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松島瑞巌寺初詣 2020




お正月休みとして、正月明けに連休をいただき、家内を伴って松島に三春の縁のある陽徳院愛姫を祀る瑞巌寺、そしてその娘で、西館殿とも呼ばれた五郎八姫(いろはひめ)・法名天麟院(てんりんいん) が眠る天麟院内の定照殿(じょうしょうでん)(御霊屋)に初もうでを兼ねて参詣に行ってきました。

瑞巌寺も、1月正月明けの平日とあってゆったりしています。

この宝物殿には、三春町歴史民俗資料館で以前に開催されていた『陽徳院 愛姫』~439年ぶりに愛姫が帰ってきます~ の時に展示されていた陽徳院木像、そして「伝 田村殿愛用赤楽茶碗」が展示されています。










陽徳院愛姫は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。
そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれていました。
このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘愛姫を米沢城の伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。
この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。

政宗と愛姫は、一時、夫婦仲が悪くなったと伝えられています。
しかし、その後、夫婦関係は修復に向かったと思われ、彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には、後に松平忠輝室となる五郎八姫(イロハ姫)を出産。
それから、仙台藩二代藩主忠宗・宗綱・竹松丸と、政宗との間に4人の子をもうけた。

聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、いわば女性外交官的役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、よく政宗を内助の功でもって支えていたと思われます。

三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り、岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領しました。


愛姫の墓所は瑞巌寺に隣接する陽徳院。

導師の雲居禅師も、愛姫について「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」と、愛姫の人柄について語る言葉が伝わっています。






こちらは、愛姫の娘で、西館殿とも呼ばれた五郎八姫(いろはひめ)・法名天麟院(てんりんいん) が眠る天麟院内の定照殿(じょうしょうでん)(御霊屋)
五郎八姫の御霊屋

天麟院は、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)との間に生まれた娘・五郎八姫(いろはひめ)の菩提寺です。






瑞巌寺の並びにあります。

陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられています。

五郎八姫は、徳川家康の六男、松平忠輝の正室でした。
忠輝とは仲睦まじかったが子供は生まれなかったと言われています。

1616年、忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らします。

このとき、仙台城本丸西館に住んだことから、西館殿とも呼ばれていました。

本堂、山内は小さいですが横の参道から山に登ると霊廟の”定照”や樹齢300年以上の”はりもみ”の巨木や伊達一族供養塔がある”天燐院洞窟群”などがあります。







松平忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六十万石の城主。

大阪夏の陣直後の元和元年(1605)、家康から勘当を申し渡されます。

翌年、幕府から高田藩も改易され、正室である五郎八姫(伊達政宗の長女)とも離別、飛騨高山から諏訪に流されます。

天和三年(1683)、諏訪大社のある諏訪にて九十三歳の生涯をここで閉じ、諏訪にある貞松院に葬られます。

尚、改易の理由は乱暴な振舞とも、大久保長安等と組んで天下取りを企てたとも伝えられています。




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田村庄司家と三春田村氏 令和元年
田村庄司家と三春田村氏

鎌倉時代以降、田村荘の領主は藤原仲能系と考えられている田村庄司家であったたことは各種史料によって知られ、応永年間(1394~1427)に没落し、田村庄の支配は平姓田村氏の手に移ったとされてきました。

田村庄司家田村輝顕は、浄野の後裔で始めて田村を称したといわれる古哲から数えて十七代目とされているが、史料によって確認できる上限は直顕であり、輝顕以前の正確な系譜は不明である。
 
田村庄司氏は、一説に鎌倉幕府の評定衆であった田村刑部大輔仲能の嫡流という。

田村荘の立荘過程は不明ですが、建武二年(1335) の陸奧国宣が初見となっています。
当荘などの検断職が結城親朝に与えられた。と記されています。

これ以前は、中原親能の猶子で“田村”を号した前刑部大輔藤原仲能が「みちのくに田村の郷」を支配していたとの記録もあります。

ここで仲能系藤原氏によって立荘されたことで、藤原姓と田村が文面として結びついて、藤原系田村氏という記載になっていったのではないかと考えられます。


先行研究では南北朝期の動乱と応永二、三年の田村荘司の乱で藤原姓荘司系田村氏が没落し、代わって平姓三春系田村氏が台頭して地域権力となったとされるとされてきましたが、上記の検証から見れば応永の一揆でみられる田村氏一族は平姓で藤原姓ではなく、平姓荘司系田村氏が平姓三春田村氏に発展し、一族一揆的結合から戦国大名化を遂げたとする。

田村庄司職を継承したとみられる三春田村氏は、田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから、平姓と考えられます。
つまり、田村庄司家と三春田村氏が同じ平姓の一族であり、応永年間前後に惣領職が移動したと考えられます。

後に田村氏は三春に城を移して時流を巧みに泳ぎ、北畠顕家をしてその定かならぬ去従は「御春(三春)の輩」と嘆かせる行動をとり、次第に勢力を拡大していきます。

田村庄では、庄司家の衰退によって、小国人が分立し独立性を強めた。関東の料所が設定されたため、彼らは関東公方に忠勤を励みつつ、不利益となる外圧に抵抗し、また、分立から生まれる不安定な状況に対処するために、応永11年(1404年)、近隣諸地域の国人領主たちと一揆契約を交わしている。

十五世紀のはじめ、田村一族が中心となって結んだとみられる「一揆契状」があり、この頃の田村庄の国人として、そこには「みよた越前守宗秀」をはじめ、山城守秀遠、宮内少輔季広、伊豆守季春ら田村氏の一族であろう人名が列記されています。


田村氏は、南北朝の内乱に際して陸奥守北畠顕家に従い常に南朝方として宇津峰城に立てこもり、一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平八年五月宇津峰城は落城し、奥州の南朝方の勢力は失墜します。


以後、陸奥の地は、足利幕府が、奥州管領、羽州管領(探題)を通じて直接支配しますが、関東公方、足利氏満のときに、関東府の支配下に置かれるようになります。
 
南朝方で行動したとはいえ、田村庄司家は一定の勢力を維持できたようです。

田村則義・清包父子のとき「小山義政の乱」が起り、嫡男の田村庄司父子は敗れた義政の遺児若犬丸を匿い、関東公方足利氏満に反旗を翻した。
この乱は、「田村庄司の乱」とよばれている。

応永三年(1396)、鎌倉公方足利氏満みずからが率いる討伐軍によって田村庄司家以下の叛乱軍は、敗走します。

その結果、田村荘の三分の一は、関東公方の料所となり、下総結城氏に預けられます。

時代は下がって、南奥では、白川結城氏朝、および、その猶子直朝が四隣に影響力をふるっていました。

田村直顕は宝徳3年(1451年)から記録に見え、結城氏のもとで代官的な役割をつとめるとともに、娘を結城直朝の孫顕頼に嫁がせるなど、田村庄内での地歩を固めていきます。   

一方、白川結城氏は、永正7年(1510年)、当主政朝(直朝の子)が、有力庶子家小峯家の当主朝脩を攻殺すると、朝脩の父直常が政朝を放逐するなど内乱によって勢力を失い、三春田村氏はここに結城氏の支配を脱し、戦国大名へと成長して行きます。




参考文献
垣内和孝「中世田村氏と蒲倉大祥院」地方史研究第46巻第6号 1996年12月
青山正『仙道田村荘史』、1930年。
田村郡教育會『田村郡郷土史』、1904年。
『岩磐史料叢書』、岩磐史料刊行會、1916年
『三春町史』、三春町、1980年。
『船引町史』、船引町、1982年。
『大越町史』、大越町、1998年。
『滝根町史』、滝根町、1989年。





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仙道軍記・岩磐軍記集




仙道軍記・岩磐軍記集

解題

「仙道軍記」は、 藤原氏を祖とする奥州二階堂氏及びその末葉である須加川氏の興亡
を記しているので、一名『藤葉栄衰記』ともいう。

著者も成立年代も不明であるが、国史叢書の編者黒川真道は「本書作者詳ならず、但奥書に〈正徳五乙未八月念八鳥試既毫於奥州山東長沼郷〉と見えたれば、正徳五年の作なることは知られたり。按ずるに本書は、二階堂の創業より筆を起し、同家滅亡に至る迄場の事蹟を恐く記したれば、恐らくは同家の遺臣などの筆に成れるもの歟。姑く記して後考を竢つ」とある。

内容は岩瀬郡須賀川の地に居城を構えた二階堂氏の始末を記したものである。初め二階堂氏は先祖の藤原為綱のとき遠江を受領し、承久の乱に鎌倉に来て評定衆となり、子孫は相ついで鎌倉に居住した。

その後裔式部大輔某は足利持氏に仕え、奥州岩瀬郡を与えられたので、一族の治部大輔某を領国に派遣し、同郡須賀川の地に城郭を構え、これを守らせた。
式部大輔 は嘉吉三年に逝去し、子の遠江守為氏が家を継いだ。
この時、治郎大輔は為氏が幼少なるを侮り、勝手な振舞があったので、為氏はついに須加川に出向いて一族の戦争となった。
治部大輔 は敗れて自害したので、為氏は須賀川に留った。

その後裔盛義は天正九年に逝去したが、跡継がきまらず、盛義の妻が宰領した。

この虚に乗して伊達政宗は奥州南部に侵入し、ついに二階堂氏を滅し、この地を領有したが、天正十九年豊臣秀吉は奥羽を鎮圧して蒲生氏郷を会津に封じ、須賀川を領有きせた。最後は秀吉の死をもって筆を置いている。

戦国期のこの地域の情勢を知る貴重資料である。






「政宗公軍記」は、伊達政宗が奥州に於ける軍事を記したものである。

内容は天正十二年政宗が十八歳で家督を継いで以来、岩代·磐城に進出して、遂に仙道七郡を制覇した次第を記し、最後は、もと二階堂氏の居城であった岩瀬郡須賀川城の石川弾正昭光が政宗に叛いて誅されることで終っている。

「仙道記』は著者も成立年代も不詳である。

内容は天正十年より始まり慶長六年に蒲生秀行が会津に入国まで、仙道(中通り)の各城主のことを中心に、この地方の戦乱を略記し、最後に奥州·会津·相馬三春の各海道及び古城の覚を記している





『蘆名家記』 は著者も成立年代もはきりしないが、慶長の初めに書かれたものと思われる。内容は天正八年、会津の守護芦名氏十六代の盛氏の死去に筆を起し、同十七年に伊達政宗に攻められて減亡、翌十八年の豊臣秀吉による会津没収に及んでいる。
この間、蘆名家の跡継ぎをめぐる家臣団の対立と伊達氏への内応の事情、それをめぐる数々の合戦を記し、戦国期の南奥羽の事情を知る数少い重要な資料である。






『伊達日記』は作者の名をとって「伊達成実記』「伊達成実日記』ともいう。

作は片倉小十郎景綱とならぶ伊達政宗の老臣伊達成実である。

彼は政宗に従って実戦に参加し、自らの見聞と体験とで書いたもので、史料的価値は非常に高く、戦国期の東北地方の情勢を知る根本史料である。
成立は関ヶ原の役のとき徳川家康と結んだ伊達政宗が、石田三成と通じた会津の上杉景勝と休戦して磐城国白石に帰った慶長五年十月で終っているから、これからほど遠くない頃だとみられる。

内容は天正十二年、政宗の襲嫡から始まり、父輝宗の死、相馬.二本松.田村の諸豪族との関係、会津の青名氏の攻略と滅亡、会津の新領主蒲生氏郷との対立、関ヶ原の役のとき会津の上杉氏との抗争など、仙道に於ける争覇が中心となっているが、芦名氏との関係記事は当事者の筆録だけに詳細である。




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上大越城(鳴神城)城主大越紀伊守顕光信貫



上大越城(鳴神城)城主大越紀伊守顕光信貫

 所領一万石(安積六百石、二千大越、三百五十石牧野) 紀伊守没後息の田村宮内領す) 本丸、北ノ丸、西ノ丸、東ノ丸、西北丸

下大越舘  大越紀伊守 大越郷は、元下沢郷と称していたが大越紀伊守の声が大きいため田村公より大声(大越)の名字を拝命、是より下沢を大越と改めたという。

紀伊守は、此城より上大越城に移り、田村清顕死後相馬公に与し、相馬家中大越氏はその子孫と伝わる。







上大越城は、鳴神城と呼ばれた山城です。

永禄九年(1566)田村氏の重臣であった大越紀伊守顕光信貫によって築かれたと伝えられる。

大越顕光は三春城主田村清顕の重臣で四天王の一人と称され、約一万石の所領を持っていたという。







天正十四年(1586)、当主田村清顕が急な病で没すると、嫡男がいないままの田村家中は伊達方、相馬方に分裂します。

相馬方についた顕光に対し、天正十六年(1588)伊達家の重臣伊達成実が大越城を攻撃しますが、城内の防備は固く町構えに放火しただけで撤退しました。

その後、大越顕光は岩城常隆に従っていたが、天正17年(1589年)伊達政宗と岩城常隆が開戦するにあたり、顕光が伊達氏に帰順しようとした動きが露呈し、岩城氏に捕らえられ切腹した。

顕光のあとは義弟のである大越甲斐守が継いだが、伊達領となった後は田村宮内顕康が城主となった。

城もその後間もなく廃城になったといいます。

城内「駒石」の上には、城主大越紀伊守の愛馬「朝霧」の蹄(ひづめ)の跡があると説明板にあります。




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平成版三春古蹟漫歩「三春城主田村家菩提寺 福聚寺」




三春城主田村家菩提寺 福聚寺

田村三代というのは、坂上田村麻呂末裔25代子孫盛顕の子で、戦国時代の三春城主田村義顕(たむらよしあき)、隆顕(たかあき)、そして、伊達政宗正室愛姫の実父である清顕(きよあき)の三代を指します。

三春初代の義顕が守山(現郡山市田村町守山)から、三春に城を築いて500有余年になります。

義顕は病弱だったと伝えられ、早くから嫡子隆顕に家督を譲り、弟の頼顕月斎に後見させていました。

また、自らを、“卜西”と号していました。






三春城下に、以前の本拠地である守山と同じく山中という地名を作り「大元帥明王」を祀った田村大元帥明王堂を建立します。

また、赤沼(現郡山市中田町赤沼)の丈六佛を城下丈六に、そして、八丁目(現郡山市西田町八丁目)の福聚寺を城下後免町に移すなどして、中世三春の城下町を整備していきます。

田村領内の整備についても、次子憲顕(のりあき)を船引城に入れ、三子顕基(あきもと)を仁井田(今の小野新町)城に入れて、権勢をふるいました。

二代である隆顕は、一族重臣を田村領内の防御の要衝である48箇所に館(出城)に配置して、防備を固めました。
これが後に云う「田村四十八舘」です。

田村家も戦国の習いの通り、領内を固めると共に、外敵に対して出撃しては、果敢な攻勢をしかけます。
安積、岩瀬を傘下に収めていましたが、南進を画策する伊達の伊達氏と衝突します。





天文6年には、外領の大半を失ってしまいます。

相馬顕胤(あきたね)の仲介で、一時は和を保ちますが、離反を続け、そのた会津蘆名氏、石川の石川氏、須賀川の二階堂氏、岩城氏、常陸佐竹氏、白河氏などと和戦常無く、或る時は越後上杉氏、甲斐武田、武蔵北条など、越後から関東の雄将とも交渉があり、戦国乱世に田村の名を馳せました。

しかし、世は戦国。
田村氏の四面楚歌の状況は変わりません。

清顕は、相馬高胤(たかたね)の娘を室として迎えます。
政略としての婚儀の意味合いもありますが、古道、岩井澤、葛尾、南津島はその時の化粧料として田村氏の領土として授けられたとされています。

また、一人娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせて、守備を固めます。
この婚儀政略によって、二階堂氏に御代田、今泉、白岩などの諸城を攻められ、実に危機一髪の場合にも伊達氏の後援があって殲滅の難を逃れることが出来ました。






その後、秀吉の天下統一、奥州仕置、田村仕置などを経て、三春田村氏は滅亡しますが、実家の悲運を憂いた、伊達政宗正室愛姫により、孫の宗良に岩田3万石を与えて田村氏を再興、後に一関に移り明治維新を迎えます。

三春の田村三代の墓は、福聚寺にあり、右から義顕、隆顕、清顕と順に並んで墓石が立ちならんでいます。






古い三春広報内コラム古蹟漫歩参照


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「愛姫江戸へ」 伊藤務著 愛姫生誕450年に向けて~




旧平沢村出身の会計士伊藤務さまから”感想を聞かせて”と 「愛姫江戸へ」という冊子を手渡されました。


伊藤 勉さんは、「日清・日露の書簡 ふるさと」の著書であり、三春在住郷土史研究家でもあります。

この本には、日清、日露戦争に従軍した大叔父の書簡から紐解いた大叔父様の息づかいと共に、三春在平沢村などの当時の農村部の姿が読み取れます。









また、先には、「母の面影」を記されています。

ここでも、母方の祖母の出身地である芦沢村城主内(現田村市芦沢城主内)関連の書簡を紐解いた芦沢村の歴史が描かれています。







さて、今回の「愛姫江戸へ」では、伊達政宗の書簡から正室である愛姫像を鮮やかに描かれています。


関ケ原以降、奥州仕置、そして田村仕置前夜の独眼竜伊達政宗から、家臣・冨塚信綱、中島信貞、渡辺助左衛門一綱への書簡から、正宗文書、さらには「貞山公治家記録」などから、当時の正宗の戦略と供の心の内を描き出されていました。


書中では、佐竹義宣をはじめとする岩城貞隆、そして相馬義胤っらの処分に伴って、相馬氏に身を寄せる愛姫の母である田村清顕室を米沢(当時の伊達所領)へお向かいする準備を指示しているところなど、その繊細さを垣間見ることが出来ました。






今後ともご指導簿鞭撻のほどよろしくお願い致します。


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平成版今昔物語  「斉藤舘址と白岩舘址」 田村四十八舘



戦国時代田村四十八舘、斉藤舘址と白岩舘址

斉藤舘址は、旧中妻支所跡の南方にそそり立つ城形をしている丘陵にありました。

旧記では三春札所(三春城下大町四つ角)から2里(約8キロ)となっています。

この舘は石高350石、戦国期の三春城主田村義顕が築いた領内防備の館、いわゆる田村四十八舘の一つで、重臣斉藤大膳が居城していました。

城郭は、根回り340間、高さ15間、本丸の南北39間、東西25間という記録が残っています。


この斉藤舘は、もう少し西(現郡山市白岩町)にある白岩舘(城主久賀肥前)とともに田村氏の戦国戦史の中でも異彩を放っています。

愛姫が伊達正宗の正室としてに嫁いだ翌年の天正八年八月、田村家三代清顕の弟孫八郎重顕が、岩瀬の塩田、洞樫に出陣しますが、須賀川城主二階堂の臣浜尾善九郎率いる岩瀬勢の激しい攻撃に会い討ち死にしてしまいます。

勝ちに乗じた岩瀬浜尾勢は田村に向かって進撃し、三春の南西部にある大平を落とし大善寺を陥れ、清顕の大叔父に当たる田村月斎頼顕(田村初代義顕の弟)の守る今泉城に迫ろうとしていました。

一方、須賀川二階堂勢は常陸佐竹氏を頼み御代田城に猛攻を加えます。

そこで、仙台伊達正宗の父輝宗が仲裁に入り、今泉城は二階堂に渡し、御代田は田村氏に返させたので小康保つことと相成りました。

しかし、勝ち誇る二階堂勢は、須矢部、伊藤、浜尾の各武将に命じて須賀川勢、岩瀬勢を率いて、翌三月、行合、大平の二方向から三春田村領へ再び侵攻してきました。

そして、その最前線になったのが、斉藤舘と白岩舘です。

須賀川、岩瀬勢は、このそれぞれの侵攻口から斉藤、白岩舘に猛攻を加えます。

田村氏としては伊達の援軍がまだ着陣する前の闘いで、実に危うい戦さとなってしまいます。

しかし、斉藤舘を護る総大将斉藤大膳と、白岩舘を護る総大将久我肥前は田村家中一二を争う戦巧者と言われ、ありとあらゆる戦術を使い必死の防衛戦を展開し、さらには勇猛果敢に打って出て、それぞれの総大将めがけて反撃を繰り返します。

これには、須賀川岩瀬の連合勢は、これに攻めあぐね、多数の戦死者を出すという痛手を被って敗退します。


この戦績は、四面楚歌だった三春田村氏の時代の中でも、存亡にかかわる未曽有の危うさから救った輝かしい武功だったと伝えられています。



昭和30年代の広報三春内コラム参照


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