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「御霊まつり 子育一時地蔵尊」 三春城下新町の天翁山州伝寺



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり

子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。





私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰4 |
平成三春古蹟漫歩「三春の切支丹」



三春の切支丹

今でこそ宗教の自由が憲法によって認められていますが、旧藩時代には、神仏以外の信仰は許されていませんでした。
特に、徳川家光以来禁制となったキリスト教は、厳しい弾圧が加えられていました。

しかし、根強い宗教の芽は、その弾圧をくぐり抜け、命詠を保ち続けます。

三春藩にも、その芽はあり、その遺跡が見られます。

城下荒町の龍穏院、本堂に向かって左手、平地の墓処に、梶塚家の墓があります。
いわゆる切支丹の墓です。
25基の碑が並んでいますが、最も古いのは、延宝九年戌午五月二十四日、離相独遠禅定門と刻まれているのか確認できます。
秋田輝季が藩主の時代で、今から300年余のものです。

また、他の墓碑も十字を刻んであり、巻外道○眞士というように、特殊な戒名が見られます。

文献によると、天明八年八月に記された公儀代官による「三春藩巡視録」に、“切支丹有無につき3名在藩離脱す“とあり、再詮議が厳しかったので、藩士中の墓石で十字をつけていた梶塚二郎兵衛のものを地中に埋め、申し開きの一礼を入れて事なきを得たと記されています。

梶塚家は200石で、屋敷は北町亀井水の近くでした。
祖先は、豊後守隆重(ぶんごのかみたかしげ)と名乗り、生国は上野国。
伊織という人の代になって秋田家に仕えています。
寛文の頃には、二本松藩の某家よりヤソという人が嫁入りしています。
多分、ヤソというのは耶蘇の意でありましょう。




二本松藩の藩主丹羽家は、織田信長に仕えた旧家だから、藩士の中には切支丹信者もあり、前城主松下家以来、三春との往来も続いていただろうから、その感化も考えられます。

武家は勿論、百姓町人の縁組にも、「嫁入持参申し渡一礼」にみられるように、切支丹疎遠が一筆記された一礼を持参させるなど厳重な禁制下に、国禁である切支丹信仰を保持することは、困難なことだったと想像されます。

三春地方のキリスト教の歴史は、恐らく戦国末期の慶長時代会津蒲生領の頃からと推定されますが、文献、遺構に乏しいのが現状です。

だた、旧中妻村斉藤新田に教堂がったと伝えられています。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰4 |
平成27年度三春昭進堂えびす講


   「えびす講」~商売繁盛 

本年平成27年の 「三春昭進堂えびす講」は、旧暦の十月二十日(本年は12月1日)でしたが、火曜日で定休日となっていますので、その前の土日である、11月28日(土)、29日(日)に実施します。

この11月28日(土)と1月29日(日)の二日間ご来店のお客様には、日ごろの感謝を込めて「紅白すあま」をプレゼントいたします。

両日とも、先着百名様を予定しています。



当店では、店内にえびす様の掛け軸を飾り、家にあるお金を一升枡に入れて供え、ほかにフナなどの生きている魚やカブ、ご飯なども供え、「えびす様大黒様」に対して、商売繁盛、財運に恵まれ、また子孫繁栄が叶う事を祈願します。

この『恵比寿講』の一般的に言われている由来は、我が国の中世末頃から商家 を中心に商売繁盛をもたらす御役目の神様、すなわち「えびす様(事代大神様)」 と「大黒様(大国大神様)」の二柱の神様に、一年に一度その喜びと感謝の心を表して祝う祭事です。

旧暦の冬は神無月から始まります。
旧暦10月は晩秋ではなく初冬の時期なのであって、この月の行事には1年も、いよいよ終わりに近いという気分が込められている用に思います。

昭和8年生まれの父親は、この日に必ず、商家の小僧や丁稚が足袋を履けるのは、恵比須講の日からといっていました。
恵比須講は商人にとって非常に大事な行事であり、商家の正月のようなものであったようです。

業種によっても異なりますが、多くの商家では春から秋にかけての繁忙期、いわゆる「掻き入れ時」がほぼ済んで一年間の取引状況を総括して次年度への見通しと計画とを立てるべき時期にあたっており、この日に商売の神である恵比須神を祀って繁昌を祈願し、盛大な祝宴を催すことになっていたと伝えられています。
 
三春商人の先人から、商いとは「天平道」「黄熟行(あきない)」「商魂」の3つが大事であると教えられました。
 
「天平道」とは商人から学ぶ商いの道で“商道は人道である”ということです。

商いの道は、そのまま人の道、人間性に通じる道となっていました。

そのことをふまえて、ひたすら人間性を磨くことを通じてお菓子をつくりあげ、お客様にお届けするというのが「天平道」です。
 二つ目の「黄熟行(あきない)」とは、黄熟(あき)はお菓子の源である旬の果実が色づき、熟れることを示しています。




商いは、秋に実った果実を交換することに始まったといわれています。このことから私どもは“手塩にかける”ことを学んでいます。これこそが商いの原点であると思います。
 
三つ目の「商魂」ですが、一般的には、商売を繁盛させようとする心構えを表す言葉として用いられています。

そして先の二つに魂をこめて日々の商いの中で実行していくことと捉えています。

恵比須講には、恵比寿大黒様に商売繁盛を祈願するとともに「天平道」「黄熟行(あきない)」「商魂」を改めて肝に銘じました。

   蒼龍謹白    合掌

三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰4 |
大晦日

三春城下新町鎮守田村大元神社

毎月の晦日をつごもりともいい、十二月三十一日は大つごもりとも称し、一年最後のみそか、大晦日と言います。
 宮中では、大晦日には節折の式、大祓、除夜祭が執り行われ、神社では大祓の神事が行われました。
 大晦日から元日までの間に行われる行事を「年越し」と言い、。また、昔は誕生日ではなく、年が明けて初めて年を取る決まりでした(数え年)。
 そして、正月との境目となるのが「除夜」、一年の替わり目で、大歳・年の夜とも言います。
 除夜は年神を迎えるために、心身を清め、一晩中起きているのが年越しの習いでした。昔は、年神を迎える神聖な物忌みの夜であったのです。
 

真照寺

除夜には、新しい年の年神がそれぞれの家にやって来ます。
そこで、神様をお迎えする大事なお祭りを行うためこ、一晩中起きている”きまり”でした。
 このとき、「眠る」とか「寝る」という言葉を避けて、寝るときは「稲積む」、起きるときは「稲上げる」と言い換えて、たとえ眠ってしまっても、穀物と穀物の霊に感謝していることを示したのです。
 この夜早く眠ると白髪になるとか、しわがよるとかいった俗信があるのは、その名残のようです。
 現在でも、夜眠らないで元旦を迎える地方がある。
 その代わり、新年第一日日の元日は、一日中寝ている「寝正月」でよいのです。
 


神社ではこれを神事として行い、一晩中大筆火を焚いきます。
 今は、一日は午前零時に始まり、午後の十二時で終わりますが、大昔の一日の始まりは太陽が沈むときで、次の日に再び太陽が沈むときまでを一日としていました。
 つまり、昔の大晦日は、現在で言えば十二月三十一日の日没までだったのです。
 そのため、正月の準備は日没までに終わらせ、夜中から明け方にかけて、年神を迎えて祭る年神祭りをとり行ったのでした。

尚、明日1月1日元旦はお休みです。
初売り「二日市」は1月2日午前8時より

イチゴ大福 120円
道明寺桜餅 105円

先着150名様 粗品プレゼント! 

さすけねぇぞい三春!





| ryuichi | 05:22 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰4 |
三春物語681番「名(夏)越しの大祓」
大祓
知らず知らずの内に犯したであろう罪や過ち、心身の穢れを祓い清めるための神事を「大祓」と言います。
江戸期まで秋田藩政下では、三春城下の修験者が中心となって毎年、6月30日と12月31日の2回行っていました。

現在は、明治維新の廃仏毀釈の折に修験道が廃止されて以来、行われていません。

6月の大祓を「名(夏)越しの大祓、12月の大祓を「年越しの大祓」とも言います。
平安時代初期の国家の法制書『延喜式』にも、6月と12月の大祓が記されており、古くから行われていたことがわかります。




夏越は、神意をやわらげる意味の和し(なごし)であるといわれ、この夏を無事健康に
越せるようにと六月三十日に行われるもので、古くは農家にとって田植え終了後の
いましめ又つつしむべき「忌みの日」でもあったようでございます。

大祓には「人形」という、紙を人の形に切り抜いたものに名前と年齢を書き、さらにその人形で身体を撫でて息を吹きかけます。
そうすることにより、自分の罪穢れを移し、それを海や川などに流し我が身の代わりに清めてもらいます。
また、名越の大祓では疫病や罪穢れを祓う「茅の輪くぐり」も行われます。

私達も月日の流れにながされて、今年も早や半年も過ぎ去さろうとしております。
この夏、皆様のご健勝を祈念申し上げます。  

蒼龍謹白 合掌



| ryuichi | 05:00 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰4 |
三春物語657番「三春の直会(なおらい)」
直会(なおらい)
三春では祭礼末に直会(なおらい)を開催し、神前に供えた御饌御酒を、神職をはじめ参列者の方々皆でいただきます。
 これは、古来より、お供えして神々がお召し上がりになられたお供え物を人々が戴くことは、その神聖なる恩頼を戴くことができると考えられてきました。
この供食により神と人が一体となることが、直会の根本的意義であるということができます。
 また、簡略化されたものとして、お酒を戴くことが一般的な儀礼となっていますが、これは御酒が神饌の中でも米から造られる重要な品目であり、また調理をしないでその場で直接戴くことができるため、形式としておこなうものとなりました。
 神様にお供えした物を下げて戴くということは「神人共食」という祭りの根本的意義が示されています。
 直会の語源は、「なおりあい」とする説があります。
神職は祭りに奉仕するにあたり、心身の清浄に努めるなど、斎戒を致します。
神職は、祭礼の一月前から斎戒として、潔斎して身体を清め、衣服を改め、居室を別にし、飲食を慎み、思念、言語、動作を正しくし、汚穢、不浄に触れてはならないとされ、通常の生活とは異なるさまざまな制約をして、祭りの準備から祭典に臨んでいます。
そして、祭典後の直会をもって全ての行事が終了し、斎戒を解く「解斎」となり、もとの生活に戻ります。
「なおらい」の語源は、もう一つの意味があります。
「戻る=直る」の関係を示して直会の役割を述べたものであり、直会が祭典の一部であることを指し、直会が神事として一般の宴とは異なるのも、こうした意義をもっておこなわれているからです。



| ryuichi | 04:27 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰4 |
三春物語626番「三春凶作」
江戸時代の凶作のうち、享保17年(1732)、天明二年(1782)~七年(1787)、天保四年(1733)~十年(1739)の凶作は江戸期三大凶作とよばれ、飢饉を伴って、餓死者多数を出したことで知られる。
享保の凶作は西国地方を中心とし、奥羽地方の被害は少なかったが、天明・天保の凶作では奥羽地方全域で被害を出した。
天明三年(1783)は、二月までは暖かい冬とも思えない日が続いたものの、六月より十月まで霖雨止まず冷涼で、袷を着て焚き火を囲んでいた。
六月の大洪水、七月の浅間山爆発と寒気、八月の北風と大霜と災害が続き、畑作物・田作物が皆無となった。

 領内では、天明三年の凶作において秋に収穫したはずの米雑穀が、師走までに貯蔵が底を尽き、三春藩では、城下に救済を求めた領民が多数城下に非難してきたため、八幡町末に集めて翌閏正月から五月まで施粥が実施された。
三春北部の成田村ではでも一ヶ月間施粥が実施された記録が残っていますが、領内の各村で餓死者を多く出しました。

天保七年の凶作では、施粥実施には至りませんでしたが、飢餓に瀕した笹山村などの百姓たちは、当村顔役辰五郎を頭取として鹿又原(現船引)に集まり一揆騒動が起こりますが、大規模な一揆に至る前に鎮圧されました。

また、三春城下での一揆騒動は、元文元年の東郷百姓一揆、寛保二年の五千石百姓一揆、寛延二年の領内惣百姓一揆などは起こり、強訴・諸負担の軽減や減免要求・譜代百姓の待遇改善などを求め城下に迫りました。


三春藩領は阿武隈山系の西側の波浪のように入り組んだ山間に村々が点在する土地で、山間高冷地の農業生産性の低い地域である。
平素より重税が当然化しており、衣食住の倹約が平年でも強いられてきた土地柄であった。

米産地の二本松領に比して米産地でない三春領の被害はより大きく、継続的不作の中で天明凶荒の襲来を受けた。
三春領内の餓死者は1,500人余に上った。

村々の三界萬霊塔は、天明飢饉と、後の天保飢饉における死者への供養塔である。
天明三年(1783)の凶作、四年の飢饉、五年二月の三春城下の大火と災害が続き、天明六年も寒冷が春よりゆるまず、七月の長雨と洪水、八月には暴風雨となって諸作不作。
天明七年には2月・4月に大暴風雨が領内を吹き荒れ、打撃を与えた。
「三春町史」(近世編)より抜粋


三界万霊塔とは、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、萬霊等(ばんれいとう)は三界萬霊等ともいい、三界とは欲界・色界・無色界をいいます。
俗界は、食欲、性欲、睡眠欲をいい、色界は食欲よりも性欲の強いこと、無色界は性欲のない心の世界のことをいいます。
 これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。
萬霊とは、欲、色、無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界をさし、全ての生物の生々流転(せいせいるてん)してやむことのない世界のことをあらわします。
 その全ての世界の精霊を集め、それらを供養するのが、この三界萬霊等なのです。


| ryuichi | 04:58 | comments (x) | trackback (x) | 三春ノ信仰4 |