2010-05-07 Fri
成田山宗吾霊地蔵尊
ぶらり、三春の郷を歩くと、道を行くとふと目に入る朽ちた石像、
いつの頃からか無言のまま立ち尽くしています。
道端の石像に祈りを捧げた人々の思いはどんなだったでしょう?
この山々に抱かれた奥深い山里にはかつて、中世以前から盛んだった修験道の行場や、庶民信仰の跡を物語る数多くの神社仏閣、祠、石仏、板碑など宗教遺蹟が多いことに気づかされます。

宗吾霊廟の本山ともいうべき千葉県成田市にある「東勝寺」。
宗吾霊廟のご本尊として祀られているのは佐倉宗吾(木内惣五郎)で約360年前、苛性に苦しむ農民を救おうと将軍に直訴したため、この寺の境内で子どもたちと処刑されと言われている。このため、農民の神様として広く親しまれている。
お寺自体は桓武天皇時代からあったのですが、江戸時代にこの地を治めていた堀田氏の圧政を徳川家綱に直訴した農民・佐倉惣五郎を祭った寺として 有名になりました(1653年)。
| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |
2010-05-05 Wed

三春城下の北
後醍醐天皇の孫、守永親王一行が落ち延びたという南北朝の伝承が残る庄司西之内集落にある
子安地蔵堂と巨石の上に建立された子安地蔵や供養塔群です。

日本には八百万(やおよろず)の神様や沢山の仏さまがいて、かつては諸々の神々や仏さまが人々の生活に根ざしていました。
自然とともに生きるとは、ある意味それらの神々や仏さまと一緒に暮らしていくという事に他なりません。
私の好きな場所の一つで、この場にいると心が安らぎます。

物質社会にまみれた今の世にあっては「神道の潔さ」、あるいは「仏教のもつ謙虚さ、慈悲深さ」など、現代人にはむしろ学ぶべき事の方が多いのではないでしょうか。
「物質的な豊かさと精神的な豊かさは、必ずしも正比例はしないよ。」
路傍のお地蔵さまが私達に、そう語っているような気がしてなりません。

慈悲深い表情と、すらっとした姿が特徴のお地蔵さま。
名前の通り、安産と子育てのご利益を授けてくれるお地蔵さまで、ご利益を授かった際は赤いよだれ掛けを奉納する慣わしだそうです。

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| ryuichi | 04:46 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |
2010-05-04 Tue

三春城下の北、旧南成田村、白光内に鎮座する春日神社です。
鬱蒼とした鎮守の森に守られています。

この山々に抱かれた奥深い山里にはかつて、中世以前から盛んだった修験道の行場や、庶民信仰の跡を物語る数多くの神社仏閣、祠、石仏、板碑など宗教遺蹟が多いことに気づかされます。

村中いたるところに点在している庚申塔やお地蔵様、そして石碑などは、今も、それにまつわる民話や伝説となって語り継がれているのです。
今になってもここに存在する、そのことがとても尊く思われます。

ところで、現代社会に一番欠けているのは信仰心。
のどかな、田んぼのあぜ道のほとりに、ひっそり佇む野仏や祠を訪ねて回ると、いつの間にか、異次元の世界に誘い込まれ、気づくと現世の雑念が吹っ飛び、リフレッシュしているという、とっても不思議な空間です。

三春昭進堂代表 菓匠髙橋龍一
| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |
2010-03-19 Fri

五斗蒔田の巳待供養塔
荒和田から実沢に向かう通称「お化け坂」の入り口にある供養塔です。
巳待供養と二十三夜供養塔が田圃の縁にある巨石上に安置されています。

巳待講
月待の一つであり古くから講中の作られていたことが伺われる。
蚕を飼っている人が秋季、巳の日の晩に集り掛軸を拝み、直会をした。巳の日は福神である弁財天の縁日であり、弁財天信仰の盛んな地域は、近くの弁財天に参詣する。

弁財天は仏教の天部の神が、もと音楽の神のち財宝を与える福神として崇められたもので、中世になって急速に信仰を深め、とりわけ真言宗寺院や修験が伝播、布教に関与した。
十二真支の巳は蛇に対する信仰と関与し、弁財天との習合に際しては巳=蛇は弁財天の使わしめだと考えられていた。
一方、巳は脱皮、変成の思想があり、巳の日には特別な厄払いの信仰があった。
また、養蚕の盛んな土地では蚕を食べる鼠避けとして蛇神は養蚕農家の守護神であった。

| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |
2009-12-12 Sat

三春の村々を歩くと、「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の六字を刻んだ石碑の見あたらない地域は、ほとんどないと言ってよいでしょう。
時宗や浄土宗、一向宗などの念仏宗の寺はもとより、路傍にも、樹陰にも、幾つもの碑をよく見かけます。

南無阿弥陀仏の六字は、長い間、三春人の心に浸透してきました。
現代ではそれを唱える者が少なくなったとはいえ、その「称名念仏」の心が三春人の精神の多くの部分に影響を与えてきた、と言って過言ではありません。
阿弥陀仏の願力(他力)も乗じてその浄土(西方極楽世界)に往生せんとする「他力往生」の信仰はあ、末法思想の影響もあって、平安時代以降、急速に強まったとされています。比叡山横川にいた源信の「往生要集」もその後の浄土信仰に大きな影響をあたえました。この流れの中から法然・親鸞・一遍等が出て、阿弥陀仏信仰は「浄土」信仰の主流を形成した。また、現世に阿弥陀仏浄土を造立すべく荘厳をこらした浄土建築・美術を生み、阿弥陀仏堂に遺体・遺骨を納めることさえおこなわれます。

鎌倉時代から室町時代にかけて多い板碑(石板塔婆)にも阿弥陀仏三尊を彫刻したものが多くあります。
念仏行事を中心として平安時代後期から宮廷貴族の間に行われた阿弥陀仏講(往生講ともいう)は特別の行事に際し、塚または石塔を立てたし、また阿弥陀仏の十五日縁日は「古今著聞集」にも見られ、古くから行われていました。

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