2024-11-24 Sun
海老根鎮守 菅布祢神社 (旧菅布祢大明神)
海老根村(現郡山市中田町海老根)の菅布祢神社は大明神と称していたが、明治二年二月神社と改称して社格は村社となった。
その後、明治二十九年に幣殿縦一間半、横二間、拝殿縦二間半、横五間に再築されており、同三十四年三月には土蔵、木造木羽茸、建立壱坪五合を新築しており神楽殿は同三十五年の暴風雨によって破損したなど、神社明細帳えの追記願や、取消願が大正二年一月八日付で知事宛に提出されている。
また、この神社の御由緒調査書によると次のとおり。
祭神一座 猿田産命
右古老伝説
当社の勧請は、平安時代末の永暦元年(1160)田村郡下枝村の菅船大明神の御分霊奉遷する所なり
この時、神殿を新築。
尚、その後に至って、海老根舘主今泉左馬之守なるもの者、特に神社を尊敬したとの伝説があり。
また、室町時代の永京11年(1439)に、海老根の泉舘主熊田右馬之丞藤原重特も、これまた大いに神社を信仰したる由、判然とし口碑にあり。
寛延二年(1749)神殿を改造して明治維新の折の村社に列せられる。
古器物
剣壱振
鏡四面
右之通に相違無之候也
明治三十五年十二月八日
社掌 遠藤直記
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2024-11-18 Mon
黒木鎮守 菅布禰神社
「黒木舘」田村四十八舘
戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。
三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。
武門の崇敬として源家朝臣より散米田と号して中田四反歩余畑山林を御寄付。
氏子は「寄附田」と称して祭事を行っています。
棟札四面の写しがあり
]
宝永元甲甲稔三月十八日(1704)
享保六辛丑歳八月十四日(1721)
寛政元己酉歳九月二十一日(1789)
弘化己己歳六月二十八日(1845)
宝永元年の棟札に「奉再興菅船猿田彦大神社為一天泰平四海平定当村安全也」と記載他のものが奉修復となっているようです。
享保元年九月(1716)「領主秋田信濃守馬匹奨励ノ思召ヲ以テ研山ノ神馬ノ額面奉納アリ」
弘化二年(遷宮)の棟札には領主秋田候より「太守公金五両御寄進相成候」とあります。
上記は、昭和16年に神祇院へ小社より村社への「皇紀二千六百年記念事業」に際する昇格に関する加列申請書より抜粋
境内の大ケヤキ 夫婦ケヤキですね。
三春 黒木氏 考察 2025
先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。
黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。 建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。
※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
※田村庄司田村氏も南朝方
その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?
後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。
黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領)
※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前
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2024-11-08 Fri
塵壺400号 「御北御前(おきたごぜん)三春城主田村清顕正室」 令和6年11月吉日発行三春城主田村氏三代清顕公の正室、御北御前(於北、於喜多)は、相馬小高城(現・相馬市小高)城主相馬氏十四代当主相馬顕胤(あきたね)公の娘で、天文18年(1549)に三春城下へ輿入れしてきました。
後に米沢城主伊達氏十七代当主伊達政宗公(仙台藩初代藩主)の正室となった愛姫(陽徳院)の母です。
御北御前の婚姻に際して、花嫁於北姫の衣装やお化粧道具の費用、そして相馬家から守役として付いてくる侍女達の賄い料として、相馬領の古道村、岩井沢村、葛尾村、南津島村の4ケ村が田村領へ編入したとされ田村家と相馬家の結びつきの深さを今に伝えています。
さらに御輿入れの逸話として、後の三春城下新町末旧岩城海道庚申坂口に残る「化粧坂」の名称由来となる化粧清水には、この御北御前が城下に入る際に、この清水を使って化粧を直したことからこの名がついたとも伝わっています。
初代田村義顕公の正妻は、磐城大館城(現・いわき市内郷・好間)城主岩城氏十七代当主岩城常隆公の娘、二代隆顕公の正妻小宰相は梁川城(現・伊達市)、西山城(現・桑折町)城主伊達氏十四代当主伊達植宗(正宗の曾祖父)公の娘、そして三代清顕公の正室が相馬家から、さらにその娘愛姫が伊達政宗へと嫁ぎ、三春田村家三代当主の婚姻はそれぞれの時期の仙道(南奥州)地域の利害関係の構図が如実に表されています。
御北御前は、後の立ち振る舞いから推察するに大変に勝ち気で気丈な性格と見受けられますが、姑となる伊達家出身の小宰相とは単に嫁と姑の関係以上に、里(出身)である相馬家と伊達家の戦略的な外交関係がそのままに投影されていたようで、二人の険悪な関係が見て取れる伊達家への手紙なども残っています。
天正14年(1586年)、城主田村清顕が没すると跡目を巡るお家騒動が発生し、争いとなります。清顕公と御北御前の夫婦には一人娘の愛姫以外には子がいなかったので後継者問題があり、家中は、筆頭宿老田村宮内入道頼顕(月斎)を中心とする「月一統」が後押しする伊達派と、小野城主の田村梅雪斎顕盛を中心とする相馬派の御家騒動に発展します。
御北御前は、主君(清顕公)没後は出家したものの、混沌とする戦国期の仙道に於いて主亡き後の田村家を案じて“田村ノ後室”として実権を握って田村家中の陣頭指揮を執り、田村家宿老重臣を掌握しながら実家である相馬家と愛姫の嫁ぎ先の伊達家との均衡を保ってこの混乱を切り抜けようと苦心します。
天正16(1588)年には、田村家中の相馬派は家中掌握のため、甥の相馬家当主相馬義胤(そうまよしたね)が手勢を引き連れて強硬に三春城入場を企てますが、伊達派の田村月斎や重臣橋本刑部顕徳らの指揮する直属の宿直田村不断衆が撃退して撤退させます。
結果的には、相馬派の盟主とされる御北御前を船引舘へ更迭して、伊達政宗が三春城に入城すると、田村月斎や田村梅雪斎など田村家の重臣と協議して田村領の仕置を行い、田村清顕の弟田村氏顕の子である田村宗顕(孫七郎顕季、後に牛縊定顕)を後継と定めて田村家の当主とします。
そして、田村家中の相馬勢力の相馬派38名は小野保領小野城へと撤退させます。
御北御前が居住した船引舘(城)(現舘山公園)は、田村四十八舘の一つで、時の三春城主三春田村初代義顕公の二男で田村起雲斎憲顕(のりあき)によって築かれました。
相馬義胤が三春城入城から撤退した際には、相馬勢は相馬派の田村清康(憲顕の子)が城主だった船引城に籠城しますが、伊達勢に攻められて敗走します。
その後、政宗の裁断により御北御前を船引舘へ隠居させて、清康を船引城から退去させます。
船引、片曽根山麓には「御前池伝説」の逸話が残っています。史実から御前とは御北御前を指していると考えられます。三春田村家の内乱により三春城から船引城へ追われたことを嘆き悲しみ、田村家の行く末を案じてこの池の身を投げたというものです。
史実では船引城に隠居後、奥羽仕置で相馬中村領の堤谷(堤谷御前の由来)に移り、さらに正宗の招きに応じて仙台城北舘(御北御前の由来)に居住。元和5(1619)年正月21日、仙台城下にて亡くなっています。
法名玉質性金大姉。亡骸は仙台城下金剛寶山輪王寺に埋葬されています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春 拝
おかげさまで 塵壺400号発行!
平成3年3月に発行して今回で400号となりました。
これもひとえにお客様からの励ましや誤記載や誤字脱字の修正及び指摘などのご指導ご鞭撻のお陰だと思っております。
衷心より御礼を申し上げます。
今回400号発行と発行者の店主が、今年還暦を迎えたことを期に製本化することにいたしました。
詳細は、後の塵壺にてお知らせいたします。
今後ともよろしくお願いいたします。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
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2024-05-23 Thu
一関藩田村氏三万石藩主 田村家の菩提寺「大慈山祥雲寺」。
祥雲寺の前身は、三春の田村家五代目の当主という立ち位置の田村宗良(伊達忠宗の三男)が寛文九年(1669)に岩沼(宮城県)に開設した長谷山大慈寺で、一ノ関移転後の初代藩主田村建顕が天和二年(1682)岩沼から一関に移封された際、寺も一緒に移し、宗良の母お房の方(祥雲寺殿)を開基に大慈山祥雲寺と改めました。
「大慈」は、伊達政宗・愛姫の第二子忠宗の法名「大慈院殿」にちなんでつけられた。
開山は大機円応禅師で、本尊を千手観音とさだめ、藩主はじめ家臣領民の深く信心を集めたといわれます。
忠宗の側室であったお房の方は、観音信仰にあつく、寺伝によると、寛文六年の江戸勤番中のある夜、枕辺に観世音菩薩があらわれ、その霊夢に心動かされ、岩沼の地に一寺を建立したとありました。
「田村家墓所」は、本堂の左手に田村家墓所がありますが、階段の上に土饅頭です。
大正期になって品川東禅寺にあった歴代墓を、纏めて合葬した際に墳丘墓に改めたようです。
忠宗の母で政宗の正室・陽徳院(愛姫)は、三春城主田村家三代当主淸顕の娘で、天下人豊臣秀吉による「北条小田原攻め」「奥羽仕置」と、不仲説が囁かれた伊達政宗の謀略で、三春田村家が断絶したのを深く悲しみ、遺言で宗良に田村家を創設して藩主に就かせたという経緯の中で、この祥雲寺は愛姫、三春田村家と深い繋がりがあります。
この縁で昭和六十二年、三春町と一関市とが姉妹都市の調印をした。
なお、祥雲寺は田村氏の菩提寺となっており、円墳の墓所には初代宗良から十五代良顕まで田村家代々のご遺骨が納められています。
また、境内に建つ田村記念館には貞享元年(1684)作の忠宗、房姫の木像のほか、市指定文化財の「常香盤」や戊辰の役時の陣羽織、時の太鼓、子安観音像、田村家愛用の
黒漆蒔絵重箱など三十点以上の文化財を展示されていました。
一関藩田村家は、幕府から伊達家に代々発給される判物と領地目録に、62万石のうち3万石を田村家に与えることが明記され分知されて成立した藩です。
即ち、幕府・徳川将軍家の直臣として扱われ、幕府から直接の指示を受けていました。
一方、一関藩は、将軍家から直接領地朱印状や領地判物を交付されていません、
したがって、仙台藩からの干渉もあって、大名取立から間もない寛文2年(1662年10月)にあり、「領内仕置六ヶ条」により、領内での仙台藩以外の制札が禁止されます。
これにより、自主的な法令を公布することが不可能になり、仙台藩の支藩的な立ち位置となっています。
また、一関所替後の所領は北上川に二分されていましたが、二分された一関藩領の間には仙台藩領の村落が10余村あり、一関藩は政治と経済ともに仙台藩の影響下に置かれています。
藩職に仙台留守居役が設置され諸大名や幕臣を記した「須原屋武鑑」でも仙台藩の支藩扱いでした。
赤穂浪士の赤穂藩主浅野内匠頭が、吉良上野介に刃傷に及んだ後に、御預け、切腹をしたのは愛宕下にあった、一ノ関田村家上屋敷でした。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2024-04-26 Fri
塵壺394号 令和6年4月26日発行
ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道
滝桜の樹齢千年には及びませんが、群雄割拠の戦国時代に103歳の高齢になっても軍略・知略を用いて第一線に立って政務・戦闘指揮を執っていた生涯現役の武将が三春にいました。
田村宮内少輔顕頼(頼顕の記載もあり)がその人で、仏門に帰依して落飾「月斎入道」と称した戦国武将三春田村氏の参謀役の軍師です。
日和田八丁目(守山?)から、三春に城を築いた三春田村氏初代となる田村大膳太夫義顕(植顕)の弟です。
甥にあたる三春二代の民部少輔下総守隆顕、そして、三代となる大膳太夫侍従清顕をも補佐して三春田村氏を名実ともに一級の戦国武将に導いた立役者の一人です。
また、甥の田村右馬顕基入道梅雪斎、同右衛門清康、橋本刑部顕徳(月斎の次男?)らとともに「田村氏四天王」と称されていました。
月斎は、田村家中の最長老として重きをなしその子供達、
嫡男・顕重 出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、
次男・上宇津志城主の宇津志(移)宮内少輔(太夫)顕康(顕貞)、
三男・新田城主 新田民部顕輝(土佐守顕成)、
四男・田村石見守顕朝、(橋本刑部少輔顕徳?)
五男・早稲川舘の早稲川右馬助顕純、
六男・阿久津舘の阿久津右京亮顕義、
七男・木目沢舘の木目沢善五郎顕継、
八男・大槻舘の大槻内蔵頭顕直(仙道表鑑・田村系譜等参照)
月斎の一族郎党で「月一統」と称される田村家中における一大勢力を構成していました。
三春田村氏の最盛期の領地は田村郡を基本として仙道のほぼ全域に達していましたが、月斎は領土拡大に於いて田村家三世代に亘る歴代当主に仕えて家中で重きをなし、合戦においては最前線に陣取って戦の要となる「軍師」を務め、その勇猛さは周辺諸家に知られ、「畠に地縛、田に蛭藻、田村に月斎、無けりゃよい」(仙道軍兵記)と謳われるほどでした。
先頭の最前線となる諸城の城主を勤めた後に、三春城下の本丸北西、橋本刑部顕徳の舘近くに“椿舘”と称された「月斎舘(現消防三春分署の北側)」を築いて三春御城(舞鶴城)及び城下防衛の要所を固めます。
月斎は、戦国の教養人としても第一級で、天正六年五月、跡取りの宮内顕康のために一五ヵ条から成る家訓を記しています(世文書)。
今に伝わるのはそのうちの八ヵ条ですが、 博奕双六の禁止、狂言・綺語を慎しむべきことなど、一身を修めることについての厳しい戒めとあわせて、戦陣における敵打の厳禁、および、家中の喧嘩両成敗など、戦国の世を生き残る為に軍律秩序の堅持に関する事柄が記載されていますが、この家訓の文言からは、戦国時代を生き残る術に対する知識の高さがうかがえます。
天正十三(1585)年十二月、田村家菩提寺福聚寺第九世・定南紹策大和尚は、月斎の求めに応じて「不思議以=天命、如期罷成候事、畢竟弓矢之冥一、夫月斎公者、[田村賀翁居士之第二子而、 或時遊三六芸之園、或時者志]」と記された一文を創っています。
さらに、月斎は、天澤寺第六世・心叟道存大和尚から仏道を習う参禅の者として「正徹」という諱(死後その徳をたたえて贈られる名)と「頂山」の号を拝受、そして「聖休」とも号した記載も残ります。
晩年、平窪(現いわき市中平窪岩間)にある義姉の実家、岩城氏と縁の深い常勝院岩城寺所蔵の古文書の中に月斎が後継ぎである宮内大輔に送ったとされる遺書が残っていますが、その文筆を見ると文才の高さがうかがえます。
和歌を嗜む優美さと、禅宗に帰依し法名も「月斎」とするなど、仏道心とを兼ね備えた第一級の戦国武将でもありました。
月斎は長寿の武将として伝わっています。三春に本拠移し舞鶴城築城の永正元年(1504年)が元服後の17歳。以来、戦陣に明け暮れ会津蘆名氏、須賀川二階堂氏、常陸佐竹氏、岩城氏、相馬氏、伊達氏と戦国のとはいえ四面楚歌の中で知力謀略限りを尽くして激闘を繰り返し長い年月にわたって田村氏を守り抜きました。
田村・伊達連合の最大の危機とされる天正13年(1585年)の蘆名・佐竹連合軍との合戦・本宮「人取橋合戦」では98歳で軍配を振るって田村勢を率いたことになります。さすがに、翌年の清顕死去以降に発生する田村家内紛や相馬・岩城氏からの領内防衛戦では三春城下より指図を出していたと考えられますが、最後に公の文書に記載されているのは、天正18(1590)年の「伊達治家記録」の二階堂氏滅亡後の処遇に関する文書で、長享元年(1487年)生まれの月斎は、この時なんと103歳!
生涯現役、ご長寿万歳! 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
生涯現役、ご長寿万歳! 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!
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2024-04-24 Wed
「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」小林克巳 (著)
旧御木澤村出身の歴史家伊藤さんより、小林克巳先生の書かれた「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」を献書として頂戴しました。
この作品は、先に三春町交流館「まほら」で公演された「愛姫をもっと知ろう」~琵琶と舞と歴民の藤井さんのおもしろ講話~
の元になった小説で、小林先生の依頼で伊藤さんが、資料提供と時代考証等のアドバイスをされた作品です。
小林先生は経歴が示す通り病院を経営されている現役の医者の傍ら様々な小説を世に送り出しています。
そして今回は愛姫
戦国時代と言えば、猛々しい武士たちの生き様に注目しがちですが、その影には彼らを支える力強くも温かい妻・女性たちの力強い姿がありその典型を三春田村氏の娘で伊達政宗の“愛姫(めごひめ)”法名・陽徳院の視線を通して描いた作品です。
愛姫について、妙心寺百五十三世住持で瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。
愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。
そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。
このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。
この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。
政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には後に松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。
それから、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸の4人の子を政宗との間に授かっています。
太閤秀吉・豊臣の天下となり聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、今でいうファースト・レディー外交的な役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな、匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、絶えず政宗を“内助の功”で乱世の伊達外交を支えていたと美談が伝わっています。
[著者略歴]
小林克巳
福島県立医科大学卒
同大第1外科
水戸赤十字病院外科
(現)医療法人社団克仁会理事長
茨城県医学会学術地域医療功労者賞受賞
茨城文学小説部門受賞「朱の大地」
《著書》
「秀吉と利休 ~相剋の朝~」
「信長と久秀 ~悪名の誉~」
「皇国の興廃 ~この一戦にあり~」
「朱の大地」
「邂逅」
「平成の徒然草」
三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領し幕末まで続きました。
「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」小林克巳 (著)は、三春岩田のカネサン書店、城下大町のさくらカフェにて絶賛販売中です!
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2023-12-18 Mon
真田幸村と三春田村氏
NHK大河 どうする家康 大坂の陣を見て
白石の片倉家墓所近くにある田村家墓所
この真田幸村と三春との意外な関係をご存知でしょうか?
伊達政宗夫人愛姫の父、三春城主田村清顕が跡継ぎが居ないまま亡くなると田村家中では家督をめぐり相馬派と伊達派争いが起こります。
亡くなった清顕の娘婿である伊達政宗がその調停に乗り出して、強大な武力をもって相馬派を駆逐し、田村家中をまとめて跡継ぎを清顕の甥である田村孫七郎宗季に決めます。
田村清顕公、定廣公、宗顕公、阿菖蒲、の中に、真田信繁(幸村)と刻まれた墓石もあります。
そして自身の名前から宗の一字を与え田村(牛縊)宗顕と名乗らせ三春城主に据えます。(田村仕置)
後に、その田村家当主宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
このとき、宗顕を参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。 そして田村領は伊達政宗に与えられてしまい、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗に謀られた!」 と大いに憤慨したと記録されています。
伊達政宗は改易した田村家中を米沢に招き、伊達家臣として召し抱えようとしますが、乗っ取られた形となった田村家中の政宗への不信感と反発は強く、家臣の多くはこれを断ります。
また、この件で実家である田村家の取り潰しを憂いた愛姫は、やはり正宗の誘いを断って伊具郡(宮城県)で隠遁していた宗顕と、その子である定廣を伊達家重臣の白石城主片倉家へ預け、白石(宮城県白石氏市)に移住するようはからいます。
後に、定廣は少納言喜多(政宗乳母)の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名し仙台伊達藩士となりますが、その妻となったのが、やはり縁あって片倉家へ引き取られていた真田幸村の娘“阿菖蒲(おしよぶ)”でした。
宮城県白石市蔵本愛宕山の北西山麓にひっそりと田村家の墓所があります。
そこには、田村清顕、宗顕、定廣など三春田村の一族が眠ります。
その墓所の一角には「真田左衛門佐幸村御墓」と書かれた標識があり、真田幸村の霊を慰めるために建てられたとされる墓石もあります。
この幸村の供養碑建立の由来は、伝わってはいませんが、定廣の妻阿菖蒲が、嫁ぎ先の田村家の墓所に、わが父の弔う碑を建てたものでしょうか?
当時は、片倉守信(真田大八)が真田氏を名乗ったことに幕府が疑念を抱くなど、未だ幸村の印象を強める行為は憚られたのでしょうが、慶安元年(1648)、やはり片倉家へ身を寄せていた阿菖蒲の姉である“阿梅(おうめ)”が、幸村の菩提所として月心院(現在廃寺)を建立し、白石城下の当信寺に墓碑を建立したと伝えられています。
片倉氏の居城「白石城」
後に、三春田村氏の名跡は、愛姫の遺言により息子である伊達忠宗の三男宗良(愛姫の孫)が継ぎ、岩沼(現宮城県岩沼市)に3万石を与えられて田村右京を名乗り田村家を再興します。
さらに、山本周五郎著の小説「樅の木は残った」の題材となった「伊達騒動」を経て一関3万石(岩手県一関市)に移り、子孫は一関藩主として明治維新を迎えます。
尚、愛宕下の一関藩江戸藩邸は、忠臣蔵の浅野内匠頭長矩が預けられ切腹した屋敷としても知られています。
合掌 蒼龍謹白 拝
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