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塵壺323号「三春込木(くぐりき)寄席」~見渡神社・こしまき 平成30年6月発行




    「三春込木(くぐりき)寄席」~見渡神社・こしまき
 春先に「三春込木寄席」が行われました。 
出演は、(公社)落語芸術協会所属の真打、十代目春風亭伝枝さん。新進気鋭の人気落語家です。

 親戚筋の込木宮ノ下は“こしまき”こと武田泰夫さんの主催とあっては、落語好き饅頭屋の私も喜んで寄席見物と相成った次第です!

 伝枝師匠は、“こしまき”の娘婿である青木さんの友達だそうで、そのご縁で込木寄席開催の運びとなったということで3年前の高座に続いて2回目です。

ここで家号ともいうべき“こしまき”について少し・・・・。
 会場となった込木集会所の上手に込木鎮守の「見渡神社」があり、“親かっ様”こと庄屋武田家から分家した泰夫さんのお宅は、見渡神社の社殿を取り巻くように敷地があるということで、昔から“こしまき”という愛称で呼ばれています。






 この見渡神社は、古くから“トリケの神”と信仰を集めてきました。
“百日咳”にかかったときは灯篭の石を削って呑めば治ると伝えられおり、その拝殿には病気平癒を祈願した鶏の絵馬が多数奉納されています。
 また、麻ひもを首にまいておくと咳が収まるとも伝わっていて祈願成就の折には倍の量の“麻紐”をお礼に納めていたと伝わっています。





当三春昭進堂創業者の髙橋民四郎の本家は、込木の柳ケ作(やなさく)の髙橋家です。民四郎は本家から“髙橋”という苗字と現昭進堂の土地を貰って分家し商いを始めました。
 その昔、11月の祭礼には、民四郎と妻の“おタリ”が饅頭を大八車に乗せて、社殿下に露店を開いていたと聞き及んでいます。

この寄席では、本家さんと並んで落語に興じ、中入りや打ち上げの席などで様々なお話を伺うことが出来ました。
 なんと、本家の母屋は“戊辰の役・会津戦争”が起こった明治元年(1868年)ごろに完成したということですので、築150年になるという計算になります。当時の大工や職人は、現場に寝泊まりをして作業に従事していたそうですが、茅葺屋根工事を請け負っていた職人たちは皆会津地方から来ていたました。
 建設途中に“会津戦争”が勃発してしまい我が家が心配で帰郷し作業中断となります。そして、2年ほど時が経ち戦騒ぎの落ち着いたころに戻ってきて無事作業再開の運びとなったということでした。






 さて、落語です。
 
古典落語の定番「目薬」を枕に「短命」と「初天神」の二席。
 会場には、込木はもちろん楽内や柴原、そして芹ケ沢などから約80名のお客さんが詰めかけ「満員御礼」です。

 会場内を見渡しますと幼き頃より見知った方々ばかりで、「お久しぶりです~」「元気でしたか~」の挨拶が止まりません!そして、「観桜三春寄席」の主任“独快亭来歌”こと田部さんのお顔も見えます。





 噺が始まると、ここは新宿末広亭か?浅草演芸ホール?はたまた池袋の演芸場か~?
「女房が~!」「婿さんが~!」「息子が~!」ってなもんで・・
 一気に落語噺の世界に引き込まれ、もう笑いっぱなしです。
    
~ヨ、真打~伝枝師匠! 




 おっと、前座がいました。
青木さんと、友人の喜多さんが務め会場を温めてくれました。

 そして、お待ちかねの打ち上げです。
 伝枝師匠を囲んで、来場の方々と一緒に、橋長魚店のオードブルと地酒三春駒、そして泰夫さんの挨拶で宴会です。
敬老会での楽しい宴会の様相を呈し、老若男女楽しい打ち上げが続きました!





 私の中に先祖伝来の込木DNAが入っているせいでしょうか?場所も込木、そして落語会というのは、とても居心地が良くて、楽しい時間を過ごさせていただきました。




 
尽力いただいた武田家の皆々様、そして、お手伝いの村上様ご夫妻には大変お世話になりました。
   さすけねぇぞい三春!  合掌  蒼龍謹白  拝




<訂正とお詫び>
先の塵壺5月号コラムでお名前の間違いがございました。
正しくは川又恒一(かわまたつねかず)氏です。
訂正しお詫びを申し上げます。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





古四王堂の改修も順調です。







| ryuichi | 05:13 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺5月号一部訂正のお知らせ
今朝の塵壺5月号コラム欄の中で、一部訂正がございます。


冒頭の三春町文化研究会のメンバー紹介のなかで、本来は川又恒一氏と表記すべきところを、川又亘一氏と誤った記載をしてしまいました。


関係者にはお詫びを申しあげ、訂正させていただきます。


次号に訂正を掲載させていただきます。





| ryuichi | 16:00 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺322号「旧広報三春「三春今昔物語」より~城下大町の巻」2018.5発行 


   
 旧広報三春「三春今昔物語」より~城下大町の巻

 昭和30年代、現在の「広報みはる」の前身にあたる合併前の三春町広報誌が発刊されていました。
 その中に、三春の歴史や古い物語に関するコラム欄があります。
 
題字とカット挿絵を渡辺俊太郎氏、執筆及び資料提供は、当時の三春町文化研究会の川又恒一氏、多田照雄氏、天野竜雄氏、影山常次氏、橋本宗哲氏、橋本久右エ門氏、大谷研明氏、渡辺利雄氏。
 そして、役場の当時担当者が渡辺俊三氏です。
 懐かしいお名前があり、この顔触れを見ますと当時の三春文化の担い手の面々ですね。

 コラムは、一年を通じてシリーズ化していたようで、「三春怪奇伝説」「三春古跡漫歩」「三春今昔物語」などワクワクするタイトルが並びます。







そのコラムの「三春今昔物語」から、三春城下大町の段を見てみますと、三春城下大町は
三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。
 本城の大手門(JA付近)から守城稲荷前までは、町屋は全く無く、現三春小学校敷地に、本御殿がありました。


 現大町本通りに沿っては、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。

 桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から軽輩の武家屋敷がありました。
 現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。
高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。
 会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。
その向いは、松井正右衛門宅。
 その隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅(現保健センター)がありました。

 かつて三春幼稚園があった会下谷は、当時「百石谷」と呼ばれていました。これは百石程度の藩士の屋敷が軒を並べていたことに由来するとされています。

 御城坂には、昨今枝垂れ櫻の古木、そして「猫冢(猫塚)」(現在は非公開)なるものが発見された旧城代家老の山舘秋田氏、そして、北畠秋田(浪岡)氏など重臣屋敷が居を構えています。

 江戸期の秋田氏藩政下でも御城は御城山に本丸以下がありましたが、通常の政務の執行機関である役所や、藩主家族の住んでいたお屋敷は、下の御殿(三春小学校付近)や御殿下にありました。

 明治5年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。
前記の三春広報誌が発刊された昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されています。

今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっているあたりでしょうか?

また、校庭には大きな藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと記されていました。




 
大町「四ッ角」の石橋は江戸末期の文政13年(天保元年)に完成し、その工事費が39貫150匁と記録に残っています。






今の物価にしたら如何ほどでしょうか?

 石橋の傍らには、道路原票(今は南町福祉センター付近に移設)があり、その台座(今はありません)には、三春から各地への距離が記されていました。

白川11里26丁。若松17里19丁。二本松5里32丁。

福島11里。 米沢21里半。仙台32里22丁。

盛岡79里23丁。中村7里35丁。

平17里20丁。棚倉14里33丁。

等々・・・そして、資料では遠く長崎や、広島、江戸、名古屋・・・など

 それぞれ全国各地の旧城下町までの距離が刻まれていました。






      蒼龍謹白 合掌  

          さすけねぇぞい三春!   拝 








「はなまつり 2018」  稚児行列

子どもたちの健やかな成長を願って行われる伝統的な行事で、稚児衣装をまとった子どもたちが三春城下を歩きます。

行列コース 
 三春小学校下 ⇒ 大町 ⇒ 東邦銀行駐車場 ⇒ 龍穏院

・日時 /  平成30年5月5日(金) 10:00~11:00

・三春交流館「まほら」の前で甘茶の接待があります。
 三春町各宗寺院和合会・三春町各宗寺院護持会






RFCラジオ福島「Yammy's Garden」(毎週日曜日の午後7時30分)や、馬場の湯「若松屋旅館」ディナーライブでお馴染みの白河が生んだシンガーソングライター”Yammy*(ヤミー)” 
 
New Singleは「三春滝桜」への想いを歌にしました!

 「愛しきキミ想ふ」1000円(税別)

 作詞:Yammy* 作曲:廣瀬紳一編曲:松田純一






  三春昭進堂、及び若松屋さんで絶賛販売中!








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:26 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺321号「三春藩秋田候上席別格年寄衆三春細川(京兆家)氏」平成30年4月




三春藩秋田候上席別格年寄衆三春細川(京兆家)氏

三春藩別格年寄衆(家老)三春細川(京兆家)氏。
祖を清和源氏、室町幕府将軍家足利氏の一門の嫡流細川(京兆家)氏で、御城坂(現在の遠藤病院のお城側の梅花園辺り)に屋敷があり、石高700石でした。

この細川氏、南北朝時代には畿内・四国を中心に一門で8か国の守護職を占める有力大名で、その嫡流である細川京兆家は代々管領に任ぜられ、斯波(しば)氏・畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに数えられた名門です。

尚、細川京兆家の「京兆」(けいちょう)とは、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来し、官位である“右京大夫”の唐(現中国)名「京兆尹」のことであり、細川右京兆とも呼称されていました。

ご存知「水戸黄門」の徳川光圀の官位が“中納言”で「黄門」様と呼ぶのと同様です。

細川家の年譜からは“人よ空(むな)しい(1467年)”の「応仁の乱」が特筆されます。

室町足利幕府の後継者争いに端を発し、斯波(しば)家、そして畠山家の後継者争いも加わり、全国の守護大名が京都に集結し「応仁の乱」の戦乱が起こります。

西軍と称される時の将軍足利義政の息子の義尚(よしなお)派と、東軍と呼ばれた義政弟の義視(よしみ)派との対立に起因し、四職(ししき)家の山名持豊(宗全)が西軍の統帥を務め、東軍の総帥を三管領家右京大夫細川勝元が務めました。
応仁の乱を描いた平成6年NHK大河ドラマ『花の乱』では、野村萬斎が細川勝元、そして山名宗全は萬屋錦之介が演じていました。この細川氏が三春細川氏の祖となります。

結局、11年にも及ぶ戦いの末に、京都はすっかり焼け野原になり、足利義政の子の足利義尚が9代将軍を継ぐことになりましたが、もはや将軍の威光はなく、中央では有力な守護大名が室町幕府の実権を握るようになっていきます。

戦国期の騒乱を経て安土桃山時代と時は移り、細川京兆家は以前の権勢をすっかり失って衰退してしまいます。
家督を継いだ晴元の嫡子細川昭元は、室町最後の15代将軍足利義昭に仕え、後に織田信長に仕えます。

以後、昭元の嫡子元勝(頼範)は、豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の役では豊臣方となり、大坂城落城後は讃岐国に隠棲していましたが、後に妹の嫁ぎ先の秋田実季を頼って当時常陸国宍戸城にあった秋田氏に身を寄せて客分として迎え入れられました。






三春藩(宍戸から転封)の元勝の嫡子義元の代の時に、秋田氏の家臣に列して別格年寄衆(上席家老)として仕えます。

尚、細川昭元と信長の妹“お市”の娘である“お犬”夫妻の間に生まれた長女が三春初代藩主秋田俊季の父実季の正室円光院です。

お市は浅井長政との間に、茶々(淀君)、初(京極高次室)、お江(徳川秀忠室)の三姉妹があり、このお江の子である徳川三代将軍家光と、従姉妹である円光院と実季夫妻の長男が三春藩初代の俊季(としすえ)候で、家光とは又従兄弟となります。

 三春秋田氏は、この由緒により外様大名から譜代並の大名へ格上げされ、さらにこの良縁をもたらしたことで、元勝の息子である細川義元は、秋田氏に好待遇で迎えられます。

義元以降は、宣元(義元の子)、忠元(宣元の子)、孚元(三春藩家老・小野寺泰忠の子で忠元の養子)、昌元(三春藩主・秋田延季の七男で孚元の養子)と続きます。







墓所は、三春城下荒町の三春藩主菩提寺高乾院にあります。

尚、桜谷細川氏はこの細川家の分家で、現在の歴史民俗資料館の場所に屋敷がありました。


    さすけねぇぞい三春!  合掌     蒼龍謹白    拝



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| ryuichi | 05:09 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺320号 平成30年3月発行 三春城下「月斎舘(椿舘)」 田村宮内少輔顕頼入道月斎



はじめに、本塵壺に掲載しています法蔵寺涅槃会の日時について誤った記載がりました。

涅槃会開催は、平成30年3月17日の土曜日午後2時からです。
曜日を日曜と誤記載してしまいました。
訂正させていただきます。





三春城下「月斎舘(椿舘)」 田村宮内少輔顕頼入道月斎

平成30年は、戦国武将三春城主田村清顕と正室“於北(おきた・相馬顕胤娘)”夫妻の一人娘で、伊達政宗の正室「愛姫(めごひめ)」(田村御前、出家院号は陽徳院)の生誕から450年にあたります。

今回は、その愛姫からすると高祖父の弟となる平姓三春田村氏三代(義顕、隆顕、清顕)その初代義顕の弟“田村宮内少輔顕頼入道月斎”のお話です。

顕頼(あきより)入道月斎(にゅうどうげっさい)が、三春城下にて居を構えたとされるのは現郡山広域消防三春分署、光岩寺の北側一帯の丘陵で「月斎舘(げっさいたて)」、そして「椿舘(つばきたて)」とも呼ばれていました。

当時、舘の周辺には椿が繁り、春には丘陵全体が紅く彩られたといわれ、“椿舘”と呼ばれる所以ともなっていました。

義顕の三春入城は、永正元年(1504年)で、応仁の乱から戦国時代へと移行する室町幕府末期の11代将軍足利義澄の頃となります。

月斎が生きた時代は正に“戦国乱世”の真っただ中で三春周辺でも相馬氏、芦名氏、二階堂氏、伊達氏そして佐竹氏などの戦国武将が割拠し田村領は“四面楚歌”的状況でした。

戦国武将である三春田村氏は、三春本城と共に領内の防備体制を構築するために、後に“田村四十八舘”と呼ばれる出城群も領内一円に築き、田村家に近侍する直属の旗本不断衆千騎の屋敷も三春城下本城近くに集中していました。
その中でも、本城防御の要、鬼門とされる乾(戌亥)の方角(東北)にこの舘を築き、戦上手と評判の高かった顕頼月斎を舘主として置き、防備を固めました。
伊達政宗も三春を訪れたとき、この月斎舘で饗応を受けたと古文書は伝えています。

また、田村領内四十八舘の内、上移、丹伊田、木目沢、阿久津等の街道筋の要となる舘には、月斎の息子たちなど配下の者を配していました。

月斎は、当時としては異例の100歳を超すご長寿でしたので、愛姫の父清顕弟の“田村氏顕”と被っているのではないか?とする説もありますが、二人の性格の違いからして、月斎は顕頼一人とみるのが正しいんだろうと思っています。

月斎は、小野城主田村右馬頭顕基入道梅雪斎(二代隆顕の弟)とともに田村家では重きをなし、兄義顕亡き後、甥である隆顕を立てて田村家中をまとめ上げ、その子清顕(愛姫の父)に仕えます。

当時、戦国時代の風潮として“下剋上”がまかり通る世の中にあっても、月斎は主家を立て内紛による田村家分裂を嫌って、晩年までの補佐役として生涯を懸けて田村本家を守り抜きます。


また、合戦においては田村勢の軍師を務め、仙道(現福島の中央部)に謀略に優れた戦国武将として三春田村氏の武名を轟かせ、周辺諸氏からは「陣場に月斎、田にひる藻、畑に地縛り、嫌いもの」と囃子詩に謳われる程“攻めの月斎“として近隣の武将たちには恐れられていました。

清顕死後の家中騒動では伊達方に与し、内紛に乗じて相馬義胤が三春入城を図りますが、月斎は息子の橋本刑部顕徳などと共にこれを撃退しています。
当時、石川、岩瀬、塩松(小浜)などを掌握し、田村領である田村庄・小野保に敵を一歩も入れなかったと記録されています。

一方、現いわき市平窪にある浄勝院所蔵の古文書の中に、月斎の子である田村宮内大輔に送ったとされる遺書が残っています。

雅号“月斎”という名前があらわす通り、その文筆を見ると文才の高さがうかがえ、戦国の世に在って和歌を詠む優雅さと禅宗に帰依し法名も“月斎聖休”とするなど参禅する道心とを兼ね備えた文武両道の武将でもありました。



拝 さすけねぇぞい三春!  蒼龍謹白   合掌







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:14 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺第319号平成30年2月発行 「弘法大師木像、興教大師木像」 三春藩主祈願所真照寺




塵壺第319号平成30年2月発行

   「弘法大師木像、興教大師木像」 三春藩主祈願所真照寺

 明日2月3日は節分、三春城下真照寺の節分会です。
 御祈祷や景品交換などで本堂に上がった際には、ご本尊であるお不動様をお参りください。

その際、御本尊「不動明王」様、「大日如来」様が鎮座する須弥壇の両奥をよくご覧いただければと思います。
 ここには弘法大師木像と興教大師木像が収められています。

これは、天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。








 この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。

 江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。
 家老荒木玄蕃(輝季妹の夫)や、輝季公後妻の実家である佐塚氏が、藩重臣による権力争を憂い藩政の実権を握ろうとして、3代藩主輝季公の嫡男である広季を廃嫡して、代わりに荒木氏から旗本秋田氏に養子に入っていた頼季が藩主の座に就きました。

 この結果、広季(就季に改名)は45歳で亡くなり、代わりに荒木高村の子である頼季が藩主となり、三春藩の実権は荒木氏と佐塚氏に握られます。





 このことに不満を持つ三春藩重臣達と荒木・佐塚氏との争いから、三春藩に於ける藩政の争いと発展し、さらには、徳川幕府譜代幕閣の老中抗争の先端的様相を呈しはじめ、またその波及は藩内の秋田由来の家臣団と、宍戸由来の家臣団の権力争いも加わり、上は幕府閣僚から町方までに及ぶ“お家騒動”の事件となりました。

 幕閣での政争の末に徳川8代将軍徳川吉宗公が介入して裁断を下し、頼季の子である治季(後に延季に改名)を5代藩主に据えて、藩主頼季の閉門、家老荒木玄蕃の蟄居等、多数の犠牲者をだして終幕しました。





「腹切り梅」
亡くなった広季の守役だった滋野は責めを負い切腹を申し渡されます。
その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。






「三春化け猫騒動」
事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。

 また、三春郊外、貝山の泉沢に「御下屋敷」とよばれる荒木玄蕃の屋敷跡があります。

荒木は、幼君を亡きものと企む中で御殿医三宅良庵と老女鳴瀬とを巻き込み、朝の食事に一服盛り、幼君を毒殺したと伝えられています。
 その朝、荒木はこの下屋敷にあって舟形の大きな石を西方村の大滝根川から運ばせている最中でした。もう少しで庭に入るという時に、幼君急死の報せが本城からもたらされたので、悲しみを装って急ぎ登城したといいます。






 その後、“腹切り梅伝説”の忠臣滋野多兵衛の亡霊譚の下りとなりますが、荒木は御城下の上屋敷には居たたまれず、この下屋敷に逃れ大きな番犬数等と警固の武士を配して引き籠ったとされます。

 このとき西方村より運んだ舟形の庭石は、これも滋野の亡霊の祟りで、その後いくら手を尽くしても微動だにせず、庭外に放置されたまま伝説を秘めて風雨にさらされています。 

 古い広報三春コラム「古蹟萬歩」貝山の荒木屋敷参照

      蒼龍謹白   さすけねぇぞい三春!   拝








| ryuichi | 05:37 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺平成30年1月号 「三春秋田氏五万石三春城下年寄衆(家老)屋敷」


 

 三春秋田氏五万石三春城下年寄衆(家老)屋敷

 三春秋田氏五万石の年寄衆(家老職)は、三春舞鶴本城を中心としてその周辺の要所に屋敷を構えていました。

・南町御城坂中段の右側は、城代家老秋田調季規の屋敷です。当初は700石でしたが、寛政の秋田太郎左衛門の時代に1000石に加増されます。
 
秋田由来の出羽の出身で、祖先は安倍季高となります。安倍季高の祖先を辿れば山舘信濃入道になり、代々山舘秋田氏と称して格式第一の重臣でした。
 現在、山舘秋田氏の屋敷は庭園の整備が進んでいます。





・御城坂中段左側の浪岡氏は北畠秋田氏と呼ばれ、鎌倉末期の公卿北畠親房(きたばたけちかふさ)の流れをくむ名門で出身は伊勢です。

 慶長五年の関ケ原の戦後に秋田実季(三春初代俊季の父)が恩賞問題で徳川に異を唱えた罪により伊勢朝熊に流された頃、北畠宇近が秋田姓と500石を拝領して仕官します。後の寛文年間に500石加増され名門の別格宿老として重臣に列せられます。





・荒木氏。
南町の現保健環境センター付近が屋敷跡となります。

荒木氏は三春藩内年寄衆(家老職)より上席の別格の“御両家”として代々浪岡氏とともに城代、あるいは上席家老を勤めました。

 出身は丹波で、丹波波多野家臣細工所城主荒木山城守氏綱の子で、明智光秀家臣となった荒木氏清の子孫です。

 寛文の頃までは600石、内匠の代になり900石に加増され、その当時、御城、藩主御殿以外では荒木屋敷だけに高価な瓦屋根が葺かれていたと伝わっています。

 尚、荒木氏は後の「腹切り梅」「化け猫大火伝説」のモデルになった家老家でもあります。
 






・細川氏。南町(現在の遠藤病院のお城側の梅花園辺り)に屋敷がありました。
 石高700石、出身は山城国、京兆細川(きっちょうほそかわ)右京太夫昭元を祖とする客分家老でした。
 京兆細川氏は、室町末期の“応仁の乱”では東軍の総帥を務めた管領家細川勝元の子孫です。
 尚、初代三春藩主秋田俊季母堂の円光院は、織田信長妹お市・浅井長政夫妻の娘お犬と、細川昭元の間に生まれた娘となります。

・同じく客分家老に列した細川縫殿助氏350石の屋敷が、桜谷の三春町歴史民俗資料館下付近にありました。この細川氏は桜谷細川氏と呼ばれ、前記の細川氏分家です。
 三春秋田家の家臣団の筆頭藩士の中に、藩主に近く、世臣譜に公族と記された「御一門」と呼ばれた家があり、城跡東側清水に屋敷を拝領していました。






・秋田竹鼻氏。竹鼻氏は鹿季次男の家系で屋敷は清水(天沢寺向)です。
津軽安倍氏からの“秋田由来”となる譜代の重臣で石高400石。

・清水山舘秋田氏350石。御城坂山舘秋田氏の分家です。

・秋田中津川氏。中津川家は鹿季の三男の家系 屋敷は南町(現在の高齢者住宅)です。中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。

・秋田檜山(薦土・こもつち)作兵衛季章氏。貞季次男の家系 屋敷は、入清水西側です。秋田由来の譜代の重臣で、檜山姓を名乗っていました。300石でしたが後に500石へ加増されています。

・桜谷佐塚秋田氏。石高は500石で、桜谷細川屋敷の向かい側に屋敷を拝領していました。
 資料から推測するに佐塚広記氏が幕末の動乱期から明治初期にかけて一番活躍した家老です。

・大浦秋田氏。秋田鵜右工門 石高500石。南町遠藤病院裏手にあり荒木屋敷の向。

 幕末の各家当主は、山舘家が秋田調、中津川家が秋田仲之助、竹鼻家が秋田斎、薦土家が秋田作兵衛で、これに小野寺市太夫、秋田(佐塚)広記を加えた6名が最高職の年寄りを勤め、幕末動乱から明治維新の混乱期を乗り切りました。
  
合掌   蒼龍謹白   さすけねぇぞい三春!  拝







現在公開中の映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」
堺雅人さん、高畑充希さん主演です。

「鎌倉ものがたり」の公式スタッフツイッターでも紹介されていますが、美術のスタッフさんから依頼があり、当三春昭進堂も少しだけお手伝いしています。
劇中、夜市のシーンで妖しい茶屋で売っている真っ赤なまんじゅうがあります。






当映画のスタッフさんから依頼があり、そうです当三春昭進堂で製作しました。
この世には無い饅頭がコンセプト、名付けて”黄泉国茶屋特製火の玉饅頭!”です。

映画を観に行った時には、気をつけてご覧下さいね!

はじめの方に登場する“夜市”の黄泉国茶屋店頭です。

乞うご期待(^.^)






古より三春という町は”東北の鎌倉”と呼ばれている北国の小さな城下町です。

希望というか夢は、この鎌倉ものがたりの原作に三春が登場して、映画化の続編に三春のそのロケ地となればいいなあなんと思い描いている次第です。




素敵なセット!スタッフツイッターより


鎌倉ものがたりという映画のお手伝いを、遠く離れた三春の小さな饅頭屋がお手伝いすることが出来たということも何かの御縁なんだろうなあと考えています。

微力ながら映画”鎌倉ものがたり”の宣伝と話題作りに寄与できればと考えています。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:48 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |