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 真田幸村と三春田村氏   NHK大河 どうする家康 大坂の陣を見て



     真田幸村と三春田村氏
 
NHK大河 どうする家康 大坂の陣を見て







白石の片倉家墓所近くにある田村家墓所

この真田幸村と三春との意外な関係をご存知でしょうか?

伊達政宗夫人愛姫の父、三春城主田村清顕が跡継ぎが居ないまま亡くなると田村家中では家督をめぐり相馬派と伊達派争いが起こります。

亡くなった清顕の娘婿である伊達政宗がその調停に乗り出して、強大な武力をもって相馬派を駆逐し、田村家中をまとめて跡継ぎを清顕の甥である田村孫七郎宗季に決めます。








田村清顕公、定廣公、宗顕公、阿菖蒲、の中に、真田信繁(幸村)と刻まれた墓石もあります。








そして自身の名前から宗の一字を与え田村(牛縊)宗顕と名乗らせ三春城主に据えます。(田村仕置)

後に、その田村家当主宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)

  このとき、宗顕を参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。 そして田村領は伊達政宗に与えられてしまい、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗に謀られた!」 と大いに憤慨したと記録されています。








伊達政宗は改易した田村家中を米沢に招き、伊達家臣として召し抱えようとしますが、乗っ取られた形となった田村家中の政宗への不信感と反発は強く、家臣の多くはこれを断ります。

また、この件で実家である田村家の取り潰しを憂いた愛姫は、やはり正宗の誘いを断って伊具郡(宮城県)で隠遁していた宗顕と、その子である定廣を伊達家重臣の白石城主片倉家へ預け、白石(宮城県白石氏市)に移住するようはからいます。


後に、定廣は少納言喜多(政宗乳母)の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名し仙台伊達藩士となりますが、その妻となったのが、やはり縁あって片倉家へ引き取られていた真田幸村の娘“阿菖蒲(おしよぶ)”でした。


宮城県白石市蔵本愛宕山の北西山麓にひっそりと田村家の墓所があります。

そこには、田村清顕、宗顕、定廣など三春田村の一族が眠ります。



その墓所の一角には「真田左衛門佐幸村御墓」と書かれた標識があり、真田幸村の霊を慰めるために建てられたとされる墓石もあります。

この幸村の供養碑建立の由来は、伝わってはいませんが、定廣の妻阿菖蒲が、嫁ぎ先の田村家の墓所に、わが父の弔う碑を建てたものでしょうか?







当時は、片倉守信(真田大八)が真田氏を名乗ったことに幕府が疑念を抱くなど、未だ幸村の印象を強める行為は憚られたのでしょうが、慶安元年(1648)、やはり片倉家へ身を寄せていた阿菖蒲の姉である“阿梅(おうめ)”が、幸村の菩提所として月心院(現在廃寺)を建立し、白石城下の当信寺に墓碑を建立したと伝えられています。




片倉氏の居城「白石城」



後に、三春田村氏の名跡は、愛姫の遺言により息子である伊達忠宗の三男宗良(愛姫の孫)が継ぎ、岩沼(現宮城県岩沼市)に3万石を与えられて田村右京を名乗り田村家を再興します。


さらに、山本周五郎著の小説「樅の木は残った」の題材となった「伊達騒動」を経て一関3万石(岩手県一関市)に移り、子孫は一関藩主として明治維新を迎えます。


尚、愛宕下の一関藩江戸藩邸は、忠臣蔵の浅野内匠頭長矩が預けられ切腹した屋敷としても知られています。
   



合掌          蒼龍謹白    拝

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「戦国のファースト・レディー~  愛姫・陽徳院、西館殿五郎八姫・天麟院 」



「戦国のファースト・レディー~

   愛姫・陽徳院、西館殿五郎八姫・天麟院 」


日本三景の一つ松島に、三春に縁のある伊達政宗の正妻“愛姫(めごひめ)”法名・陽徳院を祀る瑞巌寺、そして、その娘で西館殿とも呼ばれた“五郎八姫(いろはひめ)”法名・天麟院(てんりんいん)が眠る天麟院内の定照殿(じょうしょうでん)(御霊屋)があります。


愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。

そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。


このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。

この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。

政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には後に松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。

それから、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸の4人の子を政宗との間に授かっています。







太閤秀吉・豊臣の天下となり聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、今でいうファースト・レディー外交的な役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな、匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、絶えず政宗を“内助の功”で乱世の伊達外交を支えていたと美談が伝わっています。



三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領し幕末まで続きました。


愛姫について、妙心寺百五十三世住持で瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。






愛姫の娘で、西館殿とも呼ばれた五郎八姫・法名天麟院が眠る天麟院内の御霊屋「定照殿」。

天麟院は五郎八姫法名の菩提寺で瑞巌寺の並びにあり、陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられています。本堂・山内は小さいですが横の参道から山に登ると霊廟の「定照」や樹齢300年以上の“はりもみ”の巨木や伊達一族供養塔がある天麟院洞窟群などがあります。





五郎八姫は、越後少将と称された越後高田六十万石の城主松平忠輝の正室です。

忠輝は、徳川家康の六男で側室である茶阿局(さあのつぼね)を母としています。元々家康とは折り合いが悪いと伝わっており、「大阪夏ノ陣」の直後の元和元年(1605)には家康
から勘当を申し渡されます。

翌年、幕府から高田藩も改易され、正室である五郎八姫とも離別させられて飛騨高山から諏訪に流されます。

天和三年(1683)、諏訪大社のある諏訪にて九十三歳の生涯をここで閉じ、貞松院に葬られます。

忠輝と五郎八姫は仲睦まじかったが子供は生まれなかったと言われています。

五郎八姫は、離縁後父の政宗のもとに戻り、以後は仙台城下で暮らします。

このとき、仙台城本丸西館に住んだことから「西館殿」とも呼ばれていました。



     蒼龍謹白  拝   田村に来てみねげ!


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「三春舞鶴城築城秘話」 令和5年11月10日発行 





塵壺388号 「三春舞鶴城築城秘話」 令和5年11月10日発行 


永正のころ、戦国大名田村義顕公は、三春郷の中心部にある大志多山 (現三春城址)に御城を築き本城としました。

 城主も、田村氏、上杉氏代官、蒲生氏代官、松下氏、そして、秋田氏と移り代わりながら戦国動乱の乱世を乗り越えます。






 秋田氏治世の江戸初期から明治維新後に解体されるまで三春藩主の居城となり「舞鶴城」と呼ばれました。秋田氏の時代に、藩主の御殿は現在の三春小学校のある麓へ移っています。

 現在の城跡には、本丸や二ノ丸、そして、東舘とする三ノ丸跡があり、土塁や石の一部などが残り、遊歩道が設けられた城山公園として整備されています。

また、近年の調査によって城郭の中に江戸時代では最大級の大広間があったことや、全国でも珍しい城主のお風呂場である「御風呂屋」が存在し、主郭ともいうべき「御三階櫓」があったことも解ってきました。








舞鶴城の名前の由来には諸説があります。

田村氏の入城に際して、城の上空に1羽の丹頂鶴が現れて輪を描いて飛んだので、この吉兆を喜び「舞鶴城」と名づけたという説。

 築城に際して、城の安全を期する為の人柱にした「おツル」という娘の名をとったという説。

このおツルという娘は、領内の芦沢村光大寺の娘で大変美しいと評判だったと伝えられていて、今でも光大寺には美人が多く「光大寺美人」と云われています。







 さらに、田村氏は日和田八丁目(諸説あり)から本拠を三春に移し築城という運びとなり、その場所を求めて選定を行う際にまつわる伝説も伝わっており紹介します。

 三春郷で築城に最適と思われる大志田山(現・三春城址、御城山)と、貝山村の白山の山(現・白山比咩神社)の二か所が候補として残ります。

 この築城場所選定の話は、たちまち近在の村々に伝わり貝山村では白山様にお城が出来る事を願っていましたが標高の高い方に築城とするとのお達しがあり、果してどちらの山が高いのかという話が持ち上がり、村人々の一番の話題になっていました。

 そんな騒ぎの最中、1人の娘が大志田山の方が白山様より草履一枚分高いと自信有り気に話してしまいます。

 その話が噂になって田村家中の耳に入り白山の山にお城が出来なくなり、その一声の張本人が貝山村の“おツル”だったと判明し、おツルは村八分になり村から追放されます。

 その後、貝山村では“ツル”と言う名は禁がられ生まれた女の子にも付けなくなりました。


 近代に入り大正時代の頃までに、貝山へ嫁ぐ花嫁に“ツル”と称した方がいましたが、嫁ぐ時に名を“ケサ”と変えて嫁入りしたと伝わっています。







 前途の「人柱」とは、全国各所の築城に於いては神様への御供として人柱(生き埋め)を立てて造営の安全祈願とした伝説です。

 三春城址にも残っていますが、人の代わりに“鶴”と名付けた大石本丸に据えて人柱に替えたのではと考えています。

 尚、前記の貝山村のおツルさんは女ながら気丈夫な人だったから白羽の矢が立ったがその後どうなったかは伝説に表われていません。






 お城の別称でいえば「三春臥牛(舞鶴)城」との記載も認められます。宝暦九(1759)年に記された領内の名所旧跡を集めた『松庭雑談』には「三春臥牛舞鶴城」との記載があります。

 本丸にある「牛石伝説」ともに、『吉事有事、鶴来て城上に舞、故に領内ニ而鶴を殺さず。また不食・不買と云う』という記述があります。

牛石の伝説とは築城のとき木材を運んだ牛が石になったものだと伝えられています。

明治になってから往時の城を偲んで画かれた舞鶴城の図にも『臥牛の城』と記されており、本丸の牛石と舞鶴を併せた名で記されています。



  蒼龍謹白   三春に来てみねぇげ!  拝






三春昭進堂では、「三春舞鶴城」に思いを馳せ、「三春舞鶴城」と命名した栗どら焼きを新発売しました。

北海道小豆を使った自家製あんに"栗の甘露煮"を丸ごと一個入れて、ふわふわの手焼き生地で挟みました。











栗と餡のマッチングは良好で、栗を一個入れるだけで食べた時の贅沢感と幸福感はただのどら焼きとは違います。






| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 塵壺387号





   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 
 
鎌倉時代中期より室町から戦国時代にかけて、仙道(現福島県中地域)では田村庄司家の勢力基盤を継承した後の三春城主となる平姓田村氏が勢力を拡大していました。

 永享12年(1440)、室町幕府鎌倉公方の奥州の拠点「篠川御所(篠川公方)」(郡山市安積町)を攻め滅ぼした土豪の中に、田村利政公の名が記された資料が残っています。

 また、享徳3年(1454)頃の資料には、三春田村氏の初代・義顕公の祖父・田村直顕公の名が記されています。


 直顕公の時代から天正 18年(1590)の奥州仕置で田村家の終焉を迎えた当主宗顕公まで約150年間(六代)に亘って戦国乱世の時代に伊達氏・畠山氏・大内氏・岩城氏・相馬氏・蘆名氏・二階堂氏・石川氏・白川氏・佐竹氏といった強豪武将たちと亘りあい、時に四面楚歌の様相を呈した時期もありましたが、三春田村氏の活躍はめざましく、領土を護るばかりではなく領土拡張を成し遂げています。

 しかし、三春田村氏3代の清顕公は、激戦の真只中だった天正14 年に後嗣を定めず病没します。

 清顕公の夫人は相馬氏から、そして実母は伊達氏から入嫁しており、これらの要因もあって跡目後見争いとなり田村家中は内紛に発展してしいます。


 やがて伊達派の勝利により伊達政宗公の「田村仕置」を受けて清顕公の甥・宗顕公が後嗣となりますが、天正18年豊臣秀吉の「奥州仕置」によって、田村氏は所領安堵が得られず、戦国大名三春田村氏は消滅してしまいます。







 「御祭舘」御祭小山舘 

旧御祭村小山(三春町御祭)舘主小山左馬之助550石

三春城下の北西隣する旧御祭村は、戦国期には田村四十八舘の一つ小山舘があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

 古文書で見ると、三春札所(前述参照)から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったらしく、当時は、現在の舘下の橋本氏の屋敷までのびていたと思われます。

 江戸中期の秋田藩政下、藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納しました。

以後、明王と牛頭天王の祭礼には御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より御祭の村名を拝領したと伝えられています。

また、地域には「突き舘」、「突き打ち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という地名が残ります。

 戦国時代末期、田村清顕公が苦戦した小浜城の大内定綱の領地塩松(安達郡東部)への街道沿いで三春城の最後の防衛線に位置する舘です。



「七草木舘」七草木舘は、田村氏の一族で石高500石の七草木新助の居城。

ここは田村氏の三春領と、畠山氏の二本松領との境界に近く、御祭の小山城と共に、三春領北西の固めとして築かれたものです。

旧七草木村は、鎌倉時代末には田村庄司家田村氏の娘が地頭を勤めていました。

 その代官は鎌倉幕府滅亡後に上洛して後醍醐天皇の新政府に加わり領地の安堵を受けています。

その後、彼女が相馬重胤に嫁いだため七草木村は一時相馬領となったという記録が残されています。








七草木という地名の由来が伝わっています。

平安時代初期の寛平年間に宇多天皇は“七種粥の節句”をおこないました。

 このとき、竹良某という人が、七種および擂り粉木を献上した際に賞されて七種木の称を賜ったと伝わっています。

後にその子孫の七種木新介という武将が此の地の“築舘山”に舘を築いて移り住み、戦国大名田村氏に仕えた際に出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたとされています。



      蒼龍謹白  さすけねぇぞい田村!  拝






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「田村四十八舘・小野保(おのほ)」 御春輩 田村家武士団





「田村四十八舘・小野保(おのほ)」 御春輩 田村家武士団

天正16年6月、伊達家重臣伊達成実が田村の援軍として大越城の攻略に加勢した際の記録「伊達治家記録」に「町・寺マデ焼払ハレ 敵ハ町構ヲ引退テ 二ノ曲輪三ノ曲輪ヲ堅ク守ル 
因テ攻ムベキ術ナシ云々」と記しています。

これにより大越城が本丸をはじめ「二ノ曲輪」(二ノ丸)、「三ノ曲輪」(三ノ丸)を備えており、大越氏の城を中心とした“根小屋町(城下町)”をも併せて城郭を形成していたことが伺えます。このように三春田村家防御上で領内の主要な城・舘は、大越城のような城郭を形成していたと考えられています。


「小野新町城」三春城主田村氏御一門の田村梅雪斎顕基(三春田村二代隆顕弟)、その子田村右馬頭顕通の居城。梅雪斎顕盛息の子右馬頭清忠(仙道表鑑)記載有

戦国時代三春城主田村義顕公は、三春入城後、嫡子隆顕を三春におき、さらに本拠の守りを固めるため次男憲顕を船引城主に、そして三男の顕基(梅雪斎)を小野城主に封じたとされ、この頃小野の保に侵攻して勢力下にあったと思われます。


与力衆として、小野六郷の衆の、二瓶主膳正・東方与力十五騎、金田式部少輔(赤沼切戸館主会田遠江頭及び菖蒲谷会田左馬助?)・東方与力五十騎そして矢崎加左右衛門・東方与力足軽百五十の記載が見えます。

 平姓を名乗る三春田村一族が、郡山市田村(日和田?)から三春へ城を築きその拠点を移したのは永正年間(1504)の義顕の頃で、岩城地方の大舘城(飯野平城)主、岩城常隆も勢力を伸ばし、小野左右衛門の築いた小野城を攻めて支配下に置いたとされます。


岩城常隆は、三春田村氏との融和の為に娘を田村義顕と結婚させ、娘婿となった義顕に「小野保(おのほ)」、後の小野六郷・飯豊・谷津作・田原井(田原屋)・羽出庭(現小野町)、広瀬・菅谷(現滝根町域)を譲ります。


三春田村氏初代となる義顕は、子の顕基=顕定(梅雪斎)を小野城の小野左右衛門の嗣子として小野城に入城させます。以後、戦国時代の混乱の中で梅雪斎と、その子右馬頭らは田村領南の要衝小野城を守りこの地域を治めます。



三春田村氏は義顕から隆顕、そして清顕と代を重ねていきますが、天正14年、清顕が急死すると、跡取りの居ない田村の家臣団は後継をめぐって分裂します。

田村月斎や橋本刑部等の清顕夫人の生家伊達氏を頼る派閥と梅雪斎やその子である大越城主田村右馬頭などの清顕の母の生家相馬氏を頼る派閥に分かれて真っ向から対立します。


天正17年、その混乱に乗じた岩城勢(清顕の祖母生家)の侵攻によって小野城は落城したといわれています。


尚、谷津作に残る湯ノ原古戦場は、岩城氏の小野城攻略の折に小野田村勢がこの場所にて数日岩城勢の大軍を食い止めた戦いの跡と伝わっています。

「小野田原谷城」田村御一門中津川兵衛大夫。

後に家老の宗方右近に預け兵衛大夫は中津川城に住す。



「小野神股城」 城主神股久四郎 ※「古城絵図」には常葉久四郎助と記載。

三春城主田村清顕の臣でしたが、清顕亡き後の田村家中の混乱に際して岩城勢に攻め込まれ和談を申し入れ城を明け渡しています。後に伊達政宗の臣となり仙台城下に居住。



「皮籠石舘」小野新町大字皮籠石。

高屋敷と称され、天正年間より三春城主田村氏の臣、小野城代衆(三十六騎衆)の中野道満(入道)景安の居舘 ※中道との記載もあり

三春田村氏没落後に帰農し、代々その舘跡付近に現在も居住しています。また、その邸内に老桜と鞍掛石と称する石が残っています。




「槻木内舘」郡司主膳の居舘小野新町大字小野新町にありました。

前面に小野市街地を見渡せる南西、小野本城と相対しています。

小野城主田村梅雪等の没落後帰農し、現在もその子孫が麓に居住しています。




「将監舘」三春田村氏の臣、吉田将監の居舘。滝根町大字廣瀬の南東にありました。

「西牧舘」舘主・田村氏の臣 西牧文九郎が居住。旧飯豊村大字小野山神字八升蒔きに在り。

戦国時代末の天正十四年、三春城主田村清顕と会津城主芦名氏との安子ヶ島に於いて合戦の時に西牧氏戦死。安子ヶ島地内にその墓があると伝わっています。




    蒼龍謹白   さすけねぇぞい田村!  拝


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駆け足 洛内三春関連訪問記! 田村堂・清水寺開山堂






京都に行った際に私的な用事が別件でありまして用達.仕事を済ませた後に、その足で、紅葉の名所東福寺さん、そして・・・・

三春藩主の祖とされる安日王「アテルイ」供養に坂上田村麻呂建立とされる清水寺山内にある開山堂「田村堂」参拝





さらに世界遺産にも登録されています東山の清水寺山内にある「田村堂」。

田村堂は清水寺開山堂で、三春秋田氏は安日王阿弖流為(アテルイ)されていますが、征夷大将軍坂上田村麻呂の軍門に下り京都で処刑されますが、その菩提を弔うため建立したのが始まりと云われています。







縁起を見ますと、やがて征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており、容易には落ちないどころか、十余年という長期の戦地に在って田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。

一方、阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の和平案を受け入れ軍門に降ります。







田村麻呂は阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、助命嘆願しますが、朝廷公卿衆の反対により阿弖流為・母礼は八〇二年八月十三日河内国で処刑されます。





三春歴代城主として田村義明公は田村麻呂の末裔を自任し、そして、江戸初期の城主秋田俊季公の祖は阿弖流為(アテルイ)・安日王としています。


田村麻呂と阿弖流為の末裔が同じ三春の城主となるというのも因縁めいた気がいたしま








城下新町 真照寺の御本山「智積院」様を参拝








そして三春城下尼が谷石橋家苗字由来とされる三十三間堂にて石橋探訪!





ついでに伏見といったら“龍繋がり”ということで坂本龍馬が襲われた寺田屋は外せません❗。





黄桜カッパファクトリーで一献❗️








駆け足 洛内三春関連訪問記!




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


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「牛縊城」田村四十八舘



「牛縊城」田村四十八舘


三春城下の南西、二里余。

旧牛縊村は、戦国大名三春田村氏の要害「牛縊城」田村四十八舘があり。

城主・牛縊五郎右衛門が城主を努めていました。






牛縊本郷と過足に挟まれた地形にあり、その山城(舘)の形状は牛の臥牛(寝姿)に形容されます。

本郷という地名と過足側には下屋敷という地名が残っています。


戦国の三春城主三春田村氏の四代目となる田村 宗顕(たむら むねあき)は、


伊達政宗正室の愛姫の父、三春田村三代清顕の弟・田村氏顕の子となります。

叔父である田村清顕が天正14年(1586年)に嗣子のないまま没すると、家中は田村家の後見を、清顕夫人の里伊達氏派と、清顕の生母の里相馬氏派に分かれての勢力争いで分裂。

伊達氏派が政権を奪取して清顕の娘婿伊達政宗が後見します。

三春田村氏は、政宗の裁断によってによって、甥である宗顕が田村氏の当主(名代)・田村仕置となります。


天正18年(1590年)、太閤秀吉の小田原征伐に際し、宗顕は伊達氏の旗下と自認していたため参陣しなかったことで、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易されます。

後に、田村氏の改易は政宗の策略だと、宗顕は牛縊定顕と改名して片倉重長の白石城下で隠棲します。

名前を田村から牛縊に改名したかは不明ですが、乳母(母)が牛縊氏出身とする説もあります。


また、牛縊(うしくびり)の名前の由来も不明ですが、牛をつなぐから付けられていると私は考えています。







館下には、戦国時代初頭の天文16年(1547年)建立の牛縊山瑞雲寺があります。

天文16年と云えば、伊達氏の「天文の乱」が起こっていたころで、伊達氏と会津芦名氏の仙道進出を阻止すべ、く三春田村氏2代田村隆顕公が畠山氏、石橋氏と共に会津芦名方の安積郡諸城を攻めて10のヶ城・舘を陥落させています。










三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

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