2025-04-25 Fri
塵壺406号 「直毘神社(なおびじんじゃ)と四道将軍(しどうしょうぐん)」 令和7年5月発行
岩江地区の舞木や日影、そして郡山市西田町の根木屋、木村などの地名が直毘神社に由来した話が伝わっています。
昔、上舞木にある権現さまと呼ばれる二社大明神(現直毘神社)の境内に大きな櫟(くぬぎ)がありました。
夕方になると、この櫟の影が十町(1090m)も延び、影が届いたところは、「日影」と名付けられたと伝わっており、三春茶屋のちょっと三春よりにある橋、これを日影橋と呼ばれています。
そして「舞木(もうぎ)」という地名の由来は、ある時、もの凄い風が吹いてこの大木が根こそぎ空に舞い上がった。それからこの地を舞木と呼ぶようになったといわれています。
さらに、根が落ちたところを根木屋と名付けられ、幹が落ちたところを木村と名付けられたといいます。
※根木屋は、根際(ねきわ)から”ねぎや”へ転じ、木村は、きうら、木末(きうら)、きむらへ転じたと伝わっているそうです。
そうした由来の元となる今の上舞木に鎮座する旧舞木村の村社「直毘神社」は、御祭神として、伊奘諾命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、神直毘神(かみなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)の四柱の神が祀られています。
社伝を観ますと、今から二千有余年前、第10代崇神天皇御代10年に諸国鎮撫の為、「まつろわぬ者たち」を征伐するために遣わされた四道将軍(しどうしょうぐん)のゆかりの場所と伝えられています。
この四道将軍とは『日本書紀』に見られる、崇神天皇が全国平定を目指して派遣した皇族の四人の将軍のことで、東海方面には武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、北陸方面には大彦命(おおひこのみこと)、西道(山陽)方面には吉備津彦命(きびつひこのみこと)、そして丹波(山陰)方面には丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)が、それぞれ将軍として皇軍を率いて平定に向かい出陣します。
直毘神社(旧二社権現)の由来書には、磐城に入られた四道将軍の一人である武渟川別命将軍率いる皇軍の軍勢は、夏井川の南西の山道より陸奥の真冬を田村郡(たむらこおり)の山奥に進軍して行きます。
その行軍中、道がますます険しくなるばかりか寒さが一段と厳しく、さらに連日の吹雪で疲労と凍傷に悩まされます。阿武隈川の流れを渡り、氷雪の安積平野を横切って、奥羽山脈を越すことは情けにおいても偲び難く、部下思いの武渟川別命将軍は、『朝日さし夕日なお照る』向きの良い場所を選んで軍勢を休めることにしました。
これが今の直毘神社の周辺であったとされています。
その休息の際に、武渟川別命将軍は、手頃な櫟の木を求めて幣を結んで四柱の神をお祀りし、草々のお供えものを捧げた。
この四柱の神を二つの社(やしろ)に祀ったので二社権現と称し、凍傷や病気に悩む兵の平癒と戦勝の祈願したのが、現在の直毘神社であるとされていると記されています。
尚、二社権現を直毘神社と改称したのは、明治六年(1873)のことです。
四道将軍といえば、会津の地名の由来も関連してきますので添えておきます。
先の武渟川別命は、東海方面を海路進軍して常陸に上陸、岩城から小野、仲田、中郷、鷹巣を経て、後の直毘神社付近で一泊し、二社権現にて戦勝祈願し、さらに北小泉から阿武隈川を越えて、保成(母成)峠から会津に入ります。
一方、その父である大彦主命は、北陸方面を進軍して阿賀川を上り、今の会津まで進軍したところで、武渟川別命と戦陣にて親子の対面を果たしたと伝えられています。
※大彦主命(大毘古命)と武渟川別命(建沼河別命)親子が、無事に会えた場所から相津、転じて“会津”の地名が付いたとされています。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
直毘神社参道石段入口に立つ石灯籠
江戸時代後期の奉納ですが、内藤氏、栗山氏、荒木氏、影山氏、のご先祖様のお名前が見えますが、薄井氏の御名前も見えます。
夢のデパート うすいの薄井家のご先祖様です。
「塵壺」出版のお知らせ
「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」 歴史春秋社 ISBN:978-4-86762-057-1
上製本四六版 444ページ 定価:3,080円(税込)
5月2日(金)より販売開始です。
三春昭進堂店頭はもちろん三春はカネサン書店はじめ、県内の有名書店、出版元の歴史春秋社、そしてAmazonでも販売します。
三春城下の饅頭屋主人が販売促進を意図して平成3年から一生懸命に書き記した新聞折込チラシ「塵壺」。その中のコラム396号(令和6年7月号)分までの中から今回の書籍化に際して130号まで絞り込み、三春を中心に歴史や寺社仏閣、そして身の回りのことなど今までの塵壺に加筆・校正を加えまして単行本にまとめました。一家に1冊、そしてご親戚の方にもいかがでしょうか。
皆様のご用命をお待ちしています。
店主敬具
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-03-28 Fri
御春輩「田村庄司の乱」 北関東騒乱 田村氏と小山氏
母の里は、本宮市本宮町太郎丸の和菓子屋「小山(こやま)」です。
曾祖父から以前の古い戸籍を見ると新潟県旧寺尾村(現新潟市西区寺尾)となっています。
母方からは、新潟や長岡付近の小山(こやま)氏は関東八屋形の国人で、下野国(現栃木県小山市)守護職の小山(おやま)氏の一族郎党の末裔だと代々伝わったと聞き及んでいました。
小山氏の先祖は室町幕府の鎌倉府と戦った「小山の乱」で敗北しますが、当主の小山若犬丸は、田村郡(守山城もしくは日和田八丁目?)を本拠地とする田村庄司の田村氏(以下、田村庄司氏と記載)を頼って再起を図り「田村庄司の乱」が起こります。しかし田村庄司氏が敗北してしまい、若犬丸は菩提寺の和尚の縁で会津蘆名氏を頼って再起を期しますが討たれ、会津まで同行した小山氏一族郎党は各地へ落ち延びます。
その内の一派は、新潟へ落ち延び、小山氏は“戦で負けた”小山の呼称を“おやま”から“こやま”へ変更したと聞き及んでいました。
「小山の乱(小山義政の乱)」とは、室町幕府の第3代将軍足利義満の頃、下野守護小山義政が、鎌倉府足利氏満(鎌倉公方)に対して起こした反乱で、約17年にわたって戦いが繰り広げられた結果、小山氏の嫡流は滅亡しましたが、嫡男の若犬丸は同じく鎌倉府に不満を持つ田村庄司氏の元へ逃れ先の「田村庄司の乱」へと発展します。
この「田村庄司の乱」は、田村荘の庄司(管理官)である“御春輩”田村庄司氏(後の三春田村氏と区別するために田村庄司氏と記載)が、室町時代初期の南北朝の争乱(1336~1392)では、室町幕府(政所)や鎌倉府である鎌倉公方や関東管領の治世に屈服せず、戦略的な利害関係から南朝方として鎌倉府の白河結城氏と長年に亘って小競り合いが続いていました。
室町幕府の東国出先機関である鎌倉府は、服従しない田村庄司氏を「田村退治」として攻略すべく、結城氏経由で無理難題を押し付けてきます。
応永元年(1394年)鶴岡八幡宮造営のための段銭徴収を田村荘へ命じたことや、探題的な立ち位置の白河結城氏が鎌倉府の指揮下に移されるにあたり、鎌倉府から御料所として所領の進上が要求されますが、結城氏はその役料を自身の所領からではなく田村荘からの徴収しようとしたことへの不満もあって、田村庄司氏と御春輩は一斉に蜂起します。
田村庄司氏は、鎌倉府(当時は古川公方)のある関東出陣の大将として小山若犬丸(隆政)はじめ、新田貞義の三男義宗の子新田相模守(脇屋義則か?)、従弟の刑部少輔など南朝の残党らとともに鎌倉府攻略のため白河へ出陣、さらに北朝方鎌倉府の差配に不満を抱く旧南朝方の東国(上州や武州)の諸将も田村氏の下へ馳せ参じ、一大勢力とな
って結城氏を中心とした鎌倉府配下の軍勢と対峙します。
「田村庄司の乱」に対して、陸奥国の管轄権を室町幕府(征夷大将軍政所)から移譲されたばかりの鎌倉府の足利氏満(古川公方)が、北朝方の東国十一ケ国の国人に出陣を命じて、自らが兵を率いて出陣して結城氏の舘に入ります。
この鎌倉府によって動員された兵力の前に、一定の戦略的効果を得た田村庄司氏は、今後の形勢を鑑みて兵を納め、それぞれの領地へ帰還します。
これによって田村庄司氏は一時的に衰退し、田村荘は鎌倉府の御料所となって結城氏がその代官として在地支配を広げます。
後の応永六年(1399)、不満を募らせる御春輩を中心とする南奥諸将の支配・監視するために、鎌倉府政所から安積郡へ足利満直(篠川公方)、そして岩瀬郡には満直の弟足利満貞(稲村公方)が派遣され、仙道(現在の福島県中通り周辺)の国人諸将が、応永十一年に取り交わした「仙道国人一揆契状」から見ますと、仙道の諸将は篠川、稲村両公方の権威をもとに鎌倉府の差配を受けていたことが窺えます。
時代は下がり、田村庄司田村氏の基盤を継いだ田村直顕(三春田村氏初代義顕の祖父)は、宝徳3年(1451年)から記録に見え、結城氏のもとで代官的な役割をつとめるとともに、娘を結城直朝の孫顕頼に嫁がせるなど田村庄での足場を固め、結城氏の内紛によって没落し、後に田村氏は三春へ拠点を移して戦国大名へ発展し戦国乱世を走り続けます。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春 拝
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2025-02-21 Fri
塵壺404号 「成田山節分會御守」 山内「い津美や」 令和7年3月発行
三春城下真照寺節分会も終わり、春の兆しを求めて成田山新勝寺へ参拝に出かけてきました。
参詣を済ませ、懇意にさせてもらっている山内の食事処「い津美や」の女将さんへ新年のご挨拶に伺いますと、節分会「成田山御福豆」と開運招福の御利益がある剣守「成田山節分會御守」をいただきました。
この「成田山御福豆」は、本来は、お坊さまや職員に配られる特別な節分会の福豆だそうですが、成田山新勝寺の山内や参道の門前町で商いをされている商売屋さんにも御福分け(お裾分け)があり、それぞれの御贔屓筋やご縁のある方々にお配りしているという有難いお守りです。
女将さんは私の亡き母と同年代で、お姑さんの跡を継ぎ食事処を営んで六十有余年。

ご実家の亡きお父様の名前が“龍吉”さんといい、私“龍一”と同じく名前に“龍”の字を持っているというのも、何かの御縁なのでしょう。母のようにいつも温かく迎えていただき、近況や他愛もない世間話をしながら特製おでんを肴に、まだ日のあるうちの一献!居心地が良くつい長尻になってしまいます。
成田山詣は、当三春昭進堂髙橋家は真照寺の檀家ではありませんが、門前で4代前の曾祖父より商いをさせていただいているというご縁から、2代目の祖父傳造の代より私まで3代に亘って「真照寺成田山講中」(コロナ以降中止)の講員として成田山新勝寺に参拝し、個人的にも年に数回参詣しています。
祖父や父の代の成田山講中は、道路や鉄道事情も悪く、早朝三春を出発して夕方に成田山に到着、夕食もそこそこに、翌朝の新勝寺一番の護摩祈祷を受けて三春へ帰るといった具合だったそうですが、根が好きなもんですから御祈祷までの空き時間には、い津美やさんで気の合う仲間と一献傾けていたようで、祖父の代より3代続くお付き合いです。
成田山新勝寺門前(目の前)にある旅館「若松本店」さんを定宿にしていますが、「折角門前に泊まるなら朝一の御護摩祈祷に参詣しては」と三春城下真照寺の住職から案内をいただいてからは毎回参詣の際には朝六時から行われる一番の「御火加持」(おひかじ)」と呼ばれる御護摩祈祷(おごまきとう)に出頭しています。
午前5時半、御火加持に先立って案内役のお坊さんから、「仏教での修業とは、心と身体、そして言葉の清らかになる修練です」と教示され、他の参拝者と一緒に心静かに待ちます。
定刻となり、管主・導師様が入場されて堂内に大太鼓が響き渡り、御護摩祈祷の開始。山内の僧侶・職員総勢50人が集まった勤行・護摩祈祷は迫力がありました。
御火加持は、煩悩を護摩焚きの焔で焼き尽くし災厄を祓い開運平安を願うもので、薪を煩悩に見立てて、不動明王の焔で焚き上げるとされています。
護摩焚きの祈祷が終わると参詣の方々が荷物を手に前の方に進み、お坊さんや紋付き袴の職員の方々にそれらを手渡し、護摩焚きの残り火にかざしてもらいます。
これは、成田山の御火加持では、自分の大切な鞄や財布などを護摩火であぶってもらうことでお不動明王さまのご利益をいただき邪気を払うというとされています。
私も、財布や家族の写真の入ったスマホ、免許証、車のキー、御数珠等を入れて来た鞄をお坊さんに託して護摩火であぶっていただきました。
尚、コロナ前は、祈祷が終わると退席される管主様が手に持っているその御数珠で私たち参拝者の低頭する頭を触っていかれました。いわゆる「お数珠頂戴」というもので、管主さまの功徳を分けていただけましたが、今は自粛されています。
成田山新勝寺不動様の御護摩祈祷は、非常に強い浄化のパワーとご利益を授け、道を切り開く力と困難を乗り越える知恵をもたらしてくれるということで、日ごろのご加護とご縁に感謝して、商売繁盛、家内安全など所願成就をお願いしてきました。
福和内! 蒼龍謹白 さすけねけぞい三春 拝
3月の定休日のおしらせ
3月4日(火)、5日(水) 連休です。
3月11日(火)、12日(水) 連休です。
3月18日(火) お彼岸期間中ですので通常営業です。
3月25日(火) お休みをいただきます。
よろしくお願いいたします。
「塵壺」の単行本出版を目指して校正やデザイン等の作業を一生懸命になって進めています。
もうしばらくお待ちください。
詳細は、後の塵壺にてお知らせいたします。
中々、蔦屋重三郎のようにはいきません!
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-01-24 Fri
塵壺403号 「三春人形」小沢民芸代表 三春人形師小沢宙(そら) 令和7年2月吉日発行
「三春人形」小沢民芸代表 三春人形師小沢宙(そら)
日本の代表的な郷土玩具として人気を集めている三春(張子)人形。三春藩が張子人形を作り始めた当時の藩主秋田公は、文化面の関心が高く、歌舞伎や都で流行しているものを取り入れていたと言われ、江戸時代の文化文政期(1804~30)頃に最盛を迎えました。

和紙の柔らかさから細やかな表現に優れ、とても軽く仕上がっていて、下塗りと色付けにより強度が高くなるため売り歩くのにもちょうどよく、外貨獲得の手段としても活用されていました。
三春達磨や干支の張り子は、毎年三春だるま市で縁起物として買われていたために今日まで続いていましたが、三春人形は明治維新後に文明開化や商社であった三春藩がなくなったことで衰退していきました。
しかし昭和の時代になり、高柴デコ屋敷の人形師、橋本広吉さんと小沢民芸初代の小沢太郎(宙さんの祖父)さんが復元させました。
木型に和紙を張り、型から抜き取り「張り抜き」の手法で、人形によっては数個の木型を用いて張り抜きしてから、これらを組み合わせて一体の動的な姿勢に作りあげます。
さらに紙や竹などを差し込んだりして小さな持ち物を本体につける「とりくみ」によって、人形の表情はいきいきしたものになっています。
芝居の一場面や舞など「動」のなかの一瞬をとらえた型や顔の描き方の立体感などは、単なる玩具というよりは、人間性を表現しようとした人形師の自由への息吹が強く感じられます。
小沢民芸代表の三春人形師小沢宙(そら)さんが制作する人形は、歌舞伎の演目、舞踊が題材であるため素朴ながら華やかさがあり人形たちは太鼓のバチや扇子といった小物を持って、のびのびとした動きがあります。
お雛様飾りの三春内裏雛や三人官女、五人囃子、そして赤い色が魔除けということから男子が生まれたら“熊乗り金太郎”や薩摩隼人。さらには福の神や鯛乗り恵比寿、天神などの縁起物、また歌舞伎の三番叟、舞姿、花笠など、変わったところでは唐人形と呼ばれるシリーズなどがあります。
江戸で見聞きした歌舞伎や浮世絵などの流行していたものをモチーフに三春人形は作られていますが、特におもしろいのが“象乗り唐児”です。当時、三春の人形師たちは本物の象を見たことがなくて想像だけで象を造り上げます。
今の象と比べると何かが足りません。それは、大きな耳がないんです。
さらにもう一つ、象さんのシンボルである鼻も短い。また、人が乗れるくらいの大きさとは聞いていたんでしょうが、そこまで大きいとは知らずに子供が乗れるくらいだろうと、子供を乗せた滑稽な比率で作製されています。
小沢民芸では、江戸時代のものを復元しているため手間と時間もかかりますが、希少な材料を使用して江戸時代と同じ手法で作り続けています。「とりくみ」や「絵の具(胡粉)」に混ぜる際の糊は“三千本”の膠(にかわ)、膠とは動物の皮から抽出した古来の糊です。
和紙はその昔はふすまの下地に使っていたような粗末な和紙です。
そして人形足元を支える板は、昔の屋根の下地に使っていた材木の木端。
ともに当時はそこら辺にあったような材料ですが、逆に今はこれらの材料集めが大変です。
また、人形の木型も、型の張り付けた和紙を方から取り外す際に小刀で切れ目を入れて外すという工程上、木型が10年くらいしか持ちません。それを自分たちで制作して補充しています。
1~2か月に制作できる三春人形は、だいたい20体ほど。年間を通して一定の量を生産できると良いのですが、乾燥しやすい冬は制作の効率がいい代わりに、湿度の高い夏場の時期は色付けの乾きがわるくなるので、乾燥させている間に、人形たちのパーツや小道具作りをまとめて行っています。
「小沢民芸の人形を見て“今もこうして、いいな、かわいいな”と三春人形を手に取ってくれたお客様はもちろん、各地のお客様からの御礼のお手紙など連絡をくれる方がいたりとそれが制作を続ける励みでもあります。今後の目標は、現在のレパートリーに加えて、復活していないお気に入りの三春人形の製作です。もちろん木型造りからです。」と宙さんは話されていました。
次世代へつなぎ、今後も残していきたい三春の文化の一つです。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
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2024-12-31 Tue
塵壺402号 「拝啓、御春輩(みはるのともがら)殿!」 令和7年1月吉日
ご縁があり、中田町郷土史研究会様の歴史講座で話をする機会の恵まれました。
御春輩とは、室町時代、南北朝時代の戦国乱世の混乱期に於いて独立自尊を貫いた田村地方の国人武士団の総称です。
今回は、その末裔の方々の前での講座ですので、何か忘れては大変だと、今まで発行した塵壺から関連している項目を洗い出し、新たに調べ上げた部分を加筆等して再構成して歴史講座に臨みました。
「照顧却下」という禅の教えがありますが、還暦を迎えた今年に先祖伝来の御春輩中田の郷を調べることは“自分自身を顧みる”ということになるんだろうと思います。
私の祖母が柳橋出身ということもあり、三春城下新町からは、根本を抜けて牛縊本郷、黒木、駒板、中津川、そして柳橋へと、子供のころより通いなれた場所です。
今回、改めて中世田村の武士集団「御春輩」や「田村庄司田村氏」、そして「平姓三春田村氏」に向き合うべく、中田各地にある寺社仏閣や名所旧跡などをせっせと巡り、参詣に際し、ご挨拶とご縁の感謝を申し上げて講座開催の報告と完遂を祈念してきました。
各々の郷を代表するような立派な社殿は、よく清掃整備されており、その維持運営管理に奉仕されている方々の郷土愛ともいうべき使命感と団結力に敬意を表して参りました。
すると一気に時代が戦国時代に遡り、戦国武者のご先祖様から「手を抜いたら承知せぬぞ、陣触れじゃ、いざ出陣!」と下知(げち)を受けている様で、気を引き締めて取り組む覚悟が出来ました。
三春田村氏の資料は「片倉家文書」「田母神氏旧記」や「伊達天正日記」など仙台藩の文書や一関田村家関連の文書がありますが、三春城下には田村氏の改易や菩提寺などの火災等で紛失し資料が少ないという実情がありました。
そこで、今回の歴史講座の中で、田村旧臣の末裔となる会員の方々に歴史的な文献や口伝が少しでも残っていれば拝聴したいと考えていましたが、やはり郷土に残る様々な話を伺うことが出来ました。
牛縊本郷には、田村清顕の後を継いだ田村宗顕(清顕の弟氏顕の子)が田村氏改易後に伊達氏仕置きを不服として名前を牛縊定廣(うしくびりさだひろ)に改名したという由来の館主牛縊壱岐五郎衛門の牛縊舘。
黒木鎮守 菅布禰神社
黒木郷には、南朝の将軍北畠顕家の家臣伝説の残る三春田村氏旗本近習衆黒木舘主黒木信濃守(与力五騎・鉄砲五丁)黒木舘跡。
中津川郷には、今から600年位前の応永十一年(1413年)の「応永仙道国人一揆」に記載のある中津川三河守秀清の末裔、中津川城主千々代丸の中津川衆など中世の田村家に重要な役割を果たした武将もいました。
郷社下枝鎮守 菅布祢神社
下枝郷の旧郷社菅布禰神社は、延暦年間に伊勢鈴鹿に鎮座する「椿大神社」の御分霊を祀った由緒ある社で、正保年間に三春藩秋田氏初代藩主秋田俊季公が龍神鎮撫のために奉納した「双龍之旗」二簱、安永二年、藩公秋田千季(倩季)の奉納懸額、また東方御舘山城主橋本刑部少輔(南朝の忠臣橋本正茂が後裔)の武具が残ると伝わっています。
上石郷には「上石の不動桜」がありますが、このお不動様のお堂は、幕末のころに上石に移り住んだ三春藩士が寺子屋として使用し、子弟の教育をしたと伝えられています。
赤沼郷には「鴛鴦」の伝説と、城下新町の州傳寺御本尊「阿弥陀如来坐像」丈六佛の由来が伝わっています。
高倉郷には、田村麻呂由来の大元神社、高倉城主今泉山城守(橋本氏)与力五十騎舘跡が残り、
海老根鎮守 菅布祢神社 (旧菅布祢大明神)
海老根和紙「秋蛍」で有名な海老根郷には伊達藩家老となった古内氏と仙台竹駒神社由来。
駒板郷には、観音山常林寺山内にある水月観音堂の木造観音菩薩半跏像(水月観音)があります。
木目沢郷には、「月一統」の主力である木目沢舘主の木目沢善五郎顕継がいました。尚、木目沢氏末裔となる木目沢の木目沢家に残る古絵図や古文書、そして故木目沢傳十郎氏の口伝は、田村地方に現存する田村氏関連の資料として大変貴重なものです。
そして、柳橋はなんといっても「柳橋歌舞伎」。
江戸時代は幕府直轄の天領で隣接の守山藩同様、代官差配の為に、音曲の規制が穏やかで、芸能が盛んに行われたと伝わっています。
この中田町をはじめ旧三春藩領には、それぞれの地域ごとの歴史や特色のある寺社仏閣などがあります。郷土の自然や歴史、伝統文化、先人の業績などに対する理解を深めて子孫に伝えていくことで、“郷土の誇り”と“心のよりどころ”になっているのだと思います。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい、田村庄!「えい、えい、おう!
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2024-12-06 Fri
塵壺401号 春陽ノ郷 「三春花の丘」 三春楽しい地域づくりの会 令和6年12月吉日発行
三春町にご縁のある首都圏を中心とした県外在住者の会「三春舞鶴会」(八木沼今朝蔵会長・過足出身)。活動としては、年2回発行している会員向け機関紙「三春舞鶴通信」(菅野吉雄編集長・常葉出身)に於いて会員や三春在住の方の寄稿によって会員同士の情報交換や親睦を図り、三春のホットな話題も提供しています。
さらには、年1回開催される総会に於いて来賓として三春町長はじめ主だった役職の方々にご臨席を賜って今の三春の現状を伺ったりして交流を深めています。
先ごろ、東京麹町に於いて三春舞鶴会第13回総会があり、私も三春在住の三春舞鶴会幹事として出席しました。
総会での八木沼会長の挨拶では、今春に春爛漫の三春へご友人を招待した際に「本当に良い町ですね」との言葉をいただいたこと。そして、パリ・パラリンピックの車いすラグビーで、初の金メダルを獲得した日本代表の橋本勝也選手のこと。さらにもう一つ『てっぺんの向こうにあなたがいる』と題して三春出身の登山家田部井淳子さんの生涯を吉永小百合さん主演で映画化されるなど、郷土
三春に関する話題を話され、臨席された会員の皆様も大変喜んでいました。
懇親会では三春町長はじめご来賓の方々のそれぞれの立場から現状紹介や三春甚句などが披露され盛り上がっていました。
また、会員の三春町(旧御木沢村)出身の洋画家後藤茂樹先生より、当会の關マサ副会長(会計)へ絵画「富士山」の寄贈式、そして臨席された方々へ手書きの絵ハガキの贈呈がありました。
日本洋画界を代表する画家で齢90を超えても尚、創作意欲みなぎる生涯現役の洋画家の後藤先生から「三春に生かされている」との御言葉に皆さん感動されていました。
後藤茂樹先生のプロフィール。
1931年生まれ、陶芸、水墨画、油絵を学びます。フランス ル・サロン展:銅賞(1978年)や国際大賞を受賞するなど、国際的に活躍する世界洋画界の第一人者です。
そして三春町文化功労賞(1981年)も受賞されています。
総会には、三春からも来賓として三春町長はじめ多数の参加をいただきましたが、その三春からの出席者の一人で、NPO法人「三春楽しい地域づくりの会」(内藤忠会長)の副会長で「三春花の丘」実行委員の城下荒町光善寺(浄土真宗本願寺派)の井上広志住職と後日、今後の三春舞鶴会と三春の具体的な交流やその方法などについて話をする機会がありました。
その中で、江戸時代の相馬中村藩への越中富山から浄土真宗門徒が多数移住した話を伺いました。天明3(1783)年、「天明の飢饉」が発生して数年に亘る飢饉と疫病で相馬藩では多くの人が死亡、さらに逃散・失踪者も多く出しました。その結果、何十年もの間、人手不足で農地が荒廃していました。
その復興策として、時の相馬藩の殿様が江戸城登城の際、控えの間が同じ北陸富山の砺波藩の殿様に人口減の話をしたところ、仏の教えから間引きの悪習のない北陸の真宗門徒の村は人口過多でしたので真宗門徒の村ごとの移住を快諾したと聞きました。
移民の真宗門徒の方々は、相馬藩の「入り百姓」の政策として、年貢の軽減などで優遇されたこともあり、北陸各地からの移住民は最終的には1万人前後になり開墾新田も石高3万石余りが計上されています。
さて、井上和尚が実行委員を務める「三春花の丘」公園計画は、城下の中心部の紫雲寺山散策路の一帯で、臥牛丘、刑部舘跡と称される丘で行われている植樹事業で、未来へつなげる郷土の美しい景観づくりの一環となっており、地域住民の皆さんとともに長期的に植栽に取り組みながら「三春花の丘」の整備と完成を目指しています。
井上和尚は「紫雲寺散策路は、今は何もない丘です。この先、何年先になるかはわかりませんが、三春小学校、御木沢小学校の児童や三春中学校、田村高校の生徒たちが植樹した桜、花桃、レンギョウ等々の苗木がいつか立派に生長し、何もないこの丘をやがては三春の名所として三春町民の憩う場に、そして訪れる者の心を癒やし、和ませる、美しい三春花の丘へと変えてくれることでしょう」と話されていました。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
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2024-11-08 Fri
塵壺400号 「御北御前(おきたごぜん)三春城主田村清顕正室」 令和6年11月吉日発行
三春城主田村氏三代清顕公の正室、御北御前(於北、於喜多)は、相馬小高城(現・相馬市小高)城主相馬氏十四代当主相馬顕胤(あきたね)公の娘で、天文18年(1549)に三春城下へ輿入れしてきました。
後に米沢城主伊達氏十七代当主伊達政宗公(仙台藩初代藩主)の正室となった愛姫(陽徳院)の母です。
御北御前の婚姻に際して、花嫁於北姫の衣装やお化粧道具の費用、そして相馬家から守役として付いてくる侍女達の賄い料として、相馬領の古道村、岩井沢村、葛尾村、南津島村の4ケ村が田村領へ編入したとされ田村家と相馬家の結びつきの深さを今に伝えています。
さらに御輿入れの逸話として、後の三春城下新町末旧岩城海道庚申坂口に残る「化粧坂」の名称由来となる化粧清水には、この御北御前が城下に入る際に、この清水を使って化粧を直したことからこの名がついたとも伝わっています。
初代田村義顕公の正妻は、磐城大館城(現・いわき市内郷・好間)城主岩城氏十七代当主岩城常隆公の娘、二代隆顕公の正妻小宰相は梁川城(現・伊達市)、西山城(現・桑折町)城主伊達氏十四代当主伊達植宗(正宗の曾祖父)公の娘、そして三代清顕公の正室が相馬家から、さらにその娘愛姫が伊達政宗へと嫁ぎ、三春田村家三代当主の婚姻はそれぞれの時期の仙道(南奥州)地域の利害関係の構図が如実に表されています。
御北御前は、後の立ち振る舞いから推察するに大変に勝ち気で気丈な性格と見受けられますが、姑となる伊達家出身の小宰相とは単に嫁と姑の関係以上に、里(出身)である相馬家と伊達家の戦略的な外交関係がそのままに投影されていたようで、二人の険悪な関係が見て取れる伊達家への手紙なども残っています。
天正14年(1586年)、城主田村清顕が没すると跡目を巡るお家騒動が発生し、争いとなります。清顕公と御北御前の夫婦には一人娘の愛姫以外には子がいなかったので後継者問題があり、家中は、筆頭宿老田村宮内入道頼顕(月斎)を中心とする「月一統」が後押しする伊達派と、小野城主の田村梅雪斎顕盛を中心とする相馬派の御家騒動に発展します。
御北御前は、主君(清顕公)没後は出家したものの、混沌とする戦国期の仙道に於いて主亡き後の田村家を案じて“田村ノ後室”として実権を握って田村家中の陣頭指揮を執り、田村家宿老重臣を掌握しながら実家である相馬家と愛姫の嫁ぎ先の伊達家との均衡を保ってこの混乱を切り抜けようと苦心します。
天正16(1588)年には、田村家中の相馬派は家中掌握のため、甥の相馬家当主相馬義胤(そうまよしたね)が手勢を引き連れて強硬に三春城入場を企てますが、伊達派の田村月斎や重臣橋本刑部顕徳らの指揮する直属の宿直田村不断衆が撃退して撤退させます。
結果的には、相馬派の盟主とされる御北御前を船引舘へ更迭して、伊達政宗が三春城に入城すると、田村月斎や田村梅雪斎など田村家の重臣と協議して田村領の仕置を行い、田村清顕の弟田村氏顕の子である田村宗顕(孫七郎顕季、後に牛縊定顕)を後継と定めて田村家の当主とします。
そして、田村家中の相馬勢力の相馬派38名は小野保領小野城へと撤退させます。
御北御前が居住した船引舘(城)(現舘山公園)は、田村四十八舘の一つで、時の三春城主三春田村初代義顕公二男の田村起雲斎憲顕(のりあき)によって築かれました。
相馬義胤が三春城入城から撤退した際には、相馬勢は相馬派の田村清康(憲顕の子)が城主だった船引城に籠城しますが、伊達勢に攻められて敗走します。
その後、政宗の裁断により御北御前を船引舘へ隠居させて、清康を船引城から退去させます。
船引、片曽根山麓には「御前池伝説」の逸話が残っています。
史実から御前とは御北御前を指していると考えられます。
三春田村家の内乱により三春城から船引城へ追われたことを嘆き悲しみ、田村家の行く末を案じてこの池の身を投げたというものです。
史実では船引城に隠居後、奥羽仕置で相馬中村領の堤谷(堤谷御前の由来)に移り、さらに正宗の招きに応じて仙台城北舘(御北御前の由来)に居住。元和5(1619)年正月21日、仙台城下にて亡くなっています。
法名玉質性金大姉。亡骸は仙台城下金剛寶山輪王寺に埋葬されています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春 拝
おかげさまで 塵壺400号発行!
平成3年3月に発行して今回で400号となりました。
これもひとえにお客様からの励ましや誤記載や誤字脱字の修正及び指摘などのご指導ご鞭撻のお陰だと思っております。
衷心より御礼を申し上げます。
今回400号発行と発行者の店主が、今年還暦を迎えたことを期に製本化することにいたしました。
詳細は、後の塵壺にてお知らせいたします。
今後ともよろしくお願いいたします。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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