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平成三春古蹟漫歩「三春の切支丹」



三春の切支丹

今でこそ宗教の自由が憲法によって認められていますが、旧藩時代には、神仏以外の信仰は許されていませんでした。
特に、徳川家光以来禁制となったキリスト教は、厳しい弾圧が加えられていました。

しかし、根強い宗教の芽は、その弾圧をくぐり抜け、命詠を保ち続けます。

三春藩にも、その芽はあり、その遺跡が見られます。

城下荒町の龍穏院、本堂に向かって左手、平地の墓処に、梶塚家の墓があります。
いわゆる切支丹の墓です。
25基の碑が並んでいますが、最も古いのは、延宝九年戌午五月二十四日、離相独遠禅定門と刻まれているのか確認できます。
秋田輝季が藩主の時代で、今から300年余のものです。

また、他の墓碑も十字を刻んであり、巻外道○眞士というように、特殊な戒名が見られます。

文献によると、天明八年八月に記された公儀代官による「三春藩巡視録」に、“切支丹有無につき3名在藩離脱す“とあり、再詮議が厳しかったので、藩士中の墓石で十字をつけていた梶塚二郎兵衛のものを地中に埋め、申し開きの一礼を入れて事なきを得たと記されています。

梶塚家は200石で、屋敷は北町亀井水の近くでした。
祖先は、豊後守隆重(ぶんごのかみたかしげ)と名乗り、生国は上野国。
伊織という人の代になって秋田家に仕えています。
寛文の頃には、二本松藩の某家よりヤソという人が嫁入りしています。
多分、ヤソというのは耶蘇の意でありましょう。




二本松藩の藩主丹羽家は、織田信長に仕えた旧家だから、藩士の中には切支丹信者もあり、前城主松下家以来、三春との往来も続いていただろうから、その感化も考えられます。

武家は勿論、百姓町人の縁組にも、「嫁入持参申し渡一礼」にみられるように、切支丹疎遠が一筆記された一礼を持参させるなど厳重な禁制下に、国禁である切支丹信仰を保持することは、困難なことだったと想像されます。

三春地方のキリスト教の歴史は、恐らく戦国末期の慶長時代会津蒲生領の頃からと推定されますが、文献、遺構に乏しいのが現状です。

だた、旧中妻村斉藤新田に教堂がったと伝えられています。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
三春物語740番「二十三夜月待講」
「二十三夜月待講」
 
月待講というのは、一般にある特定の月の出を待ってこれを拝する行事とされています。
月齢によって、十五夜から二十六夜までさまざまな月待が知られていますが、もっとも多く行われたのが二十三夜待です。

ほぼ全国的にみられるもので、月待といえば二十三夜待をさすといってもよいほどです。多くは地域ごとに「講」が組織され、神道や仏教などの影響を受けながら継承されてきました。



月待講と称される行事は、現在も各地で細々と行われていますが、その実態は産泰講や庚申講、念仏講などとの習合が顕著で、内容も地域の社交的な寄り合いに終始しています。したがって、本来の月の出を待つという形態はほとんどみられなくなりました。



太陰太陽暦では、基本的に毎月23日に月齢二十三近い月がめぐってきますので、三日月信仰などと同じように、もとは月ごとにこれを祭っていたものと考えられます。



ただ、各地の記録をみますと、正月・5月・7月・9月・11月という事例がほとんどです。これは月待に限ったことではありませんが、陰陽五行思想の影響で陽の数である奇数月が重んじられた結果と思われます。


月見の名所2三春大神宮

勢至菩薩は二十三夜待の主尊とされますが、中世の月待板碑には「二十三夜待」の文字は表れていません。近世に入ると、月待信仰は各地で隆盛期を迎えます。
月待板碑に代って、さまざまな形態の月待供養塔が造立されるようになり、月待自体も目的に応じて講が組織され、多様化が進展しました。


月見の名所1愛宕神社から見たお城山と地酒三春駒の蔵元佐藤酒造の蔵

このうち、十九夜待と二十二夜待では女人講による如意輪観音を主尊とした安産祈願の行事が主流をなし、二十三夜待の信仰とは一線を画した展開がみられます。
江戸では都市文化のなかでも11月の二十三夜待は「霜月三夜」としてよく知られています。


月見の名所3天澤寺の境内からお城山を望む

| ryuichi | 05:01 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
三春物語728番「三春城下の水神信仰」
水神信仰 


(新町末化粧坂井戸)

三春城下では、井戸や引水などの水辺にひっそりと佇む水神さまが祀られた丈六焼きの小さな社が見受けられます。
山間の城下町の三春の郷では、水は大切な資源でした。
そのため、人々は水神さまを水を恵む神として信仰するとともに、水害から守ってくれる神としても信仰してきました。



水は今の私たちにとっても大切な資源ですが、かつて水田耕作を行っていた人々にとって、田を潤し生活を支えるという意味で、水は重要な恵みでした。その一方で、大雨が降り洪水となれば、田も家も流され生活ができなくなります。

さらには、人間の生命の根元であり,汚物や穢れを払い清めてくれる存在ですが,その一方で一度大洪水が起きるとすべてのものが破壊尽くされてしまうように,人間にとっては恵を与えてくれる存在であると同時に恐ろしい存在でもあります。

こうした水のもつ2つの側面は信仰や儀礼のなかにも反映されており,湧水・井戸・用水路などには井戸神・水神・弁天など水を統御する神が祀られています。



また、雨と水を司る神である龍神は、主に海の神として漁師に信仰された神です。
龍とは古代中国における霊獣で、日本の龍神信仰も中国の影響を受けていると考えられています。



| ryuichi | 05:11 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
大晦日

三春城下新町鎮守田村大元神社

毎月の晦日をつごもりともいい、十二月三十一日は大つごもりとも称し、一年最後のみそか、大晦日と言います。
 宮中では、大晦日には節折の式、大祓、除夜祭が執り行われ、神社では大祓の神事が行われました。
 大晦日から元日までの間に行われる行事を「年越し」と言い、。また、昔は誕生日ではなく、年が明けて初めて年を取る決まりでした(数え年)。
 そして、正月との境目となるのが「除夜」、一年の替わり目で、大歳・年の夜とも言います。
 除夜は年神を迎えるために、心身を清め、一晩中起きているのが年越しの習いでした。昔は、年神を迎える神聖な物忌みの夜であったのです。
 

真照寺

除夜には、新しい年の年神がそれぞれの家にやって来ます。
そこで、神様をお迎えする大事なお祭りを行うためこ、一晩中起きている”きまり”でした。
 このとき、「眠る」とか「寝る」という言葉を避けて、寝るときは「稲積む」、起きるときは「稲上げる」と言い換えて、たとえ眠ってしまっても、穀物と穀物の霊に感謝していることを示したのです。
 この夜早く眠ると白髪になるとか、しわがよるとかいった俗信があるのは、その名残のようです。
 現在でも、夜眠らないで元旦を迎える地方がある。
 その代わり、新年第一日日の元日は、一日中寝ている「寝正月」でよいのです。
 


神社ではこれを神事として行い、一晩中大筆火を焚いきます。
 今は、一日は午前零時に始まり、午後の十二時で終わりますが、大昔の一日の始まりは太陽が沈むときで、次の日に再び太陽が沈むときまでを一日としていました。
 つまり、昔の大晦日は、現在で言えば十二月三十一日の日没までだったのです。
 そのため、正月の準備は日没までに終わらせ、夜中から明け方にかけて、年神を迎えて祭る年神祭りをとり行ったのでした。

尚、明日1月1日元旦はお休みです。
初売り「二日市」は1月2日午前8時より

イチゴ大福 120円
道明寺桜餅 105円

先着150名様 粗品プレゼント! 

さすけねぇぞい三春!





| ryuichi | 05:22 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
三春物語681番「名(夏)越しの大祓」
大祓
知らず知らずの内に犯したであろう罪や過ち、心身の穢れを祓い清めるための神事を「大祓」と言います。
江戸期まで秋田藩政下では、三春城下の修験者が中心となって毎年、6月30日と12月31日の2回行っていました。

現在は、明治維新の廃仏毀釈の折に修験道が廃止されて以来、行われていません。

6月の大祓を「名(夏)越しの大祓、12月の大祓を「年越しの大祓」とも言います。
平安時代初期の国家の法制書『延喜式』にも、6月と12月の大祓が記されており、古くから行われていたことがわかります。




夏越は、神意をやわらげる意味の和し(なごし)であるといわれ、この夏を無事健康に
越せるようにと六月三十日に行われるもので、古くは農家にとって田植え終了後の
いましめ又つつしむべき「忌みの日」でもあったようでございます。

大祓には「人形」という、紙を人の形に切り抜いたものに名前と年齢を書き、さらにその人形で身体を撫でて息を吹きかけます。
そうすることにより、自分の罪穢れを移し、それを海や川などに流し我が身の代わりに清めてもらいます。
また、名越の大祓では疫病や罪穢れを祓う「茅の輪くぐり」も行われます。

私達も月日の流れにながされて、今年も早や半年も過ぎ去さろうとしております。
この夏、皆様のご健勝を祈念申し上げます。  

蒼龍謹白 合掌



| ryuichi | 05:00 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
三春物語672番「雛祭り・ひとがた」
雛祭の起源は平安時代中期頃にさかのぼると伝わっています。
 日本では、古くから春の農耕時期を前に、物忌みをし、水で身を清めて穢れを祓う禊が行なわれていました。
 中国から形代による呪法が入り、人形(ひとがた:紙・布・木などで人の形を模した呪具)や形代(かたしろ)を作り、身体をさすって身の穢れや病を移してお酒や供物を添えて流し、無病息災・豊作を願う祓いの行事をしていたのです。
今でも祭り終わったのち雛人形を川に流す流し雛の風習が各地にあり、穢れを祓う心を伝えるものと考えられています。
 平安時代の人々は身体の中に人の形をした悪い虫が潜んでいると信じられていました。
その虫は悪事に執着したり、寿命を減らしたりするものなので、退治をしなくてはなりません。その悪い虫を取り除くために、身代わりとして作った人形で身体をなで、穢れを移して、三月最初の巳の日に川に渡すという場面が記雛人形の原型として、禊ぎ・祓えに関する人形・形代の信仰がひろがりました。
これは、身体の穢れや災いを、身代わりの人型に移した上で川に流すなどして外界へと追放していました。
現在も残る流し雛の源流は、この祓えの習俗だと言われています。



| ryuichi | 05:51 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
三春物語657番「三春の直会(なおらい)」
直会(なおらい)
三春では祭礼末に直会(なおらい)を開催し、神前に供えた御饌御酒を、神職をはじめ参列者の方々皆でいただきます。
 これは、古来より、お供えして神々がお召し上がりになられたお供え物を人々が戴くことは、その神聖なる恩頼を戴くことができると考えられてきました。
この供食により神と人が一体となることが、直会の根本的意義であるということができます。
 また、簡略化されたものとして、お酒を戴くことが一般的な儀礼となっていますが、これは御酒が神饌の中でも米から造られる重要な品目であり、また調理をしないでその場で直接戴くことができるため、形式としておこなうものとなりました。
 神様にお供えした物を下げて戴くということは「神人共食」という祭りの根本的意義が示されています。
 直会の語源は、「なおりあい」とする説があります。
神職は祭りに奉仕するにあたり、心身の清浄に努めるなど、斎戒を致します。
神職は、祭礼の一月前から斎戒として、潔斎して身体を清め、衣服を改め、居室を別にし、飲食を慎み、思念、言語、動作を正しくし、汚穢、不浄に触れてはならないとされ、通常の生活とは異なるさまざまな制約をして、祭りの準備から祭典に臨んでいます。
そして、祭典後の直会をもって全ての行事が終了し、斎戒を解く「解斎」となり、もとの生活に戻ります。
「なおらい」の語源は、もう一つの意味があります。
「戻る=直る」の関係を示して直会の役割を述べたものであり、直会が祭典の一部であることを指し、直会が神事として一般の宴とは異なるのも、こうした意義をもっておこなわれているからです。



| ryuichi | 04:27 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |