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平成版三春今昔物語 「御木沢」の巻 塵壺332号平成31年3月発行





平成版三春今昔物語 「御木沢」の巻 塵壺332号平成31年3月発行

三春城下新町にある旧三春藩主祈願所真照寺の山内にある「古四王堂」。

東日本大震災により被災し御堂の建屋が損傷していましたが、お寺さんや檀家さん、そして関係各位の皆様のお力で復興再建工事が完了しました。







もうすぐ水芭蕉が芽を出し始める時節です。
三春城下に春を告げる水芭蕉を愛でながら往年の姿がよみがえった古四王堂をご覧いただければ幸いです

その真照寺の檀家さんが多い旧御木沢村は、明治22年町村制実施の時、合併した御祭村、七草木村、平沢村から一文字づつ採って「御木沢」とつけた村名です。
三春城下の北西隣する旧御祭村には、戦国期には田村四十八舘の一つ「小山舘」があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

小山舘は、天正年間に三春城主田村清顕時代に築いた“田村四十八舘”の一つで、田村家の家臣、550石の小山左馬之助が居て、北西の守を固めていました。
古文書で見ると、三春札所から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったと思われます。

御祭の由来として、江戸中期の三春藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に、獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納します。
以後、明王と牛頭天王の祭礼には、御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より、「御祭」の村名を拝領したと伝えられています。
 田村四十八舘「七草木舘」は、七草木を小浜街道が北へと向う要衝に所在し「三春城古城絵図」では2か所の郭の存在を示し七草木新助を舘主名に挙げています。







七草木氏の由来は、寛平の頃、宇多天皇が宮中に於いて七種粥の節句を行った際に、竹良某という人が七種および擂り粉木(すりこぎ)を献上して賞されて「七種木」の称を賜ります。

後にその子孫の七種木新介という武将がこの地の築館山に舘を築いて移り住んで戦国大名田村候に仕えます。田村家出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたと伝えられています。

また、御祭、七草木には「舘下」「突き舘」、「突きうち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という武将に因んだ地名が残ります。

 三春城下から小浜へ向かう、七草木奥にある「七草木休み石」は、徳川幕府二代将軍秀忠公が、この地に検地のために来たときに、この石に腰(こし)を下ろして休息(きゅうそく)したといわれています。







 三春、松沢街道の御祭・七草木境に文字も薄れた古い石碑が残っています。

あれは橋本惣五郎の報徳碑です。

惣五郎は、七草木の人で、万延の頃に水戸藩の常陸久慈郡良子村の後藤泉蔵という人を訪ねて水戸国府業たばこの耕作法を学び、帰村して村人に伝授して「御祭国府」と称される葉たばこ生産に成功し、明治30年の専売法実施後も幹于たばこを続けていた人で、その教えを受けた人達が、明治22年に建てたものです。

平沢村出身の人物といえば、明治初頭に活躍した医学博士三浦守治(みうら もりはる)先生がいます。

安政四年(1857)、三春藩士・村田七郎平の長男として生まれます。苦学して明治14年東京大学医学部を首席で卒業。同級に森鴎外がいます。
明治15~20年にかけてドイツへ留学し、病理学病理解剖学を学ぶ。

帰国して間もない明治20年3月17日、帝国大学医科大学教授に就任し、病理学病理解剖学を担当することになり、この日が病理学教室創立の日とされています。

また、歌人佐々木信綱の門下として和歌に優れ、本郷にある東京大学医学部2号館本館の東入口には「世の中の風あらく吹きしきるとも 心の海に波なたてそね」の歌碑が掲げられています。


    蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝










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| ryuichi | 05:36 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺平成31年2月発行第332号「三春に伝わる「化け猫」「怪猫」伝説」




  三春に伝わる「化け猫」「怪猫」伝説

三春の怪談話といえば・・・・江戸中期に起こった「三春藩御家騒動」 にまつわる家老荒木氏がらみの「化け猫」話が代表的です。
「化け猫」「怪猫」のお話は、明治、大正、昭和初期の不安な世情や大火、そして、台風・地震、大雨など天変地異から、様々な憶測が憶測を呼び少しずつ物語が造り上げ伝わっていったようですが、他にも化け猫・怪猫のお話が伝わっていますので少し紹介したいと思います。

その一。このあたりの村にあるお寺には化け猫の話が残っています。
昔、「御大尽」とよばれた大金持ちが突然死にました。葬儀行列の際、突然空が暗雲に覆われ豪雨となり、雷光が走ります。
すると、雲間から猫の目が光り、その猫は天より舞い降りて棺桶に足をかけてきます。
 和尚は、手に持った払子(ほっす)を猫にめがけて投げつけます。すると猫は尾っぽを斬られ天空へ逃げ去りました。

その二。このあたりの村に貧乏寺があり、和尚は、「トラ」という名前の老猫と暮らしていました。
しかし、このお寺はお葬式も無く、食事にも事欠く始末です。

ある時、不思議な法力を備えた力を身に付けた老猫のトラがこの和尚にある提案をします。
 「他の大きな寺での葬儀の時に、その死体を棺桶ごと奪うから「トラヤトラヤ」と唱えなさい。さすれば、棺桶を返してやるから」と和尚に語りました。

間もなくトラの提案がごとく城下の大きなお寺でお葬式があり、その最中に老猫トラがその死体の入った棺桶を奪うがごとく中高く浮き上がらせてしまいます。
大きなお寺の和尚はじめ参列者が何をしても棺桶は下りてきません。

困った村人たちはワラにすがる思いで、さきの貧乏寺の和尚を呼びに行きます。
貧乏寺の和尚は、「ははぁこれがトラの言っていたやつだな~」と早速「トラヤトラヤ」と呪文を唱えます。
すると棺桶はスルスルと地に下り、村人はこの和尚の法力に恐れ入り、以後、和尚の法力にすがりたいと参詣者が増えたということです。

その三。猫祭文語り(ねこさいもんがたり)
昔、このあたりの村では年がら年中働いて、これといった楽しみもありませんでしたが、唯一の楽しみといえば、正月休みに村にやってくる「祭文語り」でした。
祭文とは、祭りの際に、神にささげる祝詞 (のりと) を意味していましたが、中世以降、山伏修験者によって芸能の要素が強まり、三味線を伴奏に流行歌謡や浄瑠璃を取り入れた人情物(歌祭文)語る旅芸人で浪曲の源流ともいわれます。
 
何処からともなく村にやってきては一晩か二晩位、村のお宅を借りて宿として村人に祭文を聞かせていました。
「祭文語り」の時は、村人たちは夜遅くまで祭文(歌祭文)を聴いたり、時に浪花節を聴いたり、よもやま話などをして皆で楽しんだといいます。
ある年のことです。





 
ある村に「祭文語り」があるため、嫁を留守番にして家の人は皆出かけてしまいます。

嫁が一人で退屈をしていた所、飼っていた猫が起き上がり「そんなに退屈なら、オレが芝居を見せてやる。そのかわり誰にも言ってはならんぞ」というが早いか壇ノ浦の合戦を演じ始めます。

あまりに面白かったため嫁は大声で笑いながら猫の芝居を見ていました。

すると祭文語りから家族が帰ってきて、一人で思い出し笑いをしている嫁を不信に思い、夫が問い詰めると隠しきれなくなった嫁は事情を説明します。
「その猫は化け猫だ、もう飼えない」と猫を追い出そうとします。

しかし、猫は「誰にも祭文を語った話をしてはならない」という約束を破った嫁が許せず、出刃包丁を嫁に投げつけ殺してしまいます。
さらに、猫は「火車猫」という化け猫になってしまい村を荒らすようになります。

放っておけなくなった庄屋は化け猫退治にのりだし、村はずれの橋のたもとで猫は斬られました。

以来、嫁をひとりで家に置くものではないと云われています。
     
 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 05:13 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺330号 「三春版ファミリーヒストリー調査の顛末記」 平成31年1月発行





塵壺330号 平成31年1月発行
  
三春版『ファミリーヒストリー』調査の顛末記


 当三春昭進堂のホームページ内「春陽郷三春思ひ附阿津免草」には、三春の各種イベントや歳時、歴史を記載しています。
そのことからでしょうか?時折先祖探しをしているという方から問い合わせがあります。


 先頃も、当店のホームページに一通のメールが舞い込んできました。
発信者は、東京の成城に住むNさんという女性からで、「曾祖母の出身が三春町新町ということが判り、何でも良いですので教えてほしい」という内容でした。

 後日、彼女から封書が届き、同封されていた除籍謄本や系図などを調べていると、その本籍が私の先輩のお父さんの生家と1番違いで、また『佐藤』という同姓であることにも気づき、今回の件を彼に相談してみました。

 その先輩とは、役場OBで歴史の話し相手である田中金弥さんです。

仕事が重なっていたみたいでしたが、金弥さんは「NHKのファミリーヒストリーみたいで、面白そうだね。調べてみる~」

また、「Nさんの三春へのアプローチの窓口が三春昭進堂のホームページならば本気で調べなんねぇなぁ!ここでしっかりと対応すればNさんが見る三春全体のイメージアップにつながる!」と快諾してくれたので、その旨をNさんに連絡をしました。
 
すると、すぐに彼女からの封書が私の手元に届き、その中には「田中さんに渡してほしい」という手紙も入っていたので届けました。





 依頼してから二週間も過ぎぬうち、「内容をチェックしてください。OKだったら、Nさんに郵送するから」と金弥さんが拙宅に来てくれて、調査結果が書かれたA-4版4枚とバックデータのコピーを置いて帰られました。

 その文章は、史実、推測、 提案、参考という4分類で記載されており、私が言うのも“烏滸(おこ)がましい”ことですが、Nさんの期待以上の素晴らしいものだと思いました。

 松下氏時代の足軽町から新南町そして新町になったという町の成り立ちから始まり、江戸から明治時代にかけての秋田家臣の分限帳の内容、昭和30年代の旧町全体や新町の状況と情景、そして聞き取り調査などが詳細に書かれてありました。

さすが元三春町史編纂室主事!







 数日後、Nさんから私にまで丁寧な御礼が届きました。
中には、「三春昭進堂のサイトに出会えたことが縁です。それ以上に調べていただけて、たいへんありがたく思います。ご縁を感謝いたします。」と記されていました。

 この三春版『ファミリーヒストリー』調査の顛末記を書くにあたり、金弥さんが三春町史編纂の折に、当家大叔父にあたる故高橋哲夫から「真剣に取り組んでいると、資料の方から呼びかけてくる」『歴史は、点が線になり、そして面へと広がっていく』と教示されたということが響いてきました。







 自由民権運動の研究家であった大叔父は例えて「河野という点があり、板垣という点があり、それを結ぶと線になり、その他多くの民権家たちと線が結ばれて、自由民権運動という面へ」と云っていたそうです。

 今回の、予期せぬメールがNさんという点から、私という点に、そして金弥さんという点に繋がって線になり『三春版·ヒューマンヒストリー』という面になったとうなずきました。これも様々なご縁がつながって織り成した面の結晶なのだと思っています。

 大叔父哲夫が口にする”歴史の面白さ”とはこうしたご縁の面白さだと解釈しました。

 『他人様に何らかの施しをすれば自分にではなく子や孫の代にそのお返しが来るんだよ』金弥さんが時折口にされるお祖母様から教えられた言葉だそうです。

 自分の為だけではなく、子孫の為に働くのも悪くありませんね!


     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝









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大晦日

毎年、大晦日仕事が終わって店じまいをしている最中から涙があふれ仕方がなくなります。

もちろん感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、それまで抑えていた感情が涙となって満杯になりあふれだしてくるんだろ思います。

今年を振り返りますと本当に様々な方々にお世話になり格子ともども健やかに一年を無事過ごすことができました。

私には、良き先輩、友人、知人があり、お客様があり、会社、家族がある…

ご先祖様から続く、ご縁のある様々な方々との係わり合いの中で、嬉しいこと、苦しいこと、悲しいこと全てがあって今の自分があるんだろうと思います。

これは人間にとって本当に幸せなことなんだと思います。

これも一重に、皆々様のお引き立ての御蔭と心より感謝申し上げます。


合掌   蒼龍謹白   拝






| ryuichi | 05:41 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺329号 平成30年12月発行 「 田村地方 三春専売局」





田村地方 三春専売局(日本専売公社・現JTの前身)

 茶事などに参りますと「煙草盆」は、客をもてなす道具として在り 装飾的な調度品として拝見しますと、煙草も高級な嗜好品の一つとして扱われていたと改めて感じます。

明治3 4年4月1日、専売法施行と同時に大蔵省三春専売局(日本専売公社)は、現在の鎌田前(城下八幡町末)に新設され同年中に三春煙草専売所と改称されます。


注・鎌田前にあった出張所の用地は、2000(平成12)年頃に「高柳自工」と「日本化学」に売却
 
大正4年4月1日、郡山専売局三春出張所と制度が変り、昭和2 4年6月1日からは日本専売公社三春出張所となりました。
この三春専売局は大蔵省直轄の官庁で、管轄は東北6県から北海道一円、役所職員も40人余も数えた程でした。

当時の三春専売局長は、午前9時頃の出勤に「門衛8人が門前に整列して敬礼で迎える中を、得意満面にゆうゆうと通り過ぎていったものだ」と伝わっています。

従来タバコは、自家喫煙を許されていたが急に禁止されたので、密かに喫煙する耕作者も多く、これを検挙するための役人の多くは出張臨検をしますが出張先で猟銃をぶっ放されて色をなくして逃げ帰ることも珍しくなかったみたいです。

“葉たばこ”は明治中期から昭和にかけて田村地方の主要産業の一つに整備・成長し、その収納となると田村郡全町村から集荷されます。
特に小野、滝根、常葉などからは前日を村総出の“荷送(におくり)”と称し、三春へ通じる道々は混雑を極めたと伝わり今では想像もできない程それは賑やかなものでした。






局の近所の川又屋、いろは屋、 鎌田などは、収納たばこの臨時預かり所となって、その数は数千俵にも及び遠い所の人たちは葉煙草の中で一夜を明かしたという。

また三春には”キザミ煙草”の受請工場が4軒あり、多くの人夫を雇って盛んに営業を続け専売直営とあってわずかの間に経営は進展して皆裕福な資産家になりますが、ほどなくキザミ煙草製造が郡山に移転となり、以後転業に失敗し今に残る人は一軒とてなく、タバコの煙のように消えてしまいます。

田村地方では、400余年も前から各地で自家喫用として粗悪な煙草を栽培していましたが、その後元和2年3月三春が会津蒲生領時代に江戸幕府から煙草禁令が出て一時中絶し、江戸中期・宝暦の頃から再び栽培が始まります。

東白川宮本地方の「松川葉」の種子を移入した小野町方部から、更に滝根、大越を経て三春に入ってきたもののようです。

滝根、大越は耕作が最もさかんなところで、ことに菅谷の「大六煙草」は地方の銘葉として大いに売り出されたという。

 その頃、滝根に広瀬の三郎という煙草作りに熱心な人がいて品種の改良に尽し、野州地方(栃木)から良品種を移入してこれを関東名葉と名付けたが優良葉として好評を受けます。

 それから明治14、5年頃まで、これらのほか「柳葉」、「花切」、「御祭国府」や「大葉関東」、「丸葉関東」、「芳関東」など多種の葉たばこが耕作されていました。

輸出面では、船引町の助川良平翁が横浜シトロン会社の代理店として大発展をし、三春町からは、「二七市」を通して県内はもちろん山形、米沢地方にも大量の煙草が出荷されていました。

明治初年、「松川葉」は江戸市場や輸出市場などで名声を博しますが、当時三春地方では幹干方が、小野方面は聯閲法(れんえつほう)が行なわれ大正の初期まで続きます。 

専売法執行後、郡内嘱託指導員が数名任命され、耕作改善や町村煙草耕作組合創立の指導に当っている。また、大正の初期には、三春、小野新町、常葉の3煙草耕作連合会が設立されます。

記録によれば郡内には、2つの「煙草神社」があり、小野町の煙草神社は大越の宗像利吉氏によって鎮座され、船引町の「煙草神社」はそれより数年おくれて、県立船引たばこ試験場開設と同時に、助川啓四郎氏の尽力で鎮座されたものと記されています。


     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:32 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺328号 11月 「三春を学ぶ」三春シンポジウム  三春中学校一年生  平成30年11月23日発行




塵壺328号 11月 「三春を学ぶ」三春シンポジウム  三春中学校一年生  平成30年11月23日発行

三春中学校一年生の特別授業「三春に学ぶ」三春シンポジウムがこの秋開催され、三春町役場から1名、三春町内の会社社長と私を入れた計3名が外部講師として招待を受けました。

会場となる三春中学校エントランスホールに着席している生徒たちは、日頃より見知っている生徒さんも多く「見たことのあるおじさんが何を話すのか?」と興味津々といった顔つきです。

講師はそれぞれの立場で三春の魅力を、産業、外から見た三春、歴史的な事柄等々を踏まえて話してきました。

私は、三春城下の和菓子屋という立場から“三春の良さ”と共に“三春の強さ(利点)”を伝えました。

東北は福島県の小さな三春という町。
東京や大阪、仙台などの大きな都市みたいに誰もが知っているところとは違い「遠方の人は誰も知らねえべぇ~」、「田舎の小さな町の名前なんか判るのかよぉ~」と思っているかもしれません。

しかし、滝桜を筆頭とする町内の桜たち。
日本人が一番心待ちにする季節である「春」には、三春が日本・世界で一番脚光を浴びる町となります。

テレビや新聞などのマスコミが「三春」という名前を日本国内はもとより世 界各国に向けてもドンドン宣伝してくれるのです。

桜の発信力が経済効果を生み「三春」と聞けば“枝垂れ桜の綺麗な処”と全国の人が知っている場所になるのです。
三春昭進堂の名前を個人で全国区にするのは途方もないお金と労力がかかります。しかし、滝桜のある小さな城下町「三春」という名前は全国どこでも通じます。







この三春をメインに宣伝すれば「三春の饅頭屋」で充分に全国区になりえるということをお話しました。

当店独自のホームページや、チラシ「塵壺」、そして、「平成版三春城下絵図三春物見遊山」を発行し、桜のセールスポイントにプラスして「小さな城下町三春」をアピールすることにより三春昭進堂を大きく宣伝していることになるということを説明しました。

これらの事柄を念頭に「三春」生まれということが、自分に自信を持つ根源の一つとなってほしいと思います。

“自分を好きになる”ということは“自分自身を顧みる”ということ、つまり、禅寺に掲げてある「照顧却下」足元を顧みることが大事ということを話しました。
足元とは生まれ故郷である“三春(地元)”を顧みることです。

そこで、大好きなキング・オブ・ロックンロール矢沢永吉さんの語録から自信を得る方法として「前向きな己惚れ(うぬぼれ)」を話しました。

「己惚れと言うといやらしく聞こえるけど
    考え方一つ変えていい取り方すれば
己惚れ屋ほど自分の主張を大切にしているんですよ。
前向きな己惚れなら いくら己惚れてもかまわないんです。
それは言い換えれば自信だから。
自信ということは何かといえば責任なんですよ」
矢沢永吉


大人って(人生)長いよ〜〜

そんでもって、何回でもやり直しや修正が効く。

しかし、自分に嘘をついたり、ごまかしたり、自分の芯がブレちゃダメ! 

前途ある有望な中学一年生、これからの三春を、そして、日本を背負って立つ人材です。
未来がどうなるか?与えられる未来ではなく、未来は自分自身で切り開くもんです。今の勉強がその基礎となることでしょう。

希望を胸に自信をもって自分で未来を創り上げていってください!

大人って案外楽しいヨ!  頑張れ三春健児


「ドアの向こうに夢があるなら、ドアがあくまで叩き続けるんだ」

矢沢永吉



蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝 



平成30年「三春昭進堂えびす講祭」

三春昭進堂では、恵比須様への商売繁盛 祈願、そして、お客様への感謝の記として、11月24日(土)、25日(日)にえびす講祭を行います。両日ご来店のお客様先着88名様に「鶴の子すあま」を進呈いたします。

本来の旧暦の十月二十日は11月27日(火)ですが、定休日・平日ですので、その前の土日に設定させていただきました。







 


「平成30年歳末托鉢」三春町各宗派仏教和合会

  12月5日(水)の午前9時より

  三春城下各寺院より町内托鉢布施行






「Yammy* CHRISTMAS Live 2018」in若松屋旅館
  2018年12月24日(祝) 開場:午後6時 開演:午後7時
  三春城下馬場の湯温泉「若松屋旅館」
  お一人様¥5,000.(プレート料理+1ドリンク付き)
    ご予約・お問い合わせは若松屋旅館 0247-62-2027まで!




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| ryuichi | 05:26 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺327号  「峠 最後のサムライ」 越後長岡藩河井継之助 平成30年10月発行
 


「峠 最後のサムライ」 越後長岡藩河井継之助

 幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩(現新潟県長岡市)軍事総督・非門別家老河井継之助を題材にした司馬遼太郎氏の名作小説「峠」が「峠・最後のサムライ」のタイトルで映画化することが発表されました。

監督は小泉堯史氏、2020年に全国公開。





河井継之助役には役所広司、妻・おすが役には松たか子、その他田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら豪華キャストが出演します。
私と継之助との出会いは昭和52年放送のNHK大河ドラマ「花神」でした。






幕末の戊辰戦争で最大の激戦を繰り広げた北越戦争。田舎の小さな大名長岡藩牧野家、しかも一代限りの家老継之助が「永世中立」を唱え“会津と薩長の仲立ちをして平和解決を目指す”という壮大な計画を企みます。

小千谷談判が決裂し平和解決が無理となるや当時世界レベルの軍事力にまで仕上げた長岡藩を率いて、徹底的に戦う姿に“カッコイイ大人”と思ったのが始まりです。






「峠 最後のサムライ」物語の舞台は、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜による大政奉還も奏上され、260年余りに及んだ江戸時代が終焉を迎えた幕末。
越後の譜代大名長岡藩牧野家は、継之助の指揮のもと藩行財政改革を断行して借財の返済、そして藩費貯蓄の増加を計ります。

また、当時世界で3門しかなかった最新鋭の「ガットリング砲(機関砲)」そして、元込式標準器付きの螺旋銃 「エンフィールド銃」等、世界でも類を見ない武器と調練によって最強の精鋭部隊を組織していました。








その武力を背景に内戦の無意味さを訴え永久武装中立を主張、そして戦争回避のために薩長土肥を中心とする西軍と会津藩を中心とする東軍の停戦調停の仲立ちを企てます。

しかし、東西両軍からの各種妨害工作によって結果的には東軍に加盟し西軍と対抗する道を選んだ継之助の生涯を通じて“「サムライ」=日本人の生き方”“リーダーとしてのあるべき姿”を問いかけるという作品です。






 この幕末明治初頭の混乱期、内戦の無益さと欧米列強の内政干渉による危機感、そして、国益損失を政治的に考えられたのは勝海舟と継之助だけだといわれています。

継之助は、独自の近代的な発想とその先見性をもって戊辰・明治の混乱が終わるまでは長岡藩七万四千石を、欧州におけるスイス国のように一つの中立国家として独立することを目指していました。






 奥会津の只見町には立派な河井継之助記念館があります。

 北越戦争で薩長等の西軍との戦いで奪われた長岡城を再度奪い返すなど約三カ月に亘り激戦を繰り返す中、継之助が足に銃弾を受け重傷を負ってしまいます。軍事総督が倒れた長岡藩は、抵抗むなしく敗走となり長岡から”八十里峠”を越えて会津若松城下を目指す途中、この只見・塩沢の医師矢沢宗益宅で亡くなりました。

塩沢についた継之助は、追撃する西軍が迫る中、自身の死を悟り、下僕の松蔵に棺桶と薪を用意させ「自分の亡骸を西軍に渡して成らぬ・・・」と云い残し、燃え上がる薪を見つめながら息を引き取ったと小説「峠」では締めくくられています。


30年位前に私が初めて訪れた時には、まだ矢沢医師の子孫である強面のおじいさんが、只見ダム建設に伴う川増幅移転の際に「河井継之助終焉の間」を自宅横に移築して細々と個人記念館として開館していました。







遺品や説明のパネルが並ぶその「終焉の間」は、小説「峠」に在る河井の終焉の場面で、“矢沢宅の隠居で、天上を眺めていた・・・涙が一筋~”という下りを真似して、ちょっと横になったらそのまま寝てしまい、矢沢さんに夕食をごちそうになった事が思い出されます。






店のチラシ「塵壺」も「菓匠蒼龍」もさらにペンネーム蒼龍も、この河井継之助の遊学旅日誌や雅号からというのは言うまでもありません。







   蒼龍謹白  拝  さすけねぇぞい三春!  




本号の中で、十三夜月見団子の表記が間違っていました。

正しくは、十三夜月見団子 13ケ入れ 650円(税別)です。





| ryuichi | 04:43 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺326号 三春城下のお葬式 監修 株式会社菊川屋 内藤忠 平成30年9月発行





       三春城下のお葬式        

監修 株式会社菊川屋 内藤忠 

 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。 死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難から逃れる妙法にて候」

越後の禅僧良寛和尚が友人へ出した見舞の一文です。

 「人として生まれたからには四苦八苦からは逃れることはできず、目をそむけず、あるがままに受け止め、その時々に自分が為すべきことをただ精一杯に為す」という禅の教えだと解していますが、近親者など親しい人の葬儀や法事なども為すべきことであり、その送り方で自身の生き方を見つめ直す機会になっているようにも感じています。


 三春城下でのお葬式は隣組で取り仕切り、葬儀の日程は遺族と隣組長が相談して「友引」と「寅の日」「三隣亡」を避けて、お寺さんや火葬場の都合と照らし合わせて決定します。

 「友引」は友をあの世に一緒に連れて行くとされ、「寅の日」は「寅は千里行って千里帰る」と言われたことから死者が成仏できずに帰って来るとされています。

また、三隣亡(さんりんぼう)凶日として「この日に事を行うと3軒隣まで亡ぼす」という各種行事が避けられていました。

 お葬式ができると、故人の近しい方々や、字内の方々などに葬儀の日取りを知らせる為、 「告げ人」と呼ばれる方々が葬儀の知らせ配りをします。

 「告げ人」は昼間に必ず二人一組(一人は立会人)で歩き、死霊への恐れから決して後ろを振り向かず、尚かつ寄り道をしないと云う慣習が残っています。

お葬式を「ザザンボ」と云うのは、忌・隠語なのでしょう、埋葬・野辺送りの葬列時の先頭にたつ妙鉢の音(ジャン~ジャン~ボー)からの造語からきていると考えられています。






また、三春城下ならではの風習として「差重(さしょうもり)」と称される知らせがあります。

差重とは、その家や故人と特に親しかった方々へのお知らせで差重を受けた人はすぐに駆け付け葬儀の手伝いをします。

本来、差重とは「病い差し重り、お知らせ申し上げます」という意味で、危篤の人を見守るということから差重と呼ぶと伝わっています。     

納棺は、棺の中にサラシの蒲団を敷き、着せる着物は白いサラシの行衣(ぎょうい)で、近親者や近所の女の人たちが手縫いしていました。
この時ハサミや物差しを使わず、サラシを目分量で測り、手で裂いて裁ちます。そして、返し針をしないで玉結びをつけない白い木綿糸で縫い上げます。

これらは、日常忌まれている行為で、行衣は、たたまずに死者に着せることから、日常の生活では「洗濯したものは、一度もたたまずに手を通してはならない。必ず一度はたたむように」と忌を嫌ったと云われています。





仏教思想の浸透から、死は十萬億土への旅立ちだと考えられていて、手甲、脚絆に草鞋(わらじ)女には草履を履かせ、頭陀袋を首からかけます。

頭陀袋には穴あきの六文銭を入れていました。現在では六文銭と紙に書いて入れていますが、本来六文銭とは「死者の小遣い」とも、「三途の川の渡し賃」だとも云われています。

 額には、白いサラシを三角状にして鉢巻きのようにしてつけます。

棺には故人が生前好んだもの、女の場合は櫛や化粧道具など、男の場合は筆やお茶などをいれます。

また、死者の手には数珠を持たせ、脇には金剛杖をおき、死者が動いたりしないように籾殻を詰めた紙袋を入れていました。
 

棺の蓋を閉めるのは出棺前に行い“これから閉める”という触れを出して六尺役の人々か、近親者が小石で釘を打っていました。
小石で打つのは、小石は三途の川の石を意味していて、三途の川を無事に渡れるようにとの思いを込め行うものです。

 出棺は、縁側から送り出し、二度と帰れないという意味を込めて故人の茶碗を割ります。

六尺(ろくしゃく)とは陸尺とも書かれ、その昔、縦棺(座棺)の幅が二尺、深さ四尺の樽で併せて六尺から来ている説と、土葬の深さが六尺だったからと言う説が残りますが、本来は力車(りきしゃ)からの訛りで、故人の棺輿を担ぐ者という意味からだとされています。
古くは、棺に蓋をしてから、きれいな模様の入った布で棺巻きをしていました。

この棺巻きで使った布は埋葬のお礼として六尺の方々に配られたと云います。




竹などを弓状に曲げて作った「仮門(かりもん)」を玄関の脇に用意し、出棺の際、棺や葬列をくぐらせる風習が残っています。
これには死霊との別離を確実にするといった意味が込められており、出棺後にはすぐに壊します。

こうすることで、もし死者が戻ろうとしても、この世とあの世の境になる門がないので、この世に帰って来られないと考えられています。
また、農村部などでは、「仮門」を燃やす「門火(かどび)」を焚く地域もあります。

「門火」をたくことで、故人が迷うことなくあの世へ行けるようにという思いが込められているそうです。


三日七日法要後のお斎、所謂 精進落としとも精進上げともいわれています。

三春城下では、三日七日用の引出物を別に用意してあり、御膳には刺身や肉などの生臭ものも解禁となります。

この時、『お開まんじゅう』と「三角油揚げ」が用意されます。

三春城下には寺社が多くある関係から精進料理と結びつく饅頭屋と豆腐屋が多くあり、その名残とも考えられています。




忌む(いむ)「忌」というのは、「きらい避ける」「遠ざける」という意味があります。

喪中も忌中も故人を追悼し身を慎む期間とされています。
これは親族に不幸があったことで元気がなくなり「気枯れた状態」なので外の人たちと接触しないで慎みなさいという強制の意味を持ったものが「忌」なのです。





三春町史参照  
                蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝



塵壺326号に追記


| ryuichi | 04:13 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |