2026-08-07 Fri
塵壺421号 「戦争体験回顧録 湯浅雄逸氏 湯浅製作所会長」令和8年吉日発行
三春に疎開して80年になるという御歳97歳の大御所、湯浅製作所会長の湯浅雄逸さんにご自身の戦争体験や常備消防の話を伺いました。
昭和3年(1928年)生まれの湯浅さんは、東京は大塚のご出身で護国寺境内にある「青柳小学校」(現文京区大塚)、そして神田小川町にあった「聖橋高等工学校」を卒業。
実家は、金属部品加工製作の湯浅製作所を営んでおり、旧日本海軍指定工場で、従業員は15人。
海軍の依頼を受けて指定軍需工場として魚雷や飛行機、そして自動車の部品などを製造していました。
昭和19年末から、米軍B-29による軍需工場や軍事基地などへの本土夜間爆撃が始まり、沖縄陥落後には、F6FグラマンやP-51ムスタングなど航続距離の短い戦闘機の護衛を伴った昼間爆撃も可能になり東京・下町などの市街地へ大規模な無差別焼夷弾爆撃が開始されます。当時、湯浅さんは15歳で、首都東京の戦争・空襲も体験されています。
一度、空襲があると小さな日本家屋など3分間で燃えてしまう状況であっと言う間に大火となってしまったそうです。
周知のようにB-29の大編隊による無差別爆撃です。たちまち東京は火の海と化します。
各々発生した火災鎮圧のために町内会ごとに組織された防火消防隊によって「手押し消火ポンプ」を出動させ、大きな井戸から水をくみ上げ手押しポンプへ注水して消火にあたりますが、若者は兵役に就いていた為に首都の防火任務は残された老人と婦女子、そして少年だけの消防隊です。
しかも大火の連続で、湯浅少年も消防ホース管槍(筒先)をもって、猛火に囲まれながらも1昼夜消火活動に従事し、その熱波で顔中に火傷を負ったそうです。
幸運なことに、爆撃で道路を挟んで向かい側は焼け野原になったそうですが、道一本隔てた自宅は消失を免れたとのことです。
後で調べてみたら自宅には焼夷弾が命中していましたが不発弾でした。
また、上空のB-29は大きくて日本の迎撃戦闘機が豆粒のように見えたとの事ですが、海軍の零戦、雷電、月光、陸軍の飛燕、鐘馗、疾風などの迎撃戦闘機部隊や高高度高射砲部隊の活躍によりB-29が撃墜されるのも見ていたそうです。
時折、日も丸を付けた日本の戦闘機が、低空で自宅付近の上空を旋回している姿を目撃していました。
そのたびに湯浅少年は屋根に上り手を振っていたそうですが、後で考えると特攻隊として出撃する飛行兵が、家族の住む郷土へ別れを告げるために自身の自宅上空への表敬飛行だったということです。
この体験が後の三春町消防団機関部の指揮官として平常心を保つのに生かされたそうです。
昭和20年には、本土爆撃激化に伴って軍からの指示により軍需工場疎開と成り、湯浅製作所も金属加工の機械類を福島県双葉町へ移設しますが、当時の相双地区には陸海軍の飛行場があり、米英による爆撃や敵艦隊の艦砲射撃の危険があるということで、更に三春へ移設移転し、湯浅さんは家族や従業員などと共に三春へ疎開移住し大町の三春町交流館「まほら」付近の空き家に製作所を再開します。
この頃になると地方都市へ疎開した軍需工場や陸海軍の飛行場などへの爆撃が始まり、B-29に加え戦闘機による軍事関連施設及び、鉄道機関車や自動車、牛馬はもちろん人間までも動くもの全てに機銃掃射やロケット爆撃が実施されるようになっていました。
昭和20年4月から8月まで計4回実施された郡山空襲では、保土谷化学郡山工場、日東紡富久山工場などを中心に攻撃を受けて近隣の国鉄郡山駅周辺まで被害に遭っています。三春でも各地で被害がありました。
湯浅さんは、仕事の関係で出向いた保土ヶ谷科で工場の屋根が穴だらけという場面にも遭遇されています。
終戦となりましたが、そのまま三春町に於いて戦後復興に不可欠な各種産業の機械化のため資機材や各種部品の製作加工の製作所を営み、戦後日本の高度成長に寄与されていました。
防災に於いても、湯浅さんは、空襲体験を生かし三春町消防団本部機関部の部長(三春町消防団本部分団長)を16年務めた当時のことを伺っています。
三春町の合併後からの設立で、その当時は火災や水害などの災害対応や各種会議や会合、そしてポンプ整備や練習など3日を置かず三春町役場や機関部屯所へ出向いていたそうで、郡山広域消防組合が昭和48年4月1日に発足するまで、三春町消防本部機関部(常備消防)の指揮官として三春町の防災の為に尽くされました。
当時は、人数や資機材不足のために、三春消防署(現郡山広域消防組合田村消防署三春分署)と共に火災出動はもちろんですが、急病やけが人などの救急車の任務も遂行していたと笑って話されていました。
機関部解散後の消防団春季検閲式には、招集ありませんが、湯浅元部長の指揮の下で自発的に機関部員が参集して列外に整列して町長及び消防団長に辞意と心意気を表したと語っておられました。尚、旧三春城下の火災の際に、その火災防御態勢構築の生命線となっていた桜川敷設の防火用堰は湯浅製作所製でした。
戦後80余年、湯浅さんに改めて平和の尊さをご教示してもらいました。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
第49回福島民報社出版文化賞において「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」が「正賞」の栄誉をいただきました。これも一重に、皆様方の長年にわたるご指導とご支援の賜物と深く感謝いたしております。
今年、手前どもが営む三春昭進堂が100年目を迎えた時に「正賞」をいただきましたことは何よりの記念となりました。
さらに、過去の受賞者には、第4回受賞に大叔父髙橋哲夫の名前もあり、大叔父が当時63歳で私と同年というのも必然的な因縁めいたものを感じ、「温故知新」未来を創造するお手本は、過去にしかないと改めて、ご先祖様、そして天からのご褒美と感謝しているところです。
明治末創業の絹製品商社「磐城商会」から、昭和という改元あわせて店名を「昭進堂」と改名しました。
「真照寺(堂)の門前で、商いを通じて三春を昭(あか)るく照らしながら前に進んでいこう」という意と伝わっていますが、この受賞によって三春へ明るい話題が提供できたかなと思っているところです。
今後もこの栄誉に応えるよう尚一層精進してまいる所存ですので、変わらぬご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。
「磐城商会」三春昭進堂 髙橋龍一
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2026-07-17 Fri
塵壺420号 「田村大元神社 神輿渡御音も白天狗と青天狗」 令和8年7月発行
田村大元神社夏季例大祭の御神輿渡御の際、町内を掃き清め魔を退治するかのように「白天狗」と「青天狗」が、長獅子の前方に睨みを利かせて闊歩しています。
これは、2年毎に奉仕する三春大神宮秋季例大祭神輿渡御に於いても同じ陣容です。

赤天狗は一般には「大天狗」と称し、お導きの神様である猿田彦命だと考えられますが「白天狗」と「青天狗」はいずこの神さまなのか?
明治維新前の大元帥明王の渡御では、神仏習合の仏教色が強く、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(長獅子)に警護掛と使番が付き、―禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊(にってんぼう)―月天坊(がってんぼう)―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他などの通り踊りを奉納していました。
現在は、触れ太鼓、神旗、五色旗、白天狗、青天狗、長獅子、赤天狗、御神輿、神官、楽人、総代、字役員、各神社総代(於、三春大神宮祭礼)、三匹獅子、ささら、そして小若連等と続きます。
行列の陣容を、明治維新前後(後は昭和20年終戦以降か?)で比較しますと、日天坊(日天狗)と月天坊(月天狗)の存在が気になります。
神仏習合では、日天坊は「日之御碕雲速神」という神号を拝領した天狗で、お天道様(おてんとさま)の使いとされ、善業も悪行もすべてお天道様がお見通し!そして月天坊は「月之御碕風速神」の神号を拝領する天狗で、神力によって放つ光で、人々の煩悩の闇をも照らす神の使いとされています。
また、大儀で云えば神道では太陽の神様を「天照大神」、月の神様を「月読尊」としています。
明治末や大正時代の田村大元神社の長獅子掛をしている三春大神宮祭礼の写真を見ると、「赤天狗」と今の「白天狗」と思われる天狗が映っていますが、青天狗は映っていません。
この白天狗は、この写真や江戸時代の大元帥明王祭礼での長獅子掛りが、現八雲神社の荒獅子の前身の牛頭天王のお神楽(長獅子)ですので「素戔嗚尊」ではないかとも考えられます。
牛頭天王は、疫病を防ぐ神であり仏教的には薬師如来、そして神道における素戔嗚尊と同体であるとされており、明治以降の田村大元神社の御祭神である「国常立命(くにとこだちのみこと)」の分神とも解釈されています。
一方、青天狗は?と考えると明治以降、太元明王祭礼絵巻を参考にして月天坊の代わりに青天狗が追加されたとも推測されます。
尚、青天狗の面は青色に着色されていますが、白天狗の白とは明らかに顔料が違います。
この渡御の行列も明治以降に編成されたもので、祭礼の序列を編成する中で、神道系の神楽、能を題材として、赤天狗はじめ、白天狗、青天狗を取り入れたのではないかと考えています。
さらに、旧御祭神「大元帥明王」、そして現御祭神「国常立命」を含めて、天狗伝承や山伏、そして神楽や田楽、更にはお能(面)から探ってみました。
「白天狗」は、その形相から吽形(うんぎょう)の能面の大癋見(ベシミ)ではないかと考えています。
口を「へ」の字に結んだ表情の鬼神面ですが、能では鬼や異相の武者を表し、『是界(ぜがい)』や『鞍馬天狗(くらまてんぐ)』などで天狗の役に用いています。
そして「青天狗」は、吽形があれば開口している阿形(あぎょう)が居てもおかしくはありませんが、同じく鬼役の小癋見だと考えています。
この渡御の行列も明治以降に編成されたもので、御神輿渡御の序列で、神道系の神楽、能を題材として、赤天狗はじめ、白天狗、青天狗を取り入れたのではないかとも考えられ、謎が深まるとともに歴史のロマンを感じます。
いずれにしても、令和の田村大元神社祭礼絵巻に昼も夜も外敵から三春、そして日本の安寧を護るという御神徳、さらには祖先よりの氏子・崇敬者の皆々様の願いが込められていることなのでしょう。
“神威輝八紘徳風布四海”
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
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2026-05-29 Fri
塵壺419号 「 三春藩主秋田家江戸藩邸菩提寺 浅草大雄山海禅寺」 令和8年6月吉日発行
かっぱ橋や浅草など東京出張の際には、お参りするお寺さんがあります。
上野から浅草へ向かう途中にある旧三春藩秋田家江戸屋敷の菩提寺大雄山海禅寺さんです。
浅草新鳥越町(現・台東区松が谷)、今のかっぱ橋道具街から道一本西手に入ったところにある臨済宗妙心寺派の禅寺で、慶長8年(1603)に起立、寛永元年(1624)神田明神北の妻恋に草創(そうそう)します。
寺号(じごう)「大雄山」は、平将門が下総国相馬郡に創建したとされる同名の寺院に因んで命名したと伝わります。
※「海禅寺縁起」(下総守谷藩主堀田正俊の寄進)によると、平将門が、紀州の高野山に真似て建立したと記載があります。
後に、明暦3年(1657)1月、3日間に亘って江戸城をはじめ城下を焼き尽くした「振袖火事」の後に、当地へ移転しました。
諸国の在京大名家江戸藩邸や幕臣、旗本の方々の檀家寺となっていますが、中でも檀家筆頭の阿波・淡路2国25万7千石徳島城主の蜂須賀家から厚く庇護を受けたことから「阿波様寺」とも称され、塔頭4ヶ寺(霊梅軒{霊梅寺}、泊船軒、寒窓軒、瑞光庵)を擁立(ようりつ)していました。
また、江戸城下の妙心寺末寺の触頭寺院(ふれがしらじいん)として、湯島麟祥院、高輪東禅寺、牛込松源寺と共に勤めて、江戸市中にある妙心寺派寺院の統制も行っていました。
徳島藩蜂須賀家は、大河ドラマ「豊臣兄弟」にも登場する秀吉の盟友で、川並衆を率いた播磨国龍野城主蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)の嫡子、蜂須賀家政(いえまさ)が藩祖となっています。
海禅寺の主な檀家大名としては、この蜂須賀家。
関東大震災後、墓碑銘を残して徳島の万年山墓所に改葬、この墓所は徳島藩10代藩主が造営した一族の儒葬墓地。また、家祖・正勝以降が埋葬された仏式の興源寺墓所を遺髪のみの拝み墓としています。
豊前国小倉藩15万石小笠原惣領家。
常陸国土浦藩9.5万石土屋家。
土屋家の江戸屋敷は本所松坂町にあり、忠臣蔵の敵役吉良義央の屋敷と隣り合っていたために映画やテレビではおなじみですね。
伊予国大洲藩6万石加藤家。
大洲藩と云えば、坂本龍馬率いる亀山社中改め“海援隊”が武器輸送に運用した大洲藩船籍の「いろは丸」と徳川御三家紀州藩船籍の「明光丸」が瀬戸内で衝突、いろは丸だけが沈没した際に万国公法に基づいて龍馬の死後、土佐商会が紀州藩から多額の賠償金をとることに成功した「いろは丸事件」の被害船主の藩です。
播磨国林田藩1万石建部家(歴代藩主の墓所は、京都紫野大徳寺内芳春院)などがあります。
そして東洲斎写楽。徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)が、写楽と同一人物ではないかと伝わっており、その墓碑が関東大震災の前までは確認されています。
さらに、幕末に吉田松陰などと同様に「尊皇攘夷」を唱えて、倒幕の先駆けとなった勤皇の志士、若狭小浜藩(福井県)藩士の梅田雲浜(うめだうんびん)の墓所としても知られています。
三春藩秋田家。江戸藩邸で亡くなった秋田家一族は、海禅寺に葬られましたが、関東大震災後にそれらのお墓は「雑司ヶ谷霊園」へ改葬され、さらに昭和10年5月26日に三春城下荒町にある秋田家菩提寺の安日山高乾院秋田家墓所へ改葬されています。
尚、三春城下のもう一つの秋田家菩提寺龍穏院には、藩主の中で8代藩主の秋田謐季公だけがその墓所に埋葬されています。
三春藩の江戸藩邸は、江戸城下に3か所ありました。
上屋敷は愛宕山愛宕神社下(現・慈恵医大附属病院付近)、中屋敷は東京タワー近く麻布台のロシア大使館付近、そして下屋敷が西新宿の東京都庁付近、後に、代々木(現・文化女子大学付近※大火移転)にありました。
また、旗本秋田氏5千石の屋敷は、築地本願寺の西手(現・電通本社付近)、そして拝領屋敷が深川(現・清澄庭園大正記念館付近)にありました。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
『いろは丸沈没事件』
いろは丸(以呂波丸)は、江戸時代末期の1860年代にイギリスで建造され、伊予国大洲藩6万石加藤氏(現在の愛媛県大洲市)が所有していた蒸気船で、45馬力の蒸気機関を有しておりマスト3本を持つ帆船の機能もありました。
坂本龍馬の海援隊による運航中に紀州藩の明光丸と衝突事故を起こした事で知られます。
事件は、1867年5月26日(慶応3年4月23日)23時頃、
長崎港に向けて同海域を航行していた紀州藩の軍艦・明光丸(船長・高柳楠之助)が、備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島付近で進路が交差、接近。
いろは丸が取舵、明光丸が面舵をとり、同じ方角に回避行動をとった結果、両船は衝突。
明光丸はイギリスで建造された長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船で、その大きさの差はあまりにも大きく、更に一旦後退した明光丸が再び前進して再度衝突を起こした為、いろは丸は大破し、翌日早朝、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島沖で沈没。
操船していた坂本龍馬はじめ海援隊士らいろは丸乗組員は全員、相手方の明光丸に避難のために乗り移っていました。
その後、龍馬らは鞆の浦に上陸。
紀州藩の用意した廻船問屋の桝屋清右衛門宅や対潮楼に滞在し、龍馬は当時日本に持ち込まれたばかりの「万国公法」を持ち出し、賠償交渉を行いました。
紀州藩側は幕府の判断に任せるとしますが、紀州藩側の過失を追及し、事故から1か月後に紀州藩が折れて積荷代に相当する賠償金8万3526両198文(約164億円)を支払う事が聖福寺での交渉の席で取り決められました。
実際の受け取りは、龍馬の暗殺後、海援隊の解散後でしたので土佐藩の運営する商社」「土佐商会」が受け取りなど残務処理を行っています
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2026-04-17 Fri
塵壺418号 大河ドラマ「豊臣兄弟!」と三春城主松下氏 令和8年5月発行
木下藤吉郎(日吉丸)、後の太閤豊臣秀吉が最初に仕えた侍は、松下加兵衛之綱(まつしたかへいゆきつな)という地侍でした。
松下之綱は、江戸時代初期の三春城主松下長綱公の祖父にあたる方で、天文6年(1537)、松下長則(ながのり)の子として三河国碧海郡松下郷(豊田市)に生まれ、元服して通称を加兵衛としています。
松下家は、今川家臣の飯尾(いのお)氏に寄子として仕え、やがて遠江国頭陀寺城(ずだじじょう・浜松市)を与えられて城主を務めました。
正確な時期は不明ながら、藤吉郎は之綱の城主時代に仕えていたようで、之綱は藤吉郎と同年齢であり、まだ10代だった藤吉郎が仕えたのは、之綱の父である長則だったのか、父の後見を受けながら之綱なのか詳細は伝わっていません。
松下家に奉公した藤吉郎はドラマでも描かれているように、明るく積極的で機転の利く才覚だったようで、藤吉郎を之綱は可愛がり兵法と槍術を指導したと伝わっています。
しかし格式や序列・秩序を重んじる旧来の家臣や同僚からは、嫉妬が集まって人間関係で齟齬をきたし、仕方なく之綱は藤吉郎に暇を出します。
永禄3年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が討ち取られると、まもなく今川家は滅亡、之綱は松平元康改め徳川家康に仕官します。
之綱は、武田勝頼勢との最前線である高天神城(静岡県掛川市)の守備に出陣して、武田勢を迎撃していますが、天正2年(1574)に武田勢の猛攻にあい高天神城が陥落、
之綱ら籠城組は武田勢に降伏し捕虜となってしまいます。
後に、羽柴秀吉(藤吉郎)によって召し出され、その家臣として仕えます。 天正3年(1575)の長篠合戦の際には、秀吉の前備として出陣しています。その後も之綱は秀吉に
忠義を尽くし、武功によって丹波国・河内国・伊勢国などに3千石の知行を与えられました。
秀吉は、若いころに受けた恩義を忘れていなかったのでしょう、天正15年(1587)、之綱に従五位下の位階と石見守(いわみのかみ)の官職を与え、丹波国に知行3千石を加増し6千石となっています。
さらに秀吉が天下を統一した天正18年(1590)、之綱は遠江国久野(静岡県袋井市)に1万6千石を与えられ久野城主となりますが、慶長3年(1598)2月、62歳で世を去り、家督は次男の松下重綱(しげつな)が継ぎます。この重綱の正室が、豊臣恩顧「賤ヶ岳の七本槍」のひとり加藤嘉明の娘だった事で、加藤家の与力大名として豊臣政権下での地位を確立していきます。
さて、三春城主となる松下氏。寛永4年(1627)の正月に、会津藩主の蒲生忠郷が亡くなると、伊予松山城主加藤嘉明が入れ替えとなって会津40万石を拝領、三男明利が三春3万石、娘婿の松下重綱が二本松5万石を拝領。
後に、重綱が亡くなると翌年正月にはその嫡子長綱が、明利と交替で三春城主となり、寛永21年(1644)に改易されるまで松下石見守長綱として三春を治めました。
※トリケ(発狂)の薬として削られた長綱公の墓石
長綱は、三春入城後に先の城主三春田村家の伊達家へ吸収合併以降、久しく荒れていた三春城の城郭や石垣を補修し、城下全体を城郭とする中世城郭都市として整備改修し“東北の鎌倉”と呼ばれる現在の三春城下の基礎を三春在住17年の間に創り上げます。
豊臣政権に代わって徳川の世になりますと、豊臣恩顧大名の御取り潰しが始まり、寛永20年(1643)、会津藩主加藤明成が封地返上というお家騒動『会津騒動』で、会津領が幕府により改易の上収公されます。
松下家も例外ではなく、翌正保元年、長綱の切支丹(キリシタン)の嫌疑がかかり、妻の父である土佐藩主山内忠義(ただよし)が、長綱が乱心発狂したので領地を幕府に返したいと願い出て、それが許可されて城地召し上げの上、三春松下家は改易取り潰しとなります。
改易になった長綱は土佐藩山内家に預けられ、松下家の家督を継いだ二男の長光が江戸幕府寄合旗本として松下家の家名は後年まで存続しました。
三春城下新町にある曹洞宗天翁山州傳寺は松下家の菩提寺で、この山号は長綱の祖父加兵衛之綱の法号天翁長珊(てんのうちょうさん)に、寺号は重綱の法号州伝寺殿にちなみます。
長綱の墓所は、現在も高知市の真如寺にありますが、州傳寺山内の墓所には重綱、長綱、豊綱(長綱の子)松下三代の墓があり、町の史跡に指定しています。
今後、「豊臣兄弟!」に松下氏は登場する機会はあるのでしょうか…期待したいですね!
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!
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2026-03-27 Fri
塵壺第417号 4月号 「洗心洞劄記」 大塩平八郎(中斎)と伊勢御師 令和8年4月発行
「大塩平八郎の乱」で知られる、大塩平八郎中斎は、蒼龍窟河井継之助や南洲西郷隆盛らと並び称される当代の陽明学者でした。
陽明学とは、朱子学と同じ儒学を源流とする中国の明代に王陽明が起こした学派で「事上磨錬」「致良知」「知行合一」を基本学理の根幹に据え「学んだ知識には行動を伴い即実践する」を第一義としていました。
大塩は、大阪奉行所の与力で天満の屋敷(現大阪造幣局付近)に私塾「洗心洞」を開設して同僚の与力や同心、近郷の豪農、医者、神官などを門弟として陽明学を講義、『洗心洞剳記(せんしんどうさっき)』や『儒門空虚聚語(じゅもんくうきょじゅうご)』などを著し「中斎学派」と呼ばれる一派を形成していました。
「大塩の乱」(大阪騒動)に際して、大塩は先頭に「天照皇太神宮」、右に「湯武両聖王(とうぶりょうせいおう)」、左に「八幡大菩薩」、そして「救民」と「南無妙法蓮華経」を大きく染め上げられた二流の幟を押し立て決起進軍したと伝わっています。
また、大塩が、配布した決起趣意書「檄文」は大名から民衆まで広範囲に伝写され、乱鎮圧後に大塩らの40日にも及ぶ潜伏期間中の広報活動によって事の仔細は諸国に伝達され「幕藩制社会への抗議」として大きな衝撃を与えました。
窮民を救うためと訴えた「檄文」や、蔵書を売って得た600両を困窮者に分け与えると書いた「施行札」は、大塩の人徳と争乱決起の正当性を強く世間に訴えました。
大塩の乱は、僅か半日で制圧され武装蜂起は終わりますが「檄文」は、幕府の厳しい回収令にもかかわらず民衆によって筆写を重ねられ諸国に流布し、「大塩世直し大明神」と称えられ芝居の演目にも取り上げたりと、陽明学徒である大塩の大意は成し遂げられたといえます。
この「檄文」には「天より被下候村々小前のものに至迄へ」など、いたるところに「天~」という文字が多数表記され、表紙には伊勢神官の御札が貼ってあったと記録されていることなどから「天照皇大神宮」を主祭神とする伊勢信仰が読み取れます。
江戸時代に伊勢信仰が広がった背景には「御師(おんし)」と呼ばれる人々の活躍がありました。神宮の神職でもある御師は、伊勢山田を拠点に諸国にある御料地や御厨(東国)を足掛かりに各々の師檀(担当地域)の旦那である大小名家や、代々の檀徒・檀家の世話人宅(城下検断、町肝煎・村名主等)を宿として「旦廻(だんまわり)」(巡行)して「天照皇大神宮」と記された御神札「御祓大麻(おはらいたいま)」、現在の「神宮大麻(じんぐうたいま)」の頒布や伊勢暦、海産物等を各戸配布して伊勢信仰の広布や参宮案内、そして行く先々で心願成就、豊作祈願などの加持祈祷を行うなどして御初穂料の受領を本業としていました。
一方、御師は伊勢の自邸で宿坊を経営ており、旦那衆や檀徒、檀家は伊勢講中、個人問わず、「お陰参り」と称する伊勢参宮の滞在中際には、各々の御師邸への宿泊や食事の費用(お神酒以外のお酒と道中の旅費は個人負担)は、その御初穂料に含まれるという次第が構築されていました。
最盛期の江戸後期には20000人を超える御師とその配下数万人が活躍し、御師邸453軒、総檀家数は全国戸数の9割に及んでいたと記録され、年間500万人(6人に1人)が詣でたと伝わっています。
また、諸国巡行には「伊勢太々神楽」の神楽師を配下に同行して、行く先々での御祈祷の御神楽奉納や、曲芸の披露なども行ってとの記録も残り、伊勢の神宮と民衆を結びつける役割を担っていたことが読み取れます。尚、その年末の忙しさから「師走」の語源とも云われています。
尚、この御師による「神宮大麻」の頒布は、明治維新後の制度改革により廃止されましたが、現在でも、伊勢神宮はじめ近くの神社、さらには「お正月様」としての鎮守様の神主や宮司、禰宜によって年末に授与されています。
大塩は、2度伊勢を訪れ、神宮神官で国学者でもある御師足代権太夫弘訓(あじろ・ひろのり)との親交があり宿を取って参宮をしています。
1回目は、天保4年7月。王陽明に倣い、天(天照大神)に近い日本最高峰の富士山、もしくは伊勢神宮のお膝元の伊勢朝熊山頂に於いて陽明学を研究した論文集である自身の著書「洗心洞劄記」をお焚き上げして、己の決意を天に誓いたいと富士、伊勢へ向かいますが、御師足代権太夫から、外宮の豊宮崎(とよみやざき)文庫、そして内宮の林崎文庫(はやしざきぶんこ)への書籍奉納を勧められ、お焚き上げを取りやめて神宮の文庫に「洗心洞箚記」を各々へ奉納します。
翌月にも、門人橋本忠兵衛、同じく但馬不動二朗(但馬守)を足代権太夫の元へ遣わして、朱子文集、古本大学、及び伝習録、陸象山全集、そして王陽明文抄を両文庫へそれぞれ奉納しています。
2回目の参宮は、翌天保5年2月。内宮祠官の林崎文庫に於いて、客員教授として大塩が書院教壇に立って陽明学を講じています。
両文庫は、祠官子弟の研修修学道場でしたが、後に知識階級の講所として知られるようになり図書館と学問所(学校)の機能も有して、村井古厳を始め、水戸藩主徳川斉昭は「大日本史」の初摺り、肥前島原藩主松平忠房は「古文尚書」など大名からの書物献納、さらに山田奉行、公家、諸国の学者などから多くの書籍寄贈がありました。
また、毎月定期的に行われる和学、漢学、神典、儒書の学習会に加え多くの碩学の学者たちも文庫を訪れ客員教授として教壇に立って講義や講演会が行われていました。
その中には大塩の他にも本居宣長、貝原益軒、室鳩巣、伊藤東涯など当代一流の著名な学者が名を連ね、伊勢と京都、大阪、江戸などの知的文化圏を結ぶ役割を果たしてきたと考えられています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
※訂正 印刷物チラシのコラム欄にて、文章の重複する印刷ミスがありました。
訂正してお詫び申し上げます。
| ryuichi | 04:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
2026-02-27 Fri
「クミコとToshieのいわきなLive 」Ma plus belle histoire d'amour♪ 第416号 令和8年3月発行
いわき市出身の歌手・俳優・MCのToshieさんから案内を受けまして、平駅前まちポレいわきで行われた歌会始「クミコとToshieのいわきなLive vol.5」を鑑賞してきました。
Toshieさんは、ご当地出身ということもあり、友人知人やファン、そしてクミコファンのお客様も多数詰めかけてその歌に聞き入っていました。
また、歌手や俳優の他にも、ラジオパーソナリティー(FMいわき“Toshieのまぁまぁそんな感じで♪”土18:30 月13:00)や各種MCを務める軽快なトーク、さらに1983年全国高校軟式野球大会全国準優勝校・福島県立平工業高校の活躍を描いた映画「それぞれのヒーローたち」のエンディング「Blue Bird」を歌うと会場が一気に盛り上がりました。
シャンソン歌手クミコさんがステージに姿を見せると、会場のその雰囲気が一瞬で変わります。さながらここはパリ・モンマルトルの大人の社交場「ラパン・アジル」か「いわきQueen」か!といった按配です♬
定番のシャンソンからご自身のアルバムに収められている曲も取り混ぜて披露され、その歌詩の場面が叙情的に表現され、絶妙なタイミングで間合いを取りながら、シャンソンの世界へ誘い、ちょっとセンチな大人の恋を語ってくれます。
そのステージは、感動のあまり鳥肌が立ち、涙が勝手に頬をつたって来るほどで、周りからもすすり泣きの声が聞こえます。
「シャンソンは、人生と同じで、その年齢になって詩に味が出るものね、歳を重ねることが負けではないと思えることが幸せ。迷いながらでも日々試行錯誤、毎日を丁寧に生きていく強みや重さにかなうものはないのよ。どんなにぶざまで情けなくても、悲しくても、日々を一生懸命生きる。その説得力にかなうものはないんですものね♪」
このクミコさんの言葉すべてが詩的で情緒豊かで胸に響き、素敵な夜を満喫いたしました。
実は、クミコさんとの出会いは、今から45年位前、高校卒業後の湘南茅ケ崎サフラン洋菓子店でのケーキ屋修業時代に、店の先輩方や以前修行されていた先輩方kから「大人の社交場を教えてやる」と、休日になると銀座に在ったシャンソンの名店「銀巴里(ぎんぱり)」に連れて行ってもらい、初めてクミコさんの唄を拝聴して感動したことを覚えています。
コンサート中、「夢をあきらめたくない!」と頑張っているToshieさんに勇気をもらい、クミコさんの唄でちょっとセンチになっていたのかもしれませんね、遠い記憶がよみがえり、茅ケ崎の先輩方からお引き立てをいただいたことが思い出されました。
単車を降り、Gibson USAのレスポール1本だけ持って三春から茅ケ崎へ出てきたばかりのお祭り好きのロック小僧に、少しでもさみしさを紛らわしてやろう、楽しい思いさせてやろうということだったのかも知れません。
休日には都内へ連れて行ってもらい有楽町の「銀座スイング」や先の「銀巴里」などで大人の音楽を堪能しました。
また、日本武道館での初矢沢永吉参戦やboowyの「新宿LOFT」もこの頃です♪
さらに有楽町や新橋、上野の「大統領」をはじめとするガード下巡り…。
この頃の経験が、現在の都内でも私の行動パターンの一翼となっていることは間違いありません。
当時の茅ケ崎の家は、東海岸、通称加山雄三通りの海岸側で、路地を一本入った閑静な住宅街の一軒家。すぐ近くには通りの名前の由来となる加山雄三(上原謙さん)さんや、桑田佳祐さん、そして徳光和夫さんのお宅などがありました。
町内の方に誘われて茅ヶ崎に夏の到来を告げる茅ヶ崎西浜海岸(サザンビーチちがさき西側)で早朝に開催される「浜降祭」に参戦して、相州神輿独特の「どっこい、どっこい」と神輿を担ぎ、直会に三春甚句を歌いながら「お祭り好きなんだなぁ、どこでも同じことをしている」と自分に驚いた記憶があります。
江の島まで車で15分、鎌倉までも30分(どちらも空いていればです)という立地もあって、鎌倉(由比ガ浜や北鎌倉付近)や横浜(あぶない刑事ロケ地の山手や桜木町のカフェ)、そして葉山(金曜ロードショーOPバックのカフェ)など洋菓子関連の先輩方が修行のために勤務する店舗やその工場などにお手伝いと称して技術や資機材の習得のためによく連れて行ってもらったことは感謝しかありません。
これらの経験は今でも店造りや菓子製造の基礎知識として生きています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
2026-01-30 Fri
塵壺415号 「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」 三春昭進堂代表 髙橋龍一 令和8年2月発行
還暦祝いと結婚30年、そして当店発行の新聞折込のチラシ塵壺発行400号を迎えられたことを記念して昨年5月「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」を出版いたしました。
発行済の塵壺のコラム「如是我聞」約400話の中から130話へ厳選して、三春の歴史や寺社仏閣を中心に歳時や、島根県浜田市観音寺での参禅、また、嘗て務めた役職の三春小学校学校運営協議会会長、三春町消防団三春分団長、三春大神宮祭礼三春若連連合会創設、故伊藤寛元町長や元三春町役場の田中金弥さん等の先輩方から教示された「町づくり」関連の話。
そして大好きな矢沢永吉さんや木村充輝(憂歌団)さん等のライブ参戦や両国国技館での大相撲観戦等々様々な内容を記載して製本化しました。
お陰様で好評をいただき売れ行きも良く、「塵壺Ⅱ」も数年後には発刊しようと企画しているところでございます。
塵壺という名称は、幕末の頃の越後長岡藩家老河井継之助が、若い頃に勉学のために師を求めて諸国を遊学した際に記した旅日記「塵壺」から、そして「春陽思ひ附阿津免草」は、幕末の三春城下検断回春堂橋元柳助が風雲告げる城下の様子を慶応3年から明治14年まで記した日記「思ひ附阿津免草(橋元文書)」から、それぞれ敬意を表して命名しました。
印刷も、当初は友人の会社でコピーしてもらったり、城下北町中屋商店の村田社長さんより「うちの印刷機で刷ってやるから持って来なさい」というお言葉に甘えて数年間お世話になりました。後に亀井にある赤井書店の赤井社長さんより「中古の印刷機が手に入ったので使って」と印刷機を譲っていただき自分で印刷していました。
和菓子屋の販売促進のための広告ですので、四季や歳時に合わせたお菓子の提案など告知して売り上げアップを意図していますが、四季を通じて三春城下や田村地域へお客様にお越しいただいて歴史探訪や買い物、旬のイベント等を堪能していただきたいという願いもございます。
コラム「如是我聞」の題材は、三春町史を基に田村兵戦記、奥陽仙道表鑑、奥州茶話記など郷土史資料を基本としていますが、大勢の方々から参考になればということで資料を提供して頂いたものが一番参考になっています。
それらを基に、その場所に足を運んで見聞したり、寺社や史跡のご近所の方にお話を伺ったりしながら記していますが、これが趣味と実益を兼ねたということなのでしょう面白くて仕方がありません。
塵壺の原点は、故渡辺和明さん(担橋わたや呉服店元会長)の考案した「わたや呉服店販促用団扇」に記載の「三春駒之助」というペンネームで和明さんが三春盆踊りの由来を書いたコラムです。
そして発行のきっかけとして、城下大町にあった「マルミ酒店」(後セブンイレブン三春熊耳店、現在は引退)のPR誌「マルミかわらばん」です。
これを初めて見たときに「景気の良い屁理屈を並べた派手な理想論ではなく、とにかく行動しろ!」と今までの自分の甘さを痛感した記憶があります。
古来より三春商人の生き様を見ますと、「経営者自身の自己実現を追求するだけが経営ではなく、お客様や従業員の物心両面での幸せを追求する」、そして「地域社会の進歩発展に貢献することが経営には大切である」と教示され、商人として人生を生きる上で必要な事柄をどれだけ教えてもらったことかわかりません。
先人から受け継いできたものを、未来を担う次世代にどう伝えていくかということを常に考えながら様々な角度から実践していくことがこの恩に報いる方策だと思います。
もう一つ、「塵壺~」を出版した目的に、未来を担う子供たちへの提言もあります。本書の内容もさることながら、見たことのある饅頭屋のおやじが本を出したということで、本や出版というものを身近に感じて、自身の生き方の選択肢のひとつに加えてもらえれば幸いだと思っています。
今迄、皆さんからの励ましや温かさを何度も感じ、その力があったからこそ、困難な時も諦めずに歩み続けることができました。人生は長い旅路のようなもので、途中には雨の日も晴れの日もありますが、皆さんの支えがあるからこそ、私はよりしっかりと歩んでこられたのだと思っています。
今後も、皆々様のご厚意にお応えすべく、これまで以上に三春の商人として和菓子屋の家業はもちろん、三春・田村の文化向上に寄与できるよう取り組んでまいる所存でございます。
これからも変わらぬお力添えを賜りますようお願い申し上げます。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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