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塵壺402号 「拝啓、御春輩(みはるのともがら)殿!」 令和7年1月吉日




塵壺402号 「拝啓、御春輩(みはるのともがら)殿!」 令和7年1月吉日


 ご縁があり、中田町郷土史研究会様の歴史講座で話をする機会の恵まれました。

御春輩とは、室町時代、南北朝時代の戦国乱世の混乱期に於いて独立自尊を貫いた田村地方の国人武士団の総称です。

今回は、その末裔の方々の前での講座ですので、何か忘れては大変だと、今まで発行した塵壺から関連している項目を洗い出し、新たに調べ上げた部分を加筆等して再構成して歴史講座に臨みました。

「照顧却下」という禅の教えがありますが、還暦を迎えた今年に先祖伝来の御春輩中田の郷を調べることは“自分自身を顧みる”ということになるんだろうと思います。

私の祖母が柳橋出身ということもあり、三春城下新町からは、根本を抜けて牛縊本郷、黒木、駒板、中津川、そして柳橋へと、子供のころより通いなれた場所です。

 今回、改めて中世田村の武士集団「御春輩」や「田村庄司田村氏」、そして「平姓三春田村氏」に向き合うべく、中田各地にある寺社仏閣や名所旧跡などをせっせと巡り、参詣に際し、ご挨拶とご縁の感謝を申し上げて講座開催の報告と完遂を祈念してきました。








 各々の郷を代表するような立派な社殿は、よく清掃整備されており、その維持運営管理に奉仕されている方々の郷土愛ともいうべき使命感と団結力に敬意を表して参りました。
すると一気に時代が戦国時代に遡り、戦国武者のご先祖様から「手を抜いたら承知せぬぞ、陣触れじゃ、いざ出陣!」と下知(げち)を受けている様で、気を引き締めて取り組む覚悟が出来ました。

 三春田村氏の資料は「片倉家文書」「田母神氏旧記」や「伊達天正日記」など仙台藩の文書や一関田村家関連の文書がありますが、三春城下には田村氏の改易や菩提寺などの火災等で紛失し資料が少ないという実情がありました。

 そこで、今回の歴史講座の中で、田村旧臣の末裔となる会員の方々に歴史的な文献や口伝が少しでも残っていれば拝聴したいと考えていましたが、やはり郷土に残る様々な話を伺うことが出来ました。






 牛縊本郷には、田村清顕の後を継いだ田村宗顕(清顕の弟氏顕の子)が田村氏改易後に伊達氏仕置きを不服として名前を牛縊定廣(うしくびりさだひろ)に改名したという由来の館主牛縊壱岐五郎衛門の牛縊舘。





黒木鎮守 菅布禰神社 


 黒木郷には、南朝の将軍北畠顕家の家臣伝説の残る三春田村氏旗本近習衆黒木舘主黒木信濃守(与力五騎・鉄砲五丁)黒木舘跡。






 中津川郷には、今から600年位前の応永十一年(1413年)の「応永仙道国人一揆」に記載のある中津川三河守秀清の末裔、中津川城主千々代丸の中津川衆など中世の田村家に重要な役割を果たした武将もいました。






郷社下枝鎮守 菅布祢神社 





 下枝郷の旧郷社菅布禰神社は、延暦年間に伊勢鈴鹿に鎮座する「椿大神社」の御分霊を祀った由緒ある社で、正保年間に三春藩秋田氏初代藩主秋田俊季公が龍神鎮撫のために奉納した「双龍之旗」二簱、安永二年、藩公秋田千季(倩季)の奉納懸額、また東方御舘山城主橋本刑部少輔(南朝の忠臣橋本正茂が後裔)の武具が残ると伝わっています。

 上石郷には「上石の不動桜」がありますが、このお不動様のお堂は、幕末のころに上石に移り住んだ三春藩士が寺子屋として使用し、子弟の教育をしたと伝えられています。

赤沼郷には「鴛鴦」の伝説と、城下新町の州傳寺御本尊「阿弥陀如来坐像」丈六佛の由来が伝わっています。

 高倉郷には、田村麻呂由来の大元神社、高倉城主今泉山城守(橋本氏)与力五十騎舘跡が残り、





海老根鎮守 菅布祢神社 (旧菅布祢大明神)


海老根和紙「秋蛍」で有名な海老根郷には伊達藩家老となった古内氏と仙台竹駒神社由来。





 駒板郷には、観音山常林寺山内にある水月観音堂の木造観音菩薩半跏像(水月観音)があります。





 木目沢郷には、「月一統」の主力である木目沢舘主の木目沢善五郎顕継がいました。尚、木目沢氏末裔となる木目沢の木目沢家に残る古絵図や古文書、そして故木目沢傳十郎氏の口伝は、田村地方に現存する田村氏関連の資料として大変貴重なものです。

 そして、柳橋はなんといっても「柳橋歌舞伎」。

江戸時代は幕府直轄の天領で隣接の守山藩同様、代官差配の為に、音曲の規制が穏やかで、芸能が盛んに行われたと伝わっています。

 この中田町をはじめ旧三春藩領には、それぞれの地域ごとの歴史や特色のある寺社仏閣などがあります。郷土の自然や歴史、伝統文化、先人の業績などに対する理解を深めて子孫に伝えていくことで、“郷土の誇り”と“心のよりどころ”になっているのだと思います。


    蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい、田村庄!「えい、えい、おう!


| ryuichi | 03:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺401号 春陽ノ郷 「三春花の丘」 三春楽しい地域づくりの会  令和6年12月吉日発行




 塵壺401号 春陽ノ郷 「三春花の丘」 三春楽しい地域づくりの会  令和6年12月吉日発行

三春町にご縁のある首都圏を中心とした県外在住者の会「三春舞鶴会」(八木沼今朝蔵会長・過足出身)。活動としては、年2回発行している会員向け機関紙「三春舞鶴通信」(菅野吉雄編集長・常葉出身)に於いて会員や三春在住の方の寄稿によって会員同士の情報交換や親睦を図り、三春のホットな話題も提供しています。


さらには、年1回開催される総会に於いて来賓として三春町長はじめ主だった役職の方々にご臨席を賜って今の三春の現状を伺ったりして交流を深めています。
先ごろ、東京麹町に於いて三春舞鶴会第13回総会があり、私も三春在住の三春舞鶴会幹事として出席しました。






総会での八木沼会長の挨拶では、今春に春爛漫の三春へご友人を招待した際に「本当に良い町ですね」との言葉をいただいたこと。そして、パリ・パラリンピックの車いすラグビーで、初の金メダルを獲得した日本代表の橋本勝也選手のこと。さらにもう一つ『てっぺんの向こうにあなたがいる』と題して三春出身の登山家田部井淳子さんの生涯を吉永小百合さん主演で映画化されるなど、郷土
三春に関する話題を話され、臨席された会員の皆様も大変喜んでいました。







懇親会では三春町長はじめご来賓の方々のそれぞれの立場から現状紹介や三春甚句などが披露され盛り上がっていました。

また、会員の三春町(旧御木沢村)出身の洋画家後藤茂樹先生より、当会の關マサ副会長(会計)へ絵画「富士山」の寄贈式、そして臨席された方々へ手書きの絵ハガキの贈呈がありました。

日本洋画界を代表する画家で齢90を超えても尚、創作意欲みなぎる生涯現役の洋画家の後藤先生から「三春に生かされている」との御言葉に皆さん感動されていました。

後藤茂樹先生のプロフィール。

1931年生まれ、陶芸、水墨画、油絵を学びます。フランス ル・サロン展:銅賞(1978年)や国際大賞を受賞するなど、国際的に活躍する世界洋画界の第一人者です。
そして三春町文化功労賞(1981年)も受賞されています。






総会には、三春からも来賓として三春町長はじめ多数の参加をいただきましたが、その三春からの出席者の一人で、NPO法人「三春楽しい地域づくりの会」(内藤忠会長)の副会長で「三春花の丘」実行委員の城下荒町光善寺(浄土真宗本願寺派)の井上広志住職と後日、今後の三春舞鶴会と三春の具体的な交流やその方法などについて話をする機会がありました。


その中で、江戸時代の相馬中村藩への越中富山から浄土真宗門徒が多数移住した話を伺いました。天明3(1783)年、「天明の飢饉」が発生して数年に亘る飢饉と疫病で相馬藩では多くの人が死亡、さらに逃散・失踪者も多く出しました。その結果、何十年もの間、人手不足で農地が荒廃していました。

その復興策として、時の相馬藩の殿様が江戸城登城の際、控えの間が同じ北陸富山の砺波藩の殿様に人口減の話をしたところ、仏の教えから間引きの悪習のない北陸の真宗門徒の村は人口過多でしたので真宗門徒の村ごとの移住を快諾したと聞きました。






移民の真宗門徒の方々は、相馬藩の「入り百姓」の政策として、年貢の軽減などで優遇されたこともあり、北陸各地からの移住民は最終的には1万人前後になり開墾新田も石高3万石余りが計上されています。


さて、井上和尚が実行委員を務める「三春花の丘」公園計画は、城下の中心部の紫雲寺山散策路の一帯で、臥牛丘、刑部舘跡と称される丘で行われている植樹事業で、未来へつなげる郷土の美しい景観づくりの一環となっており、地域住民の皆さんとともに長期的に植栽に取り組みながら「三春花の丘」の整備と完成を目指しています。

井上和尚は「紫雲寺散策路は、今は何もない丘です。この先、何年先になるかはわかりませんが、三春小学校、御木沢小学校の児童や三春中学校、田村高校の生徒たちが植樹した桜、花桃、レンギョウ等々の苗木がいつか立派に生長し、何もないこの丘をやがては三春の名所として三春町民の憩う場に、そして訪れる者の心を癒やし、和ませる、美しい三春花の丘へと変えてくれることでしょう」と話されていました。






蒼龍謹白   さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺400号 「御北御前(おきたごぜん)三春城主田村清顕正室」 令和6年11月吉日発行



塵壺400号 「御北御前(おきたごぜん)三春城主田村清顕正室」 令和6年11月吉日発行


三春城主田村氏三代清顕公の正室、御北御前(於北、於喜多)は、相馬小高城(現・相馬市小高)城主相馬氏十四代当主相馬顕胤(あきたね)公の娘で、天文18年(1549)に三春城下へ輿入れしてきました。

後に米沢城主伊達氏十七代当主伊達政宗公(仙台藩初代藩主)の正室となった愛姫(陽徳院)の母です。

御北御前の婚姻に際して、花嫁於北姫の衣装やお化粧道具の費用、そして相馬家から守役として付いてくる侍女達の賄い料として、相馬領の古道村、岩井沢村、葛尾村、南津島村の4ケ村が田村領へ編入したとされ田村家と相馬家の結びつきの深さを今に伝えています。

さらに御輿入れの逸話として、後の三春城下新町末旧岩城海道庚申坂口に残る「化粧坂」の名称由来となる化粧清水には、この御北御前が城下に入る際に、この清水を使って化粧を直したことからこの名がついたとも伝わっています。


 初代田村義顕公の正妻は、磐城大館城(現・いわき市内郷・好間)城主岩城氏十七代当主岩城常隆公の娘、二代隆顕公の正妻小宰相は梁川城(現・伊達市)、西山城(現・桑折町)城主伊達氏十四代当主伊達植宗(正宗の曾祖父)公の娘、そして三代清顕公の正室が相馬家から、さらにその娘愛姫が伊達政宗へと嫁ぎ、三春田村家三代当主の婚姻はそれぞれの時期の仙道(南奥州)地域の利害関係の構図が如実に表されています。


御北御前は、後の立ち振る舞いから推察するに大変に勝ち気で気丈な性格と見受けられますが、姑となる伊達家出身の小宰相とは単に嫁と姑の関係以上に、里(出身)である相馬家と伊達家の戦略的な外交関係がそのままに投影されていたようで、二人の険悪な関係が見て取れる伊達家への手紙なども残っています。

天正14年(1586年)、城主田村清顕が没すると跡目を巡るお家騒動が発生し、争いとなります。清顕公と御北御前の夫婦には一人娘の愛姫以外には子がいなかったので後継者問題があり、家中は、筆頭宿老田村宮内入道頼顕(月斎)を中心とする「月一統」が後押しする伊達派と、小野城主の田村梅雪斎顕盛を中心とする相馬派の御家騒動に発展します。


御北御前は、主君(清顕公)没後は出家したものの、混沌とする戦国期の仙道に於いて主亡き後の田村家を案じて“田村ノ後室”として実権を握って田村家中の陣頭指揮を執り、田村家宿老重臣を掌握しながら実家である相馬家と愛姫の嫁ぎ先の伊達家との均衡を保ってこの混乱を切り抜けようと苦心します。

天正16(1588)年には、田村家中の相馬派は家中掌握のため、甥の相馬家当主相馬義胤(そうまよしたね)が手勢を引き連れて強硬に三春城入場を企てますが、伊達派の田村月斎や重臣橋本刑部顕徳らの指揮する直属の宿直田村不断衆が撃退して撤退させます。


結果的には、相馬派の盟主とされる御北御前を船引舘へ更迭して、伊達政宗が三春城に入城すると、田村月斎や田村梅雪斎など田村家の重臣と協議して田村領の仕置を行い、田村清顕の弟田村氏顕の子である田村宗顕(孫七郎顕季、後に牛縊定顕)を後継と定めて田村家の当主とします。

そして、田村家中の相馬勢力の相馬派38名は小野保領小野城へと撤退させます。

御北御前が居住した船引舘(城)(現舘山公園)は、田村四十八舘の一つで、時の三春城主三春田村初代義顕公二男の田村起雲斎憲顕(のりあき)によって築かれました。

相馬義胤が三春城入城から撤退した際には、相馬勢は相馬派の田村清康(憲顕の子)が城主だった船引城に籠城しますが、伊達勢に攻められて敗走します。

その後、政宗の裁断により御北御前を船引舘へ隠居させて、清康を船引城から退去させます。








船引、片曽根山麓には「御前池伝説」の逸話が残っています。

史実から御前とは御北御前を指していると考えられます。

三春田村家の内乱により三春城から船引城へ追われたことを嘆き悲しみ、田村家の行く末を案じてこの池の身を投げたというものです。


史実では船引城に隠居後、奥羽仕置で相馬中村領の堤谷(堤谷御前の由来)に移り、さらに正宗の招きに応じて仙台城北舘(御北御前の由来)に居住。元和5(1619)年正月21日、仙台城下にて亡くなっています。

法名玉質性金大姉。亡骸は仙台城下金剛寶山輪王寺に埋葬されています。

      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春  拝  









おかげさまで 塵壺400号発行!

平成3年3月に発行して今回で400号となりました。

 これもひとえにお客様からの励ましや誤記載や誤字脱字の修正及び指摘などのご指導ご鞭撻のお陰だと思っております。

衷心より御礼を申し上げます。

 今回400号発行と発行者の店主が、今年還暦を迎えたことを期に製本化することにいたしました。

 詳細は、後の塵壺にてお知らせいたします。

   今後ともよろしくお願いいたします。






三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺399号  令和6年10月号発行 「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」 医学博士 小林克巳 著 




塵壺399号  令和6年10月号発行

「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」 医学博士 小林克巳 著 


旧御木澤村出身の歴史家の伊藤さんより、小林克巳先生の書かれた「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」を頂戴しました。

この小説は、先に三春町交流館「まほら」で公演された「愛姫をもっと知ろう~琵琶と舞とおもしろ講話」というイベントに関連した作品で、伊藤さんは、小林先生の依頼で資料提供と時代考証等をしました。


 小林先生は、経歴が示す通り、病院を経営されている現役の医学博士・医者の傍ら様々な小説を世に送り出しています。






 そして今回は愛姫(めごひめ)・・・

 愛姫の晩年、86歳を迎えた彼女が、夫である伊達政宗の生涯とともに、激動の戦国期を生き抜いた戦国武将の正妻として我が身を静かに振り返るという回想からはじま
ります。


 戦国時代と言えば、猛々しい武士たちの生き様に注目しがちですが、その影には彼らを支える力強くも温かい妻・女性たちの力強い姿があり、その典型を三春田村氏の娘で伊達政宗の“愛姫”法名・陽徳院の視線を通して描いた作品です。


 愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。

 そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。

 このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。

 この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができましたが、伊達家へ嫁いで早々に、愛姫と共に三春から来た世話役の乳母が当時伊達家と敵対していた相馬家家臣の出身だったため相馬家に内通しているのではないかと疑いをかけられ、その乳母のみならず、愛姫の世話役に付いてきた田村家家臣出身の侍女達までも同罪として処罰されてします。







 以来、伊達・田村の安泰とは反比例して政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ、天下人太閤・豊臣秀吉の命で京・聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)に結婚から15年目にして後に越後少将松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。






 さらに、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸と、三男一女に恵まれました。

 豊臣政権下での京に於いて愛姫は、人質とはいえ今でいう外交官的な役割を果たして奥州の政宗に京・畿内の情勢を知らせます。

 徳川政権下では江戸幕府より与えられた江戸城外桜田の仙台藩伊達上屋敷(現・日比谷公園内)に住んでいました。

 政宗は、寛永13年(1636年)年5月、ここで70年の生涯を閉じます。

 そして、愛姫は政宗の死から17年経った承応2年(1653年)1月24日(正宗の月命日)に旅立ちます。享年86。
 
愛姫について瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。

 伊達政宗は、愛姫と共に戦国武将として戦乱の世を駆け抜け、豊臣政権、そして、徳川政権下でも政局を乗り切り伊達家を守り抜きました。

 ※仙台藩上屋敷は、後に江戸城整備や火災などにより、新橋、さらに汐留に屋敷が移転します。






 三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫の意向によって孫にあたる伊達宗良が田村氏を名乗り仙台藩内分分知の分家岩沼藩田村家三万石の大名に、後に一関藩三万石を領し田村氏の名前は幕末まで続きました。






     蒼龍謹白 さすけねえぇぞい、三春!  拝



※新聞折込の塵壺の中で訂正があります。

伊藤勉と記入すべきところを伊藤務と記載してしまいました。

訂正してお詫び申し上げます。


| ryuichi | 03:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺398号  「越中富山の薬売り」 富山藩主と三春藩主




塵壺398号  「越中富山の薬売り」 富山藩主と三春藩主


先日、公私ともにお世話になっている配置薬の有限会社「サンサン」(郡山市)社長の佐久間喜重様(三春町沢石出身)が、春の叙勲で「旭日双光章」を受賞され、その祝賀会にお招きを受けましたのでお祝いを言上したく喜んで出席しました。

その祝宴の席で、佐久間さんの配慮で富山にある有名な製薬会社の会長さんや、医療・薬科の業界新聞社の元主幹、そして、宮城県の配置薬協会の会長さんなどと同席となりました。

薬、配置薬、富山、三春と云えば、「越中富山の薬売り」の起源となった富山藩主と三春藩主の逸話が伝わっており、早速、歴史談義となり歴史好きの私にとって大変有意義な時間を過ごさせていただきました。







元禄3年(1690)歳暮、富山藩2代目藩主前田正甫(まえだ まさとし)公が参勤交代で江戸城に登城の際に、伺候席(控之間)“帝鑑之間(柳之間?)”にいた譜代格(当時)大名三春藩主3代秋田輝季公(当年40才)が腹痛を起こし、そこに居合わせた正甫公が印籠から『反魂旦』(はんごんたん)を取りだし服用させたところたちまち平癒します。
正甫公自身も元来体が病弱だったようで、薬に対する興味が強かったと伝わっています。

そこで、自ら全国の薬を調べた結果、備前岡山藩の藩医・万代常閑(もずじょうかん)がつくった“反魂丹”(はんごんたん)という何にでも(特に腹痛に)効く薬を調合してもらい、肌身離さず持ち歩いていたそうです。

そのやり取りを見ていた諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で『反魂旦』を売り広めてくれるように、各々薬売り道中手形の発行を約して前田公に頼みます。


以来、富山藩は備前岡山藩から藩医万代常閑を招いて城下の御用達薬商人松井屋源右衛門に命じ反魂丹を作らせます。

さらに、領地から出て全国どこでも商売ができる前田公裏書の『他領商売勝手』を発布して「殖産興業」の政策として、富山を寄港地とする北前船を駆使して全国津々浦々に至るまで薬売りの販路拡大を整備して「売薬産業」を奨励しました。








一方の三春藩主3代秋田輝季公は、晩年まで精力的に領国経営・大名賦役を勤めます。

大坂城加番勤務として江戸幕府内では譜代格大名に再任され、遠州吉田大橋(静岡県)の大改修などを請け負います。

また、領内整備では、真照寺山内古四王堂再建、藩社神明宮(三春大神宮)の遷宮、領内総鎮守太元帥明王社(田村大元神社)へ大般若経六百巻を奉献、そして、新田開発の水源として南原之大池の整備など藩運営をしています。


さらに、領内の馬産に力を注ぎ、仙台より良馬を購入して殖産に努め良質な農耕馬の産地として事業を推進し、後にこの駿馬が「三春駒」として全国に名を馳せるようになります。

このようにして藩財政の発展を遂げ、三春藩主歴代最高齢の72歳で生涯を閉じます。

尚、江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田候教方萬金丹」は、三春初代藩主俊季公の実父秋田實季候直伝によると伝えられています。


「越中富山の反魂丹(はんごんたん)♬鼻くそ丸めて萬金丹(まんきんたん)♪」と童唄でも親しまれ、「越中富山の反魂丹」と並んで全国的に有名な伝統薬でもあったことを追記しておきます。


さて、話を越中富山の薬売りに戻します。

この配置販売業が今日まで営々と受け継がれてきたのは薬の効き目はもちろんですが「先用後利」という独自の販売システムのお陰ともいえます。

急に発病する病のために薬を数種類も常備しておくことは困難でしたが、先に常備薬として預け、次回訪問時に使用した分の代金だけを支払うという信用商法であったため利便性が高く、全国の人々に広く受け入れられました。





 



また、何代にも亘る家族構成や使用する薬などのデータを書き記した「懸場帳」を基に、そのお得意先に適した薬の配置が出来るとともに、使用歴に応じて健康アドバイスする専属の薬剤師さんの役割も担っていました。

今回、越中富山の薬売り関係の方々から配置薬の話を拝聴して、どの商売にも生かせるマーケティングの原型がそこにあるということをご教示いただきました。



  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝







きのこ集団Protomass リハビリ公演その2


『さりげないほど、絵になるウエハース』

作.演出:高橋 成知






■公演日時

10/19(土)14:00/19:00

10/20(日)14:00/18:00

o 開場は30分前

o 上演時間は約90分の予定



■公演会場

ATELIERブリコラージュ

〒960-8034 福島県福島市置賜町8-30
カスタムビル2F


■料金
一般2000円学生1000円 小学生以下無料

※当日一律+500円



当店のホームページの表示が時々文字化けするようになっています。更新ボタンを押して再表示していただくと直るんですが、この不具合はホームページの制作ソフトのシステムが古くて今のシステムに会っていないのが原因です。これから新しいシステムに移行する準備を進めているところです。お客さまにはご不便をおかけしますが、もうしばらお待ちくださいますようお願い申し上げます。


| ryuichi | 03:32 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺397号 「明治戊辰役三春藩士烈士碑」 旧三春城本丸跡  令和4年8月吉日発行




塵壺397号 「明治戊辰役三春藩士烈士碑」 旧三春城本丸跡  令和4年8月吉日発行


 暑中見舞い申しあげます。8月に入り、より暑い日が続いております。

熱中症に気を付けて、暑い夏を乗り切りましょう。

 もうすぐお盆ですね。お盆は、ご先祖さまを敬い、供養する行事です。

いうまでもなく、私たちが今ここにいるのは、父母・先祖の存在の「おかげ」があってこそだと思います。

お墓や仏壇、そして、神棚で手を合わせると、不思議とご先祖や亡き人を身近に感じることができるのではないでしょうか。

ご自愛のうえ、心穏やかなお盆をお迎えください。








 そして、終戦記念日。平和の尊さについて考え、感謝する日です。

戊辰戦争、日清・日露戦争を経て、日独戦、太平洋戦争と多くの方々が戦場で斃れ、一般の国民も戦禍に巻き込まれ尊い命を落としました。

 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令「王政復古の大号令」を経て樹立された明治新政府と、これを不服とした旧江戸幕府勢力との内戦で、鳥羽伏見ノ戦、江戸城開城を経て、会津藩追討の為に攻め上がってくる薩長を主体とする新政府軍に恭順するのかという決断を、全国の諸藩が迫られます。






 特に東北の諸藩に於いては、旧幕府勢力の旗頭になってしまった会津藩救済を目的とする奥羽列藩同盟に加盟するのかという差し迫った事情もあり、5万石の小さな三春藩もその対応に苦慮していました。



 三春藩は当初、奥羽越列藩同盟に加盟していましたが、征夷大将軍徳川家自ら政権を投げ出したことで旧幕府側として会津松平家擁護の大義名分が失われます。

 その時代の流れを一早く察知し三春藩閣僚の意を汲んだ河野広胖(河野広中の兄)らの若い藩士たちが、西軍断金隊隊長美正貫一郎の裁量で東山道先鋒総督府参謀の土佐藩板垣退助に会見し、西軍参謀と帰順を工作・和平交渉の末に三春無血開城を果たします。


 戦争を回避し城下を戦禍から守った三春藩の選択は、後の明治という近代国家成立の礎となり、磐前県を経た福島県の発展に大きく寄与します。

 しかし、その陰には大義に殉じた三春人の誇りを貫き尊い犠牲となった武士、そして、農民もいます。この命を賭して三春を守った人たちが居たことを忘れてならな
いと「明治戊辰役三春藩士烈士碑」は、殉難された藩士の名を刻み旧三春城本丸跡に建立されています。


 明治元年七月二十六日、藩論一変し西軍三春入城となったため、奥羽同盟軍事局に派遣されて福島や二本松に滞在中、三春藩離反の嫌疑により東軍の手によって数名の藩士が殉難犠牲となっています。


 三春藩は、三春城無血開城を果たし新政府軍に恭順を示しますが、新政府軍政局より新たな賦役が三春藩に言い渡されます。

 主な賦役には「西軍の食料と馬の準備、軍夫の徴発」「西軍の諸藩の道先案内」「参謀局会計局の世話」(当初・御殿、後に総督が来たため春山新左衛門宅)、「大病院の賄」(西軍のために龍穩院に設置、病院内で死亡した者66~70名)などでした。 

 ※軍資金の供出もあったことでしょう。








 さらに、会津追討に際しては「母成峠・中山口へ兵隊五十人差し出す」ことや、「弾薬運送のための人馬」を命ぜられ、人足達は軍夫として最前線で弾薬を背負い西軍戦闘部隊に付き添って戦場を駆け巡ります。



 三春近辺はもとより領内全域から徴発された人足は、多少の手当はもらえたものの、みな死に物狂いであり実際死亡した者も十教名に及んでいます。

 三春藩の命令で領内各村から招集され、西軍・新政府軍を編成する薩摩藩、土佐藩、佐土原藩などの西軍諸般の輜重隊(荷駄隊)付軍夫として会津藩追討に参加して戦死しています。


後に、西軍に与力した三春藩軍夫の戦死者には旧薩摩藩などから墓所へ慰霊碑墓石が支給され、靖国神社にも合祀されています。

 今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって命を落とされた方々の尊い犠牲と、戦後の辛苦に耐え復興の道を歩んでこられた先人のご努力の上に成り立っています。こうした先人たちへの敬意と感謝を忘れず、すべての犠牲者の方々のご冥福を祈り衷心より哀悼の意を表したいと思います。









     蒼龍謹白  拝 さすけねぇぞい三春!


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塵壺396号 旧三春領内総鎮守太元帥明王社・別当泰平寺(田村大元神社)埋設遺構考 令和6年7月発行




塵壺396号 旧三春領内総鎮守太元帥明王社・別当泰平寺(田村大元神社)埋設遺構考 令和6年7月発行


田村大元神社の祭礼執行役・別火講中に在講中、2泊3日の夏季例大祭・御籠(おこもり)や、正月別火講祭の後片付けの際に境内を探索して明治維新廃仏毀釈以前の太元帥明王社及び別当泰平寺の遺構探しをしていました。






地中からは、梵字のような文字が刻まれている石や太元帥明王の罹災した記録を記した石板、そして、多数の束石等々…。

そのまま埋め戻すのも忍びないので、境内の隅に置いておきました。








まだまだありそうで、神社の許可を正式にとって、本格的に境内を掘って調べたいものです。







古い資料があります。

明治初年の旧三春藩領三春町の「寺社明細帳」。

その中の旧三春藩領内総鎮守「太元帥明王社」の記載があり、社名は「大志太神社」、祭神は国常立命と記されています。そして、社殿の項を見ますと・・

「神殿(現・拝殿)」縦に尺三寸、横に尺八寸。「窟(現・本殿)」縦二間、横二間。

「随神門(現・仁王門)」縦二間半、横六間半。そして、「額殿(現社務所付近か?)」縦七間、横二間との記載がありました。

「額殿」とは、奉納した額を納めた社のことを指しますが、大きさからして神仏習合の「拝殿」に相当する建屋があったと思われます。そして、政府教部省の教導職道場「小教院」の記載もありました。






さらに、もう一つ。廃仏毀釈の混乱を現す記載がのこっています。


太元帥明王山内(境内)にあった記録が残る「愛染塔」が一部の過激な神道崇敬者によって境内から崖下へ投げ落としたというのですが、現在も同神社の真下にあるお宅の裏庭にひっそりと鎮座しています。

石碑の表中央には「愛染塔」、右側には「再建昭和6年・・・」と刻まれています。

そして、左側には再建・奉納者のお名前が揮毫され刻まれてあります。
また、裏面には、本来の建立した年号「丑月庚申」が読めます。

庚申の丑月で1月、庚申の年といえば60年に一回です。








永正子年間の田村義顕公による三春築城太元帥明王社の勧請(建立)、そして、会津蒲生代官期や会津上杉代官期、秋田候三春入城の正保2年などを考慮して愛染塔(愛染明王堂?)の建立時期を庚申年に合わせて設立された年を推察してみました。

永禄3年1560年 この前年の永禄2年10月に義顕公が太元帥明王に大般若経二百巻を奉納しています。

永禄4年3月25日に義顕公が死去しています。

元和6年(1620)蒲生代官時代の寛文10年(1670)に伽藍が炎上により焼失。

延宝8年(1680)4年前の延宝4年には三代藩主盛季公大阪勤番中に同地で死去、輝季公が家督相続しています。 

元文5年(1740)10年前に享保14年(1730)~15年 三春藩騒動「享保騒動」  

寛政12年(1800)15年前の天明五年(1785)には「天明の大火災」発生、三春本城以下、家中屋敷、下御屋敷を含め城下六町のほとんどを消失し、藩主御座所を真照寺に移すほどの災害から復興した頃か?

安政6年(1860)「安政の大獄」があり、三春にも幕末風雲の声が聞こえ始めています。

これらを鑑みるに、大般若経二百巻奉納と義顕公死去の間となる永禄3年か?はたまた寛文10年の「明王社伽藍炎上」?もしくは天明5年の「天明の大火災」で愛染明王堂が焼け落ち、その代わりとして「愛染塔」の石碑を建立したか…?謎が深まります。







この石塔には「愛染塔」との揮毫の刻印があります。石碑単体として祀っているのであれば「愛染明王」と刻まれているのではないかと思います。

もしかしたら、明治以前に宇内(境内)に設置されていた時には、この石塔の他に「愛染明王」を祀る本来の仏塔(堂)があったのではないかとも推測しています。

場所は、この巨大な石を人力で落とせる場所ですので、現在の手水社の後ろ側か宝物殿附近かなともあれこれ想像するだけでワクワクしてきます。







       蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


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