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憂歌団のリードボーカル 木村充揮ライブ 2024




憂歌団のリードボーカル 木村充揮ライブ 2024


天使のダミ声、健在なり!

熱いビートにエレキをかき鳴らしてシャウトしていました!



ぼちぼちやります ♪

お好きなように楽しんでください~ 







木村充揮が古希・70歳を迎えたライブ、 「70なんかになってもうて(笑)・・・・。でも、70やから80やからというよりも、何ごとも無理せんといこうと思ってますねん♪」



ライブは生きてる時間ちゃうかな。

で、なんのために生きてんのか言うたら、やっぱり楽しみたい。遊びたい。しんどい仕事があっても、そのあと遊べるなあ、楽しいことあるなあ思うたら、頑張れますやん。

しんどいことばっかりやったらなんも意味ない。

そら、しんどいこともありますよ。

でも、そこをどう乗り越えるか。なんべんやってもあかんな思うたり、悔しいな、まだまだやな思うたりもするけど、それがあるから続けられんねん~ 









今年、憂歌団御ベーシスト 花岡献治さんが亡くなり追悼的な意味もあたんだろうと思います。

同じ「憂歌団」のドラマー、島田和夫さんが亡くなってから12年になりますか




内田勘太郎と二人だけになってしまいました。






木村さんのライブを三春で!


私の最も欲するところです。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 03:59 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録::エンターテイメント |
水戸城散策 幕末の水戸藩考




水戸城は、戦国時代後期は「佐竹義宣」の領地だったが、「関ヶ原の戦い」の於いて旗幟不鮮明により、秋田(久保田藩)へ減封の上、転封となります。


その後、徳川家康の五男松平(武田)信吉が15万石で入封しますが、翌年、信吉は21歳で病死。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が新たに20万石で水戸に入封します。





しかし、頼宣は紀州へ移封となり初代紀州藩主となります。
頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男の鶴千代丸(徳川頼房)が下総下妻藩より25万石で入封し、頼房を初代藩主とした御三家水戸徳川家が成立しました。





9代藩主「徳川斉昭」は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田東湖らの人材登用を行うとともに、教育改革についても弘道館を建設して整備を行い、水戸学が藩論に強い影響を与えることになった。しかし、尊王攘夷の考えが極度に傾向のため幕府から疎まれ、長男の「慶篤」に家督を譲って隠居を余儀なくされた。

10代藩主となった「徳川慶篤」は、3連枝(高松藩主松平頼胤、守山藩主松平頼誠、府中藩主松平頼縄)の後見のもとで藩政を担います。
尚、15代将軍「徳川慶喜」は慶篤の実弟であり、御三卿の一つ「一橋家」を継いでから徳川家最後の将軍となります。







幕末の水戸藩は当初尊王攘夷思想の中心として日本各地から志士の歴訪が相次ぎ、幕府の施策にも大きく係わっていたが、安政の大獄以来藩内の抗争が激しくなり、天狗党に代表される尊攘派と諸生党の佐幕派が藩を2分して争った。

藩内では保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争から統制を失い、藩士による「桜田門外の変」や「天狗党の乱」、弘道館戦争を招くとともに、藩論統一と財政難を克服することができませんでした。





幕末明治維新から明治初頭にかけて水戸藩は、陰惨・凄絶、そして最後は醜悪な派閥闘争に明け暮れた藩でしかなかった。
闘争による犠牲者は多く、ために、明治期に政官財界で活躍すべき人材は払底した。






天保10年(1839)の水戸藩家臣団名簿には3,449人の名が記されていたが、慶応4年(1867)には892人に減っていたと記録され、その他、農民、町民などを含めると膨大な数に上ります。







この数字が物語るように、明治初頭まで続いた内ゲバ的殺戮の連鎖はいかに水戸藩内の抗争が激しかったかを物語っています。






水戸藩による『大日本史』の編纂。

水戸黄門でおなじみの水戸藩の2代藩主徳川光圀公は、世子時代の明暦3年(1657)に史局(後の彰考館)を開設して、国史の編纂事業に着手し、以後、水戸藩の編纂局で代々編集が行われていました。

記述内容や編集方針をめぐる幾多の論争を経て、なんと250年余を経た明治39年(1906)に、神武天皇から後小松天皇(南北朝統合が成立したときの天皇)に至る歴史を漢文で叙述した『大日本史』402巻が完成しました。

徳川光圀の史観を反映して、南朝を正統とするなど、従来の史書と記述が異なることでも知られ、幕末の尊皇思想にも影響を与えました。


三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 

| ryuichi | 03:58 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
河童に会いに行ってきました・・遠野郷 2024.6





河童に会いに遠野まで行ってきました。


花巻に所用があり、折角なので定宿としている大沢温泉に宿をとって骨休み・・・







翌日は、遠野迄・・早池峰神社参詣






随身門、額殿、拝殿、本殿
























「遠野物語」 柳田国男の世界です・・・







遠野は、15年ぶりに伺いました。







河童には会えませんでしたが、観光に力を入れている遠野郷に出会えました。










海外からの方や観光の若いカップルなど・・平日にもかかわらずいい感じで来町しています。









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍







| ryuichi | 03:32 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
NHK「小さな旅」総合・毎週日曜 午前8時 2024.6月2日(日) 午前8時~




NHK「小さな旅」総合・毎週日曜 午前8時

2024.6月2日(日) 午前8時~






高野山の麓 野菜農家関連の取材です。






店主夫妻が、高野山奥の院参詣折、宿坊「清淨心院」に宿泊、夕食の際に偶然に遭遇しました・・・・乞うご期待!






高野山を開いた空海のことを“お大師さん”
と呼び、敬って暮らす山麓の人たち。きょうも新たな縁や支えあいを育んでいる。お大師さんとともに生きる山麓の人たちの物語。









広島の現監督 新井 貴浩さんが現役時代より護摩焚き修行をされている寺院です。







お大師さんに招かれたかのような、有難いご縁をいただきました。








三春藩主秋田候各先祖霊、真照寺さん等の御縁でもあるかと思っています。



夫婦そろっての高野山奥之院参詣旅行のいい思い出になりました。


ありがとうございました。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 11:05 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
航空自衛隊百里基地 2024.5



所用があり、成田まで・・・

成田山新勝寺山内「い津美や」さんへ女将さんの儀機嫌伺~と思いましたら何と休み…。


同じ山内でお土産屋の営むおばちゃんが連絡をしてくれて、わざわざ宿泊先の成田山門前若松本店さんまでお土産を届けに来てくれました。

ありがとうございます。








朝一番の護摩祈祷を受けて・・・


先に、阿見にある旧霞ケ浦航空隊・土浦航空隊後にある予科練平和祈念館で海軍の零戦のレプリカを拝見!







日本海軍のエースパイロットを数多く輩出したエリート養成飛行学校












途中にある、香取神宮を参詣

随神門を改修中です。

















そして、茨城空港へ もちろん隣接の航空自衛隊百里基地へ



現代のエースパイロット養成所です。








悠大君と来る為の下見です。








F4ファントムが二機展示されています。









入れ違いで自衛隊機 F16戦闘機が、5機、離陸して洋上での訓練に行ってしまいました。


常連さんらしき方に話を伺うと、40分くらいしたら帰ってきますとのこと・・・








茨城空港のレストアンで食事をしながらしばし帰還待ち・・・














爆音と共に帰って来た!







悠大のお土産もばっちりゲット!


爺バカ万歳!



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍










| ryuichi | 03:05 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
令和6年夏場所 五月両国国技館 人生初の両国大相撲観戦!




両国国技館で大相撲五月場所「夏場所」!なんとその『中日(8日目の日曜日)』に人生初めての大相撲観戦の夢が叶いました!

若いころは大相撲にそれほど興味はありませんでしたが、当店のマスコットボーイの悠大君が力士の豪栄道に似ているということが切っ掛けで、少しずつテレビ観戦をするようになったのでした。






それ以来、今ではこれがハマってしまい、大好きなボクシング以上にテレビに向かって声援を送るようになり、録画しても見るくらいの大相撲の大ファンになってしまい、「いつかは国技館での観戦を!」と願っていたのでした。





 その夢を叶えてくれたサマーサンタは『大波三兄弟応援バスツアー』の手配から道中の飲食のなども含めてすべて完璧に段取りしてくれたのが、大先輩の田中金弥さんでした。



そのサマーサンタに敬意を表して紋付羽織着用の両国国技館コーデで参戦です。

 「升席が取れたので四人で行こう」ということになり、老舗の呉服屋の旦那なども誘いまもなく喜寿とちょい還暦を過ぎた“じっちゃん4人の珍道中”となったわけです。


 両国国技館前に着いたのはちょうど正午でした。


まずは館内に入り、自分たちの升席を確認してから昼食を取るために一時国技館を後にしました。

 少しだけ両国駅周辺を散策したのちに、金弥さんが知っている店に入り、生ビールを呑みながら名物のちゃんこ鍋と海鮮料理を堪能することができました。






食事が終わってから十両の取り組みまでには少し時間があったので、じっちゃん4人はミーハー並みに、国技館脇の力士入場口の前で力士の入り待ち・・・やはりお相撲さんは
大きい!大銀杏を結った力士の凛々しさとその存在感を肌で感じました。






 国技館に再入場すると、中日・日曜日ということもあり、会場は熱気むんむんで応援する歓声もヒートアップしてテレビ観戦とは大違いでした。

この夏場所は横綱はじめ三役以上の力士が5人も不在という今までになかった波乱含みで、郷土力士の筆頭である若元春も怪我で休場してしまい応援することができなかった。 







この『大波三兄弟応援バスツアー』には、文字通り三兄弟のご両親も参加されており、親しくお話をさせていただきました。







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| ryuichi | 03:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
「吉村寅太郎原瘞(げんえい)處」 奈良 吉野郡東吉野村




そういえば、さきの伊勢神宮から高野山へ向かう途中に吉野の山中で「吉村寅太郎原瘞(げんえい)處」をお参りしてきました。

「吉村寅太郎原瘞(げんえい)處」とされる慰霊碑が、大きな岩(残念岩)の前に玉垣に囲まれ安置されていました。

寅太郎はこの大きな岩の裏手にて藤堂藩の手により討たれたといいます。(※自刃とも、銃弾によるとの説があり)







吉村寅太郎は、土佐在高岡郡の代々庄屋を務めた吉村家の惣領息子で、後に土佐脱藩。
 
土佐勤王党四天王の一人と称され、文久2年(1862)3月、長州に脱藩し、主に長州・京都を往来して諸国の勤王の志士たちと交わり、尊王倒幕に傾倒していきます。

 文久3年8月13日、孝明天皇の大和行幸・攘夷親征の詔勅が下ります。

翌14日、同志と共に中山忠光を主将に奉じ、松本圭堂、藤本鉄石、吉村虎太郎が総裁に就き、同じく土佐脱藩那須慎吾らと大和行幸の先がけとなるため京都を出陣。







寅太郎は、後に「天誅組」と呼ばれる統幕集団の総裁の一人として、天誅組を率いて大和で挙兵し17日、大和の五條代官を襲撃します。


しかし、挙兵直後の8月18日、、「七卵の都落ち」に象徴される京都で尊攘派の主だった公卿や長州藩が公武合体派の薩摩藩、会津藩によって追放されるという事件が起こります。世にいう「八月十八日の政変」です。

長州藩や攘夷派公卿や浪士達が失脚し、攘夷親征を目的とした大和行幸は中止。


挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となります 。








京都守護職より天誅組追討の命令が近隣諸藩に出され、吉村は、十津川郷兵一千人余りを募って高取城を攻めたとき追討諸藩の猛攻撃を受け戦闘中に銃傷を受け敗走します。

敗走した残党狩りの追討探索が厳しくなり、27日早朝、鷲家と鷲家口の村境の籠屋畑にある薪小屋に潜んでいるところを発見されて、藤堂兵の銃撃にあい無念の最期をとげます。享年27歳
 






 辞世「吉野山風に乱るゝもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙とみよ」








明治16年(1883年)5月、靖国神社合祀。


明治24年(1891年)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られ、後に「土佐四天王」と称されることになる。


「吉村寅太郎原瘞(げんえい)處」案内板参照




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| ryuichi | 03:57 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |