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塵壺317 平成版三春城下古蹟漫歩「不動山」 平成29年12月号




平成版三春城下古蹟漫歩「三春城下不動山界隈」

「不動山」とは、三春城下中心部大町から後免町に位置する小高い石山です。
 戦国時代の天正3年、三春城最初の城主田村義顕が、同地に清水寺を建立し、ご本尊の揚栁観世音菩薩と不動明王尊の二像を安置します。このために「不動山」と呼ばれたとされています。

 また、奥之院には千手観音を安置したと伝えられ、仏像はいずれも木造で室町中期の作と推定されています。
清水寺は、戦国の田村家から松下家、そして江戸期の秋田家と歴代三春城主が信仰するところとなり、江戸期の記録を見れば三春秋田家三代藩主秋田輝季候は、石高8斗7升9合を寺領として寄進しています。
尚、安永9年火災によって本堂が焼失しますが同年中には再建されています。
 

時は下って、明治維新後の明治2年には神仏分離・廃仏毀釈などにより廃寺となり、同年7月2日の夜、盗賊が押し入り観音堂の扉が破られ仏像はことごとく持ち去られ以来行方が分からなくなっています。

この清水寺は、明治の終わりごろ三春城下大町の回春堂橋元柳平氏がその荒廃を見かねて不動山から芹ケ沢公園に移築して、田村三十三観音の一番札所「無量庵清水寺」址となっています。
 かつては、田村三十三観音の札所として、庶民の信仰を集めていた不動山麓の清水寺山内も、今は山頂の畑地と後免町の上がり口階段に、往年の姿を偲ぶだけとなっていましたが、現在は“不動山散策路”が整備されており、途中には石仏の欠片らしき石などが半分顔をのぞかせていたりして散策を楽しめるようになっています。

戦前まで、不動山西側の麓にはうなぎ料理で有名だった「たま川」(佐々木氏)の建物がありました。
 この敷地は、戦国時代末の天正18年から寛永4年までの40年間は、会津蒲生、会津上杉、二本松加藤と三春を兼領した歴代の代官所が置かれていた場所で、江戸期には旗本秋田氏の代官所となっています。

 この旗本五千石秋田淡路守家は、三春秋田家二代藩主秋田盛季が、幕府規定の「後継者なしの場合は領地召し上げ大名家廃絶」という厳しい禁令の対策として、弟の秋田熊之丞季久公に、七ヶ村五千石を分割し、いわゆる大名分地とし創設された徳川旗本家です。
 この時に三春領からの分割された村は、丹伊田・富沢・荒和田・大倉・新舘・石森(分村)・つくも田の各村となります。

 五千石秋田氏の殿様は、徳川直臣旗本で江戸常駐「定府」となります。江戸屋敷は築地本願寺の西手にあり、領主五千石秋田氏が領地に赴任することはなく、三春城下不動山麓にある不動橋の坂付近に代官屋敷を構えて代官一人が常駐して所領を管理していました。
尚、その代官は、淡州様代官(初代季久官職淡路守にちなんだ通称)と称されていました。

 明治維新、江戸幕府瓦解の後、五千石の領地を召し上げられ俸禄を失った五千石秋田氏は、江戸を離れて三春へ帰藩し、幕末動乱の江戸で暗殺された小野寺市太夫の南町屋敷に入ります。

 慶応3年10月、藩重役の秋田斎、奥村清酒、小野寺金兵衛らが、藩士渡田虎雄の周旋でフランス商人と絹や和紙等の商いをしますが、不慣れな武家商売ですので祖語をきたし契約不履行となり、国際訴訟事件にまで発展します。
驚いた三春藩では、藩費をもって決済し藩の関係者を厳に処します。

 時の江戸留守居役が齢70余の年寄目付小野寺市太夫でした。
 市太夫は、幕末混乱から戊辰戦争の最中には三春藩江戸藩邸を留守居役として預り、上記の不祥事から渡田虎雄らの逆恨みによる私怨により襲撃され非業の死を遂げています。   

  古い広報三春内コラム古蹟漫歩「不動山」参照

     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!   拝






三春昭進堂のクリスマススペシャルケーキ!
5号生クリーム・チョコ生(4名様用)イチゴ5個 3000円税別 
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ご予約をお待ちしています。



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| ryuichi | 05:38 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
「三春今昔物語 三春城下荒町界隈」 塵壺第316号 平成29年11月発行



塵壺第316号 平成29年11月発行

三春今昔物語 三春城下荒町界隈
三春城下の荒町は、明治に“郭境門”が撤廃されてからは、旧町内では一番広い地域を占め、旧藩時代から明治大正にかけて製糸工場、羽二重工場などもあり商工業が盛んなところでした。

日向町、前の三春中学校敷地跡にあった三盛社は、当時女工員150名を使って操業し、県下でも二本松の双松館と一、二を争う機械製糸工場として聞こえたものですが、先の戦時中に閉鎖してしまいました。

荒町本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、華正院、馬頭観音等が立ち並び、寺町を形成していました。

高乾院や龍穏院は藩主秋田家の菩提寺、家老など藩重臣やそれに付随する家臣の墓所でもあり、藩政時代、お盆の墓参には、家老から軽輩まで、それぞれの格式で行列を組んで墓に参っていました。
この場合、当時の町屋の者はその行列に遠慮して、通り過ぎるのを待って墓参に行く有様で難儀をしていました。
 今に伝わるお盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、こうした混雑を回避する為の日程調整でした。

三春藩主秋田家菩提寺の高乾院は、臨済宗の寺院で、ご本尊さまは室町時代の木造釈迦如来坐像、本堂脇の石段を登った秋田家墓所には、歴代藩主や妻子の墓石が立ち並んでいます。

同じく藩主菩提寺の龍穏院は、秋田氏の三春入部に伴って常陸宍戸(現在の茨城県笠間市)から移された曹洞宗の寺で、本堂は14間に7間半の総欅造りの豪壮な建築で、戊辰戦争では官軍の病院として使用され山内には官軍兵士の墓があります。
その後には自由民権運動の拠点となった三師社が置かれました。
また、本堂裏には宍戸より運んで来た秋田家尊霊塔や三春藩主の中でただ一人同寺に埋葬された8代藩主謐季公の墓所があります。

法蔵寺は、鎌倉時代中期の正応2年開山と伝えられる時宗の寺で、本尊は江戸時代の木造阿弥陀如来坐像、その中に鎌倉時代に作られた胎内仏が納められています。また、木造延命寺蔵立像は甘酒地蔵として信仰を集めています。

馬頭観音は、戦国時代の三春城主田村家三代の清顕が安置したというから約500年も昔からありました。小野の東堂山、堂坂(現郡山市富久山町堂坂)と共に“三観音(馬頭観音)”と呼ばれて庶民の信仰を集めていました。
毎年旧暦の3月17日の縁日には、近郷近在から仔馬の出来た飼主たちが多数参詣して、餅を巻いて無事成長を祈願していたそうです。

光善寺は、江戸時代初期の慶長9年に開かれた浄土真宗の寺で、ご本尊さまは阿弥陀如来です。本堂の欄間を江戸時代後期の白河藩の絵師蒲生羅漢の筆による天女図が飾っています。

荒町口から入る城下への街道は本宮口と小浜海道口がありました。
本宮口は、大正三年の磐越東線開通とともに三春駅が出来てその様が一変します。

また、小浜海道口の方は、二本松領川東三万石の小浜・針道方面との物資輸送、羽二重の川俣まで生糸を運ぶ外、馬、繭、葉タバコなどを荷馬車やトラックで運送するために、今の渋池通りの中ほどから上り二折れしていた道を、現在小浜海道である旧三春中学校西側に沿うように道路を作り直します。
以後、交通の利便性を図って往来がスムーズになり三春城下の発展に寄与しています。
昭和30年代の広報三春内コラム参照

蒼龍謹白 さすねぇぞい三春!   拝







 『真照寺ライトアップコンサート』

 旧三春藩主祈願寺の方丈庭園がライトアップされて、幻想的な雰囲気の中でのコンサートが開催されます!

 平成29年11月12日(日)
 時間: 開場16時30分  
     開演17時(18時40分終演予定)

 場所:真言宗智山派 日乗山 真照寺

 前売2000円  当日2500円

 前売チケットご予約yukazou1@gmail.com





 お問い合わせ 0247622705(真照寺)

 ※中学生以下入場無料(要学生証提示)

出演・小川ロン さすらいの吟遊詩人 
  ・MANAMI  酪王カフェオレのCM曲
  ・パイナップル独りウェイ 西田町在住

 出店:三春昭進堂

 主催 真照寺 エスコートYuka Igarashi







「三春城下紅葉ライトアップ」
三春城下旧三春藩主秋田家祈願寺真照寺庭園回遊式方丈池、旧三春藩総社三春神明宮(三春大神宮)のライトアップが始まりました。

時間:午後6時~午後9時

 息をのむほどの美しさに、真言密教でいう金剛曼陀羅の世界を見るようです。

暖かい恰好でお出かけください。




春陽郷三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:48 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺315号 平成29年10月発行 三春今昔物語平成版「三春城下中町の巻」




塵壺315号 平成29年10月発行 三春今昔物語平成版「三春城下中町の巻」

三春今昔物語平成版「三春城下中町の巻」

三春城下中町は、旧藩政時代から大店が店を構え、商売で繁昌してきた商人の町です。
 毎月の2と7のつく日には“市”が立ち、折り返し糸や葉たばこなどの農産物から、鎌や鍬などの農耕器具、工芸品、そして茶店などが出店していました。

中町本通りには、本陣本店川又氏、桐屋橋本氏、小野屋橋本氏、桑原商店桑原氏等々、幾百年か続いた老舗大店が軒を並べ、県下一の商都として栄えていました。

御免町は侍屋敷で、小堤氏、熊倉氏などの武家屋敷立ち並んでいました。
その御免町から裏町へ抜ける通り、旧代官町には、昭和の初めまで料理屋を営んでいた「玉川」(佐々木氏)でした。

この場所は、江戸時代初期に松下公が三春城主になるまでは、当時三春を治めていた会津120万石所領時代(約70年間)の代官所のあった場所でした。
後の秋田氏藩政下では、旗本五千石秋田氏の代官所となり淡州様代官(初代季久の官職淡路守のちなんだ通称)と称されます。





旧小野屋角から、職人横丁への道の途中の小路には士族と町衆の牢屋がありました。

馬場、尼ケ谷全域は、藩政時代には御厩(うまや)があり、百間馬場が整備され藩士の乗馬鍛錬場がありました。
毎年春には“馬場ノ桜”が見事に咲き誇っていたといいます。

 旧三春藩総社であった三春大神宮は、貝山岩田地内より元禄2年に、現在の場所である「神垣山」に遷宮されます。
 後に明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈、さらには明治の中ころの大雨による土砂崩れなどにより廃れていましたが、昭和6年に当時厄年だった壮年有志の皆様の手により幣殿拝殿の再建拝されました。
 このとき、社殿周辺の敷石や基礎の用いるために当時の三春小学校児童約1700名と教職員は、町内を流れる桜川から川石一人二個を拾い境内に運び上げたと三春町史は伝えています。




 玄侑宗久さんが住職を務める福聚寺は戦国時代の永禄の頃に、日和田三丁目から移され、戦国期の三春城主田村氏田村義顕、隆顕、清顕三代の菩提寺です。

また、前記の代官町玉川の隣地には、お不動山と呼ばれる小高い丘があり、不動尊を祀った清水寺がありました。

 馬場御厩跡には、明治12年には旧士族たちが交付公債出資で製糸工場「厚生社」を創立しますが、士族の商法で事業不振になり、同32年には「三盛社」(日向町にあった前の三春中学校の場所)に合弁されます。

 今の愛宕下の「清酒三春駒」の“佐藤酒造”、以前は“金かぶ酒造”でした。
それ以前は「清酒白つつじ」の“緑川酒造”で、大越伊勢屋の「清酒菊水」とともに、商都三春の銘酒として、中通りのみならず、浜通りの方々にも愛飲されていました。

 明治36年当時の記録によると、田村、安積、安達の三郡酒造醸造連合共進会に於いて「菊水」が一等賞に輝いたとあります。
現在の中町公民館が立つ、旧ベニマル跡地には、かつて田村郡蚕連事務所があり蚕・繭の市が開かれていました。
 これは、大正14年旧三春馬車鉄道会社跡に、三春銀行頭取・山三渡辺商店の社長である渡辺平助氏などの尽力により創設された繭市場の建物でした。

 昔から谷間に開けた三春城下では大火の多い場所でした。
 城下中町も、不幸にして明治になってからも39年と43年の2回大火に遭遇してしまいます。

尚、今の中町本通りの道幅は、この大火の後に拡張された道幅となっています。

  古い三春広報内「三春今昔物語中町の巻」参照


            蒼龍謹白  拝  さすけねぇぞい三春!

| ryuichi | 05:12 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺314 平成29年9月号「柳橋歌舞伎」 平成29年度定期公演




塵壺9月号 №314

「柳橋歌舞伎」 平成29年度定期公演

「問われて名乗るもおこがましいが~」
ご存知白浪五人男・鎌倉稲瀬川の場より日本駄エ門の台詞はどこかで耳にしたことが一度はあるんじゃないでしょうか?

初秋の風物詩「柳橋歌舞伎」が柳橋歌舞伎保存会と柳橋町内会、そして郡山市立御舘中学校の生徒によって同伝承館にて開催されます。
子供から大人まで練習を重ねた役者や囃子方の義太夫や三味線は勿論、舞台セット、台本や化粧、そして衣装・着付けにいたるまで総勢百名を超す柳橋地域を挙げての大舞台です。

夜の帳が降りる頃になると会場は詰め掛けた大勢の地域住民や観光客などの見物人が、拍手やかけ声、おひねりを送って大変な盛り上がりを見せます。

柳橋歌舞伎は、農閑期の楽しみとして旅役者に教わった歌舞伎・義太夫や三味線などの芸事が盛んに行われ、柳橋菅布禰神社秋の祭礼の折、五穀豊穣の御礼にこれらを奉納しては村人皆で楽しんでいたことが始まりになったといわれています。

江戸時代この柳橋地域は江戸徳川幕府直轄領の天領で、他の藩地に比べて領主の介入、そして年貢の取り立ても比較的おだやかであったため生活にゆとりがありました。
また、役人の数が少なく、取締りをほとんど受けることなく芸事ができたため、娯楽としての農村歌舞伎が現在まで伝わったと考えられています。

江戸時代末期になると、歌舞伎興業となり、他領にいって上演されるようになりますが、明治維新後、時の政府は芸能の興業を取り締まったため興業は行わず菅布禰神社秋の祭礼のみに盛大に奉納されるようになります。

明治20年代以降は、日清、日露戦争などがあり、出演者不足などで中断せざるを得なくなります。
しかし、大正5年、宗像平吉、宗像亀佐、宗像武男等は祖先から伝わる歌舞伎を絶やしてはならないと「柳橋歌舞伎研究会」を結成し、尾上幸三郎(白河)を振付師匠に招き、竹本藤太夫(木目沢地区、藤宮源太郎)の指導で上演を再開します。

昭和47年、音曲担当者がなくなり伝承困難になりますが、柳橋歌舞伎は脈々と続けられ、昭和55年には柳橋地区全戸が「柳橋歌舞伎保存会」会員となり、古のように菅布禰神社の祭礼に上演して以来今日へと続いています。

昭和58年3月には「柳橋の歌舞伎」として郡山指定重要無形民俗文化財に指定、平成15年5月には、江戸時代から受け継がれてきた衣装を含めた歌舞伎衣装17点が、重要有形民俗文化財に指定されます。
現在演じられる演目は、絵本太功記・義経千本桜など、13題を数えます。(柳橋歌舞伎保存会パンフレット参照)

尚、10月には、御舘中学校「みたて祭」があり、生徒による柳橋歌舞伎の発表があります。ここでも役者や三味線、そして裏方の解説や化粧にいたるまで生徒がすべて行っています。
美しく豊かな自然、そして伝統と文化を誇る柳橋。表舞台のお芝居も舞台裏も、郷土を愛し、伝統芸能を愛しこれを継承発展させたいという柳橋住民の熱意と努力そして、汗と笑いと涙ありの人情によって受け継がれ柳橋の自慢となっています。

同日開催「秋蛍~海老根、長月宵あかり~」海老根和紙漉保存会がお送りする手漉き和紙で作られた灯ろう約1000個が会場周辺に並べられ、夕闇の中350年の伝統の和紙で綾なす柔らかい明かりは“秋の蛍”のように彩を放ち海老根を幻想的な雰囲気に包んでくれます。
海老根手漉(す)き和紙は、中田町海老根に江戸時代から伝わる伝統の和紙で、一時は途絶えましたが平成10年に海老根伝統手漉き和紙保存会により復活しました。
合掌 さすけねぇぞい三春! 蒼龍謹白 拝







・「柳橋歌舞伎」 平成29年度定期公演 

柳橋歌舞伎保存会

平成29年9月17日(日) 午後3時開演 午後4時開演
会場 柳橋歌舞伎伝承館(郡山市中田町柳橋字町向·黒石荘)
演目一、白浪五人男 稲瀬川勢揃いの場 (御舘中学校生徒)
二、義経千本桜 伏見稲荷鳥居前の場 (御舘中学校生徒)
三、神霊矢口渡 頓兵衛住家の之場 (柳橋歌舞伎保存会研究部)






・「秋蛍~海老根、長月宵あかり~」 海老根伝統手漉和紙保存会

日時 平成29年16日(土)、17日(日)午後6時から午後9時まで

会場 中田町海老根伝統手漉和紙工房周辺及び柳橋歌舞伎会場周辺




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:50 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
「綾小路きみまろ笑撃ライブ2017 IN 三春!」~満員御礼!



 「綾小路きみまろ笑撃ライブ2017 IN 三春!」~満員御礼!

(協)みはるスタンプ会の設立25周年を記念して行われた「綾小路きみまろ笑撃ライブ」は、満員御礼にて大盛況の内に無事終了することができました。

 ご来場いただいたお客様にはスタンプ会一同より、御礼申し上げます。

また、このイベントをサポートしていただいた綾小路きみまろ事務所、そして三春町等の関係各位に御礼を申し上げます。



 

みはるスタンプ会が協同組合化25周年の節目として、日頃よりご愛顧いただいているお客様への感謝の気持ちとして行った事業です。

 公演告知やチケット販売の手法の切り替えで、お得意様への感謝の気持ち、そして新規お客様開拓など、実りの多いイベントとなりました。

終演後、会場から出て来られるお客様のご尊顔は…笑顔~笑顔~笑顔!

「3年分は笑わせてもらったよ~ありがとう!」

「ありがとう!これからもみはるスタンプ会の加盟店で買い物すっかんねぇ~」等々…

会場から出て来られる笑顔のお客様は”ありがとう!”の言葉であふれ皆様大満足の様子でした。





 振り返りますと、一昨年前の理事会の折に「まほらの公演の協力はいいんだけど、スタンプ会独自の企画をやってみっちなぁ~!例えば無理だとは思うんだけど“綾小路きみまろ”クラスの誰でもが見たいと思うビッグゲストに来てもらったら面白ぃべなぁ~!」というある理事からの一声から始まりました。

 以来、人と人の繋がりやご縁などが重なり、三春城下に綾小路きみまろさんが来てくれることになりました。

客席の大きな郡山の文化センターを借りればもっと楽だったかもしれません。

 しかし、三春城下でやることに三春の商人としての粋張りや意義があると考えました。

 三春交流館「まほら」は客席404しかない小さなホ-ルです。まさかこの小さな会場に来てくれるとは、だれもが思っていなかったはずです。

 実際にお会いするきみまろさんは、テレビで観る印象と変わりなくとっても気さくな方で、公演前の忙しい時間にも係わらず私たちとの記念写真にも快くポーズをとっていただき、会場スタッフをお願いした美人女将さんたちを軽いジョークで笑わせていただきました。

 公演でもさすが当代一流の漫談師!満員のお客様を爆笑の渦に巻き込んでいました。

 今回の綾小路きみまろライブを三春城下でどうしてもやりたい!出来る!と強く願いその成功に向けた原動力となったのは約40年前、私が子供の頃に観た「ちあきなおみリサイタル」でした。





 三春中学校体育館に当時人気絶頂だった歌手がやってきて、それを観た感動と会場の熱気と興奮を今でも鮮明に覚えています。
 当時は子供でしたので三春の商人魂がみなぎったイベントだったとは知る由もありませんでしたが、その頃に労を重ねた先輩方の歳になって、あの時空を超えた感動をもう一度三春城下で!そして三春商人の心意気でお客様方に恩返しがしたい!

お陰様で、まほらホールの緞帳(どんちょう)に描かれている雪村筆 「馬」画の意味の様に「三春町民の皆様、そして商人のさらなる飛躍を祈念してのイベントにしたい!」との思いが実を結びました。

 また、私たちも、本公演を通じて人と人の御縁の大切さ、ありがたさを改めて学ぶことが出来ました。

今後ともお買い物はみはるスタンプ会加盟店でどうぞ! お客様のご来店をお待ち申し上げます。    




  ~笑って生きようよ~ 
一度きりしかないから、人生って素晴らしいんじゃないかと。
1回しか生きられないから、「一生」と書くんだと知りました。
それ以来、私はこの言葉が好きです。 
    綾小路きみまろさんの言葉より
        
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝

| ryuichi | 05:20 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺7月号「三春城下恵下谷(会下谷)天澤寺炎上!」



三春城下恵下谷(会下谷)天澤寺炎上!
 
三春城下清水にある天沢寺は、江戸初期の三春城主松下石見守長綱の時代には恵下谷(現三春城下南町の会下谷)にありました。

或る時、松下家の行く末を案じた忠臣が、殿様である長綱公の常軌を逸脱した日頃の言動を諫めようとして進言します。
しかし、石見守はこの家来の無礼を憤り手打にしようとして刀を抜きはらいます。忠臣は、周囲の者に引き立てられて慌てて逃れ菩提寺である天沢寺に匿れ、時の和尚はこれを庇護しました。





長綱公は引き渡しを下命しますが、和尚はこれを拒否して逆に長綱公の暴政や態度を戒め、政務を批判します。

長綱公は、怒って配下の手勢を率いて天澤寺の伽藍を焼払ってしまいます。

この暴挙に対し、曹洞宗大本山総持寺、永平寺ともつながりの強い和尚は“三春城主狂乱”と公儀幕府に訴えでます。
 早速公儀取り調べがあり、その他暴政も含めて乱心のかどで三春藩松下氏改易となります。

現在の天沢寺は、秋田俊季公入府後の慶安年間に三春城下清水に再建されました。

『恵下(会下)』とは”恵下(えげ)”とは高名なお坊さんに教えを乞うために会(参禅)する修行僧のことで、松下公時代の天沢寺までの道筋には、その修行僧が寝起きする僧堂があり、そのことが地名の由来とい伝わっています。

今は、かつてこの天澤寺があった場所の南の高台に、葛尾村住宅「恵下越団地」が整備され、国道288号バイパスに「恵下越」と記された看板が立っています。

恵下越?と三春の方でも初めて目にする地名ではないかと思います。


この恵下越の地名は、上記の天澤寺に由来します。




 もう一つ松下長綱公関連のお寺に御母堂様の墓がある亀井の光岩寺があります。 
 三春城下北町末亀井に、亀井清水井戸があり、その井戸を蔽う竹林の坂道を上ると、今は荒廃してしまいましたが光岩寺の堂宇址(どううあと)があります。



その山内には苔むした三春城主松下長綱公の御母堂の墓があり「月照院殿円宝宗弧大姉」と戒名が刻まれています。
この御母堂様とは、会津藩主加藤嘉明の息女で、長綱公の父重綱の正室でした。

 加藤氏は、はじめ甲斐の武田氏に仕え、後に三河に移って徳川譜代の臣となりますが、永禄七年、祖父教明の時に“一向宗の乱”があり、三河を去って尾張に赴き、当時の羽柴秀吉に仕えることになります。




 教明の子嘉明は、秀吉子飼いの武将と称される“賤ヶ岳七本槍”の一人で、伊予松山城四十三万石から、秀吉の命で北の要である会津四十五万石に移されたのは、寛永四年二月のことでした。

 これと共に、三春領は三万石として、嘉明の二男明利が入城します。
 それが、翌寛文五年には二本松へ移され明利の後任として、二本松より嘉明の息女月照院殿を母に持つ松下長綱が三春城主となり御母堂を伴って入城します。





 松下氏は源氏、名高い佐々木高綱の子孫で、碧海郡松下(現愛知県)に住み、松下と称します。
 松下嘉兵衛之綱の孫が重綱で、寛文四年に下野国烏山藩(栃木)から二本松五万石(当時)に移されて死去、同年長綱が家禄を継ぎますが、短慮で暴政を敷いたとして二本松領民に幕府に訴えられ、減俸されて三春三万石へ転封されたと伝わっています。





 会津藩加藤氏の与力大名である長綱公は三春城主となり、わずかな期間で近世城下町として三春城下を整備します。
 しかし、寛永20年(1643年)、会津藩主加藤明成が封地返上というお家騒動『会津騒動』で、会津領が幕府に収公されます。





翌正保元年に、切支丹(キリシタン)の嫌疑、そして上記のとおり乱心狂気という理由により、城地召し上げの上三春藩御取り潰し松下家改易となります。
後に、長綱公は、舅である土佐の松下忠義に預けられその地で亡くなります。

 松下家の菩提寺州伝寺には父である松下重綱の墓、そして御母堂様の供養寺光岩寺に墓はそのまま残りました。

尚、子孫は加藤氏を名乗り直参旗本となりました。





『真照寺アコースティックコンサート』

出演は、酪王カフェオレのCMソングや福島交通飯坂電車応援ソングでお馴染みのMANAMIさん、そしてクラスター・バンド“zero zero z”のボーカル&ギターで活躍しているERIKAさんの出演です。

日時 2017年7月22日(土) 場所 三春城下新町 真照寺
・開場18時・開演18時30分 (20時終了)
・料金:前売2,000円・当日2,500円※中学生以下入場無料(要学生証提示)となります。

◎前売チケットご予約yukazou1@gmail.com
◎お問い合わせ番号 09036478540(担当・五十嵐)

主催 STEP AGAIN~福島元気の響きプロジェクト




三春城下法蔵寺「蓮まつり」 

7月1日~30日まで、開催します。

山内にある蓮は自由にご覧いただけます。

観蓮無料です。

早朝が見頃です。

尚、山内休憩所(小書院)に蓮茶をご用意いたしています。

ご自由にお召し上がりください。


蓮まつり関連イベント

・そば打ち教室
日 時:7月16日(日)午前10時から(申込締切10日)
参加費:1,000円

・打ちたて蕎麦 試食会 16日午前11時から(どなたでも参加自由)

【観 蓮 会】

平成29年7月23日(日)早朝6時から

 ○早朝大茶会・・・蓮の花を愛でながら朝茶を一服。
 ○花架拳の舞・・・優雅な天女の舞をご鑑賞ください。
 ○象 鼻 杯・・・風流な蓮酒をお楽しみください。
 ○蓮茶、蓮おにぎり、蓮饅頭などご用意しています。






三春城下「ちゃっくら市」 毎月第3金・土開催 朝10時から午後3時位まで~

      
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


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平成版三春奇談 “お美代淵の由来”


塵壺平成29年6月号 №311

平成版三春奇談 “お美代淵の由来”

三春城下に初夏を告げる藤の花。
今年も、あちらこちらの山々に薄紫色の花弁を自然の風景と絶妙に溶け込ませながら目を楽しませてくれました。
また、藤花は振り袖姿の女性に例えている俳句があるなど、その姿や色合いから上品な印象を与える花ですね・・・

そんな藤の花と女性に関した悲恋話が三春に伝わっています。
三春城下から西に約一里。山田のバス停留所から200メートルほど西に行きますと道路が大きく曲がる辺りに、川の流れが渦を巻く小さな淵があります。
晩春から初夏の頃になると、藤の花が川面に美しく揺れている場所で、何時しか「お美代淵」と呼ばれるようになりました。

江戸中期、寛文の頃、鷹巣村のある庄屋に気立てが良く働き者の下女が住み込んでいました。その下女が、この“お美代淵”の名前の由来となる“お美代”です。
その当時、お美代は娘盛りの19歳の春を迎えました。そしていつしか恋を知りました。

相手は、同じ庄屋に住み込みで働く作助です。
二人は人目を忍びながら、嬉しい逢瀬を楽しんでいました。




ところが、そこに気立ての良い美代に恋を寄せるもう一人の男が現れます。
主である庄屋の家の次男坊である誠三です。
それとなく美代に言い寄りますが、美代はまったくなびかず心すら許しません。

業を煮やした誠三は、「可愛さ余って憎さ百倍」とばかりに、手段を択ばず理不尽な仕打ちをしますが、それにも抵抗し続けて操(みさお)を守り通します。
いつしか誠三は、作助と美代の間柄に感づきます。
そして、その年の暮れに庄屋である父親に、作助にあれやこれやとありもしない罪を告げ口をしたり、無実の罪を擦り付けたあげくとうとう解雇させてしまいます。
作助は、愛しい美代のことが気がかりでしたが、解雇となれば庄屋から去る以外になく、どうすることも出来ないまま、後ろ髪を引かれる思いでお美代の元を離れ、行方が知れなくなってしまいました。

後に残されたお美代は、執拗な誠三からの無理な求婚を拒み続け、片時も忘れかねる作助への慕情を秘かに温め続けていました。
翌年5月初旬、田植えも終わり一段落をした美代は、裏の水車小屋の傍らに立って、ぼんやりと川面に目をやっていました。

川岸には藤の花が真っ盛りに咲き競い、川面を薄紫に染めあげていましたが、川の流れがとろりと凪ぎてきました。
よく見ると、紫色の川面のその川底に、なんと恋い焦がれていた愛しい作助の姿がほのぼのと見えるではありませんか。
驚いた美代は、パット身をひるがえして水底に見える慕い人である作助の幻影めがけ身を投げてしまいました。

明治19年の郡山街道県道整備、大正3年磐越東線敷設、昭和になって国道288号線整備など、道路や河川整備工事が進み、“お美代渕”の川の流れやその形も変わってはいますが、幾幾年川岸にある藤の花だけは、時節になると川面を薄紫に染めて、お美代の悲しい恋色を伝えています。 

古い広報三春内「怪奇伝説 美代淵の由来」参照

春陽郷三春城下 三春昭進堂蒼龍謹白  さすけねえぞい三春!   拝




尚、三春スタンプ会主催「綾小路きみまろ笑撃ライブインみはる」二次チケット売り出しの日にちですが、平成27年と表記してしまいました。

これは誤りでした。平成29年6月12日(月)~です。

お間違えの無いようにお願いいたします。





真照寺方丈庭園「心字の池」に、可憐なスイレンが咲きはじめました。



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