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三春物語573番「荒和田長寿山廣傳寺」


三春城下の北西二里、旧荒和田村にある曹洞宗長寿山廣傳寺です。
阿弥陀如来をご本尊としています。



本来の仏教は「生・老・病・死」という人間の持つ根元的な悩みを解決していく教え、つまり、病や死といった苦しみをそのまま受け止め、その上でそれを乗り越えていく教えであると考えますと、権力の側に立ち、民衆の悩みにこたえようとしない国家仏教は、本当の仏教とは呼べないのではないでしょうか。
本来の仏教の「救い」とは、悩みの解決を奇跡に頼るのではなく、悩みをありのままに受け入れることからはじまるものだったのです。



歴代住職の墓石群です。



西方極楽浄土の主である阿弥陀如来は、別名 無量寿如来ともいわれ、その寿命は限りないとされ、その光明は十方国を照らすとも言われています。
  弥陀の四十八願により「南無阿弥陀仏」と唱えれば、如何なる者であっても、死後、阿弥陀様の極楽浄土へ人々を導き、生まれ変わらせてくださるという、大変ありがたい仏様です。
  阿弥陀如来の功徳は、極楽浄土、現世安穏、先祖供養、家内安全、戌年・亥年生まれのお守り本尊などです。


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| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |
三春物語568番「笹山立石延命地蔵堂」
 

 「笹山立石延命地蔵堂」

三春城下の北、旧笹山村立石にある延命地蔵堂です。


立石集落の方々に、祀られています。



地蔵信仰
無仏の世、六地蔵の観念(六道に出現)、境(サヘ)の神(道祖神)の信仰との習合、子供の守護神、賽の河原の信仰等があります。
この世に生を受けたものは、すべて生前の行い、因果に応報して、 「人間」「天」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」の六道を輪廻転生すると、されていたのです。
 死後の概念がかけ離れていたため、古代日本での仏教受容は、まず優れた学問や芸術をもたらすものとして受け入れられ、 そしてしばらく後、悔過(けか)という作法により、 次第に宗教として受け入れられて行きました。




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近くにある忠魂碑

| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |
三春物語565番「熊耳古舘十一面観音堂」


三春城下北境、旧熊耳村古舘にある十一面観音堂です。
要田は、中通り中部・阿武隈山地の西縁部八島川上流に位置し、熊耳(熊神)、笹山
(篠山)、荒和田(荒渡田)、南成田、北成田の5ヶ村から成る歴史的にも古い、由緒
のある地域です。

戦国期の田村四十八舘熊耳舘以前に、百済王朝の末裔と称する大内備前守居を構えていたと伝えられて、その舘のあった場所とされています。



十一面観音は、
頭に「怒り」「菩薩面」「大笑」「狗牙(くが)」など人間の善悪の相を象徴した十一の仏相を載せています。


これは、10の誓願
[諸病の苦を取る。如来の愛護を受ける。財宝を守る。敵の危害から守る。上司の庇護を受ける。毒蛇・寒熱の苦を免れる。刀杖の害を受けない。水に溺れない。火災に遭わない。天命を全うする]を表し、人間の持つ多面性をとらえながら慈悲心によって洗い清められていく教えを説いているとされています。



同時に「商売繁盛、家内安全、五穀豊穣の守護観音として効能あり」と衆生一切の願い事を叶えてくれる観音さまとして親しまれています。


また、阿弥陀如来の分身として、人の死後生まれ変わる6つの世界〔六道〕の1つ「阿修羅道」で人を助ける観音といわれています。       


| ryuichi | 04:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::北成田・熊耳 |
三春物語535番「南成田の宗吾尊霊廟」
成田山宗吾霊地蔵尊



ぶらり、三春の郷を歩くと、道を行くとふと目に入る朽ちた石像、
いつの頃からか無言のまま立ち尽くしています。

道端の石像に祈りを捧げた人々の思いはどんなだったでしょう?
この山々に抱かれた奥深い山里にはかつて、中世以前から盛んだった修験道の行場や、庶民信仰の跡を物語る数多くの神社仏閣、祠、石仏、板碑など宗教遺蹟が多いことに気づかされます。



宗吾霊廟の本山ともいうべき千葉県成田市にある「東勝寺」。

宗吾霊廟のご本尊として祀られているのは佐倉宗吾(木内惣五郎)で約360年前、苛性に苦しむ農民を救おうと将軍に直訴したため、この寺の境内で子どもたちと処刑されと言われている。このため、農民の神様として広く親しまれている。

お寺自体は桓武天皇時代からあったのですが、江戸時代にこの地を治めていた堀田氏の圧政を徳川家綱に直訴した農民・佐倉惣五郎を祭った寺として 有名になりました(1653年)。


| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::南成田・庄司 |
三春物語533番「庄司西之内の子安地蔵堂」


三春城下の北
後醍醐天皇の孫、守永親王一行が落ち延びたという南北朝の伝承が残る庄司西之内集落にある
子安地蔵堂と巨石の上に建立された子安地蔵や供養塔群です。



日本には八百万(やおよろず)の神様や沢山の仏さまがいて、かつては諸々の神々や仏さまが人々の生活に根ざしていました。
自然とともに生きるとは、ある意味それらの神々や仏さまと一緒に暮らしていくという事に他なりません。
私の好きな場所の一つで、この場にいると心が安らぎます。



物質社会にまみれた今の世にあっては「神道の潔さ」、あるいは「仏教のもつ謙虚さ、慈悲深さ」など、現代人にはむしろ学ぶべき事の方が多いのではないでしょうか。
「物質的な豊かさと精神的な豊かさは、必ずしも正比例はしないよ。」
路傍のお地蔵さまが私達に、そう語っているような気がしてなりません。




慈悲深い表情と、すらっとした姿が特徴のお地蔵さま。
 名前の通り、安産と子育てのご利益を授けてくれるお地蔵さまで、ご利益を授かった際は赤いよだれ掛けを奉納する慣わしだそうです。





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| ryuichi | 04:46 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::南成田・庄司 |
三春物語536番「南成田春日神社」



三春城下の北、旧南成田村、白光内に鎮座する春日神社です。

鬱蒼とした鎮守の森に守られています。







この山々に抱かれた奥深い山里にはかつて、中世以前から盛んだった修験道の行場や、庶民信仰の跡を物語る数多くの神社仏閣、祠、石仏、板碑など宗教遺蹟が多いことに気づかされます。







村中いたるところに点在している庚申塔やお地蔵様、そして石碑などは、今も、それにまつわる民話や伝説となって語り継がれているのです。
今になってもここに存在する、そのことがとても尊く思われます。






のどかな、田んぼのあぜ道のほとりに、ひっそり佇む野仏や祠を訪ねて回ると、いつの間にか、異次元の世界に誘い込まれ、気づくと現世の雑念が吹っ飛び、リフレッシュしているという、とっても不思議な空間です。






 白光内春日神社の考察

南成田白光内の春日神社は、白光内となっていますが、現住所は船引成田分に入ります。
白光内の「内」というのは、武家の一族が住む集落という意味があります。

第一説
田村庄司家の藤原系田村氏の氏神からの春日神社

春日神社の総本山は、奈良春日大社です。
創建は奈良時代の768年に遡り、時の左大臣藤原永手によって建てられたことから藤原氏の氏神となり、藤原氏の勢力が盛んになるにつれて全国に広がっていき、3000にもなる春日神社や分社の総本山として現在でも崇拝を受けています。

荘園制度の中で旧田村藩領は、那智熊野大社の所領荘園でした。
荘園とは、貴族や寺院の私有地のことを指します。この私有地管理のための事務所や倉庫を「荘」と呼んでいたことから、私有地を「荘」のある園として「荘園」と呼びます。
旧田村領田村庄は、平安末期より室町末期の戦国時代まで続きます。
平安末から鎌倉初期までその管理者として前形部太輔仲能朝臣の名前が記された書類が残っています。
そこから藤原氏の氏神様の春日神社が旧熊野領荘園には御分霊を祀った「熊野宮(神社)」と共に多数創建されていたと考えられます。

白光内の春日大社建立にあっても近くに庄司という集落があります。
この庄司集落の名称から察するに、田村荘司家との関連も推測されます。

尚、この藤原氏の一族が田村荘へ下向して荘園を管理していた田村荘司家に繋がるというのはいささか疑問が残り、田村領を支配した田村氏は本姓に関わらず、田村姓を名乗っていることから、田村を支配する地位に立つものの条件として、田村氏を称すべき風習があったのでなかと考えています。


もう一説
南北朝時代の南朝方の忠臣橋本氏の氏神

鎌倉末期、皇位継承をめぐり南朝と北朝に朝廷が分かれて争っていた南北朝時代に、南朝方の拠点として南奥州での激戦場となった宇津峰城。

1352年5月に陥落しましたが、この篭城戦を指揮したのは後醍醐天皇の孫の守永王を奉ずる陸奥介兼鎮守将軍の北畠顕信であり、攻める北朝勢の総大将は、足利一族で奥州管領の吉良貞家でした。
田村地方に多い橋本氏の先祖、南朝忠臣橋本正茂をは、畿内以来一貫して南朝方の主力として活躍した武将です。
その橋本氏一族が最後にたどり着いたのが三春田村領で庄司との関連もそこからだと考えています。
庄司の山中にある舘跡の居はその仮御所の名残とだとも伝わっています。
南成田には、橋本姓が多くその氏神として春日神社を祀ったのではないかとも・・・

さらに、橋本氏の祖として考えられるのは、後の歴史的背景から見て、和泉国日根郡橋本郷を本拠とする楠木氏の一党の橋本氏(『太平記』巻十六をみると橋本八郎正員の名が記載)ではないでしょうか。

鎌倉末期の混乱期である南北朝時代と云いますから今から約700年前、田村義顕公の三春入城の約160年前となります。

橋本正員は、湊川にて楠正成と共に忠死していますが、その子正家は、楠木正成三男楠木正儀の子楠木正秀らと共に千早赤阪村の城にて挙兵するも落城して奥州に下り再起を図ります。

その子橋本正茂は、後に顕家の弟顕信に属して北畠顕家に従って上京し足利軍と奮戦し、顕家公の戦死後、田村輝定の軍に属して東国各地を転戦し足利軍に抗戦すること十有余年。南朝方に組し「錦の御旗」の元で勤王・官軍として終始忠節を尽し戦い抜いています。

尚、「田村太平記」の系図では、橋本正員─正家─正茂─正典(三春大神宮合祀の橋本正茂を祀る橋本神社の史蹟)となっています。



三春昭進堂代表 菓匠髙橋龍一

| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::南成田・庄司 |
三春物語530番「笹山近馬場篠嶽山満円寺」


篠嶽山満円寺
三春城下の北西、一里余りにある旧笹山村近馬場にある曹洞宗のお寺です。
御本尊を愛宕地蔵尊としています。



愛宕地蔵尊は「本尊将軍地蔵尊」と記され、さらに、将軍地蔵尊は修羅闘争の瞋恚を調伏し太平静謐を加え給う云々とされているので、当地方にあっての重要な社であったことが伺えます。



戦国武将の愛宕信仰では、戦場に赴く際「愛宕山大権現守護所」の札を身につけていたという。
三春城下州伝寺の末寺とされています。



境内にある太子堂です。


参道を彩る桜並木

| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |