CALENDAR
S M T W T F S
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31      
<<  2022 - 01  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




塵壺第366号  三春人形(張子) 令和4年新春1月




塵壺令和4年1月号 三春人形(張子)

腰高虎、牛乗り天神、手習草紙、鯛上げ恵比寿、千両牛乗り恵比寿、春駒・・・「三春」らしい店内装飾として多くの三春人形(張子)を店内に配しました。
城下北町の中屋商店の先々代様のコレクションをお借りした「三春人形」たちです。





以前ある雑誌に当店が紹介された折に「店内で三春張り子人形がお出迎えしている・・・・」と記載されていました。

当時、三春だるま市で買い求めた三春ダルマや干支張子を飾っていましたが、この記事を見て「三春」にちなんだ調度品の店内装飾で統一した方がより三春らしさになり、お客様に三春をより一層楽しんでいただけるのではないかと考えて、旧三春農協の組合長だった故古川悟郎氏の収集した故小沢太郎氏作品数点を、悟郎氏の娘さんで“天狗谷の母”と慕う橋本和子さんからお借りして店内に配しておりました。






この度、年代物の新しい仲間たちが加わり、ご来店されたお客様にご覧いただけたらなあと思っております。


三春張子人形は、諸説ありますが、上方の影響を受けたとされる上品な張り子の人形で、見れば見るほど、素朴さと華麗さを兼ね備えた三春の素晴らしい郷土玩具で、世界に誇れる宝だと思います。


これらの三春人形は、江戸時代、三春藩領だった旧高柴村(現郡山市西田町高柴)の住人によって作られはじめました。

明治維新後、文明開化のあおりを受けて古い郷土玩具は新しい時代にそぐわないと冷遇されたり、人形制作に使用される染料にも制限が加えられたりしました。





これにより「デコ屋敷」の張り子や三春駒(木駒)の需要衰退と共に製作・販売も衰えはじめ、ダルマなどがわずかに制作されるまでに衰退していましたが、昭和30年代になって柳宗悦らの推奨する「民藝運動」の影響を受けた大阪のコレクターである本出保治郎氏に力づけられた高柴の人々と故小沢太郎氏がこれを復興させ、現在に伝わっています。

現在では、優秀な後継者の方々が三春だるまや各種のお面、干支の縁起物をはじめ、雛人形や歌舞伎・浮世絵に題材をとる様々な新旧取り混ぜた人形まで多くの種類を製作販売しています。



人形が成立した時期などについて、正確なところはわかっていませんが、江戸時代、文化・文政のころに最盛期を迎え、その当時、非常に優れた人形が作られていたことがわかっています。


高柴の人形師が三春の藩主秋田公の庇護を受けた事は、口伝や、僅かに遺る古文書に徴しても疑う余地のないことではありますが、藩と人形師との間にどのような形で、どの程度の関係があったか等の詳細には解りません。



また、会津藩における「赤べこ」、米沢藩における「笹野彫」などのように下級武士の内職として発達したというような様子はありませんが、口伝によると人形師は三人扶持を給され、城下神社祭礼の際は鳥居内の店張りを特に許されるなどの特典を与えられていたようです。しかし、人形師の身分については士農工商のいずれにも属さぬ、特殊な存在として取扱われたのではないかと思われる節が残されています。


店内の三春人形は、時節によって入れ替えをして様々な三春人形を楽しんでいただこうと考えています。

ご来店の際にはごゆっくりとご鑑賞いただければ幸いです。






三春町郷土人形館(三春郷土人形館・橋元家と白石家の座敷蔵)では、戦前、東北大学の学生(当時)だった、中井淳氏(後関西学院大学教授)と高久田脩一氏(後旧制田村中学の教師で、橋元四郎平氏は高久田氏の教え子)の二人が、三春人形の廃絶を危惧し、私財を投じて収集してくれた、いわゆる「幻のコレクション」と称される「らっこコレクション」を収蔵し、年代物の三春張子人形・三春駒、そして、東北地方のこけしや土人形を展示しています。


尚、「らっこコレクション」とは、二人が仲間たちと住んだ家に名づけた“羅虎山塞(らっこさんさい)”にちなんでいるそうです。


     蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:07 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺365号   「垢潜(あかしろ)集落之沿革と佐久間氏の由来」 令和3年12がち発行





 「垢潜(あかしろ)集落之沿革と佐久間氏の由来」

 沢石「さわやか学級」様に於いて「三春の歴史」のお話をするご縁がありました。

後日、沢石に伝わる貴重な寺社古文書をお借りすることが出来ました。

 「明治三十五年旧澤石村各神社御由緒調査澤石村役場」、「縣社加列願高木神社」、「垢潜集落之沿革」、「現人神社覚書(あらひとじんじゃおぼえがき)」、「沢石村内にある寺社仏閣由来書」等々、はじめて目にする資料です。
 その中に、沢石の佐久間氏に関する興味深い資料が含まれていました。

 先の講演会の時も佐久間姓の多い沢石でのお話で、諸説ある沢石の佐久間氏の由来を調べて伺いましたので、その地域ならではの口伝や言い伝え等々まだまだ調べること(知らないこと)が沢山あると思いました。






 佐久間氏の歴史的背景からの由来としては、本姓は藤原姓を名乗り、播磨国(兵庫県)守護赤松氏に仕えて、知行地の播磨国佐久間郷から佐久間姓を称し、赤松滅亡後(後常葉城主赤松越前守顕則家系)に三春田村氏に仕官したとする説。

 もう一つ、旧織田家家臣 柴田勝家の麾下与力佐久間玄蕃盛政(鬼玄葉)の二男で、柴田家滅亡(親子の中が悪く)に、三春田村氏仕官し重臣田村隼人の養子となった佐久間盛安(隼人正)の一族とする説等々・・・

 室町時代から約100年は続く戦国動乱期の富澤には三春田村氏の防御の要として“田村四十八舘”の一つ、出城「実沢舘」があり舘主実沢山城守が居住し北方守護与力五十騎を統括していました。
 後に、北方守護は田村家一族、富沢舘の富沢氏となり、さらに舘主も佐久間氏(村司佐久間右京太夫の記載が高木神社由来に在り)となり明治維新まで名主として治めます。


 織田信長亡き後天下人となった太閤豊臣秀吉による「奥羽仕置・田村仕置」にて三春田村家の改易となりますが、田村旧臣のほとんどが伊達氏について行かなかったように佐久間氏も富澤・實澤、青石当自分の知行地で帰農し、代々村の名主・村司を勤めてきました。






今回お預かりした資料「垢潜集落之沿革」という書物の中に記載された垢潜の佐久間氏の由来を伝える事柄が記されています。

 平将門が朝廷に反旗を翻し関東一円を手中に収め、自らを「新皇」と自称しますが、平貞盛、藤原秀郷らによって討たれた「平将門の乱」(939年)。

 佐久間氏一族は、平将門の麾下の武将として、「平将門の乱」に参戦しますが将門の敗戦と共落人となり、朝廷より追われる身となります。

 この際に、太平洋岸を一族(佐久間氏)が奥州地へと逃れ、今日の平方面より阿武隈の山脈を越えて岩代國田村領に入り身を潜めて暮らしていました。
 後に小野町辺りに一時「舘」(豊後舘の地名?)を造り住んでいた様な話もありますが詳細は記されていません。

 さらに佐久間伊勢守、豊後守、そして四郎兵衛兄弟十数の同志・家来など一族郎党共々現在の地(垢潜地区)に安住の地を求めました。
 以後約500年もの間「火雷神」を守護神として祀り、一族の墓所を造営して今に伝わっているとしています。








 「垢潜(あかしろ)」という地名は、守護神一族共々にこの地を定めるに際し、武家を捨て武将として戦いに明け暮れた今迄を懺悔(ざんげ)し、戦塵の垢を一切洗い落とすことでこの地を安住の地として潜めたことから「垢潜」と名付けたとしています。

 時は戦国時代です。一族郎党を守るために「長寝舘(富澤舘とも云う)」を造営、畑道を造り生活しながら東西南北に現地を開発してきました。

 そして、田村領主三春田村氏とも交誼をもたらすようになり、北方の備えとして防御の要である富沢(現沢石地区)の守りに仕えます。

 年代は不明ですが長寝舘から移川を越して東方の守りに今の「青石」に出城として舘を築き垢潜から分家、連絡を取りながら山を開き後世に青石村となります。

 明治になって火雷神社の秋祭りには九反(10メートル余)の大旗を立て、垢潜集落「雷神様の旗」の音は實澤、青石、初森へと聞こえたそうで、元来な豪傑も居たもので集落の団結力は察するに余りあると記されています。


 時系列的な再考察も否めない姓氏由来の中で、少しずつ歴史のパズルが繋がっていくようです。









田村四十八舘 

澤石村(三春町沢石)五舘跡



正楽舘 

舘主 渡邊雲龍斎




御舘

舘主 橋本玄蕃




「長寝舘(富澤舘とも云う)


舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住





臺(むろ)舘

舘主 佐久間豊後




新舘

舘主 某氏若狭









      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺364号 KFB福島放送「シェア」“ふるさとレポーター”田村大元神社 R3.11.19発行



KFB福島放送「シェア」“ふるさとレポーター”田村大元神社

私事ですが、この度KFB福島放送「シェア」番組内の地元の自慢やホットな話題を紹介する「ふるさとシェア!」で、ふるさとレポーターとして三春町を担当することになりました。放送時間は約2分強、頻度は月一回程度です。








  

このお話をいただいたときに真っ先に頭に浮かんだのが、子供の頃より祭礼や初詣、そして遊び場として慣れ親しんだ「田村大元神社」でした。

今回は先に放送されました内容をカットされた内容も含めて改めて紹介させていただきます。


田村大元神社は戦国時代の三春城主田村義顕公が三春城内三ノ丸となるこの場所に、旧三春藩領内総鎮守として「大元帥明王社」を郡山市の守山より移してきたのが始まりです。以来、時代と共に歴代殿様は変わりますが明治維新を迎える秋田氏まで続きます。






明治維新以降は「田村大元神社」となっていますが、今でも城下では「明王さま」(訛ってミオさま)と呼んで親しまれています。
伊達政宗も来たことがある・・・伊達政宗公の奥さま「愛姫」が、田村の三代の田村清顕公の娘という縁でこの大元帥明王を三春滞在の際に宿泊所としていました。

また、田村清顕公が宴席を設け、娘婿である伊達政宗以下、伊達成実や片倉小十郎などの伊達の重臣一同、そして、田村家からも当時100歳にもなるだろう田村家軍師田村月斎や、橋本刑部顕徳など田村家の重臣達が一堂に会して「杯」を酌み交わし、伊達・田村両家の戦種祈願や、安泰を願ったことでしょう。


現在、社殿そのものは新しくなっていますが、私も、祭礼や初詣などで拝殿に上がり御神酒を頂戴するたびに、目の前に広がるこの光景は、伊達政宗が、そして、歴代の三春城主が見た同じ光景・風景が広がっているのかなあと、歴史のロマンを感じ殿様気分を味わっています。





江戸時代の祭礼は、旧暦の6月15日、別当職城下新町の真照寺住職の監督指揮により三春藩明王奉行の下で三日三晩行われていました。

その際は近隣より大勢の祭り見物のお客さんが三春城下を訪れ、その監視と整理のために櫓を立て役人が寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと伝わっています。       


現在では新町鎮守「田村大元神社」として「海の日」付近に、宮司以下・神職、神社総代・別火講中等などの方々によって挙行され、祭典掛、御神輿町内渡御、長獅子舞、三匹獅子舞の奉納、さらには神旗持ちや神楽楽人の楽器持ちの子供たちやPTAの子供神輿や燈籠持ちも一緒に参加しています。


夕刻、祭終盤の「還御(かんぎょ)」の頃になれば、上は80代から下は小学生まで連帯感と親密度が深まり、世代も住む環境もまったく違う氏子というだけの様々な人々の人間関係が出来上がっています。

子供の成長には、親の庇護を離れ“世間の荒波”と云えば大袈裟ですが、そこで感じたものが、子供たちの今後の人生にどれだけ役に立つか計り知れませんよね。







そして、もう一つこの神社で紹介したいのはこの随神門(仁王門)に納まる「金剛力士像」、いわゆる「仁王さま」二体です。神社に金剛力士像?仁王様?仁王門と不思議に思う方もいるかと思います。

明治維新まで神仏習合の中で、明治を迎える前年となる慶応三年、仁王門が造られた際に守護神としてこの仁王さまも製作されこの門に安置されたという経緯があります。

明治維新後には仏教色の濃い「金剛力士仁王様」の二尊は、神社にはふさわしくないということで真照寺の軒下に仮安置されてきましたが、戦後になって戻され現在の姿になっています。

金剛力士像と云えば東大寺仁王像に見るような筋肉隆々、胸を反らして悪を威圧する姿を想像しますが、この仁王様を見るとお相撲さんのように全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢はどこか愛くるしいお姿をされており、まるで御利益を求めて参詣された方々に“何か優しく諭している“ようにも見えます。


 歴史と文化の宝庫である小さな城下町三春には、桜の時期以外にも沢山の魅力があります。


三春城下へのお越しをお待ちしています。

 #シェア!




   蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝



| ryuichi | 04:06 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺363号 「幕末・戊辰の役と三春藩 その2」 令和3年10月発行




塵壺363号 「幕末・戊辰の役と三春藩 その2」 令和3年10月発行


 幕末・戊辰の役と三春藩 その2 「思ひ附阿津免草」参照

明治元年(慶応4年)、白河城、棚倉城落城の次は、三春城攻略へと主力を移動させてくる薩長土肥を中心とする西軍の動きに対して、会津藩を中心とする東軍(奥羽列藩同盟)は、白河城(当時城主・藩不在)の城代掛二本松藩の前線として三春城を守るべく三春藩領へ続々集結していました。

尚、参照する「思ひ附阿津免草」内で「西軍」から「官軍」、「新政府軍」と表記が変わるところに三春藩内の心情が読み取れます。


7月23日朝には、平城を攻略した西軍の一隊(主力部隊は相馬攻略のため北上)が、磐城街道より仁井町(小野)方面に侵入の情報が入り、三春藩主力と応援の会津藩約70人、仙台藩約50人、福島藩約60人の藩兵が仁井町へ向かいます。

三春藩国境の広瀬村では、三春藩家老秋田勘解由(かげゆ)率いる三春藩兵が 守備を固めていましたが、小競り合いを演じた程度で旧式の武器を捨て撤退しています。

仁井町から三春へ向けて西軍の道案内は、仁井町と堀越村の神官二名が務め、8月3日には田村郡の神官を中心に西軍(官軍)の護衛隊を結成し、先導、連絡、渉外、慰霊の任に当たっています。






二本松藩約50人は、26日早朝、三春藩兵を道案内として守山方面に向け出 発させ赤沼村に待機。この機会を待っていたように、中通り各地に駐留していた西軍が三春城下めがけて進軍を開始。
 同日午前10時より“新政府軍(西軍から新政府軍へ表記変更)来たる”の緊急事態を告げる早鐘・早太鼓“三つ重打ち”が三春の城下に鳴り響きます。


三春藩は、もともと恭順する事前工作が出来ており、藩主後見役秋田主税をはじめとする家老たち藩重役が、柴原村や貝山村、鷹巣村へ出向いて正式に三春藩の恭順を願い出ます。
棚倉戦以来、意の通じている西軍中隊長の土佐断金隊長美正貫一郎(土佐藩士)の計らいなどもあり正式に無血開城と成ります。

 しかし、この“三つ重打ち”の音で城下は大騒ぎになり、数日前から家財を運搬、妻子を在方に預けた者もありましたが、ここに来て城下の町人の中には逃げて行く者も大勢居たと記されています。






 26日の昼ごろから西軍・新政府軍が城下へ入りはじめますが、最初の軍勢は中津川村を経由した先遣隊2000人で、西洋式に太鼓や笛を鳴らして隊列を整えながら柴原道より弾薬や荷駄隊を沢山従えて三春入城を果たします。
 さらに、貝山や鷹巣道、そして、守山筋からもといった具合で、新政府軍の総軍勢5~6000人、ほかに人足1000人ほど。
 翌27日には磐城口の軍勢6000人、28日に3000人というように、続々と新政府軍及び関係者が三春城下へ到着・駐留し、三春町の人口は一挙に3倍半に膨れ上がる始末となりました。

 城下駐留施設も、本陣、藩役所、寺社、御家中屋敷、町家を問わず分宿しており、まるで“市”が立ったように賑やかだったと記されています。

 また、戦火を免れた三春町民は互いの無事を喜び合い、夜中も休まず働き「官軍」新政府軍を接待しています。


 三春藩は、無事「開城・恭順」となりましたが、新たに新政府軍の奥羽列藩同盟軍征討への全面協力という仕事が待ちかまえていました。

 27日、西軍参謀局軍監局より後見役秋田主税、家老荒木国之助、家老小野寺舎人が呼び出され「御居城・御領地・兵器・人民・共に追って沙汰あるまで預かりおく」、「諸事是までの通り」
はよいとしても、「役は勿論、万端さしつかえないように心得よ」と申し渡されます。

 主な賦役には、「新政府軍の食料と馬の準備、軍夫の徴発」「政府軍の諸藩の道先案內」「参謀局会計局の世話」(はじめ御殿、後に政府軍総督が来たため春山新左衛門宅)、「大病院の賄」(城下龍穩院に病院を設置)などです。






 会津攻撃に際しては「中山峠口へ三春藩兵50人差し出す」ことや、「弾薬運送のための人馬手配」を命ぜられ、人足達は武器弾薬運搬といいながらも弾丸飛び交う最前線で弾薬を背負い新政府兵員に付き添って戦場を駆けめぐります。

 三春城下近辺はもとより領内全域各村から集められた人足達は文字通り丸腰で荷物を運び続け“命がけ”でその使命を果たしました。
 実際の戦死者も10数名に及んでいます。

 白河、棚倉、二本松、若松など主な城下町は戦場となって荒廃しますが、三春城下は、相馬中村城下などとともに無傷で残り、廃藩置県後の明治の新しい世を迎えても政治経済そして文化の面で県内有数の都市として発展・賑わいを見せ、大正昭和と激動の時代を乗り越えながらも、三春県、磐前県、を経て近代福島県の基礎をつくっていきます。 

 完









蒼龍謹白 コロナに負けるな! さすけねえぇぞい三春! 拝


| ryuichi | 04:12 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
 塵壺第362号 幕末・戊辰の役と三春藩 上 「春陽思ひ附阿津免草」参照  




 塵壺第362号 幕末・戊辰の役と三春藩  「春陽思ひ附阿津免草」参照  

 「春陽思ひ附阿津免草」は、三春城下検断職(現在の町長職) 回春堂橋元柳助が、慶応三年から明治14年まで日記風に書き留めておいた橋元文書を参照して執筆したものです。
 また、「思ひ・・」の中には、三春城下の商人が見聞きした幕末動乱の様子が克明に記載されており、貴重な資料となっています。

 さらには、江戸末期から明治への激動の転換期を体験した三春城下の商人の商機の見極めと同時に生の息遣いが感じられます。

 嘉永6年の黒船来航以来、幕末の動乱期を迎え三春藩に於いても武器・武具の製作・調達や参勤作法改正に伴って、文久3年には、在方の庄屋を対象に金1500両の献金を命じ、さらに元治元年には、世情の不穂な動きに対して日光警衛を命ぜられた為に、金3500両(現貨幣価値3.5億円位)という莫大な資金を町方および在方より調達し藩財政はひっ迫しています。

 一方、幕府勢力追討の勅命をとりつけた薩摩、長州、土佐を中心とする西軍は、江戸城無血入城を果たした後に、佐幕派の筆頭会津藩、そして、庄内藩討伐へと軍を進めてきます。

東北の諸藩はその対応として、”官軍”を称する薩長などの西軍に対して恭願の意を示しますが、奥羽諸藩を動員して会津藩(元京都守護職・新選組雇用)と庄内藩(元江戸市中取締役”新徴組”頭取)を討てとの命令が出されるに及んで、その真意を疑います。

これは、私的な薩摩・長州の会津藩への憎しみと解して、西軍の理不尽に対抗する動きに変わってきます。

 会津藩や庄内藩からの朝廷への度重なる謝罪や恭順を認めず、しかも奥羽諸藩を先鋒として本気で会津·庄内両藩を攻めなければ「奥州みな敵」という西軍の官軍権力をかさにきたやり方に対しては、諸藩も屈することはできないという態度になってきます。

そのため、 4月20日に仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲の呼びかけに応じて、会津、庄内両藩を除く奥羽の25藩すべての代表が白石城に参集し奥羽列藩同盟が結成されるに至ります。




 

この奥羽列藩同盟(後に越後長岡藩牧野家も加わり奥羽越列藩)の趣旨は、朝廷を頂く、官軍に反旗をひるがえすのでなく、あくまで朝廷を介して、私暴の挙に出ている薩摩や長州の非を追及する」という名目でしたが、目前に迫った西軍を迎え撃つ作戦計画も企てられた軍事同盟でそこでは西軍への協力を拒否することと、改めて会津、庄内の両藩を救済するということが決議されました。

 三春藩は、すでに1月15日に家臣の湊宗左衛門 (江戸詰御近習目付)を京都の新政府に出頭させ、当局より「奧羽征討援軍」(会津攻めに協力)についての沙汰書(指示命令書)を受けており、幼少の藩主秋田季映(当時11歳)を秋田主税が後見して西軍に味方すべきか東軍の義に尽すべきか藩論は容易に定まらなかった。

 「会津には同情するが、西軍は錦の御旗を奉じているので朝敵にはなりたくない。しかし、いかにしたら御家安泰が可能か?」という方向で議論が進み藩論が統一されていきます。

 このようなことを背景にして小藩の生き残りりをかけて”東西いずれの陣営にも味方”であると思わせなければならない綱渡り的な行動が開始されます。



 新政府軍が来る前に、三春藩の真意がばれれば、裏切り者として列藩同盟側の攻撃を受け、小さな三春藩はつぶされてしまいます。

 三春藩は、手薄になっている棚倉城を守るため、家老秋田太郎左衛門が藩兵を率いて石川郡岩法寺村(現玉川村)に出陣して他の同盟諸藩とともに新政府軍と戦います。

 この時(22日)新政府より先の沙汰書のことを知り、三春藩は兵を引いています。

24日には棚倉は落城しますが、沙汰書を発令した新政府軍側から、この棚倉出陣を問われ、京都にいる三春藩家老秋田広記らは、約定に反したということで疑われ禁足を命じられることになりますが、もともとの出陣している三春藩兵は藩内の細かな事情までわかるはずはないし、会津藩や列同盟諸藩の手前もあり本気で戦います。
 

この「棚倉出陣」後の状況(事情が日々変化している)から、7月16日の「浅川の戦い」では戦機が過ぎたころ臨場して形式的な戦いに終始しています。

 今度は、列藩同盟側より反同盟の疑いをかけられる始末。列藩同盟に署名した大浦帯刀が秋田伝内と改名したことや、同盟との連絡係が、藩重役から外事掛(新設)に交替したことも疑惑の目で見られていたのである。    

 次号へ続く


   蒼龍謹白  コロナに負けるな! さすけねえぇぞい三春! 拝








三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂


続き▽
| ryuichi | 04:34 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺361号  「盆踊り」 大正ロマン竹久夢二と助川啓四郎氏  令和3年8月発行  



塵壺361号 令和3年8月発行
 
  「盆踊り」 大正ロマン竹久夢二と助川啓四郎氏 


~ 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな ~♪



江戸時代より300年以上続いている三春城下の夏を彩る「三春盆踊り」は、昨年に引き続き今年も新型コロナウイルス拡散防止の観点から中止となっています。

時は大正、『宵待草』などで大正ロマンの雰囲気が漂う美人画を描いたことで知られる画家竹久夢二は、片曽根村出身で船引町長や県会議員、衆議院議員、農林参与官等を歴任した助川啓四郎氏との縁で「画会」開催等で船引町をたびたび訪れています。





夢二と啓四郎氏との出会いは、啓四郎氏の母校早稲田大学校時代にさかのぼります。

当時、歌人で女子教育の先覚者下田歌子が主催する「大日本少女会」などの活動をきっかけに知り合い親交を深め青春時代をともに過ごしたと言われています。

早稲田大学を卒業後、片曽根村長、船引町長から代議士となった啓四郎氏は、夢二のために福島県内各地で画会を主催。さらに、夢二の作品を載せるために雑誌を発行するなど、助川氏の財力や人脈を使って芸術活動を後援しています。







現在、船引町にある田村市図書館では、夢二に関する資料を所蔵し「竹久夢二ルーム」を設けて夢二の作品や資料を展示しています。


夢二は、啓四郎の計らいにより船引町以外にも、会津東山温泉や、福島飯坂温泉、いわき常磐湯本温泉など福島県内の各地に滞在し、多くの作品を残しています。

三春町大町に在った川北旅館に一か月ほど滞在して「画会」を開いた際には、北野神社前の道路で行われた盆踊りに夢二が女装して踊ったという逸話もあり、「盆おどり」(大正10年)と題された絵も残っています。



(三春町史より)


三春城下に秋の気配が漂いはじめた大正10年8月27日、東京小石川下富坂町の川端画学校(川端玉章創設の画塾)に通う半五郎少年は、夏休みで郷里である三春に帰省していた。

「川北旅館に竹久夢二という有名な絵描きさんが来ているよ」と母親に教えられた少年は、自分の描いた絵を持って夢二を訪ねた。
一時間ほど隣室で待たされたものの、長髪にナイトキャップをかぶった夢二は少年を画室に招き入れてくれた。










ぼそぼそと話す夢二。少年の絵については何も語らなかった。
長居は失礼、と立ち上がった少年に夢二は声をかけた。

「三春の盆踊りができたら教えてくれ給え」。

突飛な要望に驚いたものの、少年は盆踊りを夢二の前で踊った。

微笑しながら夢二はその姿をスケッチした。

その夜、三春城下北町の北野神社前で行われた恒例の盆踊りの輪の中に、芸者から借りた着物、編笠、青手甲腰巻、白足袋に、おしろいまで塗って踊りまくる夢二の姿があった。
半五郎少年と川北旅館の番頭 ·白石作三(カエル文字書家渡辺弥七さんの奥様の父)そして三、四人の芸者が同行した。







※半五郎少年とは、画家及び美術通信教育などで活躍した磐前半五路(半五郎は本名)。

このエピソードは磐前の著作『随筆、はだかの採点』に所収されている「夢二と盆踊り」、そして玄葉与光著『夢二と福島』を元に紹介したと参照した資料にありました。

後に、助川啓四郎氏は、昭和18年10月、農政通の帝国議会の衆議院議員として満洲に於ける食料事情視察の為の渡満途上、関釜連絡船「崑崙丸」(下関から朝鮮半島釜山の間を運航していた鉄道連絡船)に乗船していた際、朝鮮海峡沖ノ島北東10海里付近の海域にてアメリカ海軍潜水艦「ワフー」の魚雷攻撃を受けて沈没し多数の一般人の乗船者と共に犠牲となっています。

啓四郎氏という理解者(支援者)が居て、益々夢二は画家、詩歌・小説の執筆や、広告デザイン等活動の場を広げマルチに活躍します。

福島との縁も深く刻まれ、現在を生きる私たちに夢と喜びを与えてくれた田村縁となる二人の大先輩に畏敬の念を禁じ得ません。


蒼龍謹白  疫病退散祈願  さすけねぇぞい三春!  拝






三春城下の情報です。



BS朝日「百年名家~築100年の家を訪ねる旅~」。
毎週日曜の昼12:00〜12:55にBS朝日で放送中

出演は八嶋智人と牧瀬里穂、提供:住友林業

次回、令和3年8月22日(日)は、三春城下大町紫雲寺下旧吉田邸(現三春町文化伝承館)を取り上げています。


「百年名家」とは百年以上の歴史を持つ家屋で人々が暮らしている家のこと。人々の営みを支えてきた家屋には、暮らしを彩る様々な工夫があります。






| ryuichi | 04:24 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺360号「三春藩フランス商人との蚕種紙商取引契約不履行事件」令和3年7月発行




「三春藩フランス商人との蚕種紙商取引契約不履行事件」

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け(せいてんをつけ)」でその生涯が描かれ、さらに2024年には新しい一万円札に肖像が使われる「渋沢栄一」。

一橋家家臣、幕臣、明治初頭の官僚を経て実業界に身を投じると、創設に関与した企業は500を数えます。

欧米列強諸国の経済的強大さに対抗するため、日本に近代産業を早急に根付かせて発展させる必要があるという理念を持ち東京株式取引所(現略称: JPX株式会社日本取引所・東京証券取引所)、大阪株式取引所(現JPX・大阪取引所)の設立等をしています。

さらに、民間実業界の総力を挙げて近代社会発展に寄与する為に「東京商法会議所」など、さまざまな経済団体を組織して政府に実業界の要望を積極的に伝えています。    
開国後、海外貿易は諸外国に支配されており、幕府はじめ諸藩や商人皆一様に外国の商社を使うしかなく、金相場相違も相まって外国の商人の独壇場でした。

これを危惧したのが、渋沢はじめ、小栗上野介(幕府勘定奉行「神戸商社」)、坂本龍馬(亀山社中・海援隊)、三野村利左エ門(三井創始者)、岩崎弥太郎(三菱創始者)など幕末の日本で活躍した先進的な経済人でした。

彼らは欧米諸国が日本に対しては武力によるものではなく、経済(商い)による侵略(交易)だということを見抜いていました。







三春にも、武士と外国商人との商いの難しさを物語っている一例があります。

幕末の慶応3年10月、三春藩が関連した「フランス人商人蚕種紙取引引き渡し条約不履行事件」が発生します。

これは、三春藩士奥村清酒が江戸藩邸在府中、藩邸藩重役の秋田斎(いつき)、小野寺金兵衛らが、同じく三春藩士(藩士の家来の陪臣?)渡田虎雄の周旋で横浜駐留のフランス商人と絹や和紙等の商いをしますが、不慣れな武家商売で齟齬をきたして契約不履行となり、国際訴訟事件にまで発展してしまいました。

この頃の日本に来る外国の商人の中には、開国したての新天地で一旗揚げようという胡散臭い輩が多数いたと記されています。

全国の三百諸藩、とくに東国の諸藩は、「出島」で取引経験のある長崎や大阪に貿易の為の藩邸を有する西国の雄藩とは違い外国との商取引は不慣れの為、各所で商い不履行が発生して賠償金騒ぎをおこしています。

三春藩は、この事案について藩費をもって決済して商取引に加わった藩関係者を厳に処しました。奥村清酒は最も重く、知行召し放し、永蟄居、兄奥村権之助に預けとなります。
また、縁坐法によって清酒の父俊蔵の従兄弟にあたる秋田斎も隠居、その他一族数十人がその咎を受けています。

もちろん周旋した渡田虎雄も藩から追放されたということは言うまでもありません。






これらの採決扱いは、江戸留守居役年寄(江戸家老)目付小野寺市太夫公忠でした。

このころ「参勤交代の廃止」、「鳥羽伏見の戦い」の発生などで全国諸藩は国表への帰郷との沙汰が発布されましたので、三春江戸藩邸でも撤収作業が終わり、市太夫は、江戸藩邸留守居役として一人残り、残務整理をしていました。

追放された渡田虎雄とその一味は、今回のフランス商人との条約不履行事件での採決を不服・逆恨みをして、警備手薄な三春藩邸に一人在邸する高齢の市太夫を襲撃し、市太夫は非業の死を遂げてしまいます。

この事件は、武士の海外貿易という商いの不慣れの中で藩の不祥事の処断をめぐって渡田らの私怨を買い、非業の死を遂げ、藩政に殉じたともいえるものでした。






因みに、時間は少し戻りますが、水戸・薩摩脱藩浪士によって大老井伊直弼が討たれた『桜田門外の変』の時に外桜田門の内側にある「内桜田門」の警固を担当していたのは、小野寺市太夫の嫡男小野寺舎人(とねり)でした。

   「疫病退散祈願」  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝



| ryuichi | 04:37 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |