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小布施訪問と野沢温泉外湯めぐり 温泉三昧!




所用があり、北陸まで行きましたので、折角ですから野沢温泉で外湯めぐりをしようかと、足を延ばしました。


途中、最寄りのインター近くの道の駅で「小布施町」のパンフレットを見かけまして、店員さんに所要時間を聞きますと隣町なので15分も掛からないんじゃないかということでまずは小布施の栗菓子屋「小布施堂」さんへ・・・






ここは約40年前に三春経営塾4班で視察研修に行った場所です。






街並み修景事業にて、北斎館の建設や小布施堂や信用金庫などの街並みを形成する修景事業の手本となった場所でした。





北斎館一帯の町並み修景が行われたのが、1982(昭和57)年。

地権者である小布施堂、信用金庫、高井鴻山の隠宅を持つ行政、そこに住む個人が共同し、「群居の姿勢」で創り上げたました。








北斎館開館を契機とした修景事業により、年間約120万人もの観光客が訪れる小布施町。



約40年前の「町並修景事業」開始時から、地域住民のまちづくりへの意識がかなり高く、画一的な都市開発の手法とは異なり、「小布施方式」といわれ全国的にも高い評価を受けるまちづくりを行ってきました。


そして、今、新たに動き出しているのが、人と車が共存できる道にしたいと町の基幹道路である国道403号の新しい道づくり。





小布施堂の界隈は、80年代に行われた「町並み修景事業」によって再構築されました。

味わい深く美しい町並みで、毎年多くの方が訪れます。






小布施堂の各店舗でのお買い物やお食事はもちろん、笹庭のベンチで休んだり、古い蔵や屋根瓦など眺めながらゆっくりと散策するのもおすすめです。







以前、研修の中でお話を伺った株式会社小布施堂代表取締役、北斎館理事長の市村次夫さんは、私たちへの講話でこう話されていました。

「人々の快適な暮らしが小布施の象徴的な空間をつくる」「町並み修景」というアイデアの根底には、主役はあくまでも住人であるという考え方です。






40年ぶりに伺って、「外はみんなのもの、内は自分のもの。暮らす人々にとっての日常が美しく幸せだからこそ魅力ある町が形成される」ということを再認識させられました。






とことん北斎にこだわった北斎館 


天保13年(1842)、北斎は83歳の頃に初めて信州小布施を訪れました。そのきっかけは、幕府による天保の改革によって江戸では絵の制作が制限されたとも、地元の豪農・豪商の高井鴻山(1806-1883)の招きに応じて訪れたとも、さまざまな説があります。

碧漪軒(へきいけん)
小布施では、鴻山の庇護を受け、アトリエというべき碧漪軒(へきいけん)を与えられました。二人の関係は「先生」「旦那様」と呼ぶほど親密なものでした。非常に恵まれた環境の中で、北斎は大作を残します。






    
嘉永2年(1849)、北斎は数え90歳。

この頃の北斎は、浅草聖天町(しょうでんちょう)、現・台東区浅草6丁目にある、遍照院(へんじょういん)という浅草寺の支院の境内にあった狭い借り長屋に住んでいました。

「天我をして十年の命を長ふせしめはといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめは、真正の画工となるを得へし」 葛飾北斎


自分の死を迎えるに床で、北斎は悔しそうにこの言葉を残したと云います。


「あと10年、せめて5年長生きできたら、本当の画工になることが出来たのになぁ~」と・・・・


生涯現役の究極の境地ですね


北斎は、亡くなる3ヶ月半前まで、大作を手掛けていたと伝わっています。

しかし北斎はこれでも描き足りるということはなく、もっともっと絵を描きたいと思っていたことでしょう。


辞世の句は 「ひと魂で ゆく気散(きさん)じや 夏の原」 九十老人卍

絵師の道を追求し続けた北斎が、死んだ後は人魂[ひとだま]となって夏の草原をのびのびと飛んでゆこうと詠んでいます。

北斎のお墓は、誓教寺(東京都台東区元浅草4-6-9)にあります。







そして野沢温泉で温泉三昧!


外湯めぐりは13の湯屋があるそうです。


地域の管理組合が管理していて基本的には無料です。


御賽銭的な感覚で、50円から100円程度の寸志を賽銭箱に入れてはいります。
















それぞれ趣のある湯屋ですが、とにかく熱い!熊の手という湯以外はや大変です。


中にはやけどしそうなくらいのところもありますが、とにかく水をガンガン入れて、ぬるめて入ってくださいとのことです。



人を引き寄せる魅力あるまりとは何かということを再度認識させられました。



三春城下御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
令和8年 大相撲五月場所「夏場所」両国国技館 観戦ツアー!




令和8年 大相撲五月場所「夏場所」両国国技館 観戦ツアー!


昨年同様、金弥大先輩のエスコートで両国国技館 大相撲夏場所に行って来ました。

今回は、火曜日に日程を合わせていただき、女房もつれての観戦です。






相撲、浅草、両国 大江戸博物館など等々、金弥先生の引率のお陰で、中身の濃い、そして本当に楽しい大人の修学旅行を満喫することが出来ました。

金弥さんならではの手配と気配りに、ツアーもそうですが、そのお人柄に溢れた本当に楽しい大相撲観戦でした。

女房も大変喜んでおり、次回を期待しているところです!







若いころは大相撲にそれほど興味はありませんでしたが、当店のマスコットボーイの悠大君が力士の豪栄道に似ているということが切っ掛けで、少しずつテレビ観戦をするようになったのでした。







それ以来、今ではこれがハマってしまい、大好きなボクシング以上にテレビに向かって声援を送るようになり、ラジオでも聞くような大相撲の大ファンになってしまい、「いつかは国技館での観戦を!」と願っていたのでした。







大江戸博物館 






ちゃんこも食べて、若元春、ようやく初日が出ました!

若隆景、3連勝!







満員御礼! 

常連のマダムに、チケットの取り方を伝授していただきました。






一回大相撲観戦、しかも本場所の両国で観戦しますと、日常のテレビ観戦やラジオでの放送が一味も二味も違ってくるのが不思議です。








春、そして端午の節句明けの私たち夫婦へのご褒美でした。


ありがとうございました。








三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍







尚、両国界隈には見どころがたくさんあります。







赤穂浪士の討ち入り忠臣蔵で有名な、本所松坂町の吉良邸跡 (墨田区両国本所松坂町公園)もその一つです。


両国国技館から歩いて10分くらいのところにあります。


この吉良上野介義央の屋敷は、テレビや映画でもご存じのようにとても広大で、坪数2,550坪(約8,400㎡)と記録されています。

吉良上野介が、幕臣松平登之助(一説では旗本退屈男のモデルとして有名な松平近藤登之介)の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。


吉良上野介の屋敷は、はじめ鍛冶橋の屋敷を拝領していましたが、刃傷事件のあと、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、周囲の大名屋敷から苦情が幕閣へ提出されたと伝わっていますが、芝居のストーリーとの兼ね合いで定かではありません。

しかし、元禄十四年八月御用地として鍛冶橋屋敷を幕府に召し上げられ、一時、実施である上杉弾正大弼の米座は藩江戸屋敷に身を寄せ、その後、同年九月、ここ本所松坂町の松平登之助の屋敷を拝領し移り住みました。






説明文を観ますと、本所松坂町公園は昭和9年に地元両国三丁目町会有志が発起人となって邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入、同年3月の東京都に寄付されました。




 



| ryuichi | 04:25 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録::エンターテイメント |
上杉領会津 幻の神指城 上杉景勝と直江兼続 城下造りの夢





天正17年(1589)7月、伊達政宗は三春田村氏と共に、”摺上原の戦い”で会津の蘆名義広勢を撃破し、念願の会津領を手中にします。

しかし、天正15年(1587)に豊臣秀吉が発令した「惣無事令」を無視する行動であったため、天正18年(1590)の奥州仕置きで政宗は会津の所領を没収されました。

その後、秀吉の命令により会津領を三春領など飛び地も併せて92万石で蒲生氏郷が拝領しますが、文禄4年(1595年)2月7日、氏郷は40歳の若さで病死してしまいます。

後を嫡子・秀行が継ぎましたが、お家騒動から宇都宮12万石へ減封されてしまいます。

太閤秀吉は、上杉景勝を会津へ移封することを決めます。

豊臣政権下では五大老の1人を務め、越後46万石、従三位中納言の位にあった景勝は、慶長3年(1598年)、石高120万石に破格の加増をされ会津入りをします。


これで石高は豊臣政権下では徳川、毛利に次ぐ3番目の席となり、以後「会津中納言」と呼ばれました。







慶長3年(1598年)8月、死を悟った秀吉は、五大老筆頭で内大臣・徳川家康に対して秀頼の後見と政務代行を依頼しますが、同時に五大老宛てにも遺言書を記し、8月18日、太閤秀吉はその生涯を終えました。


豊臣秀吉の死後、従二位・内大臣の家康が官位で最高位になり、秀吉からの遺言を無視、生前の秀吉より禁止された、五大老・五奉行の合意を得ない大名家同士の婚姻を強行、しかも婚約した娘は、全て家康の娘や養女であったことから、石田三成が反発し家康と度々対立、大納言・前田利家が仲裁に乗り出す騒ぎとなります。


このことは、当然、石田三成から直江兼続へと知らされ上杉景勝の知るところとなります。

慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命じ、3月になると会津若松城(鶴ヶ城)が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指原(こうざしばら)に新城(神指城・こうざしじょう)の築城を直江兼続に命じます。


この景勝の動向は、「上杉の戦準備」として、近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって逐一家康に報告されていました。

また、慶長5年3月11日、内府家康と景勝の関係の修復に努めていた上杉家臣の藤田信吉が上杉家から追放されます。

4月、家康から景勝に上洛するように命令が下されますが、これを拒否、この際、兼続による挑発的な返答とされる所謂」「直江状」が家康の会津征伐を煽ったとされます。

一説には、これは予てから石田三成と直江兼続が相談し家康を遠国である会津に釘付けにしている間に、三成が背後から家康を挟み撃ちにするという作戦だったとも、また、直江状そのものがなかったとも言われていますが、事実、家康は自ら大軍を率いて会津征伐へと出陣しています。

それに伴い奥州の徳川派の諸将も臨戦態勢に入ります。






一早く伊達勢は上杉領に突入し白石城を占領、最上義光もまた豊臣秀次事件で理不尽にも連座させられ命を落とした 娘・駒姫の件を大いに恨み、家康の命にしたがいます。

一方、家康出陣の報を聞いた景勝は神指城の突貫工事を命じますが、6月になると普請を中断して各街道へ徳川の軍勢の迎撃対応にあたります。
これにより神指城は完成を見ることなく幻の城となりました。

この隙をついて7月、石田三成らが挙兵、一報を聞いた家康は、下野・小山で「小山評定」を開き、その結果、宇都宮に次男・結城秀康を上杉対応に配置し、四男・松平忠吉を総大将に任命し西へと反転していきました。


上杉景勝と直江兼続が築こうとした会津の新城・神指城hは、縄張りを見る限り、軍事目的のみで築かれたものではなく、明らかに阿賀野川の河川交通を意識したもので、景勝はそこに新たな経済効果を狙った城下町を築くつもりであったことが近年の調査で明らかになってきたと思います。。






尚、たれれば派禁物でしょうが、もし完成していれば会津若松城(鶴ヶ城)の2倍の規模で、東日本最大の城となっていたと言われます。


三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:42 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
、会津に湯治に行って来ました。




連休明けの代休を利用して、会津に湯治に行って来ました。


三島のつるの湯で温泉三昧






食事処が今年四月で無くなってしまいました







というわけではありませんが、宿泊は会津東山温泉「御宿東鳳」orix







天寧寺 近藤勇墓所






松平家榮域(墓所)






鶴ヶ城

ゆっくりと温泉につかって、美味しいものを食べて~ 



良い休日でした。



また頑張れます!







三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 03:52 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
鎌倉・江の島散策 




40年ぶりの鎌倉散策です。

塵壺に茅ケ崎の洋菓子修行時代のことを記載したせいでしょう、行きたくなりました。






鶴岡八幡宮


台承 4年 (1180年)石橋山での挙兵後、鎌倉に入った源頼朝が居館を新築しこの付近に幕府を聞いたことから大倉幕府の探索がしたくて~

嘉禄元年(1225年)の焼失で幕府が若宮大路東側に移転されるまで、鎌倉の中枢であり、周囲には執政期間の政所が置かれ多くの御家人・被官の屋敷地などもあったと推定される場所を横目に、まずは八幡様参詣!





 鶴岡八幡宮参道石段の大銀杏は、1219(建保7)年1月、鎌倉殿 幕府三代将軍源実朝が僧侶の公暁(くぎょう)に暗殺された際、公暁が潜んでいた「隠れ銀杏」とも呼ばれる。



戦乱によって多くの人々が命を落とした鎌倉には、鬼気迫るような霊気を感じる土地が少なくないと伺ったことがあります。

鎌倉の幕府末期、北条一門800余名が自害した「腹切やぐら」もその一つでしょう。

東勝寺は、北条泰時の時に創建された寺で、石垣を築いて砦のような構造になっていたと伝わっています。


元弘3年(1333)5月、新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め込みます。

元執権職北条高時は、手勢を率いて北条家の墓所である東勝寺に退却し、体勢を立て直してここで新田の軍勢を防ぐつもりでしたが、新田勢の勢いに打ち負かされなすすべもなく一族郎党と共にこの場所で自害します。

鎌倉市中で戦っていた北条勢も、この地に退却し高時に倣いここで自害、その数800余名。

寺には火がかけられ鎌倉殿はここに滅亡しました。






北鎌倉 建長寺

建長寺は、鎌倉殿 幕府第5代執権・北条時頼が創建した日本初の本格的な禅道場。

中国・南宋から招聘された禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が初代住職を務め、臨済宗建長寺派の大本山として、鎌倉五山の第1位に位置付けられています。



建長寺門前 点心庵






建長寺の名前に由来するけんちん汁だ食せます。




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円相窓と店内の坐禅堂







鎌倉といえば、映画「鎌倉ものがたり」のスタッフさんから依頼があり、三春昭進堂で製作しました。

この世には無い饅頭がコンセプト、名付けて”黄泉国茶屋特製火の玉饅頭!”です。

我が三春も”東北の鎌倉”と呼ばれた小さな城下町です。

鎌倉と名前が付いた映画の協力を三春の小さな饅頭屋が手掛けるというのも何かの御縁なのでしょう・・・

映画を見たら気をつけて見て下さいね!乞うご期待(^.^)
















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仮粧坂 (けわいさか)経由・・・





化粧坂切通し(けわいざか・化粧坂・仮粧坂とも記される)と言われ、鎌倉と外界との主要な出入り口として、鎌倉七切通しの一つとして知られています。

名の由来は、平家の武将の首を化粧して首実検したからであるとか、この辺に遊女が住んでいたからと諸説あrり、想像力を掻き立てられる名前の坂です。


また、初めて通り抜けましたのですが、子供の頃より幾度も夢に出てきた光景が広がっており正直驚いています。

初めてなのに、なぜか懐かしく、はっきりとその光景が幾重にも重なって目の前に現れています。

不思議です…






鎌倉トレッキングです・・







三春の化粧坂とは大違いですね






そして、たどり着いたのが銭洗い弁財天宇賀福神社


源頼朝が夢のお告げで創建したと伝わる神社。







鎌倉の銭洗弁財天宇賀福神社は通称 銭洗弁天と呼ばれ、お金を洗うと金運が上がると云われています







高徳院(鎌倉大仏)  鎌倉の大佛さま 







中井喜一さんとキョンキョンのドラマロケ地







観たことだある方もいらっしゃるはず ♪






鎌倉権五郎景政 力持餅屋


この佇まい~良いですね。


鎌倉権五郎は、平安時代後期の相模国鎌倉を本拠とした坂東平家の武将です。

鎌倉 景正(かまくら かげまさ/平 景正(たいら の かげまさ))と言い、名は景政とも書く。通称は権五郎。

桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族で、源頼義・義家父子のもとで、奥州で起きた「後三年の役(1083年〜1087年)」で活躍した。とりわけ有名なのは、十七歳の若さで出陣した黄海の戦いにおいて、敵方の矢を右目に受けながらも退かず、武勇を示した逸話が残り、その豪胆さと忠節は武士の鑑として語り継がれ、武勇伝説とともに各地で崇敬の対象となっています。

鎌倉を中心に活躍した景政は、一帯の開拓者としても重要な役割を果たしました。

伊勢神宮に大庭御厨(おおばのみくりや)を寄進するなど、地域の開発に尽力したことが伝えられています。


尚、後三年の役関連でしょう、三春郊外鷹巣の石の宮様にもこの鎌倉権五郎景政が祀られています。







そして、40余年前の茅ケ崎時代にお世話になった小倉先輩と横浜で会食


これも不思議なご縁で、誕生日が同じ1月20日 丸々1年上の先輩です。



実は、朝一番で、逗子マリーナに向かい先輩を驚かそうとおもったら、先輩の別荘マンションは油壷マリーナでした。




連絡を取ったら、迎えに来ていただいてそのまま横浜中華街で40余年ぶりの食事



少し前に突然三春昭進堂へ来店されたときには驚きました。


今度は私の方が・・・と思ったんですが、リサーチ不足でした・残念!



40余年前と同じく、鎌倉から朝比奈インターを通って横浜へ

中華街で食事して、ホテルのバーで一献!


場所もそうですが、会った瞬間に18.19のことに戻ったみたいで、本当に楽しい時間でした。






中華街で食事をして、みなとみらいの海に浮かぶヨットの帆をイメージした「ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル」のバーでもう一献、先輩ありがとうございます😊


商売の話、生き方の話、人材教育の話等々、スキルアップのために勉強になるいいお話が聞けて、勉強になりました

本当に楽しい時間でした。

次回また横浜で〜 


みなとみらいのロープウェイには驚きでした♪ 

近未来の都市空間が広がっていました。 三春出身の大高正人先生も基本計画に参画していたと聞いています






翌朝は、江ノ電乗って江の島へ






母が、7人姉弟の二番目、そして母以外はみな男、七男一女の姉弟ということで実家の姉弟や親戚には弁天様と呼ばれていました。

母に逢うような心持で、江の島へ






富士見亭で直会 窓の外には富士山が見えています







充実した鎌倉、江の島散策でした。


小倉先輩、改めて御礼申し上げます。









三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍











| ryuichi | 03:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
江戸花見漫遊記 2026.3.24




先の出張の際に、折角ですので江戸花見漫遊と称して、花見客でにぎわう上野浅草界隈を堪能してまいりました。






カッパ橋道具街で買い物を済ませて、浅草寺や浅草神社、浅草演芸ホールで寄席見物







宮本卯之助商店へご挨拶・・・






浅草寺は毎日がお祭りみたいなもんですね






浅草神社






ビートたけしさんの『浅草キッド』に登場する「仲見世の煮込みしかないくじら屋」のモデル『捕鯨船』浅草に行った際は顔を出していますが、かれこれ40有余年。






いつ来ても、気さくな大将から浅草の人情が伝わります。






「缶詰めやったっけ~?」と自分の顔写真入りのクジラの缶詰をお土産にいただきました。







チョット銭湯で、一風呂!








千束は、「曙湯」で江戸の銭湯を満喫していますと、嘗てのお祭り仲間に再会!



最近の三社祭神輿事情を拝聴・・・




凌雲閣址の看板を発見!

東京の凌雲閣は、浅草公園に建てられた12階建ての展望塔。

1890年(明治23年)竣工。当時の日本で最も高い建築物であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で半壊し、解体された。

浅草に建てられたことから「浅草十二階」と呼ばれていました。   説明版より







池之端弁財天、宇賀神様に「商売繁盛祈願」 この日はちょうど一粒万倍日!







上野の花見







上野東照宮参道で一献






夜桜見物






西郷さんもご機嫌な様子








日帰りでしたが十分に江戸情緒を堪能して英気を養うことが出来ました。



さあ、三春城下も、花見商戦の始まりです!










三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:25 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録::東京散歩 |
東松島道の駅 ブルーインパルスVR搭乗体験!




東松島道の駅 ブルーインパルスVR搭乗体験!


所用があり、松島に来たもので~ 航空自衛隊松島基地 ブルーインパルスファンの聖地へ表敬訪問






一回5分間、300円のブルーインパルス編隊飛行搭乗!


2コース制は! 最高です






気分は航空隊教導隊の一員 陸軍の鉾田か?海軍の土浦か? ってなもんです。







この道の駅からは松島基地が一望できます






飛行少年のここをを鷲つかみ!






ブルーインパルスの名前を冠した商品がずらり~ うどんに、漬物、バター最中に、クッキー、そしてビールに日本酒、せんべいもあります。







落語家の瀧川鯉昇師匠のマクラに、東京オリンピック前夜にふるさと浜松でブルーインパルスの飛行訓練を観ていたとのこと。

当時、小学生だった鯉昇少年たちクラス方々は、先生から将来のことに聞かれて、口々に「編隊飛行をしてみたい!」と答えていたそうです。

それから40余年、先のクラス会ですのことが話題になり、当時のクラスメートで二人が「変体!非行!」して刑務所に入っている~

お後がよろしいようで~






三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 03:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |