2023-05-24 Wed
塵壺383号 「紫雲閣」 旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷 令和5年5月24日発行
「紫雲閣」 旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷
蔵座敷「紫雲閣」は、明治時代の商人吉田誠次郎氏が遺した邸宅で、現在は三春町へ寄贈されて三春町文化伝承館として継承されています。
吉田誠次郎は、三春郷駒板村 (現郡山市中田町駒板) の吉田常三郎の次男として生まれ、三春城下中町の商人「釜屋」宗像善吾の次女と結婚して養子となりました。
釜屋善吾は三春生糸「三春駒」の商標を取得して東京や横浜で生糸商を営み、誠次郎は横浜営業所長として奮闘。
明治28年にはのれん分けして分家・独立し、益々生糸問屋として商いを拡げながら、取引先の外国人向けに錦絵や書画そして骨董の販売を行い、さらに金融業に手を拡げて1代で財を築きました。
分家を機に三春城下に於いて居宅を構え、その折に隣接する紫雲寺に由来したとされる「紫雲閣」も建てられました。
三春の商人の蔵は城下町だけあってちょっと独特な配置があります。
商人の力量である「財産」を自慢するように表通りに面して建てるのではなく、武士階級に遠慮して店舗・屋敷の裏手に建造していました。
これは明治になってもそれは変わりありません。
この「紫雲閣」もその通りで、表通りから一本奥に入った紫雲寺参道にある自宅の一番奥まった場所に建ててあります。
その外観は普通の蔵ですが、内部には龍が随所に施され、唐風の間や最高級の材料を惜しげもなく使った茶室等、装飾や部材等々目を奪わんばかりの贅を尽くした造りとなっています。
また、隣接する紫雲寺の桜や城下を借景とした各部屋からの眺めなど外からは想像することが出来ない趣向となっており近代日本創成期の経済界をリードした豪気な三春商人の経済・文化の交流を考察しながら、粋な遊び心を垣間見ることが出来ます。
その邸宅は文明開化に沸き立つ東京、そして、海外貿易の本場横浜で商いをする中で養ったと思われる独特な趣向で構成されています。
中でも紫雲閣2階にある唐風の“漆ノ間(紫雲ノ間)”には床柱に色彩豊かな“龍”が絡みついた立体的な装飾が施されるなど異彩を放った感性で訪れた者を魅了します。
黒く節目の入った薩摩杉の天井板や、桐の一枚板の透かし彫り入りの欄間に、棕櫚・楓・鉄刀木・柿・黒柿・栗・紫檀・黒壇・欅・櫟・杉と様々な銘木と称される部材を用いて組み上げた床柱・床框・梁部等々・・・彫刻や金具等含めてこれらの部材も当時福島県で開催されたという全国産業博覧会「共進会」で調達して無理やり設えた様にも考えられます。
外観の蔵と内部が別々の構造を成していて、部材ありきで各座敷の設えを整えていった様子が随所に見受けられ、蔵が先に在って(曳家をして移動した形跡有)、調達した装飾の部材を生かすように内部を1階部分から創り上げていく・・・
正に、大工、左官、建具屋、漆塗師、そして、建主である誠次郎氏の見識と情熱が作り上げた豪華絢爛な遊び心がいっぱ
い詰まった建物です。
そして、各所に“龍”のモチーフが数多く見られ、名前に“龍”の付く私にはとても心もちが良く居心地の好い空間が広がっています。
幕末、戊辰戦争では三春藩は御城下に暮らす民の生命と財産を戦火から護るために戦場となって焦土と化すことを避けようと戦を回避しました。
その土壌があり明治以降には三春の商人は総合商社として福島県経済を引率するリーダーとして活躍しています。
さらに、三春商人は海外貿易の拠点東京横浜に乗り出します。
新開港地「横浜」はまさに国内外の貿易商人の活躍する舞台であり、なかでも、日本の主貿易品目である金や絹を扱う不平等条約のしこりが残る中で居留外国商人と取引していた日本・三春の商人は激しい盛衰を繰り返しその動乱期を生き抜いた少数の貿易商達は短期間に莫大な富を築いていきました。
蒼龍謹白 三春さ来ねげ! 拝
「移・中山舘」の舘主は本多氏と考えています。
他の資料の訂正箇所や、地域の方々の苗字からも推測されます。
三春田村氏を示す当時物の資料が乏しく参考にできる資料が江戸時代に入って書かれた軍学資料ですので、何らかの理由があってか写し違い等で苗字の相違があったと考えています。
KFB福島放送「シェア」 ふるさとリポートin三春
三春担当の髙橋です。
5月24日(水)午後3時48分から~ 放送されます。
お楽しみに!
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:44 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
2023-04-21 Fri

塵壺382号 令和5年4月21日発行
「田村四十八舘東方要害」 御春輩 田村家武士団8 大越城
戦国時代の仙道(現福島県県中附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区でした。
田村荘司田村氏の流れを汲む三春田村氏は、そのころ伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(相馬)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いています。
三春田村氏は、その状況下の中で、惣領として一族や直臣、そして周辺の国人領主や地侍たちを従えながら、三春田村領内に於いて地侍と地縁的、族縁的な「洞中」の領主連合を形成し、血縁以外の家臣・国人領主たちに「一家」・「一門」などの称号を与えて自己の一族扱いをする事によって、その盟主としての地位を固めて戦国乱世を生き抜こうとしていったと考えています。
「浮金舘」 為 源次
「移・中山舘」 大多和泉 移 (本多和泉) 永禄年間、田村隆顕代「春山舘」 本多信濃
※「移・中山舘」の舘主は本多氏と考えています。
他の資料の訂正箇所があったり地域の方々の苗字からも推測されます。
江戸時代に記された軍記もの「仙道軍記」「仙道記」「仙道表鑑」等々の中で誤字と思われる記載が多数確認されています。
戦国武将三春田村氏の当時物の資料が乏しく参考にしている資料が江戸時代に入って書かれた軍学の資料ですので、写し間違い等で苗字が違っていることもあろうかと思っています。
舘跡周辺に現在お住まいの方々の苗字に納得しています。
「宮田舘」 宮田惣兵衛
「南宇津志舘」 菊池兵部太夫 五百二十三石 三春札場迄四里十六丁
「上宇津志舘」 田村家御家門 田村宮内太夫顕康 月斎一男 七百石
「熊耳舘」 熊耳太郎左衛門 六百九十三石 三春札場迄二十四丁
「石森舘」金堂右エ門 七百六十石 三春札場迄一里二十八丁八間
「新舘舘」鹿又備前 七百九十石
「菅谷舘」菅谷隠岐守茂信 (佐藤氏)

「大越城(鳴神城)」
東方与力五十騎 永禄9年下大越城(朝霧城)より移築 田村氏一族で田村四天王の一人と称された大越田村紀伊守顕光・信貫(橋本氏)一万石(安積六百石、大越二千、牧野三
百五十石)の居城。

現田村市大越町大字上大越字町の西方、霊泉山脈中にありました。
田村領では三春本城に次ぐ規模を有し、本丸、北ノ丸、西ノ丸、東ノ丸、 西北丸を有する堅固な城を築き、大越地内に数多くの舘を置きそこに家臣を配置していました。

鳴神城の由来は下澤郷と呼ばれていた現大越に築城の折、下大越白井倉より鳴神明神を遷して城中に祀ったことからこの鳴神城と呼ばれるようになったと伝わっています。
城主紀伊守は、三春三代城主田村清顕亡き後の田村家中のお家騒動に際して相馬方として伊達方の田村月斎、橋本刑部らと反目します。

後に、岩城地方の大館城(飯野平城)主岩城常隆に通じ、反攻の機会を画策しますが及ばず鳴神城を退去しました。

「下大越城(朝霧城)」向舘
弘安年間(1278~87)、白鳥出羽守安光が向舘を築きその後7代に渡って居住。後の弘治2年(1556)、山城守仲光が大越に居城を移したという。

「上大越弾正舘」
大越城主大越紀伊守の臣、荻野弾正の居舘 大越町大字上大越字町中の北方にありました。
「廣瀬 大越舘
」大越(橋本氏)玄蕃孫七郎の居舘。
東方与力五十騎 滝根町大字廣瀬の南東にあり。
「神俣八幡舘」
永禄年間、神俣太郎左衛門・神又久四郎房親(※小野神俣舘の記載有常葉氏より養子)以来、その子孫が世々居住。
滝根町大字神俣西部。
田村氏の没落後に帰農してその子孫は今でも神俣を称として住居し繫栄しています。
「時田舘」
大越紀伊守の臣、時田次郎の居舘 上大越字町東方。
「白石舘」
三春田村氏の重臣大越城主大越紀伊守の臣、白石蔵人の居住
現大越町大字上大越字町中の中央にありました。 平地に築かれており濠(ほり)をめぐらした跡が今でも見られます。

「飯豊舘」
郡司掃部の居舘。東方与力五十騎 飯豊村大字飯豊に在り。
三春田村家御家門方 郡司豊前 郡司雅樂之助 女子“おさき”は、田村御前(愛姫)に付いて仙台城下建て屋敷住(田母神氏旧記)
現在、郡司姓を称する方々は、この郡司氏の子孫と伝わっています。
「平舘」
七郷村大字堀越 三春城主田村氏の臣、三輪某の居住と記されています。
尚、三輪氏の家系は、永谷豊前守治則の三男、三輪玄蕃治徳の末裔と伝わっています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春 拝
| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
2023-03-24 Fri

塵壺381号 令和5年4月発行
「田村四十八舘 三春郷外郭要害」御春輩(みはるのともがら)田村衆
戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。
対する防備は、重要拠点とする田村領内の中でも五十騎以上、足軽百名以上の与力武士衆が常駐した舘が記録されています。
「富沢舘」三春町沢石字富沢
三春領古城絵図には、城主富沢玄蕃の名が見られ、田村清顕死後の田村家中の結束を誓った田母神家に残る血判状にも「富沢居舘富沢伊賀」さらに伊達家臣片倉家に残された田村家家臣録にも「北方与力五十騎」の大将として富沢伊賀守の名が連ねられています。
天正16年に伊達政宗が三春城・田大元帥明王学頭坊に滞在したときには、富沢氏とともに富沢の在郷衆もあいさつに訪れています。
当時騎馬武者が五十騎以上の与力の駐留した舘は、当時の田村領内全体でも13舘位で、それぞれの舘に駐留する各騎馬武者は、各々が自身の一族郎党を引き連れていましたので、手勢とする動員兵力としては騎馬武者の7倍~15倍の兵力がいたと考えられます。
後の資料には、三春城主田村利顕の二男(?)田村(橋本)刑部少輔徳顕(則顕との記載有)が「富澤橋本舘」に住居す。との記載もあります。
橋本刑部少輔徳顕 (貞綱)は、清顕没後田村家中の相馬派と伊達派が対立した際に、伊達氏へ組した三春田村家重臣の一人です。
「青石舘」旧澤石村青石
舘主 佐久間伊勢より、九代孫左京に至るまで居住
「實澤舘」旧澤石村實沢。
天正年間舘主・實澤山城。永享年間に至り、岩崎山城が居舘
旧澤石村(三春町沢石)五舘跡
「正楽舘」舘主渡邊雲龍斎
「御舘」舘主橋本玄蕃
「臺(むろ)舘」舘主佐久間豊後
「新舘」舘主某氏若狭
「長根舘」舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住
「熊耳舘」
三春本城から最も近い総備え外郭の要害舘のひとつで、規模も大きく三春城を防衛する上で重要な支城でした。
江戸時代に舘跡を調査した記録に「熊耳舘」は「舘主熊耳太郎衛門」とあります。
天正16(1588)年に岩代町の宮森城に在陣した伊達政宗のもとへ挨拶にいった田村家臣の中に熊耳氏がいますが、この熊耳氏について江戸時代に書かれた資料には、田村清顕が家督相続する際に、熊耳掃部助らを旗下に属させたと記されています。
また、清顕の死後、連判状と考えられる文書には、御幕下面々のひとりとして「熊耳又十郎」との記載があり、舘の近くには、南北朝時代の年号の記された石製供養塔がふたつ残されており、その頃からこの地域の中心的な場であったと想像されます。
「柴原舘」 三春町大字中郷字柴原
柴原助左衛門 三百五十石 後、橋本和泉助右衛門、禄高450石。
舘(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、本丸は南北28間、横18間。
この橋本氏は、先に記載した田村家重臣で下枝城の橋本刑部少輔徳顕の一族と伝えられています。
「蛇澤舘」 新田蔵助
「沼澤舘」 沼澤孫兵衛
「貝山舘」舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)
天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)
天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢する軍勢の為に田村家中の主力を出撃させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、時の三春田村領(城主田村宗顕)を攻めます。
この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。
幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
追記
田村家中重臣橋本刑部少輔顕徳
今回の塵壺にはその名前を「徳顕」、また「則顕」との記載のある資料を元にしたのでそのまま記載してあります。
※訂正です。
塵壺379号にて、江戸期に書かれた「奥陽仙道表鑑(抄)」を参照して岩井澤舘の主、常葉城城代を石澤修理亮と記載しましたが、前後の状況と地元の口伝からして石澤姓が誤記載・誤転載で、赤石澤姓・赤石澤修理亮と考えています。
奥羽永慶軍記(抄)、 政宗記(抄)、 奥陽仙道表鑑(抄)、 奥州仙道一覽記(抄) 参照
| ryuichi | 03:40 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
2023-02-22 Wed

塵壺380号 令和5年2月発行
「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参
今年、還暦を迎えるので“一生に一度は「御伊勢詣り」”と云われる伊勢の神宮へ妻を伴って初詣に行ってきました。
かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。
また、外宮・内宮両社に於いて御神楽御祈祷を受けますと、御祈祷の祝詞でお一人お一人の住所と名前が呼ばれます。
自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。
神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)という集落に三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所があることをご存じでしたか?
禅寺「石城山永松寺」という古刹の宇内(境内)にある實季公の墓所は時が止まったかのようにひっそりと佇んでいます。
この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の妹)”です。
即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。
三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。
天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後し
て蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。
同年の「九戸政実の乱」の鎮圧や慶長20年(文禄元年)からの太閤朝鮮派兵、そして伏見城の築城などに従事、「関ヶ原合戦」では、徳川家康より「慶長出羽合戦」に於いて上杉、佐竹(西軍)に与したとの嫌疑をかけられ、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石への転封を命ぜられ常陸宍戸藩初代藩主となりますが水軍を取り上げられ「安東水軍」は終焉を迎えます。
後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。
本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。
幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。
千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。
實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。
幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。
]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。
「我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓
尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の再建工事が令和5年2月26日より始まります。

蒼龍謹白 さすねけぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:33 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
2023-02-01 Wed

塵壺379号
御春輩「田村四十八舘東方要害」常葉城 田村武士団その6 令和5年2月発行
戦国期の田村領では、平姓田村氏の一族である「御家門」を中心とした地域的な家臣団を形成し、それぞれの所領と城・舘を持ち、その土地の土豪・地侍いわゆる「在家」を配下として半自立的な立場であったとみられます。
このことは、室町時代末に記された『田母神氏旧記』や『田村家臣録』をみますと「田村四十八舘」と称された領内の東西南北に配置された各々の城舘、そして駐留する与力の騎馬武者衆やそれらに付随する小者の数、さらには、城(舘)下に整備された町並み等からも見て取れます。
また、田村領(田村庄・小野保)は、田村庄司家御代の室町時代中期に結ばれた一族一揆録「仙道国人一揆(応永十一)」の記名人を母体として形成され、田村荘(庄)を中心に小野保を含んで編成され、白川氏に大きく依存していた篠川・稲村両公方という鎌倉府体制下で、関東管領や奥州探題との関係でバランスをとりながら田村庄司家の田村氏は独立を保ち、後の戦国大名平姓三春田村氏へとつながっていきます。

「常葉城」 別名「旭城(朝日舘)」
常葉伊賀守・東方与力四十騎 常葉彦右衛門・東方与力四騎
戦国期天正年間の常葉城主には、播磨国主赤松円心の孫の赤松越前守顕則から常葉氏に改名した5代常葉甲斐守貞久まで居城して三春田村氏に属し常葉地方を治めていました。
戦国時代真っただ中の常葉甲斐守定貞之の頃に、東の相馬義胤の田村攻略の際に常葉城は相馬勢の猛攻を受け落城し常葉勢は敗走してしまいます。
後に常葉氏は会津蒲生氏郷に仕え会津に居住、その子孫は会津に在りましたが現在は北海道に移住したと伝わっています。
常葉氏敗走後に常葉城を田村勢が奪い返し、岩井沢舘主(後に再記載)赤石澤修理亮が城主となって常葉城を預かります。
「岩井沢舘」 舘主 赤石澤修理亮
天正17年6月10日、 相馬義胤は田村家の内紛に乗じて岩井沢舘(都路) に侵攻して攻め落とします。
さらに、相馬義胤は岩井沢舘を拠点として稲ヶ瀬舘、そして常葉城を攻めます。
赤石澤修理亮以下田村勢300 人、伊達政宗からの援軍として桑折摂津守以下伊達勢300 人が加わり常葉城を守備、数日にわたり攻防を繰り返したのち相馬勢は外郭を落とし、三ノ曲輪をも破ります。
二ノ曲輪も危うく思われたころに田村宗顕は橋本刑部、田村宮内大輔に500の兵を差し添えて常葉城に駐屯させたので、本丸は堅固に持ちこたえました。
天正17年6月、会津の本城黒川 (後の若松) に入った政宗は、この報に接して伊達成実 、白石宗実、原田宗時、平田周防守に3千の軍勢を援軍として三春に派遣、さらに伊達郷、信夫郷、刈田郷、柴田郷の軍勢約150騎を二本松の塩松に布陣させて迎撃態勢を整えます。
佐竹氏、岩城氏、相馬氏の軍勢は7月まで対陣しますが、結局三春を攻められずに、ついに帰陣します。
「西向舘」 常葉町西向 三善中納言常光居住、千二百石 後舘主 新城宮内
・常光寺建立 七代目庄屋七右エ門傳
「関本舘」 舘主関本太郎右エ門 大字関本上野(田村市常葉町山根)にありました。
後に青山忠興が居舘。
天正年間、岩城城主岩城常隆の田村侵攻の際に落城しています。
青山藤兵衛、天正13年に発生した「小手森舘の戦い」で伊達政宗勢に属した三春城主田村清顕公に従い参戦し、大内定綱勢と戦い負傷。
「古道舘」 都路町古道字舘ノ腰に在り、北畠勝光の居舘。
津島・葛尾・古道・岩井沢の4か村は、戦国時代に相馬顕胤の娘・喜多姫が三春2代城主田村隆顕の嫡男・田村清顕に嫁入りした際に相馬氏より田村氏へ喜多姫の化粧代として田村領に編入されています。

※訂正です。塵壺379号にて、江戸期に書かれた「奥陽仙道表鑑(抄)」を参照して岩井澤舘の主、常葉城城代を石澤修理亮と記載しましたが、前後の状況と地元の口伝からして石澤姓が誤記載・誤転載で、赤石澤姓・赤石澤修理亮と考えています。
奥羽永慶軍記(抄)、 政宗記(抄)、 奥陽仙道表鑑(抄)、 奥州仙道一覽記(抄) 参照
蒼龍謹白 さすねぇぞい三春! 拝
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2022-12-31 Sat

塵壺第378号「三春本城防衛」城下重臣屋敷と御旗本組「不断衆」 令和5年1月吉日発行
「三春本城防衛」城下重臣屋敷と御旗本組「不断衆」
三春本城の防御態勢として、伊達政宗の三春城下滞在中の際に記された「三春要害廻り御覧御出」によれば、三春城下町構えの外枠に土塁・堀・沼・川などの防御施設があったことが解ります。
また、同文書の中に“天正16年8月、三春城滞在中の伊達政宗は田村家の重臣田村月斎宅にて饗応され~“と記されているところを見ると田村月斎の役宅「月斎舘」が現在の消防署三春分署の裏山に、そして、田村重臣橋本刑部の役宅「刑部舘」が紫雲寺の裏山に配されていました。
このように田村の重臣たちはそれぞれの所領に城舘を構えて居住・駐留していましたが、三春城下にもそれぞれ屋敷を与えられていたと考えられます。
さらに、「元和八年老人覚書」には「田村清顕と申は、常々千計の人数を抱置」と記されており、重臣らとともに、常に田村氏に近侍する直臣の旗本組「不断衆(ふだんしゅう)」の屋敷も御城山付近に集中して三春本城の直掩勢として駐屯していたと考えられます。
三春在城中の政宗が「町検断、町ノ者」を謁見しているのをみれば、三春城下町衆の地位が田村家中に準じるほどのものであったことが読み取れます。
その他、城下には大元帥明王堂別当・同学頭坊そのほかの寺院・社家・山伏があっ たことも、政宗滞在時の『伊達天正日記』に記されています。
後免町の田村家菩提寺福聚寺はいうまでもありませんが、明王堂以下の寺院・社家などは 城と城下のはずれの地に配置されて、三春城と城下の守りの役割を果たしたとみられま
す。

天正10年(1582)、大元帥明王学頭坊に宛てた「田村清顕挽書」によれば、田村2代隆顕以来、山中(明王町)の検断権は田村氏ではなく学頭坊に委ねられていたことが解ります。
同じく田村家の菩提寺である福聚寺も同じく「門前(御免町・尼ヶ谷)」の検断権を隆顕以来免許されていました。
これら有力寺院・社家は田村氏の外護を受けて、郷村を知行分(所領)として抱 え経済的基盤とし、さらに門前ないし門前町に対する治外法権・経済支配権を掌握していました。
永禄2年(1559)の大元帥明王大船若経の書写は、 田村義顕による進献の事業ですが、経櫃三合に収められた二百巻の折本の大般若経は、天沢和尚以下、薩摩の慶徳、日向の京文、肥後の昌恵、美濃の培など十数人の手で書写され、13350枚の和紙が用いられています。
これは、義顕の帰依の篤さとあわせて「大元帥明王」の権威の高さを知ることが出来ます。
「天正田村騒動」天正16年(1588) 5月・相馬義胤三春入城失敗
三春城主田村家三代田村清顕の突然の死により、田村家中は清顕妻(相馬顕胤娘)の弟相馬義胤が当主の相馬氏と、清顕母(伊達稙宗娘)、そして、娘「愛姫」の婿伊達政宗が当主の伊達氏のどちらに今後の田村家の行く末を暫定的に後見してもらうかを巡り家中は二分していました。
天正16年2月から7月にかけての安積郡郡山城・窪田城一帯をめぐる伊達政宗勢と蘆名義広・相馬義胤勢が相対した戦闘を総称とした“郡山合戦”の後、政宗が三春へ入る前に政宗の片腕である伊達家重臣片倉小十郎が先に三春に入り政宗を迎える準備をします。
5月3日、相馬家出身の清顕夫人を船引城へ移し、三春城には清顕の甥の孫七郎(宗顕)が入りました。
そして、翌日には、田村梅雪斎(田村隆顕の弟)など相馬派の家臣三十数名が城下の屋敷を引き払って小野城(以下、小野保内の自分の所領・領諸城)へ退きます。
その混乱の最中に相馬義胤は手勢を率いて三春城乗っ取りの為に強襲入城を謀り、相馬勢が三春城の途中まで登った時に、その動きを事前に察知した伊達派重臣橋本刑部指揮する田村勢の精鋭旗本不断衆の迎撃により、東の小口(虎口)に押し返されます。

しかし、ここでも田村勢の猛攻に遭い撃退されてしまいます。
兵の強さもさることながら、三春城は難攻不落の堅固な山城のために相馬勢は御城を攻略できず中々入城は果たせません。
さらに相馬勢の騎馬武者200騎と弓・鉄砲組が合流して三春城に攻め込む手はずとなっていましたが遅参して役に立たず、義胤は築館(東和町)にも、相馬にも帰れず配下の兵と共に一時船引城に立て籠りますが後に相馬へ撤収しています。
相馬義胤が三春城攻略討に失敗した翌日、伊達政宗は白石若狭守宗実の宮森城に着陣。伊達勢(信夫郡・伊達郡の軍勢)に田村勢も加えて築山舘(月舘・旧東和町戸沢)を攻略し所領の作毛をすべて刈り取ります。
翌日、伊達主力・旗本以下の軍勢を動員し、相馬氏に組した石川弾正の小手森城(旧東和町針道)を陥落させて宮森城に引き揚げました。
蒼龍謹白 さすねぇぞい三春! 拝
付録: 奥羽永慶軍記(抄), 政宗記(抄), 奥陽仙道表鑑(抄), 奥州仙道一覽記(抄)
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2022-12-02 Fri

「御春輩 田村四十八舘南方要害」 田村武士団 その5
戦国乱世、三春城主田村氏配下の御春輩(みはるのともがら)田村武士団は、田村領である田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う「田村四十八舘」各々の所領を本拠と
する「舘(たて)」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。
「四十八舘」の四十八という数は語呂合わせ的総称で、拠点の舘と支舘を合わせ時期を含めて振り起すと百以上の舘が存在しています。
この舘群は、防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。
「鶴ヶ城(田母神舘)」旧二瀬村大字田母神にありました。
三春田村氏の祖とされる田村持時の築城で、その息子で“田母神氏”の祖となる田村(田母神)刑部少輔重顕以来、田村一門田母神氏が居城し田村四十八舘南方防衛の要であったと伝わっています。
「谷田川舘」 旧二瀬村大字田谷田川字西曲淵にありました。
三春城主田村清顕の臣、石井豊前守(通称彌八郎と称す)の居舘
舘は、回字形を成しており一見では舘とは知られず、天正年間の会津城主芦名盛氏との戦いではその舘機能が活躍し防戦したと伝わっています。
「東舘、西舘」旧守山村大字大善寺に在り、東舘と西舘とは相距離に隣接していたと伝わっています。
舘主は白河城主結城宗廣の臣、因幡貞末兄弟で、後に、柳沼氏を称して帰農
し、現在もこの辺りに棲む柳沼氏はその末裔と伝わっています。[
「正直舘」旧守山村大字正直に在り「板橋舘」とも呼ばれていたと伝わっています。
正直土佐守高光の居舘。天正年間の三春田村氏の没落後と共に滅亡したと伝わり、現在は鬱蒼とした山林となっています。
奥州平定を企てる源義家の臣とする正直土佐高秀は、「天喜康平ノ役(前九年の役)」に主と共に陸奥に下り、石川郡板橋の舘に居舘して板橋を氏としていました。
後に、高光の代に至って田村氏の属し正直村に移住し姓を正直と改めたと伝わっています。また、正直氏の末裔は帰農し、現在もこの辺りに棲むと伝わっています。
「清水舘」旧守山村大字細田字念仏堂に在りました。
田村氏の臣、中塚右衛門太夫清信の居舘。中塚右衛門は、天正十年六月に発生した三春田村当主田村清顕公の急死後の「天正郡山合戦」の際に、嫡男である細田縫之助春友と共に田村の混乱に乗じて攻めてきた須賀川城主二階堂氏の寄せ手を防ぎ、獅子奮迅の活躍を見せ激闘を交わすも敗退したと伝わっています。
「細田神」清水舘の南西にあたる黒石川右岸にある田園の中に、「細田神」と呼ばれる一小祠があります。これは、上記の清水舘落城の折に、舘主細田氏の自決したところだと伝わっています。
「高倉舘」 旧宮城村下字高倉にありました。
三春城主田村氏の臣、高倉和泉守の居舘、大永年間に築かれたと伝わっています。

「古内舘」
戦国期、三春城主田村氏の時代に宮城村大字海老根(現、郡山市中田町海老根)にあった古内館は、古内肥前守が舘主として居ました。
古内氏は、須賀川城主二階堂氏に組していましたが、天正年間の伊達・田村勢による二階堂氏討滅の時に伊達氏の重臣片倉氏に下り、以後片倉氏に仕え片倉氏の所領である白石に居を構えます。
現・仙台市太白区向山に鎮座する竹駒神社は、この古内氏が、屋敷がある海老根の古内にあった稲荷神社を移したと白石にある古内氏墓所の石碑には記されています。
また、岩沼の竹駒神社にも、三春田村氏や古内氏との関わりを示すものが残っており、伊達政宗夫人陽徳院(愛姫)の孫にあたる岩沼藩初代藩主田村宗良公の墓石を削って作られたものと言われる忠魂碑や古内重興が寄進した石燈籠があります。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
付録: 奥羽永慶軍記(抄), 政宗記(抄), 奥陽仙道表鑑(抄), 奥州仙道一覽記(抄)
先月発行の塵壺376号のコラムに誤表記がありました。
「月斎の子息たちは、嫡男・宗輪寺住持、次男・宮内少輔顕貞(顕康)~」と表記すべきところを“月斎の兄弟~”と記載してしまいました。
訂正いたします。
| ryuichi | 03:01 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
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