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令和元年 塵壺6月号「三春牛頭天王碑」旧三春畜産協同組合 ~三春城下真照寺山内




「三春牛頭天王碑」旧三春畜産協同組合 ~三春城下真照寺山内


子供のころ、旧三春家畜市場では2か月に一度家畜の競り市が行われていました。

私の記憶には牛の競り市しかありませんが、本来は農耕馬や軍馬の競り市でした。

この頃、当三春昭進堂では競り市に来る畜産農家の方々に向けたお土産として“おたりまんじゅう”や“大福”そして“ゆべし”等々が喜ばれ文字通り飛ぶように売れていたようです。ありがとうございました。

また、昼時は普段は餡子を煮る鍋で作った、スルメで出汁をとり油揚げやさつま揚げ、そして竹輪などの練り物だけの特性醤油“おでん”や三角油あげの入った“キツネうどん”(後に新発売のペヤングヌードルが大人気となる!)が好評で、家中のいたる所が食堂と化して足の踏み場もないくらいのお客様であふれていたことが思い出されます。





そのセリ市場の入り口付近に「三春牛頭天王碑」と刻まれた石柱が立っていました。


牛頭天王とは、インド祇園精舎の守護神で日本に伝わってきた時に薬師如来・素盞鳴尊(すさのおのみこと)と同一視されたため、牛頭天王やその子の八王子権現は疫病退散を司り、“疫病消除”、“除災招福”、“出世開運”の仏様として信仰されて日本中に広まりました。





そのため旧三春畜産協同組合が昭和26年に三春方部家畜飼養農家一同の畜産振興と牛体守護、家内繁盛並びに五穀豊穣等を祈願、家畜に対する報恩感謝の拠り所として、“竹寺”の愛称で親しまれている埼玉県飯能市旧吾野村にある医王山薬寿院八王寺の御本尊「牛頭天王」の御分霊を、三春城下新町にある旧三春藩主祈願所である真照寺様、そして檀家の皆様の特別なるご協力を頂いて山内の一部に奉安しました。







竹寺での例祭は旧暦6月20日ですが、三春牛頭天王の御神体をお祀りするお堂の落慶式が11月6日に挙行されたために同日を例大祭日と定めて、以後、真照寺様によって毎年、祈願護摩祈祷により挙行しておりました。

牛頭天王堂を、奉安した当時は娯楽らしいものは全く無く、各地において素人演芸会が流行致し開催されており、弁当又は家で出来る御馳走を作り一家総出で観に行ったものでした。



牛頭天王祭にも祭の盛会の為余興として素人演芸会を開催、当時の市場北側に舞台を掛け(職員が何日もかかって作り)、出演者は各地区に割当て出演して頂き、年々盛大になりました。当時は交通事情が不便だった為、福島交通(県南バス)が臨時バスを運行する程の賑いでした。







この演芸会は三春町の皆さんは勿論、近郷近在よりの牛頭天王参拝と演芸参観で会場はあふれんばかりで、舞台での演劇などの時に、あまり観客が多すぎて、土手に登ってみたと伝わっています。

そして、子羊、小豚、鶏等が目玉賞品だったようです。

この大盛会を極めた素人演芸会も、様々な娯楽等が現れて約十10年位で幕が下ろされました。


其の後の例大祭は、関係者と一般参拝者の簡素な祭礼となっておりましたが、昭和50年代の三春牛造成計画と併せて、三春和牛研究会の発足(後に三春和牛推進組合より、あぶくま和牛育種組合と改変)により、例大祭の併催行事として、半日が研究会、講演会を催すようになります。

当時は、肉用牛の改良について畜産組合員の皆々様が大変熱心だった為、センターが満席となる出席者でした。






年々大盛会に開催されて、特に三春牛造成計画による肉用牛改良には故宇佐見登先生、外諸先生方々、又組合員皆々様の御協力により、例大祭、研究会等も大盛会でした。

三春畜協より各JAへの業務移管により、平成七年を以て、三春畜産組合による例大祭は終了となりました。

現在は、真照寺山内にあった社殿は解体されその跡地にはセリ市場の入り口に祀られていた「三春牛頭天王」の石碑が移設され田村地方の牛及び畜産農家の皆様の健康を見守っています。
 
 三春畜産協同組合史参照







       蒼龍謹白   さすけねぇぞい三春! 拝 


| ryuichi | 04:38 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺334 三春城下 丈六の由来 丈六佛 丈六薬師堂





滝桜を筆頭に枝垂れ桜が咲き誇り、山桜や染井吉野が彩りを添える春陽の郷三春。

その三春の城下に春爛漫を告げる八幡神社の春祭り。

今年も“八幡様の長獅子”が桜舞い散る城下を勇壮に舞って彩を添えてくれました。
こと、夕闇迫る還御の際、社殿へ続く参道の満開の桜並木の中を提灯に照らし出されて勇壮に舞う長獅子は幻想的です。

その八幡町から一本路地を入った小路に“丈六(じょうろく)”という地名が残ります。

この地名の由来は、城下新町にある天翁山州傳寺の御本尊“丈六佛”(じょうろくぶつ)と呼ばれる木像阿彌陀如来坐像(もくぞうあみだよらいざぞう)に因んでいます。

この丈六とは、鎌倉佛師が定めた仏像の大きさの基準「一丈六尺」からきており、州傳寺の阿彌陀如来坐像丈六像は半分の約8尺 (2.43m)とされています。


三春城下新町の州傳寺の御本尊は、その創建を平安時代、桓武天皇御代の征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)による東夷追討に由来した仏像で、鎌倉期の作とみられます。







田村麻呂の帰依僧“延鎮(えんちん)”が、田村麻呂の戦勝を祈願して延鎮自らが脇持仏の勝軍地蔵・毘沙門天とともに彫ったものとする伝説が伝わっています。

延暦年間の坂上田村麻呂による東征の帰路、守山(現郡山市田村町守山)に大元帥明王を勧請し、母である阿口陀媛(あくたひめ)の菩提を祀る為守山村徳定に「室家山童生寺を建立、更に丈六佛である阿彌陀如来坐像を宮城村赤沼の龍光寺に安置します。

時代は下がって、田村麻呂の末裔とする戦国期の田村義顕公(三春城主田村氏)の守山からの三春入城に伴って三春城下の鶴蒔田、後に現在地である丈六の地に移しました。








三春城下では舞鶴行者(ぶかくぎょうじゃ)が、赤海山万徳寺(廃寺)を開山(三春城下丈六か?不詳)して、丈六佛を移して御本尊としたとされています。

三春が会津蒲生領時代の慶長5年には、会津藩主蒲生郷成公が創建した丈六堂へ移され、江戸末期の秋田氏の時代には享保の初めに順国(じゅんこく)という道心者が来て新しく丈六堂(別当大聖寺)を造営して安置しますが、明和九(1772)年の火災に遭いこの仏像だけが焼け残りました。

丈六堂から阿彌陀如来坐像が、現在の州傳寺に移されたのは明治二十一年のことで、その長い歴史の中で、時代とともに移転、そして火災や様々な災難に遭遇しながらも現存するその福与かな御姿に心が和み、自然と手を合わせます。

  州傳寺「丈六堂建立勧請文」保観尼(文政十一年)及び三春町史参照

現在、この丈六堂は御本尊を薬師如来として「丈六の薬師堂」として近隣の隣組の皆様の御厚意によって守ってこられ、毎年4月29日(祝)には、丈六薬師縁日の祭典が執り行われて隣組各位の方々の健康を祈念されています。

また、この隣組の方々は毎年7月には丈六の通りに七夕様を飾って三春城下を彩り梅雨明けの三春の風景として私たちを楽しませてくれています。






丈六地内には、かつては大桂寺(廃寺)があり、年代不詳(昭和初期?)ですが、無住になったときに御本尊はじめ仏具すべては同じ曹洞宗である城下荒町の龍穏院に引き継がれました。

墓地には三春藩の儒者である倉谷鹿山の墓があります。

大桂寺の読み方は“だいけいじ”ですが、地域の人々はその昔は“だいげじ”と呼んでおり、無住・廃寺になった後も大桂寺延命地蔵を納める地蔵堂が建立され、お地蔵様の縁日になると子供たちや近所の人たちが集まり数珠回しなどをしていました。

 文中に登場する、宮城村赤沼(現郡山市中田町赤沼)には、戦国時代には田村・安積の要として重要な役割を果たす「赤沼築館」があり、赤沼弾正という武将が城主を務めていました。

尚、雄(オス)の鴛(オシドリ)を殺した猟師が雌(メス)の鴛に祟られるという小泉八雲著の怪談「鴛」(オシドリ)の舞台は、この赤沼とされています。






蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝




| ryuichi | 04:20 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺333号 「演劇集団“きのこ集団Protomass(プロトマス)”」 平成31年4月発行



 演劇集団“きのこ集団Protomass(プロトマス)” 塵壺333号 平成31年4月発行 

 高校時代、演劇部だった我が家の次男坊は高校在学中(2015年・冬)郡山市内の高校演劇部の有志を中心に“高校演劇とは一線を画したアングラ的な要素を含んだ演劇がしたい!”ということで、演劇集団“きのこ集団Protomass”を結成、翌年5月に座長を務める次男坊が書き上げたオリジナル作品(同脚本・演出)『出口はどこかにある』で旗揚げ公演をしました。

 現在劇団員は大学生、専門学校生、社会人、高校生などが在籍し、座長の次男坊作・脚本・演出する作品を舞台にして定期的に上演しています。
 次男坊も県外の大学に在学中ですので、稽古のために週末には高速バスを利用して帰省しております。







 また、他の劇団員たちも郡山在住の他、県外(宇都宮や東京など)から集まっては稽古を重ねる情熱のある演劇集団です。

 先にも、第5回公演『なんでもない、なんでも......』が郡山市麓山にある“郡山公会堂”において2日間上演されました。

 今回も、彼らが目指すアングラ的な演劇構成が採られ、多種多様な言語バトルと、日常生活では絶対に用いないだろう身体動作、ストーリーが論理的に進行せずかなりぶっ飛んだナンセンス・ブラックコメディーです。

 ポジションチェンジをして変更されていく性格。そして、登場人物の会話が噛み合わず役者の長セリフの中に昭和アイドル歌謡をエッセンスとしたコント仕立てのスピーディーな舞台構成…といった具合で次男坊ワールド満載です。






 また、物語の展開を追うことが難しく、意味不明なモノが出てきます。
それぞれの役者の立場や役職が人間を作り出し、そこから生まれる“笑いと不条理”が心地よいテンポで展開するがストーリーの根幹を外さない・・・
 急には思いつかないだろう斬新な演出の手法がいくつもとられていて、全く飽きることがない内容で面白さを倍増させています。

 この第5回公演に向けた“きのこ集団Protomass”の意気込みは凄まじく、この舞台の最終仕上げのために春休みに入ってから毎日稽古稽古・・・直前まで台本を手直ししながら迎えた本番です。
 さらには、テーマが重いだけに初日と2日目で演出を変化させて軽やかさを追加するという手の込んだ仕掛けがありました。

 毎回、私たち家族も観に行きますが、何より自分たちキャスト、スタッフが満足し、芝居を楽しんでいることがこちらまで伝わってきます。






  次男坊の告知をここで
 「きのこ集団Protomass独自の作品を作っていきたい。そして、ゆくゆくは「ムムッ!福島に行けば面白い演劇見れるんじゃなぁい!?」と言われるようになり、お客様が各地から福島に足を運んできてくれる。福島の活性化にちょこっとでも貢献できる。んでもってお金をフヒヒ……なんて目論んでます。」  
       “きのこ集団Protomass代表髙橋成知

   次回“きのこ集団Protomass”公演のお知らせ
 2019年5月4日(土・祝)~5日(日)に福島市福島テルサFTホールで開催される第6回POP演劇祭「!ときめき」に出演します。

 出演は5月4日(土・祝)15:40~16:40  

 会場 福島テルサFTホール

 【入場料】1日通し券 一般 1,500円/学生 500円/高校生300円 中学生以下無料

  ※1日通し券は、4日か5日のどちらかの日にご入場頂けるチケットです。

  問い合わせ 第6回POP演劇祭 事務局電話:024-523-3836








子供たちにはいつも楽しませてもらっています!
長男坊は長男坊のスタンスで、そして次男坊は次男坊の・・・







特にこの次男坊は、幼き頃より凝り性なところがあり、昆虫、ザ・ビートルズ、パンクロック、稲川淳二、小林賢太郎、電気グルーブ、寺山修司、唐十郎等々、トコトント云っていいくらいハマっていました。

… 今に続いているような気がします。

親だからこそ味わえる楽しい時間をありがとう~!






親バカ、バンザイ!

     蒼龍謹白  さすねけぇぞい!三春   拝







| ryuichi | 05:29 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
平成版三春今昔物語 「御木沢」の巻 塵壺332号平成31年3月発行





平成版三春今昔物語 「御木沢」の巻 塵壺332号平成31年3月発行

三春城下新町にある旧三春藩主祈願所真照寺の山内にある「古四王堂」。

東日本大震災により被災し御堂の建屋が損傷していましたが、お寺さんや檀家さん、そして関係各位の皆様のお力で復興再建工事が完了しました。







もうすぐ水芭蕉が芽を出し始める時節です。
三春城下に春を告げる水芭蕉を愛でながら往年の姿がよみがえった古四王堂をご覧いただければ幸いです

その真照寺の檀家さんが多い旧御木沢村は、明治22年町村制実施の時、合併した御祭村、七草木村、平沢村から一文字づつ採って「御木沢」とつけた村名です。
三春城下の北西隣する旧御祭村には、戦国期には田村四十八舘の一つ「小山舘」があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

小山舘は、天正年間に三春城主田村清顕時代に築いた“田村四十八舘”の一つで、田村家の家臣、550石の小山左馬之助が居て、北西の守を固めていました。
古文書で見ると、三春札所から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったと思われます。

御祭の由来として、江戸中期の三春藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に、獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納します。
以後、明王と牛頭天王の祭礼には、御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より、「御祭」の村名を拝領したと伝えられています。
 田村四十八舘「七草木舘」は、七草木を小浜街道が北へと向う要衝に所在し「三春城古城絵図」では2か所の郭の存在を示し七草木新助を舘主名に挙げています。







七草木氏の由来は、寛平の頃、宇多天皇が宮中に於いて七種粥の節句を行った際に、竹良某という人が七種および擂り粉木(すりこぎ)を献上して賞されて「七種木」の称を賜ります。

後にその子孫の七種木新介という武将がこの地の築館山に舘を築いて移り住んで戦国大名田村候に仕えます。田村家出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたと伝えられています。

また、御祭、七草木には「舘下」「突き舘」、「突きうち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という武将に因んだ地名が残ります。

 三春城下から小浜へ向かう、七草木奥にある「七草木休み石」は、徳川幕府二代将軍秀忠公が、この地に検地のために来たときに、この石に腰(こし)を下ろして休息(きゅうそく)したといわれています。







 三春、松沢街道の御祭・七草木境に文字も薄れた古い石碑が残っています。

あれは橋本惣五郎の報徳碑です。

惣五郎は、七草木の人で、万延の頃に水戸藩の常陸久慈郡良子村の後藤泉蔵という人を訪ねて水戸国府業たばこの耕作法を学び、帰村して村人に伝授して「御祭国府」と称される葉たばこ生産に成功し、明治30年の専売法実施後も幹于たばこを続けていた人で、その教えを受けた人達が、明治22年に建てたものです。

平沢村出身の人物といえば、明治初頭に活躍した医学博士三浦守治(みうら もりはる)先生がいます。

安政四年(1857)、三春藩士・村田七郎平の長男として生まれます。苦学して明治14年東京大学医学部を首席で卒業。同級に森鴎外がいます。
明治15~20年にかけてドイツへ留学し、病理学病理解剖学を学ぶ。

帰国して間もない明治20年3月17日、帝国大学医科大学教授に就任し、病理学病理解剖学を担当することになり、この日が病理学教室創立の日とされています。

また、歌人佐々木信綱の門下として和歌に優れ、本郷にある東京大学医学部2号館本館の東入口には「世の中の風あらく吹きしきるとも 心の海に波なたてそね」の歌碑が掲げられています。


    蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝










春陽郷三春城下 御菓子司三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:36 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺平成31年2月発行第332号「三春に伝わる「化け猫」「怪猫」伝説」




  三春に伝わる「化け猫」「怪猫」伝説

三春の怪談話といえば・・・・江戸中期に起こった「三春藩御家騒動」 にまつわる家老荒木氏がらみの「化け猫」話が代表的です。
「化け猫」「怪猫」のお話は、明治、大正、昭和初期の不安な世情や大火、そして、台風・地震、大雨など天変地異から、様々な憶測が憶測を呼び少しずつ物語が造り上げ伝わっていったようですが、他にも化け猫・怪猫のお話が伝わっていますので少し紹介したいと思います。

その一。このあたりの村にあるお寺には化け猫の話が残っています。
昔、「御大尽」とよばれた大金持ちが突然死にました。葬儀行列の際、突然空が暗雲に覆われ豪雨となり、雷光が走ります。
すると、雲間から猫の目が光り、その猫は天より舞い降りて棺桶に足をかけてきます。
 和尚は、手に持った払子(ほっす)を猫にめがけて投げつけます。すると猫は尾っぽを斬られ天空へ逃げ去りました。

その二。このあたりの村に貧乏寺があり、和尚は、「トラ」という名前の老猫と暮らしていました。
しかし、このお寺はお葬式も無く、食事にも事欠く始末です。

ある時、不思議な法力を備えた力を身に付けた老猫のトラがこの和尚にある提案をします。
 「他の大きな寺での葬儀の時に、その死体を棺桶ごと奪うから「トラヤトラヤ」と唱えなさい。さすれば、棺桶を返してやるから」と和尚に語りました。

間もなくトラの提案がごとく城下の大きなお寺でお葬式があり、その最中に老猫トラがその死体の入った棺桶を奪うがごとく中高く浮き上がらせてしまいます。
大きなお寺の和尚はじめ参列者が何をしても棺桶は下りてきません。

困った村人たちはワラにすがる思いで、さきの貧乏寺の和尚を呼びに行きます。
貧乏寺の和尚は、「ははぁこれがトラの言っていたやつだな~」と早速「トラヤトラヤ」と呪文を唱えます。
すると棺桶はスルスルと地に下り、村人はこの和尚の法力に恐れ入り、以後、和尚の法力にすがりたいと参詣者が増えたということです。

その三。猫祭文語り(ねこさいもんがたり)
昔、このあたりの村では年がら年中働いて、これといった楽しみもありませんでしたが、唯一の楽しみといえば、正月休みに村にやってくる「祭文語り」でした。
祭文とは、祭りの際に、神にささげる祝詞 (のりと) を意味していましたが、中世以降、山伏修験者によって芸能の要素が強まり、三味線を伴奏に流行歌謡や浄瑠璃を取り入れた人情物(歌祭文)語る旅芸人で浪曲の源流ともいわれます。
 
何処からともなく村にやってきては一晩か二晩位、村のお宅を借りて宿として村人に祭文を聞かせていました。
「祭文語り」の時は、村人たちは夜遅くまで祭文(歌祭文)を聴いたり、時に浪花節を聴いたり、よもやま話などをして皆で楽しんだといいます。
ある年のことです。





 
ある村に「祭文語り」があるため、嫁を留守番にして家の人は皆出かけてしまいます。

嫁が一人で退屈をしていた所、飼っていた猫が起き上がり「そんなに退屈なら、オレが芝居を見せてやる。そのかわり誰にも言ってはならんぞ」というが早いか壇ノ浦の合戦を演じ始めます。

あまりに面白かったため嫁は大声で笑いながら猫の芝居を見ていました。

すると祭文語りから家族が帰ってきて、一人で思い出し笑いをしている嫁を不信に思い、夫が問い詰めると隠しきれなくなった嫁は事情を説明します。
「その猫は化け猫だ、もう飼えない」と猫を追い出そうとします。

しかし、猫は「誰にも祭文を語った話をしてはならない」という約束を破った嫁が許せず、出刃包丁を嫁に投げつけ殺してしまいます。
さらに、猫は「火車猫」という化け猫になってしまい村を荒らすようになります。

放っておけなくなった庄屋は化け猫退治にのりだし、村はずれの橋のたもとで猫は斬られました。

以来、嫁をひとりで家に置くものではないと云われています。
     
 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 05:13 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺330号 「三春版ファミリーヒストリー調査の顛末記」 平成31年1月発行





塵壺330号 平成31年1月発行
  
三春版『ファミリーヒストリー』調査の顛末記


 当三春昭進堂のホームページ内「春陽郷三春思ひ附阿津免草」には、三春の各種イベントや歳時、歴史を記載しています。
そのことからでしょうか?時折先祖探しをしているという方から問い合わせがあります。


 先頃も、当店のホームページに一通のメールが舞い込んできました。
発信者は、東京の成城に住むNさんという女性からで、「曾祖母の出身が三春町新町ということが判り、何でも良いですので教えてほしい」という内容でした。

 後日、彼女から封書が届き、同封されていた除籍謄本や系図などを調べていると、その本籍が私の先輩のお父さんの生家と1番違いで、また『佐藤』という同姓であることにも気づき、今回の件を彼に相談してみました。

 その先輩とは、役場OBで歴史の話し相手である田中金弥さんです。

仕事が重なっていたみたいでしたが、金弥さんは「NHKのファミリーヒストリーみたいで、面白そうだね。調べてみる~」

また、「Nさんの三春へのアプローチの窓口が三春昭進堂のホームページならば本気で調べなんねぇなぁ!ここでしっかりと対応すればNさんが見る三春全体のイメージアップにつながる!」と快諾してくれたので、その旨をNさんに連絡をしました。
 
すると、すぐに彼女からの封書が私の手元に届き、その中には「田中さんに渡してほしい」という手紙も入っていたので届けました。





 依頼してから二週間も過ぎぬうち、「内容をチェックしてください。OKだったら、Nさんに郵送するから」と金弥さんが拙宅に来てくれて、調査結果が書かれたA-4版4枚とバックデータのコピーを置いて帰られました。

 その文章は、史実、推測、 提案、参考という4分類で記載されており、私が言うのも“烏滸(おこ)がましい”ことですが、Nさんの期待以上の素晴らしいものだと思いました。

 松下氏時代の足軽町から新南町そして新町になったという町の成り立ちから始まり、江戸から明治時代にかけての秋田家臣の分限帳の内容、昭和30年代の旧町全体や新町の状況と情景、そして聞き取り調査などが詳細に書かれてありました。

さすが元三春町史編纂室主事!







 数日後、Nさんから私にまで丁寧な御礼が届きました。
中には、「三春昭進堂のサイトに出会えたことが縁です。それ以上に調べていただけて、たいへんありがたく思います。ご縁を感謝いたします。」と記されていました。

 この三春版『ファミリーヒストリー』調査の顛末記を書くにあたり、金弥さんが三春町史編纂の折に、当家大叔父にあたる故高橋哲夫から「真剣に取り組んでいると、資料の方から呼びかけてくる」『歴史は、点が線になり、そして面へと広がっていく』と教示されたということが響いてきました。







 自由民権運動の研究家であった大叔父は例えて「河野という点があり、板垣という点があり、それを結ぶと線になり、その他多くの民権家たちと線が結ばれて、自由民権運動という面へ」と云っていたそうです。

 今回の、予期せぬメールがNさんという点から、私という点に、そして金弥さんという点に繋がって線になり『三春版·ヒューマンヒストリー』という面になったとうなずきました。これも様々なご縁がつながって織り成した面の結晶なのだと思っています。

 大叔父哲夫が口にする”歴史の面白さ”とはこうしたご縁の面白さだと解釈しました。

 『他人様に何らかの施しをすれば自分にではなく子や孫の代にそのお返しが来るんだよ』金弥さんが時折口にされるお祖母様から教えられた言葉だそうです。

 自分の為だけではなく、子孫の為に働くのも悪くありませんね!


     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝









春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍








大晦日

毎年、大晦日仕事が終わって店じまいをしている最中から涙があふれ仕方がなくなります。

もちろん感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、それまで抑えていた感情が涙となって満杯になりあふれだしてくるんだろ思います。

今年を振り返りますと本当に様々な方々にお世話になり格子ともども健やかに一年を無事過ごすことができました。

私には、良き先輩、友人、知人があり、お客様があり、会社、家族がある…

ご先祖様から続く、ご縁のある様々な方々との係わり合いの中で、嬉しいこと、苦しいこと、悲しいこと全てがあって今の自分があるんだろうと思います。

これは人間にとって本当に幸せなことなんだと思います。

これも一重に、皆々様のお引き立ての御蔭と心より感謝申し上げます。


合掌   蒼龍謹白   拝






| ryuichi | 05:41 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺329号 平成30年12月発行 「 田村地方 三春専売局」





田村地方 三春専売局(日本専売公社・現JTの前身)

 茶事などに参りますと「煙草盆」は、客をもてなす道具として在り 装飾的な調度品として拝見しますと、煙草も高級な嗜好品の一つとして扱われていたと改めて感じます。

明治3 4年4月1日、専売法施行と同時に大蔵省三春専売局(日本専売公社)は、現在の鎌田前(城下八幡町末)に新設され同年中に三春煙草専売所と改称されます。


注・鎌田前にあった出張所の用地は、2000(平成12)年頃に「高柳自工」と「日本化学」に売却
 
大正4年4月1日、郡山専売局三春出張所と制度が変り、昭和2 4年6月1日からは日本専売公社三春出張所となりました。
この三春専売局は大蔵省直轄の官庁で、管轄は東北6県から北海道一円、役所職員も40人余も数えた程でした。

当時の三春専売局長は、午前9時頃の出勤に「門衛8人が門前に整列して敬礼で迎える中を、得意満面にゆうゆうと通り過ぎていったものだ」と伝わっています。

従来タバコは、自家喫煙を許されていたが急に禁止されたので、密かに喫煙する耕作者も多く、これを検挙するための役人の多くは出張臨検をしますが出張先で猟銃をぶっ放されて色をなくして逃げ帰ることも珍しくなかったみたいです。

“葉たばこ”は明治中期から昭和にかけて田村地方の主要産業の一つに整備・成長し、その収納となると田村郡全町村から集荷されます。
特に小野、滝根、常葉などからは前日を村総出の“荷送(におくり)”と称し、三春へ通じる道々は混雑を極めたと伝わり今では想像もできない程それは賑やかなものでした。






局の近所の川又屋、いろは屋、 鎌田などは、収納たばこの臨時預かり所となって、その数は数千俵にも及び遠い所の人たちは葉煙草の中で一夜を明かしたという。

また三春には”キザミ煙草”の受請工場が4軒あり、多くの人夫を雇って盛んに営業を続け専売直営とあってわずかの間に経営は進展して皆裕福な資産家になりますが、ほどなくキザミ煙草製造が郡山に移転となり、以後転業に失敗し今に残る人は一軒とてなく、タバコの煙のように消えてしまいます。

田村地方では、400余年も前から各地で自家喫用として粗悪な煙草を栽培していましたが、その後元和2年3月三春が会津蒲生領時代に江戸幕府から煙草禁令が出て一時中絶し、江戸中期・宝暦の頃から再び栽培が始まります。

東白川宮本地方の「松川葉」の種子を移入した小野町方部から、更に滝根、大越を経て三春に入ってきたもののようです。

滝根、大越は耕作が最もさかんなところで、ことに菅谷の「大六煙草」は地方の銘葉として大いに売り出されたという。

 その頃、滝根に広瀬の三郎という煙草作りに熱心な人がいて品種の改良に尽し、野州地方(栃木)から良品種を移入してこれを関東名葉と名付けたが優良葉として好評を受けます。

 それから明治14、5年頃まで、これらのほか「柳葉」、「花切」、「御祭国府」や「大葉関東」、「丸葉関東」、「芳関東」など多種の葉たばこが耕作されていました。

輸出面では、船引町の助川良平翁が横浜シトロン会社の代理店として大発展をし、三春町からは、「二七市」を通して県内はもちろん山形、米沢地方にも大量の煙草が出荷されていました。

明治初年、「松川葉」は江戸市場や輸出市場などで名声を博しますが、当時三春地方では幹干方が、小野方面は聯閲法(れんえつほう)が行なわれ大正の初期まで続きます。 

専売法執行後、郡内嘱託指導員が数名任命され、耕作改善や町村煙草耕作組合創立の指導に当っている。また、大正の初期には、三春、小野新町、常葉の3煙草耕作連合会が設立されます。

記録によれば郡内には、2つの「煙草神社」があり、小野町の煙草神社は大越の宗像利吉氏によって鎮座され、船引町の「煙草神社」はそれより数年おくれて、県立船引たばこ試験場開設と同時に、助川啓四郎氏の尽力で鎮座されたものと記されています。


     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:32 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |