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地蔵盆 三春城下清水萬年山天澤寺山内「身代わり地蔵尊祭礼」2021





地蔵盆 三春城下清水萬年山天澤寺山内「身代わり地蔵尊祭礼」2021


本年度は、新型コロナウイルス拡大の影響で規模を縮小して、役員のみの法要で執り行います。



三春城下清水にある萬年山天澤寺山内にある、の残る「身代り地蔵尊」堂です。





地蔵尊祭典では、大数珠繰りが行われます。
参集した方々が大数珠を手繰ります。

大きな房が自分の前に来るまでの間は、お地蔵様の御真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」を一心にお唱え致します。

古来より地蔵盆の大数珠を体に当てると、邪気を払い除け、身を清めてくれると言い伝えられています。





「身代わり地蔵尊」天澤寺山内 信ずる者に助けあり
天沢寺(三春町字清水)に「山椒大夫物語」で知られる安寿と厨子王にまつわる身代わり地蔵尊が安置されている。(岩城実記によれば万寿姫と医王丸、以下これによる)

身代わり地蔵の話は、仏教の教えを説く説経が原型といわれ、安寿姫と厨子王の悲しい物語は、中世以来たびたび小説や演劇の題材とされ、人々に親しまれてきた。









 謀略により筑紫に流された父、陸奥太守を訪ねる旅の途上だった安寿姫、厨子王とその母は、人買いの山岡太夫により母は佐渡に、姉弟は由良の山椒太夫に売られる。
 
由良で二人は山椒太夫に使われ、安寿姫は浜に潮くみに、厨子王は山にしば刈りに出る日々が続く。







 


 そんな中、二人は逃亡を図り失敗、罰として焼き印を押されたはずが、厨子王が持っていた地蔵が身代わりになる。

 天澤寺山内にある身代わり地蔵堂にはに木造地蔵菩薩座像は、安寿と厨子王姉弟の代わりに焼き印を受けた地蔵と伝えられ「身代わり地蔵」とも呼ばれている。

 これにあやかり、古より三春城下では「身代わり信仰」として、災厄やお産など、ことあるごとに身代わり地蔵に参拝する習わしがあったとされています。

  





晩年は本国奥州に帰り、死後岩手山大明神として崇められている。

また、万寿姫の霊魂は岩城山大権現の神号をもって陸奥岩木山(津軽富士)に祀られている。

天沢寺身代り地蔵菩薩はこの医王丸の守本尊で、岩城を経て三春伝えられたといわれる。



 


また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。

 今でも参拝する方々やご家族のその身に降りかかる病気や怪我などの災難を身代わりとなって負っていただけるという有り難いお地蔵さまです。













春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
「満月の三春盆り」 2021




「満月の三春盆り」

本年もコロナ禍の中で中止となりましたが、盆踊りの期間は、8月15日の晩から行われるのが通例です。

今年は天候も怪しいようです。


16日が盆明けということから、賑やかに踊り歌って先祖を送り出すという意味もあったようです。


月の満ち欠けを基本にした旧暦(太陽太陰暦)では、盆踊りの行われる7月15日(現8月15日)の夜は十五夜で、翌16日は「十六夜(いざよい)」ということになります。

いずれかの夜は月が満ちて満月となり、照明のない時代でも月あかりがその場を照らしてくれたことでしょう。






もともと盆踊りは、お盆に帰って来たご先祖様の霊を慰める霊鎮め(たましずめ)と言われる行事でした。


仄かな明かりを頼りに踊る中で、幻想的な雰囲気が作り出され、盆踊り会場内にいる方々に、亡くなった方々を重ね合わせ、あたかも御霊と一緒に踊っているようだったと伝わっています。

月明りと電球提灯、そして、それらを邪魔しないようにと、世界的な照明デザイナー石井 幹子(いしいもとこ)さんのデザインによる街路灯には、女性をよりいっそう美しくみせる仕掛が画されていて、華やかさを醸し出し、趣ある雰囲気と相まって三春盆踊りの楽しさを演出してくれています。

盆踊りの空間はあの世とこの世の境界であり、踊りの所作には霊と自分自身の親しみを表す所作が必ず含まれているとされています。






三春盆踊りの振り付けは、空を指す手の動きは“あの世”を表し、地面を指す手の動きは“この世”を表しているとされ、最後の手拍子は、お盆にこの世に戻ってきた先祖の精霊や有縁無縁の諸霊を供養敬う気持ちをもって「年に一度のお盆を一緒に楽しみましょう」「また来年も来てくださいね」との思いを表しているとされています。






 盆踊りは、念仏踊りがルーツのようで、もともとは、地獄の責め苦から一時のがれて
帰郷した喜びに亡者たちが踊り明かして喜んだという、霊を供養し、ご先祖様に感謝する意味が込められています。







また、もともと伝統ある盆踊りの多くは、戦国時代に戦死者の霊を祀る念仏踊りが始まりとされています。時代が下がり、社会が安定するにつれて風流踊りの影響を受けて、地域の楽しいイベントになったのは江戸時代中期以降とされ、時代とともに華やかさが増していったとされています。

仄かな明かりを頼りに踊る中で、厳かで幻想的な雰囲気が作り出され、踊りの輪の中に、ご先祖の方々を重ね合わせ、御霊と一緒に踊っているようだったんでしょうね。





本日は、終戦記念日です。


1941年から始まった、大東亜戦争(太平洋戦争)

中盤以降、戦局が大きく悪化した日本軍は、アメリカ海軍・空軍の進撃を止め、太平洋の補給路を守るため、海軍航空隊では「神風特攻隊」、」陸軍航空隊では「万朶隊(まんだたい)」を組織し体当たりによる当別攻撃隊を編成して連合軍に対抗しました。

この体当たりの特攻機には、20歳前後から40代前半という未来ある若い航空兵が搭乗し、そのほとんどが敵空母に突入出来ず、撃墜され戦死するに至る方も多くありました。


戦争や特攻というと多くの人らが暗く見るか、現代視点や感覚で結果論や机上論を述べたりします。

過去の反省から学ぶというより、比較して自国非難で終わり、場合によっては当時の誰かを責めたりします。

現代の私たちが、先の事はわからないように、彼らも少ない情報と国民性の中で、先が見えないなりに当時の価値観と社会情勢と環境の中で熟考し、国難を乗り切る為に使命・任務として遂行した事だったはずです。

”非人道的だ!"、"かわいそうだ!"、など考えるのでは無く、自由且つ平穏無事に生きれる今を生きる私たちが如何に幸せかと思ってほしいと思います。

一人ひとりには将来の夢がある未来ある若者です。

突撃前にどれだけ泣いた人がいたんだろう…

愛する家族を守るためとはいえ、やりたいこともたくさんあったはずです。

どれだけ死にたくなかったか。

どれだけ怖かったか。

どれだけ生きたかったか・・・

自分の最愛なる日本の未来も見れずに…






彼らの行い等に意味があったかどうかは、未来へ紡ぐものとして私たちにかかっているようなものだと思います。

先人達が助け合い苦労して懸命に築き上げてきた今の素晴らしい日本という国で、恵まれた良い時代に居る私たちです。
そして、次世代を担う子供たちにも、この国に生まれた事を心から喜び、日本人としてもっと誇りを持って生きてほしい。






過去からすれば今はまだ考える余裕があるのだから、代々繋いでくれた先祖を敬い拝むと同時に、国を憂い家族を想い各々信念を持って戦った当時の方々に感謝し、場所時間問わず今一度じっくり心の中で手を合わせてみては如何でしょう。

若いままの彼らは、何処かで僕らの生き様を見ているはずです。


大東亜戦争で亡くなられた全ての方々にご冥福をお祈り致します。







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:40 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
「馬頭観世音」武部為右エ門・武部八十七 上移の石塔群 





上移の石塔群です。

先の所要があり、移に出向いた折に写真を撮ってきました。






以前、上移の鎌田勝三郎様、そして、同じく移の菅野義徳様にもこの「馬頭観世音」の石碑の写真をいただきご紹介いただいたことがありました。

三春馬の資料にどうぞということで、鎌田様が、平成24年10月に老人会で講演されたときの資料「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」を持参されました。







資料にもありますが、上移曲山地内にある庚申様付近の建立されている「馬頭観世音(大正3年3月17日建立)」の石碑の施主にも武部八十七氏の名前が刻まれています。






鎌田様は、勝三郎様の祖父伊三郎氏が几帳面で、昔の資料を保存していたそうです。


それらの資料を勝三郎様が分析された中にこの資料の中心人物である武部為右エ門・武部八十七親子に出会って興味を持ち調べ始めたそうです。






「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」

明治から大正にかけて上移地区に、武部氏なる人物が住み、商売、畜産業を繁盛させた方の文献を少し、見つけまして、興味を持ち、調べてみましたが、何分にも資料が乏しく、あまり良い結果は得られませんでした。

ほとんどの方が、武部と云う姓を開くのが初めてだと思います。

年代から見て,親子二代に渡り上移地区内住んでいたものと思はれます。

父親と思われる為右エ門氏は八幡神社に神前に供える鏡を納入、通い帖を見て、幅広く商いをやった様子がうかがわれます

三春潘は昔から産馬に力をいれ馬産地として、有名であり馬の競り市を開き、各地区かり多くの馬喰が集まり大層な賑わいを見せ、その頃に庚申坂なる遊郭街が生まれたらしい。

八十七氏は馬産に力を入れ,上道の鍋越地区 現在の佐久間記一氏宅辺りに牧場を開いたらしい。

八十七氏は馬産の成功を願い、曲山地内、俗に云う庚申様は馬産の成功をの場所に「馬頭観世音」を建立したものと思う。
又、八十七氏は上移地区の産馬総代も務められて、明治四十三年には、国有種馬、厩舎の新築にあたりご尽力された方です。


国有種馬は、現在は、その建物はありませんが,上移町のふくだやさんの前の道を少し入った所の高台にありました。






三春町史3を見ますと、慶応4年4月の戊辰の役前夜には町役人として平日帯刀を許された20名の一人に武部為右衛門の名前が記載されています。


また、「三春町役人記(春山文書)」に、町年寄八幡町取締 武部為右衛門年齢58の名前が記載(明治2年8月改正、同年12月罷免)されていますが、武部氏が上記の武部氏と「同一人物なのか?また、同一人物なら移村に移った経緯は判りません。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:20 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
三春城下 神社旧社格 縣社、郷社、村社




三春城下 神社旧社格 縣社、郷社、村社



三春城下に限らず、神社の参道入口に立つ神社名を彫った石柱の最上部に、「郷社」とか「村社」という字がモルタルで埋められているのを見たことがあると思います。


たとえば、三春大神宮は「縣社」。






田村大元神社は「郷社」

そして、八幡神社、八雲神社は「村社」といった具合です。

この「郷社」とか「村社」というのは、かつて神社が国家の統制の下に置かれていた時代の神社の格づけ(社格)に関わるものなのです。







明治維新後、日本は神道を国の宗教として保護するとともに、すべての神社を国の統制下に置きます。そこで全国の神社をその由緒などをもとに格づけしたのです。

諸社として、府・縣社、郷社、村社、そして無格社に格づけされました。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:26 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
「苦しみの中に 学びあり」令和2年 三春町各宗派仏教和合会「歳末托鉢」




令和2年 三春町各宗派仏教和合会「歳末托鉢」



三春城下の歳末の風物詩である、三春町各宗派仏教和合会の皆様による歳末助け合い三春城下托鉢が行われました。

歳末助け合いの浄財の托鉢で、お坊さん方は三春城下を托鉢して廻ります。






新町方面は、地元真照寺様の担当で、同寺住職が托鉢に来られました。



今年は、新型コロナ拡散防止ということでマスク着用での托鉢です。







そして、今年の短冊は「苦しみの中に 学びあり」と記されていました。

文字通り、with コロナの時代となって、この中で私たち人類が何を学ぶかということが試練克服の第一歩だと解釈しました。









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 05:50 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
令和2年の「えびす講祭」は、12月4日(金)です。



 
商売繁盛 祈願 令和2年 「えびす講祭」 三春昭進堂

令和2年の「えびす講祭」は、12月4日(金)です。

この日は、旧暦の10月20日となります。


三春昭進堂では、恵比須様への商売繁盛 祈願、そして、お客様への感謝の記として、12月4日(金)、翌5日(土)に「えびす講祭」お客様感謝イベントを行います。


この2日間ご来店のお客様には、日ごろの感謝を込めて「一口すあま」をプレゼントいたします。


両日とも、末広がりの八十八名様分を予定しています。









店内にえびす様の掛け軸を飾り、家にあるお金を一升枡に入れて供え、落雁用の魚の木型や旬の野菜なども供え、「えびす様大黒様」に対して、商売繁盛、財運に恵まれ、また子孫繁栄が叶う事を祈願します。





旧暦10月は晩秋ではなく初冬の時期なのであって、この月の行事には1年も、いよいよ終わりに近いという気分が込められている用に思います。
昭和8年生まれの父親は、この日に必ず、商家の小僧や丁稚が足袋を履けるのは、恵比須講の日からといっていました。








恵比須講は商人にとって非常に大事な行事であり、商家の正月のようなものであったようです。


業種によっても異なりますが、多くの商家では春から秋にかけての繁忙期、いわゆる「掻き入れ時」がほぼ済んで一年間の取引状況を総括して次年度への見通しと計画とを立てるべき時期にあたっており、この日に商売の神である恵比須神を祀って繁昌を祈願し、盛大な祝宴を催すことになっていたと伝えられています。





 








商いは、秋に実った果実を交換することに始まったといわれています。

このことから私どもは“手塩にかける”ことを学んでいます。

これこそが商いの原点であると思います。
 




   蒼龍謹白    合掌




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |
写真集 「三春のお寺」 中村邦夫




写真集 「三春のお寺」 中村邦夫



三春在住のカメラマン 中村邦夫さんから自身の写真集「三春のお寺」を拝領しました。







今回の写真集は、新型コロナ拡大防止の観点から自粛等があり、撮影活動が制約された今年、震災以降に撮りためていた写真の整理をしていると、三春の写真ではお寺や仏教にかかわる行事につながります。


中村さんライフワークでもある「三春城下まちかど写真館」のモチーフにして、その図録のつもりでまとめた写真集で、その出来栄えから問い合わせが相次ぎ、販売になったということでした。






当店のホームページでもご紹介させていただきましたが、やはり問い合わせが数件ございました。



中村さんも写真集の”あとがき”に記されていますが、古より歳時記とともに寺と歩み、暮らす三春の人々を捉えたとありますが、三春人の息づかいそのものが写真に切り取られているようです。









大震災のあと、三春の行事やおりおりの風物をテーマに撮影している。

撮りためた作品をまとめると、寺にまつわる行事が多い。城下町ゆえのことだろう。

三春のお寺は観光寺ではない。

又、宗教に特化した単なる寺でもない。

古来から歳時記とともに寺と歩み、暮らす三春の人々を捉えてみた。


中村邦夫 あとがきより








(写真歷)

1949年 北海道室蘭市出身

1995年 第2 回土門拳文化賞奨励賞受賞

写真集「三春に生きる」出版

2016年福島県写真連盟招待作家

2017年 新宿にて個展「津軽1984-1988」

初版発行/2020.10.27 著者/中村邦夫









義兄である高乾院方丈の祖伸さんがかっこよく映っています!


早速、親戚にも送ってやりたくて、カネサン書店に注文しました。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 05:00 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰1 |