CALENDAR
S M T W T F S
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
<<  2018 - 11  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




塵壺327号  「峠 最後のサムライ」 越後長岡藩河井継之助 平成30年10月発行
 


「峠 最後のサムライ」 越後長岡藩河井継之助

 幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩(現新潟県長岡市)軍事総督・非門別家老河井継之助を題材にした司馬遼太郎氏の名作小説「峠」が「峠・最後のサムライ」のタイトルで映画化することが発表されました。

監督は小泉堯史氏、2020年に全国公開。





河井継之助役には役所広司、妻・おすが役には松たか子、その他田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら豪華キャストが出演します。
私と継之助との出会いは昭和52年放送のNHK大河ドラマ「花神」でした。






幕末の戊辰戦争で最大の激戦を繰り広げた北越戦争。田舎の小さな大名長岡藩牧野家、しかも一代限りの家老継之助が「永世中立」を唱え“会津と薩長の仲立ちをして平和解決を目指す”という壮大な計画を企みます。

小千谷談判が決裂し平和解決が無理となるや当時世界レベルの軍事力にまで仕上げた長岡藩を率いて、徹底的に戦う姿に“カッコイイ大人”と思ったのが始まりです。






「峠 最後のサムライ」物語の舞台は、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜による大政奉還も奏上され、260年余りに及んだ江戸時代が終焉を迎えた幕末。
越後の譜代大名長岡藩牧野家は、継之助の指揮のもと藩行財政改革を断行して借財の返済、そして藩費貯蓄の増加を計ります。

また、当時世界で3門しかなかった最新鋭の「ガットリング砲(機関砲)」そして、元込式標準器付きの螺旋銃 「エンフィールド銃」等、世界でも類を見ない武器と調練によって最強の精鋭部隊を組織していました。








その武力を背景に内戦の無意味さを訴え永久武装中立を主張、そして戦争回避のために薩長土肥を中心とする西軍と会津藩を中心とする東軍の停戦調停の仲立ちを企てます。

しかし、東西両軍からの各種妨害工作によって結果的には東軍に加盟し西軍と対抗する道を選んだ継之助の生涯を通じて“「サムライ」=日本人の生き方”“リーダーとしてのあるべき姿”を問いかけるという作品です。






 この幕末明治初頭の混乱期、内戦の無益さと欧米列強の内政干渉による危機感、そして、国益損失を政治的に考えられたのは勝海舟と継之助だけだといわれています。

継之助は、独自の近代的な発想とその先見性をもって戊辰・明治の混乱が終わるまでは長岡藩七万四千石を、欧州におけるスイス国のように一つの中立国家として独立することを目指していました。






 奥会津の只見町には立派な河井継之助記念館があります。

 北越戦争で薩長等の西軍との戦いで奪われた長岡城を再度奪い返すなど約三カ月に亘り激戦を繰り返す中、継之助が足に銃弾を受け重傷を負ってしまいます。軍事総督が倒れた長岡藩は、抵抗むなしく敗走となり長岡から”八十里峠”を越えて会津若松城下を目指す途中、この只見・塩沢の医師矢沢宗益宅で亡くなりました。

塩沢についた継之助は、追撃する西軍が迫る中、自身の死を悟り、下僕の松蔵に棺桶と薪を用意させ「自分の亡骸を西軍に渡して成らぬ・・・」と云い残し、燃え上がる薪を見つめながら息を引き取ったと小説「峠」では締めくくられています。


30年位前に私が初めて訪れた時には、まだ矢沢医師の子孫である強面のおじいさんが、只見ダム建設に伴う川増幅移転の際に「河井継之助終焉の間」を自宅横に移築して細々と個人記念館として開館していました。







遺品や説明のパネルが並ぶその「終焉の間」は、小説「峠」に在る河井の終焉の場面で、“矢沢宅の隠居で、天上を眺めていた・・・涙が一筋~”という下りを真似して、ちょっと横になったらそのまま寝てしまい、矢沢さんに夕食をごちそうになった事が思い出されます。






店のチラシ「塵壺」も「菓匠蒼龍」もさらにペンネーム蒼龍も、この河井継之助の遊学旅日誌や雅号からというのは言うまでもありません。







   蒼龍謹白  拝  さすけねぇぞい三春!  




本号の中で、十三夜月見団子の表記が間違っていました。

正しくは、十三夜月見団子 13ケ入れ 650円(税別)です。





| ryuichi | 04:43 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺326号 三春城下のお葬式 監修 株式会社菊川屋 内藤忠 平成30年9月発行





       三春城下のお葬式        

監修 株式会社菊川屋 内藤忠 

 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。 死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難から逃れる妙法にて候」

越後の禅僧良寛和尚が友人へ出した見舞の一文です。

 「人として生まれたからには四苦八苦からは逃れることはできず、目をそむけず、あるがままに受け止め、その時々に自分が為すべきことをただ精一杯に為す」という禅の教えだと解していますが、近親者など親しい人の葬儀や法事なども為すべきことであり、その送り方で自身の生き方を見つめ直す機会になっているようにも感じています。


 三春城下でのお葬式は隣組で取り仕切り、葬儀の日程は遺族と隣組長が相談して「友引」と「寅の日」「三隣亡」を避けて、お寺さんや火葬場の都合と照らし合わせて決定します。

 「友引」は友をあの世に一緒に連れて行くとされ、「寅の日」は「寅は千里行って千里帰る」と言われたことから死者が成仏できずに帰って来るとされています。

また、三隣亡(さんりんぼう)凶日として「この日に事を行うと3軒隣まで亡ぼす」という各種行事が避けられていました。

 お葬式ができると、故人の近しい方々や、字内の方々などに葬儀の日取りを知らせる為、 「告げ人」と呼ばれる方々が葬儀の知らせ配りをします。

 「告げ人」は昼間に必ず二人一組(一人は立会人)で歩き、死霊への恐れから決して後ろを振り向かず、尚かつ寄り道をしないと云う慣習が残っています。

お葬式を「ザザンボ」と云うのは、忌・隠語なのでしょう、埋葬・野辺送りの葬列時の先頭にたつ妙鉢の音(ジャン~ジャン~ボー)からの造語からきていると考えられています。






また、三春城下ならではの風習として「差重(さしょうもり)」と称される知らせがあります。

差重とは、その家や故人と特に親しかった方々へのお知らせで差重を受けた人はすぐに駆け付け葬儀の手伝いをします。

本来、差重とは「病い差し重り、お知らせ申し上げます」という意味で、危篤の人を見守るということから差重と呼ぶと伝わっています。     

納棺は、棺の中にサラシの蒲団を敷き、着せる着物は白いサラシの行衣(ぎょうい)で、近親者や近所の女の人たちが手縫いしていました。
この時ハサミや物差しを使わず、サラシを目分量で測り、手で裂いて裁ちます。そして、返し針をしないで玉結びをつけない白い木綿糸で縫い上げます。

これらは、日常忌まれている行為で、行衣は、たたまずに死者に着せることから、日常の生活では「洗濯したものは、一度もたたまずに手を通してはならない。必ず一度はたたむように」と忌を嫌ったと云われています。





仏教思想の浸透から、死は十萬億土への旅立ちだと考えられていて、手甲、脚絆に草鞋(わらじ)女には草履を履かせ、頭陀袋を首からかけます。

頭陀袋には穴あきの六文銭を入れていました。現在では六文銭と紙に書いて入れていますが、本来六文銭とは「死者の小遣い」とも、「三途の川の渡し賃」だとも云われています。

 額には、白いサラシを三角状にして鉢巻きのようにしてつけます。

棺には故人が生前好んだもの、女の場合は櫛や化粧道具など、男の場合は筆やお茶などをいれます。

また、死者の手には数珠を持たせ、脇には金剛杖をおき、死者が動いたりしないように籾殻を詰めた紙袋を入れていました。
 

棺の蓋を閉めるのは出棺前に行い“これから閉める”という触れを出して六尺役の人々か、近親者が小石で釘を打っていました。
小石で打つのは、小石は三途の川の石を意味していて、三途の川を無事に渡れるようにとの思いを込め行うものです。

 出棺は、縁側から送り出し、二度と帰れないという意味を込めて故人の茶碗を割ります。

六尺(ろくしゃく)とは陸尺とも書かれ、その昔、縦棺(座棺)の幅が二尺、深さ四尺の樽で併せて六尺から来ている説と、土葬の深さが六尺だったからと言う説が残りますが、本来は力車(りきしゃ)からの訛りで、故人の棺輿を担ぐ者という意味からだとされています。
古くは、棺に蓋をしてから、きれいな模様の入った布で棺巻きをしていました。

この棺巻きで使った布は埋葬のお礼として六尺の方々に配られたと云います。




竹などを弓状に曲げて作った「仮門(かりもん)」を玄関の脇に用意し、出棺の際、棺や葬列をくぐらせる風習が残っています。
これには死霊との別離を確実にするといった意味が込められており、出棺後にはすぐに壊します。

こうすることで、もし死者が戻ろうとしても、この世とあの世の境になる門がないので、この世に帰って来られないと考えられています。
また、農村部などでは、「仮門」を燃やす「門火(かどび)」を焚く地域もあります。

「門火」をたくことで、故人が迷うことなくあの世へ行けるようにという思いが込められているそうです。


三日七日法要後のお斎、所謂 精進落としとも精進上げともいわれています。

三春城下では、三日七日用の引出物を別に用意してあり、御膳には刺身や肉などの生臭ものも解禁となります。

この時、『お開まんじゅう』と「三角油揚げ」が用意されます。

三春城下には寺社が多くある関係から精進料理と結びつく饅頭屋と豆腐屋が多くあり、その名残とも考えられています。




忌む(いむ)「忌」というのは、「きらい避ける」「遠ざける」という意味があります。

喪中も忌中も故人を追悼し身を慎む期間とされています。
これは親族に不幸があったことで元気がなくなり「気枯れた状態」なので外の人たちと接触しないで慎みなさいという強制の意味を持ったものが「忌」なのです。





三春町史参照  
                蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝



塵壺326号に追記


| ryuichi | 04:13 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺325号平成30年8月 奥州三春「古四王堂」震災復興再建“平成の大改修”真照寺山内




奥州三春「古四王堂」震災復興再建“平成の大改修”真照寺山内

三春城下新町にある旧三春藩五万石安東・秋田氏祈願所「東門院日乗山真照寺」の山内に鎮座する「三春古四王堂」の“平成の大改修”工事が始まりました。





三春古四王堂は、正保2年(1645年)秋田俊季の奥州三春移封の際には旧領の常陸宍戸(茨木県笠間市友部)に残されますが、慶安3年(1650年)、三春二代藩主盛季によって祈願所真照寺と共に古四王を祀る御堂も三春に遷されます。真照寺は三春古四王堂の“別当(管理長官)”です。






三春移設当初は三春城下清水”天狗谷”にあった愛宕権現堂の地に移設して御借屋を建立したと記録されています。

現在の古四王堂は、正徳2年(1712年)に三代藩主秋田輝季によって再建されたもので、その御堂は、北面に建てられており建設当初は宝形造であったと思われ安東焼の流れを伝える丈六焼の宝珠が残されています。






また、正徳の再建では入母屋造となり縁が三方に廻されます。
その後、長い月日の中で数度の補修が加えられ、昭和30年代になって茅葺を現在のトタン葺きに改修されています。









この古四王堂も300余年という年月の中で風雨雪、そして先の東日本大地震にも耐え抜きましたが、老朽化と震災の影響により満身創痍、建っているのがやっとという状態で何年も耐えてきました。

今回、檀信徒の皆々様の復興への願いが叶い改修の運びとなりました。







古四王は、平安時代以降神仏習合の中で帝釈天とその守護四天王を祀り、特に北方を守護する毘沙門天を本地仏としていました。
また、招福息災の薬師如来として眼の仏様としても信仰されて北日本は新潟の下越から青森津軽にかけての日本海沿岸に多く見られます。

「日ノ本将軍」「蝦夷探題・管領」として津軽十三湊を拠点に北日本海沿岸から東南アジア一円に広大な航路経済圏を形成し繁栄していた三春秋田氏の祖である安東氏が「古四王」を篤く信仰したためと考えられています。





毎年、真照寺では旧暦の初寅には古四王堂のご本尊の一つである「毘沙門天(多聞天)」の初寅祭典が本堂で開催されています。
“寅の日”は「毘沙門天」の縁日です。商売繁盛・家内安全・長寿・勝運など様々な御利益、無量の“福徳”を授かることができるとされており、初寅講中の各地区世話人の方々を中心に多くの檀信徒の皆様が参詣されています。







尚、真照寺本堂内にある帝釈天とその守護四天王である「持国天」、「増長天」、「広目天」そして「毘沙門天(多聞天)」の木造立像は、秋田家の祖である「安倍貞任」の縁起を伝えていると云われており二代藩主秋田盛季が奉納したもので、本来は古四王堂内に安置されていました。







「誰が作詞か、作曲かが判らなくても、みんなが知っている歌。歌い続けられている歌。 
そんな歌を歌う歌手になりたい・・・」20年来、真照寺阿吽講でライブを行っている現代の吟遊詩人小川ロンさんから伺った言葉です。







300年前にこの古四王堂を建立した方々はこの世には居ません。300年後も私たちを知る人はいないでしょう。
しかし、改修後、時は流れても古四王堂の建物はここに存在し、法要などが営まれていることにロマンを感じます。





“仏教の修行とは一切の妄想、執着を断ち切って、人知れず捨て去られる一足の破れ草鞋のようにその存在すら知られずに修行することが僧の理想。それが真の「仏」の境涯になるということである”と仏教では説いています。





何もひけらかすことなく、自分の生き方を最後まで全うするための知恵の大切さを教示していると解していますが、ご縁がありこの古四王堂に係わるすべての人々の姿そのものなのだと改めて思います。

完成は来年平成31年3月予定です。





蒼龍謹白   さすけねぇぞい三春!  拝






| ryuichi | 04:15 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺324号 「本陣本店」三春城下検断職川又氏「御本陣」





「本陣本店」三春城下検断職川又氏「御本陣」

三春城下中町の「本陣本店」川又氏は、祖を美濃国(現岐阜県南部)、本姓を丹羽(にわ)氏・髙橋氏とする武将でした。

縁あって戦国時代末期の頃、会津二代藩主蒲生忠郷公より“川又”の姓と、当時会津蒲生氏の所領であった三春城下に現在の土地を拝領し三春に居を構えます。

当主は代々“川又孫左衛門(世襲)”を名乗り、蒲生氏改易後も、明治維新・廃藩置県まで三春城下の検断職、そして「御本陣」を勤めていました。
この“検断職”とは、現在の町長、警察署長、裁判所長とを兼務した様な役職で、時代によって異なりますが川又氏、船田氏、春山氏、橋元氏などが月番交代で務めていました。






検断職の記録は、現存する三春の歴史的な資料であり、特に川又氏が残した「記録・川又文書」は大きな役割を果たしています。その記録によれば相馬藩主の参勤往来や、幕府巡検使の城下通過の際などは宿所となっていたようです。

川又氏は、秋田氏三春藩政下の藩より名字帯刀の許可と御手当三人扶持を給されると共に三春の商人として生糸商や醤油商の他に藩指定の塩問屋として財を成し、藩領の経済及び文化の興隆に大きな役割を果たしていました。

江戸期の三春では、度重なる天変地異による自然災害や飢饉、そして御公儀による下命諸役などで藩に膨大な借財が慢性的に発生しており、川又氏をはじめ三春の商人たちは多大なる献金や貸付けをおこない藩の財政を援けていました。
しかし、明治維新後の廃藩置県等の藩の解体に伴って藩への貸し付けは不履行となりますが、さすがは三春商人です。







戊辰ノ役での戦火を免れた三春城下で、生糸や、塩、醤油商などの生業に加え、「第九十三国立銀行」(明治11年 彦十郎氏)で金融、製糸三盛社(明治20年 恒三郎氏)、「三春馬車鉄道株式会社」(明治27年 恒三郎氏)の運送、そして「三春電気株式会社」(大正9年 彦十郎氏)の電力部門等々を創設して三春城下の近代化を進めていきました。

明治、大正、そして昭和という激動の時代を“三春城下の商人”として「本陣本店」川又恒三郎(彦十郎)氏は、渡邊甚十郎氏、佐久間忠次氏、内藤伝四郎氏、熊田文十郎氏、渡辺弥右衛門氏、春山伝蔵氏等と共に当代の三春経済界の立役者として、三春・田村地方だけではなく、福島の経済界でも中心的な役割を担ってますます商いを広げ、地域社会を支え続けます。

文化面では、明治11年に「福島県民会規則略解」や小学校教科書「教則」を出版する「三春書林」を川又定蔵氏が立ち上げています。
後の衆議院議長となる河野広中も、この三春書林で「自由の理」(ジョン・シュチュアルト・ミル著中村敬宇訳)に出会い自由民権運動に目覚めたと記しています。





また、近年では町教育委員などを務められた本陣本店の先代川又恒一(つねかず)氏は、「三春駒とデコ屋敷 」(1983年)を出版するなど三春の文化向上に大変寄与されています。

後輩である早稲田大学の観光学会(当時)による「まちづくりと観光開発(S.59.6発刊)」の三春の観光についての取材の中で…

「三春は小さな城下町です。大きな観光地にはなりえません。三春人は観光開発のために新しくモノを作るのを嫌います。三春を訪れる方々に何か心の故郷、心に訴えかけるものをどのように感じてもらえるかを心掛けています。長い眼と時間、そして子孫が誇れる持続できる町づくりを目指したい。そして一番大事なのは”町の人が町の特性を十分考えてそれを守ろうとする姿勢”です」と話されています(一部要約)。






三春商人の先人、本陣本店川又氏から「経営者自身の自己実現を追求するだけが経営ではなく、地域社会の進歩発展に貢献することが大切である」ということを改めてご教授いただきました。

さすけねぇぞい三春!   蒼龍謹白    拝 








毎月第三の金曜と土曜の2日間だけ本陣本店さんの軒先をお借りしてオープンする「ちょっくら市」。

様々なクリエーター、アーティストの作品が並ぶお洒落なお店。

三春から新しい文化を発信しています。

もちろん、「本陣醤油」を重要な原材料とする「おたりまんじゅう」も販売中です。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:16 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺323号「三春込木(くぐりき)寄席」~見渡神社・こしまき 平成30年6月発行




    「三春込木(くぐりき)寄席」~見渡神社・こしまき
 春先に「三春込木寄席」が行われました。 
出演は、(公社)落語芸術協会所属の真打、十代目春風亭伝枝さん。新進気鋭の人気落語家です。

 親戚筋の込木宮ノ下は“こしまき”こと武田泰夫さんの主催とあっては、落語好き饅頭屋の私も喜んで寄席見物と相成った次第です!

 伝枝師匠は、“こしまき”の娘婿である青木さんの友達だそうで、そのご縁で込木寄席開催の運びとなったということで3年前の高座に続いて2回目です。

ここで家号ともいうべき“こしまき”について少し・・・・。
 会場となった込木集会所の上手に込木鎮守の「見渡神社」があり、“親かっ様”こと庄屋武田家から分家した泰夫さんのお宅は、見渡神社の社殿を取り巻くように敷地があるということで、昔から“こしまき”という愛称で呼ばれています。






 この見渡神社は、古くから“トリケの神”と信仰を集めてきました。
“百日咳”にかかったときは灯篭の石を削って呑めば治ると伝えられおり、その拝殿には病気平癒を祈願した鶏の絵馬が多数奉納されています。
 また、麻ひもを首にまいておくと咳が収まるとも伝わっていて祈願成就の折には倍の量の“麻紐”をお礼に納めていたと伝わっています。





当三春昭進堂創業者の髙橋民四郎の本家は、込木の柳ケ作(やなさく)の髙橋家です。民四郎は本家から“髙橋”という苗字と現昭進堂の土地を貰って分家し商いを始めました。
 その昔、11月の祭礼には、民四郎と妻の“おタリ”が饅頭を大八車に乗せて、社殿下に露店を開いていたと聞き及んでいます。

この寄席では、本家さんと並んで落語に興じ、中入りや打ち上げの席などで様々なお話を伺うことが出来ました。
 なんと、本家の母屋は“戊辰の役・会津戦争”が起こった明治元年(1868年)ごろに完成したということですので、築150年になるという計算になります。当時の大工や職人は、現場に寝泊まりをして作業に従事していたそうですが、茅葺屋根工事を請け負っていた職人たちは皆会津地方から来ていたました。
 建設途中に“会津戦争”が勃発してしまい我が家が心配で帰郷し作業中断となります。そして、2年ほど時が経ち戦騒ぎの落ち着いたころに戻ってきて無事作業再開の運びとなったということでした。






 さて、落語です。
 
古典落語の定番「目薬」を枕に「短命」と「初天神」の二席。
 会場には、込木はもちろん楽内や柴原、そして芹ケ沢などから約80名のお客さんが詰めかけ「満員御礼」です。

 会場内を見渡しますと幼き頃より見知った方々ばかりで、「お久しぶりです~」「元気でしたか~」の挨拶が止まりません!そして、「観桜三春寄席」の主任“独快亭来歌”こと田部さんのお顔も見えます。





 噺が始まると、ここは新宿末広亭か?浅草演芸ホール?はたまた池袋の演芸場か~?
「女房が~!」「婿さんが~!」「息子が~!」ってなもんで・・
 一気に落語噺の世界に引き込まれ、もう笑いっぱなしです。
    
~ヨ、真打~伝枝師匠! 




 おっと、前座がいました。
青木さんと、友人の喜多さんが務め会場を温めてくれました。

 そして、お待ちかねの打ち上げです。
 伝枝師匠を囲んで、来場の方々と一緒に、橋長魚店のオードブルと地酒三春駒、そして泰夫さんの挨拶で宴会です。
敬老会での楽しい宴会の様相を呈し、老若男女楽しい打ち上げが続きました!





 私の中に先祖伝来の込木DNAが入っているせいでしょうか?場所も込木、そして落語会というのは、とても居心地が良くて、楽しい時間を過ごさせていただきました。




 
尽力いただいた武田家の皆々様、そして、お手伝いの村上様ご夫妻には大変お世話になりました。
   さすけねぇぞい三春!  合掌  蒼龍謹白  拝




<訂正とお詫び>
先の塵壺5月号コラムでお名前の間違いがございました。
正しくは川又恒一(かわまたつねかず)氏です。
訂正しお詫びを申し上げます。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





古四王堂の改修も順調です。







| ryuichi | 05:13 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺5月号一部訂正のお知らせ
今朝の塵壺5月号コラム欄の中で、一部訂正がございます。


冒頭の三春町文化研究会のメンバー紹介のなかで、本来は川又恒一氏と表記すべきところを、川又亘一氏と誤った記載をしてしまいました。


関係者にはお詫びを申しあげ、訂正させていただきます。


次号に訂正を掲載させていただきます。





| ryuichi | 16:00 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺322号「旧広報三春「三春今昔物語」より~城下大町の巻」2018.5発行 


   
 旧広報三春「三春今昔物語」より~城下大町の巻

 昭和30年代、現在の「広報みはる」の前身にあたる合併前の三春町広報誌が発刊されていました。
 その中に、三春の歴史や古い物語に関するコラム欄があります。
 
題字とカット挿絵を渡辺俊太郎氏、執筆及び資料提供は、当時の三春町文化研究会の川又恒一氏、多田照雄氏、天野竜雄氏、影山常次氏、橋本宗哲氏、橋本久右エ門氏、大谷研明氏、渡辺利雄氏。
 そして、役場の当時担当者が渡辺俊三氏です。
 懐かしいお名前があり、この顔触れを見ますと当時の三春文化の担い手の面々ですね。

 コラムは、一年を通じてシリーズ化していたようで、「三春怪奇伝説」「三春古跡漫歩」「三春今昔物語」などワクワクするタイトルが並びます。







そのコラムの「三春今昔物語」から、三春城下大町の段を見てみますと、三春城下大町は
三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。
 本城の大手門(JA付近)から守城稲荷前までは、町屋は全く無く、現三春小学校敷地に、本御殿がありました。


 現大町本通りに沿っては、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。

 桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から軽輩の武家屋敷がありました。
 現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。
高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。
 会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。
その向いは、松井正右衛門宅。
 その隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅(現保健センター)がありました。

 かつて三春幼稚園があった会下谷は、当時「百石谷」と呼ばれていました。これは百石程度の藩士の屋敷が軒を並べていたことに由来するとされています。

 御城坂には、昨今枝垂れ櫻の古木、そして「猫冢(猫塚)」(現在は非公開)なるものが発見された旧城代家老の山舘秋田氏、そして、北畠秋田(浪岡)氏など重臣屋敷が居を構えています。

 江戸期の秋田氏藩政下でも御城は御城山に本丸以下がありましたが、通常の政務の執行機関である役所や、藩主家族の住んでいたお屋敷は、下の御殿(三春小学校付近)や御殿下にありました。

 明治5年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。
前記の三春広報誌が発刊された昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されています。

今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっているあたりでしょうか?

また、校庭には大きな藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと記されていました。




 
大町「四ッ角」の石橋は江戸末期の文政13年(天保元年)に完成し、その工事費が39貫150匁と記録に残っています。






今の物価にしたら如何ほどでしょうか?

 石橋の傍らには、道路原票(今は南町福祉センター付近に移設)があり、その台座(今はありません)には、三春から各地への距離が記されていました。

白川11里26丁。若松17里19丁。二本松5里32丁。

福島11里。 米沢21里半。仙台32里22丁。

盛岡79里23丁。中村7里35丁。

平17里20丁。棚倉14里33丁。

等々・・・そして、資料では遠く長崎や、広島、江戸、名古屋・・・など

 それぞれ全国各地の旧城下町までの距離が刻まれていました。






      蒼龍謹白 合掌  

          さすけねぇぞい三春!   拝 








「はなまつり 2018」  稚児行列

子どもたちの健やかな成長を願って行われる伝統的な行事で、稚児衣装をまとった子どもたちが三春城下を歩きます。

行列コース 
 三春小学校下 ⇒ 大町 ⇒ 東邦銀行駐車場 ⇒ 龍穏院

・日時 /  平成30年5月5日(金) 10:00~11:00

・三春交流館「まほら」の前で甘茶の接待があります。
 三春町各宗寺院和合会・三春町各宗寺院護持会






RFCラジオ福島「Yammy's Garden」(毎週日曜日の午後7時30分)や、馬場の湯「若松屋旅館」ディナーライブでお馴染みの白河が生んだシンガーソングライター”Yammy*(ヤミー)” 
 
New Singleは「三春滝桜」への想いを歌にしました!

 「愛しきキミ想ふ」1000円(税別)

 作詞:Yammy* 作曲:廣瀬紳一編曲:松田純一






  三春昭進堂、及び若松屋さんで絶賛販売中!








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:26 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |