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「田村四十八舘・小野保(おのほ)」 御春輩 田村家武士団





「田村四十八舘・小野保(おのほ)」 御春輩 田村家武士団

天正16年6月、伊達家重臣伊達成実が田村の援軍として大越城の攻略に加勢した際の記録「伊達治家記録」に「町・寺マデ焼払ハレ 敵ハ町構ヲ引退テ 二ノ曲輪三ノ曲輪ヲ堅ク守ル 
因テ攻ムベキ術ナシ云々」と記しています。

これにより大越城が本丸をはじめ「二ノ曲輪」(二ノ丸)、「三ノ曲輪」(三ノ丸)を備えており、大越氏の城を中心とした“根小屋町(城下町)”をも併せて城郭を形成していたことが伺えます。このように三春田村家防御上で領内の主要な城・舘は、大越城のような城郭を形成していたと考えられています。


「小野新町城」三春城主田村氏御一門の田村梅雪斎顕基(三春田村二代隆顕弟)、その子田村右馬頭顕通の居城。梅雪斎顕盛息の子右馬頭清忠(仙道表鑑)記載有

戦国時代三春城主田村義顕公は、三春入城後、嫡子隆顕を三春におき、さらに本拠の守りを固めるため次男憲顕を船引城主に、そして三男の顕基(梅雪斎)を小野城主に封じたとされ、この頃小野の保に侵攻して勢力下にあったと思われます。


与力衆として、小野六郷の衆の、二瓶主膳正・東方与力十五騎、金田式部少輔(赤沼切戸館主会田遠江頭及び菖蒲谷会田左馬助?)・東方与力五十騎そして矢崎加左右衛門・東方与力足軽百五十の記載が見えます。

 平姓を名乗る三春田村一族が、郡山市田村(日和田?)から三春へ城を築きその拠点を移したのは永正年間(1504)の義顕の頃で、岩城地方の大舘城(飯野平城)主、岩城常隆も勢力を伸ばし、小野左右衛門の築いた小野城を攻めて支配下に置いたとされます。


岩城常隆は、三春田村氏との融和の為に娘を田村義顕と結婚させ、娘婿となった義顕に「小野保(おのほ)」、後の小野六郷・飯豊・谷津作・田原井(田原屋)・羽出庭(現小野町)、広瀬・菅谷(現滝根町域)を譲ります。


三春田村氏初代となる義顕は、子の顕基=顕定(梅雪斎)を小野城の小野左右衛門の嗣子として小野城に入城させます。以後、戦国時代の混乱の中で梅雪斎と、その子右馬頭らは田村領南の要衝小野城を守りこの地域を治めます。



三春田村氏は義顕から隆顕、そして清顕と代を重ねていきますが、天正14年、清顕が急死すると、跡取りの居ない田村の家臣団は後継をめぐって分裂します。

田村月斎や橋本刑部等の清顕夫人の生家伊達氏を頼る派閥と梅雪斎やその子である大越城主田村右馬頭などの清顕の母の生家相馬氏を頼る派閥に分かれて真っ向から対立します。


天正17年、その混乱に乗じた岩城勢(清顕の祖母生家)の侵攻によって小野城は落城したといわれています。


尚、谷津作に残る湯ノ原古戦場は、岩城氏の小野城攻略の折に小野田村勢がこの場所にて数日岩城勢の大軍を食い止めた戦いの跡と伝わっています。

「小野田原谷城」田村御一門中津川兵衛大夫。

後に家老の宗方右近に預け兵衛大夫は中津川城に住す。



「小野神股城」 城主神股久四郎 ※「古城絵図」には常葉久四郎助と記載。

三春城主田村清顕の臣でしたが、清顕亡き後の田村家中の混乱に際して岩城勢に攻め込まれ和談を申し入れ城を明け渡しています。後に伊達政宗の臣となり仙台城下に居住。



「皮籠石舘」小野新町大字皮籠石。

高屋敷と称され、天正年間より三春城主田村氏の臣、小野城代衆(三十六騎衆)の中野道満(入道)景安の居舘 ※中道との記載もあり

三春田村氏没落後に帰農し、代々その舘跡付近に現在も居住しています。また、その邸内に老桜と鞍掛石と称する石が残っています。




「槻木内舘」郡司主膳の居舘小野新町大字小野新町にありました。

前面に小野市街地を見渡せる南西、小野本城と相対しています。

小野城主田村梅雪等の没落後帰農し、現在もその子孫が麓に居住しています。




「将監舘」三春田村氏の臣、吉田将監の居舘。滝根町大字廣瀬の南東にありました。

「西牧舘」舘主・田村氏の臣 西牧文九郎が居住。旧飯豊村大字小野山神字八升蒔きに在り。

戦国時代末の天正十四年、三春城主田村清顕と会津城主芦名氏との安子ヶ島に於いて合戦の時に西牧氏戦死。安子ヶ島地内にその墓があると伝わっています。




    蒼龍謹白   さすけねぇぞい田村!  拝


| ryuichi | 03:55 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
駆け足 洛内三春関連訪問記! 田村堂・清水寺開山堂






京都に行った際に私的な用事が別件でありまして用達.仕事を済ませた後に、その足で、紅葉の名所東福寺さん、そして・・・・

三春藩主の祖とされる安日王「アテルイ」供養に坂上田村麻呂建立とされる清水寺山内にある開山堂「田村堂」参拝





さらに世界遺産にも登録されています東山の清水寺山内にある「田村堂」。

田村堂は清水寺開山堂で、三春秋田氏は安日王阿弖流為(アテルイ)されていますが、征夷大将軍坂上田村麻呂の軍門に下り京都で処刑されますが、その菩提を弔うため建立したのが始まりと云われています。







縁起を見ますと、やがて征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており、容易には落ちないどころか、十余年という長期の戦地に在って田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。

一方、阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の和平案を受け入れ軍門に降ります。







田村麻呂は阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、助命嘆願しますが、朝廷公卿衆の反対により阿弖流為・母礼は八〇二年八月十三日河内国で処刑されます。





三春歴代城主として田村義明公は田村麻呂の末裔を自任し、そして、江戸初期の城主秋田俊季公の祖は阿弖流為(アテルイ)・安日王としています。


田村麻呂と阿弖流為の末裔が同じ三春の城主となるというのも因縁めいた気がいたしま








城下新町 真照寺の御本山「智積院」様を参拝








そして三春城下尼が谷石橋家苗字由来とされる三十三間堂にて石橋探訪!





ついでに伏見といったら“龍繋がり”ということで坂本龍馬が襲われた寺田屋は外せません❗。





黄桜カッパファクトリーで一献❗️








駆け足 洛内三春関連訪問記!




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:15 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏 |
「牛縊城」田村四十八舘



「牛縊城」田村四十八舘


三春城下の南西、二里余。

旧牛縊村は、戦国大名三春田村氏の要害「牛縊城」田村四十八舘があり。

城主・牛縊五郎右衛門が城主を努めていました。






牛縊本郷と過足に挟まれた地形にあり、その山城(舘)の形状は牛の臥牛(寝姿)に形容されます。

本郷という地名と過足側には下屋敷という地名が残っています。


戦国の三春城主三春田村氏の四代目となる田村 宗顕(たむら むねあき)は、


伊達政宗正室の愛姫の父、三春田村三代清顕の弟・田村氏顕の子となります。

叔父である田村清顕が天正14年(1586年)に嗣子のないまま没すると、家中は田村家の後見を、清顕夫人の里伊達氏派と、清顕の生母の里相馬氏派に分かれての勢力争いで分裂。

伊達氏派が政権を奪取して清顕の娘婿伊達政宗が後見します。

三春田村氏は、政宗の裁断によってによって、甥である宗顕が田村氏の当主(名代)・田村仕置となります。


天正18年(1590年)、太閤秀吉の小田原征伐に際し、宗顕は伊達氏の旗下と自認していたため参陣しなかったことで、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易されます。

後に、田村氏の改易は政宗の策略だと、宗顕は牛縊定顕と改名して片倉重長の白石城下で隠棲します。

名前を田村から牛縊に改名したかは不明ですが、乳母(母)が牛縊氏出身とする説もあります。


また、牛縊(うしくびり)の名前の由来も不明ですが、牛をつなぐから付けられていると私は考えています。







館下には、戦国時代初頭の天文16年(1547年)建立の牛縊山瑞雲寺があります。

天文16年と云えば、伊達氏の「天文の乱」が起こっていたころで、伊達氏と会津芦名氏の仙道進出を阻止すべ、く三春田村氏2代田村隆顕公が畠山氏、石橋氏と共に会津芦名方の安積郡諸城を攻めて10のヶ城・舘を陥落させています。










三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:21 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
三春築城秘話 大志田山(現・三春城址、御城山)と、貝山村の白山の山(現・白山比咩神社様)




戦国時代田村義頭公は富久山村(日和田三丁目)から本拠を三春に移し築城する事になった。

そこで三春郷で築城に最適と思われる大志田山(現・三春城址、御城山)と、貝山村の白山の山(現・白山比咩神社様)の何れかにする事なった。





このお城の築城場所選定の話は、たちまち近在の村々に伝わり、地元貝山村では白山様にお城が出来る事を願っていたが、果してどちらの山が高いのか話が持ち上がり人々の一番の話題になっていた。





そんな騒ぎの最中、1人の娘が大志田山の方が白山機より草履一枚分高いと自信有り気に言ってしまいその事が徒になり、田村義頭公の耳に入り白山の山にお城が出来なくなり、その一声の張本人が貝山村の“おつる”であった。





そのため、おつるは村八分になり村から追放される。

その後、貝山村ではおつると言う名は禁がられ生まれた女の子にも付けなくなった。
近代に入り大正時代の頃、実際につると称した2人の方が貝山村に嫁に来る時、(古内の人はケサ)に名を変えて来た。





この伝説は現今より500年前水正元年(1504)頃の物で城を築く際に人柱(生き埋め)を立てて城の安全を願う風習があり、前記述の貝山村のおつるさんは女ながら気丈夫な人だったから白羽の矢が立ったがその後どうなったかは伝説に表われていない。





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| ryuichi | 03:33 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏 |
「田村四十八舘東方要害」 御春輩 田村家武士団8 大越城 塵壺382号 令和5年4月21日発行 




塵壺382号 令和5年4月21日発行  

「田村四十八舘東方要害」 御春輩 田村家武士団8 大越城
 
戦国時代の仙道(現福島県県中附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区でした。
 
田村荘司田村氏の流れを汲む三春田村氏は、そのころ伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(相馬)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いています。

 三春田村氏は、その状況下の中で、惣領として一族や直臣、そして周辺の国人領主や地侍たちを従えながら、三春田村領内に於いて地侍と地縁的、族縁的な「洞中」の領主連合を形成し、血縁以外の家臣・国人領主たちに「一家」・「一門」などの称号を与えて自己の一族扱いをする事によって、その盟主としての地位を固めて戦国乱世を生き抜こうとしていったと考えています。

 「浮金舘」 為 源次
 
「移・中山舘」 大多和泉 移 (本多和泉)   永禄年間、田村隆顕代「春山舘」 本多信濃 記

※「移・中山舘」の舘主は本多氏と考えています。

他の資料の訂正箇所があったり地域の方々の苗字からも推測されます。

江戸時代に記された軍記もの「仙道軍記」「仙道記」「仙道表鑑」等々の中で誤字と思われる記載が多数確認されています。

戦国武将三春田村氏の当時物の資料が乏しく参考にしている資料が江戸時代に入って書かれた軍学の資料ですので、写し間違い等で苗字が違っていることもあろうかと思っています。

舘跡周辺に現在お住まいの方々の苗字に納得しています。
 



「宮田舘」 宮田惣兵衛

 「南宇津志舘」 菊池兵部太夫 五百二十三石 三春札場迄四里十六丁

 「上宇津志舘」 田村家御家門 田村宮内太夫顕康 月斎一男 七百石 

 「熊耳舘」 熊耳太郎左衛門  六百九十三石 三春札場迄二十四丁

 「石森舘」金堂右エ門  七百六十石  三春札場迄一里二十八丁八間

 「新舘舘」鹿又備前   七百九十石

 「菅谷舘」菅谷隠岐守茂信 (佐藤氏)





「大越城(鳴神城)」 

東方与力五十騎 永禄9年下大越城(朝霧城)より移築 田村氏一族で田村四天王の一人と称された

大越田村紀伊守顕光・信貫(橋本氏)
一万石(安積六百石、大越二千、牧野三百五十石)の居城。








 現田村市大越町大字上大越字町の西方、霊泉山脈中にありました。
 田村領では三春本城に次ぐ規模を有し、本丸、北ノ丸、西ノ丸、東ノ丸、 西北丸を有する堅固な城を築き、大越地内に数多くの舘を置きそこに家臣を配置していました。




 
鳴神城の由来は下澤郷と呼ばれていた現大越に築城の折、下大越白井倉より鳴神明神を遷して城中に祀ったことからこの鳴神城と呼ばれるようになったと伝わっています。

城主紀伊守は、三春三代城主田村清顕亡き後の田村家中のお家騒動に際して相馬方として伊達方の田村月斎、橋本刑部らと反目します。







 後に、岩城地方の大館城(飯野平城)主岩城常隆に通じ、反攻の機会を画策しますが及ばず鳴神城を退去しました。








 「下大越城(朝霧城)」向舘 

弘安年間(1278~87)、白鳥出羽守安光が向舘を築きその後7代に渡って居住。後の弘治2年(1556)、山城守仲光が大越に居城を移したという。





 「上大越弾正舘」

大越城主大越紀伊守の臣、荻野弾正の居舘  大越町大字上大越字町中の北方にありました。
 
「廣瀬 大越舘

」大越(橋本氏)玄蕃孫七郎の居舘。

      東方与力五十騎 滝根町大字廣瀬の南東にあり。

 「神俣八幡舘」

永禄年間、神俣太郎左衛門・神又久四郎房親(※小野神俣舘の記載有常葉氏より養子)以来、その子孫が世々居住。
 滝根町大字神俣西部。

田村氏の没落後に帰農してその子孫は今でも神俣を称として住居し繫栄しています。

 「時田舘」
大越紀伊守の臣、時田次郎の居舘 上大越字町東方。


 「白石舘」
三春田村氏の重臣大越城主大越紀伊守の臣、白石蔵人の居住
 現大越町大字上大越字町中の中央にありました。  平地に築かれており濠(ほり)をめぐらした跡が今でも見られます。








 「飯豊舘」

郡司掃部の居舘。東方与力五十騎 飯豊村大字飯豊に在り。 

三春田村家御家門方 郡司豊前 郡司雅樂之助 女子“おさき”は、田村御前(愛姫)に付いて仙台城下建て屋敷住(田母神氏旧記)
 現在、郡司姓を称する方々は、この郡司氏の子孫と伝わっています。

 「平舘」

七郷村大字堀越 三春城主田村氏の臣、三輪某の居住と記されています。

 尚、三輪氏の家系は、永谷豊前守治則の三男、三輪玄蕃治徳の末裔と伝わっています。








「三春領古城絵図」慶安二年丑五月(1649年) 木目澤氏蔵 

田村郡郷土史 田村郡教育会 編

田村小史 影山常次 

仙道軍記 岩城軍記集

参考・参照

 


      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春   拝  


| ryuichi | 03:40 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
堤舘 鷹巣 堤屋敷





堤舘 鷹巣 堤屋敷



堤(現・鷹巣字堤)には佐久間姓が多く、戦国の武将 織田信長の家臣佐久間盛政の子盛安の末裔が住む集落です。

舘跡の中腹には、盛安が加賀国の白山から勧請したと云う「白山神社」があり、その近くに盛安一族の者と思われる五輪塔の墓がある事から戦国武士であった事に間違いないと思われます。

地区民の話しによると盛安は大変気性の激しい人物で、父の盛政も同様の性格のためか意見が合わず盛安は謀反を起した為に勘当され、わずかな家臣を供に下向し現在地に舘を築くが2度の火災に遭い仕方なく帰農士着したと伝わっています。

下向する以前は、加賀ノ国一帯の一向一挨を征伐していた父の盛政と同行していたと考えられるが、資料によると子供は1人娘の虎姫は盛政が15歳時の永緑11年(1568)に生まれ、慶長15に年出産がもとで4歳の時に亡くなったと言う。

尚、盛政は賤ケ岳の戦いで敗れ刑死する(30歳) 亡き後、虎姫は豊区秀吉の底護を受けています。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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「田村四十八舘 三春郷外郭要害」御春輩(みはるのともがら)田村衆 





  「田村四十八舘 三春郷外郭要害」御春輩(みはるのともがら)田村衆 

 戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。


対する防備は、重要拠点とする田村領内の中でも五十騎以上、足軽百名以上の与力武士衆が常駐した舘が記録されています。






 「富沢舘」三春町沢石字富沢

三春領古城絵図には、城主富沢玄蕃の名が見られ、田村清顕死後の田村家中の結束を誓った田母神家に残る血判状にも「富沢居舘富沢伊賀」、さらに伊達家臣片倉家に残された田村家家臣録にも「北方与力五十騎」の大将として富沢伊賀守の名が連ねられています。


天正16年に伊達政宗が三春城・田大元帥明王学頭坊に滞在したときには、富沢氏とともに富沢の在郷衆もあいさつに訪れています。

当時騎馬武者が五十騎以上の与力の駐留した舘は、当時の田村領内全体でも13舘位で、それぞれの舘に駐留する各騎馬武者は、各々が自身の一族郎党を引き連れていましたので、手勢とする動員兵力としては騎馬武者の7倍~15倍の兵力がいたと考えられます。

後の資料には、三春城主田村利顕の二男(?)田村(橋本)刑部少輔徳顕(則顕との記載有)が「富澤橋本舘」に住居す。との記載もあります。


橋本刑部少輔徳顕 (貞綱)は、清顕没後田村家中の相馬派と伊達派が対立した際に、伊達氏へ組した三春田村家重臣の一人です。


「青石舘」旧澤石村青石 
舘主 佐久間伊勢より、九代孫左京に至るまで居住


「實澤舘」旧澤石村實沢。

天正年間舘主・實澤山城。永享年間に至り、岩崎山城が居舘


旧澤石村(三春町沢石)五舘跡 

「正楽舘」舘主渡邊雲龍斎

「御舘」舘主橋本玄蕃

「臺(むろ)舘」舘主佐久間豊後

「新舘」舘主某氏若狭  

「長根舘」舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住







「熊耳舘」 

三春本城から最も近い総備え外郭の要害舘のひとつで、規模も大きく三春城を防衛する上で重要な支城でした。

江戸時代に舘跡を調査した記録に「熊耳舘」は「舘主熊耳太郎衛門」とあります。

天正16(1588)年に岩代町の宮森城に在陣した伊達政宗のもとへ挨拶にいった田村家臣の中に熊耳氏がいますが、この熊耳氏について江戸時代に書かれた資料には、田村清顕が家督相続する際に、熊耳掃部助らを旗下に属させたと記されています。

また、清顕の死後、連判状と考えられる文書には、御幕下面々のひとりとして「熊耳又十郎」との記載があり、舘の近くには、南北朝時代の年号の記された石製供養塔がふたつ残されており、その頃からこの地域の中心的な場であったと想像されます。






「柴原舘」 三春町大字中郷字柴原

柴原助左衛門 三百五十石 後、橋本和泉助右衛門、禄高450石。

舘(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、本丸は南北28間、横18間。

この橋本氏は、先に記載した田村家重臣で下枝城の橋本刑部少輔徳顕の一族と伝えられています。

「蛇澤舘」 新田蔵助

「沼澤舘」 沼澤孫兵衛






「貝山舘」舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)

天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)

天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢する軍勢の為に田村家中の主力を出撃させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、時の三春田村領(城主田村宗顕)を攻めます。

この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。

幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。



    蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


追記
田村家中重臣橋本刑部少輔顕徳
今回の塵壺にはその名前を「徳顕」、また「則顕」との記載のある資料を元にしたのでそのまま記載してあります。






※訂正です。

塵壺379号にて、江戸期に書かれた「奥陽仙道表鑑(抄)」を参照して岩井澤舘の主、常葉城城代を石澤修理亮と記載しましたが、前後の状況と地元の口伝からして石澤姓が誤記載・誤転載で、赤石澤姓・赤石澤修理亮と考えています。

奥羽永慶軍記(抄)、 政宗記(抄)、 奥陽仙道表鑑(抄)、 奥州仙道一覽記(抄) 参照







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