2023-05-14 Sun

岩代「百目木城址」
四本松城主・石橋氏宿老石川弾正光昌の居城。
石川光昌は1580年(天正8年)に小浜城主・大内定綱らとともに主家である石橋氏を滅ぼしましたが、やがて定綱との関係が悪化すると、1585年(天正13年)には定綱と敵対した伊達政宗に味方して、合戦での戦功により小手森城を与えられました。
しかし伊達氏重臣白石宗実の支配下に置かれたのを不服として、相馬義胤を後楯として政宗に反乱を起こすと、政宗の軍勢に鎮圧されました。

戦後は伊達家臣 鬼庭綱元が入城しています。
光昌は相馬に落ち延び、「関ケ原の戦い」では上杉景勝に仕えるなどしましたが、最終的にはこの地に戻ったと伝わります。

百目木の城下は、岩代の国らしく至る処に巨石があ知ます。
これは城下の道路拡張を明治ちゅきの行った時の記念碑文を既存の巨石に刻んだものです。

そして、名目津温泉!

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2022-11-06 Sun
岩井澤舘(城) 都路
舘主 赤石沢修理亮
天正17年6月10日、 相馬義胤は岩井沢城 (都路) に侵攻してを攻め落とします。
さらに、相馬義胤は、岩井沢舘に布陣し、 稲ヶ瀬・常盤城を攻めます。
城主赤石沢修理亮以下 300 人、 伊達の加勢桑折摂津守以下 300 人がこれを守備、 数日にわたり攻防を繰り返したのち、 相馬勢は外郭を落とし、三の曲輪をも破ります。
二の丸も危うく思われたころに、 田村宗顕は橋本刑部 田村宮内大輔に 500 を差し添えてここに入れたので、 本丸 二の丸は堅固に持ちこたえました。
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天正17年6月11日、 会津の本城黒川 (後の若松) にはいった政宗はこの報に接して、伊達成実 白石宗実 ・ 原田宗時・平田周防守に3千を差し添えて三春に派遣し、さらに伊達 ・ 信夫・ 刈田・柴田の勢を150騎、 塩松に遣わします。
佐竹 岩城 ・ 相馬の軍勢は7月まで対陣したが、 三春を攻められずに、ついに帰陣した。
※赤石澤氏について、『奥相茶話(おうそうさわ)』の中に、慶長五年(1600年)草野の夜盗頭・赤石沢喜七郎の記載有。
この赤石澤氏との関連を調べたいと思います。
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