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三春総社三春大神宮秋季例大祭 新町睦会 花車と樽神輿奉納





三春総社三春大神宮秋季例大祭

新町睦会 花車と樽神輿奉納







この樽神輿は、長獅子との隔年奉になります。

昭和50年代初頭に、長獅子の無い年に奉納しようと、田村大元神社別火講中の有志で作られ、紆余曲折しながら平成5年に新町睦会として整備されました。









新町の花車は、20数余年前に復元しました。


昭和30年に、一度だけ奉納した旧新町太鼓山車で、田村太元神社の縁の下に70年間眠っていたものです。









彫り物は、盆太鼓櫓や随神門下などに、分散して保管してありました。






恵比寿さまや、鶴に亀など祝いの彫り物があります。

明治期に作られた大太鼓舞台「花車」の遺構です。














来週末は、三春大神宮の祭礼です。

新町睦会、三春最大の樽神輿用樽を三春駒佐藤酒造さんより拝借です。

その数、13樽で三段重ねとなります。






神様にお供えするといったニュアンスから、昭和40年代に始まったとされる三春城下各町会の樽神輿。

派手好きなここ新町では、一番大きな神輿を選択しました!

これが重いのなんのって・・・・両サイドに補助棒も追加しての奉納となります。

注・この補助棒は背の低い人用に作ったんではありませんから・・・あ!俺にぴったりの高さだった。






三春城下新町には、田村大元神社別火講中があり、その講中で二年毎に、三春大神宮に長獅子を奉納してきた町会です。

当時の三春大神宮祭礼の日程は、10月1日から3日までの三日間挙行されていました。

初日の一日の神輿渡御では、中町、八幡、町荒町を巡り、夕刻に八雲神社下荒町公民館から三春大神宮へ還御.

そして3日の渡御は、中町、大町、北町、新町を巡り、夕刻に旧新町公民館から三春大神宮へ還御していました。

各町内の山車や樽神輿の供奉は、この新町出坐の3日目と決まっていました。

3日の夕刻、各町内から樽神輿と太鼓台や山車が神様を迎えに新町に参集してくる様は圧巻です。






当時の別火講中の方々の中で、「長獅子奉納の無い年に、ただ見送るのではなく、自分たちでも樽神輿を作って奉納しよう!」と昭和54年に、別火講中の有志やOB,そして私たち若造を入れて樽神輿を作ったという次第です。


なんと二回目までは、トラック用のバッテリーを仕込み、カラオケセットを搭載して、休憩のたびに歌っていました!







以来、二年毎に奉納してまいりましたが、時代の流れの中で様々な紆余曲折を乗り越えて、私たちが引き受け、新町睦会で運行を始めました。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮) |
「三春大神宮秋季例大祭 神輿渡還御」三春昭進堂主人 高橋 龍一




「三春大神宮秋季例大祭 神輿渡還御」     三春昭進堂主人 高橋 龍一


三春大神宮由来について


 三春神明宮・天照御霊神社(三春大神宮)は、江戸中期の元禄二年、三春藩三代藩主秋田輝季公が、母正寿院が信仰する神明宮を貝山岩田より現在の地、神垣山に還宮して三春藩社としました。






その遷宮を祝して藩主一門や藩老臣たちが奉納した古絵馬が現存しています。

以来、歴代藩主の信仰厚く、藩役職に神明奉行と下役を置き、参勤交代の行帰時の参拝や、在城中の正月参拝、湯立て行事による年占い行事の差し出しなどが行われ、また家中はもちろん、御城下町人、貝山村人などの信仰を集めました。








江戸期秋田藩政の三春総出の祭礼は現在の三春大神宮ではなく、三春秋田家五万石総鎮守大元師明王社(現田村大元神社)でしたが、戊辰の役により徳川幕府が崩れ去り、明治維新、廃藩置県、廃仏毀釈という歴史の転換期の中で、三春の祭礼も大変革を成しました。







明治維新後は、明治新政府の布令により、三春藩庁は明治四年に三春藩との係わりや仏教色の濃い大元師明王社を取り止め、天照皇大御神・豊宇毘売大神を祀る三春神明宮を伊勢神宮と祭主が同じとして、三春領内の鎮守として現在の三春大神宮例大祭の原型が創られました(縣社格取得は明治三十二年)。







三春大神宮神輿渡御について

三春大神宮としての祭礼は、明治四年の三春藩庁の布令により、旧領内総鎮守大元帥明王社の祭礼を模して、祭事用具(御神体神輿以外)を引き継ぎ、旧暦の九月十五日から十七日を祭日として挙行されたのが始まりとされています。(三春町史3近代1参照)


当時の祭礼、御神輿渡御は、藩政時代の大元師明王社を模して挙行され、三春領内(現田村郡全域と郡山の一部)の三十三郷が、頭屋制を持って奉仕し、資金は明王講の積み立てにより工面していました。







その祭礼行列も三日間を掛け三春旧町内を渡御し、近隣より、大勢の祭り見物のお客さんが三春を訪れ、その監視と整理のために役人を出し、櫓を立て寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。       








その様は、絵図が示す通り荘厳で、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(荒町八雲天王宮長獅子)に警護と使番が付きー禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊―月天坊―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他、が踊りを奉納したと言います。





戦前の田村大元神社長獅子




長獅子奉納について


先祓いを勤める長獅子は、荒町天王様の「荒獅子」が勤めていましたが、明治初年に大元師明王社の祭礼でいざこざを起こし、奉納取り止めになったのをきっかけに、新町と八幡町の若衆が、荒獅子を真似て長獅子を造り、それぞれ新町では田村大元神社、八幡町では八幡神社で奉納するようになります。



それに伴って三春大神宮の祭礼でも、荒町・新町・八幡町の順番にて三年交代での奉納が決まりましたが、初めての八幡町長獅子の当番時に、神社総代とイザコザを起こし、それから現在の荒町・新町の長獅子による、隔年交代となりました。



満州事変、日中戦争など大東亜戦争への不穏な足音が聞こえる、昭和の初め頃に、大日本帝国内務省、「神祇院」による「官幣社」「国幣社」からの国家神道による国民精神教化と思想統制が行われたことや、凶作が続き、世界的な恐慌の煽りを受け、三春の経済も昭和恐慌と呼ばれる停滞期を迎え、
大東亜戦争勃発にともない出征軍人の壮行会や、戦勝祈願が盛んになり祭礼自体は、縮小傾向になり、そして戦争中期以降は中止になりました。




 
神輿露払いの荒獅子


大東亜戦争敗戦後、占領軍司令部GHQの神道司令により、神社は国家管理を離され、神社本庁がこれを統率するようになりました。

これにより、大正期から軍部により歪められていた、日本国民と神道・神社との係わりが見直され、「神祇院」「国弊社」など国家神道・神社運営の解体にともなって、三春大神宮の祭事が禁止され、祭礼も中途絶えていましたが、GHQの命令(昭和20年代初め)によって、国有地であった神社境内地の払い下げを三春町が受けたのを期に、三春大神宮祭礼復興兆しが見え始め(昭和30年代)、十月一日から三日を祭礼として、経済復興に伴って馬場尼ヶ谷の宮下子供神輿が供奉するようになると各字でも子供神輿の奉納が自然増殖的に始まりました。




三匹獅子は、大元帥明王社の三匹獅子が勤め上げ、その歴史は古く、神明宮遷宮時より、御神輿に供奉していましたが、太平洋戦争末期の祭礼中止により取り止めになりました。









各字奉納山車、花車、太鼓台について


各字よりの御神輿渡行・還御の供奉に付いては、江戸期は、田村大元帥明王社祭礼の時は、各町内の町役員が裃姿で高張り堤燈を持って供奉し、踊りの組が随伴していましたが、明治中ごろからは、各字役員と各字隣組組長も、堤燈持参で行列に加わり、それに付随して、商人の街である、中町・大町・北町・新町の山車が随行したと考えられます。






明治末より昭和初期にかけて、三春では、繭・葉煙草や農耕・軍による三春産馬などの売買が盛んになり、その好景気で、中町・大町・北町・新町等の大店が店を構えて羽振りを利かせ、多額のご祝儀、篤志寄付により、商人街の各字では、競い合うように舞台を兼ねた大型の山車が作られ、祭礼への奉納になったと聞き及んでいます。




また、各字若連では、山車の舞台の高さを大店の二階に合わせて建造して、渡り芸人を招いて芸を披露したり、芸者を引き連れて興行となり、多額のご祝儀を出す大店では、二階の座敷にお客さんを招き、座敷前に曳航した山車の繰り出す演目を観覧しました。


この頃の三春の祭礼は、県内でも有数の華やかな賑わいで、その祭礼を一目見ようと、近郷近在より大勢の祭り見物客が三春に来町したと言われます。



各字神輿奉納について









大人神輿の若連会は、それまで各町内にあった山車が、老朽化と道路舗装に伴う事故のために奉納が取りやめになっていましたが、昭和30年代から昭和40年代の初めにかけての日本経済の高度成長期と重なって、各字で若連会が再組織されて御神輿還御の時に、各若連の樽神輿の奉納を行ったのではないかと考えられます。









現在は、体育の日の直前土日を祭礼として挙行され、最終日には長獅子(荒町・新町隔年交代)を先祓いに御神輿渡行が行われています。

還御も長獅子の担当と同じくして、荒町御出立と新町御出立で隔年交代で行われ、青白天狗・長獅子・御神輿・赤天狗・宮司神官・神社総代、各町神社総代・各字委員が続き・宮下小若連を先頭にして、八町の子供神輿と・六基の大人神輿、そして四基の花車太鼓台が御神輿還御に供奉されています。


以上・三春大神宮例大祭の遍歴を、三春町史参照と、各字長老の方々より聞き取りにより書き留めましたが、明治35年9月の三春大神宮裏山土砂崩れで、資料となる多くの文献が土砂に流され紛失した事と、戦前の大日本帝国軍部による神道国家路線による神社統制が三春大神宮では顕著だった為に、敗戦後資料の処分が多分に行われたことが想像され、現存する資料が少ないのが現状です。
       










高橋哲夫著「河野広中小伝」の冒頭に、「戊辰戦争の直前、町の祭礼の時に、大町組山車と新町組山車との争いにおどり出て、あわや刃傷沙汰になろうとしたが、兄広胖が駆けつけようやく事なきを得た。」という話が記述されていますが、田村大元帥明王社の祭礼のことです。










春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:43 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮) |
平成29年度三春大神宮秋季祭礼還御 新町出座



平成29年度三春大神宮秋季祭礼還御 新町出座

今年の還御は、長獅子掛が新町田村大元神社別火講中ですので、新町出座となります。




タイトル「やべー!こっちに来る~(´;ω;`)


そして・・・・



恐くなんてないさ~♬ バイバーイ!



神輿渡御の一場面・・・・当店のマスコット”豪栄道”の雄姿です。







当店の周りは、神輿や山車でごった返しといった様相で、還御出座の時刻を待ちます。

もちろん先頭の露払いは新町別火講中による長獅子です。






新町所消防屯所を先頭に、総代一同、各字役員、字小若連神輿、そして山車・花車、大人の各若連神輿と続きます。

例年の長獅子休息所が新町字事務所となっています。






この出発を待つ時間に、ボルテージが最高潮を迎えます。







”祭りのあと"吉田拓郎 


祭りのあとの淋しさが いやでもやってくるのなら

祭りのあとの淋しさは たとえば女でまぎらわし






もう帰ろう、もう帰ってしまおう

寝静まった街を抜けて~






もう眠ろう、もう眠ってしまおう

臥待月の出るまでは






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::三春大神宮 |
「三春神明信仰 神明さまの由来」 
「三春神明宮由来」 




「守子と唱ひしもの(俗に神明婆といふ)老婦人有之 この者貝山村字岩田に住みし伊弉冉伊弉諾両神を箱に入れ 守りをせし為に守子と唱ひしや」
とあり、神明様はその主祭者を守子といい、御神体を箱に入れていたことがうかがえます。





また、伝承にも、おばあさんが、ふさふさしたお神明様を箱に入れて持ち歩き、祈禱する時は両手に御神体を持ち、「伊勢神明......」などと祭文のような唱えごとをし、肩凝りには肩、頭痛には頭をさすってくれたと伝えられています。

また、不幸などが続くと、「神明様に仏様でも出してもらい,そのわけでも聞くか?」といって、神明婆さんに尋ねてみると、「守本尊に手を合せていない」と言われたので、「守本尊は何ですか?」とふたたび尋ねると、「普賢菩薩だ。よく拝んで癒ったらお百度あげます。といって拝め」などとの託宣があったともいわれています。




神明様は本来、家屋敷、家族の息災と繁盛を祈念する神というが、神明を振り神がかりをし、病気平癒、火伏から肩凝り・頭痛などを癒し、子どもがむずかる時の祈禱など、幅広い信仰をもつとされています。

神明様にはオシラサマに見られるせんだん栗毛·まんのう長者などの祭文を伴なう蚕神としての信仰は見受けられません。




また、この神様は大変気まぐれで、怒りっぽく、祟る神ともいい、人々は神明様を持ち歩く人に不調法をしてはならないといい、終わると必ずご馳走したと伝わります。

いわきでの聞き書きですが、三春の神明様は、法華宗の家では大切にしてくれないといって決して寄らないし、その宗派の寺にもはいらないと云われています。






相馬郡小高町土浦の某家のお神明様は、三春から来た四代前の祖母が祀っていたもので、亡くなってからは神棚に放置しておいたが、当主が病気勝ちになり、他のお神明様に拝んでもらったところ、お神明様を祀らぬためといわれたそうです。

また、年に1度遊ばせて欲しいとの託宣もあり、最近四月11日の祭日には、洗濯と称して着物を新たに着せて祭りをすると伝わります。

三春町史6民俗編より






平成29年度三春大神宮秋季例大祭が始まりました。





三春城下はお祭り一色に染まります。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:29 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮) |
平成版三春古蹟漫歩 「三春大神宮の神馬(木造白馬)」



三春大神宮の神馬(木造白馬)

三春大神宮参道の石段を登り切って境内にあがり、拝殿に向かい左側に神馬厩があり、その中に、御神馬として白馬の木造が収められています。

この白馬は、江戸後期の文久年間に、時の三春藩十代藩主秋田肥季が、藩の総鎮守三春神明宮(現三春大神宮)に奉納したものと伝わっています。





作者は、旧文殊村石森の伊藤光雲で、制作の指導にあたったのは、藩の馬術指南役であり、駒奉行だった徳田三平好展(二代研山)です。

光雲は、官吾(観吾)といい、父は観正院の法印でした。





光雲は祖父の生業を継ぎ、木工を業としていました。
意匠が上手く、特に彫刻に秀でていました。

この三春大神宮の神馬や、大元神社神門梁彫刻や仁王像二尊、愛宕神社唐獅子等の作品もみな光雲の作品です。

さて、大神宮の木造白馬は、当時の駿馬を模したものと伝わっており、その製作中指導監督役の徳田研山は、モデルとなった馬に乗り毎日城下から石森まで通い、不備な点を何回も直させたといいます。




均整の取れた馬像は、美術品としても十分見ごたえのある作品です。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:09 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::三春大神宮 |
日暮硯 平成27年三春大神宮秋季例大祭若連連合会始末


平成27年三春大神宮秋季例大祭若連連合会始末



中町若連の公演 「津吹みゆ歌謡ショー」の模様です。

今年から、中町後免町口の広場での公演となりました。



荒町小若連の山車



八幡町の山車



八幡町と中町の山車



中町山車太鼓掛



新町の山車後ろ姿







今年も無事奉納が完了です。

お疲れさまでした。

三春昭進堂




みんな~楽しんだかい?




| ryuichi | 05:22 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::秋季例大祭・三春若連連合会 |
日暮硯 平成27年度 三春大神宮祭礼還御 新町出座


平成27年度三春大神宮秋季祭礼還御 新町出座

今年の還御は、長獅子掛が新町田村大元神社別火講中ですので、新町出座となります。

当三春昭進堂の横にての、若連連合会の会役員の方々による最終打ち合わせです。



当店の周りは、神輿や山車でごった返しといった様相で、還御出座の時刻を待ちます。

もちろん先頭の露払いは新町別火講中による長獅子です。



新町所消防屯所を先頭に、総代一同、各字役員、字小若連神輿、そして山車・花車、大人の各若連神輿と続きます。

例年の長獅子休息所が新町字事務所となっています。




この出発を待つ時間に、ボルテージが最高潮を迎えます。


中町若連の親分の後ろ姿・・・・・・・
決まってます。

そして、花火を合図に還御の開始です。



殿は、警備担当消防団三春分団と田村警察署員です。



吉田拓郎の歌に”祭りのあと"
という歌がありますが、ひっそりとした新町かいわいです。



祭りのあとの淋しさが
いやでもやってくるのなら
祭りのあとの淋しさは
たとえば女でまぎらわし
もう帰ろう、もう帰ってしまおう
寝静まった街を抜けて

もう眠ろう、もう眠ってしまおう
臥待月の出るまでは


三春昭進堂

| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::秋季例大祭・三春若連連合会 |