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塵壺350号 福の神「宇賀神様(うがじんさま)」 鷹巣 宇賀石 令和2年9月





塵壺350号 福の神「宇賀神様(うがじんさま)」 鷹巣 宇賀石 令和2年9月



 
  福の神「宇賀神様(うがじんさま)」 鷹巣・宇賀石

先ごろ、テレビ朝日の人気番組「ナニコレ珍百景」で、鷹巣の宇賀石にある「宇賀神様」の小さな立看板が取り上げられました。
「宇賀神さまです。お賽銭を必要とされる方はご自由にお持ちください」という不思議な立看板で、友人が番組に投稿・採用されたものでした。

この「宇賀神様(うがじんさま)」は、鷹巣宇賀石地区の旧国道288号に架かる高架橋と郡山東部広域農道が交差するS字カーブの坂道付近にあり、その場所が鬱蒼としていたことや、駐車場がないということもあり、ゆっくりと観る(参拝)ことを遠慮していた場所です。






この放送に至るまでには、様々なご縁が幾重にも重なって在り、今年5月の連休明けに、「舞木のお稲荷さま」、古くは“舞木のいなっしゃま”と親しまれてきた郡山市白岩町にある「高屋敷稲荷神社」に集う方から、この宇賀神様についてのお尋ねがありました。
その時点では「桜の老木の下に何かの祠がある・・・」程度の認識しかありませんでした。

後日、その方から連絡があり、高屋敷稲荷神社の鈴木宮司が、地主である橋本吉正様に連絡を取ったところ橋本様ご自身(ペンネーム橋本史紀)の著書で鷹巣集落の歴史をまとめられた「田村の庄・鷹巣の里を辿る」(自費出版非売品)中に宇賀石の「宇賀神様」の記述があると伺ったということでした。

以来、高屋敷稲荷神社に集う方々や鈴木宮司が、草刈りや雑木伐採等をして、コツコツと整備を始めたというところでの「ナニコレ珍百景」の取材・放送と相成りました。







この宇賀石に祀られている「宇賀神様」の創建は、室町末期の戦国時代までさかのぼり、鷹巣村の庄屋であった松崎氏の氏神であったとのことですから、約500年の歴史がある「福の神様」で、“うげいしさま”と呼ばれ信仰を集めていたと伝わっています。

その福徳は「金運、財運、智恵、五穀豊穣」など、多くの御利益をもたらしてくれる「福の神」と言われ、中世以降に民間信仰として、さらには、「立身出世」の御利益があるとして、武家の信仰の対象でもありました。

また、そのお姿は風化が進んでいますが「蛇神・龍神」の化身と伝わっているように、頭は若い女性かお爺さん、そして胴体には蛇(龍)がとぐろを巻くという容姿であらわされています。







下記は、「田村の庄・鷹巣の里を辿る」を参照しての記述です。

旧鷹巣村の庄屋松崎氏の子孫の方から聞いた話によれば、生来、病弱だったことを心配した家人が、宇賀神様の桜の葉を数枚いただき煎じて飲ませ続けたところ、とても丈夫になったとの事。

また、ある方が桜の枝が年々成長し続けたので農作業の支障になると枝を少し切り払ったところ、その後ケガに見舞われ、以来どんなに枝がのびようと一切ふれないよう大事にされている等々・・聞けば偶然とも片づけられない不思議な霊力が伝わっています。

さらに、鷹巣の古老の方々からは「昔は、カマス(米俵のようなもの)でお賽銭を背負って運ぶほどの信仰が厚い神様として大盛況だった。」と聞き及んでいると記されていました。

そして、橋本家に伝わる話では、あるときお坊さん(修験者?)が現れて「あの神様を大事にすると家が栄える」と告げていったそうです。









前記の“お賽銭を必要とされる方は、ご自由に~”という立看板は“お賽銭を持って行かなければならないくらい困っているのでしょう?”と、橋本さんご自身も“功徳”との思いから設置したそうで、正に「福の神」である宇賀神様に、所願成就を祈願し、その満願成就された方々からの「御利益・福徳の御裾分け」だと考えています。






宇賀神様の御縁日はというと、弁財天の御縁日と同じ「己巳(つちのとみ)」とされ、その縁日には、参拝者が多く訪れて金運・財運アップを祈願していたと想像しています。



旅人の安全を見守るかのように、旧江戸街道・須賀川街道に対して正対する向きで建立されていた宇賀石の宇賀神様です。見通しの悪い場所にある為に、参拝はもちろんですが、前を通行の際は交通安全をお願いいたします。

尚、路上駐車はおやめ下さるよう重ねてお願い申し上げます。







先のナニコレ珍百景での「福の神 宇賀神様」の御利益のある看板登録・採用の謝礼金、3万円を三春町に寄付して来ました。



三春町町長室にて、坂本町長に出演者3人で手渡しです〜〜

自分たちで使うのは御利益がないということで、宇賀神様の周辺整備も考えましたが、三春町を通じて困っている人、特に昨今の新型コロナ対策に役立てていただきたいと寄付をしてきた次第です。


これも宇賀神様への寄付寄進の一環、そして、我々への功徳を積む福徳と考えています。



さらには、地主である橋本様ご一家、高屋敷稲荷神社鈴木宮司、そして、高屋敷さまに集う方々へご縁をいただいたことへ感謝申し上げます。






尚、この宇賀神様の傍にある老桜はエドヒガンザクラと思います。本木は幹内部が枯れ手作りなど外皮によって生息していますが、その元から新しい幹が巨木となり2本育っています。

エドヒガンは寿命の長いことでも知られていて、滝桜も含む「日本三大桜」の他の2本、樹齢2000年と言われる山梨県の山高神代桜(やまたかじんだいさくら)、
そして、岐阜県にある樹齢1500年と言われる根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら)はエドヒガンです。

この宇賀神様の桜も宇賀神様の創建が500年であれば、もしかしてどの折に植樹をしたとも考えられます。
そうしますと、宇賀神様の桜、仮に「宇賀石の宇賀神桜」
と呼ばさせて頂きますが、ここ桜の年齢樹齢も500年になるのではないかと考えています。


因みにですが〜  いわゆる花言葉は「心の平安」だそうで、どおりで宇賀神様、そして、高屋敷稲荷神社さんに行くと居心地が良い訳です〜〜

蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝









舞木のお稲荷様の秋祭り


屋敷稲荷神社 秋季例大祭 2020

2020年

10月10日(土) 18:00 宵宮

10月11日(日) 11:00~秋季例大祭


今般のコロナ禍に伴い、参列者及び関係者の安全面、感染拡大防止の観点を考慮した規模を縮小して斎行いたします。


ご参拝の皆様には、ご迷惑をおかけしますが、何卒ご理解ご協力賜りますようお願い申し上げます。

 問 高屋敷稲荷神社 024-943-6396





| ryuichi | 04:32 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺 第349号 「 三春城下郊外「洞」 三春田村氏と田村武士団」 令和2年8月発行



  
三春城下郊外「洞」 三春田村氏と田村武士団



田植えを終える目安とされる「半夏生(はんげしょうず)」の頃、三春城下在の各地の集落入口付近で、細竹の先に「御札」を括り付けて村境付近に建てられているのを目にします。


これは「五穀豊穣」と「村内の安全」を祈願して「夏越の祓(なごしのみそぎ)」として神主さんに「辻切り」の御祈祷を受けた「御札」を、村の入口の「辻」と呼ばれる道の交差するところ、特に鬼門(東北)や裏鬼門(南西)の方角に立てて村外からの疫病などの災厄(さいやく)が、村内に侵入するのを防いでいるものです。


この御札には「楽内熊野神社」「込木見渡神社」等の鎮守名と「御祈祷 神璽(ごきとうしんじ)」と共に「村内安全」ではなく「洞内安全」と記載されています。





楽内洞、込木洞…この洞(うつろ・ほら)とは、室町期以降の東国の武士、地侍の一族郎党が所領する集落を指しています。

田村地方でも、三春城主田村氏一族以外の配下・合力・与力の「武士団」形態で、旧田村領田村六十六郷(田村庄)と小野六郷(小野保)福原村で構成され、地侍・惣領である当主を中心にした田村武士団一族郎党の総称です。米田村三代清顕公の最盛期には、安積郡や安達郷、岩瀬(石背)郡、石川郷などの一部が含まれ10万石以上で131ヶ村。江戸期の秋田藩政下では81ヶ村。







「農兵分離」が確立する前の中世武士団の所領とは、先祖代々伝わっている田畑・山林、屋敷など「命をかけても守るべき生活の基盤」との考え方が残っていました。
 また、洞は武家政権による力関係で国主・盟主の配下として合力・与力する一つの武士団というくくりで、後の江戸幕藩体制の確立に基づく近世大名における「家中」、家臣という位置づけです。


 戦国時代の仙道(今の福島県中通り地方附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区で、三春田村氏も、伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・大内(小浜塩松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(小高)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いていました。






 三春田村家は、相馬氏、伊達氏と連携を図りながら、その状況下の中で、三春田村武士団の惣領として、一族や直臣、そして田村「洞」中の領主連合を形成して、戦国乱世を生き抜いていたと考えています。

 後に、豊臣秀吉の「奥羽仕置」に連座する「田村仕置」にて三春田村家は改易となり伊達家へ吸収されますが、秀吉からの旧田村領授領を辞退した伊達重臣片倉小十郎、豊臣政権五奉行の浅野長政らの計らいもあり、「内分分家大名」として田村家は伊達家の中で吸収・存続となります。

しかし、この時代はまだ地方での「農兵分離」が進んでおらず、大多数を占める旧田村家の家臣達は、先祖伝来の土地から離れるのを嫌い、さらに田村家の存続をできなかった伊達家を頼らずに田村領内の自分の所領にて帰農します。

 また、伊達家(白石片倉家)へ移籍した田村本家である牛縊(田村)宗顕はじめ、橋本氏、御代田氏、田母神氏、中津川氏、郡司氏等々、旧重臣11家(分家下士合計28家)も一族郎党の一部を旧田村領に残しています。









 時代が下り、蒲生氏、上杉氏、松下氏、そして江戸期の秋田氏と三春領主が替わっても三春田村氏の旧臣として「在郷給人」として「苗字帯刀」「御目見得」を許された大庄屋(割頭)・名主を代々務めて、明治維新を迎えます。


 尚、洞組織を集落として残したまま帰農した田村旧臣は武勇に富み、その家門を賞して「御屋形様」と呼ばれていました。

 現在でも、洞の形態が残っている例として、芦沢(現田村市芦沢)に鎮座する白山比咩(ハクサンヒメ)神社の例大祭に奉納される「芦沢の八ツ頭獅子舞」は、旧芦沢村の屋形洞、中洞、本郷洞、柏原洞、南洞、鞍掛洞、山田洞、横土洞の8洞(組)で獅子舞を今に伝えています。








     蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 03:45 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺7月 第348号  「壽楽會」昭和11年奉納 燈籠  三春大神宮境内 2020.7.17発行





塵壺7月 第348号  「壽楽會」昭和11年奉納 燈籠  三春大神宮境内 2020.7.17発行


 体力増進とダイエットのために早朝や、夕方に散歩を始めました。
毎日歩いていますと、何気に通り過ぎてしまっていたことに“ふっと”目が留まることがあります。

 その中に、三春大神宮境内への参道最上部に「壽楽會(じゅらくかい)」が奉納、建立したと記された石造灯籠が一対あります。







 帝国陸軍皇道派の青年将校により「二・二六事件」が発生した皇紀元二千五百九十六年・昭和拾壹年(11年)と年号が刻まれています。

 奉納者は、内藤傳之助、渡邊甚平、渡邊栄一、斧田撫臣、国馬長太郎、岡山又四郎…という三春のお歴々が明記され、深間内久蔵の名前を見つけることができました。

 他の方々の生年から察するに、自由民権運動家、深間内基氏の御子息と推測されます。
 
父の自由民権家・深間内久蔵(のちに基と改名)は、弘化3(1846)年、三春藩士深間内基時敬の長男として生まれ、明治元(1868)年11月、22歳の時に慶應義塾に入学。義塾で英学を学び、明治9(1876)年に、高知にある立志学舎に英学教育員として招かれました。







 立志学舎は、板垣退助・片岡健吉らによって結成された政治結社立志社が、民権思想普及のために設けた学舎で、深間内は自由民権運動の大きな影響を受けることになります。  
 なかでも、女性が演説会に参加する様子をじかに見聞したことは、深間内に女性の社会的地位に対する関心を喚起したとされています。
 明治11(1878)年、J.S.ミルの『The Subjection of Women』(1869年英国にて発行)を『男女同権論』の題で翻訳し、日本に於ける男女同権論争に大きな影響を与えています。

 また、明治期に、三春は元より田村地方の若者が志を抱いて東京で勉学に励むことを扶けるために設立された学生寮「田村学生寮」建立に尽力され、千三百余圓の私財を投入し建設資金にし、藤泉賢四郎氏(後の大林組副社長大林賢四郎氏、田村大元神社神職藤泉氏出身)が設計施工を請け負ったと記録されています。






 同燈籠に岡山又四郎のお名前も見えます。

同氏は、元小野町長・秋田直孝直(旧姓岡山直孝)氏、そして音楽家の岡山直氏のお父上様になります。

岡山先生は、三春小学校の他に、三春中学校、県立田村高校、そして町外の船引中学校や、伊達小学校、大槻小学校など様々な学校の校歌を作曲し、今も歌い継がれています。






 校歌と云えば、NHK連続テレビ小説「エール」に登場する歌手の森山直太朗さんが音楽教師・藤堂清晴先生役で出演しています。
 藤堂先生は、主人公の作曲家・古関裕而の恩師である音楽教師・遠藤喜美治先生がモデルになっていると考えられます。

 遠藤喜美治さんは、旧要田村の出身です。実家は農家ですが、長男ではなかったため農家を継ぐことは出来ず、要田国民学校(現在:福島県田村市立要田小学校)を卒業すると同校の用務員として働きながら教師を目指し、苦労の末に教員となりました。

 後に、古関裕而が在籍した福島県師範学校附属小学校の教師をしており、古関が3年生から6年生までの担任をしていました。
 古関の回顧録にも、「最初に音楽の指導をしてくれた先生」と記されていますが、子どもの頃に教えられたことは、成長していっても残っているものです。

 要田小学校の校歌は、遠藤喜美治:作詞、古関裕而:作曲で、歌詞が少し変更されていますが、今でも歌い継がれています。

   「五つの大字(あざ)の むつまじく…♪」旧要田小学校校歌より







    蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝



訂正とお詫び

塵壺では、元小野町長・秋田直孝直(旧姓岡山直孝)氏と記すべきところを、元小野町町長岡山直孝氏となっています。

訂正し、関係各位にはお詫び申し上げます。
塵壺での訂正は次月号で記載させていただきます。


| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺347号 三春城下新町真照寺下“幻の霊鉱泉「不動温泉」”と三春3名水 2020.6




塵壺347号「三春城下新町真照寺下“幻の霊鉱泉「不動温泉」”と三春3名水」 2020.6





(昭和14年4月の花まつり稚児行列での当店南側の旧セリ市場付近で撮られた写真ですが、右上に不動温泉が映っています。)


三春城下新町にある藩主秋田氏の祈願所真照寺下に昭和初期から戦後まで“幻の霊鉱泉「不動温泉」”がありました。
その昔、真照寺の奥ノ院参道に老杉が列なり、昼尚暗い谷間から湧出する薄茶色の天然温鉱泉が湧き出ていた。





この鉱泉で湯を沸かして入浴すると不治の難症に適するというもので、諸方より不動明王を御本尊とする真照寺へ水汲みの参詣者が絶えなかったと記されています。さらに、時の三春藩主秋田候も難症に悩んだ為、真照寺に1週間参籠してこの霊鉱泉で沐浴し満願の日に完治したと言い伝えられています。

時代は下って昭和初期。この話を伝え聞いた方が詳細を調べ、当時の福島県衛生試験場で成分試験を依頼したところ難病を治癒するに足りる成分が含まれることが解り、試験証明を交付されます。




また、その適応症について物理学の権威で、当時大原病院皮膚科長坂本医学博士に研究を依頼すると、婦人病、胃腸症、中風症、リウマチ、神経痛等の難症の治癒し得ることが証明され、昭和初期にしては珍しい木造三階建ての湯屋を開業するに至ります。





真照寺御本尊の不動明王にあやかり「不動温泉」と命名して営業を始めますが、太平洋戦争の勃発により営業休止となってしまいます。

戦後、郡山近郊の三階建て以上の建物が、日本復興計画の郡山駅前開発により集められ、旧不動温泉の自慢の3階楼建屋も昭和25年ごろ旧寿泉堂側に移築して昭和40年代まで旅館として使われていました。






現在はもう「不動温泉」はありませんが、真照寺の山を挟んだ城下馬場に三春の奥座敷「馬場の湯温泉」があり、三春近郊は元より全国からの沢山のお客様を迎えています。





城下町・三春の観光拠点として、また立ち寄り湯や湯治場としても利用されることが多い三春城下の奥座敷で、三ツ美屋旅館、若松屋旅館、そして、霊泉やわらぎの湯が軒を並べています。

全国有数のラジウム含有量を誇る泉質は、身体機能を活性化させ自然治癒力を高める効果があり、 卓効の湯と評判で、英気保養に努める人が全国各地から訪れます。

「馬場の湯」という名前の由来は、近くに三春藩の乗馬教練馬場があった名残です。

また、城下の名水と云えば「亀井水」「霞井戸」そして「霧の井戸」を城下の三名水に挙げています。





「亀井水」は、相馬街道が烏帽子石の黒木戸(藩政時代の城下境の門)をくぐり城下に向かって下り始めた道脇に涌き出している清水です。
現在は、光岩寺の参道入口に石柱が見られますが、当時は近世三春城下“入亀井”入口のすぐ上にありました。

この亀井水は、領内五万石の村々から城下へ至る主要街道沿いにあり、旅程の塵を払い手水の上で城下に入る「化粧水」として最も多く使われた清水と伝わっています。
明治期の道路拡張によってこの清水は地中に埋まりますが、光岩寺参道入口に導水して「亀井水」の標識が建てられ、今もその井戸にはコンコンと水が注がれています。





次に「霞井戸」。入亀井の鍵曲(かいまがり)とよばれるクランクから三春本城の搦手口(からめてくち)登り口右側にありました。
御城下の武家地にありますので清水を汲むのは武家に限られていたと考えられています。





最後に「霧の井戸」。中世三春城大手口前(南町)にあったと記されています。
この井戸の名前の由来は、城中よりその井戸から霧が立ち上るのが見えたと伝わっています。

また、殿様の茶の湯の為に水を献上する井戸という意味で「献上井戸」ともよばれていたようです。

尚、この「霧の井戸」は、中世の頃にこの付近にあったとされる「金座」の職人たちが喉を潤した清水ともいわれています。



    蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝










三春城下馬場の湯温泉郷・営業再開のお知らせ
 
馬場の湯では、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、国・県の要請を受け営業自粛・臨時休業をしておりましたが、 緊急事態宣言解除を受けまして6月1日より営業を再開しました。

 しかしながら、全国の感染状況はまだ予断を許さない状況にあり、感染防止の観点から、 館内施設の利用及び一部のサービスを変更して対応してまいります。
 また、営業時間や宿泊など、それぞれの旅館によって新型コロナ対策の対応が違うことがございますので、HP・営業時間内での電話等で確認の程をお願い致します。

 馬場の湯温泉郷は、お客様と従業員の安全と安心を第一に、新型コロナウイルス対策に取り組んでまいります。

 お客様、関係者の皆様にはご不便やご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。




   三春城下 馬場の湯温泉郷







    若松屋旅館 0247-62-2027





    三ツ美屋旅館 0247-62-2504






    みちのく霊泉やわらぎの湯 0247-62-2153







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:17 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺346号 「新型コロナウイルス感染拡大終息祈願」太元帥明王・牛頭天王 令和2年5月1日発行




塵壺346号  令和2年5月1日発行

「新型コロナウイルス感染拡大終息祈願」太元帥明王・笠石八幡・牛頭天王



全国都道府県にも「非常事態宣言」が出され、「外出自粛」不必要な外出を避けるよう国からの呼びかけがあり、そんな閉塞感が溢れる昨今ですが、美味しい和菓子を食べて少しでも癒されて頂ければと思い営業しております。

 当店では、お客様および従業員の健康と安全を守り、新型コロナウイルスによる感染拡大防止するため、店頭における従業員のマスク着用と店内の接客前後のアルコール消毒を実施、お客様用のアルコール消毒液をご用意しております。

さらに、入口の扉を開放して換気及び扉開閉に関係なく店内には次亜塩素酸ナトリウム水入りの噴霧器にて店内空間の除菌を行っております。





 目に見えないウイルス。

毎日、不安が募りますが、手洗いやうがいや「3密」を避けるなど、正確な情報を基に冷静な対応こそが一番の対策と考えます。








 そうした中、三春で国難撲滅・疫病退散にご利益がある神様はと考えておりましたらお膝元の城下新町に旧三春藩領内総鎮守である太元帥明王、現・田村大元神社(祭神・国常立命)が鎮座されておりました。

 三春太元帥明王は、戦国大名田村大膳大夫義顕公が三春築城の際、守山字山中(郡山市田村町)から三春城東館下に移して三春領内の総鎮守としたもので、以後入封の歴代城主に引き継がれ、秋田藩政では真照寺住職を別当として三春藩内総鎮守太元帥明王社として領民より崇拝を集めています。





 御祭神の太元帥明王は、「国難」から国土を護り、外敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われ、その国難退散の祈願として宮中では古くから太元帥明王の秘法(太元帥法)が盛んに厳修されてきました。

「将門の乱」や「元寇」の時にこの秘法が行われ国難を撃退したと伝わっています。





 この三春太元帥明王社(泰平寺・学頭坊)では、戦国時代に周囲から田村領は狙われ戦乱に明け暮れた四面楚歌の中で、伊達政宗以下伊達家重臣同席して田村家当主以下重臣一同に会して宴席を設けて伊達・田村家の安泰祈願をしています。

 神仏離反後の御祭神「国常立尊」は、国土の永遠の安定を祝福する意が込められた神名であり、国家・人民が永久に存在することを表しています。






 根本の笠石八幡には、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の折に、根本村を通りかかったところ麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「麻疹の悪魔を征伐してやる」と、今の笠石八幡の場所より南西の天目がけて馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放したところ、麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか重い麻疹も急に快復したという伝説が残ります。





 

そして城下荒町にある八雲神社は「病魔・疫病撃退」の神様で、旧神号牛頭天王です。

 田村義顕公の頃、領内に疫病が流行し領民の病甚だしい状況が続き、義顕公は、修験者を京都祇園社に詣でしめ、三週間祈願させます。すると、霊験著しく領内の疫病直ちに鎮静化されたと伝えられています。

その京都祇園社より城下の天王山に勧請し、修験・普明院(現存せず)が別当として社務を掌り城下町として栄えていた三春に疫病の侵入防御の祈願していました。

 医療技術、衛生管理が乏しい時代に疾病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰はかなり大きかったと思われます。これらの神様に国難ともいうべき新型コロナウイルスの終息を祈願してきたところです。





外出自粛の中で心身ともに運動不足になりがちです。

地元の寺社に散歩を兼ねて、コロナ終息を祈願に参詣はいかがでしょうか?

村へ疫病が侵入するのを防ぐ道祖神、そして先祖供養のお墓参りもいいでしょう~


草むしりやごみ拾いなどをしますと心がすっきりして免疫力も上がるはずです!

もちろん、三密は避けてマスク着用で~。
 
そして、美味しいお菓子で心にゆとりと癒し栄養と笑顔で免疫力アップして、感染せずに終息するまで健やかに元気に乗り切りましょう!
 
新型コロナ対策の最前線で闘う、現代の牛頭天王・薬師如来ともいうべき医療従事者及び関係各位の皆様には心よりエールを送りたいと思います。



蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝


   


尚、店内には悪魔祓い・災い撃退を祈願して、岩見神楽演目「鍾馗」の面を配し、先の大戦で防空任務を担った陸軍航空隊の「鍾馗」も配してみました。







 


店頭には端午の節句五月旗です。








 
 蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝 


| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺345号 「磐城国三春城址 臥牛舞鶴城 2020」 令和2年4月発行




塵壺345号 「磐城国三春城址 臥牛舞鶴城 2020」 令和2年4月発行



     磐城国三春城址 臥牛舞鶴城 2020


 春、そのお城が一段と輝く桜の季節に往年の城郭 の姿に思いをはせてみるのも一考です。旧三春藩五万石の中心として栄えた三春城下。

その三春城は、平姓三春田村氏初代田村義顕公が守山(現郡山市田村町守山)から、永正元年に城下の中心となる大志多山に城を築いて500有余年になります。

城下に、以前の本拠地である守山と同じく山中という地名を作り「大元帥明王」を祀った田村大元帥明王堂を建立します。

また、赤沼(現郡山市中田町赤沼)の丈六佛を城下丈六に、そして、正慶元年に八丁目(現郡山市日和田)(一説には福原か?)に、田村輝定公によって創建された福聚寺を城下(隆顕掟書以後の御免町)に移すなど、中世三春の城下町を整備していきます。

応永5年(1398年)に没した田村庄司系の田村遠江守量顕が三春城を守護したとされていますが、根本史料の上では、田村義顕公が三春城(臥牛舞鶴城)を本城としたことが初見となっています。





義顕公は病弱だったと伝えられ、早くから長男の隆顕に家督を譲り、弟の月斎頼顕公に後見させていました。

三春領内の整備についても、次男である起雲斎憲顕(のりあき)を船引城に入れ、三男の梅雪斎顕基(あきもと)を仁井田(今の小野新町)城に入れて防備を固めました。

2代である隆顕公は、一族重臣を田村領内の防御の要衝である48箇所(時代により100カ所とも)舘(出城)を配置して、防備を固めました。
これが後に云う「田村四十八舘」です。

戦国大名三春田村氏の系譜については田村庄司職の藤原姓田村氏とは別の平姓田村氏とされてきましたが、前後の史実を鑑みれば同一の家系とみても何ら不思議はありません。





田村氏時代に記された「三春城下天正絵図」によれば、創建当時の三春城は山頂上の段に櫓2棟の「本丸」、下の段に櫓1棟の「二ノ丸」、そして、南側の中腹に「三ノ丸」を置き、山麓には城主直属の「不断衆」はじめ主だった一族郎党・家臣舘主の屋敷が配置されていました。

寛永5年に三春城主となった松下氏によって近世城郭への改修が大規模に行われ山頂上下の段を「本丸」として土塀や石垣をめぐらし、西中腹に「二ノ丸」、南東中腹に「三ノ丸」が配され建物も8棟を数えました。

後に城主となる秋田氏も、松下氏が改修した城郭を補修を加えながら使用していましたが、天明5年(1785年)の三春大火により御城は全焼します。
その全焼からの復興の中で、本丸には建物3棟のみが建てられ「二ノ丸」「三ノ丸」は廃して「藩主御殿」や藩庁は西麓(現三春小学校)へ再建されます。

時代は下がって、これらの諸施設も明治維新・廃藩置県後の三春藩(県)解体の中で明治4~7年に取り壊されて御殿・藩庁後には三春小学校が建てられました。

また、大町四ッ角から守城稲荷社の間にあった各種藩御施設は払い下げられ、現在の上大町商店街及び「三春町交流館まほら」、「JA」、「三春町役場」、「三春郵便局」、「三春町図書館」等々が立ち並ぶ公官庁街となっています。

大正12年の三春城跡公園整備によって、現在の城跡には、お城坂、本城二ノ門下(二ノ丸にあった門)、本丸北東隅に石垣の一部を残すほかは、往年の地形をとどめるのみですが、中世山城から近世城郭への変遷の様子をよく知ることができます。

 三春小学校の校門は、三春藩の藩校である「講所」明徳堂の門であり、明治時代には師範学校、公会堂、そして、自由民権運動家を育てた正道館の門として配され、三春町教育のシンボルと言えます。


平成29年4月、公益財団法人日本城郭協会より「続日本100名城」が発表され、「三春城」がその1つに選ばれています。
     
蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝











三春昭進堂の花見だんごは3月27日(金)からの販売開始となります。






三春昭進堂の三春花見団子



三春花見だんご  

あん(大)     500円税別





             
みたらし(大)  500円税別





             
あんこ小パック   300円税別

みたらし小パック   300円税別







     その他、お客さまのご予算により、300円より調製いたします。






     カップ団子(160円税別)ひと粒40円の計算ですも、ご予約のお客様のみ調製いたします。

尚、串団子は取り扱っておりません。






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塵壺344号 令和2年3月発行  「佐久間庸軒旅日記」安政5年戊午  
 



 塵壺344号 令和2年3月発行  「佐久間庸軒旅日記」安政5年戊午  
 
塵壺の参考にと、佐久間庸軒に関する資料を届けていただきました。

主人公の佐久間庸軒は、江戸時代後期から明治時代にかけて活やくした最上流和算家で三春藩士です。
文政2年(1819)田村郡石森町(田村市石森)に生まれ、本名を纉(つづき)といいます。

 江戸末期の天保7年(1836)、18歳で二本松藩の最上(さいじょう)流和算家渡辺治右衛門に入門し、和算の研鑽の旅を続け、嘉永7年(1854)に研究成果を「当用算法」や「算法起源集」など著書も多く記してあります。
 佐久間派の開祖として三春藩藩校「講所」で算学を教え、新政府の絵図編纂御用も勤めています。

維新後には、石森の自宅で私塾「庸軒塾」を開いて農民や町民に 明治算術や算学測量を教えています。
 その門弟は実に2000名を数えます。

 江戸時代に発達した日本独自の数学が和算(わさん)です。
 庸軒が活躍した幕末から明治初期にかけての時代、和算はブームとなり、全国各地で上層階級から庶民へと広がっていきました。

 日本ではすでに奈良平安の頃には中国から数学が導入されましたが盛んにはなりませんでした。
 その後、室町末期の戦国時代から江戸時代初期にかけて、戦国武将などの築城に伴う土木普請や太閤検地、さらには経済の発展などにより計算が必要となり、中国の算書(さんしょ)の影響をもとにした和算が発達したと考えられています。

 一昨年前、三春まちづくり公社で「三春町内神社仏閣の算額巡り&和算遊び手習い」を開催していましたのでご存じの方も多いと思います。

 三春藩領内の神社仏閣には、難問を解いた算額、問題だけ載った算額などが奉納されていますが、和算を志す数学者や数学愛好家は、難問を解くことに成功すると、神社や寺に算額を奉納するようになりました。
 これは、問題が解けたことを神仏に感謝し、自分の業績を世に知らしめるためでもありました。
 また、和算好きはそれらの算額を見て回り、難問に挑戦しては腕を磨き、時には他の和算者に向けて問題だけを書いた算額を奉納して、和算対決の様相を呈していたこともあったようです。

 佐久間庸軒の数度にわたる旅日記は、遊歴の算術家として江戸末期の日本各地を旅して算学をひろめ、最上流和算を作り上げた時の修行旅日記です。

 天保十三年(1842)の庸軒路程記1~6は参詣に重きを置き、安政五年(1858)の九州辺天草の旅の九州遍路1~6は算術修行に重きを置いているようです。

 庸軒などの「遊歴の算家」は、全国を旅して周り行く先々で数学者と問答を行っています。地方に高名な数学者が訪れたと聞けば、地元の算術好きが列をなして教えを請い、臨時の数学塾が開講されていたようです。
 庸軒の九州遍路行では訪問した算術家は34名(内31名は印鑑を押捺)に上っています。

 安政5年戊午に記された佐久間庸軒旅日記では、三春を発ち、江戸・箱根・桑名・伊勢・京都・岡山・山陰津和野・博多・長崎・本渡・熊本・宮島・信州善光寺・日光経由三春という行程での算術修行です。
一部船旅もありますが、もちろん9割以上が徒歩の旅路です。
 
全国津々浦々を旅する遊歴算家の活躍によって、和算ブームは草の根の広がりを見せて日本の隅々まで高度な数学が広まっていき日本独自の数学・算術である和算文化を築き上げていきました。

      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝







「佐久間庸軒旅日記」 船引町文化財集7 船引町教育委員会平成2年七月発行参照




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