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平成版三春古蹟漫歩「南原の大池」



南原の大池

熊耳境南原の大池は、旧要田村大字熊耳字南原にあります。

この池は、旧三春藩三代藩主の秋田輝季が水田灌漑用のため池として構築。宝永8年10月の完成と伝えられています。

但し、宝永8年の4月2日に正徳と改元されているので、正徳元年ということになるんでしょう。

徳川の将軍家で言えば第6代将軍徳川家宣の時代です。

工事の担当は、郡奉行代官大金数馬と名主橋本某で、創設当初は100アール(一町歩)でした。
それでも、灌漑面積が3000アール(30町歩)に及び、熊耳から平沢までの水田がその恩恵に浴していましたから、領内最大のため池でした。

この工事に使った人夫は、延べ人数で2万人と称され、徴用使役として藩内の各村から100石から150石まで毎に毎日2人の出役が割り当てられました。





池の完成後は満々たる水を湛え、魚も溜り、水禽も棲みついたので、これを禁漁禁猟地として、歴代藩主が群臣を引具して猟魚を楽しんだと記録されています。

昭和2年、改築を加え、現在の150アール(一町5半歩)に拡められている。

かつては、櫻も植えてあるので春の花見、初夏の若葉や山躑躅、秋の紅葉、冬の雪景色と四季それぞれの趣がありました。

また、周囲の山は、茸狩りの好適地でもあったといわれます。


古い広報三春内コラム参照


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::北成田・熊耳 |
三春物語565番「熊耳古舘十一面観音堂」


三春城下北境、旧熊耳村古舘にある十一面観音堂です。
要田は、中通り中部・阿武隈山地の西縁部八島川上流に位置し、熊耳(熊神)、笹山
(篠山)、荒和田(荒渡田)、南成田、北成田の5ヶ村から成る歴史的にも古い、由緒
のある地域です。

戦国期の田村四十八舘熊耳舘以前に、百済王朝の末裔と称する大内備前守居を構えていたと伝えられて、その舘のあった場所とされています。



十一面観音は、
頭に「怒り」「菩薩面」「大笑」「狗牙(くが)」など人間の善悪の相を象徴した十一の仏相を載せています。


これは、10の誓願
[諸病の苦を取る。如来の愛護を受ける。財宝を守る。敵の危害から守る。上司の庇護を受ける。毒蛇・寒熱の苦を免れる。刀杖の害を受けない。水に溺れない。火災に遭わない。天命を全うする]を表し、人間の持つ多面性をとらえながら慈悲心によって洗い清められていく教えを説いているとされています。



同時に「商売繁盛、家内安全、五穀豊穣の守護観音として効能あり」と衆生一切の願い事を叶えてくれる観音さまとして親しまれています。


また、阿弥陀如来の分身として、人の死後生まれ変わる6つの世界〔六道〕の1つ「阿修羅道」で人を助ける観音といわれています。       


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三春物語523番「熊耳薬師如来堂」




三春城下北に隣接する旧熊耳村に鎮座する、熊耳薬師如来堂です。


宝樹寺の宇内にあり、熊耳桜と呼ばれる枝垂れ桜の古木が、春には境内を彩ります。

薬師如来 


薬師如来は、正式には「薬師瑠璃光如来」、一般には「薬師しゃま」として知られています。
 「薬師」とは「医師」と同じ意味であり、古くから病気治療をつかさどる仏様として信仰されてきました。
 人間は誰しも生きているかぎり、病気災厄をまぬがれ、物心両面にわたって幸福に暮らしたいという願いを持っております。

『薬師経』には、薬師如来の十二の大願によって、現世と来世にわたってこれらの願いを満たすということが、くわしく説かれています。
 薬師如来は、右手は施無畏印、左手には薬器(薬壷)を持っておられるお姿が一般的です。日光菩薩と月光菩薩を脇侍として薬師三尊となり、眷属として護法神の十二神将を従えておられます。
 宝樹寺の場合は、薬師三尊はお厨子の中に秘仏として安置されていますので、普段はお目にかかれません。
秘仏とされている御尊像をお厨子の戸帳を開いて公衆に礼拝していただくことを開帳とか開扉とか言います。
かつては、60年に一度の御開帳でしたが、近年になり12年に一度の兎年となり、次回は来年度ということになります。
 




薬師如来は、今日普通に考えられている病難厄除や病
気平癒にとどまらず、衆生の全般的な苦(思いどおりにならないこと)から
の救済を願っておられます。
 そして、衆生を単に苦から逃れさせるだけではなく、救済された時には、
信仰心により仏の悟りを得させよう、自己本位の生活ではなく他人への
福利の人格を得させようとされるのです。このような悟りと福利がある願
いが「大願」なのです。





日光菩薩、月光菩薩を従えて三尊形式で祀られたり、十二神将を従えるときもあります。
薬師如来の浄土は浄瑠璃浄土と呼ばれ、物語などの浄瑠璃の言葉はこれに由来します。



別当修験文学院の管理元で、王子大権現と称し奉斉し祀っていました。


その後、天和四年、熊王子大権現と改めました。




明治維新の廃仏毀釈をうけて、明治二年熊野神社と改められ、社殿が廃棄されますが、本尊をこの薬師堂に合祀して地域の方々によって守られています。




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続き▽
| ryuichi | 04:45 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::北成田・熊耳 |
三春物語522番「熊耳山宝樹寺」


熊耳山宝樹寺


三春城下、北末の旧熊耳村にある臨済宗の寺院です。
現在は、JR磐越東線要田駅に西手山側にあります。


戦国期の南朝方田村庄司、田村輝定の庇護の元で、延元年中に夢窓国師開山創設とされています。
後に、三春城主田村氏の菩提寺福聚寺の末寺としています。


境内には、熊耳薬師如来・熊王子大権現(合祀・修験文学院所管)を祀ったお堂が建立されています。


明治の初め頃は、石森小学校熊耳分校の仮校舎よしても使用されました。
その名残でしょうが境内は広く整備されていてます。



 夢窓国師
伊勢の人。道号は夢窓。法諱は疎石。 臨済宗天龍寺・相国寺の開山国師。
 九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。
高峰顕日に参じその法を継ぐ。
 正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺(リンセンジ)を開いた。
歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。
夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。
無極志玄(ムキョクシゲン)、春屋妙葩(シュンオクミョウハ)、義堂周信、絶海中津(ゼッカイチュウシン)、龍湫周沢(リュウシュウシュウタク)、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。
また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。
後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷(ゲンニュウ)、仏統、大円国師とし諡号(シゴウ)され、「七朝帝師」と称され尊崇された。


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| ryuichi | 04:41 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::北成田・熊耳 |
三春物語511番「北成田の津島神社」


三春人は、豊かな自然に恵まれ、目に映る全ての風景に信仰心を向け、「人間だけではなく、すべての生きとし生けるもの、山も川も草も木も、全てのものが仏になる(山川草木悉皆成仏)」という哲学とも云うべき仏教思想を育んできた三春郷。



三春城下の北、旧北成田村七郎内部落にある津島神社です。


旧午頭天王を祀る、鎮守です。

津島神社は古くは津島牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と申し、今日なお一般に「津島のお天王さま」と尊称されております。


御祭神
 神武速素盞鳴尊(たけはやすさのおのみこと)

須佐之男命は天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神で、伊邪那岐神(いざまぎのみこと)が鼻を洗った時に生まれ、海を統治することを命ぜられたが、父の命には従わず泣哭するばかりで政をしようとはしなかった。
そのため伊邪那岐神は怒り、根の国に追放を命じた。命は根の国に下るに際し、姉の天照大神に別れを告げるため高天原(たかまがはら)に詣るが、天照大神は、性が激しい命がどうして高天原に上ってくるのか警戒するので、命は決して邪険な気持ちはないと天照大神に誓約し、伊邪那岐神許しを得て高天原にしばらく住む事となったが、生来の暴政が出て乱暴な行為を繰り返した為、天照大神は天岩戸(あめのいわと)に隠れた。
高天原の神々は天安河(あまのやすかわ)で会議を開き、命に罪を祓わせたのち追放の刑に処した。命は旅を続けて出雲国に至り、そこで八岐大蛇(をやまたのおろち)を屠り、その尾から出た天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大神に献上し、八岐大蛇を屠った縁で稲田姫(いなだひめ)を娶り出雲に住むこととなった。

すばらしいロケーション立地です。




如意輪観音


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| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::北成田・熊耳 |
三春物語510番「要田の熊耳熊野神社」


三春城下の北部、旧熊耳村宮前に鎮座する熊野神社です。



旧神号を熊王子大権現とする古社です。
別当を修験文学院としていました。
要田駅の南、要田温泉の目の前にあります。



平安期から鎌倉中期まで、三春を含む田村郡一帯は「田村庄」と呼ばれ荘園制度の中で熊野本宮大社の荘園とされてきました。その関係か田村地方には熊野神社が沢山建立されています。



『記・紀』が書かれた奈良時代には、熊野は黄泉の国でした。
古代、人々は都を昼の国とし、都からずっと南の方には夜の国があると考えていたという説があります。
夜は黄泉を連想させ、死者の住む国は黄泉の国・常世の国とされたのかもしれません。
熊野は山が深く、自然条件が陰鬱で、死んでから行くような冥府のような雰囲気があったのでしょう。
それゆえ、太古よりここは死者の国であるされ、イザナミが向かった黄泉の国とされたのかもしれません。
古くから人々の熱い信仰に支えられた聖地であり、『伊勢へ七度、熊野へ三度』とさえ言われている。




平安時代、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社を中心とした、熊野三山の信仰が高まり、皇室や貴族をはじめ、武士や庶民階級にまで熊野詣が流行、その様子は蟻の熊野詣といわれるほどであった。
弘安4(1281)年、3月、亀山上皇の御幸をもって終結をつげている。
江戸時代に入って、元和5(1619)年、紀州藩主徳川頼宜が熊野三山の復興に力を入れ、再び「蟻の熊野詣」の最盛期を迎えることができたとある。言うまでもなく、身分や階級を問わない多くの人々が熊野にあこがれ、救いを求め、甦りを願って異郷とも思える山深いこの地を目指したのです。



平安時代後期、浄土信仰のひろがりのもと、熊野は阿弥陀如来あるいは千手観音の浄土とされ、人々はそこに来世を託した。
他方、現世の招福、不老長寿の願いの実現もまた、人々は熊野に託すようになった。
こうした信仰の普及を支えたのが、御師と旦那の間をつなぐ先達や、絵解きを唱道しつつ諸国を巡った熊野比丘尼の活動である。


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三春物語485番「成田神社と種蒔き桜」


北成田鎮守 成田神社



三春城下の西北、北成田旧村社です。



祭神を、大地主命としています。


境内の縁には、成田の種蒔き桜が自生して、春には綺麗な桜花を咲かせています。

無住の社は静かで風や鳥のさえずりが時折聞こえ、傍を流れる渓流の音を聞いていると、神聖な場所に居るんだなあと感じることがあります。

踏み込んでは行けない場所に入り込んだという恐れにも似た感覚と、心が安らぐという感覚のバランスの中で、美しい自然の中に全てが導かれ、古より人々が集うこの場所に来て、そんな詮索は意味のないことに気づかされます。
三春は、何もかもが見えない八百万の神々によって始まり、仏も曼陀羅もそして渡来人も、美しい風土に恵まれ、その源にまったりととけ込んで居るのでしょう。



いなりさま

神楽殿


種蒔桜


この桜が咲く頃に、米の種を蒔いたと云われています。

| ryuichi | 05:50 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::北成田・熊耳 |