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塵壺356号 「先憂(せんゆう)」 三春自由民権運動 令和3年3月発行



「先憂(せんゆう)」 三春自由民権運動

幕末から明治という激動の時代。時代に翻弄され、挫折や犠牲を繰り返しながらも、「先憂(せんゆう)」という高い志を持って近代日本の礎を築いた三春の若い自由民権運動家達。

「先憂」とは、北宋の政治家范仲淹(ハンチュウエン)が著した『岳陽楼の記』の一説“天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ”即ち「政治家は常に国民のことを真っ先に憂えるべき」という言葉からの引用で、明治初頭の三春に於ける政治思想の根幹です。





自由民権運動とは、まだ、日本国に於いて国会はもちろんのこと憲法さえも存在しなかった時代、国民が国政に参加する自由と権利を獲得することを目的として全国的に広がった民間の政治運動で、明治7年(1874)、旧土佐士族板垣退助、後藤象二郎らが「民撰議院設立建白書」を提出したことが始まりとされています。

板垣らは、この運動のために全国的な組織「愛国社」を大阪に結成し、今では当たり前となっている国会の開設や 憲法の制定などを政府に求める活動を展開していました。

一方、三春における自由民権運動は、河野広中(こうのひろなか)を中心に、多くの同志たちと民権運動に参加し、三春に政治結社「三師社」、青年活動家を養成する学塾「正道館」を創設、館内には「三春先憂社」を組織して討論演説会を開始し数多くの運動家の育成を図ります。

また、東北初の政治雑誌「三陽雑誌」を発行して政治思想の教育に努め、多くの若き自由民権運動家たちを輩出します。

尚、「三陽雑誌」は第1号から第4号まで発行されましたが、発行部数の少なさと、時間経過等の中で長年その詳細な全容は不明でしたが、昭和50年から発行の「三春町史」編纂の際に、その全巻が発見され現在は三春町歴史民俗資料館内・自由民権運動記念館に自由民権運動研究家の第一人者で当家出身の故高橋哲夫氏所有の研究資料と一緒に自由民権運動の貴重な資料として収蔵されています。






これらの活動によって「西の板垣(高知)、東の河野(三春)」と称され、わが国最初の政党「自由党」の結成には代表を送り、政党活動にも積極的に拘わるなど三春は東国に於ける自由民権運動の中心地となっていきます。






明治 15(1882) 年、「鬼県令=県知事」とまで呼ばれた旧薩摩士族三島通庸(みちつね)が福島県令になり、政府の意を受け自由民権運動を強力に弾圧したため、福島県議会議長(後の衆議院議長)河野広中(福島民友新聞創刊者)らとの確執が続き議会は何度も紛糾します。

その最中、三島は会津三方道路の建設に着手します。この計画は将来を見据えたものではありましたが、農民たちの過酷な労役などの建設手段には大きな間題がありました。

この農民たちと一緒に、三島に弾圧され続けた三春正道館などで志を同じくした自由民権運動家たちは、三島に対する憎しみを強め、その反対運動・農民運動を展開することになります。





同年 11月28日、喜多方市塩川町の“弾正ケ原”に千人以上の自由民権運動家や農民が集まりその反対運動は頂点に達しますが、明治政府の力を背景とした三島は、大弾圧を強行し河野広中・田母野秀顕(たものひであき)ら、三春出身者10名を含む、多数の運動家を逮捕します。

これを『福島事件』と呼びます。






その翌年、三島が栃木県令として転任すると、残った自由民権運動家たちは三島通庸の追討として栃木県庁爆破未遂を起こします。

明治17年には、一連の三島暗殺を含む自由民権運動弾圧の反対行動は過激さを増し、最後は茨城の加波山で挙兵します。

後に「加波山事件」と呼ばれ、河野広中の甥である河野広躰(ひろみ)や琴田岩松など、三春人5名を含む多数の運動家が捕えられます。

彼らは、政治行動として逮捕も覚悟しての挙兵でしたが、国事犯としてではなく一般犯罪者として処刑されてしまいます。

以後、明治政府も、上記の一連の自由民権運動の高まりの結果もあり近代国家として国会の開設や憲法の発布の必要性を認め、明治22年大日本帝国憲法が発布され、翌年には第1回の衆議院選挙が行われ「帝国議会」が発足しています。



蒼龍謹白 With三春城下! さすけねぇぞい三春! 拝


| ryuichi | 04:43 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
 塵壺355号 「田村大元神社随身門(明王さまの仁王門)の彫刻」 令和3年2月発行
 



  田村大元神社随身門(明王さまの仁王門)の彫刻
 
今年は新型コロナウイルス感染拡大防止の影響により、正月三が日を外した初詣のお陰で、ゆっくりと詣でることが出来ました。その折に久しぶりに荘厳な彫刻の施された随身門をじっくりと眺めてきました。





 現在の田村大元神社の随身門(ずいしんもん)は、三春藩領内総鎮守大元帥明王社(現田村大元神社)の仁王門として幕末の慶応四年(明治元年)に建築された「八脚楼門」総けやき造りの神社外郭の大門です。









 今でも「明王さま」(訛ってミオさま)と呼ばれる田村大元神社は、戦国期の三春田村氏時代から江戸期の秋田氏藩政下まで、仏教・外敵を駆逐し国を守護する大元帥明王を御本尊としてお祀りする三春藩の領内総鎮社で、三春五万石領民の崇敬を受けてきました。

 しかし、神仏混淆(しんぶつこんこう)の大元帥明王は、明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の影響により、明治二年に本殿、拝殿ともに取り壊され、仁王門と中に納まる仁王像の二尊も廃棄の憂き目にあいます。

以後、御祭神も国常立命に代わり、名称も田村大元神社へ改変され仁王門も随身門となっています。





 慶応4年竣工の仁王門自体は竣工間もない新築なので、そのまま「随身門」として残され、仁王様の二尊は、元々明王社別当(管理官)の三春藩主祈願所真照寺に移され、本堂正面の軒下に仮遷宮していました。

 時代は下って、“真照寺の仁王さま”と親しまれていたこの仁王様は、太平洋戦争後の信仰の自由解放に伴って“神仏混淆の禁”も解けたこともあり、昭和43年に三春城下の新町の氏子信徒の熱望と文化財保護の施策とが実を結んで、田村大元神社随身門(仁王門)への帰還の運びとなり“平成の修復”を経て現在のお姿となっています。

 本来、随身門とは、神様・神社を守る守護神として武官姿の随身像(守護神像)を左右に安置し祀った総門のことで、上記の理由から随身像は、拝殿側に遷宮され、拝殿から見て左側が豊磐間戸命(とよいわどのみこと)、右側が奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)で、俗に矢大神(やだいじん)・左大神(さだいじん)と呼ばれる随身木造像が鎮座されています。

 随身(ずいじん)とは、御随身(みずいじん)と称し、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことです。






境内入口の正面の欄間には、二尊の龍が勇ましい姿で彫られています。

自分の名前に龍の文字がついているものですから、幼き頃よりこの龍たちには特に親しみがあります。







 そして、仁王様が納まる正面左側には「麒麟が行く」でお馴染みの「麒麟」が二躯。

麒麟は中国の想像上の動物です。麒は雄、麟は雌とも言われています。

聖人が出現する前兆として現れるといわれ、麒麟児などと示されるように、文字の意には才能があるという事。






同じく、右側には唐獅子の二躯が和毬と戯れています。

唐獅子とは、百獣の王と言われ、魔除けや護獣を意味します。






 また、入口正面の梁と柱の結合部にある左右には「龍」の姿が・・・左右対称に設えられ口の開閉となれば「阿吽ノ龍」ということでしょうか?










 この「阿」「吽」とは、仏教の輪廻的な意味では、人は生まれたときに“あ”と口を開いて生まれるといい、亡くなるときには“うん”と満足して逝くといわれています。
即ち、生きるということは全て修行であり、一生懸命生きなさいという“命の大切さ”を説いているとされています。






  随身門を入り、奇磐間戸命像の上には「海人(あま)」が彫られた欄間が納まっています。

 物語は、讃岐国(現在の香川県)志度の浦の海人(海女)が、藤原不比等と契って生んだ我が子(房前)を世に出すため、命を捨てて竜宮から宝珠を取り戻したという伝説で、龍女の姿で現れた母の亡霊を、「法華経」の功徳で成仏したことを表しています。
 
我が子の立身のために、死地におもむく深大な母性愛、女性の強さを壮烈に描いた物語です。




 

 同じく豊磐間戸命像上の欄間には、三国志で王佐の才をふるい劉邦を皇帝にした中国漢の国の名軍師「張良」の彫刻です。

 張良が、漢の高祖の臣張良が黄石公の落とした沓をささげて真心を示し、その兵法の奥義を授かるという故事で、この欄間には馬に乗った黄石公、張良は沓を持って龍に乗って追いかける姿が彫られています。





 
これら作者は、伊東光運と伝えられていますが、一説には芹ケ沢の西尾官吉だともいわれます。
 
光運指揮の元で、官吉も一緒に彫刻に取り組んだのかもしれません。

光運は、石森の人で久我之助観吾と称し、父は観正院の法印でした。

木工に秀で、三春大神宮の神馬や田村大元神社本殿・拝殿彫刻等の作品も残っています。







  蒼龍謹白  疫病退散祈願 With三春城下 さすけねぇぞい三春! 拝







◎ 「真照寺節分会」 三春藩主秋田家祈願所真照寺

 令和3年(2021年)は、節分の日が2月2日になります。
 真照寺節分会ですが、新型コロナウイルス拡大防止の観点から「節分会豆まき」は中止となります。
 当日は、事前申し込みによる所願成就の護摩焚きの御祈祷とお札受けのみとなります。

 ※節分の日が、この2日になるのは明治30年(1897)2月2日以来124年ぶりだそうです。

 商売繁盛、厄払い、合格祈願、コロナ退散等々の所願成就の祈祷は、三千円、五千円、一万円などから受け付けています。
前日までに申し込みください。

 尚、今年の初寅は2月23日(火・天皇誕生日)となります。こちらも飲食を伴う直会を取りやめて、コロナ対策を取っての事前申し込みによる所願成就、コロナ退散等の護摩焚き御祈祷とお札受けのみとなります。

問い合わせ・申し込み 真照寺0247-62-2705







| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
 塵壺354号  BABYMETAL紅白初出場!「舞木のお稲荷さま」 高屋敷稲荷神社 令和2年12月






塵壺354 令和2年12月号

BABYMETAL紅白初出場!「舞木のお稲荷さま」 高屋敷稲荷神社 

今年の紅白歌合戦に、世界的に活躍する人気ヘビーメタルバンドBABYMETAL(ベビーメタル)の初出演が決まり、大晦日のお茶の間で 生の演奏が見られます!
“神バンド”と呼ばれるバックを務めるバンドの迫力あるメタルロックは圧巻です。

そのドラムを務めるのが、昨年当三春昭進堂に御来店された「青神」と称される青山英樹さん。なんと、青山さんのおじいさんは、郡山市白岩町の出身です~

そして、お父様は、故青山純氏。そうです、「青純」と親しみを込めて称された当代のミュージックシーンには欠かせないドラム界の大御所で、山下達郎や竹内まりや、そして、MISIAなど数えきれないアーティストたちのツアーやレコーディング引っ張りだこのミュージシャンでした。








この青山さんとご縁がある「舞木のお稲荷様」古くは「舞木の“いなっしゃま”」と称され親しまれてきた白岩町高屋敷にある「高屋敷稲荷神社」

社伝によれば、江戸時代飢饉の際に、御仁徳の厚かった時の天皇(東山天皇か中御門天皇、もしくは前年の元禄期よりの領主、守山藩主か?)から3年間年貢を免除してもらったことに感謝した農民達が、庄屋・鈴木権兵衛を中心に、五穀の神として名高い伏見稲荷大社の御分霊を頂いて祀ったのが、高屋敷稲荷神社の始まりとされ、享保・明和・天保の大飢饉を経て信者が増えました。








後に、上記の青山さんのご先祖様にあたる、白岩庄屋の青山久助によって、嘉永年間(1848〜1854)、高屋敷稲荷神社の社殿(昭和9年に建てられた現在の前の社殿)が建て替えられています。

尚、五穀豊穣をもたらす神様、商売繁盛の神様の使いは狛犬ではなく、狐が祀られています。

また、古来より“願いが叶う磐座”と云われている「御神石」は、直接触れ霊力をお受けできる、パワースポットとして知られています。









拝殿内に掲げられてある昭和16年10月、早川写真館と記された高屋敷稲荷神社の秋季祭礼に撮影された写真額があります。

先ごろ、鈴木宮司から神社の沿革と歴史を拝聴する機会がありました。






この写真(拡大写真が社務所のアルバムにあり)には、よく見ると社殿はもちろん、最盛期には4000基と伝わる“朱ノ鳥居”、数件の茶店、稲刈り途中の田んぼ、稲荷山の全景、改修前の参道等、そして、芝居小屋と役者、そして、芝居見物に興じる数えきれないくらいの参詣者が見ることができます。

また、当時は4000基と云われた朱塗りの奉納鳥居も写っていました。この参詣者の人数には驚きです!








この写真が撮影された1940年ごろには、雨の日に傘がなくても通れるほど密集していることから「傘いらぬ鳥居」とも呼ばれていたと伝わっていますが、当時は戦争から無事に帰れるよう「武運長久」祈願のため、奉納が多かったのではないかと思います。






戦前までは、日本全国はもとより、三春の地より、遠く海外へ移民した人々の成功御礼の建立があり、ハワイ・ブラジル・満州などからの所願成就祈願・御礼の鳥居建立があったとされていたことがうなずける写真です。


その鳥居も、太平洋戦争末期になると爆撃の目標になる恐れがあり撤去させられたことや、防空壕の支柱として供出されたとのことで数が減ったとの事。

しかし、現在でも、高屋敷の御稲荷様に所願成就を祈念して、また御礼の心で朱の鳥居を奉納される方が多くいらっしゃいます。

また、舞木駅近くに立つ高屋敷様の大鳥居にはこんな話が残されています。

昔、磐城の浜から漁に出た漁船が台風に逢い方角を見失ってしまいました。すると時化(しけ)で荒れた波間の向こうに狐様が現れました。すると漁師の親方が「これは自分の信心する舞木のお稲荷さまの使いじゃ!あの狐様を追って船を漕げ!」と船員を鼓舞して荒波を乗り切ったという伝説が残り、この時助けられた漁師たちは、助けてもらった御礼として高屋敷稲荷神社に大きな朱の鳥居を奉納しました。

その鳥居が舞木駅から延びる参道に今も建てられています。






さあ、大晦日です。
紅白歌合戦を見終わったらコロナ対策をして初詣!

 高屋敷稲荷神社はじめ各寺社仏閣では新型コロナウイルス感染防止のため、新しい「初詣」参拝方式に取り組んでいます。

今年は「三が日」にこだわらず、旧暦小正月の2月26日までの分散参拝を呼びかけています。



三春城下真照寺門前 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍









令和3年 高屋敷稲荷神社 「初詣」

新型コロナウイルス感染防止のため、新しい参拝方式に取り組んでいます。

元旦1月1日より旧暦小正月(2月26日)までの分散参詣を推奨しています。

※今後の感染状況により対応が変わる場合がありますので、ご了承ください。

〇 体調不良の方、参拝はお控えください。

〇 玉串拝礼・お神酒拝載は控えております。

〇 1月1日8:00~14:00は、大変混み合いますので分散参拝にご協力お願い致します。


ご祈祷の受付時間

〇 元旦 0:00~2:00 7:00~17:00

〇 2日以後旧暦小正月の2月26日まで 9:00~17:00

ご祈祷を申し込まれました方は、外のテントにてお待ちいただくこととなります。

  暖かい服装でお出掛けください。


問い合わせ 高屋敷稲荷神社 ☎024-943-6396






| ryuichi | 04:35 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
 塵壺353 令和2年11月号 とうちゃこ! 上舞木大峯 「玉ヶ滝」 旧岩江村




 塵壺353 令和2年11月号

  
 とうちゃこ! 上舞木大峯 「玉ヶ滝」 旧岩江村

 火野正平さんが出演するNHKBS3人気番組「にっぽん縦断 こころ旅 」で、先に上舞木大峯の「玉ヶ滝」が紹介されていました。

火野さんに場所を聴かれた三春茶屋社長の電話の先は・・・私でした!








 藩政時代、玉ヶ滝付近は、田村と安積を結ぶ交通の要路でした。

三春城下起点の江戸街道を鷹巣から別れて、上舞木延命寺下から大峯の「玉ヶ滝」の流れに沿い、今に残る「弘安碑」の下を、現舞木駅向いの「桜清水」のほとりを通り、阿久津から渡し舟で行く道が本道です。

 旧岩江村は、三春町の西端で、郡山市に近接する下舞木、上舞木、山田の3集落があります。
 古くは三春田村領、その後会津領となり、さらに三春領になりますが、江戸中期の元禄12年、磐城守山(現郡山市田村町守山)藩(藩主松平大学頭)の2万石領となり明治維新を迎えます。

 磐城守山藩松平氏は徳川御三家一家、水戸藩の連枝となる分家で、初代藩主の松平頼元は、水戸黄門で有名な徳川光圀の異母弟で、家康の孫にあたります。

また、歴代藩主は御本家の水戸藩徳川家同様、江戸幕府の特例で江戸に江戸常府、江戸小石川の藩邸に定住しています。即ち参勤交代も水戸藩同様に免除されていました。

 上記のような事情から守山藩主である松平氏は勿論藩士でさえも代官の藩士3人以外は一度も守山藩領を訪れたことはないと推測されます。







 磐城守山藩の領地は、31ケ村です。
 三町目村、木村、山田村、芹沢村、根木屋村、南小泉村、北小泉村、阿久津村、下白岩村、上舞木村、下舞木村、白岩村、荒井村、蒲倉村、大平村、横川村、安原村、手代木村、下行合村、上行合村、大善寺村、金屋村、徳定村、御代田村、正直村、山中村、守山村、岩作村、大供村、金沢村、小川村、その他常陸国(茨城県)行方(なめかた)郡内11か村、鹿島(かしま)郡内15か村、茨城郡内8か村で構成され、内高は2万9000石余あり、これらの領地は、守山陣屋・松川(大洗)陣屋の支配となっています。

 尚、幕末の守山藩最後の藩主7代松平頼之は、水戸藩主徳川斉昭の子で、徳川十五代将軍徳川慶喜の弟です。

 実兄である松平喜徳(斉昭の十九男)は、戊辰ノ役前夜の慶応三年、会津藩9代藩主・松平容保の養子となり10代藩主となります。
 明治元年(1868年)9月、戊辰会津戦争で敗北し新政府軍に降伏、会津松平家は領地没収・家名断絶となり、容保と共に斗南藩預りとなりますが、後に養子解消し弟である頼之の死去に伴って守山松平氏の家督を継ぎ東京へ移ります。

 明治4年、平県から磐前県となり、同9年福島県と改められ、戸長制度が設けられて西部18ヵ村が鷹巣戸長役場の支配を受けます。

 明治22年には、町村制がしかれて岩江村となり、根木屋、芹沢は、西田村(後郡山市西田町)、下舞木、上舞木、山田は三春町。白岩、下白岩、阿久津、安原、横川と上舞木の一部が郡山に合併します。









 郡山~三春間の県道は、明治17年専横をきわめた三島県令が、県会議長の河野磐洲(広中)らを国事犯として投獄し、その留守中に開設した道路とされています。

 上舞木の「直昆神社」は、千数百年前の崇神天皇の頃に、全国平定のため四方に派遣されたと伝えられる四人の皇族将軍・四道将軍(しどうしょうぐん)の遺跡と伝えられ、東海を進軍する武渟川別命 (たけぬなかわわけのみこと)は、岩城から小野、中田、中郷、鷹巣を経て上舞木に一泊し、ここで「直昆神社」に戦勝祈願しています。
さらに、北小泉から川を越えて、保成(母成)峠から会津に入り、北陸より会津入りした父大彦主命(おおびこのみこと)と対面したと伝えられています。








   蒼龍謹白   with 三春城下 さすねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 04:17 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺352号  「負けてらんに!」 蛙文字書家 渡辺弥七 令和2年11月発行




    「負けてらんに!」 蛙文字書家 渡辺弥七

 ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、先日、福島テレビの夕方の情報番組「福テレ・テレポートプラス」の八重樫アナウンサーが、新任地である福島県の市町村をお勉強するという番組「フクカツ」の取材・収録のために当三春昭進堂にご来店され、三春名物おたりまんじゅうの紹介や、饅頭つくり体験の模様が放送されました。


  



 また、蛙文字書家の渡辺弥七さんから拝領した蛙文字で揮毫された、私の好きな矢沢永吉さんの言葉「前向きなうぬぼれ」の額を見て、蛙文字を習いたい~ということになり、弥七さんに当店にお越しいただき蛙文字を指南してもらうという場面も放送されました。

弥七さんは、今年87歳になるとおっしゃっていましたが、カメラが回り蛙文字を書き始めると、しなやかの中にも躍動感のある蛙たちが文字を作り上げ、その力強さを目の前で拝見し、そのパワーをいただきました。









自ら生み出した「蛙文字」や「蛙絵」を描きそして書き続けて50年余。 

 一文字の中にカエルが1~数匹で構成され、柔らかいカエルの骨格を念頭に文字を仕上げていきます。

くれぐれも蛙の手足が逆に曲がらないように~様々な角度の蛙たちが生き生きと描かれています。


 この“蛙文字”を描くようになったのはお母様の入院がきっかけと伺いました。「早く良くなって病院から無事に帰る!」との思いを込めて蛙(帰る)文字で手紙をしたためたということです。






 弥七さんは、昨年体調を崩され入院されましたが、まだ筆を置く訳にはいかないと退院したその年の秋(昨年の秋)に、三春町交流館「まほら」に於いて「渡辺弥七 蛙文字展」を開催されています。

 その入口に掲げられた旗には「病気になっても、病人になるな」と揮毫されていました。また、会場に展示されてあった蛙文字・絵の「長獅子と御神輿の祭礼絵図」や「般若心経」は圧巻です。この展示会は退院後に開催されたので、“病気に負けてらんに!”との強い意気込みが感じられました。


  下記は、その展覧会のプロフィールからです。
 
「母の急病、入院をきっかけに、ひょっこり生まれた私の蛙文字。

以来、いろいろな方に支えられ、育てて頂き乍ら、五十年を経ました。

 “より楽しいもの”“より温かいもの”“優しいもの”をと願いつつ、誠実な蛙さん達の協力を得て、文字づくりの工夫を楽しんで参りました。しかし乍ら、近頃、歳のせいか、
気力、意力、発想カの衰えなど、自分でも歯癖いほどでオロオロするばかりです。

 そこで、自らに「活」を入れる目的で、これまでの全仕事を見返す遺作展的なものを開くこととしました。

遺作展とちがうのは生きている当の私が、これを観るということにあります。

観れば当然、いろいろな感慨が湧きます。

反省、後悔の念も新たにするでしょう。

 一方で、“こんな発想も出来た”“こんなことも出来た”“こんなことにも挑戦していた”など、自分を元気づける思いも生まれるかも知れません。

 これらを綯(あざな)いまぜて新しい力とし、残り少ないこれからの人生を、蛙さん達と力をあわせ、もっと楽しい、もっと温かい、もっと優しい蛙文字を生み出せるよう努力を楽しみたいと思います。

 歩けるだけ歩いていくつもりです。

もう少し成長したいから。」

 弥七さんの人となりをそのまま文字で表した様な、洒落の利いた心強いお言葉ですので原文のまま掲載させていただきました。







 二人の愛娘である安里さん(陶芸)、あずささん(イラスト、人形、陶芸)は、毎月第3金曜日には、三春城下中町・本陣本店さんの店先をお借りして、「ちょっくら市」という手仕事人たちによる小さなお店を開いて好評を博しています。






 “母からはただのひと言でも愛を伴わない言葉はきかされたことはない”
     
アトリエ「蛙さんの家」内に掲げられてある言葉です。


 蒼龍謹白 「With三春城下」 さすけねぇぞい三春!  拝

| ryuichi | 04:10 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺351号 令和2年10月発行  三春城下中町愛宕社(現愛宕神社)別当庚申跡の地蔵改修供養




塵壺351号 令和2年10月発行

三春城下中町愛宕社(現愛宕神社)別当庚申跡の地蔵改修供養
 
中町の愛宕神社山内への参道中腹、旧中町児童公園跡に朽ち果てた姿のお地蔵様があります。
 先ごろその補修が、有志の方々によって行われました。
 
このお地蔵様は、愛宕社別当の庚申(大光寺?)があった場所にあり、明治維新後の廃仏毀釈の際に、頭を割り落とされて放置されていましたが、このたび約150年ぶりに修復され元のお姿にもどりました。
 澄んだ秋空の下、眼下には御城山、城下を一望しながら修復に携わった有志一同で線香をあげ手を合わせて供養いたしました。






 

愛宕神社の由来は、戦国末期の慶長十八年、三春領が会津領(会津城主蒲生氏郷)だった頃、三春城代蒲生郷治が、三春鎮護と火伏せ等を祈念して、京都嵯峨野にある愛宕社総社の阿多古神社から火の神様とされる「迦具槌命」と戦勝の神「将軍地蔵尊」を分霊して、京に習い、三春城から西方の現在地に愛宕山地蔵堂「愛宕堂」を建立して祀ったことが社伝として伝わっています。







 以後、愛宕堂は別当(寺社の管理者)である、庚申や西福寺・大光寺には代々法印様と呼ばれる修験者が居住してご祭神を守護してきました。
 本殿は、神仏習合の名残から「奥院」と称され、勧請時のご本尊「愛宕将軍地蔵」が、秘仏として二重の桐の木箱に納められていますが、箱書きには「愛宕山 本地秘仏 国家安穏 将軍地蔵尊」と記されてあります。

 古来より「将軍地蔵尊」を念ずれば競合に打ち勝ち、あるいは貧窮から救ってくれるといわれ三春城下の人々の信仰を集めてきました。







 明治維新後には、この勝軍地蔵尊像は、新町の真照寺に納められたと記録されていますが、愛宕社勧請の時に祀られたとみられる勝軍地蔵尊の小さな木像が現愛宕神社に残されています。






尚、現愛宕神社の本殿(奥院)は、戦前まで三春小学校にあった「奉安殿」を移築したものです。


 別当の一つ愛宕社(現愛宕神社)別当西福寺跡は、愛宕神社から一段下の南東面に位置する平場にお堂(堂字)がありました。






 宗派は真言宗系で愛宕社の別当寺院であったと伝わっていますので、愛宕社成立と共に建立されたと思われますが、江戸時代後期には無住寺となりました。

近年まで山裾には墓地が残っていましたが、現在は本堂も墓地も残されておらず、「西福寺第三」の銘がある地蔵一体が残るのみです。また、旧墓地の土手の斜面に石仏の残欠が残っていたとも伝わっています。

 愛宕地蔵関連の資料を見ますと、三春城下清水天澤寺付近にある地名「天狗谷」の記載もあります。

 ”天狗谷”とよんでいますが、正式な地名ではありません。元々修験の行者が管理する愛宕将軍地蔵尊を祀ったお堂があった場所とされています。
 約350年前、江戸期の三春城主秋田家が宍戸より三春へ移封の際に、愛宕地蔵堂を城下中町へ移築し、秋田より移設した古四王堂(後に真照寺山内へ移築)の御借屋があった場所でした。







 三春城下には数多くの寺社仏閣があり、祭礼、縁日はもちろん草刈りや掃除・補修等々地域の方々によってそれぞれを守り伝えてきました。
 
また、路傍にある石碑やお地蔵様も含めたこれらの歴史的文化遺産は、人々の信仰の対象であるとともに、歴史的構造物というだけではなく、それぞれの地域に根ざした文化として価値を持ち、郷土への誇りや愛着を深め古来より地域住民のよりどころ、地域のコミュニティの場として機能してきました。

 正に、これらは歴史を背景に、生活との関わりの中で生み出され、現在まで守り伝えられてきた町の財産だと思います。







 さらには、将来を担う子どもたちが地域の伝統と文化に関心や理解を深め、尊重する姿勢を育むことは、豊かな人間性や国際社会に生きる日本人としての意識を形成する上でも大切なことなんだろうと考えています。











     蒼龍謹白  さすねけぇぞい三春!  拝


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塵壺350号 福の神「宇賀神様(うがじんさま)」 鷹巣 宇賀石 令和2年9月





塵壺350号 福の神「宇賀神様(うがじんさま)」 鷹巣 宇賀石 令和2年9月



 
  福の神「宇賀神様(うがじんさま)」 鷹巣・宇賀石

先ごろ、テレビ朝日の人気番組「ナニコレ珍百景」で、鷹巣の宇賀石にある「宇賀神様」の小さな立看板が取り上げられました。
「宇賀神さまです。お賽銭を必要とされる方はご自由にお持ちください」という不思議な立看板で、友人が番組に投稿・採用されたものでした。

この「宇賀神様(うがじんさま)」は、鷹巣宇賀石地区の旧国道288号に架かる高架橋と郡山東部広域農道が交差するS字カーブの坂道付近にあり、その場所が鬱蒼としていたことや、駐車場がないということもあり、ゆっくりと観る(参拝)ことを遠慮していた場所です。






この放送に至るまでには、様々なご縁が幾重にも重なって在り、今年5月の連休明けに、「舞木のお稲荷さま」、古くは“舞木のいなっしゃま”と親しまれてきた郡山市白岩町にある「高屋敷稲荷神社」に集う方から、この宇賀神様についてのお尋ねがありました。
その時点では「桜の老木の下に何かの祠がある・・・」程度の認識しかありませんでした。

後日、その方から連絡があり、高屋敷稲荷神社の鈴木宮司が、地主である橋本吉正様に連絡を取ったところ橋本様ご自身(ペンネーム橋本史紀)の著書で鷹巣集落の歴史をまとめられた「田村の庄・鷹巣の里を辿る」(自費出版非売品)中に宇賀石の「宇賀神様」の記述があると伺ったということでした。

以来、高屋敷稲荷神社に集う方々や鈴木宮司が、草刈りや雑木伐採等をして、コツコツと整備を始めたというところでの「ナニコレ珍百景」の取材・放送と相成りました。







この宇賀石に祀られている「宇賀神様」の創建は、室町末期の戦国時代までさかのぼり、鷹巣村の庄屋であった松崎氏の氏神であったとのことですから、約500年の歴史がある「福の神様」で、“うげいしさま”と呼ばれ信仰を集めていたと伝わっています。

その福徳は「金運、財運、智恵、五穀豊穣」など、多くの御利益をもたらしてくれる「福の神」と言われ、中世以降に民間信仰として、さらには、「立身出世」の御利益があるとして、武家の信仰の対象でもありました。

また、そのお姿は風化が進んでいますが「蛇神・龍神」の化身と伝わっているように、頭は若い女性かお爺さん、そして胴体には蛇(龍)がとぐろを巻くという容姿であらわされています。







下記は、「田村の庄・鷹巣の里を辿る」を参照しての記述です。

旧鷹巣村の庄屋松崎氏の子孫の方から聞いた話によれば、生来、病弱だったことを心配した家人が、宇賀神様の桜の葉を数枚いただき煎じて飲ませ続けたところ、とても丈夫になったとの事。

また、ある方が桜の枝が年々成長し続けたので農作業の支障になると枝を少し切り払ったところ、その後ケガに見舞われ、以来どんなに枝がのびようと一切ふれないよう大事にされている等々・・聞けば偶然とも片づけられない不思議な霊力が伝わっています。

さらに、鷹巣の古老の方々からは「昔は、カマス(米俵のようなもの)でお賽銭を背負って運ぶほどの信仰が厚い神様として大盛況だった。」と聞き及んでいると記されていました。

そして、橋本家に伝わる話では、あるときお坊さん(修験者?)が現れて「あの神様を大事にすると家が栄える」と告げていったそうです。









前記の“お賽銭を必要とされる方は、ご自由に~”という立看板は“お賽銭を持って行かなければならないくらい困っているのでしょう?”と、橋本さんご自身も“功徳”との思いから設置したそうで、正に「福の神」である宇賀神様に、所願成就を祈願し、その満願成就された方々からの「御利益・福徳の御裾分け」だと考えています。






宇賀神様の御縁日はというと、弁財天の御縁日と同じ「己巳(つちのとみ)」とされ、その縁日には、参拝者が多く訪れて金運・財運アップを祈願していたと想像しています。



旅人の安全を見守るかのように、旧江戸街道・須賀川街道に対して正対する向きで建立されていた宇賀石の宇賀神様です。見通しの悪い場所にある為に、参拝はもちろんですが、前を通行の際は交通安全をお願いいたします。

尚、路上駐車はおやめ下さるよう重ねてお願い申し上げます。







先のナニコレ珍百景での「福の神 宇賀神様」の御利益のある看板登録・採用の謝礼金、3万円を三春町に寄付して来ました。



三春町町長室にて、坂本町長に出演者3人で手渡しです〜〜

自分たちで使うのは御利益がないということで、宇賀神様の周辺整備も考えましたが、三春町を通じて困っている人、特に昨今の新型コロナ対策に役立てていただきたいと寄付をしてきた次第です。


これも宇賀神様への寄付寄進の一環、そして、我々への功徳を積む福徳と考えています。



さらには、地主である橋本様ご一家、高屋敷稲荷神社鈴木宮司、そして、高屋敷さまに集う方々へご縁をいただいたことへ感謝申し上げます。






尚、この宇賀神様の傍にある老桜はエドヒガンザクラと思います。本木は幹内部が枯れ手作りなど外皮によって生息していますが、その元から新しい幹が巨木となり2本育っています。

エドヒガンは寿命の長いことでも知られていて、滝桜も含む「日本三大桜」の他の2本、樹齢2000年と言われる山梨県の山高神代桜(やまたかじんだいさくら)、
そして、岐阜県にある樹齢1500年と言われる根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら)はエドヒガンです。

この宇賀神様の桜も宇賀神様の創建が500年であれば、もしかしてどの折に植樹をしたとも考えられます。
そうしますと、宇賀神様の桜、仮に「宇賀石の宇賀神桜」
と呼ばさせて頂きますが、ここ桜の年齢樹齢も500年になるのではないかと考えています。


因みにですが〜  いわゆる花言葉は「心の平安」だそうで、どおりで宇賀神様、そして、高屋敷稲荷神社さんに行くと居心地が良い訳です〜〜

蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝









舞木のお稲荷様の秋祭り


屋敷稲荷神社 秋季例大祭 2020

2020年

10月10日(土) 18:00 宵宮

10月11日(日) 11:00~秋季例大祭


今般のコロナ禍に伴い、参列者及び関係者の安全面、感染拡大防止の観点を考慮した規模を縮小して斎行いたします。


ご参拝の皆様には、ご迷惑をおかけしますが、何卒ご理解ご協力賜りますようお願い申し上げます。

 問 高屋敷稲荷神社 024-943-6396





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