2020-12-05 Sat
令和2年 三春町各宗派仏教和合会「歳末托鉢」
三春城下の歳末の風物詩である、三春町各宗派仏教和合会の皆様による歳末助け合い三春城下托鉢が行われました。
歳末助け合いの浄財の托鉢で、お坊さん方は三春城下を托鉢して廻ります。
新町方面は、地元真照寺様の担当で、同寺住職が托鉢に来られました。
今年は、新型コロナ拡散防止ということでマスク着用での托鉢です。
そして、今年の短冊は「苦しみの中に 学びあり」と記されていました。
文字通り、with コロナの時代となって、この中で私たち人類が何を学ぶかということが試練克服の第一歩だと解釈しました。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2020-11-29 Sun
商売繁盛 祈願 令和2年 「えびす講祭」 三春昭進堂
令和2年の「えびす講祭」は、12月4日(金)です。
この日は、旧暦の10月20日となります。
三春昭進堂では、恵比須様への商売繁盛 祈願、そして、お客様への感謝の記として、12月4日(金)、翌5日(土)に「えびす講祭」お客様感謝イベントを行います。
この2日間ご来店のお客様には、日ごろの感謝を込めて「一口すあま」をプレゼントいたします。
両日とも、末広がりの八十八名様分を予定しています。
店内にえびす様の掛け軸を飾り、家にあるお金を一升枡に入れて供え、落雁用の魚の木型や旬の野菜なども供え、「えびす様大黒様」に対して、商売繁盛、財運に恵まれ、また子孫繁栄が叶う事を祈願します。
旧暦10月は晩秋ではなく初冬の時期なのであって、この月の行事には1年も、いよいよ終わりに近いという気分が込められている用に思います。
昭和8年生まれの父親は、この日に必ず、商家の小僧や丁稚が足袋を履けるのは、恵比須講の日からといっていました。
恵比須講は商人にとって非常に大事な行事であり、商家の正月のようなものであったようです。
業種によっても異なりますが、多くの商家では春から秋にかけての繁忙期、いわゆる「掻き入れ時」がほぼ済んで一年間の取引状況を総括して次年度への見通しと計画とを立てるべき時期にあたっており、この日に商売の神である恵比須神を祀って繁昌を祈願し、盛大な祝宴を催すことになっていたと伝えられています。
商いは、秋に実った果実を交換することに始まったといわれています。
このことから私どもは“手塩にかける”ことを学んでいます。
これこそが商いの原点であると思います。
蒼龍謹白 合掌
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2020-11-11 Wed
写真集 「三春のお寺」 中村邦夫
三春在住のカメラマン 中村邦夫さんから自身の写真集「三春のお寺」を拝領しました。
今回の写真集は、新型コロナ拡大防止の観点から自粛等があり、撮影活動が制約された今年、震災以降に撮りためていた写真の整理をしていると、三春の写真ではお寺や仏教にかかわる行事につながります。
中村さんライフワークでもある「三春城下まちかど写真館」のモチーフにして、その図録のつもりでまとめた写真集で、その出来栄えから問い合わせが相次ぎ、販売になったということでした。
当店のホームページでもご紹介させていただきましたが、やはり問い合わせが数件ございました。
中村さんも写真集の”あとがき”に記されていますが、古より歳時記とともに寺と歩み、暮らす三春の人々を捉えたとありますが、三春人の息づかいそのものが写真に切り取られているようです。
大震災のあと、三春の行事やおりおりの風物をテーマに撮影している。
撮りためた作品をまとめると、寺にまつわる行事が多い。城下町ゆえのことだろう。
三春のお寺は観光寺ではない。
又、宗教に特化した単なる寺でもない。
古来から歳時記とともに寺と歩み、暮らす三春の人々を捉えてみた。
中村邦夫 あとがきより
(写真歷)
1949年 北海道室蘭市出身
1995年 第2 回土門拳文化賞奨励賞受賞
写真集「三春に生きる」出版
2016年福島県写真連盟招待作家
2017年 新宿にて個展「津軽1984-1988」
初版発行/2020.10.27 著者/中村邦夫
義兄である高乾院方丈の祖伸さんがかっこよく映っています!
早速、親戚にも送ってやりたくて、カネサン書店に注文しました。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2019-09-24 Tue
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり
本年度は、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して、役員の実の法要で執り行います。
子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。
わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。
やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。
一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。
親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。
それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。
私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。
その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。
そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。
後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。
その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。
地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。
お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。
「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2019-07-07 Sun
三春城下新町の鎮守田村大元神社(旧三春藩五万石領内総鎮守「大元帥明王」)の祭礼を、今週末に控えて、その祭礼に奉納する「長獅子」と「三匹獅子」の練習にも熱がこもってきました。
本年の祭礼は、
7月13日(土) 宵祭り
7月14日(日) 本祭り
梅雨の時期独特の湿った気候、夕方の蜩、楽内のホタル、真照寺下セリ場の旗や大元神社山内の提灯、そして、この三匹獅子や長獅子の太鼓や笛の音を聞こえると「夏が来るんだなあ~」と思います。
300年は続いてきたんであろう、正に初夏の三春城下を彩る風物詩です。
田村大元神社の祭礼には、別火講中の一番組と二番組が各年交替で、獅子掛と祭典掛に分かれて奉仕しています.
今年の獅子掛は、一番組が担当します。
祭典掛は、二番組担当となります。
やはり、先輩が後輩に口伝にて教授しています。
私が現役の頃と同じ風景です。
自分の子供のような年代の者たちが主力となり、この伝統芸能である長獅子舞や三匹獅子舞を引率している光景は力強いものを感じます。
戦国時代、田村義顕公によって三春城が築城されて約500年
以来、三春城下の神事は今も変わらずに受け継がれてきました。
古の三春城下では、夏は疫病がはやり台風や洪水などに見舞われ、生き抜くことが難しい季節でした。
私たちの先祖は、この危険な夏を無事に生き抜くことが出来ますようにと夏に祭礼を行い神さまにに祈りを捧げてきました。
医学科学が進歩した現代にあってもその信仰は変わらず、祭礼に際し疫病・災難・厄除け・縁結び・長寿・商売繁盛そして豊穣などの祈りを神様に捧げています。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2016-12-24 Sat
三春の切支丹
今でこそ宗教の自由が憲法によって認められていますが、旧藩時代には、神仏以外の信仰は許されていませんでした。
特に、徳川家光以来禁制となったキリスト教は、厳しい弾圧が加えられていました。
しかし、根強い宗教の芽は、その弾圧をくぐり抜け、命詠を保ち続けます。
三春藩にも、その芽はあり、その遺跡が見られます。
城下荒町の龍穏院、本堂に向かって左手、平地の墓処に、梶塚家の墓があります。
いわゆる切支丹の墓です。
25基の碑が並んでいますが、最も古いのは、延宝九年戌午五月二十四日、離相独遠禅定門と刻まれているのか確認できます。
秋田輝季が藩主の時代で、今から300年余のものです。
また、他の墓碑も十字を刻んであり、巻外道○眞士というように、特殊な戒名が見られます。
文献によると、天明八年八月に記された公儀代官による「三春藩巡視録」に、“切支丹有無につき3名在藩離脱す“とあり、再詮議が厳しかったので、藩士中の墓石で十字をつけていた梶塚二郎兵衛のものを地中に埋め、申し開きの一礼を入れて事なきを得たと記されています。
梶塚家は200石で、屋敷は北町亀井水の近くでした。
祖先は、豊後守隆重(ぶんごのかみたかしげ)と名乗り、生国は上野国。
伊織という人の代になって秋田家に仕えています。
寛文の頃には、二本松藩の某家よりヤソという人が嫁入りしています。
多分、ヤソというのは耶蘇の意でありましょう。
二本松藩の藩主丹羽家は、織田信長に仕えた旧家だから、藩士の中には切支丹信者もあり、前城主松下家以来、三春との往来も続いていただろうから、その感化も考えられます。
武家は勿論、百姓町人の縁組にも、「嫁入持参申し渡一礼」にみられるように、切支丹疎遠が一筆記された一礼を持参させるなど厳重な禁制下に、国禁である切支丹信仰を保持することは、困難なことだったと想像されます。
三春地方のキリスト教の歴史は、恐らく戦国末期の慶長時代会津蒲生領の頃からと推定されますが、文献、遺構に乏しいのが現状です。
だた、旧中妻村斉藤新田に教堂がったと伝えられています。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2012-11-28 Wed
「二十三夜月待講」月待講というのは、一般にある特定の月の出を待ってこれを拝する行事とされています。
月齢によって、十五夜から二十六夜までさまざまな月待が知られていますが、もっとも多く行われたのが二十三夜待です。
ほぼ全国的にみられるもので、月待といえば二十三夜待をさすといってもよいほどです。多くは地域ごとに「講」が組織され、神道や仏教などの影響を受けながら継承されてきました。
月待講と称される行事は、現在も各地で細々と行われていますが、その実態は産泰講や庚申講、念仏講などとの習合が顕著で、内容も地域の社交的な寄り合いに終始しています。したがって、本来の月の出を待つという形態はほとんどみられなくなりました。
太陰太陽暦では、基本的に毎月23日に月齢二十三近い月がめぐってきますので、三日月信仰などと同じように、もとは月ごとにこれを祭っていたものと考えられます。
ただ、各地の記録をみますと、正月・5月・7月・9月・11月という事例がほとんどです。これは月待に限ったことではありませんが、陰陽五行思想の影響で陽の数である奇数月が重んじられた結果と思われます。
月見の名所2三春大神宮
勢至菩薩は二十三夜待の主尊とされますが、中世の月待板碑には「二十三夜待」の文字は表れていません。近世に入ると、月待信仰は各地で隆盛期を迎えます。
月待板碑に代って、さまざまな形態の月待供養塔が造立されるようになり、月待自体も目的に応じて講が組織され、多様化が進展しました。
月見の名所1愛宕神社から見たお城山と地酒三春駒の蔵元佐藤酒造の蔵
このうち、十九夜待と二十二夜待では女人講による如意輪観音を主尊とした安産祈願の行事が主流をなし、二十三夜待の信仰とは一線を画した展開がみられます。
江戸では都市文化のなかでも11月の二十三夜待は「霜月三夜」としてよく知られています。
月見の名所3天澤寺の境内からお城山を望む
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