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磐城国三春城主田村大膳入道清顕 田村家臣録 「田村氏宿老外連名」片倉文書 



磐城国三春城主田村大膳入道清顕 田村家臣録

「田村氏宿老外連名」片倉文書 

田村宿老
今泉山城守 高倉城主 与力五十騎

橋本伊予守 福原城主 与力百騎

渥美河內守 鹿又城主 与力百騎

新田美作守 新田城主 三十五騎


一門一家東西南北御一字被下衆

中津川兵衛佐 中津川城主

大越紀伊守 大越城主 東方与力五十騎

白岩主膳正 白岩城主 西方与力五十騎

神主玄蕃頭 守山城主 西方与力八十騎

鬼生田惣右衛門 鬼生田城主 西方与力二十五騎

橋本刑部 木下城主 西方与力八十騎

足羽太郎兵衛 下枝城主 西方与力五十騎

郡司豊前守 飯豊城主 東方与力十八騎

芦沢修理太夫 芦沢城主 東方与力二十五騎

大越孫七郎 廣瀬城主 東方与力五十騎

二瓶主膳正 小野城主 東方十五騎

金田式部少輔 東方与力八十騎

矢崎加左衛門 東方足軽百五十人

常盤伊賀守 常盤城主 東方力四十騎

常盤彦右衛門 北方四騎

水谷豊前守 水谷城主 北方

富沢伊賀守 北方与力五十騎

新飯(新殿)肥前守 新飯(新殿)城主 北方与力五十騎

田母神玄蕃頭 南方与力五十騎

畑右衛門正 屈田城主


弓足軽大将

橋本七右衛門 足軽十八人

三本木六郎右衛門 足軽三十五人

富塚越中守 足軽三十人

小泉藤六郎 足軽八十人

御代田惣左衛門 足軽五十人

山崎助十郎 足軽二十五人

村松新兵衛 足軽三十五人

芦沢監物 足軽十五人

村上佐藤左衛門 足軽三十人



鉄砲大将

千石与市郎 足軽三十五人

荒井織部正 足軽三十五人

熱海弥六郎 足軽三十五人

本多太郎左衛門 足軽三十五人

成田左兵佐 足軽五十人

熊目文治郎 足軽五十人

相良大炊丞 足軽十八人

新田內藏介 足軽五十人

浦山勘太郎 足軽三十人

熱海雅楽丞 足軽三十人

大越新五郎 足軽五十人

百足太郎右衛門 足軽三十人

本多縫殿介 足軽十五人

三瓶敬五郎 足軽二十五人

佐藤万六郎 足軽二十五人

新田源三 足軽二十五人



田村旗本近習ニ備ル

熱海內膳 騎馬五騎・鉄砲五丁

猪苗代次郎右衛門 与力十騎・鉄砲五丁

橋本清九郎 鉄砲十丁・弓五張

黒木信濃守 与力五騎・鉄砲五丁

田母神越中守 弓十張

佐藤勘解由 与力七騎・弓十張

松山三河守 与力五騎・鉄砲五丁

小沢玄番頭 与力三騎・鉄砲十丁

橋本又十郎 弓十張・鉄砲二十丁

椖窪又四郎 与力三騎・弓十張

富田長門守 与力十騎・鉄砲五丁

名倉大学 弓十張・鉄砲十丁

小笠原彦太郎 与力十騎・鉄砲五丁

橋本源左衛門 弓五張・鉄砲二十丁

新田源兵衛 与力十騎

石神松丸 与力十五騎・鉄砲十丁

安積大藏 与力与力十騎・鉄砲十丁

国分文次郎 与力八騎・鉄砲十丁

松沢筑前守 騎馬三騎・鉄砲十丁

太田主水正 騎馬十騎

本多与一郎 鉄砲五丁

今泉左馬之介

橋本內膳正 与力五騎・弓十張

貝山三郎右衛門 与力五騎・鉄砲五丁

辺見小右衛門 



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
応永仙道諸家一揆連判  応永二年(1404年)



仙道諸家一揆傘連判

南北朝期動乱の際に南朝の侵攻を阻止するための国人層と土豪・有力農民層との連合戦線の約定


平姓 田村義顕公が三春城を築城・入城する約百年前の名簿です。

応永仙道一揆臨場の諸将 応永二年(1404年)

田村荘田村氏を中心とした一揆諸将 笹川御所宛及び稲村公方宛 秋田藩家蔵白川文書

鬼生田山城守秀遠 西田町鬼生田

大越宮內少輔季広 田村郡大越町

下行合出羽二郎季広 田村町下行合

みよた越前守宗秀 田村町御代田

八田河参河七郎秀高 田村町谷田川

阿久津沙弥觉祐  田村町阿久津

小沢但馬守秀遠 船引町小沢

墨田信濃守季清 田村町細田

鹿俣沙弥清光 滝根町神俣

穴沢宮內少輔秀朝 西田町三丁目

白石伊豆守季春 船引町

門沢沙弥得願 船引町門澤

常葉沙弥妙重 田村郡常葉




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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平成版三春古蹟漫歩「月斎舘(椿館)」



月斎舘(椿館)


田村高校の東側一帯の丘陵を「月斎舘(げっさいたて)」、別称「椿舘」とも呼ばれています。
これは、室町時代末期、いわゆる戦国時代の三春城主田村義顕の弟で月斎と号した田村頼顕が、三春本城を護るために築かれたこの出城(舘)に居していたからです。

月斎は、当時としては長寿でしたので、一説によると田村義顕の甥顕氏と被っている云われることもありますが、二人の性格の違いからして頼顕一人とみるのが正しいんだろうと考えています。





義顕の三春入城は、永正元年(1504年)で、室町幕府11代将軍足利義澄の頃となります。

三春本城と共に、防備体制を構築するために、後に“田村四十八舘”と呼ばれる出城群も領内一円に築かれます。

その中でも、本城防御の要、鬼門とされる乾(戌亥)の方角(東北)にこの舘を築き、戦上手と評判の高かった弟頼顕月斎を舘主として置き、防備を固めました。

また、田村領内四十八舘の内、上移、丹伊田、木目沢、阿久津等の街道筋の要となる館には、月斎の息子たちを配していました。

月斎は、偉丈夫で豪傑肌の人と伝わっています。

兄である、三春初代義頼、二代城主である甥の隆顕、そして三代清顕(甥の子)を支え、仙道(現福島の中央部)に田村の武名を掲げていました。

そして、当時、石川、岩瀬、塩松(小浜)、を掌握し、田村領に敵を一歩も入れなかったと記録されています。

「陣場に月斎、田にひる藻、畑に地縛り、嫌いもの」と囃子詩に謳われる程、毅の武人として近隣の武将たちには恐れられていました。



文化面では、平窪(現いわき市平窪)にある、浄勝院(常勝寺?)所蔵の古文書の中に、天正6年、月斎が、子である宮内大輔に送ったとされる遺書が残っています。

雅号月斎という名前があらわす通り、その文筆を見ると文才の高さがうかがえます。

和歌を詠も、優雅さと、禅宗に帰依し法名も月斎とするなど、参禅する道心とを兼ね備えた武将でもありました。

月斎舘には、当時も椿が繁り春は丘陵全体が紅く彩られたといわれ、椿館と呼ばれる所以ともなっていました。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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磐城の由来か?  三春城の遺構




2009.5に行われた地デジアンテナ設置に伴う、三春城本丸跡の発掘調査より

お城山は、地層の隆起によりできた山で、岩山と考えられていますが、本丸(時期により二の丸)跡に、巨石があり、舘および見張り台とも考えられる遺構が出て詣りました

これは、戦国期三春城主田村義顕入城以前、磐城の由来か?、はたまた「御輩春」の舘跡ではないか?







お城山の根源となる巨岩で形成された石山

その最上部にはご覧のように人工的な縦穴が刻まれています。

櫓の礎石として目的で穴が掘られたか?






文献的には証明されませんが、自然の穴も含めてさらなる考察が必要かと思われます。


尚、現在のお城山は大正12年に城山公園整備の際に整備された形態で、約1M~1.5Mほどの土盛りがされています。


その土砂を取り除くと石垣の石や排水路などの域の工作物が眠っています。





尚、三春城址は1991年と1993年に発掘調査を行っています。






中を拝見しますと、大手門付近の礎石や石垣、排水溝等々近世三春城の遺構が埋設されていることがわかります。


以下は、上記の報告書からの転用です。





大手門発掘全景












これらは、大正12年の三春城公園整備の中で開設されたものと考えています。








三春城絵図


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| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏 |
松島瑞巌寺初詣 2020




お正月休みとして、正月明けに連休をいただき、家内を伴って松島に三春の縁のある陽徳院愛姫を祀る瑞巌寺、そしてその娘で、西館殿とも呼ばれた五郎八姫(いろはひめ)・法名天麟院(てんりんいん) が眠る天麟院内の定照殿(じょうしょうでん)(御霊屋)に初もうでを兼ねて参詣に行ってきました。

瑞巌寺も、1月正月明けの平日とあってゆったりしています。

この宝物殿には、三春町歴史民俗資料館で以前に開催されていた『陽徳院 愛姫』~439年ぶりに愛姫が帰ってきます~ の時に展示されていた陽徳院木像、そして「伝 田村殿愛用赤楽茶碗」が展示されています。










陽徳院愛姫は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。
そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれていました。
このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘愛姫を米沢城の伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。
この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。

政宗と愛姫は、一時、夫婦仲が悪くなったと伝えられています。
しかし、その後、夫婦関係は修復に向かったと思われ、彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には、後に松平忠輝室となる五郎八姫(イロハ姫)を出産。
それから、仙台藩二代藩主忠宗・宗綱・竹松丸と、政宗との間に4人の子をもうけた。

聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、いわば女性外交官的役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、よく政宗を内助の功でもって支えていたと思われます。

三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り、岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領しました。


愛姫の墓所は瑞巌寺に隣接する陽徳院。

導師の雲居禅師も、愛姫について「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」と、愛姫の人柄について語る言葉が伝わっています。






こちらは、愛姫の娘で、西館殿とも呼ばれた五郎八姫(いろはひめ)・法名天麟院(てんりんいん) が眠る天麟院内の定照殿(じょうしょうでん)(御霊屋)
五郎八姫の御霊屋

天麟院は、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)との間に生まれた娘・五郎八姫(いろはひめ)の菩提寺です。






瑞巌寺の並びにあります。

陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられています。

五郎八姫は、徳川家康の六男、松平忠輝の正室でした。
忠輝とは仲睦まじかったが子供は生まれなかったと言われています。

1616年、忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らします。

このとき、仙台城本丸西館に住んだことから、西館殿とも呼ばれていました。

本堂、山内は小さいですが横の参道から山に登ると霊廟の”定照”や樹齢300年以上の”はりもみ”の巨木や伊達一族供養塔がある”天燐院洞窟群”などがあります。







松平忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六十万石の城主。

大阪夏の陣直後の元和元年(1605)、家康から勘当を申し渡されます。

翌年、幕府から高田藩も改易され、正室である五郎八姫(伊達政宗の長女)とも離別、飛騨高山から諏訪に流されます。

天和三年(1683)、諏訪大社のある諏訪にて九十三歳の生涯をここで閉じ、諏訪にある貞松院に葬られます。

尚、改易の理由は乱暴な振舞とも、大久保長安等と組んで天下取りを企てたとも伝えられています。




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田村庄司家と三春田村氏 令和元年
田村庄司家と三春田村氏

鎌倉時代以降、田村荘の領主は藤原仲能系と考えられている田村庄司家であったたことは各種史料によって知られ、応永年間(1394~1427)に没落し、田村庄の支配は平姓田村氏の手に移ったとされてきました。

田村庄司家田村輝顕は、浄野の後裔で始めて田村を称したといわれる古哲から数えて十七代目とされているが、史料によって確認できる上限は直顕であり、輝顕以前の正確な系譜は不明である。
 


田村庄司氏は、一説に鎌倉幕府の評定衆であった田村刑部大輔仲能の嫡流という。

田村荘の立荘過程は不明ですが、建武二年(1335) の「陸奧国宣」が初見となっています。

当荘などの検断職が結城親朝に与えられた。と記されています。


これ以前は、中原親能の猶子で“田村”を号した前刑部大輔藤原仲能が、みちのくに”田村の郷”を支配していたとの記録もあります。

ここで仲能系藤原氏によって立荘されたことで、藤原姓と田村が文面として結びついて、藤原系田村氏という記載になっていったのではないかと考えられます。



先頃の研究では南北朝期の動乱と応永二、三年の田村荘司の乱で藤原姓荘司系田村氏が没落し、代わって平姓三春系田村氏が台頭して地域権力となったとされるとされてきましたが、上記の検証から見れば応永の一揆でみられる田村氏一族は平姓で藤原姓ではなく、平姓荘司系田村氏が平姓三春田村氏に発展し、一族一揆的結合から戦国大名化を遂げたとする。


田村庄司職を継承したとみられる三春田村氏は、田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから、平姓と考えられます。

つまり、田村庄司家と三春田村氏が同じ平姓の一族であり、応永年間前後に惣領職が移動したと考えられます。



後に田村氏は三春に城を移して時流を巧みに泳ぎ、北畠顕家をしてその定かならぬ去従は「御春(三春)の輩」と嘆かせる行動をとり、次第に勢力を拡大していきます。


田村庄では、庄司家の衰退によって、小国人が分立し独立性を強めた。関東の料所が設定されたため、彼らは関東公方に忠勤を励みつつ、不利益となる外圧に抵抗し、また、分立から生まれる不安定な状況に対処するために、応永11年(1404年)、近隣諸地域の国人領主たちと一揆契約を交わしている。


十五世紀のはじめ、田村一族が中心となって結んだとみられる「一揆契状」があり、この頃の田村庄の国人として、そこには「みよた越前守宗秀」をはじめ、山城守秀遠、宮内少輔季広、伊豆守季春ら田村氏の一族であろう人名が列記されています。



田村氏は、南北朝の内乱に際して陸奥守北畠顕家に従い常に南朝方として宇津峰城に立てこもり、一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平八年五月宇津峰城は落城し、奥州の南朝方の勢力は失墜します。


以後、陸奥の地は、足利幕府が、奥州管領、羽州管領(探題)を通じて直接支配しますが、関東公方、足利氏満のときに、関東府の支配下に置かれるようになります。
 
南朝方で行動したとはいえ、田村庄司家は一定の勢力を維持できたようです。


田村則義・清包父子のとき「小山義政の乱」が起り、嫡男の田村庄司父子は敗れた義政の遺児若犬丸を匿い、関東公方足利氏満に反旗を翻した。
この乱は、「田村庄司の乱」とよばれている。


応永三年(1396)、鎌倉公方足利氏満みずからが率いる討伐軍によって田村庄司家以下の叛乱軍は、敗走します。

その結果、田村荘の三分の一は、関東公方の料所となり、下総結城氏に預けられます。

時代は下がって、南奥では、白川結城氏朝、および、その猶子直朝が四隣に影響力をふるっていました。

田村直顕は宝徳3年(1451年)から記録に見え、結城氏のもとで代官的な役割をつとめるとともに、娘を結城直朝の孫顕頼に嫁がせるなど、田村庄内での地歩を固めていきます。   

一方、白川結城氏は、永正7年(1510年)、当主政朝(直朝の子)が、有力庶子家小峯家の当主朝脩を攻殺すると、朝脩の父直常が政朝を放逐するなど内乱によって勢力を失い、三春田村氏はここに結城氏の支配を脱し、戦国大名へと成長して行きます。




参考文献
垣内和孝「中世田村氏と蒲倉大祥院」地方史研究第46巻第6号 1996年12月
青山正『仙道田村荘史』、1930年。
田村郡教育會『田村郡郷土史』、1904年。
『岩磐史料叢書』、岩磐史料刊行會、1916年
『三春町史』、三春町、1980年。
『船引町史』、船引町、1982年。
『大越町史』、大越町、1998年。
『滝根町史』、滝根町、1989年。





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仙道軍記・岩磐軍記集




仙道軍記・岩磐軍記集

解題

「仙道軍記」は、 藤原氏を祖とする奥州二階堂氏及びその末葉である須加川氏の興亡
を記しているので、一名『藤葉栄衰記』ともいう。

著者も成立年代も不明であるが、国史叢書の編者黒川真道は「本書作者詳ならず、但奥書に〈正徳五乙未八月念八鳥試既毫於奥州山東長沼郷〉と見えたれば、正徳五年の作なることは知られたり。按ずるに本書は、二階堂の創業より筆を起し、同家滅亡に至る迄場の事蹟を恐く記したれば、恐らくは同家の遺臣などの筆に成れるもの歟。姑く記して後考を竢つ」とある。

内容は岩瀬郡須賀川の地に居城を構えた二階堂氏の始末を記したものである。初め二階堂氏は先祖の藤原為綱のとき遠江を受領し、承久の乱に鎌倉に来て評定衆となり、子孫は相ついで鎌倉に居住した。

その後裔式部大輔某は足利持氏に仕え、奥州岩瀬郡を与えられたので、一族の治部大輔某を領国に派遣し、同郡須賀川の地に城郭を構え、これを守らせた。
式部大輔 は嘉吉三年に逝去し、子の遠江守為氏が家を継いだ。
この時、治郎大輔は為氏が幼少なるを侮り、勝手な振舞があったので、為氏はついに須加川に出向いて一族の戦争となった。
治部大輔 は敗れて自害したので、為氏は須賀川に留った。

その後裔盛義は天正九年に逝去したが、跡継がきまらず、盛義の妻が宰領した。

この虚に乗して伊達政宗は奥州南部に侵入し、ついに二階堂氏を滅し、この地を領有したが、天正十九年豊臣秀吉は奥羽を鎮圧して蒲生氏郷を会津に封じ、須賀川を領有きせた。最後は秀吉の死をもって筆を置いている。

戦国期のこの地域の情勢を知る貴重資料である。






「政宗公軍記」は、伊達政宗が奥州に於ける軍事を記したものである。

内容は天正十二年政宗が十八歳で家督を継いで以来、岩代·磐城に進出して、遂に仙道七郡を制覇した次第を記し、最後は、もと二階堂氏の居城であった岩瀬郡須賀川城の石川弾正昭光が政宗に叛いて誅されることで終っている。

「仙道記』は著者も成立年代も不詳である。

内容は天正十年より始まり慶長六年に蒲生秀行が会津に入国まで、仙道(中通り)の各城主のことを中心に、この地方の戦乱を略記し、最後に奥州·会津·相馬三春の各海道及び古城の覚を記している





『蘆名家記』 は著者も成立年代もはきりしないが、慶長の初めに書かれたものと思われる。内容は天正八年、会津の守護芦名氏十六代の盛氏の死去に筆を起し、同十七年に伊達政宗に攻められて減亡、翌十八年の豊臣秀吉による会津没収に及んでいる。
この間、蘆名家の跡継ぎをめぐる家臣団の対立と伊達氏への内応の事情、それをめぐる数々の合戦を記し、戦国期の南奥羽の事情を知る数少い重要な資料である。






『伊達日記』は作者の名をとって「伊達成実記』「伊達成実日記』ともいう。

作は片倉小十郎景綱とならぶ伊達政宗の老臣伊達成実である。

彼は政宗に従って実戦に参加し、自らの見聞と体験とで書いたもので、史料的価値は非常に高く、戦国期の東北地方の情勢を知る根本史料である。
成立は関ヶ原の役のとき徳川家康と結んだ伊達政宗が、石田三成と通じた会津の上杉景勝と休戦して磐城国白石に帰った慶長五年十月で終っているから、これからほど遠くない頃だとみられる。

内容は天正十二年、政宗の襲嫡から始まり、父輝宗の死、相馬.二本松.田村の諸豪族との関係、会津の青名氏の攻略と滅亡、会津の新領主蒲生氏郷との対立、関ヶ原の役のとき会津の上杉氏との抗争など、仙道に於ける争覇が中心となっているが、芦名氏との関係記事は当事者の筆録だけに詳細である。




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