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三春物語535番「南成田の宗吾尊霊廟」
成田山宗吾霊地蔵尊



ぶらり、三春の郷を歩くと、道を行くとふと目に入る朽ちた石像、
いつの頃からか無言のまま立ち尽くしています。

道端の石像に祈りを捧げた人々の思いはどんなだったでしょう?
この山々に抱かれた奥深い山里にはかつて、中世以前から盛んだった修験道の行場や、庶民信仰の跡を物語る数多くの神社仏閣、祠、石仏、板碑など宗教遺蹟が多いことに気づかされます。



宗吾霊廟の本山ともいうべき千葉県成田市にある「東勝寺」。

宗吾霊廟のご本尊として祀られているのは佐倉宗吾(木内惣五郎)で約360年前、苛性に苦しむ農民を救おうと将軍に直訴したため、この寺の境内で子どもたちと処刑されと言われている。このため、農民の神様として広く親しまれている。

お寺自体は桓武天皇時代からあったのですが、江戸時代にこの地を治めていた堀田氏の圧政を徳川家綱に直訴した農民・佐倉惣五郎を祭った寺として 有名になりました(1653年)。


| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |
三春物語533番「庄司西之内の子安地蔵堂」


三春城下の北
後醍醐天皇の孫、守永親王一行が落ち延びたという南北朝の伝承が残る庄司西之内集落にある
子安地蔵堂と巨石の上に建立された子安地蔵や供養塔群です。



日本には八百万(やおよろず)の神様や沢山の仏さまがいて、かつては諸々の神々や仏さまが人々の生活に根ざしていました。
自然とともに生きるとは、ある意味それらの神々や仏さまと一緒に暮らしていくという事に他なりません。
私の好きな場所の一つで、この場にいると心が安らぎます。



物質社会にまみれた今の世にあっては「神道の潔さ」、あるいは「仏教のもつ謙虚さ、慈悲深さ」など、現代人にはむしろ学ぶべき事の方が多いのではないでしょうか。
「物質的な豊かさと精神的な豊かさは、必ずしも正比例はしないよ。」
路傍のお地蔵さまが私達に、そう語っているような気がしてなりません。




慈悲深い表情と、すらっとした姿が特徴のお地蔵さま。
 名前の通り、安産と子育てのご利益を授けてくれるお地蔵さまで、ご利益を授かった際は赤いよだれ掛けを奉納する慣わしだそうです。





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| ryuichi | 04:46 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |
三春物語536番「南成田春日神社」



三春城下の北、旧南成田村、白光内に鎮座する春日神社です。

鬱蒼とした鎮守の森に守られています。







この山々に抱かれた奥深い山里にはかつて、中世以前から盛んだった修験道の行場や、庶民信仰の跡を物語る数多くの神社仏閣、祠、石仏、板碑など宗教遺蹟が多いことに気づかされます。







村中いたるところに点在している庚申塔やお地蔵様、そして石碑などは、今も、それにまつわる民話や伝説となって語り継がれているのです。
今になってもここに存在する、そのことがとても尊く思われます。






のどかな、田んぼのあぜ道のほとりに、ひっそり佇む野仏や祠を訪ねて回ると、いつの間にか、異次元の世界に誘い込まれ、気づくと現世の雑念が吹っ飛び、リフレッシュしているという、とっても不思議な空間です。






 白光内春日神社の考察

南成田白光内の春日神社は、白光内となっていますが、現住所は船引成田分に入ります。
白光内の「内」というのは、武家の一族が住む集落という意味があります。

第一説
田村庄司家の藤原系田村氏の氏神からの春日神社

春日神社の総本山は、奈良春日大社です。
創建は奈良時代の768年に遡り、時の左大臣藤原永手によって建てられたことから藤原氏の氏神となり、藤原氏の勢力が盛んになるにつれて全国に広がっていき、3000にもなる春日神社や分社の総本山として現在でも崇拝を受けています。

荘園制度の中で旧田村藩領は、那智熊野大社の所領荘園でした。
荘園とは、貴族や寺院の私有地のことを指します。この私有地管理のための事務所や倉庫を「荘」と呼んでいたことから、私有地を「荘」のある園として「荘園」と呼びます。
旧田村領田村庄は、平安末期より室町末期の戦国時代まで続きます。
平安末から鎌倉初期までその管理者として前形部太輔仲能朝臣の名前が記された書類が残っています。
そこから藤原氏の氏神様の春日神社が旧熊野領荘園には御分霊を祀った「熊野宮(神社)」と共に多数創建されていたと考えられます。

白光内の春日大社建立にあっても近くに庄司という集落があります。
この庄司集落の名称から察するに、田村荘司家との関連も推測されます。

尚、この藤原氏の一族が田村荘へ下向して荘園を管理していた田村荘司家に繋がるというのはいささか疑問が残り、田村領を支配した田村氏は本姓に関わらず、田村姓を名乗っていることから、田村を支配する地位に立つものの条件として、田村氏を称すべき風習があったのでなかと考えています。


もう一説
南北朝時代の南朝方の忠臣橋本氏の氏神

鎌倉末期、皇位継承をめぐり南朝と北朝に朝廷が分かれて争っていた南北朝時代に、南朝方の拠点として南奥州での激戦場となった宇津峰城。

1352年5月に陥落しましたが、この篭城戦を指揮したのは後醍醐天皇の孫の守永王を奉ずる陸奥介兼鎮守将軍の北畠顕信であり、攻める北朝勢の総大将は、足利一族で奥州管領の吉良貞家でした。
田村地方に多い橋本氏の先祖、南朝忠臣橋本正茂をは、畿内以来一貫して南朝方の主力として活躍した武将です。
その橋本氏一族が最後にたどり着いたのが三春田村領で庄司との関連もそこからだと考えています。
庄司の山中にある舘跡の居はその仮御所の名残とだとも伝わっています。
南成田には、橋本姓が多くその氏神として春日神社を祀ったのではないかとも・・・

さらに、橋本氏の祖として考えられるのは、後の歴史的背景から見て、和泉国日根郡橋本郷を本拠とする楠木氏の一党の橋本氏(『太平記』巻十六をみると橋本八郎正員の名が記載)ではないでしょうか。

鎌倉末期の混乱期である南北朝時代と云いますから今から約700年前、田村義顕公の三春入城の約160年前となります。

橋本正員は、湊川にて楠正成と共に忠死していますが、その子正家は、楠木正成三男楠木正儀の子楠木正秀らと共に千早赤阪村の城にて挙兵するも落城して奥州に下り再起を図ります。

その子橋本正茂は、後に顕家の弟顕信に属して北畠顕家に従って上京し足利軍と奮戦し、顕家公の戦死後、田村輝定の軍に属して東国各地を転戦し足利軍に抗戦すること十有余年。南朝方に組し「錦の御旗」の元で勤王・官軍として終始忠節を尽し戦い抜いています。

尚、「田村太平記」の系図では、橋本正員─正家─正茂─正典(三春大神宮合祀の橋本正茂を祀る橋本神社の史蹟)となっています。



三春昭進堂代表 菓匠髙橋龍一

| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |
三春物語487番「五斗蒔田巳待供養塔」


五斗蒔田の巳待供養塔
荒和田から実沢に向かう通称「お化け坂」の入り口にある供養塔です。
巳待供養と二十三夜供養塔が田圃の縁にある巨石上に安置されています。



巳待講
月待の一つであり古くから講中の作られていたことが伺われる。
蚕を飼っている人が秋季、巳の日の晩に集り掛軸を拝み、直会をした。巳の日は福神である弁財天の縁日であり、弁財天信仰の盛んな地域は、近くの弁財天に参詣する。




弁財天は仏教の天部の神が、もと音楽の神のち財宝を与える福神として崇められたもので、中世になって急速に信仰を深め、とりわけ真言宗寺院や修験が伝播、布教に関与した。
十二真支の巳は蛇に対する信仰と関与し、弁財天との習合に際しては巳=蛇は弁財天の使わしめだと考えられていた。
一方、巳は脱皮、変成の思想があり、巳の日には特別な厄払いの信仰があった。
また、養蚕の盛んな土地では蚕を食べる鼠避けとして蛇神は養蚕農家の守護神であった。



| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |
三春物語382番「南成田の南無阿弥陀仏石碑」


三春の村々を歩くと、「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の六字を刻んだ石碑の見あたらない地域は、ほとんどないと言ってよいでしょう。
時宗や浄土宗、一向宗などの念仏宗の寺はもとより、路傍にも、樹陰にも、幾つもの碑をよく見かけます。
 


南無阿弥陀仏の六字は、長い間、三春人の心に浸透してきました。
現代ではそれを唱える者が少なくなったとはいえ、その「称名念仏」の心が三春人の精神の多くの部分に影響を与えてきた、と言って過言ではありません。
阿弥陀仏の願力(他力)も乗じてその浄土(西方極楽世界)に往生せんとする「他力往生」の信仰はあ、末法思想の影響もあって、平安時代以降、急速に強まったとされています。比叡山横川にいた源信の「往生要集」もその後の浄土信仰に大きな影響をあたえました。この流れの中から法然・親鸞・一遍等が出て、阿弥陀仏信仰は「浄土」信仰の主流を形成した。また、現世に阿弥陀仏浄土を造立すべく荘厳をこらした浄土建築・美術を生み、阿弥陀仏堂に遺体・遺骨を納めることさえおこなわれます。




鎌倉時代から室町時代にかけて多い板碑(石板塔婆)にも阿弥陀仏三尊を彫刻したものが多くあります。
念仏行事を中心として平安時代後期から宮廷貴族の間に行われた阿弥陀仏講(往生講ともいう)は特別の行事に際し、塚または石塔を立てたし、また阿弥陀仏の十五日縁日は「古今著聞集」にも見られ、古くから行われていました。



| ryuichi | 05:23 | comments (0) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |
三春物語96番 南成田の「蛇なぶり石」
 南成田のはずれに大森という地区がある。
その昔、不動尊が祀られていた。毎年十二月八日に一升餅を搗き、二個に丸めてお供え餅を奉納していた。ここは「湯立て」の行事があったと言われている。
不動尊の裏山に大きな石が突ったっていて、そばのジュンサイ池に住む大蛇が、天気のいい日に出てきては日向ぼっこをしながら、その石のをペロリペロリと舐めていたので石がへこんでしまった。
不動尊は今はないが「蛇なぶり石」は残っている。



| ryuichi | 20:51 | comments (0) | trackback (x) | 旧要田村::南成田・庄司 |