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塵壺第412号 「八幡様の秋祭り」 三春城下八幡町鎮守八幡神社秋季例大祭 令和7年11月号




塵壺第412号 「八幡様の秋祭り」 

三春城下八幡町鎮守八幡神社秋季例大祭 令和7年11月号
 


先月の十五夜は雨雲が広がり、残念ながら十五夜のお月様を拝むことが出来ませんでした。
 

その十五夜の日に、三春城下八幡町の八幡神社では秋季祭礼が執り行われ神様に五穀豊穣の御礼と氏子平穏の祈願をされていました。

 この八幡神社の祭礼は、春と秋の2回催行されています。春の祭礼は、ご承知のように、4月の第3日曜日にその年の農作業の始めに当たり、五穀豊穣を祈願して開催され、御神輿渡御と先払いを勤める長獅子が三春城下に春の訪れを告げています。







 そして秋の祭礼は、旧暦の8月15日(中秋)。十五夜の“中秋の名月”の日に社殿に於いて行われています。

 三春城下の八幡様をはじめ全国の八幡神社の秋季祭礼が旧暦の中秋とするのは、鎌倉「鶴岡八幡宮」の例大祭、放生会に由来すると考えられています。

 鎌倉幕府について書かれた『吾妻鏡』に、文治3年(1187)8月15日(旧暦)に「放生会」と「流鏑馬」が始行されたと記され、これが例大祭の始まりと伝えられています。

※現在の鶴岡八幡祭礼は、明治6年の旧暦から新暦へ移行した際に今の暦9月15日となり現在に至ります。






 明治2年(1869)、明治維新後の廃藩置県、そして神仏離反、廃仏毀釈等を経て「八幡宮」も「八幡神社」と改称されますが、祭日は引き続き十五夜(中秋)に定められました。

しかし三春藩五万石領内の総鎮守だった太元帥明王(現田村大元神社)も、城下の総鎮守様として三春大神宮へ変更され、その例大祭も10月の1日から3日の日程となります。

 それを受けて八幡様では、祭礼が旧暦の十五夜ですと、その年によって日にちが移動し三春大神宮例大祭と祭礼日が重なることがあるために、祭礼遂行に不都合が生じてしまうので、八幡様の祭礼日は春4月の第3日曜日に変更されました。

尚、長獅子奉納は、明治維新の後なので江戸時代にはありませんでした。






 八幡町鎮守八幡神社(旧八幡宮)の御祭神は「品陀別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)」神社明細書によれば、天文年間京石清水より勧請とあり、三春田村氏二代隆顕公の治世です。

この応神天皇は、武家の棟梁源氏をはじめ武士の信仰が厚く、勝負の神、弓の神や出世開運の神としても崇敬されました。

 家内安全・商売繁盛をはじめ、勝負の神・武神として必勝祈願や心願成就の御利益があり、また厄除八幡とも称され厄難や病などに打ち勝つ御利益のある神様として厚い信仰がよせられております。






 三春の御城下は桜川の氾濫原を埋め立てた所で、特に八幡町の道は八幡小路とよばれた細道でありました。八幡様の参道は、雁木田西奥の桜川右折部から設けられ、雁木田から八幡町下手、丈六から鶴蒔田にかけては、かつての湿田を開拓されて広がった場所とされています。



 八幡様といえば武の神と思われがちですが、もともとは開拓の神で、秋田候入府時の移設等、諸説ありますがこれらの田畑の守神として勧請されたと考えられています。

十五夜の祭礼にはこんな話も残っています。八幡様旧参道、八幡町末の三春城下旧会津街道口の左側にあったとされる、石造の大手水鉢(現在は無し)、通称“八幡様の化粧清水井戸”とも呼ばれていた巨石を掘り窪めた石の手水鉢で、祭礼参詣の行きかえりの際には、十五夜の月がその水面にあることを愛でながら、「今年の五穀豊穣を八幡様に感謝していた」というもの
で、三春人としては一興。風情がありますね。


 また、八幡様の化粧清水井戸は、旧会津道口や若松道口から城下に入る人、関東道・近世の江戸道から城下に至る人々が汲み、身支度を整えるための化粧水や水鏡として使用された井戸と伝わっています。

 かつての八幡小路(現八幡神社参道へ通じる道)は、三春川(現・桜川)を渡る八幡様(八幡宮)参道沿いにあることから、城下への出入り口にある亀井清水、新町末化粧坂清水と同じく大勢の方々が利用したと考えられます。


 今年の「十三夜」は11月2日(日)。

今週末の三春秋まつりには八幡町若連をはじめ、八雲神社(荒獅子保存会)、そして田村大元神社別講中が長獅子(大獅子)を奉納します。



        蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝






三春城下紅葉ライトアップ 2024.11.1


真照寺の今日






紅葉に少し早いような気もしますが、今年の陽気は変わります。






ライトアップがいい感じです。







当店もライトアップ仕様に!







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
 


| ryuichi | 03:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺411号 「明治からのメッセージ! 田村大元神社随神門(ずいじんもん)」 令和7年10月発行




塵壺411号 「明治からのメッセージ! 田村大元神社随神門(ずいじんもん)」 令和7年10月発行






子供の頃より、遊び場や祭礼奉仕などで慣れ親しんだはずの田村太元神社境内の社殿。

その入り口である随神門をよくよく見ると、その右大臣、櫛石窓神の背後の板に、走り書きされたような何やら明治の年号や名前、文字、田村大元神社の名称などと一緒に、天狗を連想するような似顔絵や“へのへのもへじ”の顔、そしてローマ文字などが見え、小若連の文字や大世話人以下、別火講中の講員の名前と思しいような文字も見えます。





チョット見には落書きのように見えますが、これは明治期に書かれたメッセージのようにも思えます。

かれこれ50年以上は参内しているはずなのに、これには驚きました。

仁王様が、田村大元神社の随神門(仁王門)へお戻りになったのが昭和36年ごろですので、明治21年からおよそ80年の間に何のために書かれたものなのか、さらに、深く推察するにこの右大臣、左大臣の場所には、何が収まっていたのかははっきりしません。






もしかしたら、この落書きが残る場所には何もなかったのか?とも考えられます。

そして、記載された年号から推察するに、明治期の社殿の新築の記念、もしくは、旧郷社格となったことや、田村大元神社の祭礼復活の記念等々、自称“歴史オタク”の想像は膨らみます。

空白の80年の穴を埋める貴重な資料として、150年の時空を超えた“明治からのメッセージ”には、何か意味がありそうです。








田村大元神社(太元帥明王)は、長い歴史の中で、火災や政治的混乱などによって度々罹災しています。

田村大元神社の創建は、永正の子年としていますので、元年(1504)か13年(1516)に、田村義顕が三春に移城するに際して仮殿を建て大元明王を勧請。天文年間(1532-1554)には伽藍を創建となっています。


後に、豊臣秀吉の田村仕置きによって田村氏改易後、歴代の三春城主を経て江戸期の秋田氏になっても、田村氏配下の御春輩衆の力が侮れず、領民の人心掌握のために秋田氏の守護「古四王」ではなく、田村氏の守護「大元帥明王」をそのまま領内鎮守の守護神として歴代藩主は太元帥明王奉行を置いて領民の尊祟をあつめていました。






三春藩二代藩主・秋田盛季(もりすえ)公代の寛文10年(1670)7月、晦日に発生した火災により伽藍も罹災、炎上消失して、後に再建しています。

さらに七代倩季(よしすえ)公代、天明5年(1785)、そして八代謐季(やすすえ)公代の寛政10年(1798)の城下の大火災により、大元帥明王社の山内も罹災し焼失します。





後に再建し、境内に再建を記念して町衆と戦国武将田村氏の配下である「御春輩」北方在郷衆(青石、實沢等)から文化11(1814)と翌12年(1815)に奉納された石灯籠と、罹災した詳細を記した石板(埋設されていたものを発掘!)が残っています。






明治維新後の明治2年、廃仏毀釈、神仏混淆の禁止により、学頭坊泰平寺は廃棄され、太元帥明王本殿・拝殿、額堂や小教院などの仏教色の濃い施設を改築や取り壊しをして、太志田神社と改称。明治12年、さらに祭神を国常立命として田村大元神社と改称します。


その際、神社の仏教守護の阿吽仁2躰の仁王様金剛力士像は不当ということで、仁王様を別当職だった真照寺に移設して、随神を収めた同社の随神門としました。

この随神門は、慶応3年(1867)、仁王門として新建しました。幕末の秋田藩政下、領内人足役三千人高にて完成した入母屋造り八脚門です。これが秋田三春藩としては最後の建築工事でした。

竣工後二年で廃仏毀釈の災難に遭遇しますが、仁王門自体は、まだ新しいという事で随神門として残されました。

随身とは、御随身(みずいじん)と称し、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことです。

以後、その随神門の左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神様)を左大臣とも称される豊石窓神(とよいわまどのかみ)、及び右大臣とも称される櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が、それぞれ刀と弓矢をもって「門守神(かどもりのかみ)」として鎮座していました。






時代は下って、終戦間際に行われた帝国軍国主義の後始末等の困難を乗り越えて、昭和36年6月、新町住民の要望と奉仕によって真照寺軒下より阿吽の金剛力士仁王像二躰が田村大元神社随神門に戻され、新町では再び“仁王門”と呼ばれるようになりました。







蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝 






| ryuichi | 03:32 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
 塵壺410号 「玄米食、よく噛む」のすすめ 白山孝純老古佛  観音寺参禅粥坐  令和7年9月吉日発行





塵壺410号 「玄米食、よく噛む」のすすめ 白山孝純老古佛  観音寺参禅粥坐  令和7年9月吉日発行






お盆明け浜田帰省の折、観音禅寺方丈花吉穆清道久(ぼくせいどうきゅう)老師の下へ参禅し、「行鉢(ぎょうはつ)」粥坐(しゅくざ)に於いて、穆清老師より自身の師匠である正師家白山孝純大和尚の提唱された「玄米咀嚼」を教えていただきました。

暁天坐禅、曹洞宗朝課の後に、精進の粥坐(朝食)をいただきます。






「法は是れ食、食は是れ法」禅寺では、食事をつくること、食すること、座禅をすることは、同じように大切な修行であると考えられています。

禅寺での食事を「行鉢」と言い、読んで字の如く「鉢」応量器(おうりょうき)という食器を「行ずる」という大事な修行です。

この応量器は、サイズが少しずつ異なるお鉢が五つあり、重ねるとひとつにまとめることができます。自分で食べられるだけの量をいただく、適量を心得ることを基本とします。


足を組んで「赴食飯法(ふしゅくはんぽう)」のお経を作法に即して唱え、無言のまま全員で同じの速さで食します。これは連帯感を育むという意味ないもあります。

一番大きな鉢自体が仏さまとされており、直に置くことがないように小さな鉢があります。さらにこの鉢に口をつけることも厳禁ですので、匙(さじ)で別の鉢に取り分けて粥を食します。

坐禅の姿勢で背筋を伸ばしたまま、器となる鉢を三本の指で支えて口元までもってきて1口分を3回に分けて口に含みます。粥なら100回、副食物でも30回以上は噛みます。  

噛んだ回数(100)を数えながら食べています。坐禅の時も、1から20まで数を数えてはまた1からといった具合に、数えること以外考えないようにしながら只々坐っている要領と同じに思えます。


少量の小豆の入った玄米の粥は程よく触感があり、噛めば噛むほどに甘みが増してきます。

他に副食として、数種類の煮物、煮豆、漬物、そして、ごま塩。一品一品の食材をよく味わう為に、ごま塩以外は一緒に口に含みません。







一、 器や箸を持つときは必ず両手で扱うこと。

食べる姿勢が良くなり、目の前にある食材としっかり向き合うことができます。


一、噛んでる間は箸を必ず置くこと。100回噛むということに意識を集中させます.

尚、箸を置くときには先端を自分に向けて、当該の器の上にきちっと揃えて置きます。


一、食事中は話をせず、なるべく音を立てないようにすること。


一、食べ終わったら食器にお茶やお湯を注ぎ、1切れ残しておいた漬物などで食器をぬぐい、そのお茶も飲み干すこと。

これは、後の器の洗浄に使う水の節約、無駄を省くことになります。






「玄米咀嚼」では、よく噛むことの効用が示されています。唾液中の消化酵素の分泌がさかんになり胃腸の働きを促進し、少量でも満腹感が得られ、活力増強、そして発ガン性の抑制に効果があるということを示しています。


また、子供の頃に分泌される成長ホルモンが、思春期を迎えるころより減少していきますが、よく噛むことによって成長ホルモンが再び分泌され、長生きに必要な丈夫な脳と体、骨つくりのための細胞が活性化されます。

その結果としてアンチエイジング(抗加齢)効果が得られ、物忘れやけん怠といったものが少なくなり、いつも冷静で明晰な頭脳の維持につながると教示されました。






さらに、玄米にはビタミンB群、鉄、マグネシウム、カリウム、マンガン、亜鉛などそして強い抗酸化作用を持つとされるビタミンEや整腸作用や免疫力の向上、生活習慣病の予防や改善に期待ができる食物繊維を摂取できます。


食の乱れは心の乱れとして、日常茶飯事という言葉通りに日々に心掛けるべき生活の基本が食事のいただき方、そして食事をいただく僧堂への入り方から、箸の上げ下ろし、自前の食器の洗い方、終い方まで、食事に関する作法をご指導いただきました。


作法とは“法を作す”、食事を作法通りに正しく頂くことが出来れば生活全般(諸法)も自ずと調ってくる、そして仏法の教えに従ってきちんと作して行くことだと説かれています。

観音寺方丈様の師匠の白山老師の提唱された「玄米食・噛むの効用」 
最低100回はよく噛む
1、爪が割れず
2、かかとあれず
3、手かじかまず
4、痰からまず
5、炎症起こさず
6、熱発せず
7、風邪ひかず
8、鼻汁です
9、睡眠五時間以下
10、目方上がらず
11、傷口化膿せず
12、毛太く強くなる
13、リズム食判る
14、夏負けせず
15、陽性になる
16、腹減らず
17、便通ヨシ
18、頭禿げず
19、視力強くなる
20、間食なくなる
21、神経 太くなる 肝が据わる
22、安心泰 脈良好
23、腰冷えず
24、歯強くなる
25、冬暖かし
26、自己の波長が判る
27、無意識能力
28、執着・固執せず
29、集中力抜群
30、呼吸 深くなる
31、毒物浄化排出
健康で元気にみんなで長生きしましょう!



         蒼龍謹白 拝  さすけねぇぞい三春!


| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺409号 「塵壺讃」 観音寺方丈 穆清道久老師 ~夏安居~ 令和7年8月吉日発行 





塵壺409号 「塵壺讃」 観音寺方丈 穆清道久老師 ~夏安居~ 令和7年8月吉日発行 

 山陰、島根県石見(現浜田市)浜田城下へ、年に数回、妻の里のお墓参りを兼ねて、禅寺曹洞宗紅蓮山観音寺に於いて、師と仰ぐ方丈様である花吉穆清道久老師の下で朝だけですが参禅しています。

 観音寺は、只菅打坐(しんかんたざ)と参師聞法(さんしもんぽう)の曹洞宗規範に則った修行生活を行っている禅寺で、私が方丈様の下へ参禅させていただくのも、長男が生まれてからですので、かれこれ30年になります。






 この時節には、朝3時に起床して、徒歩1分という目の前にある観音寺へ月に照らされた山門を通って坐禅堂を兼ねた本堂へ向かいますが、北国三春の夏の夜とは違い、日本海特有の高温多湿の夏の真夜中で、冷房の効いた寝室から1歩外へ出るとじわっと一気に汗ばんでまいります。

 曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。そして坐ることによって身体を安定させ、心を集中させることで身・息・心の調和をはかります。何か他に目的があって、それを達成する手段として坐禅をするのではありません。


 坐っているだけでも汗がしたたり落ちる本堂の片隅で、大きく息を吸いゆっくりと吐くという坐禅本来の呼吸をしながら、時折、火灯窓(かとうまど)より吹き込む微風に、幸せを感じながら、只々坐り続けます。

 大袈裟な言い方かもしれませんが、この非日常的な空間の中に、普段なら気づかないような”小さな幸せ”に”ありがたさ”を感じ、”生きている”、”生かされている”ということが実感できます。


 老師の下で参禅させてもらっている家族へ感謝しながら、1年分の溜まりに溜まった”心の塵芥”の洗濯です。

 この参禅は、何物にも代えることの出来ない満ち足りた有意義な時を過ごすことが出来ます。そしてゆっくり自分の身体や心と向き合う大切な時間で、明け方からの3時間位ですが、足のしびれもそのままに坐禅と朝課(ちょうか)と呼ばれる早朝のおつとめで心身の修練を心ゆくまで堪能しています。






 この時節、曹洞宗の観音寺では夏籠もりの修行を意味する「夏安居(げあんご)」 (5月15日結制8月15日解制)統制中です。

 坐禅の後、夏安居の朝課には楞厳会(りょうごんえ)があり、呪文のような「大仏頂万行首楞厳陀羅尼(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんだらに)」「楞厳呪(りょうごんしゅ)」という難しい陀羅尼を読誦し、寺院の繁栄、修行僧の仏道増進、檀信徒の安穏を祈る「衆寮諷経」が修行されます。






この経典は、門前の小僧の様な在家の私には、読経といわず文字を目で追うだけでも難儀します。

途中から読経が速くなるというとても難しい経典です。

 しかも、本来はお寺さん内の土地に来る邪気を抑えるということで、歩きながら読経する歩行禅ですが、私は足踏みするだけで精一杯です。

 夏安居の接心では、全てが仏道ということを教示されました。〝凡事徹底〟の大切さ。即ち、挨拶をする、身の回りを整理する、掃除する、時間を守る、服装を正す、商いをする等、生活の全てが感謝と御礼であり、全てが仏道に通じます。

これが人として生きる上で大事であるとご教示いただきました。


 下山する朝、坐禅・朝課後の接心にて、今回出版した著書「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」の謹呈に際して、出版を祝し内容を称賛した「塵壺讃」とする佛詩と共に、身に余るお褒めのお言葉とお土産を賜りましたこと、恐悦至極に存じます。







塵壺郷土愛円成 

歴史三春文化明 

御用多繁中事業 

坐禅道力作麼生  

穆清






 和訳:塵壺見しや 郷土愛一杯 此に円成せり 

    三春の歴史と文化 これにて明瞭編纂なり 

    御菓子匠 御用多繁中の大事業たり よくぞ勤めたり 

    佛法信心者なり 専ら工夫坐禅す その道や作麼生(そもさん)  穆清








      蒼龍謹白 拝  さすけねぇぞい三春!











| ryuichi | 03:48 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺408号 「商人の師匠」 御菓子司「さかうち」  坂内和知社長   令和7年7月吉日発行




塵壺408号 「商人の師匠」 御菓子司「さかうち」  坂内和知社長  令和7年7月吉日発行
 

布袋寅泰「GUITARHYTHM VIII TOUR」 inけんしん郡山文化センター(郡山市民文化センター)に行ってきました。生の布袋サウンドを体感するのは東京ドームのBOØWY解散”LAST GIGS”以来です。
 
いざ、参戦!ステージに立つ布袋兄さんは、田村大元神社の仁王様かと見間違いするような2m近い大男で、何本持ってきたの?というくらい曲ごとにギターを代えて、踊りながら、相変わらずのカッティングリフが冴え渡るギターサウンドをロックンロールに乗せて聞かせてくれています。






 お陰様で、白黒幾何学模様の「HOTEIモデル」に憧れた“ギター小僧(還暦過ぎですが)”に戻って“宇宙一のカッコイイRock 'n' Roll Show”で、布袋と同じ空間で、最初から最後までスタンディングのdancing! これは、感動以外何物でもありません。心ゆくまで楽しめたカッコいいライブで、本当に行ってよかった。


 郡山文化センターのある堂前町は、自分の青春時代を過ごした思い出の場所です。郡山経済界の今につながる夢である「郡山に東北のハリウッドを造るんだ!」という“郡山広域圏テクノポリス構想”の先駆けとなったのがこの郡山文化センターだと記憶しています。







 また、同センターのある堂前は、私の商人の師匠が営む御菓子司「さかうち」があり、ちょうど文化センター建設と同時期に菓子屋として修業をすべく、その門を叩いてから約5年間、商人として修業に明け暮れた場所でした。


 師匠である「さかうち」の坂内和知(かずとも)社長から「職人になるな!商人になれ!」、さらに「お菓子造りはいつでも見て覚えられる。商売を覚えろ!そして、商品を売る前に自分を売れ!」と商人の“いろは”を叩きこまれました。






 さかうちの入社当時は、母を亡くして間もないころで、洋菓子の修行先である茅ケ崎での修行を断念し、これから三春の店を継ぐために早く一人前の菓子屋にならなければという焦りもあった頃です。







 入社初日に社長から「母ちゃんを亡くしたのは気の毒だった。しかし早くに母親が亡くなったということで、誰もが経験できないようなことを経験出来たということだ、そんな母ちゃんを忘れるな!」と訓示されたことで、何か眼の前に漂っていた淀んだ霧が一気に晴れたような気がしたことを、今でも覚えています。






 日頃より「商人は商売と同じくらい金融にも精通しなくてはダメだ」と言われており、社長の計らいで各方面にお引き立てを受けました。

 菓子屋修行と並行して当時全盛だった結婚式場へ出向して婚礼や各種イベントの引き物の営業活動、そして、企画や演出、余興芸能人の手配など演出全般から司会まで熟していました。






さらには、金融関連取引に関わる法律にも詳しくなければということで、手形や保険、株取引、相続など商売に関わる全ての事柄を実地で勉強させていただきました。

 ちょうどバブルの頃です。駅前に事務所を借りて寝泊りをしながら、早く一人前の商人になるべく文字通り寝る間も惜しんで仕事もしました。






さらに「遊びもできないようでは仕事もできない!」という師匠の教えもあり、一人前になるための社会勉強の一環として、遊びも仕事と同じくらい励んでいました。

 この頃は世の中もわからないながら、「苦労しなければ自分の夢は掴めない、その苦労を乗り越えなければ夢は叶わないんだよ」と言われている気がしていました。

 年季を終えて三春に帰る際の壮行会の中では「あの織田信長が何で天下を取れたか勉強しなさい、情報の重要性と周りに流されない力強さが判るはずだ!」と激励の訓示をもらいました。





 今の自分の基礎を全て社長の下で学ばせてもらえたことは、幸せ以外の何物でもなく、私にとってかけがえにない時間でした。その後も社長とは時折、大商いをさせていただきました。

 商人の道を走り続けた社長は天寿を全うされ「さかうち」は閉店しましたが、自宅仏壇に今回出版した「塵壺」をお供えして手を合わせてきました。

 「変えなければならないものを変えるのは勇気。変えられないものを受け入れるのは冷静さ。そして変えるべきものと変えざるものを見極めるのは知恵」

             「商人の分別」坂内社長の教示より  







     蒼龍謹白   拝   さすけねぇぞい三春!



書は、個展を開くぐらいの達筆で、社長の性格に似ているといわれる私へ、叱咤激励の意味を込めて様々な書をいただきました。




| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺407号 「最後の説法 大地玄亀大和尚」 石龍木童正孝大和尚著 令和7年6月




「最後の説法 大地玄亀」


塵壺407号  「最後の説法 大地玄亀大和尚」 石龍木童正孝大和尚著 令和7年6月発行

この本は、三春城下新町の曹洞宗天翁山州傳寺第三十三世中興石龍木童大和尚(老師)が、師匠である州傳寺第三十二世大地沙門玄亀大和尚の総見や接心での法話や提唱、そして最後の説法を録音したテープなどから文字を起こして編集され一冊の本にまとめられたものです。

禅に興味を持ち始めたころで、塵壺の参考にしたいと思い30年余前に、石龍老師の下へ、参禅とまではいきませんが、州傳寺歴史や禅の教えを乞いに出頭していた頃に禅の教示と共に手渡された一冊です。






また、州傳寺では、石龍老師より玄亀大和尚の禅僧としての人となりも伺っていました。

玄亀大和尚は、明治24年紀州下津町生まれ、大正3年岸和田梅渓寺住職大洞石雲老師について得度。大正9年鶴見總持寺に安居、5年の総持寺安居の後に送行。以降、埼玉、千葉、小浜等々、そして発心寺専門道場の単頭など参禅、住職、安居などの修業を重ねた禅僧です。

この東北の地に「禅」を根付かせたいという想いから、良寛さまや乞食桃水和尚のように、一切の名利を捨てて禅僧として、自ら悟りを求め努力するとともに、人々を仏道に導き救済するという「上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」の誓願を立て、三春城下でも檀用の少い州傳寺を選ばれて掛錫されます。



大地玄亀老師



また、本書の著者である州傳寺の前住職石龍木童老師も、玄亀大和尚の教えを下に州傳寺にて法名を継承されています。


仏道というと、普通一般の私たちは、私達の日常の生活とかけ離れた縁遠いもので、抹香・線香臭い陰気なものだと思ったり、あるいは特別な知識階級の人とか、極的保守的なもののように思っている人も多くありますが、玄亀大和尚は、本具仏性として坐禅といい、坐禅とは私達の日常の生活全てのことで、日常の外に仏道や禅はなく、朝から晩まで、晩から朝までする事なす事全てが仏道修行そのものです。


朝起きて顔を洗うこと、掃除をすること、食事を作ること、ご飯を食べること、仕事をすること、商売をすること、勉強すること全てに当てはまり、仏法即日常底、日常底即仏法、禅即生活、生活そのものが仏道であると説かれています。

また、「人」という文字を例えとして仏道を説かれ、一本を取れば必ず倒れる、一本では絶対に立てない、人間もまたその通りで一人では絶対に生活は出来ません。

我見我慢の心を一切捨てて、お互いに支え合わなければなりません。持ちつ持たれつして初めて人間世界が成り立っていきます。

この「人」という文字を学得して初めて幸福な家庭と文化国家が生れて来ます。

この「自他不二の道理」をよく心得て、お互いに和合して助け合う世界には、“闘争”とか、“戦争”とかいう汚い言葉や不平不満の声は無くなって、“有難いない”、“勿体ない”という麗わしいという言葉の下に「尊い汚れのない浄土」が建設されると説かれていました。



石龍木童大和尚から、道元の坐禅は、「只管打坐(しかんたざ)」であると教示されています。只管とは、ひたすら、余念を交えないという意味、打坐とは坐禅です。

つまりただひたすらに坐禅をするという意味で、あるがまま、自然の流れに身を任せ、ただ、ただ坐るだけ。

ひたすらに現実を見つめ、何も求めずに、ただひたすら坐(すわ)ることです。  

そして、禅僧の本懐とは、自分自身を最後の最後まで使い切って、その痕跡すら残さないことである。禅語の「破草鞋(はそうあい)」とは、長年の修行で履き破れた草鞋を、きれいに洗って刻んで、壁の下地に使ったり、そのまま畑に撒いて堆肥にして使い切る。

即ち、一切の妄想、執着を断ち切って、人知れず捨て去られる一足の破れ草鞋のように、自身を使い切り、その痕跡すら知られことも何もひけらかすことなく只々修行に励む大切さをご教示いただきました。


忙しい毎日を送っている私たちは、つい自分を見失いがちですが、そうならないためにも、意識して反省をする習慣をつけなければならないと思いますが、現実にはなかなかできません。

「艱難辛苦を我に・・・・」ではありませんが、人生というのは魂の修行の場だと思います。

いつまでも自分を高めるための良性なプレッシャーを追い求めながら新たな情熱を持ち続け、毎日ドキドキ・ワクワク高揚しながら日々を楽しく暮らして行きたいものです。



仏道というは自己を習うなり  自己を習うというは自己を忘るなり  自己を忘るるというは万法に証せらるるなり 
   
    さあ、坐ろう! 蒼龍謹白 拝  さすけねぇぞい三春!








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天翁山州傳寺歴住大和尚

三春城下天翁山州傳寺は、寛永五年(1638)、松下長綱公が三春城主として二本松城より転封されて間もなく、父重綱公を開基として烏山天性寺第十一世勝岩長全大和尚を開山として建立されました。




山号・寺号

祖父 綱玄院殿天翁長参(柵)大居士
父  州傳寺殿永厳長譽大居士



當寺は、曹洞宗において「片法幢(各地)」として宗門の僧侶・雲水を養成する修行道場




歴住大和尚

開山 勝岩長全大和尚 
本寺烏山天性寺十一世 寛永十三年(一六三六)八月 九日示寂

二世 雲州元龍大和尚

三世 海岸道吞大和尚  
末寺船引満円寺を開山 承応元年(一六五二)十月九日示寂

四世 斧山龍大和尚
末寺船引照光寺を開山


五世 龍骨愚海大和尚 同 船引照光寺二世


六世 釼室雲利大和尚

七世 大祐元慶大和尚

八世 綴山寛補大和尚

九世 中興 一輪通禅大和尚
元禄十五年(一七〇二)寺院再建

十世 悦山易禅大和尚

十一世 享天始元大和尚

十二世 中興 寶厳興隆大和尚
元禄四年越後弥彦山の禰宜髙橋太郎右衛門光宣第三子 慈海(具海)
埼玉加須全久寺第六世
享保十九年(一七三四)五月十五日 再建 法燈をただす
明和五年(一七六八)十月二十六日示寂

十三世 天随口音大和尚


十四世 蜜岩単隆大和尚

十五世 無幻老卵大和尚
庄内大山祐性院より
明和九年=安永元年万徳丈六堂消失 天明の飢饉・三春城下大火 
後・大阪吹田大雄寺~周防洞泉寺~岩国善住寺開山~興聖寺~
文化二年(一八〇五)十一月二日 鶴岡破鏡庵示寂

十六世 佛印寛翁大和尚 福島市陽林寺十六世より晋山


十七世 洞雲全岩大和尚


十八世 東州智海大和尚

十九世 中興 虎云都繡大和尚
文化五年(一八〇八)九月二十六日再建
御朱印高弐拾石 寺領坪数三千余坪 
後年の火災により消失 現存遺構 正面石段 葷酒禁制碑柱 歴代住職墓地燈篭

二十世 高雲得(徳)宗大和尚
糸魚川金峰山大雲寺より文政八年(一八二五)六月晋山 
天保十一年(一八四〇)十月二十四日退山
再度、金峰山大雲寺へ帰山

二十一世 佛智大康大和尚


二十二世 大応玉仙大和尚

二十三世 梥屋慶音大和尚

二十四世 玉掌珍了大和尚


二十五世 桐宗恵文大和尚

二十六世 天外田龍大和尚


二十七世 悟山霊秀大和尚
(詳細別記)


二十八世 徳順吞海大和尚 明治二十年(一八八七)八月
二十二日示寂(詳細別記)

二十九世 中興 泰庀活麟大和尚
明治二十一年(一八八八)二月晋山
明治三十七年(一九〇四)十二月二十九日示寂(詳細後記)


三十世 徳充戒藴大和尚昭和九年(一九三四)十月九日示寂

三十一世 祖田瑞苗大和尚
昭和十七年(一九四二)二月二十八日示寂


三十二世 即如玄亀大和尚  稟命1等布教師
昭和二十八年(一九五三)四月十七日示寂(詳細後記)


三十三世 現住 木童正孝衲 稟命1等布教師
昭和二十八年(一九五三)五月十二日晋山
平成17年十一月二十九日・三十日厳修

三十四世 現住 









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塵壺406号 「直毘神社(なおびじんじゃ)と四道将軍(しどうしょうぐん)」 令和7年5月発行



 塵壺406号 「直毘神社(なおびじんじゃ)と四道将軍(しどうしょうぐん)」 令和7年5月発行

岩江地区の舞木や日影、そして郡山市西田町の根木屋、木村などの地名が直毘神社に由来した話が伝わっています。

昔、上舞木にある権現さまと呼ばれる二社大明神(現直毘神社)の境内に大きな櫟(くぬぎ)がありました。







夕方になると、この櫟の影が十町(1090m)も延び、影が届いたところは、「日影」と名付けられたと伝わっており、三春茶屋のちょっと三春よりにある橋、これを日影橋と呼ばれています。

そして「舞木(もうぎ)」という地名の由来は、ある時、もの凄い風が吹いてこの大木が根こそぎ空に舞い上がった。それからこの地を舞木と呼ぶようになったといわれています。  

さらに、根が落ちたところを根木屋と名付けられ、幹が落ちたところを木村と名付けられたといいます。


※根木屋は、根際(ねきわ)から”ねぎや”へ転じ、木村は、きうら、木末(きうら)、きむらへ転じたと伝わっているそうです。







そうした由来の元となる今の上舞木に鎮座する旧舞木村の村社「直毘神社」は、御祭神として、伊奘諾命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、神直毘神(かみなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)の四柱の神が祀られています。


 社伝を観ますと、今から二千有余年前、第10代崇神天皇御代10年に諸国鎮撫の為、「まつろわぬ者たち」を征伐するために遣わされた四道将軍(しどうしょうぐん)のゆかりの場所と伝えられています。







 この四道将軍とは『日本書紀』に見られる、崇神天皇が全国平定を目指して派遣した皇族の四人の将軍のことで、東海方面には武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、北陸方面には大彦命(おおひこのみこと)、西道(山陽)方面には吉備津彦命(きびつひこのみこと)、そして丹波(山陰)方面には丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)が、それぞれ将軍として皇軍を率いて平定に向かい出陣します。


 直毘神社(旧二社権現)の由来書には、磐城に入られた四道将軍の一人である武渟川別命将軍率いる皇軍の軍勢は、夏井川の南西の山道より陸奥の真冬を田村郡(たむらこおり)の山奥に進軍して行きます。







その行軍中、道がますます険しくなるばかりか寒さが一段と厳しく、さらに連日の吹雪で疲労と凍傷に悩まされます。阿武隈川の流れを渡り、氷雪の安積平野を横切って、奥羽山脈を越すことは情けにおいても偲び難く、部下思いの武渟川別命将軍は、『朝日さし夕日なお照る』向きの良い場所を選んで軍勢を休めることにしました。


これが今の直毘神社の周辺であったとされています。

 その休息の際に、武渟川別命将軍は、手頃な櫟の木を求めて幣を結んで四柱の神をお祀りし、草々のお供えものを捧げた。

 この四柱の神を二つの社(やしろ)に祀ったので二社権現と称し、凍傷や病気に悩む兵の平癒と戦勝の祈願したのが、現在の直毘神社であるとされていると記されています。

 尚、二社権現を直毘神社と改称したのは、明治六年(1873)のことです。







四道将軍といえば、会津の地名の由来も関連してきますので添えておきます。

 先の武渟川別命は、東海方面を海路進軍して常陸に上陸、岩城から小野、仲田、中郷、鷹巣を経て、後の直毘神社付近で一泊し、二社権現にて戦勝祈願し、さらに北小泉から阿武隈川を越えて、保成(母成)峠から会津に入ります。
 一方、その父である大彦主命は、北陸方面を進軍して阿賀川を上り、今の会津まで進軍したところで、武渟川別命と戦陣にて親子の対面を果たしたと伝えられています。

 ※大彦主命(大毘古命)と武渟川別命(建沼河別命)親子が、無事に会えた場所から相津、転じて“会津”の地名が付いたとされています。


       蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!









直毘神社参道石段入口に立つ石灯籠

江戸時代後期の奉納ですが、内藤氏、栗山氏、荒木氏、影山氏、のご先祖様のお名前が見えますが、薄井氏の御名前も見えます。

夢のデパート うすいの薄井家のご先祖様です。









「塵壺」出版のお知らせ

「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」 歴史春秋社  ISBN:978-4-86762-057-1

 上製本四六版 444ページ 定価:3,080円(税込)

 5月2日(金)より販売開始です。

 三春昭進堂店頭はもちろん三春はカネサン書店はじめ、県内の有名書店、出版元の歴史春秋社、そしてAmazonでも販売します。

三春城下の饅頭屋主人が販売促進を意図して平成3年から一生懸命に書き記した新聞折込チラシ「塵壺」。その中のコラム396号(令和6年7月号)分までの中から今回の書籍化に際して130号まで絞り込み、三春を中心に歴史や寺社仏閣、そして身の回りのことなど今までの塵壺に加筆・校正を加えまして単行本にまとめました。一家に1冊、そしてご親戚の方にもいかがでしょうか。

 皆様のご用命をお待ちしています。

店主敬具






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