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塵壺374号 令和4年9月発行  「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村武士団その2



塵壺374号 令和4年9月発行

 「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村武士団その2

 中世の室町時代、田村庄を含む仙道(現在の福島県中通り一帯)はもちろん東国では鎌倉公方、そして奥州探題白川(白河)結城氏の「田村御退治」に対抗した「田村庄の乱」など戦
国乱世と呼ばれるような所領を巡った絶え間ない戦が続きました。


 田村地方の領主である田村庄司田村氏及び後の三春田村氏は、御屋形・惣領を頂点として、「血縁」や「契り」によって結集した一族郎党や旗下に在郷の地侍の集団「洞(うつろ・ほら)」、又は「~内」、「~丸」といったこの時代独特の集合体をその統制下に置いて権力基盤を編成・構築していました。 

 平姓三春田村氏が永正子年に、三春大志多山に本城を築き、これを中心に田村領内に幾多の支城を設けます。これが後に云う「田村四十八舘」です。

 当時、関東では鎌倉公方(古川・堀越公方)と関東管領の混乱から始まったとされる「享徳の乱」以来、長い戦乱の中で兵器や戦術にも著しい発展を示しはじめ既成の秩序や価値観を含んだ領国経営の戦略や戦術などを考慮した城郭・舘も領内防衛上の必要性から進化し再構築されていきます。

 

「田子森舘」

要田村荒和田にあり、応永年中、田村持顕築き、持顕よりその子である直顕、そして弟の重顕、また、その子の広顕と続き以来子孫が相次ぎ領していました。

天正十八年、田村家の没落の折には、田村姓を橋本に代えて当代当主の時顕は帰農しに野に下り荒和田村の里正となります。

後に房に至り、文政六年、秋田氏に仕え子孫は、三春に居住。尚、その裔の荒和田に居る者は、荒和田を氏としています。


 「笹山舘」 笹山五郎兵衛の居住。六百九十三石

 「石森舘」 舘主 金堂右エ門  七百六十石 三春札場迄一里二十八丁八間

 「新舘舘」 舘主 鹿又備前   七百九十石

 「長外路舘」旧美山村大字長外路字瀬戸久保に在り。鹿又孫作の居住。

 「船引城」 田村秀明 七千三百石 本丸、西ノ丸、東出丸、辰巳丸
 
 「春山舘」太田信濃守 千五百石 三春札場迄一里二十丁 旧文殊村春山の東部にあり。

 「五舘跡」 片曾根村大字今泉に五の舘跡があります。

 「日梅舘」は新屋敷に在り。「松舘」は字戸澤に在り。

 「平舘」は字堀之内、「甲舘」は字古舘に、「乙舘」は平澤前。

 この五舘は、三春城主田村氏の臣が居住していましたが、その詳細は不明です。


 「黄龍舘跡」

旧美山村大字北鹿又に在り、移ケ岳の麓に屹立(きつりつ)し、その地形たるや蜿蜒(えんえん)と龍が翻(ひるがえ)るが如く見えることから黄龍舘とよばれていました。

永禄年間には松平刑部太夫が居住。 天正期に至って没落したといわれています。  

 いつの事かは不明ですが、山の頭部に湛(たた)へ曲流(きょくりゅう)する流水を稲田に灌漑(かんがい)しようと、その頭部を切開しました。

その工事は至難と思われましたが、村のためにと村人が従事し成功に至ります。後に、七日間に亘って“紫の水”が流出したことからその川を「紫川」と呼ぶようになります。また、その場所に薬師様と稲荷様を勧請し祠を建立して「堀切薬師」「堀切稲荷」と称するようになったと伝わっています。

田村郡郷土史参照


別記の資料によりますと、天長7年(830年)鹿又字舘地内を曲流する流水を稲田に導くための工事を行い、工事の完成を見る頃にこの地に巣くっていた大蛇を発見、数十人でこれを退治します。

すると大蛇の胴体からの血潮が川水に混じると“紫色の川”となり、七昼夜にわたりこの川下を紫色に染めて流れ、人々はこの川を「紫川」と呼んだという。

 この大蛇の頭は、川を流れ川下一里余門鹿の樋の口に流れ着き、門鹿村の人々がこれを拾い上げ手厚く葬られます。

 その地が今も史跡蛇盛塚(蛇盛稲場)幕の内地内にとして残り、村人は、その労苦と霊を慰めるため、薬師堂を建立(後の廃仏毀釈により、別の寺に安置)。

また、飛田家の祖先が三春滝桜の地より求めこの蛇盛塚に植樹し「蛇盛塚桜」と呼ばれ、今でも春には可憐な桜花を咲かせています。
 

「移舘」

旧美山村大字南移字町に在り。回字型の濠跡など昔の姿をとどめています。

舘主は、菊池五郎右衛門の居住。その菊池一門と称される者は五家があり、現在も周辺に居住されています。



   蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


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小峰満政等二十人連署一揆状 応永十一年(1413年)





小峰満政等二十人連署一揆状 応永十一年(1413年)




一揆契状(けいじょう)を取り交わした国人一揆は、守護などの外部勢力の侵入に反対する在地領主層の軍事同盟として形成されていました。

また、一揆契状に境相論や市井での紛争などに対する解決措置とともに、逃散の領民百姓や下人への対応策なども書かれているのがあり、領域内の農民支配を貫徹するための組織であったと考えられます。




安積郡伊東氏を中心とする一揆諸将 松藩捜古所文書()内は、有造館本結城古文書写 所属氏

須賀川刑部少輔行副 (稲村刑部少輔行嗣)二階堂氏 須賀川市守屋?

篠川藤原滿祐 (佐々川藤原満祐) 伊東氏 安積町笹川?

伊東下野七良藤原祐持(伊東下野七郎藤原祐時)伊東氏 喜久田町堀之内?

窪田修理亮祐守 (窪田修理亮祐守) 伊東氏 郡山市久保田

高倉近江守鎖定 (高倉遠江守顕貞) 田村氏 中田町高倉

大豆生田沙弥通綱 (大豆生田沙弥道綱) 伊東氏 大槻町

小峯藤原滿政 (小峯藤原滿政) 白川氏 白河市

下枝沙弥性善 (下枝沙弥性善) 田村氏 中田町下枝

御代田平季秀 (御代田平李秀) 田村氏 田村町御代田

中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)田村氏 中田町中津川

川曲宮內大夫季隆 (河曲宫内大夫季隆)田村氏 中田町川曲

猪苗代三河守盛親 (猪苗代参河守盛親)葦名氏 猪苗代町

河內藤兵衛祐春 (河內藤原祐春)伊東氏 逢瀬町河内

多田野沙弥遲久 (多田野沙弥聖久) 伊東氏 逢瀬町多田野

川田左衛門尉祐義 (河田左衛門尉祐義)伊東氏 三穂田町川田

名倉藤原祐清 (名倉藤原祐清) 伊東氏 名倉町

阿子嶋藤原祐清 (阿子嶋藤原祐善)伊東氏 熱海町安子島

部谷田沙弥勝慶 (社谷田沙弥慶勝)長沼氏 郡山市日和田

中路沙弥性久 (中路沙弥性久) 伊東氏 湖南町中地

稲村藍質滿藤 (藤原滿藤)二階堂氏 須賀川市稲村



石川氏を中心とする一揆諸将 秋田藩家職白川文書

松川源朝光 石川氏 東白川郡古殿

蒲田長門守光重 石川氏 東白川郡古殿

牧源盛光 石川氏 石川郡石川町牧

前田河沙弥祐菊 伊東氏 須賀川市前田川

守屋藤原祐国 二階堂氏 岩瀬郡岩瀬

取平沙弥慈本 

富田藤原祐昌 伊東氏 郡山市富田

早水藤原祐藤 伊東氏 郡山市早水

八俣沙弥長源 石川氏 石川郡平田村

神山沙弥祐金 伊東氏 三春町熊耳

田口民部大輔光顕 石川氏 東白河郡古殿

面川掃部助光高 石川氏 平田村永田?

中畑上野介師光 石川氏 西白河郡矢吹

小貫修理亮光顕 石川氏 石川郡浅川

炭釜源貞光 石川郡玉川

小高源藤光 石川郡玉川

左近将監政光 石川氏 不明




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



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磐城国三春城主田村大膳入道清顕 田村家臣録 「田村氏宿老外連名」片倉文書 



磐城国三春城主田村大膳入道清顕 田村家臣録

「田村氏宿老外連名」片倉文書 

田村宿老
今泉山城守 高倉城主 与力五十騎

橋本伊予守 福原城主 与力百騎

渥美河內守 鹿又城主 与力百騎

新田美作守 新田城主 三十五騎


一門一家東西南北御一字被下衆

中津川兵衛佐 中津川城主

大越紀伊守 大越城主 東方与力五十騎

白岩主膳正 白岩城主 西方与力五十騎

神主玄蕃頭 守山城主 西方与力八十騎

鬼生田惣右衛門 鬼生田城主 西方与力二十五騎

橋本刑部 木下城主 西方与力八十騎

足羽太郎兵衛 下枝城主 西方与力五十騎

郡司豊前守 飯豊城主 東方与力十八騎

芦沢修理太夫 芦沢城主 東方与力二十五騎

大越孫七郎 廣瀬城主 東方与力五十騎

二瓶主膳正 小野城主 東方十五騎

金田式部少輔 東方与力八十騎

矢崎加左衛門 東方足軽百五十人

常盤伊賀守 常盤城主 東方力四十騎

常盤彦右衛門 北方四騎

水谷豊前守 水谷城主 北方

富沢伊賀守 北方与力五十騎

新飯(新殿)肥前守 新飯(新殿)城主 北方与力五十騎

田母神玄蕃頭 南方与力五十騎

畑右衛門正 屈田城主


弓足軽大将

橋本七右衛門 足軽十八人

三本木六郎右衛門 足軽三十五人

富塚越中守 足軽三十人

小泉藤六郎 足軽八十人

御代田惣左衛門 足軽五十人

山崎助十郎 足軽二十五人

村松新兵衛 足軽三十五人

芦沢監物 足軽十五人

村上佐藤左衛門 足軽三十人



鉄砲大将

千石与市郎 足軽三十五人

荒井織部正 足軽三十五人

熱海弥六郎 足軽三十五人

本多太郎左衛門 足軽三十五人

成田左兵佐 足軽五十人

熊目文治郎 足軽五十人

相良大炊丞 足軽十八人

新田內藏介 足軽五十人

浦山勘太郎 足軽三十人

熱海雅楽丞 足軽三十人

大越新五郎 足軽五十人

百足太郎右衛門 足軽三十人

本多縫殿介 足軽十五人

三瓶敬五郎 足軽二十五人

佐藤万六郎 足軽二十五人

新田源三 足軽二十五人



田村旗本近習ニ備ル

熱海內膳 騎馬五騎・鉄砲五丁

猪苗代次郎右衛門 与力十騎・鉄砲五丁

橋本清九郎 鉄砲十丁・弓五張

黒木信濃守 与力五騎・鉄砲五丁

田母神越中守 弓十張

佐藤勘解由 与力七騎・弓十張

松山三河守 与力五騎・鉄砲五丁

小沢玄番頭 与力三騎・鉄砲十丁

橋本又十郎 弓十張・鉄砲二十丁

椖窪又四郎 与力三騎・弓十張

富田長門守 与力十騎・鉄砲五丁

名倉大学 弓十張・鉄砲十丁

小笠原彦太郎 与力十騎・鉄砲五丁

橋本源左衛門 弓五張・鉄砲二十丁

新田源兵衛 与力十騎

石神松丸 与力十五騎・鉄砲十丁

安積大藏 与力与力十騎・鉄砲十丁

国分文次郎 与力八騎・鉄砲十丁

松沢筑前守 騎馬三騎・鉄砲十丁

太田主水正 騎馬十騎

本多与一郎 鉄砲五丁

今泉左馬之介

橋本內膳正 与力五騎・弓十張

貝山三郎右衛門 与力五騎・鉄砲五丁

辺見小右衛門 



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


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応永仙道諸家一揆連判  応永二年(1404年)



仙道諸家一揆傘連判

南北朝期動乱の際に南朝の侵攻を阻止するための国人層と土豪・有力農民層との連合戦線の約定


平姓 田村義顕公が三春城を築城・入城する約百年前の名簿です。

応永仙道一揆臨場の諸将 応永二年(1404年)

田村荘田村氏を中心とした一揆諸将 笹川御所宛及び稲村公方宛 秋田藩家蔵白川文書

鬼生田山城守秀遠 西田町鬼生田

大越宮內少輔季広 田村郡大越町

下行合出羽二郎季広 田村町下行合

みよた越前守宗秀 田村町御代田

八田河参河七郎秀高 田村町谷田川

阿久津沙弥觉祐  田村町阿久津

小沢但馬守秀遠 船引町小沢

墨田信濃守季清 田村町細田

鹿俣沙弥清光 滝根町神俣

穴沢宮內少輔秀朝 西田町三丁目

白石伊豆守季春 船引町

門沢沙弥得願 船引町門澤

常葉沙弥妙重 田村郡常葉




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塵壺372号 「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村家武士団(その1) 令和4年7月発行




塵壺372号 「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村家武士団(その1) 令和4年7月発行


戦国乱世。
田村庄司・三春城主田村氏配下、「御春輩(みはるのともがら)」と記された田村武士団は、田村領「田村庄」「小野保(現小野町付近)」に、各々の所領を本拠とする「舘」、後に云う「田村四十八舘」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。

「光大寺舘」芦沢村大字光大寺。

三春城主田村氏の一門衆で、橋本修理(芦沢修理太夫)東方与力二十五騎の居舘です。三春田村氏没落後に廃城となります。
 
尚、一騎の騎馬武者には、口取り・やり持ち・挟み箱・歩兵で、その武士の位・身分により3~4人から7~8人の徒歩の家来が付きます。

また、芦沢村には本郷前、字屋形、字岡田前に各々舘跡があったと伝わっており、箭内、土佐、荒井、傳五兵衛等の居住した舘とされています。

「栗出舘」七郷村大字栗出。
門澤左馬之介の居舘、三百六十石。

「鎌場舘」七郷村大字堀越。
佐藤左近が居住。
堀越八幡神社及び花園神社は、佐藤氏の勧請と伝わっています。

「門澤双六山城」七郷村大字門澤。

平貞盛七代の孫である安俊が、源頼朝に仕え、後に門澤○季を称し、奥州門澤深山御座城に居住し、安種に至ります。

時代は下がって、永禄年間に三春城主田村清顕に属し橋本城に移り、その息満定門澤六郎と称し双六山城に居住します。

天正十七年、岩城城主岩城常隆が大軍を率いて田村領に攻め込みます。

この際に、伊達政宗の援兵茂庭定直と共に奮戦して戦死します。

墓所は、門澤常洛寺(現常楽寺)に在ります。

尚、茂庭定直の墓所は門澤宇堂山飛龍寺にあります。







「右近舘」七郷村。
大越紀伊守の長男右近が、三春田村家のお家騒動の折に、相馬方について敗れた紀伊守の没落後に、この地に来て居住したと伝わっています。

尚、大越紀伊守の次男左近は、七郷村大字椚山にあった、「追舘」に居住するとあります。

「小舘」七郷村大字堀越。
小泉藤兵衛が、小泉舘に居住していましたが、永禄二年に小舘に転居してきました。
後に神職となって明石明神前に居を移し、その孫子は代々神職を務めています。

「堀越舘」堀越尾張守六百五十石の居舘。
七郷村大字堀越。

「椚山舘」椚山利家(祐左衛門)の居住。
椚山字十郎内。






七郷村大字牧野には、「牧野村四舘」と称する舘跡があります。

「竹之内舘」佐久間因幡の居住・字竹之内

「牧野舘」佐藤若狭の居住・字牧野

「國ヶ坪舘」渡邊加茂右衛門が居住。字國ヶ坪

「深谷舘」佐久間某が居住。字深谷

四舘の舘主共に三春城主田村氏の臣にして、田村氏改易後帰農しています。
以後、子孫は各々の地にて繁栄しています。

「七郷日輪舘」七郷村大字永谷の中央にありました。
永谷豊前守頼治以下、敷代が居住。周囲三百五十間、高さ五十丈にして、本丸、二ノ丸、三ノ丸などがある大きな館(城)だったようです。
日輪舘の由来は、日向・日当たりが良かったからと伝わっています。

永谷氏は、本姓が箕輪氏で、後に三輪氏と称しています。代々三春田村氏に仕え、天正年間には度々軍功があり、その後裔である治季に至ります。
田村家没落後は、帰農して永谷村の里正で、その子孫は今尚永谷に在ります。







「堀越平舘」七郷村大字堀越にありました。
三輪某の居住と記されています。
三輪氏の家系は、永谷豊前守治則の三男、三輪玄蕃治徳の末裔と伝わっています。


「田村仕置」による三春田村家改易に遭って大多数の田村武士団は主家を救済できなかった伊達家を嫌い旧田村領内の自分の所領にて帰農します。

尚、帰農した田村旧臣は、合戦の敗北による田村家断絶ではなかったために、敗北感を一切持たず、剛腹で武勇に富み一族郎党と共に「御春輩(みはるのともがら)田村武士団」を今に伝えています。


     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝










三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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田村庄司家と三春田村氏 令和元年
田村庄司家と三春田村氏

鎌倉時代以降、田村荘の領主は藤原仲能系と考えられている田村庄司家であったたことは各種史料によって知られ、応永年間(1394~1427)に没落し、田村庄の支配は平姓田村氏の手に移ったとされてきました。

田村庄司家田村輝顕は、浄野の後裔で始めて田村を称したといわれる古哲から数えて十七代目とされているが、史料によって確認できる上限は直顕であり、輝顕以前の正確な系譜は不明である。
 


田村庄司氏は、一説に鎌倉幕府の評定衆であった田村刑部大輔仲能の嫡流という。

田村荘の立荘過程は不明ですが、建武二年(1335) の「陸奧国宣」が初見となっています。

当荘などの検断職が結城親朝に与えられた。と記されています。


これ以前は、中原親能の猶子で“田村”を号した前刑部大輔藤原仲能が、みちのくに”田村の郷”を支配していたとの記録もあります。

ここで仲能系藤原氏によって立荘されたことで、藤原姓と田村が文面として結びついて、藤原系田村氏という記載になっていったのではないかと考えられます。



先頃の研究では南北朝期の動乱と応永二、三年の田村荘司の乱で藤原姓荘司系田村氏が没落し、代わって平姓三春系田村氏が台頭して地域権力となったとされるとされてきましたが、上記の検証から見れば応永の一揆でみられる田村氏一族は平姓で藤原姓ではなく、平姓荘司系田村氏が平姓三春田村氏に発展し、一族一揆的結合から戦国大名化を遂げたとする。


田村庄司職を継承したとみられる三春田村氏は、田村義顕が大元帥明王社に奉納した大般若経に平義顕とあり、同様に田村清顕発行文書には平清顕とあることから、平姓と考えられます。

つまり、田村庄司家と三春田村氏が同じ平姓の一族であり、応永年間前後に惣領職が移動したと考えられます。



後に田村氏は三春に城を移して時流を巧みに泳ぎ、北畠顕家をしてその定かならぬ去従は「御春(三春)の輩」と嘆かせる行動をとり、次第に勢力を拡大していきます。


田村庄では、庄司家の衰退によって、小国人が分立し独立性を強めた。関東の料所が設定されたため、彼らは関東公方に忠勤を励みつつ、不利益となる外圧に抵抗し、また、分立から生まれる不安定な状況に対処するために、応永11年(1404年)、近隣諸地域の国人領主たちと一揆契約を交わしている。


十五世紀のはじめ、田村一族が中心となって結んだとみられる「一揆契状」があり、この頃の田村庄の国人として、そこには「みよた越前守宗秀」をはじめ、山城守秀遠、宮内少輔季広、伊豆守季春ら田村氏の一族であろう人名が列記されています。



田村氏は、南北朝の内乱に際して陸奥守北畠顕家に従い常に南朝方として宇津峰城に立てこもり、一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平八年五月宇津峰城は落城し、奥州の南朝方の勢力は失墜します。


以後、陸奥の地は、足利幕府が、奥州管領、羽州管領(探題)を通じて直接支配しますが、関東公方、足利氏満のときに、関東府の支配下に置かれるようになります。
 
南朝方で行動したとはいえ、田村庄司家は一定の勢力を維持できたようです。


田村則義・清包父子のとき「小山義政の乱」が起り、嫡男の田村庄司父子は敗れた義政の遺児若犬丸を匿い、関東公方足利氏満に反旗を翻した。
この乱は、「田村庄司の乱」とよばれている。


応永三年(1396)、鎌倉公方足利氏満みずからが率いる討伐軍によって田村庄司家以下の叛乱軍は、敗走します。

その結果、田村荘の三分の一は、関東公方の料所となり、下総結城氏に預けられます。

時代は下がって、南奥では、白川結城氏朝、および、その猶子直朝が四隣に影響力をふるっていました。

田村直顕は宝徳3年(1451年)から記録に見え、結城氏のもとで代官的な役割をつとめるとともに、娘を結城直朝の孫顕頼に嫁がせるなど、田村庄内での地歩を固めていきます。   

一方、白川結城氏は、永正7年(1510年)、当主政朝(直朝の子)が、有力庶子家小峯家の当主朝脩を攻殺すると、朝脩の父直常が政朝を放逐するなど内乱によって勢力を失い、三春田村氏はここに結城氏の支配を脱し、戦国大名へと成長して行きます。




参考文献
垣内和孝「中世田村氏と蒲倉大祥院」地方史研究第46巻第6号 1996年12月
青山正『仙道田村荘史』、1930年。
田村郡教育會『田村郡郷土史』、1904年。
『岩磐史料叢書』、岩磐史料刊行會、1916年
『三春町史』、三春町、1980年。
『船引町史』、船引町、1982年。
『大越町史』、大越町、1998年。
『滝根町史』、滝根町、1989年。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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平成版今昔物語  「斉藤舘址と白岩舘址」 田村四十八舘



戦国時代田村四十八舘、斉藤舘址と白岩舘址

斉藤舘址は、旧中妻支所跡の南方にそそり立つ城形をしている丘陵にありました。

旧記では三春札所(三春城下大町四つ角)から2里(約8キロ)となっています。

この舘は石高350石、戦国期の三春城主田村義顕が築いた領内防備の館、いわゆる田村四十八舘の一つで、重臣斉藤大膳が居城していました。

城郭は、根回り340間、高さ15間、本丸の南北39間、東西25間という記録が残っています。


この斉藤舘は、もう少し西(現郡山市白岩町)にある白岩舘(城主久賀肥前)とともに田村氏の戦国戦史の中でも異彩を放っています。

愛姫が伊達正宗の正室としてに嫁いだ翌年の天正八年八月、田村家三代清顕の弟孫八郎重顕が、岩瀬の塩田、洞樫に出陣しますが、須賀川城主二階堂の臣浜尾善九郎率いる岩瀬勢の激しい攻撃に会い討ち死にしてしまいます。

勝ちに乗じた岩瀬浜尾勢は田村に向かって進撃し、三春の南西部にある大平を落とし大善寺を陥れ、清顕の大叔父に当たる田村月斎頼顕(田村初代義顕の弟)の守る今泉城に迫ろうとしていました。

一方、須賀川二階堂勢は常陸佐竹氏を頼み御代田城に猛攻を加えます。

そこで、仙台伊達正宗の父輝宗が仲裁に入り、今泉城は二階堂に渡し、御代田は田村氏に返させたので小康保つことと相成りました。

しかし、勝ち誇る二階堂勢は、須矢部、伊藤、浜尾の各武将に命じて須賀川勢、岩瀬勢を率いて、翌三月、行合、大平の二方向から三春田村領へ再び侵攻してきました。

そして、その最前線になったのが、斉藤舘と白岩舘です。

須賀川、岩瀬勢は、このそれぞれの侵攻口から斉藤、白岩舘に猛攻を加えます。

田村氏としては伊達の援軍がまだ着陣する前の闘いで、実に危うい戦さとなってしまいます。

しかし、斉藤舘を護る総大将斉藤大膳と、白岩舘を護る総大将久我肥前は田村家中一二を争う戦巧者と言われ、ありとあらゆる戦術を使い必死の防衛戦を展開し、さらには勇猛果敢に打って出て、それぞれの総大将めがけて反撃を繰り返します。

これには、須賀川岩瀬の連合勢は、これに攻めあぐね、多数の戦死者を出すという痛手を被って敗退します。


この戦績は、四面楚歌だった三春田村氏の時代の中でも、存亡にかかわる未曽有の危うさから救った輝かしい武功だったと伝えられています。



昭和30年代の広報三春内コラム参照


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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