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塵壺352号  「負けてらんに!」 蛙文字書家 渡辺弥七 令和2年11月発行




    「負けてらんに!」 蛙文字書家 渡辺弥七

 ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、先日、福島テレビの夕方の情報番組「福テレ・テレポートプラス」の八重樫アナウンサーが、新任地である福島県の市町村をお勉強するという番組「フクカツ」の取材・収録のために当三春昭進堂にご来店され、三春名物おたりまんじゅうの紹介や、饅頭つくり体験の模様が放送されました。


  



 また、蛙文字書家の渡辺弥七さんから拝領した蛙文字で揮毫された、私の好きな矢沢永吉さんの言葉「前向きなうぬぼれ」の額を見て、蛙文字を習いたい~ということになり、弥七さんに当店にお越しいただき蛙文字を指南してもらうという場面も放送されました。

弥七さんは、今年87歳になるとおっしゃっていましたが、カメラが回り蛙文字を書き始めると、しなやかの中にも躍動感のある蛙たちが文字を作り上げ、その力強さを目の前で拝見し、そのパワーをいただきました。









自ら生み出した「蛙文字」や「蛙絵」を描きそして書き続けて50年余。 

 一文字の中にカエルが1~数匹で構成され、柔らかいカエルの骨格を念頭に文字を仕上げていきます。

くれぐれも蛙の手足が逆に曲がらないように~様々な角度の蛙たちが生き生きと描かれています。


 この“蛙文字”を描くようになったのはお母様の入院がきっかけと伺いました。「早く良くなって病院から無事に帰る!」との思いを込めて蛙(帰る)文字で手紙をしたためたということです。






 弥七さんは、昨年体調を崩され入院されましたが、まだ筆を置く訳にはいかないと退院したその年の秋(昨年の秋)に、三春町交流館「まほら」に於いて「渡辺弥七 蛙文字展」を開催されています。

 その入口に掲げられた旗には「病気になっても、病人になるな」と揮毫されていました。また、会場に展示されてあった蛙文字・絵の「長獅子と御神輿の祭礼絵図」や「般若心経」は圧巻です。この展示会は退院後に開催されたので、“病気に負けてらんに!”との強い意気込みが感じられました。


  下記は、その展覧会のプロフィールからです。
 
「母の急病、入院をきっかけに、ひょっこり生まれた私の蛙文字。

以来、いろいろな方に支えられ、育てて頂き乍ら、五十年を経ました。

 “より楽しいもの”“より温かいもの”“優しいもの”をと願いつつ、誠実な蛙さん達の協力を得て、文字づくりの工夫を楽しんで参りました。しかし乍ら、近頃、歳のせいか、
気力、意力、発想カの衰えなど、自分でも歯癖いほどでオロオロするばかりです。

 そこで、自らに「活」を入れる目的で、これまでの全仕事を見返す遺作展的なものを開くこととしました。

遺作展とちがうのは生きている当の私が、これを観るということにあります。

観れば当然、いろいろな感慨が湧きます。

反省、後悔の念も新たにするでしょう。

 一方で、“こんな発想も出来た”“こんなことも出来た”“こんなことにも挑戦していた”など、自分を元気づける思いも生まれるかも知れません。

 これらを綯(あざな)いまぜて新しい力とし、残り少ないこれからの人生を、蛙さん達と力をあわせ、もっと楽しい、もっと温かい、もっと優しい蛙文字を生み出せるよう努力を楽しみたいと思います。

 歩けるだけ歩いていくつもりです。

もう少し成長したいから。」

 弥七さんの人となりをそのまま文字で表した様な、洒落の利いた心強いお言葉ですので原文のまま掲載させていただきました。







 二人の愛娘である安里さん(陶芸)、あずささん(イラスト、人形、陶芸)は、毎月第3金曜日には、三春城下中町・本陣本店さんの店先をお借りして、「ちょっくら市」という手仕事人たちによる小さなお店を開いて好評を博しています。






 “母からはただのひと言でも愛を伴わない言葉はきかされたことはない”
     
アトリエ「蛙さんの家」内に掲げられてある言葉です。


 蒼龍謹白 「With三春城下」 さすけねぇぞい三春!  拝

| ryuichi | 04:10 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺351号 令和2年10月発行  三春城下中町愛宕社(現愛宕神社)別当庚申跡の地蔵改修供養




塵壺351号 令和2年10月発行

三春城下中町愛宕社(現愛宕神社)別当庚申跡の地蔵改修供養
 
中町の愛宕神社山内への参道中腹、旧中町児童公園跡に朽ち果てた姿のお地蔵様があります。
 先ごろその補修が、有志の方々によって行われました。
 
このお地蔵様は、愛宕社別当の庚申(大光寺?)があった場所にあり、明治維新後の廃仏毀釈の際に、頭を割り落とされて放置されていましたが、このたび約150年ぶりに修復され元のお姿にもどりました。
 澄んだ秋空の下、眼下には御城山、城下を一望しながら修復に携わった有志一同で線香をあげ手を合わせて供養いたしました。






 

愛宕神社の由来は、戦国末期の慶長十八年、三春領が会津領(会津城主蒲生氏郷)だった頃、三春城代蒲生郷治が、三春鎮護と火伏せ等を祈念して、京都嵯峨野にある愛宕社総社の阿多古神社から火の神様とされる「迦具槌命」と戦勝の神「将軍地蔵尊」を分霊して、京に習い、三春城から西方の現在地に愛宕山地蔵堂「愛宕堂」を建立して祀ったことが社伝として伝わっています。







 以後、愛宕堂は別当(寺社の管理者)である、庚申や西福寺・大光寺には代々法印様と呼ばれる修験者が居住してご祭神を守護してきました。
 本殿は、神仏習合の名残から「奥院」と称され、勧請時のご本尊「愛宕将軍地蔵」が、秘仏として二重の桐の木箱に納められていますが、箱書きには「愛宕山 本地秘仏 国家安穏 将軍地蔵尊」と記されてあります。

 古来より「将軍地蔵尊」を念ずれば競合に打ち勝ち、あるいは貧窮から救ってくれるといわれ三春城下の人々の信仰を集めてきました。







 明治維新後には、この勝軍地蔵尊像は、新町の真照寺に納められたと記録されていますが、愛宕社勧請の時に祀られたとみられる勝軍地蔵尊の小さな木像が現愛宕神社に残されています。






尚、現愛宕神社の本殿(奥院)は、戦前まで三春小学校にあった「奉安殿」を移築したものです。


 別当の一つ愛宕社(現愛宕神社)別当西福寺跡は、愛宕神社から一段下の南東面に位置する平場にお堂(堂字)がありました。






 宗派は真言宗系で愛宕社の別当寺院であったと伝わっていますので、愛宕社成立と共に建立されたと思われますが、江戸時代後期には無住寺となりました。

近年まで山裾には墓地が残っていましたが、現在は本堂も墓地も残されておらず、「西福寺第三」の銘がある地蔵一体が残るのみです。また、旧墓地の土手の斜面に石仏の残欠が残っていたとも伝わっています。

 愛宕地蔵関連の資料を見ますと、三春城下清水天澤寺付近にある地名「天狗谷」の記載もあります。

 ”天狗谷”とよんでいますが、正式な地名ではありません。元々修験の行者が管理する愛宕将軍地蔵尊を祀ったお堂があった場所とされています。
 約350年前、江戸期の三春城主秋田家が宍戸より三春へ移封の際に、愛宕地蔵堂を城下中町へ移築し、秋田より移設した古四王堂(後に真照寺山内へ移築)の御借屋があった場所でした。







 三春城下には数多くの寺社仏閣があり、祭礼、縁日はもちろん草刈りや掃除・補修等々地域の方々によってそれぞれを守り伝えてきました。
 
また、路傍にある石碑やお地蔵様も含めたこれらの歴史的文化遺産は、人々の信仰の対象であるとともに、歴史的構造物というだけではなく、それぞれの地域に根ざした文化として価値を持ち、郷土への誇りや愛着を深め古来より地域住民のよりどころ、地域のコミュニティの場として機能してきました。

 正に、これらは歴史を背景に、生活との関わりの中で生み出され、現在まで守り伝えられてきた町の財産だと思います。







 さらには、将来を担う子どもたちが地域の伝統と文化に関心や理解を深め、尊重する姿勢を育むことは、豊かな人間性や国際社会に生きる日本人としての意識を形成する上でも大切なことなんだろうと考えています。











     蒼龍謹白  さすねけぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 04:37 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺350号 福の神「宇賀神様(うがじんさま)」 鷹巣 宇賀石 令和2年9月





塵壺350号 福の神「宇賀神様(うがじんさま)」 鷹巣 宇賀石 令和2年9月



 
  福の神「宇賀神様(うがじんさま)」 鷹巣・宇賀石

先ごろ、テレビ朝日の人気番組「ナニコレ珍百景」で、鷹巣の宇賀石にある「宇賀神様」の小さな立看板が取り上げられました。
「宇賀神さまです。お賽銭を必要とされる方はご自由にお持ちください」という不思議な立看板で、友人が番組に投稿・採用されたものでした。

この「宇賀神様(うがじんさま)」は、鷹巣宇賀石地区の旧国道288号に架かる高架橋と郡山東部広域農道が交差するS字カーブの坂道付近にあり、その場所が鬱蒼としていたことや、駐車場がないということもあり、ゆっくりと観る(参拝)ことを遠慮していた場所です。






この放送に至るまでには、様々なご縁が幾重にも重なって在り、今年5月の連休明けに、「舞木のお稲荷さま」、古くは“舞木のいなっしゃま”と親しまれてきた郡山市白岩町にある「高屋敷稲荷神社」に集う方から、この宇賀神様についてのお尋ねがありました。
その時点では「桜の老木の下に何かの祠がある・・・」程度の認識しかありませんでした。

後日、その方から連絡があり、高屋敷稲荷神社の鈴木宮司が、地主である橋本吉正様に連絡を取ったところ橋本様ご自身(ペンネーム橋本史紀)の著書で鷹巣集落の歴史をまとめられた「田村の庄・鷹巣の里を辿る」(自費出版非売品)中に宇賀石の「宇賀神様」の記述があると伺ったということでした。

以来、高屋敷稲荷神社に集う方々や鈴木宮司が、草刈りや雑木伐採等をして、コツコツと整備を始めたというところでの「ナニコレ珍百景」の取材・放送と相成りました。







この宇賀石に祀られている「宇賀神様」の創建は、室町末期の戦国時代までさかのぼり、鷹巣村の庄屋であった松崎氏の氏神であったとのことですから、約500年の歴史がある「福の神様」で、“うげいしさま”と呼ばれ信仰を集めていたと伝わっています。

その福徳は「金運、財運、智恵、五穀豊穣」など、多くの御利益をもたらしてくれる「福の神」と言われ、中世以降に民間信仰として、さらには、「立身出世」の御利益があるとして、武家の信仰の対象でもありました。

また、そのお姿は風化が進んでいますが「蛇神・龍神」の化身と伝わっているように、頭は若い女性かお爺さん、そして胴体には蛇(龍)がとぐろを巻くという容姿であらわされています。







下記は、「田村の庄・鷹巣の里を辿る」を参照しての記述です。

旧鷹巣村の庄屋松崎氏の子孫の方から聞いた話によれば、生来、病弱だったことを心配した家人が、宇賀神様の桜の葉を数枚いただき煎じて飲ませ続けたところ、とても丈夫になったとの事。

また、ある方が桜の枝が年々成長し続けたので農作業の支障になると枝を少し切り払ったところ、その後ケガに見舞われ、以来どんなに枝がのびようと一切ふれないよう大事にされている等々・・聞けば偶然とも片づけられない不思議な霊力が伝わっています。

さらに、鷹巣の古老の方々からは「昔は、カマス(米俵のようなもの)でお賽銭を背負って運ぶほどの信仰が厚い神様として大盛況だった。」と聞き及んでいると記されていました。

そして、橋本家に伝わる話では、あるときお坊さん(修験者?)が現れて「あの神様を大事にすると家が栄える」と告げていったそうです。









前記の“お賽銭を必要とされる方は、ご自由に~”という立看板は“お賽銭を持って行かなければならないくらい困っているのでしょう?”と、橋本さんご自身も“功徳”との思いから設置したそうで、正に「福の神」である宇賀神様に、所願成就を祈願し、その満願成就された方々からの「御利益・福徳の御裾分け」だと考えています。






宇賀神様の御縁日はというと、弁財天の御縁日と同じ「己巳(つちのとみ)」とされ、その縁日には、参拝者が多く訪れて金運・財運アップを祈願していたと想像しています。



旅人の安全を見守るかのように、旧江戸街道・須賀川街道に対して正対する向きで建立されていた宇賀石の宇賀神様です。見通しの悪い場所にある為に、参拝はもちろんですが、前を通行の際は交通安全をお願いいたします。

尚、路上駐車はおやめ下さるよう重ねてお願い申し上げます。







先のナニコレ珍百景での「福の神 宇賀神様」の御利益のある看板登録・採用の謝礼金、3万円を三春町に寄付して来ました。



三春町町長室にて、坂本町長に出演者3人で手渡しです〜〜

自分たちで使うのは御利益がないということで、宇賀神様の周辺整備も考えましたが、三春町を通じて困っている人、特に昨今の新型コロナ対策に役立てていただきたいと寄付をしてきた次第です。


これも宇賀神様への寄付寄進の一環、そして、我々への功徳を積む福徳と考えています。



さらには、地主である橋本様ご一家、高屋敷稲荷神社鈴木宮司、そして、高屋敷さまに集う方々へご縁をいただいたことへ感謝申し上げます。






尚、この宇賀神様の傍にある老桜はエドヒガンザクラと思います。本木は幹内部が枯れ手作りなど外皮によって生息していますが、その元から新しい幹が巨木となり2本育っています。

エドヒガンは寿命の長いことでも知られていて、滝桜も含む「日本三大桜」の他の2本、樹齢2000年と言われる山梨県の山高神代桜(やまたかじんだいさくら)、
そして、岐阜県にある樹齢1500年と言われる根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら)はエドヒガンです。

この宇賀神様の桜も宇賀神様の創建が500年であれば、もしかしてどの折に植樹をしたとも考えられます。
そうしますと、宇賀神様の桜、仮に「宇賀石の宇賀神桜」
と呼ばさせて頂きますが、ここ桜の年齢樹齢も500年になるのではないかと考えています。


因みにですが〜  いわゆる花言葉は「心の平安」だそうで、どおりで宇賀神様、そして、高屋敷稲荷神社さんに行くと居心地が良い訳です〜〜

蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝









舞木のお稲荷様の秋祭り


屋敷稲荷神社 秋季例大祭 2020

2020年

10月10日(土) 18:00 宵宮

10月11日(日) 11:00~秋季例大祭


今般のコロナ禍に伴い、参列者及び関係者の安全面、感染拡大防止の観点を考慮した規模を縮小して斎行いたします。


ご参拝の皆様には、ご迷惑をおかけしますが、何卒ご理解ご協力賜りますようお願い申し上げます。

 問 高屋敷稲荷神社 024-943-6396





| ryuichi | 04:32 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺 第349号 「 三春城下郊外「洞」 三春田村氏と田村武士団」 令和2年8月発行



  
三春城下郊外「洞」 三春田村氏と田村武士団



田植えを終える目安とされる「半夏生(はんげしょうず)」の頃、三春城下在の各地の集落入口付近で、細竹の先に「御札」を括り付けて村境付近に建てられているのを目にします。


これは「五穀豊穣」と「村内の安全」を祈願して「夏越の祓(なごしのみそぎ)」として神主さんに「辻切り」の御祈祷を受けた「御札」を、村の入口の「辻」と呼ばれる道の交差するところ、特に鬼門(東北)や裏鬼門(南西)の方角に立てて村外からの疫病などの災厄(さいやく)が、村内に侵入するのを防いでいるものです。


この御札には「楽内熊野神社」「込木見渡神社」等の鎮守名と「御祈祷 神璽(ごきとうしんじ)」と共に「村内安全」ではなく「洞内安全」と記載されています。





楽内洞、込木洞…この洞(うつろ・ほら)とは、室町期以降の東国の武士、地侍の一族郎党が所領する集落を指しています。

田村地方でも、三春城主田村氏一族以外の配下・合力・与力の「武士団」形態で、旧田村領田村六十六郷(田村庄)と小野六郷(小野保)福原村で構成され、地侍・惣領である当主を中心にした田村武士団一族郎党の総称です。米田村三代清顕公の最盛期には、安積郡や安達郷、岩瀬(石背)郡、石川郷などの一部が含まれ10万石以上で131ヶ村。江戸期の秋田藩政下では81ヶ村。







「農兵分離」が確立する前の中世武士団の所領とは、先祖代々伝わっている田畑・山林、屋敷など「命をかけても守るべき生活の基盤」との考え方が残っていました。
 また、洞は武家政権による力関係で国主・盟主の配下として合力・与力する一つの武士団というくくりで、後の江戸幕藩体制の確立に基づく近世大名における「家中」、家臣という位置づけです。


 戦国時代の仙道(今の福島県中通り地方附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区で、三春田村氏も、伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・大内(小浜塩松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(小高)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いていました。






 三春田村家は、相馬氏、伊達氏と連携を図りながら、その状況下の中で、三春田村武士団の惣領として、一族や直臣、そして田村「洞」中の領主連合を形成して、戦国乱世を生き抜いていたと考えています。

 後に、豊臣秀吉の「奥羽仕置」に連座する「田村仕置」にて三春田村家は改易となり伊達家へ吸収されますが、秀吉からの旧田村領授領を辞退した伊達重臣片倉小十郎、豊臣政権五奉行の浅野長政らの計らいもあり、「内分分家大名」として田村家は伊達家の中で吸収・存続となります。

しかし、この時代はまだ地方での「農兵分離」が進んでおらず、大多数を占める旧田村家の家臣達は、先祖伝来の土地から離れるのを嫌い、さらに田村家の存続をできなかった伊達家を頼らずに田村領内の自分の所領にて帰農します。

 また、伊達家(白石片倉家)へ移籍した田村本家である牛縊(田村)宗顕はじめ、橋本氏、御代田氏、田母神氏、中津川氏、郡司氏等々、旧重臣11家(分家下士合計28家)も一族郎党の一部を旧田村領に残しています。









 時代が下り、蒲生氏、上杉氏、松下氏、そして江戸期の秋田氏と三春領主が替わっても三春田村氏の旧臣として「在郷給人」として「苗字帯刀」「御目見得」を許された大庄屋(割頭)・名主を代々務めて、明治維新を迎えます。


 尚、洞組織を集落として残したまま帰農した田村旧臣は武勇に富み、その家門を賞して「御屋形様」と呼ばれていました。

 現在でも、洞の形態が残っている例として、芦沢(現田村市芦沢)に鎮座する白山比咩(ハクサンヒメ)神社の例大祭に奉納される「芦沢の八ツ頭獅子舞」は、旧芦沢村の屋形洞、中洞、本郷洞、柏原洞、南洞、鞍掛洞、山田洞、横土洞の8洞(組)で獅子舞を今に伝えています。








     蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:45 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺7月 第348号  「壽楽會」昭和11年奉納 燈籠  三春大神宮境内 2020.7.17発行





塵壺7月 第348号  「壽楽會」昭和11年奉納 燈籠  三春大神宮境内 2020.7.17発行


 体力増進とダイエットのために早朝や、夕方に散歩を始めました。
毎日歩いていますと、何気に通り過ぎてしまっていたことに“ふっと”目が留まることがあります。

 その中に、三春大神宮境内への参道最上部に「壽楽會(じゅらくかい)」が奉納、建立したと記された石造灯籠が一対あります。







 帝国陸軍皇道派の青年将校により「二・二六事件」が発生した皇紀元二千五百九十六年・昭和拾壹年(11年)と年号が刻まれています。

 奉納者は、内藤傳之助、渡邊甚平、渡邊栄一、斧田撫臣、国馬長太郎、岡山又四郎…という三春のお歴々が明記され、深間内久蔵の名前を見つけることができました。

 他の方々の生年から察するに、自由民権運動家、深間内基氏の御子息と推測されます。
 
父の自由民権家・深間内久蔵(のちに基と改名)は、弘化3(1846)年、三春藩士深間内基時敬の長男として生まれ、明治元(1868)年11月、22歳の時に慶應義塾に入学。義塾で英学を学び、明治9(1876)年に、高知にある立志学舎に英学教育員として招かれました。







 立志学舎は、板垣退助・片岡健吉らによって結成された政治結社立志社が、民権思想普及のために設けた学舎で、深間内は自由民権運動の大きな影響を受けることになります。  
 なかでも、女性が演説会に参加する様子をじかに見聞したことは、深間内に女性の社会的地位に対する関心を喚起したとされています。
 明治11(1878)年、J.S.ミルの『The Subjection of Women』(1869年英国にて発行)を『男女同権論』の題で翻訳し、日本に於ける男女同権論争に大きな影響を与えています。

 また、明治期に、三春は元より田村地方の若者が志を抱いて東京で勉学に励むことを扶けるために設立された学生寮「田村学生寮」建立に尽力され、千三百余圓の私財を投入し建設資金にし、藤泉賢四郎氏(後の大林組副社長大林賢四郎氏、田村大元神社神職藤泉氏出身)が設計施工を請け負ったと記録されています。






 同燈籠に岡山又四郎のお名前も見えます。

同氏は、元小野町長・秋田直孝直(旧姓岡山直孝)氏、そして音楽家の岡山直氏のお父上様になります。

岡山先生は、三春小学校の他に、三春中学校、県立田村高校、そして町外の船引中学校や、伊達小学校、大槻小学校など様々な学校の校歌を作曲し、今も歌い継がれています。






 校歌と云えば、NHK連続テレビ小説「エール」に登場する歌手の森山直太朗さんが音楽教師・藤堂清晴先生役で出演しています。
 藤堂先生は、主人公の作曲家・古関裕而の恩師である音楽教師・遠藤喜美治先生がモデルになっていると考えられます。

 遠藤喜美治さんは、旧要田村の出身です。実家は農家ですが、長男ではなかったため農家を継ぐことは出来ず、要田国民学校(現在:福島県田村市立要田小学校)を卒業すると同校の用務員として働きながら教師を目指し、苦労の末に教員となりました。

 後に、古関裕而が在籍した福島県師範学校附属小学校の教師をしており、古関が3年生から6年生までの担任をしていました。
 古関の回顧録にも、「最初に音楽の指導をしてくれた先生」と記されていますが、子どもの頃に教えられたことは、成長していっても残っているものです。

 要田小学校の校歌は、遠藤喜美治:作詞、古関裕而:作曲で、歌詞が少し変更されていますが、今でも歌い継がれています。

   「五つの大字(あざ)の むつまじく…♪」旧要田小学校校歌より







    蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝



訂正とお詫び

塵壺では、元小野町長・秋田直孝直(旧姓岡山直孝)氏と記すべきところを、元小野町町長岡山直孝氏となっています。

訂正し、関係各位にはお詫び申し上げます。
塵壺での訂正は次月号で記載させていただきます。


| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺347号 三春城下新町真照寺下“幻の霊鉱泉「不動温泉」”と三春3名水 2020.6




塵壺347号「三春城下新町真照寺下“幻の霊鉱泉「不動温泉」”と三春3名水」 2020.6





(昭和14年4月の花まつり稚児行列での当店南側の旧セリ市場付近で撮られた写真ですが、右上に不動温泉が映っています。)


三春城下新町にある藩主秋田氏の祈願所真照寺下に昭和初期から戦後まで“幻の霊鉱泉「不動温泉」”がありました。
その昔、真照寺の奥ノ院参道に老杉が列なり、昼尚暗い谷間から湧出する薄茶色の天然温鉱泉が湧き出ていた。





この鉱泉で湯を沸かして入浴すると不治の難症に適するというもので、諸方より不動明王を御本尊とする真照寺へ水汲みの参詣者が絶えなかったと記されています。さらに、時の三春藩主秋田候も難症に悩んだ為、真照寺に1週間参籠してこの霊鉱泉で沐浴し満願の日に完治したと言い伝えられています。

時代は下って昭和初期。この話を伝え聞いた方が詳細を調べ、当時の福島県衛生試験場で成分試験を依頼したところ難病を治癒するに足りる成分が含まれることが解り、試験証明を交付されます。




また、その適応症について物理学の権威で、当時大原病院皮膚科長坂本医学博士に研究を依頼すると、婦人病、胃腸症、中風症、リウマチ、神経痛等の難症の治癒し得ることが証明され、昭和初期にしては珍しい木造三階建ての湯屋を開業するに至ります。





真照寺御本尊の不動明王にあやかり「不動温泉」と命名して営業を始めますが、太平洋戦争の勃発により営業休止となってしまいます。

戦後、郡山近郊の三階建て以上の建物が、日本復興計画の郡山駅前開発により集められ、旧不動温泉の自慢の3階楼建屋も昭和25年ごろ旧寿泉堂側に移築して昭和40年代まで旅館として使われていました。






現在はもう「不動温泉」はありませんが、真照寺の山を挟んだ城下馬場に三春の奥座敷「馬場の湯温泉」があり、三春近郊は元より全国からの沢山のお客様を迎えています。





城下町・三春の観光拠点として、また立ち寄り湯や湯治場としても利用されることが多い三春城下の奥座敷で、三ツ美屋旅館、若松屋旅館、そして、霊泉やわらぎの湯が軒を並べています。

全国有数のラジウム含有量を誇る泉質は、身体機能を活性化させ自然治癒力を高める効果があり、 卓効の湯と評判で、英気保養に努める人が全国各地から訪れます。

「馬場の湯」という名前の由来は、近くに三春藩の乗馬教練馬場があった名残です。

また、城下の名水と云えば「亀井水」「霞井戸」そして「霧の井戸」を城下の三名水に挙げています。





「亀井水」は、相馬街道が烏帽子石の黒木戸(藩政時代の城下境の門)をくぐり城下に向かって下り始めた道脇に涌き出している清水です。
現在は、光岩寺の参道入口に石柱が見られますが、当時は近世三春城下“入亀井”入口のすぐ上にありました。

この亀井水は、領内五万石の村々から城下へ至る主要街道沿いにあり、旅程の塵を払い手水の上で城下に入る「化粧水」として最も多く使われた清水と伝わっています。
明治期の道路拡張によってこの清水は地中に埋まりますが、光岩寺参道入口に導水して「亀井水」の標識が建てられ、今もその井戸にはコンコンと水が注がれています。





次に「霞井戸」。入亀井の鍵曲(かいまがり)とよばれるクランクから三春本城の搦手口(からめてくち)登り口右側にありました。
御城下の武家地にありますので清水を汲むのは武家に限られていたと考えられています。





最後に「霧の井戸」。中世三春城大手口前(南町)にあったと記されています。
この井戸の名前の由来は、城中よりその井戸から霧が立ち上るのが見えたと伝わっています。

また、殿様の茶の湯の為に水を献上する井戸という意味で「献上井戸」ともよばれていたようです。

尚、この「霧の井戸」は、中世の頃にこの付近にあったとされる「金座」の職人たちが喉を潤した清水ともいわれています。



    蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝










三春城下馬場の湯温泉郷・営業再開のお知らせ
 
馬場の湯では、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、国・県の要請を受け営業自粛・臨時休業をしておりましたが、 緊急事態宣言解除を受けまして6月1日より営業を再開しました。

 しかしながら、全国の感染状況はまだ予断を許さない状況にあり、感染防止の観点から、 館内施設の利用及び一部のサービスを変更して対応してまいります。
 また、営業時間や宿泊など、それぞれの旅館によって新型コロナ対策の対応が違うことがございますので、HP・営業時間内での電話等で確認の程をお願い致します。

 馬場の湯温泉郷は、お客様と従業員の安全と安心を第一に、新型コロナウイルス対策に取り組んでまいります。

 お客様、関係者の皆様にはご不便やご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。




   三春城下 馬場の湯温泉郷







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| ryuichi | 04:17 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺346号 「新型コロナウイルス感染拡大終息祈願」太元帥明王・牛頭天王 令和2年5月1日発行




塵壺346号  令和2年5月1日発行

「新型コロナウイルス感染拡大終息祈願」太元帥明王・笠石八幡・牛頭天王



全国都道府県にも「非常事態宣言」が出され、「外出自粛」不必要な外出を避けるよう国からの呼びかけがあり、そんな閉塞感が溢れる昨今ですが、美味しい和菓子を食べて少しでも癒されて頂ければと思い営業しております。

 当店では、お客様および従業員の健康と安全を守り、新型コロナウイルスによる感染拡大防止するため、店頭における従業員のマスク着用と店内の接客前後のアルコール消毒を実施、お客様用のアルコール消毒液をご用意しております。

さらに、入口の扉を開放して換気及び扉開閉に関係なく店内には次亜塩素酸ナトリウム水入りの噴霧器にて店内空間の除菌を行っております。





 目に見えないウイルス。

毎日、不安が募りますが、手洗いやうがいや「3密」を避けるなど、正確な情報を基に冷静な対応こそが一番の対策と考えます。








 そうした中、三春で国難撲滅・疫病退散にご利益がある神様はと考えておりましたらお膝元の城下新町に旧三春藩領内総鎮守である太元帥明王、現・田村大元神社(祭神・国常立命)が鎮座されておりました。

 三春太元帥明王は、戦国大名田村大膳大夫義顕公が三春築城の際、守山字山中(郡山市田村町)から三春城東館下に移して三春領内の総鎮守としたもので、以後入封の歴代城主に引き継がれ、秋田藩政では真照寺住職を別当として三春藩内総鎮守太元帥明王社として領民より崇拝を集めています。





 御祭神の太元帥明王は、「国難」から国土を護り、外敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われ、その国難退散の祈願として宮中では古くから太元帥明王の秘法(太元帥法)が盛んに厳修されてきました。

「将門の乱」や「元寇」の時にこの秘法が行われ国難を撃退したと伝わっています。





 この三春太元帥明王社(泰平寺・学頭坊)では、戦国時代に周囲から田村領は狙われ戦乱に明け暮れた四面楚歌の中で、伊達政宗以下伊達家重臣同席して田村家当主以下重臣一同に会して宴席を設けて伊達・田村家の安泰祈願をしています。

 神仏離反後の御祭神「国常立尊」は、国土の永遠の安定を祝福する意が込められた神名であり、国家・人民が永久に存在することを表しています。






 根本の笠石八幡には、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の折に、根本村を通りかかったところ麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「麻疹の悪魔を征伐してやる」と、今の笠石八幡の場所より南西の天目がけて馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放したところ、麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか重い麻疹も急に快復したという伝説が残ります。





 

そして城下荒町にある八雲神社は「病魔・疫病撃退」の神様で、旧神号牛頭天王です。

 田村義顕公の頃、領内に疫病が流行し領民の病甚だしい状況が続き、義顕公は、修験者を京都祇園社に詣でしめ、三週間祈願させます。すると、霊験著しく領内の疫病直ちに鎮静化されたと伝えられています。

その京都祇園社より城下の天王山に勧請し、修験・普明院(現存せず)が別当として社務を掌り城下町として栄えていた三春に疫病の侵入防御の祈願していました。

 医療技術、衛生管理が乏しい時代に疾病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰はかなり大きかったと思われます。これらの神様に国難ともいうべき新型コロナウイルスの終息を祈願してきたところです。





外出自粛の中で心身ともに運動不足になりがちです。

地元の寺社に散歩を兼ねて、コロナ終息を祈願に参詣はいかがでしょうか?

村へ疫病が侵入するのを防ぐ道祖神、そして先祖供養のお墓参りもいいでしょう~


草むしりやごみ拾いなどをしますと心がすっきりして免疫力も上がるはずです!

もちろん、三密は避けてマスク着用で~。
 
そして、美味しいお菓子で心にゆとりと癒し栄養と笑顔で免疫力アップして、感染せずに終息するまで健やかに元気に乗り切りましょう!
 
新型コロナ対策の最前線で闘う、現代の牛頭天王・薬師如来ともいうべき医療従事者及び関係各位の皆様には心よりエールを送りたいと思います。



蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝


   


尚、店内には悪魔祓い・災い撃退を祈願して、岩見神楽演目「鍾馗」の面を配し、先の大戦で防空任務を担った陸軍航空隊の「鍾馗」も配してみました。







 


店頭には端午の節句五月旗です。








 
 蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝 


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