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「奥州三春領荒和田村御年貢割帳」 荒和田名主 橋本猶右エ門 文化十三年甲子年 八月    江戸築地御蔵 秋田中務様 壱ヶ年 御年貢  御免町代官様



「奥州三春領荒和田村御年貢割帳」 荒和田 名主 橋本猶右エ門 文化十三年甲子年 八月 
 
江戸築地御蔵 秋田中務様 壱ヶ年 御年貢  御免町代官様






田村庄司田村家、及び三春城主田村家の縁となる富沢橋本、芦沢橋本、高野橋本、荒和田橋本の末裔の一家、荒和田の橋本さんにご来店いただきました。
旗本五千石秋田氏の年貢の写しのコピーを持参して見せていただきました。



荒和田橋本家は、戦国期には、荒和田舘ヶ守(森)、田ヶ森の館主として田村家を支え、田村家改易後に於いても、御春輩として在所を守り、上杉、蒲生、加藤の代官を経て松下家は村長として、さらに江戸秋田藩藩政下では、大名分地旗本寄合席五千石の秋田氏の代官補佐の名主として五千石領内を取り仕切り、名字帯刀、裃袴を許されていた家系です。







旗本寄合席五千石秋田淡路守家は、三春秋田家二代藩主秋田盛季が、幕府規定の「後継者なしの場合は領地召し上げ大名家廃絶」という厳しい禁令の対策として、弟の秋田熊之丞季久公に、七ヶ村五千石を分割し、いわゆる大名分地とし創設された徳川旗本家です。

 この時に三春領からの分割された村は、丹伊田・富沢・荒和田・大倉・新舘・石森(分村)・つくも田の各村となります。

 この敷地は、戦国時代末の天正18年から寛永4年までの40年間は、会津蒲生、会津上杉、二本松加藤と三春を兼領した歴代の代官所が置かれていた場所で、江戸期には旗本秋田氏の代官の宿所となっています。





また、橋本さんはもう一冊持参していただきました。

詳細は不明ですが、秋田氏時代の三春藩の詳細、御城下や御城の門や城下町、お寺の石高、更には領内の石高の配置や様子が詳細に記された冊子です。


















日光東照宮 徳川家へ献納した水晶石の記載もあります。












これはいったい何?

しかも旗本秋田五千石の領地名主の橋本家に伝わっていた意味は?






旗本五千石秋田氏は、三春二代藩主秋田盛季の弟季久に始まる旗本五千石秋田氏

江戸屋敷は、築地本願寺の西手(現中央区築地四丁目電通本社周辺)、そして御公儀拝領屋敷(現江東区平野一丁目老人福祉センター付近)もありました。                          

五千石秋田氏は、徳川家直臣の旗本籍ですので、江戸定府と定められていましたので、領主秋田氏が領地の赴くことはありません。

また、大名分地ですので代官一人の他には家臣の常駐も無く、その代官は淡州様代官(初代季久官職淡路守のちなんだ通称)と称され、屋敷はお不動山の麓にありました。





初代季久 母は土浦城主松平伊豆守信吉の娘。慶安二年六月十日分知の礼に登城し将軍家光に初見します。それを機に右衛門季久と改めた。寄合組に編入。
万治元年閏十二月、従五位下淡路守に任官、以来、度度公役(小普請役)を勤める。
万治二年八月、赤坂口警衛 寛文五年二月、中奥小姓として日光山法会に供奉、高家吉良義同行 天和三年八月、駿府城加番 
尚、貞享四年六月、その年1月に始まった「生類憐みの令」に反して、家臣が吹矢で燕を射落とした事件に連座するところ、取り調べが行き届いていたとの理由で不問に付された。元禄六年九月御小姓組番頭に昇進し、宝永元年八月辞職、寄合組。


二代季晶 采女季豊 延宝三年十月十四歳にて将軍家綱に初見、宝永四年八月四十六歳にて家を継承。岳父は、柳生宗冬の女婿朽木則綱(大番頭六千石)であった。

三代季成 季瑞、内膳、兵部と称す。正徳元年、十二歳で家督継承し、同二年二月井伊又五郎直定らとともに将軍家宣に初見の礼を取り、寄合組に入った。
享保二十年五月、定火消役となり、同年十二月布衣着用を許されている。

元文四年に病のため寄合組に入り、寛保元年十二月に致仕。妻は三春三代藩主輝季の娘おトヨの方であった。


四代季通 内膳。元文元年三月、将軍吉宗に初見し、寄合組に入り、寛保元年十二月、父致仕の日に家を継承します。寛延三年、定火消役となり、その年の暮れに布衣を許された。宝暦三年九月小姓組番頭となり、その暮れ、大和守に昇任。同九年十月西城書院番頭となった。明和二年八月寄合組に戻り、翌年八月致仕し、養老料三百俵を賜わった。

五代季高 兵部 宝暦十三年三月将軍家治に初見し、西城小姓となる。明和元年十二月内膳正に進み、翌年八月に家督を継承。明和七年暮れ中奥小姓に転じ、安永九年二月寄合組に戻り、天明元年八月致仕して、康瀛(こうえい)と号す。妻は土屋篤直の養女、後妻は三春七代藩主秋田定季の娘お富の方であった。

六代季済(すえまさ)中務、内膳、季礼 毛利高丘の四男である。
天明元年八月家を継ぎ、その年の暮れ将軍家治に初見。文化元年三月致仕。

七代季穀(すえつぐ)左近、中務 文化元年三月、季済の養子となった。
文化四年、駿府城加番、文政元年、深珠院殿葬送警衛 文政四年十月、定火消役
同十二年十二月小普讀組支配に転じ、天保二月九月、浦賀奉行となり,同八年十月小姓組番頭となった。その暮れに淡路守に任じられ、翌天保九年、西城書院番頭となり、西城造営に際し百五十両を献じ、時服を賜わっている

八代季幸(月編に幸)帯刀、中務を称し筑後守に任じた。天保二年十二月、家斉に初見し、弘化111年十一月召し出され、嘉永六年家を継承し、中奥小姓となった。元治元年五月寄合組に戻り、慶応元年に没した。

九代 中務 名乗り不詳。尚、慶応二年八月、寄合銃隊頭に秋田玄次郎(元次郎)の名を「統徳川実紀」に見いだせるが、委細不詳。
慶応二年十二月布衣を許され、同四年勤仕並寄合より寄合肝煎となった。

明治維新、江戸幕府瓦解の後、五千石の領地を召し上げられ俸禄を失った秋田淡路守家は、江戸を離れて帰藩し、小野寺市太夫の南町屋敷に入ります。



| ryuichi | 03:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |
笹山舘  田村四十八舘



笹山舘 


田村四十八舘の一つで、舘主は佐藤右京

西ノ内にあり、古来より西館と呼ばれていました。






三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:46 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |
三春物語575番「荒和田十一面観音大士宇内 理趣分供養塔」


三春城下の北西二里、旧荒和田村長寿山廣傳寺の参道。
十一面観音大士堂にある「理趣供養塔」です。
理趣供養とは、「理趣分」というお経の功徳で人々が幸せにあるようにと祈願して建立されたものでしょう。

三春付近で初めて見つけました。

理趣分読誦は仏法興隆、国家安泰、世界平和をはじめ檀信徒の家内安全、消災障除、心願成就に功徳をあらわすとされています。

大般若経は全部で600巻もある長いお経ですが、第578巻の「理趣分」というお経があります。
この「理趣分」が、600巻の中で一番重要な部分といわれています。
正式名は不空訳が、「大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品」と言い「般若心経」の基と成る経典でもある、玄奘が訳した「大般若波羅蜜多経」600巻から独立した578巻の般若理趣分でその経緯から「般若波羅蜜多理趣品」とも呼ばれる。

医薬の発達していなかった時代は、理趣分によるご祈祷が盛んに行われていました。




仏教には「六趣」という言葉があります。
迷いの6つの世界である「六道」と同じ意味で、特に地獄や餓鬼などの苦しみの世界を「悪趣」といいます。
それに対して「理趣」とは仏の智慧の世界、また、その境地に至る道を意味しますが、『理趣経』はまさにそれを説いているといえます。



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| ryuichi | 04:20 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |
三春物語574番「荒和田十一面観音大士堂」


三春城下の北西二里、旧荒和田村にあ十一面観音大士堂です。
長寿山廣傳寺の参道にあります。
神仏習合の名残か鳥居をくぐります。



十一面観音菩薩 十一の苦難を転じて仏果を得る



正面に、慈悲の菩薩相、左方には、念怒の瞋相、右方は、白牙の上出相、そして、後方には大笑の相。
多様な表情をあらわす、十一の化仏面を頭上にのせた、十一面観音。
その化仏面にあらわされている衆生の十一の苦難を断ち切り、転じて、仏果を得た功徳とするために、悟りの道へとひたすらに導くとされています。



十一面観音は、十一の面に人々の苦しみを救う力を秘めた観音のことであり、前の三面は慈悲相を表し、左右の六面は忿怒相(ふんぬそう)、後ろの三面は忿怒の極致(きょくち)の大笑をもって魔を払う大笑面です。



玄奘三蔵以降の新訳では、観自在菩薩と訳していますが、
観自在とは、智慧をもって観照することにより自在の妙果を得たるを意味する。
また衆生に総てを畏れざる無畏心を施す意で施無畏者、世を救済するので救世大士ともいう。




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| ryuichi | 04:43 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |
三春物語573番「荒和田長寿山廣傳寺」


三春城下の北西二里、旧荒和田村にある曹洞宗長寿山廣傳寺です。
阿弥陀如来をご本尊としています。



本来の仏教は「生・老・病・死」という人間の持つ根元的な悩みを解決していく教え、つまり、病や死といった苦しみをそのまま受け止め、その上でそれを乗り越えていく教えであると考えますと、権力の側に立ち、民衆の悩みにこたえようとしない国家仏教は、本当の仏教とは呼べないのではないでしょうか。
本来の仏教の「救い」とは、悩みの解決を奇跡に頼るのではなく、悩みをありのままに受け入れることからはじまるものだったのです。



歴代住職の墓石群です。



西方極楽浄土の主である阿弥陀如来は、別名 無量寿如来ともいわれ、その寿命は限りないとされ、その光明は十方国を照らすとも言われています。
  弥陀の四十八願により「南無阿弥陀仏」と唱えれば、如何なる者であっても、死後、阿弥陀様の極楽浄土へ人々を導き、生まれ変わらせてくださるという、大変ありがたい仏様です。
  阿弥陀如来の功徳は、極楽浄土、現世安穏、先祖供養、家内安全、戌年・亥年生まれのお守り本尊などです。


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| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |
三春物語568番「笹山立石延命地蔵堂」
 

 「笹山立石延命地蔵堂」

三春城下の北、旧笹山村立石にある延命地蔵堂です。


立石集落の方々に、祀られています。



地蔵信仰
無仏の世、六地蔵の観念(六道に出現)、境(サヘ)の神(道祖神)の信仰との習合、子供の守護神、賽の河原の信仰等があります。
この世に生を受けたものは、すべて生前の行い、因果に応報して、 「人間」「天」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」の六道を輪廻転生すると、されていたのです。
 死後の概念がかけ離れていたため、古代日本での仏教受容は、まず優れた学問や芸術をもたらすものとして受け入れられ、 そしてしばらく後、悔過(けか)という作法により、 次第に宗教として受け入れられて行きました。




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近くにある忠魂碑

| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |
三春物語530番「笹山近馬場篠嶽山満円寺」


篠嶽山満円寺
三春城下の北西、一里余りにある旧笹山村近馬場にある曹洞宗のお寺です。
御本尊を愛宕地蔵尊としています。



愛宕地蔵尊は「本尊将軍地蔵尊」と記され、さらに、将軍地蔵尊は修羅闘争の瞋恚を調伏し太平静謐を加え給う云々とされているので、当地方にあっての重要な社であったことが伺えます。



戦国武将の愛宕信仰では、戦場に赴く際「愛宕山大権現守護所」の札を身につけていたという。
三春城下州伝寺の末寺とされています。



境内にある太子堂です。


参道を彩る桜並木

| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |