厚かったのは二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は三春城外の在方の村はずれや寺社の境内などに広くみられます。




二十三夜は「三夜待ち」「産夜」とも呼ばれて、男の日待供養に対比するかのように、月待は女性の講だとも云われます。

月待講を口実に、農家の女性たちが食べ物や飲み物を持ち寄り、わずかな時間ですが、月を愛ながらおしゃべりや飲食をしながら、楽しいひと時を過ごしていたのではないかと思います。





今年平成29年の十三夜は旧暦の9月13日 平成29年11月1日(水)となります。

十三夜月見団子 十三個入り 650円税別

おしゃべりのお供にいかがでしょうか・・・


 蒼龍謹白   合掌


| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下歳時・風土記::歳時記 |
「法蔵寺蓮祭り~観蓮会」三春城下真夏の朝の風物詩28


三春城下、真夏の早朝の風物詩 「法蔵寺蓮祭り~観蓮会」 28


先の海の日、
荒町にある時宗法蔵寺で、三春城下真夏の早朝風物詩「法蔵寺蓮祭り~観蓮会」が開催されました。




今年は、春先より気温が高かったお陰で、蓮の花も例年に比べて二週間ほどはやく咲き始めたようで、観蓮会も少し早い海の日の開催となりました。




天候にも恵まれ、今年もたくさんのお客様に来山され、賑やかに、華やいだ開催となっていました。




観蓮会一番の目玉、朝茶会お接待の有我社中の皆様、また、優美で幻想的な舞を披露していただいた「花架拳」の皆様には、法蔵寺観蓮会を盛り上げていただきました。




象鼻杯


塵芥と言われる俗世間に住む人々の持つ我。その象徴のような泥の中から山のような何とも香りのよい、心を清らかに安らかにさせる白い蓮の花が咲く・・・・
朝もやのなか、次々に花開く法蔵寺山内の情景は、正に極楽浄土を見ているかのようです。




朝茶会






日本や中国では、仏教での極楽浄土とは蓮池のことであるとされていたため、寺院などの境内には蓮池がよく見られます。

山内の蓮は、7月いっぱいの早朝から午前中が見頃です。





蓮おにぎり、蓮茶などお接待です。







副住職より、法蔵寺特製「蓮のポストカード」をいただきました。






「念ずれば花開く」 また一つ方丈様からご教授されました。
ありがとうございます。






蓮まつり 「蕎麦打ち教室」
7月24日(日)午前10時

参加費1000円(申込締切20日まで)
蕎麦試食会(無料)午前11時
参加自由 





画像はいずれも法蔵寺様より拝借


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:45 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下歳時・風土記::歳時記 |
三春物語958番「板塔婆」


「板塔婆」とは、故人の供養のため、梵字や経文などを書いて法要の時などに墓に立てる細長い板のことで、卒塔婆 (そとば)ともよばれています 。

板塔婆を建てることは、良いことをすることにつながりその功徳を故人に廻らすという供養の一つの形ということのようです。

今回、法蔵寺の副住職から聞いて目からうろこが落ちたとばかりに驚いたのは、年回法要の時に、一回の法要に一枚だけ建立と思っていましたが、実は、花やお供物などと同じように、故人の供養と施主自身の功徳のために、思いのある方が建立してもかまわないということでした。




建てる数も施主が一本のみというところもありますし、建てたいという親戚も建てて20本くらい一度に建てるところもあります。
つまり、故人が親ならば法要の施主のみならず、兄弟や子供たちが各一枚ずつ建立というのもあり得るということでした。

また、建てなければ供養にならないということでもないということです。

そういえば、都内の墓地を見ますとやたら板塔婆の数が多いことを思い出しました。

当家でも本家ですので、先祖供養の年忌法要を多々施させていただいていますが、初めて聞くことでした。

どおりで板塔婆の料金が別に必要なわけですね。




この板塔婆を、よくよく調べてみますと、年忌法要や彼岸などに、お墓の周りに立てて、故人の冥福を願って建立するもので、サンスクリット語の“ストゥーバ”が語源と伝わっています。
その昔、お釈迦さまが入滅したあと、その舎利(遺骨)を納めた塔(ストゥーパ)を建てて供養したのが始まりとされ、それが日本に伝わり、三重塔や五重塔、多宝塔の意味となり、五重塔を模して五輪塔が建てられましたと記され、板塔婆とは、その五重の塔などの塔の簡略化したものです。


三春昭進堂 髙橋龍一


| ryuichi | 05:32 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下歳時・風土記::歳時記 |