2023-05-17 Wed

「牛縊城」田村四十八舘
三春城下の南西、二里余。
旧牛縊村は、戦国大名三春田村氏の要害「牛縊城」田村四十八舘があり。
城主・牛縊五郎右衛門が城主を努めていました。

牛縊本郷と過足に挟まれた地形にあり、その山城(舘)の形状は牛の臥牛(寝姿)に形容されます。
本郷という地名と過足側には下屋敷という地名が残っています。
戦国の三春城主三春田村氏の四代目となる田村 宗顕(たむら むねあき)は、
伊達政宗正室の愛姫の父、三春田村三代清顕の弟・田村氏顕の子となります。
叔父である田村清顕が天正14年(1586年)に嗣子のないまま没すると、家中は田村家の後見を、清顕夫人の里伊達氏派と、清顕の生母の里相馬氏派に分かれての勢力争いで分裂。
伊達氏派が政権を奪取して清顕の娘婿伊達政宗が後見します。
三春田村氏は、政宗の裁断によってによって、甥である宗顕が田村氏の当主(名代)・田村仕置となります。
天正18年(1590年)、太閤秀吉の小田原征伐に際し、宗顕は伊達氏の旗下と自認していたため参陣しなかったことで、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易されます。
後に、田村氏の改易は政宗の策略だと、宗顕は牛縊定顕と改名して片倉重長の白石城下で隠棲します。
名前を田村から牛縊に改名したかは不明ですが、乳母(母)が牛縊氏出身とする説もあります。
また、牛縊(うしくびり)の名前の由来も不明ですが、牛をつなぐから付けられていると私は考えています。

館下には、戦国時代初頭の天文16年(1547年)建立の牛縊山瑞雲寺があります。
天文16年と云えば、伊達氏の「天文の乱」が起こっていたころで、伊達氏と会津芦名氏の仙道進出を阻止すべ、く三春田村氏2代田村隆顕公が畠山氏、石橋氏と共に会津芦名方の安積郡諸城を攻めて10のヶ城・舘を陥落させています。

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2023-05-05 Fri
戦国時代田村義頭公は富久山村(日和田三丁目)から本拠を三春に移し築城する事になった。
そこで三春郷で築城に最適と思われる大志田山(現・三春城址、御城山)と、貝山村の白山の山(現・白山比咩神社様)の何れかにする事なった。
このお城の築城場所選定の話は、たちまち近在の村々に伝わり、地元貝山村では白山様にお城が出来る事を願っていたが、果してどちらの山が高いのか話が持ち上がり人々の一番の話題になっていた。
そんな騒ぎの最中、1人の娘が大志田山の方が白山機より草履一枚分高いと自信有り気に言ってしまいその事が徒になり、田村義頭公の耳に入り白山の山にお城が出来なくなり、その一声の張本人が貝山村の“おつる”であった。
そのため、おつるは村八分になり村から追放される。
その後、貝山村ではおつると言う名は禁がられ生まれた女の子にも付けなくなった。
近代に入り大正時代の頃、実際につると称した2人の方が貝山村に嫁に来る時、(古内の人はケサ)に名を変えて来た。
この伝説は現今より500年前水正元年(1504)頃の物で城を築く際に人柱(生き埋め)を立てて城の安全を願う風習があり、前記述の貝山村のおつるさんは女ながら気丈夫な人だったから白羽の矢が立ったがその後どうなったかは伝説に表われていない。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2023-04-21 Fri

塵壺382号 令和5年4月21日発行
「田村四十八舘東方要害」 御春輩 田村家武士団8 大越城
戦国時代の仙道(現福島県県中附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区でした。
田村荘司田村氏の流れを汲む三春田村氏は、そのころ伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(相馬)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いています。
三春田村氏は、その状況下の中で、惣領として一族や直臣、そして周辺の国人領主や地侍たちを従えながら、三春田村領内に於いて地侍と地縁的、族縁的な「洞中」の領主連合を形成し、血縁以外の家臣・国人領主たちに「一家」・「一門」などの称号を与えて自己の一族扱いをする事によって、その盟主としての地位を固めて戦国乱世を生き抜こうとしていったと考えています。
「浮金舘」 為 源次
「移・中山舘」 大多和泉 移 (本多和泉) 永禄年間、田村隆顕代「春山舘」 本多信濃 記
※「移・中山舘」の舘主は本多氏と考えています。
他の資料の訂正箇所があったり地域の方々の苗字からも推測されます。
江戸時代に記された軍記もの「仙道軍記」「仙道記」「仙道表鑑」等々の中で誤字と思われる記載が多数確認されています。
戦国武将三春田村氏の当時物の資料が乏しく参考にしている資料が江戸時代に入って書かれた軍学の資料ですので、写し間違い等で苗字が違っていることもあろうかと思っています。
舘跡周辺に現在お住まいの方々の苗字に納得しています。
「宮田舘」 宮田惣兵衛
「南宇津志舘」 菊池兵部太夫 五百二十三石 三春札場迄四里十六丁
「上宇津志舘」 田村家御家門 田村宮内太夫顕康 月斎一男 七百石
「熊耳舘」 熊耳太郎左衛門 六百九十三石 三春札場迄二十四丁
「石森舘」金堂右エ門 七百六十石 三春札場迄一里二十八丁八間
「新舘舘」鹿又備前 七百九十石
「菅谷舘」菅谷隠岐守茂信 (佐藤氏)

「大越城(鳴神城)」
東方与力五十騎 永禄9年下大越城(朝霧城)より移築 田村氏一族で田村四天王の一人と称された
大越田村紀伊守顕光・信貫(橋本氏)一万石(安積六百石、大越二千、牧野三百五十石)の居城。

現田村市大越町大字上大越字町の西方、霊泉山脈中にありました。
田村領では三春本城に次ぐ規模を有し、本丸、北ノ丸、西ノ丸、東ノ丸、 西北丸を有する堅固な城を築き、大越地内に数多くの舘を置きそこに家臣を配置していました。

鳴神城の由来は下澤郷と呼ばれていた現大越に築城の折、下大越白井倉より鳴神明神を遷して城中に祀ったことからこの鳴神城と呼ばれるようになったと伝わっています。
城主紀伊守は、三春三代城主田村清顕亡き後の田村家中のお家騒動に際して相馬方として伊達方の田村月斎、橋本刑部らと反目します。

後に、岩城地方の大館城(飯野平城)主岩城常隆に通じ、反攻の機会を画策しますが及ばず鳴神城を退去しました。

「下大越城(朝霧城)」向舘
弘安年間(1278~87)、白鳥出羽守安光が向舘を築きその後7代に渡って居住。後の弘治2年(1556)、山城守仲光が大越に居城を移したという。

「上大越弾正舘」
大越城主大越紀伊守の臣、荻野弾正の居舘 大越町大字上大越字町中の北方にありました。
「廣瀬 大越舘
」大越(橋本氏)玄蕃孫七郎の居舘。
東方与力五十騎 滝根町大字廣瀬の南東にあり。
「神俣八幡舘」
永禄年間、神俣太郎左衛門・神又久四郎房親(※小野神俣舘の記載有常葉氏より養子)以来、その子孫が世々居住。
滝根町大字神俣西部。
田村氏の没落後に帰農してその子孫は今でも神俣を称として住居し繫栄しています。
「時田舘」
大越紀伊守の臣、時田次郎の居舘 上大越字町東方。
「白石舘」
三春田村氏の重臣大越城主大越紀伊守の臣、白石蔵人の居住
現大越町大字上大越字町中の中央にありました。 平地に築かれており濠(ほり)をめぐらした跡が今でも見られます。

「飯豊舘」
郡司掃部の居舘。東方与力五十騎 飯豊村大字飯豊に在り。
三春田村家御家門方 郡司豊前 郡司雅樂之助 女子“おさき”は、田村御前(愛姫)に付いて仙台城下建て屋敷住(田母神氏旧記)
現在、郡司姓を称する方々は、この郡司氏の子孫と伝わっています。
「平舘」
七郷村大字堀越 三春城主田村氏の臣、三輪某の居住と記されています。
尚、三輪氏の家系は、永谷豊前守治則の三男、三輪玄蕃治徳の末裔と伝わっています。
「三春領古城絵図」慶安二年丑五月(1649年) 木目澤氏蔵
田村郡郷土史 田村郡教育会 編
田村小史 影山常次
仙道軍記 岩城軍記集
参考・参照
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春 拝
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2023-04-19 Wed
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堤舘 鷹巣 堤屋敷
堤(現・鷹巣字堤)には佐久間姓が多く、戦国の武将 織田信長の家臣佐久間盛政の子盛安の末裔が住む集落です。
舘跡の中腹には、盛安が加賀国の白山から勧請したと云う「白山神社」があり、その近くに盛安一族の者と思われる五輪塔の墓がある事から戦国武士であった事に間違いないと思われます。
地区民の話しによると盛安は大変気性の激しい人物で、父の盛政も同様の性格のためか意見が合わず盛安は謀反を起した為に勘当され、わずかな家臣を供に下向し現在地に舘を築くが2度の火災に遭い仕方なく帰農士着したと伝わっています。
下向する以前は、加賀ノ国一帯の一向一挨を征伐していた父の盛政と同行していたと考えられるが、資料によると子供は1人娘の虎姫は盛政が15歳時の永緑11年(1568)に生まれ、慶長15に年出産がもとで4歳の時に亡くなったと言う。
尚、盛政は賤ケ岳の戦いで敗れ刑死する(30歳) 亡き後、虎姫は豊区秀吉の底護を受けています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2023-03-28 Tue
「田村四十八舘 三春郷外郭要害」御春輩(みはるのともがら)田村衆
戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。
対する防備は、重要拠点とする田村領内の中でも五十騎以上、足軽百名以上の与力武士衆が常駐した舘が記録されています。

「富沢舘」三春町沢石字富沢
三春領古城絵図には、城主富沢玄蕃の名が見られ、田村清顕死後の田村家中の結束を誓った田母神家に残る血判状にも「富沢居舘富沢伊賀」、さらに伊達家臣片倉家に残された田村家家臣録にも「北方与力五十騎」の大将として富沢伊賀守の名が連ねられています。
天正16年に伊達政宗が三春城・田大元帥明王学頭坊に滞在したときには、富沢氏とともに富沢の在郷衆もあいさつに訪れています。
当時騎馬武者が五十騎以上の与力の駐留した舘は、当時の田村領内全体でも13舘位で、それぞれの舘に駐留する各騎馬武者は、各々が自身の一族郎党を引き連れていましたので、手勢とする動員兵力としては騎馬武者の7倍~15倍の兵力がいたと考えられます。
後の資料には、三春城主田村利顕の二男(?)田村(橋本)刑部少輔徳顕(則顕との記載有)が「富澤橋本舘」に住居す。との記載もあります。
橋本刑部少輔徳顕 (貞綱)は、清顕没後田村家中の相馬派と伊達派が対立した際に、伊達氏へ組した三春田村家重臣の一人です。
「青石舘」旧澤石村青石
舘主 佐久間伊勢より、九代孫左京に至るまで居住
「實澤舘」旧澤石村實沢。
天正年間舘主・實澤山城。永享年間に至り、岩崎山城が居舘
旧澤石村(三春町沢石)五舘跡
「正楽舘」舘主渡邊雲龍斎
「御舘」舘主橋本玄蕃
「臺(むろ)舘」舘主佐久間豊後
「新舘」舘主某氏若狭
「長根舘」舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住
「熊耳舘」
三春本城から最も近い総備え外郭の要害舘のひとつで、規模も大きく三春城を防衛する上で重要な支城でした。
江戸時代に舘跡を調査した記録に「熊耳舘」は「舘主熊耳太郎衛門」とあります。
天正16(1588)年に岩代町の宮森城に在陣した伊達政宗のもとへ挨拶にいった田村家臣の中に熊耳氏がいますが、この熊耳氏について江戸時代に書かれた資料には、田村清顕が家督相続する際に、熊耳掃部助らを旗下に属させたと記されています。
また、清顕の死後、連判状と考えられる文書には、御幕下面々のひとりとして「熊耳又十郎」との記載があり、舘の近くには、南北朝時代の年号の記された石製供養塔がふたつ残されており、その頃からこの地域の中心的な場であったと想像されます。

「柴原舘」 三春町大字中郷字柴原
柴原助左衛門 三百五十石 後、橋本和泉助右衛門、禄高450石。
舘(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、本丸は南北28間、横18間。
この橋本氏は、先に記載した田村家重臣で下枝城の橋本刑部少輔徳顕の一族と伝えられています。
「蛇澤舘」 新田蔵助
「沼澤舘」 沼澤孫兵衛

「貝山舘」舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)
天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)
天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢する軍勢の為に田村家中の主力を出撃させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、時の三春田村領(城主田村宗顕)を攻めます。
この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。
幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
追記
田村家中重臣橋本刑部少輔顕徳
今回の塵壺にはその名前を「徳顕」、また「則顕」との記載のある資料を元にしたのでそのまま記載してあります。

※訂正です。
塵壺379号にて、江戸期に書かれた「奥陽仙道表鑑(抄)」を参照して岩井澤舘の主、常葉城城代を石澤修理亮と記載しましたが、前後の状況と地元の口伝からして石澤姓が誤記載・誤転載で、赤石澤姓・赤石澤修理亮と考えています。
奥羽永慶軍記(抄)、 政宗記(抄)、 奥陽仙道表鑑(抄)、 奥州仙道一覽記(抄) 参照
| ryuichi | 03:44 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
2023-02-01 Wed

塵壺379号
御春輩「田村四十八舘東方要害」常葉城 田村武士団その6 令和5年2月発行
戦国期の田村領では、平姓田村氏の一族である「御家門」を中心とした地域的な家臣団を形成し、それぞれの所領と城・舘を持ち、その土地の土豪・地侍いわゆる「在家」を配下として半自立的な立場であったとみられます。
このことは、室町時代末に記された『田母神氏旧記』や『田村家臣録』をみますと「田村四十八舘」と称された領内の東西南北に配置された各々の城舘、そして駐留する与力の騎馬武者衆やそれらに付随する小者の数、さらには、城(舘)下に整備された町並み等からも見て取れます。
また、田村領(田村庄・小野保)は、田村庄司家御代の室町時代中期に結ばれた一族一揆録「仙道国人一揆(応永十一)」の記名人を母体として形成され、田村荘(庄)を中心に小野保を含んで編成され、白川氏に大きく依存していた篠川・稲村両公方という鎌倉府体制下で、関東管領や奥州探題との関係でバランスをとりながら田村庄司家の田村氏は独立を保ち、後の戦国大名平姓三春田村氏へとつながっていきます。

「常葉城」 別名「旭城(朝日舘)」
常葉伊賀守・東方与力四十騎 常葉彦右衛門・東方与力四騎
戦国期天正年間の常葉城主には、播磨国主赤松円心の孫の赤松越前守顕則から常葉氏に改名した5代常葉甲斐守貞久まで居城して三春田村氏に属し常葉地方を治めていました。
戦国時代真っただ中の常葉甲斐守定貞之の頃に、東の相馬義胤の田村攻略の際に常葉城は相馬勢の猛攻を受け落城し常葉勢は敗走してしまいます。
後に常葉氏は会津蒲生氏郷に仕え会津に居住、その子孫は会津に在りましたが現在は北海道に移住したと伝わっています。
常葉氏敗走後に常葉城を田村勢が奪い返し、岩井沢舘主(後に再記載)石澤(赤石澤)修理亮が城主となって常葉城を預かります。
「岩井沢舘」 舘主 石澤(赤石澤) 修理亮
天正17年6月10日、 相馬義胤は田村家の内紛に乗じて岩井沢舘(都路) に侵攻して攻め落とします。
さらに、相馬義胤は岩井沢舘を拠点として稲ヶ瀬舘、そして常葉城を攻めます。
石澤(赤石澤)修理亮以下田村勢300 人、伊達政宗からの援軍として桑折摂津守以下伊達勢300 人が加わり常葉城を守備、数日にわたり攻防を繰り返したのち相馬勢は外郭を落とし、三ノ曲輪をも破ります。
二ノ曲輪も危うく思われたころに田村宗顕は橋本刑部、田村宮内大輔に500の兵を差し添えて常葉城に駐屯させたので、本丸は堅固に持ちこたえました。
天正17年6月、会津の本城黒川 (後の若松) に入った政宗は、この報に接して伊達成実 、白石宗実、原田宗時、平田周防守に3千の軍勢を援軍として三春に派遣、さらに伊達郷、信夫郷、刈田郷、柴田郷の軍勢約150騎を二本松の塩松に布陣させて迎撃態勢を整えます。
佐竹氏、岩城氏、相馬氏の軍勢は7月まで対陣しますが、結局三春を攻められずに、ついに帰陣します。
「西向舘」 常葉町西向 三善中納言常光居住、千二百石 後舘主 新城宮内
・常光寺建立 七代目庄屋七右エ門傳
「関本舘」 舘主関本太郎右エ門 大字関本上野(田村市常葉町山根)にありました。
後に青山忠興が居舘していました。
天正年間、岩城城主岩城常隆の田村侵攻の際に落城しています。
青山藤兵衛、天正13年に発生した「小手森舘の戦い」で伊達政宗勢に属した三春城主田村清顕公に従い参戦し、大内定綱勢と戦い負傷。
「古道舘」 都路町古道字舘ノ腰に在り、北畠勝光の居舘。
津島・葛尾・古道・岩井沢の4か村は、戦国時代に相馬顕胤の娘・喜多姫が三春2代城主田村隆顕の嫡男・田村清顕に嫁入りした際に相馬氏より田村氏へ喜多姫の化粧代として田村領に編入されています。

蒼龍謹白 さすねぇぞい三春! 拝
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2022-12-31 Sat

塵壺第378号「三春本城防衛」城下重臣屋敷と御旗本組「不断衆」 令和5年1月吉日発行
「三春本城防衛」城下重臣屋敷と御旗本組「不断衆」
三春本城の防御態勢として、伊達政宗の三春城下滞在中の際に記された「三春要害廻り御覧御出」によれば、三春城下町構えの外枠に土塁・堀・沼・川などの防御施設があったことが解ります。
また、同文書の中に“天正16年8月、三春城滞在中の伊達政宗は田村家の重臣田村月斎宅にて饗応され~“と記されているところを見ると田村月斎の役宅「月斎舘」が現在の消防署三春分署の裏山に、そして、田村重臣橋本刑部の役宅「刑部舘」が紫雲寺の裏山に配されていました。
このように田村の重臣たちはそれぞれの所領に城舘を構えて居住・駐留していましたが、三春城下にもそれぞれ屋敷を与えられていたと考えられます。
さらに、「元和八年老人覚書」には「田村清顕と申は、常々千計の人数を抱置」と記されており、重臣らとともに、常に田村氏に近侍する直臣の旗本組「不断衆(ふだんしゅう)」の屋敷も御城山付近に集中して三春本城の直掩勢として駐屯していたと考えられます。
三春在城中の政宗が「町検断、町ノ者」を謁見しているのをみれば、三春城下町衆の地位が田村家中に準じるほどのものであったことが読み取れます。
その他、城下には大元帥明王堂別当・同学頭坊そのほかの寺院・社家・山伏があっ たことも、政宗滞在時の『伊達天正日記』に記されています。
後免町の田村家菩提寺福聚寺はいうまでもありませんが、明王堂以下の寺院・社家などは 城と城下のはずれの地に配置されて、三春城と城下の守りの役割を果たしたとみられます。

天正10年(1582)、大元帥明王学頭坊に宛てた「田村清顕挽書」によれば、田村2代隆顕以来、山中(明王町)の検断権は田村氏ではなく学頭坊に委ねられていたことが解ります。
同じく田村家の菩提寺である福聚寺も同じく「門前(御免町・尼ヶ谷)」の検断権を隆顕以来免許されていました。
これら有力寺院・社家は田村氏の外護を受けて、郷村を知行分(所領)として抱 え経済的基盤とし、さらに門前ないし門前町に対する治外法権・経済支配権を掌握していました。
永禄2年(1559)の大元帥明王大船若経の書写は、 田村義顕による進献の事業ですが、経櫃三合に収められた二百巻の折本の大般若経は、天沢和尚以下、薩摩の慶徳、日向の京文、肥後の昌恵、美濃の培など十数人の手で書写され、13350枚の和紙が用いられています。
これは、義顕の帰依の篤さとあわせて「大元帥明王」の権威の高さを知ることが出来ます。

「天正田村騒動」天正16年(1588) 5月・相馬義胤三春入城失敗
三春城主田村家三代田村清顕の突然の死により、田村家中は清顕妻(相馬顕胤娘)の弟相馬義胤が当主の相馬氏と、清顕母(伊達稙宗娘)、そして、娘「愛姫」の婿伊達政宗が当主の伊達氏のどちらに今後の田村家の行く末を暫定的に後見してもらうかを巡り家中は二分していました。
天正16年2月から7月にかけての安積郡郡山城・窪田城一帯をめぐる伊達政宗勢と蘆名義広・相馬義胤勢が相対した戦闘を総称とした“郡山合戦”の後、政宗が三春へ入る前に政宗の片腕である伊達家重臣片倉小十郎が先に三春に入り政宗を迎える準備をします。
5月3日、相馬家出身の清顕夫人を船引城へ移し、三春城には清顕の甥の孫七郎(宗顕)が入りました。
そして、翌日には、田村梅雪斎(田村隆顕の弟)など相馬派の家臣三十数名が城下の屋敷を引き払って小野城(以下、小野保内の自分の所領・領諸城)へ退きます。
その混乱の最中に相馬義胤は手勢を率いて三春城乗っ取りの為に強襲入城を謀り、相馬勢が三春城の途中まで登った時に、その動きを事前に察知した伊達派重臣橋本刑部指揮する田村勢の精鋭旗本不断衆の迎撃により、東の小口(虎口)に押し返されます。

しかし、ここでも田村勢の猛攻に遭い撃退されてしまいます。
兵の強さもさることながら、三春城は難攻不落の堅固な山城のために相馬勢は御城を攻略できず中々入城は果たせません。
さらに相馬勢の騎馬武者200騎と弓・鉄砲組が合流して三春城に攻め込む手はずとなっていましたが遅参して役に立たず、義胤は築館(東和町)にも、相馬にも帰れず配下の兵と共に一時船引城に立て籠りますが後に相馬へ撤収しています。
相馬義胤が三春城攻略討に失敗した翌日、伊達政宗は白石若狭守宗実の宮森城に着陣。伊達勢(信夫郡・伊達郡の軍勢)に田村勢も加えて築山舘(月舘・旧東和町戸沢)を攻略し所領の作毛をすべて刈り取ります。
翌日、伊達主力・旗本以下の軍勢を動員し、相馬氏に組した石川弾正の小手森城(旧東和町針道)を陥落させて宮森城に引き揚げました。
蒼龍謹白 さすねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:18 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
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