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「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5





「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5

戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。


「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせ時期を含めて振り起すと百以上の舘が存在しています。

この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。


「鶴ヶ城(田母神舘)」旧二瀬村大字田母神にありました。

三春田村氏の祖とされる田村持時の築城で、その息子で“田母神氏”の祖となる田村(田母神)刑部少輔重顕以来、田村一門田母神氏が居城し田村四十八舘南方防衛の要であったと伝わっています。






「谷田川舘」 旧二瀬村大字田谷田川字西曲淵にありました。 

三春城主田村清顕の臣、石井豊前守(通称彌八郎と称す)の居舘

舘は、回字形を成しており一見では舘とは知られず、天正年間の会津城主芦名盛氏との戦いではその舘機能が活躍し防戦したと伝わっています。


「東舘、西舘」旧守山村大字大善寺に在り、東舘と西舘とは相距離に隣接していたと伝わっています。

舘主は白河城主結城宗廣の臣、因幡貞末兄弟で、後に、柳沼氏を称して帰農
し、現在もこの辺りに棲む柳沼氏はその末裔と伝わっています。[


「正直舘」旧守山村大字正直に在り「板橋舘」とも呼ばれていたと伝わっています。

正直土佐守高光の居舘。天正年間の三春田村氏の没落後と共に滅亡したと伝わり、現在は鬱蒼とした山林となっています。

奥州平定を企てる源義家の臣とする正直土佐高秀は、「天喜康平ノ役(前九年の役)」に主と共に陸奥に下り、石川郡板橋の舘に居舘して板橋を氏としていました。

後に、高光の代に至って田村氏の属し正直村に移住し姓を正直と改めたと伝わっています。また、正直氏の末裔は帰農し、現在もこの辺りに棲むと伝わっています。


「清水舘」旧守山村大字細田字念仏堂に在りました。

田村氏の臣、中塚右衛門太夫清信の居舘。中塚右衛門は、天正十年六月に発生した三春田村当主田村清顕公の急死後の「天正郡山合戦」の際に、嫡男である細田縫之助春友と共に田村の混乱に乗じて攻めてきた須賀川城主二階堂氏の寄せ手を防ぎ、獅子奮迅の活躍を見せ激闘を交わすも敗退したと伝わっています。


「細田神」清水舘の南西にあたる黒石川右岸にある田園の中に、「細田神」と呼ばれる一小祠があります。これは、上記の清水舘落城の折に、舘主細田氏の自決したところだと伝わっています。







「高倉舘」 旧宮城村下字高倉にありました。

三春城主田村氏の臣、高倉和泉守の居舘、大永年間に築かれたと伝わっています。


「古内舘」

戦国期、三春城主田村氏の時代に宮城村大字海老根(現、郡山市中田町海老根)にあった古内館は、古内肥前守が舘主として居ました。

古内氏は、須賀川城主二階堂氏に組していましたが、天正年間の伊達・田村勢による二階堂氏討滅の時に伊達氏の重臣片倉氏に下り、以後片倉氏に仕え片倉氏の所領である白石に居を構えます。

現・仙台市太白区向山に鎮座する竹駒神社は、この古内氏が、屋敷がある海老根の古内にあった稲荷神社を移したと白石にある古内氏墓所の石碑には記されています。

また、岩沼の竹駒神社にも、三春田村氏や古内氏との関わりを示すものが残っており、伊達政宗夫人陽徳院(愛姫)の孫にあたる岩沼藩初代藩主田村宗良公の墓石を削って作られたものと言われる忠魂碑や古内重興が寄進した石燈籠があります。

     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝







先月発行の塵壺376号のコラムに誤表記がありました。


「月斎の子息たちは、嫡男・宗輪寺住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)~」と表記すべきところを“月斎の兄弟~”と記載してしまいました。


訂正いたします。


| ryuichi | 03:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
塵壺376号 令和4年11月発行 「御春輩(みはるのともがら)」田村四十八舘西方与力 田村武士団その4




塵壺376号 令和4年11月発行

「御春輩(みはるのともがら)」田村四十八舘西方与力 田村武士団その4

戦国期に書かれた伊達、片倉、田母神等の文書に「田村四十八舘」舘主(城主)が記載されています。
これらの舘には、新舘、古舘、オチ舘またはオツ舘と呼ばれる舘跡が付随し、”舘之腰”や“馬場”“的場”など城郭にちなむ地名が今も残っています。

また、時期の推移や戦況により築城や廃城があり、舘主の移動も見て取れます。


「木村城(舘)」旧逢隈村(現郡山市西田町)大字木村に在り「舘山」と呼ばれています。

木村越中守、木村内記(天正年間)が居舘。口伝では、木村越中守の先祖木村内記は、当初は同村の古舘に居住していましたが、後に「木村城」に移ります。

室町後期の永亨年間、田村庄司田村満顕の組下木村左京之介忠高の築城で”木村(城)舘”と呼ばれています。

以後、木村氏は忠高以来子孫子の9代に亘って栄え、天正10年迄150年間居城しています。

7代清慶木村右馬之介は永録六年の春、三春城主田村隆顕に従って二階堂信濃守輝行と石川郡江持で戦っています。

この時、敵将渡辺刀称外一将の首を討ちとり武功を立てた勇将と伝わります。

8代の信常左京之介英太郎は、永録8年2月18日田村清顕公につき石川小平大膳を攻めて敵将本田太郎右工門親子を討取りたる名将でしたが、天正10年に至って田村氏と不和を生じ、密かに会津芦名氏と親交を結んだことが露見して清顕公の怒りをかいます。

同年春には清顕公自らが軍勢を率いて木村氏を攻め、信常は戦いに利なく、田村の将鬼生田弾正(鬼生田舘主)勢及び前舘主水(前舘舘主)勢と戦って討ち死、その子信光も一族郎党と共に戦死して木村城は落城しています。

この時、信光の妹“鶴姫”は大隈川(阿武隈川)に身を投げて自害し、この淵は今でも「鶴ヶ淵」と呼ばれています。

尚、鬼生田の廣度寺に伝わる「鶴姫の鐘」は鶴姫供養に由来します。





木村氏滅亡後、この城は田村本家の持城となり、天正14年(1586)に田村清顕が没した後は、根木屋・宮田をふくむ木村郷は伊達政宗の命によって田村月斎・橋本刑部少輔顕徳らが統治しています。

木村城には橋本刑部が城主となり、城代として橋本太郎佐衛門(刑部弟)、橋本孫左衛門(刑部娘婿)が居住しています。

この時期は、伊達氏による奥州征覇の時期と重なり、田村家の内紛に係る「田村仕置」などの政治的な背景から、阿武隈川を望むこの本城跡が田村家伊達方の軍事的な最重要拠点として田村家重鎮の橋本刑部を配して城郭を現在の形に改築されたと思われます。

 後に橋本刑部は、田村家中伊達派の重臣として太閤秀吉による「田村仕置」田村家改易に異を唱え、豊臣の中枢大阪へ出向き五奉行筆頭石田三成に“田村家改易取り消し”を訴えたがその甲斐がなかったとの記述が残されています。「一関田村家田村系譜」


「三城目舘」旧逢隈村(現西田町三丁目)舘主今泉主水
三城目には「穴沢舘」舘主穴沢新助、「桜内舘」、「西田山王舘」が支舘として構築され防御を固めていました。

「前舘舘跡」 三城目(西田町) 舘主 前舘主水

「鬼生田舘(おにゅうだたて)」舘主 鬼生田弾正顕常

田村家一門 東西南北御一字被下衆 鬼生田惣右衛門 西方与力25騎 「田村家臣録」(片倉文書) 田村家改易後、伊達家に仕官した鬼生田氏は伊達藩から分藩した宇和島藩藩士(江戸勤番)となっています。(田母神家旧記)

「大田村上舘」(現西田町)舘主 村上刑部之介の居舘と伝わっています。

「黒鹿毛山舘」旧丹伊田村にあり、田村月斎頼顕の二男・新田土佐守顕成(顕輝?)が与力三十五騎と新田内蔵助とその配下足軽五十人を従えて居住。

「阿久津舘」 田村月斎頼顕の六男・阿久津右京亮顕義、阿久津左京 田村家御家門衆

尚、月斎の息子は、嫡男・出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)は上宇津志城主、三男・新田民部顕輝は新田城主、四男・石見守顕朝、五男・湊川右馬助顕純、七男・木目澤善五郎顕継、八男・大槻内蔵頭顕直。(仙道表鑑参照)






「御春輩」とは、室町初期に記された「沙弥宗心書状」(結城古文書写)に表記された田村地方の武士衆を示す名称です。


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下野国小山庄「旧鷲城跡 鷲神社」(栃木県小山市)



下野国小山庄「旧鷲城跡 鷲神社」(栃木県小山市)

本丸跡には鷲神社があり、南北朝時代の城郭が残る貴重な史跡

鎌倉時代以来下野国の守護に任じられた小山氏は、中世を通じて下野国最大豪族でした。

鷲城は中久喜城・祇園城と並び小山氏の主要居城であるとともに、1380(康暦2)年から1383(永徳2)年の小山義政の乱において本城としての役割を果たしました。






「小山氏の乱 (おやましのらん)」( 小山義政の乱)とは、 室町時代 前期に下野守護であった小山義政が、鎌倉公方足利氏満に対して起こした反乱で約17年にわたって繰り広げられた結果小山氏の嫡流は滅亡します。

田村荘の庄司である「田村庄司家」の与力“御春輩”の活躍していた鎌倉時代末期。
田村庄司氏は南北朝時代には南朝方についていました。

その後、さらに奥州を関東の分国とした検断職を誇示する白河結城氏は、仙道田村荘進出を窺い、田村庄司氏の対立は続き、明応3年(1396年)には、「小山氏の乱」後田村庄司家に救援を頼む小山氏と連携した「田村庄司の乱」が発生します。






田村氏は、関東出陣の大将として小山氏はじめ新田義宗の子息新田相州、並に其の従弟刑部少輔らとともに室町悪府の出先機関である鎌倉(古川)を目指し白河へ出陣、時に鎌倉公方や関東管領に差配に不満を抱く旧南朝方の関東(上州や武州)の諸将も田村氏の下へ馳せ参じ一大勢力となり白河結城修理大夫率いると対峙します。




「田村庄司の乱」に対して、陸奥国の管轄権を室町幕府(室町殿)から移譲されたばかりの鎌倉公方にとっては奥州に力を示す好機であり、鎌倉公方足利氏満が十一か国の国主の兵を率いて出陣して白河結城氏の当主結城修理大夫満朝の舘に入ります。

鎌倉方の兵力のまえに、田村氏は形勢不利として、兵を納めそれぞれの領地へ帰還します。

鎌倉公方(かまくらくぼう)
室町殿・室町幕府には、坂東(関東)を統治するために置いた「鎌倉府」という出先機関があり、そこの主が鎌倉公方です。本来であれば室町幕府出先機関ですから、足利将軍の命に従うはずでしたが、鎌倉公方は設置直後から終始幕府に対して反抗的な態度を取り続けました。

関東管領(かんとうかんれい)
鎌倉公方に就任した足利基氏はこのときまだ10歳だったため、補佐するために置かれたのが「関東管領」です。
いわゆる執事として公方を助ける役職で、初期は高氏、畠山氏、斯波氏などが担当しましたが、次第に上杉氏が世襲して独占するようになります。






三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:12 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
常盤城「旭城」
常盤城は、「旭城」とも呼ばれ熊谷直則が城を築いたとされています。

後に、赤松則村(円心入道)の孫・越前守顕則が城主となり常葉氏を名乗り、後に三春・田村家へ従属。甲斐守貞之の代に相馬軍の攻撃に遭った後にか、石沢修理亮が派遣されて城主となります。

田村清顕が没し、田村氏は後継者争いから、田村月斎顕頼・橋本刑部少輔顕徳ら伊達派と、田村梅雪斎顕基・郡司豊前守敏良・大越紀伊守顕光らの相馬派にわかれた内紛「天正田村騒動」が起こり、常盤城は相馬派に導かれた相馬義胤・岩城常隆の連合軍により攻略された、迎撃した石沢修理亮は討死してしまいます。

三春昭進堂 高橋 龍一
--Ryuichi Takahashi--



| ryuichi | 18:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
「田村四十八舘東方与力」 御春輩(みはるのともがら) 田村武士団その3



御春輩(みはるのともがら)「田村四十八舘」田村武士団その3


室町幕府・足利政所の衰退からの戦国時代、織田信長による“いつでも”戦いをすることができる“銭で雇った兵”の創設を原資とする「農兵分離」政策によって軍事戦略が劇的に変革して、四季を通じて一年中戦が出来るようになります。

それまでの農民=武士(兵士)では、春秋の農繁期になると田植えや稲刈り等農作業で忙しく戦どころではありません。信長以前には戦国最強と云われた武田や上杉などの軍勢も既存の農民兵が主体なので、軍事行動は春と秋の農繁期を避けて行っていました。


地方の国人衆は、「兵農分離」そして太閤秀吉による「刀狩」等の政策を導入するという段になって、先祖伝来の所領(土地)がある「在家惣領家」は、その生活(収入)基盤である所領を手放してまで武士(兵士)として生きるという選択肢はあり得なかったと考えられます。







「上石過足舘」中山太郎右衛門尉

「牛縊舘(うしくびりたて)・城」 牛縊壱岐五郎エ門 三百五十石 三春札場迄一里半
出舘として「白石館」、「八幡館」がありました。


「樋渡舘」樋渡藤八郎

「駒枝舘」永井五郎


「黒木舘」黒木信濃守 田村旗本近習 与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録)黒木大膳 

「海老根舘」三本木十郎右エ門


「赤沼舘」赤沼弾正 二百五十石 三春札場迄三里








「木目沢表舘(このめざわおもてたて)」

木目沢式部内蔵之助 田村家御一門中御家門方

内蔵之助の一男善次郎。孫大槻内蔵之助。(田母神氏旧記)

出城として、「明神館(みょうじんたて)」木目沢善五郎顕継(田村月斎の7男)の居館

そして、「岩入館(いわいりたて)」下方主膳の居館などがありました。






 木目沢鎮守三渡神社では木目沢三匹獅子舞が伝承。口伝によれば平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征討でこの地を訪れた際、凶作・疫病で民衆が疲弊している様子を見て、厄難退散祈願の為に村の子供達に獅子舞を教えたことが始まりであると言われています。









「下枝上舘(したえだかみたて)」 旧御舘村下枝 

三春城主田村氏の一門、田村四天王と呼ばれた重臣橋本刑部少輔顕徳(あきのり)の居舘。

田村盛顯(三春初代義顕の父)の孫の記載有。

田母神氏旧記には、橋本刑部は木村舘主、田村家の執行大奉行に名前があり、出自も田村月斎顕頼二男との記載が在り.

弟太郎左衛門、聟(養子)孫左衛門(又七郎・二本松住)

三春城主・田村家三代清顕の死後、田村家中が相馬方(清顕夫人実家)と伊達方(伊達政宗夫人・愛姫嫁先)に二分する御家騒動の際には伊達方につき、家中を伊達方へ導きます。

仙台藩片倉家文書の中には、田村宿老「橋本伊豫守」及び橋本又十郎の名がありますが刑部は別と考えられます。

天正17年には、清顕亡き後の田村家混乱に乗じた岩城城主岩城常隆勢が、田村家中の反伊達派の加勢を受けて田村領に侵入し伊達派の拠点となる鹿股舘、門澤館と次々に攻め落とし、次に伊達派の統帥橋本刑部が護る下枝舘に狙いを定め攻撃を仕掛けますが、逆に迎撃した田村勢によって撃退され大敗を喫しています。


その際、田村を離反し岩城勢に組した元船引城主田村清康、飯豊舘主郡司某(敏良?)など多数の田村家旧臣が討ち取られています。









「下枝脇舘」旧御舘村下枝 三春田村氏没落後に廃城。

三春城主田村氏の重臣、横田盛尊・平内左衛門の居舘

横田盛尊は、会津城主芦名盛實の二男綱實で、安積郡横田城に在って横田氏を名乗ります。

その五世の孫にあたる盛兼の代に、須賀川城主二階堂遠江守に攻められ横田城は陥落、平姓田村満顕に属します。

以来、代々田村氏に仕え金屋平舘に居住します。

盛兼の孫、盛尊になって下枝脇舘に移居し、後の綱晴の代、天正十八年に三春田村氏の没落により帰農し、柳橋村字篠坂(現中田町柳橋字篠坂)居住します。

以来、その子孫が継承して十四代(明治期)当代の朝右衛門まで横田氏伝来の寶を伝承していると伝わっています。
   





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塵壺374号 令和4年9月発行  「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村武士団その2



塵壺374号 令和4年9月発行

 「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村武士団その2

 中世の室町時代、田村庄を含む仙道(現在の福島県中通り一帯)はもちろん東国では鎌倉公方、そして奥州探題白川(白河)結城氏の「田村御退治」に対抗した「田村庄の乱」など戦
国乱世と呼ばれるような所領を巡った絶え間ない戦が続きました。


 田村地方の領主である田村庄司田村氏及び後の三春田村氏は、御屋形・惣領を頂点として、「血縁」や「契り」によって結集した一族郎党や旗下に在郷の地侍の集団「洞(うつろ・ほら)」、又は「~内」、「~丸」といったこの時代独特の集合体をその統制下に置いて権力基盤を編成・構築していました。 

 平姓三春田村氏が永正子年に、三春大志多山に本城を築き、これを中心に田村領内に幾多の支城を設けます。これが後に云う「田村四十八舘」です。

 当時、関東では鎌倉公方(古川・堀越公方)と関東管領の混乱から始まったとされる「享徳の乱」以来、長い戦乱の中で兵器や戦術にも著しい発展を示しはじめ既成の秩序や価値観を含んだ領国経営の戦略や戦術などを考慮した城郭・舘も領内防衛上の必要性から進化し再構築されていきます。

 

「田子森舘」

要田村荒和田にあり、応永年中、田村持顕築き、持顕よりその子である直顕、そして弟の重顕、また、その子の広顕と続き以来子孫が相次ぎ領していました。

天正十八年、田村家の没落の折には、田村姓を橋本に代えて当代当主の時顕は帰農しに野に下り荒和田村の里正となります。

後に房に至り、文政六年、秋田氏に仕え子孫は、三春に居住。尚、その裔の荒和田に居る者は、荒和田を氏としています。


 「笹山舘」 笹山五郎兵衛の居住。六百九十三石

 「石森舘」 舘主 金堂右エ門  七百六十石 三春札場迄一里二十八丁八間

 「新舘舘」 舘主 鹿又備前   七百九十石

 「長外路舘」旧美山村大字長外路字瀬戸久保に在り。鹿又孫作の居住。






 「舟引城」 田村季明 七千三百石 本丸、西ノ丸、東出丸、辰巳丸
 
 「春山舘」太田信濃守 千五百石 三春札場迄一里二十丁 旧文殊村春山の東部にあり。

 「五舘跡」 片曾根村大字今泉に五の舘跡があります。

 「日梅舘」は新屋敷に在り。「松舘」は字戸澤に在り。

 「平舘」は字堀之内、「甲舘」は字古舘に、「乙舘」は平澤前。

 この五舘は、三春城主田村氏の臣が居住していましたが、その詳細は不明です。


 「黄龍舘跡」

旧美山村大字北鹿又に在り、移ケ岳の麓に屹立(きつりつ)し、その地形たるや蜿蜒(えんえん)と龍が翻(ひるがえ)るが如く見えることから黄龍舘とよばれていました。

永禄年間には松平刑部太夫が居住。 天正期に至って没落したといわれています。  

 いつの事かは不明ですが、山の頭部に湛(たた)へ曲流(きょくりゅう)する流水を稲田に灌漑(かんがい)しようと、その頭部を切開しました。

その工事は至難と思われましたが、村のためにと村人が従事し成功に至ります。後に、七日間に亘って“紫の水”が流出したことからその川を「紫川」と呼ぶようになります。また、その場所に薬師様と稲荷様を勧請し祠を建立して「堀切薬師」「堀切稲荷」と称するようになったと伝わっています。

田村郡郷土史参照


別記の資料によりますと、天長7年(830年)鹿又字舘地内を曲流する流水を稲田に導くための工事を行い、工事の完成を見る頃にこの地に巣くっていた大蛇を発見、数十人でこれを退治します。

すると大蛇の胴体からの血潮が川水に混じると“紫色の川”となり、七昼夜にわたりこの川下を紫色に染めて流れ、人々はこの川を「紫川」と呼んだという。

 この大蛇の頭は、川を流れ川下一里余門鹿の樋の口に流れ着き、門鹿村の人々がこれを拾い上げ手厚く葬られます。

 その地が今も史跡蛇盛塚(蛇盛稲場)幕の内地内にとして残り、村人は、その労苦と霊を慰めるため、薬師堂を建立(後の廃仏毀釈により、別の寺に安置)。

また、飛田家の祖先が三春滝桜の地より求めこの蛇盛塚に植樹し「蛇盛塚桜」と呼ばれ、今でも春には可憐な桜花を咲かせています。
 

「移舘」

旧美山村大字南移字町に在り。回字型の濠跡など昔の姿をとどめています。

舘主は、菊池五郎右衛門の居住。その菊池一門と称される者は五家があり、現在も周辺に居住されています。



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小峰満政等二十人連署一揆状 応永十一年(1413年)





小峰満政等二十人連署一揆状 応永十一年(1413年)




一揆契状(けいじょう)を取り交わした国人一揆は、守護などの外部勢力の侵入に反対する在地領主層の軍事同盟として形成されていました。

また、一揆契状に境相論や市井での紛争などに対する解決措置とともに、逃散の領民百姓や下人への対応策なども書かれているのがあり、領域内の農民支配を貫徹するための組織であったと考えられます。




安積郡伊東氏を中心とする一揆諸将 松藩捜古所文書()内は、有造館本結城古文書写 所属氏

須賀川刑部少輔行副 (稲村刑部少輔行嗣)二階堂氏 須賀川市守屋?

篠川藤原滿祐 (佐々川藤原満祐) 伊東氏 安積町笹川?

伊東下野七良藤原祐持(伊東下野七郎藤原祐時)伊東氏 喜久田町堀之内?

窪田修理亮祐守 (窪田修理亮祐守) 伊東氏 郡山市久保田

高倉近江守鎖定 (高倉遠江守顕貞) 田村氏 中田町高倉

大豆生田沙弥通綱 (大豆生田沙弥道綱) 伊東氏 大槻町

小峯藤原滿政 (小峯藤原滿政) 白川氏 白河市

下枝沙弥性善 (下枝沙弥性善) 田村氏 中田町下枝

御代田平季秀 (御代田平李秀) 田村氏 田村町御代田

中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)田村氏 中田町中津川

川曲宮內大夫季隆 (河曲宫内大夫季隆)田村氏 中田町川曲

猪苗代三河守盛親 (猪苗代参河守盛親)葦名氏 猪苗代町

河內藤兵衛祐春 (河內藤原祐春)伊東氏 逢瀬町河内

多田野沙弥遲久 (多田野沙弥聖久) 伊東氏 逢瀬町多田野

川田左衛門尉祐義 (河田左衛門尉祐義)伊東氏 三穂田町川田

名倉藤原祐清 (名倉藤原祐清) 伊東氏 名倉町

阿子嶋藤原祐清 (阿子嶋藤原祐善)伊東氏 熱海町安子島

部谷田沙弥勝慶 (社谷田沙弥慶勝)長沼氏 郡山市日和田

中路沙弥性久 (中路沙弥性久) 伊東氏 湖南町中地

稲村藍質滿藤 (藤原滿藤)二階堂氏 須賀川市稲村



石川氏を中心とする一揆諸将 秋田藩家職白川文書

松川源朝光 石川氏 東白川郡古殿

蒲田長門守光重 石川氏 東白川郡古殿

牧源盛光 石川氏 石川郡石川町牧

前田河沙弥祐菊 伊東氏 須賀川市前田川

守屋藤原祐国 二階堂氏 岩瀬郡岩瀬

取平沙弥慈本 

富田藤原祐昌 伊東氏 郡山市富田

早水藤原祐藤 伊東氏 郡山市早水

八俣沙弥長源 石川氏 石川郡平田村

神山沙弥祐金 伊東氏 三春町熊耳

田口民部大輔光顕 石川氏 東白河郡古殿

面川掃部助光高 石川氏 平田村永田?

中畑上野介師光 石川氏 西白河郡矢吹

小貫修理亮光顕 石川氏 石川郡浅川

炭釜源貞光 石川郡玉川

小高源藤光 石川郡玉川

左近将監政光 石川氏 不明



戦国期の田村領では、田村氏の一族である「家門」を中心とした地域的な家臣団編成がなされ、この「家門」は、それぞれの所領を持ちいわゆる「在家」を配下として半自立的な傾向を持ちっていたとみられ、田村領における東西南北の配された各々の要害・城館の配置、そして与力騎馬武者の数や館下における街並み整備等の構造にからも見て取れます。

応永六年(一三九九)、南奥諸将の支配の監視するために、時の鎌倉府政所から篠川公方、そして稲村公方が派遣されます。
応永11年に結ばれた「仙道国人一揆(応永十一)」を見ても判る通り、 南奥の領主は、その両方の差配を受けることになり、安積郡の伊東氏、田村荘の田村氏、岩瀬郡の二階堂氏、石川郡石川氏などは、両方のもとに組織化された。

この一揆状を見ますと、伊東氏を中核として伊東氏以外にも多くの領主が参加した一揆、石川氏を中核とした一揆には、伊東氏と石川氏との連携した一揆であることが解ります。しかし、田村氏を中核とした一揆は、全ての一揆勢が田村氏配下とみられ、この一揆そのものに田村氏の御家門一族一揆であると考えられます。

「仙道国人一揆(応永十一)」から時代は百年ほど後になる戦国時代末期の田村家中が、室町期に結ばれた一族一揆を母体として形成され、田村氏の一族である「家門」を中心として、田村荘(庄)を中心とした田村領(小野保含)の中で編成されていることも納得できます。





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