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「綾小路きみまろ笑撃ライブ2017 IN 三春!」~満員御礼!



 「綾小路きみまろ笑撃ライブ2017 IN 三春!」~満員御礼!

(協)みはるスタンプ会の設立25周年を記念して行われた「綾小路きみまろ笑撃ライブ」は、満員御礼にて大盛況の内に無事終了することができました。

 ご来場いただいたお客様にはスタンプ会一同より、御礼申し上げます。

また、このイベントをサポートしていただいた綾小路きみまろ事務所、そして三春町等の関係各位に御礼を申し上げます。



 

みはるスタンプ会が協同組合化25周年の節目として、日頃よりご愛顧いただいているお客様への感謝の気持ちとして行った事業です。

 公演告知やチケット販売の手法の切り替えで、お得意様への感謝の気持ち、そして新規お客様開拓など、実りの多いイベントとなりました。

終演後、会場から出て来られるお客様のご尊顔は…笑顔~笑顔~笑顔!

「3年分は笑わせてもらったよ~ありがとう!」

「ありがとう!これからもみはるスタンプ会の加盟店で買い物すっかんねぇ~」等々…

会場から出て来られる笑顔のお客様は”ありがとう!”の言葉であふれ皆様大満足の様子でした。





 振り返りますと、一昨年前の理事会の折に「まほらの公演の協力はいいんだけど、スタンプ会独自の企画をやってみっちなぁ~!例えば無理だとは思うんだけど“綾小路きみまろ”クラスの誰でもが見たいと思うビッグゲストに来てもらったら面白ぃべなぁ~!」というある理事からの一声から始まりました。

 以来、人と人の繋がりやご縁などが重なり、三春城下に綾小路きみまろさんが来てくれることになりました。

客席の大きな郡山の文化センターを借りればもっと楽だったかもしれません。

 しかし、三春城下でやることに三春の商人としての粋張りや意義があると考えました。

 三春交流館「まほら」は客席404しかない小さなホ-ルです。まさかこの小さな会場に来てくれるとは、だれもが思っていなかったはずです。

 実際にお会いするきみまろさんは、テレビで観る印象と変わりなくとっても気さくな方で、公演前の忙しい時間にも係わらず私たちとの記念写真にも快くポーズをとっていただき、会場スタッフをお願いした美人女将さんたちを軽いジョークで笑わせていただきました。

 公演でもさすが当代一流の漫談師!満員のお客様を爆笑の渦に巻き込んでいました。

 今回の綾小路きみまろライブを三春城下でどうしてもやりたい!出来る!と強く願いその成功に向けた原動力となったのは約40年前、私が子供の頃に観た「ちあきなおみリサイタル」でした。





 三春中学校体育館に当時人気絶頂だった歌手がやってきて、それを観た感動と会場の熱気と興奮を今でも鮮明に覚えています。
 当時は子供でしたので三春の商人魂がみなぎったイベントだったとは知る由もありませんでしたが、その頃に労を重ねた先輩方の歳になって、あの時空を超えた感動をもう一度三春城下で!そして三春商人の心意気でお客様方に恩返しがしたい!

お陰様で、まほらホールの緞帳(どんちょう)に描かれている雪村筆 「馬」画の意味の様に「三春町民の皆様、そして商人のさらなる飛躍を祈念してのイベントにしたい!」との思いが実を結びました。

 また、私たちも、本公演を通じて人と人の御縁の大切さ、ありがたさを改めて学ぶことが出来ました。

今後ともお買い物はみはるスタンプ会加盟店でどうぞ! お客様のご来店をお待ち申し上げます。    




  ~笑って生きようよ~ 
一度きりしかないから、人生って素晴らしいんじゃないかと。
1回しか生きられないから、「一生」と書くんだと知りました。
それ以来、私はこの言葉が好きです。 
    綾小路きみまろさんの言葉より
        
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝

| ryuichi | 05:20 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺7月号「三春城下恵下谷(会下谷)天澤寺炎上!」



三春城下恵下谷(会下谷)天澤寺炎上!
 
三春城下清水にある天沢寺は、江戸初期の三春城主松下石見守長綱の時代には恵下谷(現三春城下南町の会下谷)にありました。

或る時、松下家の行く末を案じた忠臣が、殿様である長綱公の常軌を逸脱した日頃の言動を諫めようとして進言します。
しかし、石見守はこの家来の無礼を憤り手打にしようとして刀を抜きはらいます。忠臣は、周囲の者に引き立てられて慌てて逃れ菩提寺である天沢寺に匿れ、時の和尚はこれを庇護しました。





長綱公は引き渡しを下命しますが、和尚はこれを拒否して逆に長綱公の暴政や態度を戒め、政務を批判します。

長綱公は、怒って配下の手勢を率いて天澤寺の伽藍を焼払ってしまいます。

この暴挙に対し、曹洞宗大本山総持寺、永平寺ともつながりの強い和尚は“三春城主狂乱”と公儀幕府に訴えでます。
 早速公儀取り調べがあり、その他暴政も含めて乱心のかどで三春藩松下氏改易となります。

現在の天沢寺は、秋田俊季公入府後の慶安年間に三春城下清水に再建されました。

『恵下(会下)』とは”恵下(えげ)”とは高名なお坊さんに教えを乞うために会(参禅)する修行僧のことで、松下公時代の天沢寺までの道筋には、その修行僧が寝起きする僧堂があり、そのことが地名の由来とい伝わっています。

今は、かつてこの天澤寺があった場所の南の高台に、葛尾村住宅「恵下越団地」が整備され、国道288号バイパスに「恵下越」と記された看板が立っています。

恵下越?と三春の方でも初めて目にする地名ではないかと思います。


この恵下越の地名は、上記の天澤寺に由来します。




 もう一つ松下長綱公関連のお寺に御母堂様の墓がある亀井の光岩寺があります。 
 三春城下北町末亀井に、亀井清水井戸があり、その井戸を蔽う竹林の坂道を上ると、今は荒廃してしまいましたが光岩寺の堂宇址(どううあと)があります。



その山内には苔むした三春城主松下長綱公の御母堂の墓があり「月照院殿円宝宗弧大姉」と戒名が刻まれています。
この御母堂様とは、会津藩主加藤嘉明の息女で、長綱公の父重綱の正室でした。

 加藤氏は、はじめ甲斐の武田氏に仕え、後に三河に移って徳川譜代の臣となりますが、永禄七年、祖父教明の時に“一向宗の乱”があり、三河を去って尾張に赴き、当時の羽柴秀吉に仕えることになります。




 教明の子嘉明は、秀吉子飼いの武将と称される“賤ヶ岳七本槍”の一人で、伊予松山城四十三万石から、秀吉の命で北の要である会津四十五万石に移されたのは、寛永四年二月のことでした。

 これと共に、三春領は三万石として、嘉明の二男明利が入城します。
 それが、翌寛文五年には二本松へ移され明利の後任として、二本松より嘉明の息女月照院殿を母に持つ松下長綱が三春城主となり御母堂を伴って入城します。





 松下氏は源氏、名高い佐々木高綱の子孫で、碧海郡松下(現愛知県)に住み、松下と称します。
 松下嘉兵衛之綱の孫が重綱で、寛文四年に下野国烏山藩(栃木)から二本松五万石(当時)に移されて死去、同年長綱が家禄を継ぎますが、短慮で暴政を敷いたとして二本松領民に幕府に訴えられ、減俸されて三春三万石へ転封されたと伝わっています。





 会津藩加藤氏の与力大名である長綱公は三春城主となり、わずかな期間で近世城下町として三春城下を整備します。
 しかし、寛永20年(1643年)、会津藩主加藤明成が封地返上というお家騒動『会津騒動』で、会津領が幕府に収公されます。





翌正保元年に、切支丹(キリシタン)の嫌疑、そして上記のとおり乱心狂気という理由により、城地召し上げの上三春藩御取り潰し松下家改易となります。
後に、長綱公は、舅である土佐の松下忠義に預けられその地で亡くなります。

 松下家の菩提寺州伝寺には父である松下重綱の墓、そして御母堂様の供養寺光岩寺に墓はそのまま残りました。

尚、子孫は加藤氏を名乗り直参旗本となりました。





『真照寺アコースティックコンサート』

出演は、酪王カフェオレのCMソングや福島交通飯坂電車応援ソングでお馴染みのMANAMIさん、そしてクラスター・バンド“zero zero z”のボーカル&ギターで活躍しているERIKAさんの出演です。

日時 2017年7月22日(土) 場所 三春城下新町 真照寺
・開場18時・開演18時30分 (20時終了)
・料金:前売2,000円・当日2,500円※中学生以下入場無料(要学生証提示)となります。

◎前売チケットご予約yukazou1@gmail.com
◎お問い合わせ番号 09036478540(担当・五十嵐)

主催 STEP AGAIN~福島元気の響きプロジェクト




三春城下法蔵寺「蓮まつり」 

7月1日~30日まで、開催します。

山内にある蓮は自由にご覧いただけます。

観蓮無料です。

早朝が見頃です。

尚、山内休憩所(小書院)に蓮茶をご用意いたしています。

ご自由にお召し上がりください。


蓮まつり関連イベント

・そば打ち教室
日 時:7月16日(日)午前10時から(申込締切10日)
参加費:1,000円

・打ちたて蕎麦 試食会 16日午前11時から(どなたでも参加自由)

【観 蓮 会】

平成29年7月23日(日)早朝6時から

 ○早朝大茶会・・・蓮の花を愛でながら朝茶を一服。
 ○花架拳の舞・・・優雅な天女の舞をご鑑賞ください。
 ○象 鼻 杯・・・風流な蓮酒をお楽しみください。
 ○蓮茶、蓮おにぎり、蓮饅頭などご用意しています。






三春城下「ちゃっくら市」 毎月第3金・土開催 朝10時から午後3時位まで~

      
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 05:48 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
平成版三春奇談 “お美代淵の由来”


塵壺平成29年6月号 №311

平成版三春奇談 “お美代淵の由来”

三春城下に初夏を告げる藤の花。
今年も、あちらこちらの山々に薄紫色の花弁を自然の風景と絶妙に溶け込ませながら目を楽しませてくれました。
また、藤花は振り袖姿の女性に例えている俳句があるなど、その姿や色合いから上品な印象を与える花ですね・・・

そんな藤の花と女性に関した悲恋話が三春に伝わっています。
三春城下から西に約一里。山田のバス停留所から200メートルほど西に行きますと道路が大きく曲がる辺りに、川の流れが渦を巻く小さな淵があります。
晩春から初夏の頃になると、藤の花が川面に美しく揺れている場所で、何時しか「お美代淵」と呼ばれるようになりました。

江戸中期、寛文の頃、鷹巣村のある庄屋に気立てが良く働き者の下女が住み込んでいました。その下女が、この“お美代淵”の名前の由来となる“お美代”です。
その当時、お美代は娘盛りの19歳の春を迎えました。そしていつしか恋を知りました。

相手は、同じ庄屋に住み込みで働く作助です。
二人は人目を忍びながら、嬉しい逢瀬を楽しんでいました。




ところが、そこに気立ての良い美代に恋を寄せるもう一人の男が現れます。
主である庄屋の家の次男坊である誠三です。
それとなく美代に言い寄りますが、美代はまったくなびかず心すら許しません。

業を煮やした誠三は、「可愛さ余って憎さ百倍」とばかりに、手段を択ばず理不尽な仕打ちをしますが、それにも抵抗し続けて操(みさお)を守り通します。
いつしか誠三は、作助と美代の間柄に感づきます。
そして、その年の暮れに庄屋である父親に、作助にあれやこれやとありもしない罪を告げ口をしたり、無実の罪を擦り付けたあげくとうとう解雇させてしまいます。
作助は、愛しい美代のことが気がかりでしたが、解雇となれば庄屋から去る以外になく、どうすることも出来ないまま、後ろ髪を引かれる思いでお美代の元を離れ、行方が知れなくなってしまいました。

後に残されたお美代は、執拗な誠三からの無理な求婚を拒み続け、片時も忘れかねる作助への慕情を秘かに温め続けていました。
翌年5月初旬、田植えも終わり一段落をした美代は、裏の水車小屋の傍らに立って、ぼんやりと川面に目をやっていました。

川岸には藤の花が真っ盛りに咲き競い、川面を薄紫に染めあげていましたが、川の流れがとろりと凪ぎてきました。
よく見ると、紫色の川面のその川底に、なんと恋い焦がれていた愛しい作助の姿がほのぼのと見えるではありませんか。
驚いた美代は、パット身をひるがえして水底に見える慕い人である作助の幻影めがけ身を投げてしまいました。

明治19年の郡山街道県道整備、大正3年磐越東線敷設、昭和になって国道288号線整備など、道路や河川整備工事が進み、“お美代渕”の川の流れやその形も変わってはいますが、幾幾年川岸にある藤の花だけは、時節になると川面を薄紫に染めて、お美代の悲しい恋色を伝えています。 

古い広報三春内「怪奇伝説 美代淵の由来」参照

春陽郷三春城下 三春昭進堂蒼龍謹白  さすけねえぞい三春!   拝




尚、三春スタンプ会主催「綾小路きみまろ笑撃ライブインみはる」二次チケット売り出しの日にちですが、平成27年と表記してしまいました。

これは誤りでした。平成29年6月12日(月)~です。

お間違えの無いようにお願いいたします。





真照寺方丈庭園「心字の池」に、可憐なスイレンが咲きはじめました。



| ryuichi | 05:35 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺310号 平成29年5月  「雪村-奇想の誕生-」 於東京藝術大学大学美術館
 

「雪村-奇想の誕生-」 於東京藝術大学大学美術館

春陽ノ郷(しゅんようのさと)と呼ばれた三春の桜の中で、瀧桜と人気を二分する雪村桜。 
 今年も “三春さくら” のファンを魅了し大勢の観桜のお客様でにぎわっていました。




その桜の由来となった雪村庵(せっそんあん)の主、画僧雪村の特別展「雪村-奇想の誕生-」が上野にある東京藝術大学大学美術館で開催され、三春人として見に行かねばならないと、三春城下にも桜の便りがちらほらと届き始めた四月初旬に観に出かけました。

先に東京で開かれた三春舞鶴会総会でも町担当者より紹介されていましたので、首都圏在住の三春縁の方々も足を運んだ方も多いはずです。





この「雪村」とは周継(しゅうけい)という法名を持つ禅僧で、雪村は雅号です。他に、鶴船老人、如圭、倹約斎、中居翁などの雅号も称し、俗称は田村平蔵。

晩年に三春在の大田(現郡山市西田町大田雪村)に庵を構え隠棲(後の雪村庵)し、天正十七年、八十余歳の天寿を全うしました。

その画風は、禅をその精神的支柱とする静的素材を中心とした水墨画に、荒々しく動的素材を組み入れ、気迫と活力を導き出すことによって緊張感のある美を創造しています。






生涯は未だ謎に包まれていますが、常陸国(現在の茨城県 常陸大宮市)で戦国武将佐竹氏の一族に長男として生まれた雪村。
 しかし、幼いうちに出家し画業の道へと進みました。

後の世の絵師たちに深い影響を与えたその画法は、ひときわ独創・革新的でありながら、人間味あふれる温かな水墨画を描き続けました。

「西の雪舟」「東の雪村」と言われるほど、故郷である水戸佐竹氏や会津芦名氏、三春田村氏、東国各地を活躍の場としました。

晩年、三春を“終の棲家”として雪村庵を構えますが、その創作意欲は衰えを知らず、しっかりとした技法と、逞しいほどの想像力を用いて傑作と呼ばれる画を次々と世に送り出します。




 雪村の絵の中で一番のお気に入りの「呂洞鬢図(りょどうひんず)」

 今回の特別展のポスターに用いられています。独創的に描かれた構図が特徴の龍を操る志那・宋代に実在したと云われる呂洞鬢という仙人の絵です。
 ユーモラスな顔をしている龍の頭にちょこんと乗った呂洞鬢が、天翔る龍を見上げ、水瓶より小さなこれまた龍を出して自在に操っている様子が描かれています。




 以前から気になっていたんですが、どうも私も名前に龍が付いていますので他人事とは思えず、龍を自由自在に操っているこの呂洞鬢が、当家の女房殿に見えて仕方がありません・・・・





 四月初旬といえば上野の御山は春爛漫、江戸時代より浮世絵になるほどの観桜花見の名所です。
その日も大勢の花見客でごった返していました。

 私などは三春の和菓子屋という仕事柄花見だんごは売っていても“花見の宴”をした記憶はしばらくありませんでしたので、久しぶりの花見を堪能しました。





 また、この日は、東京国立博物館平成館で初日を迎える「茶の湯」展がありましたので、こちらにも臨場してみました。

 国宝の「曜変天目」、「油滴天目」さらには「志野卯花墻」や「黒楽時雨」等々一級品が勢揃いです。
 
織田信長や豊臣秀吉、足利義政、さらには当代きっての茶人千利休や古田織部等々の名だたる武将や茶人に愛されながら時代を超えて人々の心をとらえてきた国宝や重文になる茶道具が一堂に会しています。

「はぁ~!」「うん~ん」「憎らし~!」「へぇ~!」などと声にならない心の叫びが、ため息とともに自然と口から漏れ出してしまいます。





 尚、「雪村」展は平成29年5月21日(日)まで、「茶の湯」展は平成29年6月4日(日)までとなっています。





雪村庵

雪村周継は、十六世紀初めから後半(室町時代後期から戦国時代)にかけて活動した日本を代表する禅宗の画僧で、山水画、人物画、花鳥画などを描きました。

現存する作品だけでも、約二百点が確認されており、その中には国の重要文化財に指定されている作品もあり、郡山市立美術館をはじめ国内外の美術館等に収蔵され、高い評価を得ています。





現在の「雪村庵」は、後世に建てられたものですが、当地が、雪村の晩年(十六世紀後半)に隠棲していた地であることを、明暦四(一六五八)年、三春藩主秋田氏の菩提寺高乾院の僧侶であった-元紹碩が、庵の扁額に、当時の古老の話や伝承をもとに記しています。




庵の裏手の竹林には、雪村の墓と伝えられる花崗岩の大きな石があり、地元の人々により供養されています。






また、庵には、雪村桜、雪村梅と名付けられたシダレザクラとウメの古木があり、春の開花期は、訪れる人々を和ませてくれます。

雪村庵案内板より






      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝

| ryuichi | 05:48 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺309号 「馬場の天女碑」平成版古蹟漫歩 平成29年4月発行



平成版古蹟漫歩「馬場の天女碑」

春、春陽郷と称される三春城下の隅々を歩く。路地をぬけ、桜川や裏道の小さな公園にあるベンチで寛ぐという春を満喫したくなる季節の到来です。
また、郊外では田園風景や道端の地蔵さんや石碑で心が和む、そして地元の人々とのふれあうなかにも三春の魅力を発見します。 

そんな三春城下の魅力の一つ。
馬場尼ケ谷の“馬場の湯”の少し下ったところに「正徳馬場口のお地蔵さん」と呼ばれる地蔵堂があります。

そのお堂の入り口に「天女碑」と刻まれた石碑が建立されています。
台石ともに150センチほどの大きさで、正面に天女碑、向かって右に文化12年(1815年)、左に乙亥暮秋と刻まれてあります。

室町期以降の武家は、嗜みの一つとして謡曲を謡いお能を舞っていました。

江戸徳川幕府、そして三春藩でもこれを奨励し、現三春小学校にあった三春城「御殿」には能舞台もあったと記されています。
三代藩主秋田信濃守輝季公は、元禄十年江戸城で猿楽が催された際、将軍の御前で能楽「鶴亀」を演じています。

また、太元帥明王(田村大元神社)山内にある熊野宮、八幡宮の彫刻には、「海人」「鯉仙人」など謡曲に題材を求めたものが刻まれています。
天女碑のある馬場・尼ケ谷には、大木、坂本、池田などの武家屋敷があり、その人たちも能や謡に励んでいました。

江戸時代末期の天保初年、三春10代藩主秋田肥季(あきたひろすえ)の正室於儕(おせい)の方は、因州(鳥取)鳥取城主池田斎訓の養女でした。
於儕の方御輿入りの際に清涼院という老女が守役として付いてきましたが、後に清涼院に池田姓を名乗らせ、当時の大木家の二男新一を池田家へ養子に迎えさせます。

池田氏と名乗ることになった清涼院は、この新一氏を謡の大家の一つ江戸宝生流家元の内弟子に入れて、10年間研学させます。帰郷後は、藩の謡の指南役として仕えました。

この池田家が尼ケ谷に屋敷を構えたのも大木家との縁故関係です。

その縁も、「能、謡」につながるものでした。

さて、天女碑ですが、能、謡に熱意を込めた大木、坂本などの藩士をはじめ、芸能ごとの上達を願う人々によって記念碑として建てられたものです。
天女は謡曲「羽衣」からの着想であることは言うまでもありません。

江戸期には、路傍に建てられていましたが、三春藩馬術教練場である馬場であった同地内の道路改修の際に、廃仏毀釈・神仏分離の観点からか、仏教関連と勘違いした人達によって、坂本氏宅の池にお地蔵さんと一緒に放棄されていました。

しかし、見かねた鴫原留吉氏、石橋政蔵氏ら当時の馬場尼ケ谷の有志の方々が私財を出し合って、地蔵堂を新築してお地蔵さんを納め、天女の石碑はそのお堂前に据えました。

現在の地蔵堂は、「馬場尼ケ谷界隈で子供の事故がないのはこの地蔵様のお陰」として、永年この御堂を無償修復していた馬場の影山組・やわらぎの湯社長の影山勝男氏により平成17年10月に全面新築され、同地蔵堂講中様へ寄贈したものです。

江戸末期幕末の動乱を経て、お地蔵さんと共に天女の石碑も時代の流れを見てきました。
古い三春広報コラム古蹟漫歩「馬場の天女碑」参照

「武士はお謡(能謡曲)、町人は浄瑠璃(文楽の歌)で日本語の教範としていた」

この国のかたち 司馬遼太郎の言葉より

蒼龍謹白  さすけねえぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:06 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺308号 平成版古蹟漫歩 「八幡町末江戸街道の古蹟」 平成29年3月発行



平成版古蹟漫歩 「八幡町末江戸街道の古蹟」

三春城下入り口の一つ江戸街道は、江戸時代初期の寛永年間に時の三春城主松下長綱(当時の三春3万石)が三春城下の中世城下町から近世の城下町への城下整備の中で開かれたもので、この地方で最も古い街道筋でした。

その後、幕末まで秋田家五万五千石の歴代藩主が、参勤交代の為江戸、三春間の往来を続けて来た道です。

街道は、城下八幡町末の郭外、現在の踊り場から、ヘアーサロン「アクト」と曾田石材店の間を抜け、桜川にかかる旧八幡下橋を渡って八幡様の参道下に出るという、城下町独特のカギの字の道で、今とはちょっと違う道がありました。

因みに、江戸時代の城下絵図を見ると、八幡町から踊り場までの道筋は、三春大神宮前を桜川に向かって左に折れ、大神宮下の神明橋の手前を右折、川沿いに進んで、法華寺下を右折すると、城下郭内と郭外分ける「郭境黒門」がありました。

この黒門を抜けて武田酒店に向かって踊り場に出るといった、ここもカギの字の道筋となっていました。

さて、江戸街道は、現在の並松の旧道坂道を上り、今のバイパスを突っ切って、丘を越えて沼之倉団地入口の向え側、大幸建築作業の横を通り、いわゆる鷹巣街道の出るようになっていました。昔は、並松の地名の由来にもなっていますが、あの坂道の両側には、城下町の入り口らしく松並木が繁っていたと伝わっています。




坂を上り詰めた辺り(現牛舎小屋付近)は、安達太良から吾妻にかけて、奥州連山の白雪が眺められ、遠望の良い場所ですが、江戸後期には「大砲場」と呼ばれていました。
大砲場は、江戸末期の安政の頃、城下北町に屋敷を構えた三春藩士熊田嘉膳(くまだかぜん)淑軒が、8年間、水戸史観・尊王攘夷論の本拠地である水戸藩に留学して習得した反射炉による西洋式の大・小砲製作研究の成果を実験した場所です。
造った大砲を、大砲場の高台に据え、藩主以下家老重臣視察の中で、熊田の指揮により、鉄砲鍛冶師町田貢(北町)が火縄に火をつけ発射!“轟音”が山野に響き渡り、砲弾は西北方向の雲間を縫い平沢の水田に達したといいます。

大砲場から、300米ほど先に行くと、藩庁時代の御仕置場があり、罪人を渡らせた“涙橋”、そして南無阿弥陀仏の六文字を刻んだ供養碑など、雑木林の中に埋もれています。




さらに、もう少し進むと沼之倉山、ここから明治の初年に旧制安積中学(現県立安積高等学校)建築の用材木を切り出したと記録されています。

その付近(現白山荘)の山裾に、白蛇石と呼ばれた大石が、二重に街道に突き出ていました。当時通行する人々は、白蛇が出るといって近寄らなかったといいますが、数度の道路拡張により今はその痕跡を残してはいません。

尚、その先には、御小屋跡があり、参勤の長の道中は、略式の旅姿で旅程をこなしていた殿様以下の隊列が、三春城下の出入り口につけ、ここで仕度替えをして、正式なお姿にて行列を整えて、お国入りしたとされます。

その付近にあったという“天狗橋”も、今は見当たりません。お殿様のお通りとなれば、磐城守山藩(現郡山市田村町守山)境まで、村人総出で掃き清め、奉行役人の下見検見まであったと記録されています。




因みに、三春城下から江戸愛宕下(西新橋愛宕)三春藩江戸藩邸まで参勤の工程は、並松坂~沼之倉~当蓮寺坂(鷹巣手前にあった寺、現在廃寺)~鷹巣~一里塚~ 大井戸清水~蒲倉~荒井~赤沼~守山(松平大学頭二万石城下)~須賀川~笠石~久来石~矢吹~不間瀬~太田川~作山~喜連川~氏家~白沢~宇都宮(宇都宮丸屋小平方が藩の定宿)~雀宮~石橋~小金井~小山~間々田~野木~古河~中田~栗橋~猿手~松戸~粕壁~越貝~佐岡~千寿(現千住)~今戸橋~浅草御門~塩留橋~本所~日本橋~京橋~尾張町~愛宕下三春藩邸。  


    

蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:40 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺307号 平成29年2月号 「平成版三春怪奇説・佐塚様の老猫」


塵壺平成29年2月号 平成版「三春怪奇説」佐塚様の老猫

2月22日(にゃん・にゃん・にゃん)は猫の日だそうです。
昨今は空前の猫ブーム!ネコノミクスなどと言う言葉も生まれるなど、癒しの存在として猫好きの人が増えているようです。

そのような流れに逆行しますが、三春には「化け猫」の話がいくつか伝わっています。
江戸期のお家騒動絡みの話がほとんどですが、明治以降に作られた話です。

明治維新後、三春町民は、不安な世情と大火や大雨など天変地異から、憶測が憶測を呼び少しずつ物語が作られていったのでしょう。





 三春藩のお家騒動に絡む“化け猫話”に「腹切り梅」の話がよく取りあげられます。
しかし、このお家騒動は、享保年間に発生し、天明の「滋野火事(怪猫騒動)」の大火までは70年。
また、明治の大火での化け猫騒ぎまでは、なんと170年という時間が経過しています。この時間差に因果を求めるのは無理な話ですが、世情不安のなかで人々は不安を抱き、悪役を作りたかったのでしょう。
化け猫伝説は、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。



下記は、その化け猫伝説の一つ「佐塚様の老猫」という古いお話です。
町役場の南、三春町民俗資料館付近は、桜谷と呼ばれています。
あの高台は、旧藩時代の武家屋敷で、佐塚(秋田)様と云われた秋田廣記500石の家老屋敷がありました。
 佐塚家では、犬を二匹飼っていましたが、猫は絶対に飼わないという家でした。
江戸中期元禄の頃、当時は佐塚家には幾年重ねたかわからない老猫が飼われていました。
いつからか、昼間はゴロゴロとして寝姿ばかり見せていましたが、夜になると、どことなく姿が消えるようになりました。

ある年の5月、佐塚秋田家の若党権助が主用で江戸表に行っての帰途、磐城守山(現田村町守山)から赤沼、鷹巣を過ぎ、今の貝山古内集落に入ったのはとっぷりと日も暮れたころでした。
その道端に当時大きなモチの木があって、その繁った枝が道を覆い昼間でも薄暗く気味の悪いところだったといいます。
気のせいか、急に暗さが増したと思ったら、前の方から無数の三毛猫の群れが、こちらの方を向いて押し寄せてくるではないか・・・
驚いた権助は、逃げ場を失い、傍らのモチの木によじ登ります。
よく見ると、猫の群れの中程に、主家の御老母さまが居るではありませんか!
しかも、御老母様は、鋭い爪を立てて権助めがけて迫ってきます。




権助は、とっさに道中脇差を抜いて、老母の左肩を一突きします。
すると、「ギャー~!」と激しい一声を残して、老母も猫の群れも一瞬で跡形もなく姿を消してしまいます。

それから、半刻して桜谷の主家へ帰宅すると、今起こった恐ろしい出来事を主に打ち明けました。
主に今しがた御老母様は「肩が痛む」と言っていたと告げられます。

よく朝、佐塚家の老猫が、姿を現すのを待って戸を開けたところ、老猫は物凄い形相で飛び出し行方をくらましてしまいました。
それからというもの、佐塚様では猫を飼わない家となったと伝わっています。




三春での化け猫伝説をこういう話の集大成ではなかったと想像力を膨らませています。
また、三春では、昔から猫の出し物の演芸が行われないといわれています。




    蒼龍謹白  さすけねえぞい三春!   拝


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:06 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |