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一関藩田村氏三万石藩主 田村家の菩提寺「大慈山祥雲寺」




一関藩田村氏三万石藩主 田村家の菩提寺「大慈山祥雲寺」。

祥雲寺の前身は、三春の田村家五代目の当主という立ち位置の田村宗良(伊達忠宗の三男)が寛文九年(1669)に岩沼(宮城県)に開設した長谷山大慈寺で、一ノ関移転後の初代藩主田村建顕が天和二年(1682)岩沼から一関に移封された際、寺も一緒に移し、宗良の母お房の方(祥雲寺殿)を開基に大慈山祥雲寺と改めました。








「大慈」は、伊達政宗・愛姫の第二子忠宗の法名「大慈院殿」にちなんでつけられた。
 
開山は大機円応禅師で、本尊を千手観音とさだめ、藩主はじめ家臣領民の深く信心を集めたといわれます。


忠宗の側室であったお房の方は、観音信仰にあつく、寺伝によると、寛文六年の江戸勤番中のある夜、枕辺に観世音菩薩があらわれ、その霊夢に心動かされ、岩沼の地に一寺を建立したとありました。
 










「田村家墓所」は、本堂の左手に田村家墓所がありますが、階段の上に土饅頭です。


大正期になって品川東禅寺にあった歴代墓を、纏めて合葬した際に墳丘墓に改めたようです。







忠宗の母で政宗の正室・陽徳院(愛姫)は、三春城主田村家三代当主淸顕の娘で、天下人豊臣秀吉による「北条小田原攻め」「奥羽仕置」と、不仲説が囁かれた伊達政宗の謀略で、三春田村家が断絶したのを深く悲しみ、遺言で宗良に田村家を創設して藩主に就かせたという経緯の中で、この祥雲寺は愛姫、三春田村家と深い繋がりがあります。


この縁で昭和六十二年、三春町と一関市とが姉妹都市の調印をした。

  なお、祥雲寺は田村氏の菩提寺となっており、円墳の墓所には初代宗良から十五代良顕まで田村家代々のご遺骨が納められています。

また、境内に建つ田村記念館には貞享元年(1684)作の忠宗、房姫の木像のほか、市指定文化財の「常香盤」や戊辰の役時の陣羽織、時の太鼓、子安観音像、田村家愛用の

黒漆蒔絵重箱など三十点以上の文化財を展示されていました。



一関藩田村家は、幕府から伊達家に代々発給される判物と領地目録に、62万石のうち3万石を田村家に与えることが明記され分知されて成立した藩です。

即ち、幕府・徳川将軍家の直臣として扱われ、幕府から直接の指示を受けていました。








一方、一関藩は、将軍家から直接領地朱印状や領地判物を交付されていません、

したがって、仙台藩からの干渉もあって、大名取立から間もない寛文2年(1662年10月)にあり、「領内仕置六ヶ条」により、領内での仙台藩以外の制札が禁止されます。


これにより、自主的な法令を公布することが不可能になり、仙台藩の支藩的な立ち位置となっています。






また、一関所替後の所領は北上川に二分されていましたが、二分された一関藩領の間には仙台藩領の村落が10余村あり、一関藩は政治と経済ともに仙台藩の影響下に置かれています。

藩職に仙台留守居役が設置され諸大名や幕臣を記した「須原屋武鑑」でも仙台藩の支藩扱いでした。








赤穂浪士の赤穂藩主浅野内匠頭が、吉良上野介に刃傷に及んだ後に、御預け、切腹をしたのは愛宕下にあった、一ノ関田村家上屋敷でした。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



| ryuichi | 03:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
「ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道」 
 



塵壺394号 令和6年4月26日発行

「ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道」 

 滝桜の樹齢千年には及びませんが、群雄割拠の戦国時代に103歳の高齢になっても軍略・知略を用いて第一線に立って政務・戦闘指揮を執っていた生涯現役の武将が三春にいました。

田村宮内少輔顕頼(頼顕の記載もあり)がその人で、仏門に帰依して落飾「月斎入道」と称した戦国武将三春田村氏の参謀役の軍師です。

日和田八丁目(守山?)から、三春に城を築いた三春田村氏初代となる田村義顕の弟で、二代の隆顕、そして、三代となる清顕も補佐して三春田村氏を名実ともに一級の戦国武将に導いた立役者の一人で、甥の田村右馬顕基入道梅雪斎、同右衛門清康、橋本刑部顕徳らとともに「田村四天王」と称されていました。


また、月斎は、田村家中の最長老として重きをなしその子供達、嫡男・出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、次男・上宇津志城主の宇津志(移)宮内少輔(太夫)顕康(顕貞)、三男・新田城主の新田民部顕輝(土佐守顕成)、四男・田村石見守顕朝、五男・早稲川舘の早稲川右馬助顕純、六男・阿久津舘の阿久津右京亮顕義、七男・木目沢舘の木目沢善五郎顕継、そして、八男・大槻舘の大槻内蔵頭顕直(仙道表鑑・田村系譜等参照)らの一族郎党で「月一統」と称される田村家中における一大勢力を構成していました。








 三春田村氏の最盛期の領地は田村郡を基本として仙道のほぼ全域に達していましたが、月斎は領土拡大に於いて田村家三世代に亘る歴代当主に仕えて家中で重きをなし、合戦においては最前線に陣取って戦の要となる「軍師」を務め、その勇猛さは周辺諸家に知られ、「畠に地縛、田に蛭藻、田村に月斎なけりゃよい」(仙道軍兵記)と謳われるほどでした。


 先頭の最前線となる諸城の城主を勤めた後に、三春城下の本丸北西、橋本刑部顕徳の舘近くに“椿舘”と称された「月斎舘(現消防三春分署の北側)」を築いて三春御城(舞鶴城)及び城下防衛の要所を固めます。

 月斎は、戦国の教養人としても第一級で、天正六年五月、跡取りの宮内顕康のために一五ヵ条から成る家訓を記しています(世文書)。今に伝わるのはそのうちの八ヵ条ですが、 博奕双六の禁止、狂言・綺語を慎しむべきことなど、現代に通じる修身のことについての厳しい戒めとあわせて、戦陣における敵打の厳禁、および、家中の喧嘩両成敗など、戦国の世を生き残る為に軍律秩序の堅持に関する事柄が記載されていますが、この家訓の文言からは、戦国時代を生き残る術に対する知識の高さがうかがえます。







 天正十三(1585)年十二月、田村家菩提寺福聚寺第九世・定南紹策大和尚は、月斎の求めに応じて「不思議以=天命、如期罷成候事、畢竟弓矢之冥一、夫月斎公者、[田村賀翁居士之第二子而、 或時遊三六芸之園、或時者志]」と記された一文を創っています。







 


さらに、月斎は、天澤寺第六世・心叟道存大和尚から仏道を習う参禅の者として「正徹」という諱(死後その徳をたたえて贈られる名)と「頂山」の号を拝受、そして「聖休」とも号した記載も残ります。






 晩年、平窪(現いわき市中平窪岩間)にある義姉の実家、岩城氏と縁の深い常勝院岩城寺所蔵の古文書の中に月斎が後継ぎである宮内大輔に送ったとされる遺書が残っていますが、その文筆を見ると文才の高さがうかがえます。






 

和歌を嗜む優美さと、禅宗に帰依し法名も「月斎」とするなど、仏道心とを兼ね備えた第一級の戦国武将でもありました。

 月斎は長寿の武将として伝わっています。三春に本拠移し舞鶴城築城の永正元年(1504年)が元服後の17歳。

以来、戦陣に明け暮れ会津蘆名氏、須賀川二階堂氏、常陸佐竹氏、岩城氏、相馬氏、伊達氏等と戦国の世とはいえ四面楚歌の中で知力謀略限りを尽くして激闘を繰り返し、長い年月にわたって田村氏を守り抜きました。


 田村・伊達連合の最大の危機とされる天正13年(1585年)の蘆名・佐竹連合軍との合戦・本宮「人取橋合戦」では98歳で軍配を振るって田村勢を率いたことになります。

さすがに、翌年の清顕死去以降に発生する田村家内紛や相馬・岩城氏からの領内防衛戦では三春城下より指図を出していたと考えられますが、最後に公の文書に記載されているのは、天正18(1590)年の「伊達治家記録」の二階堂氏滅亡後の処遇に関する文書で、長享元年(1487年)生まれの月斎は、この時なんと103歳!
  


生涯現役、ご長寿万歳!  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!

| ryuichi | 18:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」小林克巳 (著)




「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」小林克巳 (著)



旧御木澤村出身の会計士で歴史家の伊藤務さんより、小林克巳先生の書かれた「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」を献書として頂戴しました。

この作品は、先に三春町交流館「まほら」で公演された「愛姫をもっと知ろう」~琵琶と舞と歴民の藤井さんのおもしろ講話~
の元になった小説で、小林先生の依頼で伊藤さんが、資料提供と時代考証等のアドバイスをされた作品です。

小林先生は経歴が示す通り病院を経営されている現役の医者の傍ら様々な小説を世に送り出しています。

そして今回は愛姫

戦国時代と言えば、猛々しい武士たちの生き様に注目しがちですが、その影には彼らを支える力強くも温かい妻・女性たちの力強い姿がありその典型を三春田村氏の娘で伊達政宗の“愛姫(めごひめ)”法名・陽徳院の視線を通して描いた作品です。

愛姫について、妙心寺百五十三世住持で瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。


愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。

そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。

このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。

この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。

政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には後に松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。

それから、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸の4人の子を政宗との間に授かっています。

太閤秀吉・豊臣の天下となり聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、今でいうファースト・レディー外交的な役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな、匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、絶えず政宗を“内助の功”で乱世の伊達外交を支えていたと美談が伝わっています。

[著者略歴]
小林克巳
福島県立医科大学卒
同大第1外科
水戸赤十字病院外科
(現)医療法人社団克仁会理事長
茨城県医学会学術地域医療功労者賞受賞
茨城文学小説部門受賞「朱の大地」

《著書》
「秀吉と利休 ~相剋の朝~」
「信長と久秀 ~悪名の誉~」
「皇国の興廃 ~この一戦にあり~」
「朱の大地」
「邂逅」
「平成の徒然草」



三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領し幕末まで続きました。




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三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
 真田幸村と三春田村氏   NHK大河 どうする家康 大坂の陣を見て



     真田幸村と三春田村氏
 
NHK大河 どうする家康 大坂の陣を見て







白石の片倉家墓所近くにある田村家墓所

この真田幸村と三春との意外な関係をご存知でしょうか?

伊達政宗夫人愛姫の父、三春城主田村清顕が跡継ぎが居ないまま亡くなると田村家中では家督をめぐり相馬派と伊達派争いが起こります。

亡くなった清顕の娘婿である伊達政宗がその調停に乗り出して、強大な武力をもって相馬派を駆逐し、田村家中をまとめて跡継ぎを清顕の甥である田村孫七郎宗季に決めます。








田村清顕公、定廣公、宗顕公、阿菖蒲、の中に、真田信繁(幸村)と刻まれた墓石もあります。








そして自身の名前から宗の一字を与え田村(牛縊)宗顕と名乗らせ三春城主に据えます。(田村仕置)

後に、その田村家当主宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)

  このとき、宗顕を参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。 そして田村領は伊達政宗に与えられてしまい、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗に謀られた!」 と大いに憤慨したと記録されています。








伊達政宗は改易した田村家中を米沢に招き、伊達家臣として召し抱えようとしますが、乗っ取られた形となった田村家中の政宗への不信感と反発は強く、家臣の多くはこれを断ります。

また、この件で実家である田村家の取り潰しを憂いた愛姫は、やはり正宗の誘いを断って伊具郡(宮城県)で隠遁していた宗顕と、その子である定廣を伊達家重臣の白石城主片倉家へ預け、白石(宮城県白石氏市)に移住するようはからいます。


後に、定廣は少納言喜多(政宗乳母)の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名し仙台伊達藩士となりますが、その妻となったのが、やはり縁あって片倉家へ引き取られていた真田幸村の娘“阿菖蒲(おしよぶ)”でした。


宮城県白石市蔵本愛宕山の北西山麓にひっそりと田村家の墓所があります。

そこには、田村清顕、宗顕、定廣など三春田村の一族が眠ります。



その墓所の一角には「真田左衛門佐幸村御墓」と書かれた標識があり、真田幸村の霊を慰めるために建てられたとされる墓石もあります。

この幸村の供養碑建立の由来は、伝わってはいませんが、定廣の妻阿菖蒲が、嫁ぎ先の田村家の墓所に、わが父の弔う碑を建てたものでしょうか?







当時は、片倉守信(真田大八)が真田氏を名乗ったことに幕府が疑念を抱くなど、未だ幸村の印象を強める行為は憚られたのでしょうが、慶安元年(1648)、やはり片倉家へ身を寄せていた阿菖蒲の姉である“阿梅(おうめ)”が、幸村の菩提所として月心院(現在廃寺)を建立し、白石城下の当信寺に墓碑を建立したと伝えられています。




片倉氏の居城「白石城」



後に、三春田村氏の名跡は、愛姫の遺言により息子である伊達忠宗の三男宗良(愛姫の孫)が継ぎ、岩沼(現宮城県岩沼市)に3万石を与えられて田村右京を名乗り田村家を再興します。


さらに、山本周五郎著の小説「樅の木は残った」の題材となった「伊達騒動」を経て一関3万石(岩手県一関市)に移り、子孫は一関藩主として明治維新を迎えます。


尚、愛宕下の一関藩江戸藩邸は、忠臣蔵の浅野内匠頭長矩が預けられ切腹した屋敷としても知られています。
   



合掌          蒼龍謹白    拝

| ryuichi | 04:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
「戦国のファースト・レディー~  愛姫・陽徳院、西館殿五郎八姫・天麟院 」



「戦国のファースト・レディー~

   愛姫・陽徳院、西館殿五郎八姫・天麟院 」


日本三景の一つ松島に、三春に縁のある伊達政宗の正妻“愛姫(めごひめ)”法名・陽徳院を祀る瑞巌寺、そして、その娘で西館殿とも呼ばれた“五郎八姫(いろはひめ)”法名・天麟院(てんりんいん)が眠る天麟院内の定照殿(じょうしょうでん)(御霊屋)があります。


愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。

そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。


このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。

この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。

政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には後に松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。

それから、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸の4人の子を政宗との間に授かっています。







太閤秀吉・豊臣の天下となり聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、今でいうファースト・レディー外交的な役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな、匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、絶えず政宗を“内助の功”で乱世の伊達外交を支えていたと美談が伝わっています。



三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領し幕末まで続きました。


愛姫について、妙心寺百五十三世住持で瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。






愛姫の娘で、西館殿とも呼ばれた五郎八姫・法名天麟院が眠る天麟院内の御霊屋「定照殿」。

天麟院は五郎八姫法名の菩提寺で瑞巌寺の並びにあり、陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられています。本堂・山内は小さいですが横の参道から山に登ると霊廟の「定照」や樹齢300年以上の“はりもみ”の巨木や伊達一族供養塔がある天麟院洞窟群などがあります。





五郎八姫は、越後少将と称された越後高田六十万石の城主松平忠輝の正室です。

忠輝は、徳川家康の六男で側室である茶阿局(さあのつぼね)を母としています。元々家康とは折り合いが悪いと伝わっており、「大阪夏ノ陣」の直後の元和元年(1605)には家康
から勘当を申し渡されます。

翌年、幕府から高田藩も改易され、正室である五郎八姫とも離別させられて飛騨高山から諏訪に流されます。

天和三年(1683)、諏訪大社のある諏訪にて九十三歳の生涯をここで閉じ、貞松院に葬られます。

忠輝と五郎八姫は仲睦まじかったが子供は生まれなかったと言われています。

五郎八姫は、離縁後父の政宗のもとに戻り、以後は仙台城下で暮らします。

このとき、仙台城本丸西館に住んだことから「西館殿」とも呼ばれていました。



     蒼龍謹白  拝   田村に来てみねげ!


| ryuichi | 04:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
「三春舞鶴城築城秘話」 令和5年11月10日発行 





塵壺388号 「三春舞鶴城築城秘話」 令和5年11月10日発行 


永正のころ、戦国大名田村義顕公は、三春郷の中心部にある大志多山 (現三春城址)に御城を築き本城としました。

 城主も、田村氏、上杉氏代官、蒲生氏代官、松下氏、そして、秋田氏と移り代わりながら戦国動乱の乱世を乗り越えます。






 秋田氏治世の江戸初期から明治維新後に解体されるまで三春藩主の居城となり「舞鶴城」と呼ばれました。秋田氏の時代に、藩主の御殿は現在の三春小学校のある麓へ移っています。

 現在の城跡には、本丸や二ノ丸、そして、東舘とする三ノ丸跡があり、土塁や石の一部などが残り、遊歩道が設けられた城山公園として整備されています。

また、近年の調査によって城郭の中に江戸時代では最大級の大広間があったことや、全国でも珍しい城主のお風呂場である「御風呂屋」が存在し、主郭ともいうべき「御三階櫓」があったことも解ってきました。








舞鶴城の名前の由来には諸説があります。

田村氏の入城に際して、城の上空に1羽の丹頂鶴が現れて輪を描いて飛んだので、この吉兆を喜び「舞鶴城」と名づけたという説。

 築城に際して、城の安全を期する為の人柱にした「おツル」という娘の名をとったという説。

このおツルという娘は、領内の芦沢村光大寺の娘で大変美しいと評判だったと伝えられていて、今でも光大寺には美人が多く「光大寺美人」と云われています。







 さらに、田村氏は日和田八丁目(諸説あり)から本拠を三春に移し築城という運びとなり、その場所を求めて選定を行う際にまつわる伝説も伝わっており紹介します。

 三春郷で築城に最適と思われる大志田山(現・三春城址、御城山)と、貝山村の白山の山(現・白山比咩神社)の二か所が候補として残ります。

 この築城場所選定の話は、たちまち近在の村々に伝わり貝山村では白山様にお城が出来る事を願っていましたが標高の高い方に築城とするとのお達しがあり、果してどちらの山が高いのかという話が持ち上がり、村人々の一番の話題になっていました。

 そんな騒ぎの最中、1人の娘が大志田山の方が白山様より草履一枚分高いと自信有り気に話してしまいます。

 その話が噂になって田村家中の耳に入り白山の山にお城が出来なくなり、その一声の張本人が貝山村の“おツル”だったと判明し、おツルは村八分になり村から追放されます。

 その後、貝山村では“ツル”と言う名は禁がられ生まれた女の子にも付けなくなりました。


 近代に入り大正時代の頃までに、貝山へ嫁ぐ花嫁に“ツル”と称した方がいましたが、嫁ぐ時に名を“ケサ”と変えて嫁入りしたと伝わっています。







 前途の「人柱」とは、全国各所の築城に於いては神様への御供として人柱(生き埋め)を立てて造営の安全祈願とした伝説です。

 三春城址にも残っていますが、人の代わりに“鶴”と名付けた大石本丸に据えて人柱に替えたのではと考えています。

 尚、前記の貝山村のおツルさんは女ながら気丈夫な人だったから白羽の矢が立ったがその後どうなったかは伝説に表われていません。






 お城の別称でいえば「三春臥牛(舞鶴)城」との記載も認められます。宝暦九(1759)年に記された領内の名所旧跡を集めた『松庭雑談』には「三春臥牛舞鶴城」との記載があります。

 本丸にある「牛石伝説」ともに、『吉事有事、鶴来て城上に舞、故に領内ニ而鶴を殺さず。また不食・不買と云う』という記述があります。

牛石の伝説とは築城のとき木材を運んだ牛が石になったものだと伝えられています。

明治になってから往時の城を偲んで画かれた舞鶴城の図にも『臥牛の城』と記されており、本丸の牛石と舞鶴を併せた名で記されています。



  蒼龍謹白   三春に来てみねぇげ!  拝






三春昭進堂では、「三春舞鶴城」に思いを馳せ、「三春舞鶴城」と命名した栗どら焼きを新発売しました。

北海道小豆を使った自家製あんに"栗の甘露煮"を丸ごと一個入れて、ふわふわの手焼き生地で挟みました。











栗と餡のマッチングは良好で、栗を一個入れるだけで食べた時の贅沢感と幸福感はただのどら焼きとは違います。






| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 塵壺387号





   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 
 
鎌倉時代中期より室町から戦国時代にかけて、仙道(現福島県中地域)では田村庄司家の勢力基盤を継承した後の三春城主となる平姓田村氏が勢力を拡大していました。

 永享12年(1440)、室町幕府鎌倉公方の奥州の拠点「篠川御所(篠川公方)」(郡山市安積町)を攻め滅ぼした土豪の中に、田村利政公の名が記された資料が残っています。

 また、享徳3年(1454)頃の資料には、三春田村氏の初代・義顕公の祖父・田村直顕公の名が記されています。


 直顕公の時代から天正 18年(1590)の奥州仕置で田村家の終焉を迎えた当主宗顕公まで約150年間(六代)に亘って戦国乱世の時代に伊達氏・畠山氏・大内氏・岩城氏・相馬氏・蘆名氏・二階堂氏・石川氏・白川氏・佐竹氏といった強豪武将たちと亘りあい、時に四面楚歌の様相を呈した時期もありましたが、三春田村氏の活躍はめざましく、領土を護るばかりではなく領土拡張を成し遂げています。

 しかし、三春田村氏3代の清顕公は、激戦の真只中だった天正14 年に後嗣を定めず病没します。

 清顕公の夫人は相馬氏から、そして実母は伊達氏から入嫁しており、これらの要因もあって跡目後見争いとなり田村家中は内紛に発展してしいます。


 やがて伊達派の勝利により伊達政宗公の「田村仕置」を受けて清顕公の甥・宗顕公が後嗣となりますが、天正18年豊臣秀吉の「奥州仕置」によって、田村氏は所領安堵が得られず、戦国大名三春田村氏は消滅してしまいます。







 「御祭舘」御祭小山舘 

旧御祭村小山(三春町御祭)舘主小山左馬之助550石

三春城下の北西隣する旧御祭村は、戦国期には田村四十八舘の一つ小山舘があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

 古文書で見ると、三春札所(前述参照)から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったらしく、当時は、現在の舘下の橋本氏の屋敷までのびていたと思われます。

 江戸中期の秋田藩政下、藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納しました。

以後、明王と牛頭天王の祭礼には御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より御祭の村名を拝領したと伝えられています。

また、地域には「突き舘」、「突き打ち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という地名が残ります。

 戦国時代末期、田村清顕公が苦戦した小浜城の大内定綱の領地塩松(安達郡東部)への街道沿いで三春城の最後の防衛線に位置する舘です。



「七草木舘」七草木舘は、田村氏の一族で石高500石の七草木新助の居城。

ここは田村氏の三春領と、畠山氏の二本松領との境界に近く、御祭の小山城と共に、三春領北西の固めとして築かれたものです。

旧七草木村は、鎌倉時代末には田村庄司家田村氏の娘が地頭を勤めていました。

 その代官は鎌倉幕府滅亡後に上洛して後醍醐天皇の新政府に加わり領地の安堵を受けています。

その後、彼女が相馬重胤に嫁いだため七草木村は一時相馬領となったという記録が残されています。








七草木という地名の由来が伝わっています。

平安時代初期の寛平年間に宇多天皇は“七種粥の節句”をおこないました。

 このとき、竹良某という人が、七種および擂り粉木を献上した際に賞されて七種木の称を賜ったと伝わっています。

後にその子孫の七種木新介という武将が此の地の“築舘山”に舘を築いて移り住み、戦国大名田村氏に仕えた際に出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたとされています。



      蒼龍謹白  さすけねぇぞい田村!  拝






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