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日暮硯 平成27年三春大神宮秋季例大祭若連連合会始末


平成27年三春大神宮秋季例大祭若連連合会始末



中町若連の公演 「津吹みゆ歌謡ショー」の模様です。

今年から、中町後免町口の広場での公演となりました。



荒町小若連の山車



八幡町の山車



八幡町と中町の山車



中町山車太鼓掛



新町の山車後ろ姿







今年も無事奉納が完了です。

お疲れさまでした。

三春昭進堂




みんな~楽しんだかい?




| ryuichi | 05:22 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::秋季例大祭・三春若連連合会 |
日暮硯 平成27年度 三春大神宮祭礼還御 新町出座


平成27年度三春大神宮秋季祭礼還御 新町出座

今年の還御は、長獅子掛が新町田村大元神社別火講中ですので、新町出座となります。

当三春昭進堂の横にての、若連連合会の会役員の方々による最終打ち合わせです。



当店の周りは、神輿や山車でごった返しといった様相で、還御出座の時刻を待ちます。

もちろん先頭の露払いは新町別火講中による長獅子です。



新町所消防屯所を先頭に、総代一同、各字役員、字小若連神輿、そして山車・花車、大人の各若連神輿と続きます。

例年の長獅子休息所が新町字事務所となっています。




この出発を待つ時間に、ボルテージが最高潮を迎えます。


中町若連の親分の後ろ姿・・・・・・・
決まってます。

そして、花火を合図に還御の開始です。



殿は、警備担当消防団三春分団と田村警察署員です。



吉田拓郎の歌に”祭りのあと"
という歌がありますが、ひっそりとした新町かいわいです。



祭りのあとの淋しさが
いやでもやってくるのなら
祭りのあとの淋しさは
たとえば女でまぎらわし
もう帰ろう、もう帰ってしまおう
寝静まった街を抜けて

もう眠ろう、もう眠ってしまおう
臥待月の出るまでは


三春昭進堂

| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::秋季例大祭・三春若連連合会 |
三春物語805番・三春大神宮秋季例大祭神輿渡御’26


三春大神宮神輿渡御について

三春大神宮としての祭礼は、明治四年の三春藩庁の布令により、旧領内総鎮守大元帥明王社の祭礼を模して、祭事用具(御神体神輿以外)を引き継ぎ、旧暦の九月十五日から十七日を祭日として挙行されたのが始まりとされています。(三春町史3近代1参照)

当時の祭礼、御神輿渡御は、藩政時代の大元師明王社を模して挙行され、三春領内(現田村郡全域と郡山の一部)六十六郷が、頭屋制を布き、当番の三十三郷を持って奉仕し、資金は明王講の積み立てにより工面していました。




その祭礼行列も三日間を掛け三春旧町内を渡御し、近隣より、大勢の祭り見物のお客さんが三春を訪れ、その監視と整理のために役人を出し、櫓を立て寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。       




 その様は、絵図が示す通り荘厳で、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(荒町八雲天王宮長獅子)に警護と使番が付きー禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊―月天坊―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他、が踊りを奉納したと言います。




三春昭進堂 髙橋龍一




| ryuichi | 05:54 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::秋季例大祭・三春若連連合会 |
三春物語633番「三春大神宮秋季例大祭」
 
今年の神輿露払いの荒獅子


「三春大神宮秋季例大祭 神輿渡還御」
                     三春昭進堂主人 高橋 龍一
三春大神宮由来について
 三春神明宮・天照御霊神社(三春大神宮)は、江戸中期の元禄二年、三春藩三代藩主秋田輝季公が、母正寿院が信仰する神明宮を貝山岩田より現在の地、神垣山に還宮して三春藩社としました。その遷宮を祝して藩主一門や藩老臣たちが奉納した古絵馬が現存しています。
以来、歴代藩主の信仰厚く、藩役職に神明奉行と下役を置き、参勤交代の行帰時の参拝や、在城中の正月参拝、湯立て行事による年占い行事の差し出しなどが行われ、また家中はもちろん、御城下町人、貝山村人などの信仰を集めました。
江戸期秋田藩政の三春総出の祭礼は現在の三春大神宮ではなく、三春秋田家五万石総鎮守大元師明王社(現田村大元神社)でしたが、戊辰の役により徳川幕府が崩れ去り、明治維新、廃藩置県、廃仏毀釈という歴史の転換期の中で、三春の祭礼も大変革を成しました。
明治維新後は、明治新政府の布令により、三春藩庁は明治四年に三春藩との係わりや仏教色の濃い大元師明王社を取り止め、天照皇大御神・豊宇毘売大神を祀る三春神明宮を伊勢神宮と祭主が同じとして、三春領内の鎮守として現在の三春大神宮例大祭の原型が創られました(縣社格取得は明治三十二年)。



三春大神宮神輿渡御について
三春大神宮としての祭礼は、明治四年の三春藩庁の布令により、旧領内総鎮守大元帥明王社の祭礼を模して、祭事用具(御神体神輿以外)を引き継ぎ、旧暦の九月十五日から十七日を祭日として挙行されたのが始まりとされています。(三春町史3近代1参照)
当時の祭礼、御神輿渡御は、藩政時代の大元師明王社を模して挙行され、三春領内(現田村郡全域と郡山の一部)の三十三郷が、頭屋制を持って奉仕し、資金は明王講の積み立てにより工面していました。
その祭礼行列も三日間を掛け三春旧町内を渡御し、近隣より、大勢の祭り見物のお客さんが三春を訪れ、その監視と整理のために役人を出し、櫓を立て寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。       
その様は、絵図が示す通り荘厳で、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(荒町八雲天王宮長獅子)に警護と使番が付きー禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊―月天坊―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他、が踊りを奉納したと言います。


戦前の田村大元神社長獅子

長獅子奉納について
先祓いを勤める長獅子は、荒町天王様の「荒獅子」が勤めていましたが、明治初年に大元師明王社の祭礼でいざこざを起こし、奉納取り止めになったのをきっかけに、新町と八幡町の若衆が、荒獅子を真似て長獅子を造り、それぞれ新町では田村大元神社、八幡町では八幡神社で奉納するようになります。
それに伴って三春大神宮の祭礼でも、荒町・新町・八幡町の順番にて三年交代での奉納が決まりましたが、初めての八幡町長獅子の当番時に、神社総代とイザコザを起こし、それから現在の荒町・新町の長獅子による、隔年交代となりました。
満州事変、日中戦争など大東亜戦争への不穏な足音が聞こえる、昭和の初め頃に、大日本帝国内務省、「神祇院」による「官幣社」「国幣社」からの国家神道による国民精神教化と思想統制が行われたことや、凶作が続き、世界的な恐慌の煽りを受け、三春の経済も昭和恐慌と呼ばれる停滞期を迎え、大東亜戦争勃発にともない出征軍人の壮行会や、戦勝祈願が盛んになり祭礼自体は、縮小傾向になり、そして戦争中期以降は中止になりました。
大東亜戦争敗戦後、占領軍司令部GHQの神道司令により、神社は国家管理を離され、神社本庁がこれを統率するようになりました。
これにより、大正期から軍部により歪められていた、日本国民と神道・神社との係わりが見直され、「神祇院」「国弊社」など国家神道・神社運営の解体にともなって、三春大神宮の祭事が禁止され、祭礼も中途絶えていましたが、GHQの命令(昭和20年代初め)によって、国有地であった神社境内地の払い下げを三春町が受けたのを期に、三春大神宮祭礼復興兆しが見え始め(昭和30年代)、十月一日から三日を祭礼として、経済復興に伴って馬場尼ヶ谷の宮下子供神輿が供奉するようになると各字でも子供神輿の奉納が自然増殖的に始まりました。
三匹獅子は、大元帥明王社の三匹獅子が勤め上げ、その歴史は古く、神明宮遷宮時より、御神輿に供奉していましたが、太平洋戦争末期の祭礼中止により取り止めになりました。



各字奉納山車、花車、太鼓台について
各字よりの御神輿渡行・還御の供奉に付いては、江戸期は、田村大元帥明王社祭礼の時は、各町内の町役員が裃姿で高張り堤燈を持って供奉し、踊りの組が随伴していましたが、明治中ごろからは、各字役員と各字隣組組長も、堤燈持参で行列に加わり、それに付随して、商人の街である、中町・大町・北町・新町の山車が随行したと考えられます。
明治末より昭和初期にかけて、三春では、繭・葉煙草や農耕・軍による三春産馬などの売買が盛んになり、その好景気で、中町・大町・北町・新町等の大店が店を構えて羽振りを利かせ、多額のご祝儀、篤志寄付により、商人街の各字では、競い合うように舞台を兼ねた大型の山車が作られ、祭礼への奉納になったと聞き及んでいます。
また、各字若連では、山車の舞台の高さを大店の二階に合わせて建造して、渡り芸人を招いて芸を披露したり、芸者を引き連れて興行となり、多額のご祝儀を出す大店では、二階の座敷にお客さんを招き、座敷前に曳航した山車の繰り出す演目を観覧しました。
この頃の三春の祭礼は、県内でも有数の華やかな賑わいで、その祭礼を一目見ようと、近郷近在より大勢の祭り見物客が三春に来町したと言われます。

各字神輿奉納について


大人神輿の若連会は、それまで各町内にあった山車が、老朽化と道路舗装に伴う事故のために奉納が取りやめになっていましたが、昭和30年代から昭和40年代の初めにかけての日本経済の高度成長期と重なって、各字で若連会が再組織されて御神輿還御の時に、各若連の樽神輿の奉納を行ったのではないかと考えられます。
現在は、体育の日の直前土日を祭礼として挙行され、最終日には長獅子(荒町・新町隔年交代)を先祓いに御神輿渡行が行われています。
還御も長獅子の担当と同じくして、荒町御出立と新町御出立で隔年交代で行われ、青白天狗・長獅子・御神輿・赤天狗・宮司神官・神社総代、各町神社総代・各字委員が続き・宮下小若連を先頭にして、八町の子供神輿と・六基の大人神輿、そして四基の花車太鼓台が御神輿還御に供奉されています。
以上・三春大神宮例大祭の遍歴を、三春町史参照と、各字長老の方々より聞き取りにより書き留めましたが、明治35年9月の三春大神宮裏山土砂崩れで、資料となる多くの文献が土砂に流され紛失した事と、戦前の大日本帝国軍部による神道国家路線による神社統制が三春大神宮では顕著だった為に、敗戦後資料の処分が多分に行われたことが想像され、現存する資料が少ないのが現状です。
       


高橋哲夫著「河野広中小伝」の冒頭に、「戊辰戦争の直前、町の祭礼の時に、大町組山車と新町組山車との争いにおどり出て、あわや刃傷沙汰になろうとしたが、兄広胖が駆けつけようやく事なきを得た。」という話が記述されていますが、田村大元帥明王社の祭礼のことです。








| ryuichi | 04:35 | comments (x) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::秋季例大祭・三春若連連合会 |
三春物語318番「三春大神宮祭礼剣道奉納試合」


旧藩社神明宮である三春大神宮の祭礼には、境内で三春剣道少年団による奉納試合が毎年行われています。

| ryuichi | 15:45 | comments (0) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::秋季例大祭・三春若連連合会 |
三春物語156番 「三春大神宮例大祭」
 

「三春大神宮例大祭」
  神明宮・天照御霊神社(三春大神宮)は、江戸中期、三春藩三代藩主秋田輝季公が、生母正寿院が信仰する神明宮を、貝山岩田より現在の地、神垣山に還宮して三春藩の藩社としました。
幕末徳川幕府が崩れ去り、明治維新、廃藩置県、神仏離反・廃仏毀釈という歴史の転換期の中で、三春大神宮とその祭礼も大変革を遂げました。
明治維新後は、明治新政府の布令により、三春藩庁は明治四年に三春藩との係わりや仏教色の濃い大元師明王社を取り止め、天照皇大御神・豊宇毘売大神を祀る三春神明宮を伊勢神宮と祭主が同じとして、三春領内の鎮守として現在の三春大神宮例大祭の原型が創られました(縣社社格取得は明治三十二年)。
三春大神宮としての祭礼は、明治四年の三春藩庁の布令により、旧領内総鎮守大元帥明王社の祭礼を模して、九月十五日から十七日を祭日として挙行されたのが始まりとされています。(三春町史3近代1参照)
祭礼の御神輿渡御は、大元師明王社を模して挙行され、先祓いを勤める長獅子は、荒町天王様の「荒獅子」が勤めていましたが、明治初年に大元師明王社の祭礼でいざこざを起こし、奉納取り止めになったのをきっかけに、新町と八幡町の若衆が、荒獅子を真似て長獅子を造り、それぞれ新町では田村大元神社、八幡町では八幡神社で奉納するようになります、それに伴って三春大神宮の祭礼でも、荒町・新町・八幡町の順番にて三年交代での奉納が決まりましたが、初めての八幡町長獅子の当番時に、神社総代とイザコザを起こし、それから現在の荒町・新町の長獅子による、隔年交代となりました。
三匹獅子は、大元帥明王社の三匹獅子が勤め上げ、その歴史は古く神明宮遷宮時より、御神輿に供奉していましたが、太平洋戦争末期の祭礼中止により取り止めになりました。
各字よりの御神輿渡行・還御の供奉に付いては、江戸期は、各町内の町役員が裃姿で高張り堤燈を持って供奉していましたが、明治中ごろからは、各字役員と各字隣組組長も、堤燈持参で行列に加わり、それに付随して、中町・大町・新町の山車が随行したと考えられます。

蒼龍謹白・・・・・・・・・・・・合掌


新町睦会花車 

三春大神宮祭礼
明治末より昭和初期にかけて、三春では、繭・葉煙草や農耕・軍による三春産馬などの売買が盛んになり、その好景気で大店が羽振りを利かせ、二階の座敷にお客さんを招き、各字山車では、舞台の高さを大店の二階に合わせて建造し、渡り芸人を招き、その芸を披露したり、芸者を引き連れての興行となり、近郷近在より大勢の祭り見物客が三春に来町したと言われます。
各字若連の樽神輿奉納については、昭和の初め頃に、大日本帝国内務省より創設された「神祇院」からの、国家神道による国民精神教化と思想統制が行われ、その一環として子供神輿が供奉するようになりました。
太平洋戦争敗戦後、ポツダム宣言・GHQの命令により、大正期より軍部により歪められていた、日本国民と神社との係わりが見直され、「神祇院」「国弊社」など国家神道・神社運営の解体にともなって、三春大神宮の祭事が禁止され、祭礼も中途絶えていましたが、GHQの命令(昭和20年代初め)によって、国有地であった神社境内地の払い下げを三春町が受けたのを期に、三春大神宮祭礼復興兆しが見え始め(昭和30年代)、十月一日から三日(御神輿渡御は、還御荒町御出立の一日と新町御出立の三日の二日間で両日とも長獅子が先祓い)を祭礼として、自然増殖的に始まりました。そして昭和30年末から昭和40年代の初めにかけて、日本経済の高度成長期と重なって、各字で若連会が組織されて御神輿還御の時に、各若連の樽神輿の奉納を行ったのではないかと考えられます。
現在は、十月の第一金土日を祭礼として挙行され、最終日には長獅子(荒町・新町隔年交代)を先祓いに御神輿渡行が行われています。
還御も長獅子の担当と同じくして、荒町八雲神社御出立と新町字事務所御出立と隔年交代で行われ、青白天狗・長獅子・御神輿・宮司神官・神社総代、各町神社総代・各字委員・沢石三匹獅子が続き・宮下小若連を先頭にして八町の子供神輿と・新町睦会・中町若連・大町若連・八幡町若連・北町若連による五町の大人神輿、そして新町睦会・中町若連・荒町小若連の山車が御神輿還御に供奉されています。
以上・三春大神宮例大祭の遍歴を、三春町史参照と、各字長老の方々より聞き取りにより書き留めましたが、明治末の三春大神宮裏山土砂崩れで、資料となる多くの文献が土砂に流され紛失した事と、戦前の大日本帝国軍部による神道国家路線による神社統制が三春大神宮では顕著だった為に、敗戦後資料の処分が多分に行われたことが想像され、現存する資料が少ないのが現状です。
                     蒼龍謹白・・・・・・・・・合掌




中町若連 昭和初期山車


| ryuichi | 21:49 | comments (0) | trackback (x) | 藩社神明社(三春大神宮)::秋季例大祭・三春若連連合会 |