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塵壺347号 三春城下新町真照寺下“幻の霊鉱泉「不動温泉」”と三春3名水 2020.6




塵壺347号「三春城下新町真照寺下“幻の霊鉱泉「不動温泉」”と三春3名水」 2020.6





(昭和14年4月の花まつり稚児行列での当店南側の旧セリ市場付近で撮られた写真ですが、右上に不動温泉が映っています。)


三春城下新町にある藩主秋田氏の祈願所真照寺下に昭和初期から戦後まで“幻の霊鉱泉「不動温泉」”がありました。
その昔、真照寺の奥ノ院参道に老杉が列なり、昼尚暗い谷間から湧出する薄茶色の天然温鉱泉が湧き出ていた。





この鉱泉で湯を沸かして入浴すると不治の難症に適するというもので、諸方より不動明王を御本尊とする真照寺へ水汲みの参詣者が絶えなかったと記されています。さらに、時の三春藩主秋田候も難症に悩んだ為、真照寺に1週間参籠してこの霊鉱泉で沐浴し満願の日に完治したと言い伝えられています。

時代は下って昭和初期。この話を伝え聞いた方が詳細を調べ、当時の福島県衛生試験場で成分試験を依頼したところ難病を治癒するに足りる成分が含まれることが解り、試験証明を交付されます。




また、その適応症について物理学の権威で、当時大原病院皮膚科長坂本医学博士に研究を依頼すると、婦人病、胃腸症、中風症、リウマチ、神経痛等の難症の治癒し得ることが証明され、昭和初期にしては珍しい木造三階建ての湯屋を開業するに至ります。





真照寺御本尊の不動明王にあやかり「不動温泉」と命名して営業を始めますが、太平洋戦争の勃発により営業休止となってしまいます。

戦後、郡山近郊の三階建て以上の建物が、日本復興計画の郡山駅前開発により集められ、旧不動温泉の自慢の3階楼建屋も昭和25年ごろ旧寿泉堂側に移築して昭和40年代まで旅館として使われていました。






現在はもう「不動温泉」はありませんが、真照寺の山を挟んだ城下馬場に三春の奥座敷「馬場の湯温泉」があり、三春近郊は元より全国からの沢山のお客様を迎えています。





城下町・三春の観光拠点として、また立ち寄り湯や湯治場としても利用されることが多い三春城下の奥座敷で、三ツ美屋旅館、若松屋旅館、そして、霊泉やわらぎの湯が軒を並べています。

全国有数のラジウム含有量を誇る泉質は、身体機能を活性化させ自然治癒力を高める効果があり、 卓効の湯と評判で、英気保養に努める人が全国各地から訪れます。

「馬場の湯」という名前の由来は、近くに三春藩の乗馬教練馬場があった名残です。

また、城下の名水と云えば「亀井水」「霞井戸」そして「霧の井戸」を城下の三名水に挙げています。





「亀井水」は、相馬街道が烏帽子石の黒木戸(藩政時代の城下境の門)をくぐり城下に向かって下り始めた道脇に涌き出している清水です。
現在は、光岩寺の参道入口に石柱が見られますが、当時は近世三春城下“入亀井”入口のすぐ上にありました。

この亀井水は、領内五万石の村々から城下へ至る主要街道沿いにあり、旅程の塵を払い手水の上で城下に入る「化粧水」として最も多く使われた清水と伝わっています。
明治期の道路拡張によってこの清水は地中に埋まりますが、光岩寺参道入口に導水して「亀井水」の標識が建てられ、今もその井戸にはコンコンと水が注がれています。





次に「霞井戸」。入亀井の鍵曲(かいまがり)とよばれるクランクから三春本城の搦手口(からめてくち)登り口右側にありました。
御城下の武家地にありますので清水を汲むのは武家に限られていたと考えられています。





最後に「霧の井戸」。中世三春城大手口前(南町)にあったと記されています。
この井戸の名前の由来は、城中よりその井戸から霧が立ち上るのが見えたと伝わっています。

また、殿様の茶の湯の為に水を献上する井戸という意味で「献上井戸」ともよばれていたようです。

尚、この「霧の井戸」は、中世の頃にこの付近にあったとされる「金座」の職人たちが喉を潤した清水ともいわれています。



    蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝










三春城下馬場の湯温泉郷・営業再開のお知らせ
 
馬場の湯では、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、国・県の要請を受け営業自粛・臨時休業をしておりましたが、 緊急事態宣言解除を受けまして6月1日より営業を再開しました。

 しかしながら、全国の感染状況はまだ予断を許さない状況にあり、感染防止の観点から、 館内施設の利用及び一部のサービスを変更して対応してまいります。
 また、営業時間や宿泊など、それぞれの旅館によって新型コロナ対策の対応が違うことがございますので、HP・営業時間内での電話等で確認の程をお願い致します。

 馬場の湯温泉郷は、お客様と従業員の安全と安心を第一に、新型コロナウイルス対策に取り組んでまいります。

 お客様、関係者の皆様にはご不便やご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。




   三春城下 馬場の湯温泉郷







    若松屋旅館 0247-62-2027





    三ツ美屋旅館 0247-62-2504






    みちのく霊泉やわらぎの湯 0247-62-2153







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:17 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺346号 「新型コロナウイルス感染拡大終息祈願」太元帥明王・牛頭天王 令和2年5月1日発行




塵壺346号  令和2年5月1日発行

「新型コロナウイルス感染拡大終息祈願」太元帥明王・笠石八幡・牛頭天王



全国都道府県にも「非常事態宣言」が出され、「外出自粛」不必要な外出を避けるよう国からの呼びかけがあり、そんな閉塞感が溢れる昨今ですが、美味しい和菓子を食べて少しでも癒されて頂ければと思い営業しております。

 当店では、お客様および従業員の健康と安全を守り、新型コロナウイルスによる感染拡大防止するため、店頭における従業員のマスク着用と店内の接客前後のアルコール消毒を実施、お客様用のアルコール消毒液をご用意しております。

さらに、入口の扉を開放して換気及び扉開閉に関係なく店内には次亜塩素酸ナトリウム水入りの噴霧器にて店内空間の除菌を行っております。





 目に見えないウイルス。

毎日、不安が募りますが、手洗いやうがいや「3密」を避けるなど、正確な情報を基に冷静な対応こそが一番の対策と考えます。








 そうした中、三春で国難撲滅・疫病退散にご利益がある神様はと考えておりましたらお膝元の城下新町に旧三春藩領内総鎮守である太元帥明王、現・田村大元神社(祭神・国常立命)が鎮座されておりました。

 三春太元帥明王は、戦国大名田村大膳大夫義顕公が三春築城の際、守山字山中(郡山市田村町)から三春城東館下に移して三春領内の総鎮守としたもので、以後入封の歴代城主に引き継がれ、秋田藩政では真照寺住職を別当として三春藩内総鎮守太元帥明王社として領民より崇拝を集めています。





 御祭神の太元帥明王は、「国難」から国土を護り、外敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われ、その国難退散の祈願として宮中では古くから太元帥明王の秘法(太元帥法)が盛んに厳修されてきました。

「将門の乱」や「元寇」の時にこの秘法が行われ国難を撃退したと伝わっています。





 この三春太元帥明王社(泰平寺・学頭坊)では、戦国時代に周囲から田村領は狙われ戦乱に明け暮れた四面楚歌の中で、伊達政宗以下伊達家重臣同席して田村家当主以下重臣一同に会して宴席を設けて伊達・田村家の安泰祈願をしています。

 神仏離反後の御祭神「国常立尊」は、国土の永遠の安定を祝福する意が込められた神名であり、国家・人民が永久に存在することを表しています。






 根本の笠石八幡には、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の折に、根本村を通りかかったところ麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「麻疹の悪魔を征伐してやる」と、今の笠石八幡の場所より南西の天目がけて馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放したところ、麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか重い麻疹も急に快復したという伝説が残ります。





 

そして城下荒町にある八雲神社は「病魔・疫病撃退」の神様で、旧神号牛頭天王です。

 田村義顕公の頃、領内に疫病が流行し領民の病甚だしい状況が続き、義顕公は、修験者を京都祇園社に詣でしめ、三週間祈願させます。すると、霊験著しく領内の疫病直ちに鎮静化されたと伝えられています。

その京都祇園社より城下の天王山に勧請し、修験・普明院(現存せず)が別当として社務を掌り城下町として栄えていた三春に疫病の侵入防御の祈願していました。

 医療技術、衛生管理が乏しい時代に疾病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰はかなり大きかったと思われます。これらの神様に国難ともいうべき新型コロナウイルスの終息を祈願してきたところです。





外出自粛の中で心身ともに運動不足になりがちです。

地元の寺社に散歩を兼ねて、コロナ終息を祈願に参詣はいかがでしょうか?

村へ疫病が侵入するのを防ぐ道祖神、そして先祖供養のお墓参りもいいでしょう~


草むしりやごみ拾いなどをしますと心がすっきりして免疫力も上がるはずです!

もちろん、三密は避けてマスク着用で~。
 
そして、美味しいお菓子で心にゆとりと癒し栄養と笑顔で免疫力アップして、感染せずに終息するまで健やかに元気に乗り切りましょう!
 
新型コロナ対策の最前線で闘う、現代の牛頭天王・薬師如来ともいうべき医療従事者及び関係各位の皆様には心よりエールを送りたいと思います。



蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝


   


尚、店内には悪魔祓い・災い撃退を祈願して、岩見神楽演目「鍾馗」の面を配し、先の大戦で防空任務を担った陸軍航空隊の「鍾馗」も配してみました。







 


店頭には端午の節句五月旗です。








 
 蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝 


| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺345号 「磐城国三春城址 臥牛舞鶴城 2020」 令和2年4月発行




塵壺345号 「磐城国三春城址 臥牛舞鶴城 2020」 令和2年4月発行



     磐城国三春城址 臥牛舞鶴城 2020


 春、そのお城が一段と輝く桜の季節に往年の城郭 の姿に思いをはせてみるのも一考です。旧三春藩五万石の中心として栄えた三春城下。

その三春城は、平姓三春田村氏初代田村義顕公が守山(現郡山市田村町守山)から、永正元年に城下の中心となる大志多山に城を築いて500有余年になります。

城下に、以前の本拠地である守山と同じく山中という地名を作り「大元帥明王」を祀った田村大元帥明王堂を建立します。

また、赤沼(現郡山市中田町赤沼)の丈六佛を城下丈六に、そして、正慶元年に八丁目(現郡山市日和田)(一説には福原か?)に、田村輝定公によって創建された福聚寺を城下(隆顕掟書以後の御免町)に移すなど、中世三春の城下町を整備していきます。

応永5年(1398年)に没した田村庄司系の田村遠江守量顕が三春城を守護したとされていますが、根本史料の上では、田村義顕公が三春城(臥牛舞鶴城)を本城としたことが初見となっています。





義顕公は病弱だったと伝えられ、早くから長男の隆顕に家督を譲り、弟の月斎頼顕公に後見させていました。

三春領内の整備についても、次男である起雲斎憲顕(のりあき)を船引城に入れ、三男の梅雪斎顕基(あきもと)を仁井田(今の小野新町)城に入れて防備を固めました。

2代である隆顕公は、一族重臣を田村領内の防御の要衝である48箇所(時代により100カ所とも)舘(出城)を配置して、防備を固めました。
これが後に云う「田村四十八舘」です。

戦国大名三春田村氏の系譜については田村庄司職の藤原姓田村氏とは別の平姓田村氏とされてきましたが、前後の史実を鑑みれば同一の家系とみても何ら不思議はありません。





田村氏時代に記された「三春城下天正絵図」によれば、創建当時の三春城は山頂上の段に櫓2棟の「本丸」、下の段に櫓1棟の「二ノ丸」、そして、南側の中腹に「三ノ丸」を置き、山麓には城主直属の「不断衆」はじめ主だった一族郎党・家臣舘主の屋敷が配置されていました。

寛永5年に三春城主となった松下氏によって近世城郭への改修が大規模に行われ山頂上下の段を「本丸」として土塀や石垣をめぐらし、西中腹に「二ノ丸」、南東中腹に「三ノ丸」が配され建物も8棟を数えました。

後に城主となる秋田氏も、松下氏が改修した城郭を補修を加えながら使用していましたが、天明5年(1785年)の三春大火により御城は全焼します。
その全焼からの復興の中で、本丸には建物3棟のみが建てられ「二ノ丸」「三ノ丸」は廃して「藩主御殿」や藩庁は西麓(現三春小学校)へ再建されます。

時代は下がって、これらの諸施設も明治維新・廃藩置県後の三春藩(県)解体の中で明治4~7年に取り壊されて御殿・藩庁後には三春小学校が建てられました。

また、大町四ッ角から守城稲荷社の間にあった各種藩御施設は払い下げられ、現在の上大町商店街及び「三春町交流館まほら」、「JA」、「三春町役場」、「三春郵便局」、「三春町図書館」等々が立ち並ぶ公官庁街となっています。

大正12年の三春城跡公園整備によって、現在の城跡には、お城坂、本城二ノ門下(二ノ丸にあった門)、本丸北東隅に石垣の一部を残すほかは、往年の地形をとどめるのみですが、中世山城から近世城郭への変遷の様子をよく知ることができます。

 三春小学校の校門は、三春藩の藩校である「講所」明徳堂の門であり、明治時代には師範学校、公会堂、そして、自由民権運動家を育てた正道館の門として配され、三春町教育のシンボルと言えます。


平成29年4月、公益財団法人日本城郭協会より「続日本100名城」が発表され、「三春城」がその1つに選ばれています。
     
蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝











三春昭進堂の花見だんごは3月27日(金)からの販売開始となります。






三春昭進堂の三春花見団子



三春花見だんご  

あん(大)     500円税別





             
みたらし(大)  500円税別





             
あんこ小パック   300円税別

みたらし小パック   300円税別







     その他、お客さまのご予算により、300円より調製いたします。






     カップ団子(160円税別)ひと粒40円の計算ですも、ご予約のお客様のみ調製いたします。

尚、串団子は取り扱っておりません。






| ryuichi | 05:46 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺344号 令和2年3月発行  「佐久間庸軒旅日記」安政5年戊午  
 



 塵壺344号 令和2年3月発行  「佐久間庸軒旅日記」安政5年戊午  
 
塵壺の参考にと、佐久間庸軒に関する資料を届けていただきました。

主人公の佐久間庸軒は、江戸時代後期から明治時代にかけて活やくした最上流和算家で三春藩士です。
文政2年(1819)田村郡石森町(田村市石森)に生まれ、本名を纉(つづき)といいます。

 江戸末期の天保7年(1836)、18歳で二本松藩の最上(さいじょう)流和算家渡辺治右衛門に入門し、和算の研鑽の旅を続け、嘉永7年(1854)に研究成果を「当用算法」や「算法起源集」など著書も多く記してあります。
 佐久間派の開祖として三春藩藩校「講所」で算学を教え、新政府の絵図編纂御用も勤めています。

維新後には、石森の自宅で私塾「庸軒塾」を開いて農民や町民に 明治算術や算学測量を教えています。
 その門弟は実に2000名を数えます。

 江戸時代に発達した日本独自の数学が和算(わさん)です。
 庸軒が活躍した幕末から明治初期にかけての時代、和算はブームとなり、全国各地で上層階級から庶民へと広がっていきました。

 日本ではすでに奈良平安の頃には中国から数学が導入されましたが盛んにはなりませんでした。
 その後、室町末期の戦国時代から江戸時代初期にかけて、戦国武将などの築城に伴う土木普請や太閤検地、さらには経済の発展などにより計算が必要となり、中国の算書(さんしょ)の影響をもとにした和算が発達したと考えられています。

 一昨年前、三春まちづくり公社で「三春町内神社仏閣の算額巡り&和算遊び手習い」を開催していましたのでご存じの方も多いと思います。

 三春藩領内の神社仏閣には、難問を解いた算額、問題だけ載った算額などが奉納されていますが、和算を志す数学者や数学愛好家は、難問を解くことに成功すると、神社や寺に算額を奉納するようになりました。
 これは、問題が解けたことを神仏に感謝し、自分の業績を世に知らしめるためでもありました。
 また、和算好きはそれらの算額を見て回り、難問に挑戦しては腕を磨き、時には他の和算者に向けて問題だけを書いた算額を奉納して、和算対決の様相を呈していたこともあったようです。

 佐久間庸軒の数度にわたる旅日記は、遊歴の算術家として江戸末期の日本各地を旅して算学をひろめ、最上流和算を作り上げた時の修行旅日記です。

 天保十三年(1842)の庸軒路程記1~6は参詣に重きを置き、安政五年(1858)の九州辺天草の旅の九州遍路1~6は算術修行に重きを置いているようです。

 庸軒などの「遊歴の算家」は、全国を旅して周り行く先々で数学者と問答を行っています。地方に高名な数学者が訪れたと聞けば、地元の算術好きが列をなして教えを請い、臨時の数学塾が開講されていたようです。
 庸軒の九州遍路行では訪問した算術家は34名(内31名は印鑑を押捺)に上っています。

 安政5年戊午に記された佐久間庸軒旅日記では、三春を発ち、江戸・箱根・桑名・伊勢・京都・岡山・山陰津和野・博多・長崎・本渡・熊本・宮島・信州善光寺・日光経由三春という行程での算術修行です。
一部船旅もありますが、もちろん9割以上が徒歩の旅路です。
 
全国津々浦々を旅する遊歴算家の活躍によって、和算ブームは草の根の広がりを見せて日本の隅々まで高度な数学が広まっていき日本独自の数学・算術である和算文化を築き上げていきました。

      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝







「佐久間庸軒旅日記」 船引町文化財集7 船引町教育委員会平成2年七月発行参照




| ryuichi | 05:24 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺343号 三春城下の成り立ち 「新町の巻」 2020.2





三春城下の成り立ち 「新町の巻」

 三春城下の成り立ちは、室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城から移り現在の場所に三春城を築城したのが始まりと言われ、初代義顕、2代隆顕、3代清顕の三世代が三春領を治めます。それ以後三春城の改修や、城下の町割りそして寺社の建設が進みました。
 
義顕の三春城築城時に城を中心として北方位を北町、南方位を南町とします。

現荒町は築城の町割りの時に新設した町ということで新町(あらまち)としました。

 中町と下大町は、後の蒲生代官時代に新設されています。

秋田氏三春入り翌年の正保3年(1646年)には、城下町内の地名として、大町、中町、八幡町、荒町、北町、新町の「六町」を定めました。



 現新町は当初足軽町と呼ばれていましたが、松下公三春入城以後「新南町」と称し、さらに下って秋田公時代に「新町(しんまち)」と明記されています。
 
天正19年、豊臣秀吉によって断行された奥羽の大名の再編成である「奥州仕置き」によって、田村家は改易され仙台藩に統合されれると、三春領は蒲生氏郷の会津藩の一部となります。

 会津藩主は、氏郷の死後、上杉景勝、再び蒲生秀行・忠郷と変わり、三春を預かる城代も交代しました。後に蒲生忠郷が病死すると、蒲生家は改易となります。

 江戸将軍3代家光の時代、寛永4年(1627年)加藤嘉明が会津領に入ると、三春領3万石は嘉明の次男明利に与えられます。

 翌年には明利は二本松10万石に移され、代わって松下長綱が入部します。
しかし、正保元年に松下長綱が死ぬと嗣子がなかったために松下家は断絶、その後1年間ほど幕領でしたが、翌正保2年、常陸宍戸から秋田氏が入部し明治維新まで三春を治めます。






 当店がございます三春城下新町の歴史的背景と成り立ちといたしましては、寛永5年に「松下氏」が三春城主になり、17年の間三春領内を治めます。

 松下氏は城の普請にも力を入れ、三春城の一番荘厳期、町割りでは現在の新町は『足軽町』といわれていました。

その後、新南町と変わり、江戸後期の秋田藩藩政下で現在の「新町」となりました。

 新町は、山中(明王町)、新町、弓町、清水、入清水等を総称して、新町と記されています。

 山中は「明王町」とも呼ばれ、その地名は、田村清顕が、天正年間に磐城守山郷にあった大元帥明王社(現田村大元神社)を三春本城二の丸に遷宮した折に、同社の鎮座してあった守山郷の地名「山中」をそのまま呼ばせたのに始まっているようです。

 大元帥明王社は三春秋田藩五万石総鎮守で、旧藩時代までは旧暦の6月14日から3日間の祭典が行われ、三春領六十六郷が当屋番にて三春藩5万石領を挙げて執行されていました。






 山中から清水にかけては侍屋敷、新町は商家・修験・足軽(半農)と区分された形でした。新町末には、化粧坂(庚申坂)があり正徳の六地蔵の一体が鎮座しています。

 真照寺、州伝寺、天沢寺(松下時代以降に会下谷より移転)も昔のまま、真照寺の古四王堂毘沙門天、州伝寺の一時地蔵尊、天沢寺の身代り地蔵尊、それぞれの緑日の祭りが賑やかだったと伝わっています。

 家畜セリ場は、藩政時代から馬市、そして牛市で栄えたが今はありません。また、三春駒の名と共に、江戸時代から昭和31年5月24日に発令された「売春防止法」の実施まで、長期に亘って繁昌した色街旧庚申坂、そして、弓町新地新庚申坂は見る影もなく、僅かに残る格子戸に昔の面影をしのばせています。

清水は、入清水から清水末まで藩政時代には大小の家中屋敷跡が並んでいました。

 清水末にはかつての町営プールのある処(現作業所でんでんむし駐車場)は、明治の初め頃までは、田村産馬組合が創立事務所を置いた場所で、目の前の直線道路は「田村馬場」として再整備されていました。

   蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春  拝


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塵壺342号 「明智光秀と三春藩別格宿老(家老)荒木氏」




塵壺342号 「明智光秀と三春藩別格宿老(家老)荒木氏」 令和二年

2020年、戦国武将明智光秀の生涯を描くNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」が放送されます。
主役明智光秀を長谷川博己さん、木下藤吉郎(豊臣・羽柴秀吉)を佐々木蔵之介さん、そして、語りを市川海老蔵さんが担当しています。

明智光秀といえば、本能寺にて主君である織田信長を討った謀反人であり、中国大返しで戻った羽柴秀吉に天王山・山崎にて敗北して“三日天下”と嘲られるなど、不名誉なイメージが強く残りますが、領地である丹波三十五万石では、京都府亀岡市や福知山市における城下町の整備や明智藪 (堤防)と呼ばれる治水工事は高く評価され、現代でも“亀岡光秀まつり”や“福知山御霊大祭”など、光秀ゆかりの祭りが行われ、領民に尊敬され、いかに慕われていた領主だったかがうかがえます。






この明智光秀と三春藩秋田氏との関りをご存じですか?

三春藩秋田氏の別格家老として細川氏と共に「御両家」と呼ばれた荒木氏の祖は明智光秀の家臣となっていた時期があります。

この荒木氏の祖とされる荒木山城守氏綱(氏香とも)は、丹波の盟主的な存在の波多野氏の家臣として「波多野氏旗頭七人衆」の一人と称され、丹波国多紀郡の細工所城主で“丹波の荒木鬼”と言われるぐらい勇猛な武将で、篠山の北方に位置する園部城も支配下におく丹波の有力者でした。

江戸幕府が寛政年間に編集した大名や旗本の家譜集「寛政重修諸家譜」には、利休十哲の一人荒木摂津守村重(信長に仕えたが後に裏切った)の叔父と記されていますが出自に関しては諸説ありです。

後に、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波に攻め込んできた際、荒木氏綱勢は、織田・明智勢を何度も撃退しています。

天正7年(1579年)、盟主である波多野秀治が織田・明智勢に捕えられて処刑されると氏綱は明智光秀に降伏します。
光秀は氏綱の武勇を惜しみ家臣として仕えるよう要請しますが、氏綱自身は病身を理由に断り、代わりに嫡男・氏清を明智家へ出仕させています。

本能寺の変後に起こった「天王山・山崎の合戦」では明智勢に丹波衆として参戦し氏綱とその子高兼(次男)は討死します。






初代三春藩主の俊季公の父秋田実季公の正妻は、徳川2代将軍秀忠夫人の崇源院とは従姉妹にあたる元室町幕府管領家の細川右京太夫昭元と織田信長の妹・お犬との間に生まれた円光院です。

 そして、実季公の側室筆頭である「瑞峰院」は、前記の三春藩秋田氏別格家老の荒木家の出身です。
瑞峰院は、正室である円光院の侍女でしたが、実季の寵愛を受けるようになり、側室として、お国、季次、季則をもうけます。

この縁で瑞峰院の実家である荒木家の当主・高次(瑞峯院の兄弟)が、秋田家に三百石で取り立てられます。さらに、高次の子高綱は、実季と瑞峯院の間に生まれた娘を妻として迎え、この高綱の息子高宅は、実季の弟である若狭小浜藩主酒井家の家老安倍英季の娘を嫁に迎えており、その子高村は英季の孫娘を妻としているなど主家である秋田氏との縁戚を深めて行きました。






こうしたご縁から高綱以降三春藩内にて秋田・宍戸由来の古参重臣を差し置いて別格の宿老として荒木氏の地位が上がっていきます。

後の三春藩4代藩主・秋田頼季は、荒木高村の嫡男であり、先藩主輝季公の養子となって秋田家の跡を継ぎました。






   さすけねぇぞい三春  拝   蒼龍謹白  


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塵壺341号「船引小学校親子学習 三春昭進堂和菓子講習会」 令和元年師走発行




塵壺341号「船引小学校親子学習 三春昭進堂和菓子講習会」 令和元年師走発行


   船引小学校親子学習 三春昭進堂和菓子講習会
東京オリンピックを来年に控え、「お・も・て・な・し」に代表される日本文化がますます世界から注目を浴びています。
日本の食文化・特に和食が外国からのお客さんをおもてなしする機運が盛り上がりを見せて、和菓子の観点から見ますと「わびさび」「日本人の心」として「茶道」と共に和菓子にも期待が寄せられています。

今の茶道は、正に日本のおもてなしの心を、自然に表現できるようお稽古で研鑽する道で、履物の脱ぎ方からおじぎの仕方、座り方、歩き方、折り目正しい形や動きを通じ、茶道の基本的な作法を習得することを本義とし、茶人として日常生活の中でも総ての事柄に於いて「一期一会」と心得て、他者への思いやり・おもてなしの心を養って、心と姿勢を一つにすることを学びます。

現在、茶道会では子供茶道教室などを通じて、子供たち自身が今日的な視点から日本の伝統や文化をとらえ直し、日本のすばらしさを誇りに思うと同時に、世界の中で日本人としてよりよく生きていくために、何をどのように生かしていくかについて、一つのヒントとしてぜひ子どもたちへ伝えていきたいと考えていると伺っています。







先日、田村市立船引小学校第5学年の児童・父兄合わせて218 名の親子活動で「上生菓子(煉りきり餡)造り」を実施したいということで依頼があり、茶道には欠かせない上生菓子の講習で「おもてなし」の気持ちを少しでもお伝えできればという想いから、講師をお引き受けました。

今回は、親子で2品。しかも、ちょっと技術が必要な煉りきり餡を三重で包餡して菊花に成形、その上に薄く流した抹茶羊羹の葉っぱを飾るという作業を提案させていただきました。
白あんで炊き上げた煉りきりに求肥で繋ぎを取った白、ピンク、そして、中こし餡の三種類を包餡し、箸や楊枝で花びらを造り、黄色で花弁、そして、抹茶の羊羹で葉っぱを付ける・・・・学年委員長さん、学年主任の先生の采配で、早速お菓子造り開始です。






それぞれ工夫を凝らしながら、上生菓子を造っていきます。

お茶会での菓子の食べ方を伝授し、ご自身で造られた練り切り上生菓子の実食です。自分で造った上生菓子の味はいかがだったでしょうか?
最後に、代表の児童たちによる和菓子造り体験の感想を発表、そして私たちへ御礼の言葉をいただきました。

 当店では通常は上生菓子を販売していませんが、「上生菓子が美味しかったので買いに来ました!」「孫に頼まれた!」と、この上生菓子造りに参加された児童、親御さん、そして、祖父母さまにご来店いただきますと、当日、親子で美味しそうに頬張っている姿を思い起こして少しはお役に立てたかなあと安堵した次第です。





また、手前どもも大勢の方々へ煉りきり餡による生菓子造り講習への対応など、貴重な機会を与えていただきましたこと心より感謝を申し上げます。


和菓子には、古来より日本人が大切にしてきたものが盛り込まれています。

和菓子を通じて、日本の季節や節目々の行事を体験し、興味を持っていただけたら幸いです。

「まんじゅうでちょっと一服」心も体も暖まり癒されて、「あ~日本人でよかった」と思う日々。






  蒼龍謹白 さすけねぇぞい田村!  拝


| ryuichi | 04:40 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |