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「ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道」 
 



塵壺394号 令和6年4月26日発行

「ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道」 

 滝桜の樹齢千年には及びませんが、群雄割拠の戦国時代に103歳の高齢になっても軍略・知略を用いて第一線に立って政務・戦闘指揮を執っていた生涯現役の武将が三春にいました。

田村宮内少輔顕頼(頼顕の記載もあり)がその人で、仏門に帰依して落飾「月斎入道」と称した戦国武将三春田村氏の参謀役の軍師です。

日和田八丁目(守山?)から、三春に城を築いた三春田村氏初代となる田村義顕の弟で、二代の隆顕、そして、三代となる清顕も補佐して三春田村氏を名実ともに一級の戦国武将に導いた立役者の一人で、甥の田村右馬顕基入道梅雪斎、同右衛門清康、橋本刑部顕徳らとともに「田村四天王」と称されていました。


また、月斎は、田村家中の最長老として重きをなしその子供達、嫡男・出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、次男・上宇津志城主の宇津志(移)宮内少輔(太夫)顕康(顕貞)、三男・新田城主の新田民部顕輝(土佐守顕成)、四男・田村石見守顕朝、五男・早稲川舘の早稲川右馬助顕純、六男・阿久津舘の阿久津右京亮顕義、七男・木目沢舘の木目沢善五郎顕継、そして、八男・大槻舘の大槻内蔵頭顕直(仙道表鑑・田村系譜等参照)らの一族郎党で「月一統」と称される田村家中における一大勢力を構成していました。








 三春田村氏の最盛期の領地は田村郡を基本として仙道のほぼ全域に達していましたが、月斎は領土拡大に於いて田村家三世代に亘る歴代当主に仕えて家中で重きをなし、合戦においては最前線に陣取って戦の要となる「軍師」を務め、その勇猛さは周辺諸家に知られ、「畠に地縛、田に蛭藻、田村に月斎なけりゃよい」(仙道軍兵記)と謳われるほどでした。


 先頭の最前線となる諸城の城主を勤めた後に、三春城下の本丸北西、橋本刑部顕徳の舘近くに“椿舘”と称された「月斎舘(現消防三春分署の北側)」を築いて三春御城(舞鶴城)及び城下防衛の要所を固めます。

 月斎は、戦国の教養人としても第一級で、天正六年五月、跡取りの宮内顕康のために一五ヵ条から成る家訓を記しています(世文書)。今に伝わるのはそのうちの八ヵ条ですが、 博奕双六の禁止、狂言・綺語を慎しむべきことなど、現代に通じる修身のことについての厳しい戒めとあわせて、戦陣における敵打の厳禁、および、家中の喧嘩両成敗など、戦国の世を生き残る為に軍律秩序の堅持に関する事柄が記載されていますが、この家訓の文言からは、戦国時代を生き残る術に対する知識の高さがうかがえます。







 天正十三(1585)年十二月、田村家菩提寺福聚寺第九世・定南紹策大和尚は、月斎の求めに応じて「不思議以=天命、如期罷成候事、畢竟弓矢之冥一、夫月斎公者、[田村賀翁居士之第二子而、 或時遊三六芸之園、或時者志]」と記された一文を創っています。







 


さらに、月斎は、天澤寺第六世・心叟道存大和尚から仏道を習う参禅の者として「正徹」という諱(死後その徳をたたえて贈られる名)と「頂山」の号を拝受、そして「聖休」とも号した記載も残ります。






 晩年、平窪(現いわき市中平窪岩間)にある義姉の実家、岩城氏と縁の深い常勝院岩城寺所蔵の古文書の中に月斎が後継ぎである宮内大輔に送ったとされる遺書が残っていますが、その文筆を見ると文才の高さがうかがえます。






 

和歌を嗜む優美さと、禅宗に帰依し法名も「月斎」とするなど、仏道心とを兼ね備えた第一級の戦国武将でもありました。

 月斎は長寿の武将として伝わっています。三春に本拠移し舞鶴城築城の永正元年(1504年)が元服後の17歳。

以来、戦陣に明け暮れ会津蘆名氏、須賀川二階堂氏、常陸佐竹氏、岩城氏、相馬氏、伊達氏等と戦国の世とはいえ四面楚歌の中で知力謀略限りを尽くして激闘を繰り返し、長い年月にわたって田村氏を守り抜きました。


 田村・伊達連合の最大の危機とされる天正13年(1585年)の蘆名・佐竹連合軍との合戦・本宮「人取橋合戦」では98歳で軍配を振るって田村勢を率いたことになります。

さすがに、翌年の清顕死去以降に発生する田村家内紛や相馬・岩城氏からの領内防衛戦では三春城下より指図を出していたと考えられますが、最後に公の文書に記載されているのは、天正18(1590)年の「伊達治家記録」の二階堂氏滅亡後の処遇に関する文書で、長享元年(1487年)生まれの月斎は、この時なんと103歳!
  


生涯現役、ご長寿万歳!  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!

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   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 塵壺387号





   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 
 
鎌倉時代中期より室町から戦国時代にかけて、仙道(現福島県中地域)では田村庄司家の勢力基盤を継承した後の三春城主となる平姓田村氏が勢力を拡大していました。

 永享12年(1440)、室町幕府鎌倉公方の奥州の拠点「篠川御所(篠川公方)」(郡山市安積町)を攻め滅ぼした土豪の中に、田村利政公の名が記された資料が残っています。

 また、享徳3年(1454)頃の資料には、三春田村氏の初代・義顕公の祖父・田村直顕公の名が記されています。


 直顕公の時代から天正 18年(1590)の奥州仕置で田村家の終焉を迎えた当主宗顕公まで約150年間(六代)に亘って戦国乱世の時代に伊達氏・畠山氏・大内氏・岩城氏・相馬氏・蘆名氏・二階堂氏・石川氏・白川氏・佐竹氏といった強豪武将たちと亘りあい、時に四面楚歌の様相を呈した時期もありましたが、三春田村氏の活躍はめざましく、領土を護るばかりではなく領土拡張を成し遂げています。

 しかし、三春田村氏3代の清顕公は、激戦の真只中だった天正14 年に後嗣を定めず病没します。

 清顕公の夫人は相馬氏から、そして実母は伊達氏から入嫁しており、これらの要因もあって跡目後見争いとなり田村家中は内紛に発展してしいます。


 やがて伊達派の勝利により伊達政宗公の「田村仕置」を受けて清顕公の甥・宗顕公が後嗣となりますが、天正18年豊臣秀吉の「奥州仕置」によって、田村氏は所領安堵が得られず、戦国大名三春田村氏は消滅してしまいます。







 「御祭舘」御祭小山舘 

旧御祭村小山(三春町御祭)舘主小山左馬之助550石

三春城下の北西隣する旧御祭村は、戦国期には田村四十八舘の一つ小山舘があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

 古文書で見ると、三春札所(前述参照)から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったらしく、当時は、現在の舘下の橋本氏の屋敷までのびていたと思われます。

 江戸中期の秋田藩政下、藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納しました。

以後、明王と牛頭天王の祭礼には御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より御祭の村名を拝領したと伝えられています。

また、地域には「突き舘」、「突き打ち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という地名が残ります。

 戦国時代末期、田村清顕公が苦戦した小浜城の大内定綱の領地塩松(安達郡東部)への街道沿いで三春城の最後の防衛線に位置する舘です。



「七草木舘」七草木舘は、田村氏の一族で石高500石の七草木新助の居城。

ここは田村氏の三春領と、畠山氏の二本松領との境界に近く、御祭の小山城と共に、三春領北西の固めとして築かれたものです。

旧七草木村は、鎌倉時代末には田村庄司家田村氏の娘が地頭を勤めていました。

 その代官は鎌倉幕府滅亡後に上洛して後醍醐天皇の新政府に加わり領地の安堵を受けています。

その後、彼女が相馬重胤に嫁いだため七草木村は一時相馬領となったという記録が残されています。








七草木という地名の由来が伝わっています。

平安時代初期の寛平年間に宇多天皇は“七種粥の節句”をおこないました。

 このとき、竹良某という人が、七種および擂り粉木を献上した際に賞されて七種木の称を賜ったと伝わっています。

後にその子孫の七種木新介という武将が此の地の“築舘山”に舘を築いて移り住み、戦国大名田村氏に仕えた際に出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたとされています。



      蒼龍謹白  さすけねぇぞい田村!  拝






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「田村四十八舘・小野保(おのほ)」 御春輩 田村家武士団





「田村四十八舘・小野保(おのほ)」 御春輩 田村家武士団

天正16年6月、伊達家重臣伊達成実が田村の援軍として大越城の攻略に加勢した際の記録「伊達治家記録」に「町・寺マデ焼払ハレ 敵ハ町構ヲ引退テ 二ノ曲輪三ノ曲輪ヲ堅ク守ル 
因テ攻ムベキ術ナシ云々」と記しています。

これにより大越城が本丸をはじめ「二ノ曲輪」(二ノ丸)、「三ノ曲輪」(三ノ丸)を備えており、大越氏の城を中心とした“根小屋町(城下町)”をも併せて城郭を形成していたことが伺えます。このように三春田村家防御上で領内の主要な城・舘は、大越城のような城郭を形成していたと考えられています。


「小野新町城」三春城主田村氏御一門の田村梅雪斎顕基(三春田村二代隆顕弟)、その子田村右馬頭顕通の居城。梅雪斎顕盛息の子右馬頭清忠(仙道表鑑)記載有

戦国時代三春城主田村義顕公は、三春入城後、嫡子隆顕を三春におき、さらに本拠の守りを固めるため次男憲顕を船引城主に、そして三男の顕基(梅雪斎)を小野城主に封じたとされ、この頃小野の保に侵攻して勢力下にあったと思われます。


与力衆として、小野六郷の衆の、二瓶主膳正・東方与力十五騎、金田式部少輔(赤沼切戸館主会田遠江頭及び菖蒲谷会田左馬助?)・東方与力五十騎そして矢崎加左右衛門・東方与力足軽百五十の記載が見えます。

 平姓を名乗る三春田村一族が、郡山市田村(日和田?)から三春へ城を築きその拠点を移したのは永正年間(1504)の義顕の頃で、岩城地方の大舘城(飯野平城)主、岩城常隆も勢力を伸ばし、小野左右衛門の築いた小野城を攻めて支配下に置いたとされます。


岩城常隆は、三春田村氏との融和の為に娘を田村義顕と結婚させ、娘婿となった義顕に「小野保(おのほ)」、後の小野六郷・飯豊・谷津作・田原井(田原屋)・羽出庭(現小野町)、広瀬・菅谷(現滝根町域)を譲ります。


三春田村氏初代となる義顕は、子の顕基=顕定(梅雪斎)を小野城の小野左右衛門の嗣子として小野城に入城させます。以後、戦国時代の混乱の中で梅雪斎と、その子右馬頭らは田村領南の要衝小野城を守りこの地域を治めます。



三春田村氏は義顕から隆顕、そして清顕と代を重ねていきますが、天正14年、清顕が急死すると、跡取りの居ない田村の家臣団は後継をめぐって分裂します。

田村月斎や橋本刑部等の清顕夫人の生家伊達氏を頼る派閥と梅雪斎やその子である大越城主田村右馬頭などの清顕の母の生家相馬氏を頼る派閥に分かれて真っ向から対立します。


天正17年、その混乱に乗じた岩城勢(清顕の祖母生家)の侵攻によって小野城は落城したといわれています。


尚、谷津作に残る湯ノ原古戦場は、岩城氏の小野城攻略の折に小野田村勢がこの場所にて数日岩城勢の大軍を食い止めた戦いの跡と伝わっています。

「小野田原谷城」田村御一門中津川兵衛大夫。

後に家老の宗方右近に預け兵衛大夫は中津川城に住す。



「小野神股城」 城主神股久四郎 ※「古城絵図」には常葉久四郎助と記載。

三春城主田村清顕の臣でしたが、清顕亡き後の田村家中の混乱に際して岩城勢に攻め込まれ和談を申し入れ城を明け渡しています。後に伊達政宗の臣となり仙台城下に居住。



「皮籠石舘」小野新町大字皮籠石。

高屋敷と称され、天正年間より三春城主田村氏の臣、小野城代衆(三十六騎衆)の中野道満(入道)景安の居舘 ※中道との記載もあり

三春田村氏没落後に帰農し、代々その舘跡付近に現在も居住しています。また、その邸内に老桜と鞍掛石と称する石が残っています。




「槻木内舘」郡司主膳の居舘小野新町大字小野新町にありました。

前面に小野市街地を見渡せる南西、小野本城と相対しています。

小野城主田村梅雪等の没落後帰農し、現在もその子孫が麓に居住しています。




「将監舘」三春田村氏の臣、吉田将監の居舘。滝根町大字廣瀬の南東にありました。

「西牧舘」舘主・田村氏の臣 西牧文九郎が居住。旧飯豊村大字小野山神字八升蒔きに在り。

戦国時代末の天正十四年、三春城主田村清顕と会津城主芦名氏との安子ヶ島に於いて合戦の時に西牧氏戦死。安子ヶ島地内にその墓があると伝わっています。




    蒼龍謹白   さすけねぇぞい田村!  拝


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「牛縊城」田村四十八舘



「牛縊城」田村四十八舘


三春城下の南西、二里余。

旧牛縊村は、戦国大名三春田村氏の要害「牛縊城」田村四十八舘があり。

城主・牛縊五郎右衛門が城主を努めていました。






牛縊本郷と過足に挟まれた地形にあり、その山城(舘)の形状は牛の臥牛(寝姿)に形容されます。

本郷という地名と過足側には下屋敷という地名が残っています。


戦国の三春城主三春田村氏の四代目となる田村 宗顕(たむら むねあき)は、


伊達政宗正室の愛姫の父、三春田村三代清顕の弟・田村氏顕の子となります。

叔父である田村清顕が天正14年(1586年)に嗣子のないまま没すると、家中は田村家の後見を、清顕夫人の里伊達氏派と、清顕の生母の里相馬氏派に分かれての勢力争いで分裂。

伊達氏派が政権を奪取して清顕の娘婿伊達政宗が後見します。

三春田村氏は、政宗の裁断によってによって、甥である宗顕が田村氏の当主(名代)・田村仕置となります。


天正18年(1590年)、太閤秀吉の小田原征伐に際し、宗顕は伊達氏の旗下と自認していたため参陣しなかったことで、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易されます。

後に、田村氏の改易は政宗の策略だと、宗顕は牛縊定顕と改名して片倉重長の白石城下で隠棲します。

名前を田村から牛縊に改名したかは不明ですが、乳母(母)が牛縊氏出身とする説もあります。


また、牛縊(うしくびり)の名前の由来も不明ですが、牛をつなぐから付けられていると私は考えています。







館下には、戦国時代初頭の天文16年(1547年)建立の牛縊山瑞雲寺があります。

天文16年と云えば、伊達氏の「天文の乱」が起こっていたころで、伊達氏と会津芦名氏の仙道進出を阻止すべ、く三春田村氏2代田村隆顕公が畠山氏、石橋氏と共に会津芦名方の安積郡諸城を攻めて10のヶ城・舘を陥落させています。










三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:21 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
「田村四十八舘東方要害」 御春輩 田村家武士団8 大越城 塵壺382号 令和5年4月21日発行 




塵壺382号 令和5年4月21日発行  

「田村四十八舘東方要害」 御春輩 田村家武士団8 大越城
 
戦国時代の仙道(現福島県県中附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区でした。
 
田村荘司田村氏の流れを汲む三春田村氏は、そのころ伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(相馬)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いています。

 三春田村氏は、その状況下の中で、惣領として一族や直臣、そして周辺の国人領主や地侍たちを従えながら、三春田村領内に於いて地侍と地縁的、族縁的な「洞中」の領主連合を形成し、血縁以外の家臣・国人領主たちに「一家」・「一門」などの称号を与えて自己の一族扱いをする事によって、その盟主としての地位を固めて戦国乱世を生き抜こうとしていったと考えています。

 「浮金舘」 為 源次
 
「移・中山舘」 大多和泉 移 (本多和泉)   永禄年間、田村隆顕代「春山舘」 本多信濃 記

※「移・中山舘」の舘主は本多氏と考えています。

他の資料の訂正箇所があったり地域の方々の苗字からも推測されます。

江戸時代に記された軍記もの「仙道軍記」「仙道記」「仙道表鑑」等々の中で誤字と思われる記載が多数確認されています。

戦国武将三春田村氏の当時物の資料が乏しく参考にしている資料が江戸時代に入って書かれた軍学の資料ですので、写し間違い等で苗字が違っていることもあろうかと思っています。

舘跡周辺に現在お住まいの方々の苗字に納得しています。
 



「宮田舘」 宮田惣兵衛

 「南宇津志舘」 菊池兵部太夫 五百二十三石 三春札場迄四里十六丁

 「上宇津志舘」 田村家御家門 田村宮内太夫顕康 月斎一男 七百石 

 「熊耳舘」 熊耳太郎左衛門  六百九十三石 三春札場迄二十四丁

 「石森舘」金堂右エ門  七百六十石  三春札場迄一里二十八丁八間

 「新舘舘」鹿又備前   七百九十石

 「菅谷舘」菅谷隠岐守茂信 (佐藤氏)





「大越城(鳴神城)」 

東方与力五十騎 永禄9年下大越城(朝霧城)より移築 田村氏一族で田村四天王の一人と称された

大越田村紀伊守顕光・信貫(橋本氏)
一万石(安積六百石、大越二千、牧野三百五十石)の居城。








 現田村市大越町大字上大越字町の西方、霊泉山脈中にありました。
 田村領では三春本城に次ぐ規模を有し、本丸、北ノ丸、西ノ丸、東ノ丸、 西北丸を有する堅固な城を築き、大越地内に数多くの舘を置きそこに家臣を配置していました。




 
鳴神城の由来は下澤郷と呼ばれていた現大越に築城の折、下大越白井倉より鳴神明神を遷して城中に祀ったことからこの鳴神城と呼ばれるようになったと伝わっています。

城主紀伊守は、三春三代城主田村清顕亡き後の田村家中のお家騒動に際して相馬方として伊達方の田村月斎、橋本刑部らと反目します。







 後に、岩城地方の大館城(飯野平城)主岩城常隆に通じ、反攻の機会を画策しますが及ばず鳴神城を退去しました。








 「下大越城(朝霧城)」向舘 

弘安年間(1278~87)、白鳥出羽守安光が向舘を築きその後7代に渡って居住。後の弘治2年(1556)、山城守仲光が大越に居城を移したという。





 「上大越弾正舘」

大越城主大越紀伊守の臣、荻野弾正の居舘  大越町大字上大越字町中の北方にありました。
 
「廣瀬 大越舘

」大越(橋本氏)玄蕃孫七郎の居舘。

      東方与力五十騎 滝根町大字廣瀬の南東にあり。

 「神俣八幡舘」

永禄年間、神俣太郎左衛門・神又久四郎房親(※小野神俣舘の記載有常葉氏より養子)以来、その子孫が世々居住。
 滝根町大字神俣西部。

田村氏の没落後に帰農してその子孫は今でも神俣を称として住居し繫栄しています。

 「時田舘」
大越紀伊守の臣、時田次郎の居舘 上大越字町東方。


 「白石舘」
三春田村氏の重臣大越城主大越紀伊守の臣、白石蔵人の居住
 現大越町大字上大越字町中の中央にありました。  平地に築かれており濠(ほり)をめぐらした跡が今でも見られます。








 「飯豊舘」

郡司掃部の居舘。東方与力五十騎 飯豊村大字飯豊に在り。 

三春田村家御家門方 郡司豊前 郡司雅樂之助 女子“おさき”は、田村御前(愛姫)に付いて仙台城下建て屋敷住(田母神氏旧記)
 現在、郡司姓を称する方々は、この郡司氏の子孫と伝わっています。

 「平舘」

七郷村大字堀越 三春城主田村氏の臣、三輪某の居住と記されています。

 尚、三輪氏の家系は、永谷豊前守治則の三男、三輪玄蕃治徳の末裔と伝わっています。








「三春領古城絵図」慶安二年丑五月(1649年) 木目澤氏蔵 

田村郡郷土史 田村郡教育会 編

田村小史 影山常次 

仙道軍記 岩城軍記集

参考・参照

 


      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春   拝  


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堤舘 鷹巣 堤屋敷





堤舘 鷹巣 堤屋敷



堤(現・鷹巣字堤)には佐久間姓が多く、戦国の武将 織田信長の家臣佐久間盛政の子盛安の末裔が住む集落です。

舘跡の中腹には、盛安が加賀国の白山から勧請したと云う「白山神社」があり、その近くに盛安一族の者と思われる五輪塔の墓がある事から戦国武士であった事に間違いないと思われます。

地区民の話しによると盛安は大変気性の激しい人物で、父の盛政も同様の性格のためか意見が合わず盛安は謀反を起した為に勘当され、わずかな家臣を供に下向し現在地に舘を築くが2度の火災に遭い仕方なく帰農士着したと伝わっています。

下向する以前は、加賀ノ国一帯の一向一挨を征伐していた父の盛政と同行していたと考えられるが、資料によると子供は1人娘の虎姫は盛政が15歳時の永緑11年(1568)に生まれ、慶長15に年出産がもとで4歳の時に亡くなったと言う。

尚、盛政は賤ケ岳の戦いで敗れ刑死する(30歳) 亡き後、虎姫は豊区秀吉の底護を受けています。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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「田村四十八舘 三春郷外郭要害」御春輩(みはるのともがら)田村衆 





  「田村四十八舘 三春郷外郭要害」御春輩(みはるのともがら)田村衆 

 戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。


対する防備は、重要拠点とする田村領内の中でも五十騎以上、足軽百名以上の与力武士衆が常駐した舘が記録されています。






 「富沢舘」三春町沢石字富沢

三春領古城絵図には、城主富沢玄蕃の名が見られ、田村清顕死後の田村家中の結束を誓った田母神家に残る血判状にも「富沢居舘富沢伊賀」、さらに伊達家臣片倉家に残された田村家家臣録にも「北方与力五十騎」の大将として富沢伊賀守の名が連ねられています。


天正16年に伊達政宗が三春城・田大元帥明王学頭坊に滞在したときには、富沢氏とともに富沢の在郷衆もあいさつに訪れています。

当時騎馬武者が五十騎以上の与力の駐留した舘は、当時の田村領内全体でも13舘位で、それぞれの舘に駐留する各騎馬武者は、各々が自身の一族郎党を引き連れていましたので、手勢とする動員兵力としては騎馬武者の7倍~15倍の兵力がいたと考えられます。

後の資料には、三春城主田村利顕の二男(?)田村(橋本)刑部少輔徳顕(則顕との記載有)が「富澤橋本舘」に住居す。との記載もあります。


橋本刑部少輔徳顕 (貞綱)は、清顕没後田村家中の相馬派と伊達派が対立した際に、伊達氏へ組した三春田村家重臣の一人です。


「青石舘」旧澤石村青石 
舘主 佐久間伊勢より、九代孫左京に至るまで居住


「實澤舘」旧澤石村實沢。

天正年間舘主・實澤山城。永享年間に至り、岩崎山城が居舘


旧澤石村(三春町沢石)五舘跡 

「正楽舘」舘主渡邊雲龍斎

「御舘」舘主橋本玄蕃

「臺(むろ)舘」舘主佐久間豊後

「新舘」舘主某氏若狭  

「長根舘」舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住







「熊耳舘」 

三春本城から最も近い総備え外郭の要害舘のひとつで、規模も大きく三春城を防衛する上で重要な支城でした。

江戸時代に舘跡を調査した記録に「熊耳舘」は「舘主熊耳太郎衛門」とあります。

天正16(1588)年に岩代町の宮森城に在陣した伊達政宗のもとへ挨拶にいった田村家臣の中に熊耳氏がいますが、この熊耳氏について江戸時代に書かれた資料には、田村清顕が家督相続する際に、熊耳掃部助らを旗下に属させたと記されています。

また、清顕の死後、連判状と考えられる文書には、御幕下面々のひとりとして「熊耳又十郎」との記載があり、舘の近くには、南北朝時代の年号の記された石製供養塔がふたつ残されており、その頃からこの地域の中心的な場であったと想像されます。






「柴原舘」 三春町大字中郷字柴原

柴原助左衛門 三百五十石 後、橋本和泉助右衛門、禄高450石。

舘(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、本丸は南北28間、横18間。

この橋本氏は、先に記載した田村家重臣で下枝城の橋本刑部少輔徳顕の一族と伝えられています。

「蛇澤舘」 新田蔵助

「沼澤舘」 沼澤孫兵衛






「貝山舘」舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)

天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)

天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢する軍勢の為に田村家中の主力を出撃させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、時の三春田村領(城主田村宗顕)を攻めます。

この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。

幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。



    蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


追記
田村家中重臣橋本刑部少輔顕徳
今回の塵壺にはその名前を「徳顕」、また「則顕」との記載のある資料を元にしたのでそのまま記載してあります。






※訂正です。

塵壺379号にて、江戸期に書かれた「奥陽仙道表鑑(抄)」を参照して岩井澤舘の主、常葉城城代を石澤修理亮と記載しましたが、前後の状況と地元の口伝からして石澤姓が誤記載・誤転載で、赤石澤姓・赤石澤修理亮と考えています。

奥羽永慶軍記(抄)、 政宗記(抄)、 奥陽仙道表鑑(抄)、 奥州仙道一覽記(抄) 参照







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