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塵壺363号 「幕末・戊辰の役と三春藩 その2」 令和3年10月発行




塵壺363号 「幕末・戊辰の役と三春藩 その2」 令和3年10月発行


 幕末・戊辰の役と三春藩 その2 「思ひ附阿津免草」参照

明治元年(慶応4年)、白河城、棚倉城落城の次は、三春城攻略へと主力を移動させてくる薩長土肥を中心とする西軍の動きに対して、会津藩を中心とする東軍(奥羽列藩同盟)は、白河城(当時城主・藩不在)の城代掛二本松藩の前線として三春城を守るべく三春藩領へ続々集結していました。

尚、参照する「思ひ附阿津免草」内で「西軍」から「官軍」、「新政府軍」と表記が変わるところに三春藩内の心情が読み取れます。


7月23日朝には、平城を攻略した西軍の一隊(主力部隊は相馬攻略のため北上)が、磐城街道より仁井町(小野)方面に侵入の情報が入り、三春藩主力と応援の会津藩約70人、仙台藩約50人、福島藩約60人の藩兵が仁井町へ向かいます。

三春藩国境の広瀬村では、三春藩家老秋田勘解由(かげゆ)率いる三春藩兵が 守備を固めていましたが、小競り合いを演じた程度で旧式の武器を捨て撤退しています。

仁井町から三春へ向けて西軍の道案内は、仁井町と堀越村の神官二名が務め、8月3日には田村郡の神官を中心に西軍(官軍)の護衛隊を結成し、先導、連絡、渉外、慰霊の任に当たっています。






二本松藩約50人は、26日早朝、三春藩兵を道案内として守山方面に向け出 発させ赤沼村に待機。この機会を待っていたように、中通り各地に駐留していた西軍が三春城下めがけて進軍を開始。
 同日午前10時より“新政府軍(西軍から新政府軍へ表記変更)来たる”の緊急事態を告げる早鐘・早太鼓“三つ重打ち”が三春の城下に鳴り響きます。


三春藩は、もともと恭順する事前工作が出来ており、藩主後見役秋田主税をはじめとする家老たち藩重役が、柴原村や貝山村、鷹巣村へ出向いて正式に三春藩の恭順を願い出ます。
棚倉戦以来、意の通じている西軍中隊長の土佐断金隊長美正貫一郎(土佐藩士)の計らいなどもあり正式に無血開城と成ります。

 しかし、この“三つ重打ち”の音で城下は大騒ぎになり、数日前から家財を運搬、妻子を在方に預けた者もありましたが、ここに来て城下の町人の中には逃げて行く者も大勢居たと記されています。






 26日の昼ごろから西軍・新政府軍が城下へ入りはじめますが、最初の軍勢は中津川村を経由した先遣隊2000人で、西洋式に太鼓や笛を鳴らして隊列を整えながら柴原道より弾薬や荷駄隊を沢山従えて三春入城を果たします。
 さらに、貝山や鷹巣道、そして、守山筋からもといった具合で、新政府軍の総軍勢5~6000人、ほかに人足1000人ほど。
 翌27日には磐城口の軍勢6000人、28日に3000人というように、続々と新政府軍及び関係者が三春城下へ到着・駐留し、三春町の人口は一挙に3倍半に膨れ上がる始末となりました。

 城下駐留施設も、本陣、藩役所、寺社、御家中屋敷、町家を問わず分宿しており、まるで“市”が立ったように賑やかだったと記されています。

 また、戦火を免れた三春町民は互いの無事を喜び合い、夜中も休まず働き「官軍」新政府軍を接待しています。


 三春藩は、無事「開城・恭順」となりましたが、新たに新政府軍の奥羽列藩同盟軍征討への全面協力という仕事が待ちかまえていました。

 27日、西軍参謀局軍監局より後見役秋田主税、家老荒木国之助、家老小野寺舎人が呼び出され「御居城・御領地・兵器・人民・共に追って沙汰あるまで預かりおく」、「諸事是までの通り」
はよいとしても、「役は勿論、万端さしつかえないように心得よ」と申し渡されます。

 主な賦役には、「新政府軍の食料と馬の準備、軍夫の徴発」「政府軍の諸藩の道先案內」「参謀局会計局の世話」(はじめ御殿、後に政府軍総督が来たため春山新左衛門宅)、「大病院の賄」(城下龍穩院に病院を設置)などです。






 会津攻撃に際しては「中山峠口へ三春藩兵50人差し出す」ことや、「弾薬運送のための人馬手配」を命ぜられ、人足達は武器弾薬運搬といいながらも弾丸飛び交う最前線で弾薬を背負い新政府兵員に付き添って戦場を駆けめぐります。

 三春城下近辺はもとより領内全域各村から集められた人足達は文字通り丸腰で荷物を運び続け“命がけ”でその使命を果たしました。
 実際の戦死者も10数名に及んでいます。

 白河、棚倉、二本松、若松など主な城下町は戦場となって荒廃しますが、三春城下は、相馬中村城下などとともに無傷で残り、廃藩置県後の明治の新しい世を迎えても政治経済そして文化の面で県内有数の都市として発展・賑わいを見せ、大正昭和と激動の時代を乗り越えながらも、三春県、磐前県、を経て近代福島県の基礎をつくっていきます。 

 完









蒼龍謹白 コロナに負けるな! さすけねえぇぞい三春! 拝


| ryuichi | 04:12 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
 塵壺第362号 幕末・戊辰の役と三春藩 上 「春陽思ひ附阿津免草」参照  




 塵壺第362号 幕末・戊辰の役と三春藩  「春陽思ひ附阿津免草」参照  

 「春陽思ひ附阿津免草」は、三春城下検断職(現在の町長職) 回春堂橋元柳助が、慶応三年から明治14年まで日記風に書き留めておいた橋元文書を参照して執筆したものです。
 また、「思ひ・・」の中には、三春城下の商人が見聞きした幕末動乱の様子が克明に記載されており、貴重な資料となっています。

 さらには、江戸末期から明治への激動の転換期を体験した三春城下の商人の商機の見極めと同時に生の息遣いが感じられます。

 嘉永6年の黒船来航以来、幕末の動乱期を迎え三春藩に於いても武器・武具の製作・調達や参勤作法改正に伴って、文久3年には、在方の庄屋を対象に金1500両の献金を命じ、さらに元治元年には、世情の不穂な動きに対して日光警衛を命ぜられた為に、金3500両(現貨幣価値3.5億円位)という莫大な資金を町方および在方より調達し藩財政はひっ迫しています。

 一方、幕府勢力追討の勅命をとりつけた薩摩、長州、土佐を中心とする西軍は、江戸城無血入城を果たした後に、佐幕派の筆頭会津藩、そして、庄内藩討伐へと軍を進めてきます。

東北の諸藩はその対応として、”官軍”を称する薩長などの西軍に対して恭願の意を示しますが、奥羽諸藩を動員して会津藩(元京都守護職・新選組雇用)と庄内藩(元江戸市中取締役”新徴組”頭取)を討てとの命令が出されるに及んで、その真意を疑います。

これは、私的な薩摩・長州の会津藩への憎しみと解して、西軍の理不尽に対抗する動きに変わってきます。

 会津藩や庄内藩からの朝廷への度重なる謝罪や恭順を認めず、しかも奥羽諸藩を先鋒として本気で会津·庄内両藩を攻めなければ「奥州みな敵」という西軍の官軍権力をかさにきたやり方に対しては、諸藩も屈することはできないという態度になってきます。

そのため、 4月20日に仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲の呼びかけに応じて、会津、庄内両藩を除く奥羽の25藩すべての代表が白石城に参集し奥羽列藩同盟が結成されるに至ります。




 

この奥羽列藩同盟(後に越後長岡藩牧野家も加わり奥羽越列藩)の趣旨は、朝廷を頂く、官軍に反旗をひるがえすのでなく、あくまで朝廷を介して、私暴の挙に出ている薩摩や長州の非を追及する」という名目でしたが、目前に迫った西軍を迎え撃つ作戦計画も企てられた軍事同盟でそこでは西軍への協力を拒否することと、改めて会津、庄内の両藩を救済するということが決議されました。

 三春藩は、すでに1月15日に家臣の湊宗左衛門 (江戸詰御近習目付)を京都の新政府に出頭させ、当局より「奧羽征討援軍」(会津攻めに協力)についての沙汰書(指示命令書)を受けており、幼少の藩主秋田季映(当時11歳)を秋田主税が後見して西軍に味方すべきか東軍の義に尽すべきか藩論は容易に定まらなかった。

 「会津には同情するが、西軍は錦の御旗を奉じているので朝敵にはなりたくない。しかし、いかにしたら御家安泰が可能か?」という方向で議論が進み藩論が統一されていきます。

 このようなことを背景にして小藩の生き残りりをかけて”東西いずれの陣営にも味方”であると思わせなければならない綱渡り的な行動が開始されます。



 新政府軍が来る前に、三春藩の真意がばれれば、裏切り者として列藩同盟側の攻撃を受け、小さな三春藩はつぶされてしまいます。

 三春藩は、手薄になっている棚倉城を守るため、家老秋田太郎左衛門が藩兵を率いて石川郡岩法寺村(現玉川村)に出陣して他の同盟諸藩とともに新政府軍と戦います。

 この時(22日)新政府より先の沙汰書のことを知り、三春藩は兵を引いています。

24日には棚倉は落城しますが、沙汰書を発令した新政府軍側から、この棚倉出陣を問われ、京都にいる三春藩家老秋田広記らは、約定に反したということで疑われ禁足を命じられることになりますが、もともとの出陣している三春藩兵は藩内の細かな事情までわかるはずはないし、会津藩や列同盟諸藩の手前もあり本気で戦います。
 

この「棚倉出陣」後の状況(事情が日々変化している)から、7月16日の「浅川の戦い」では戦機が過ぎたころ臨場して形式的な戦いに終始しています。

 今度は、列藩同盟側より反同盟の疑いをかけられる始末。列藩同盟に署名した大浦帯刀が秋田伝内と改名したことや、同盟との連絡係が、藩重役から外事掛(新設)に交替したことも疑惑の目で見られていたのである。    

 次号へ続く


   蒼龍謹白  コロナに負けるな! さすけねえぇぞい三春! 拝








三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂


続き▽
| ryuichi | 04:34 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺361号  「盆踊り」 大正ロマン竹久夢二と助川啓四郎氏  令和3年8月発行  



塵壺361号 令和3年8月発行
 
  「盆踊り」 大正ロマン竹久夢二と助川啓四郎氏 


~ 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな ~♪



江戸時代より300年以上続いている三春城下の夏を彩る「三春盆踊り」は、昨年に引き続き今年も新型コロナウイルス拡散防止の観点から中止となっています。

時は大正、『宵待草』などで大正ロマンの雰囲気が漂う美人画を描いたことで知られる画家竹久夢二は、片曽根村出身で船引町長や県会議員、衆議院議員、農林参与官等を歴任した助川啓四郎氏との縁で「画会」開催等で船引町をたびたび訪れています。





夢二と啓四郎氏との出会いは、啓四郎氏の母校早稲田大学校時代にさかのぼります。

当時、歌人で女子教育の先覚者下田歌子が主催する「大日本少女会」などの活動をきっかけに知り合い親交を深め青春時代をともに過ごしたと言われています。

早稲田大学を卒業後、片曽根村長、船引町長から代議士となった啓四郎氏は、夢二のために福島県内各地で画会を主催。さらに、夢二の作品を載せるために雑誌を発行するなど、助川氏の財力や人脈を使って芸術活動を後援しています。







現在、船引町にある田村市図書館では、夢二に関する資料を所蔵し「竹久夢二ルーム」を設けて夢二の作品や資料を展示しています。


夢二は、啓四郎の計らいにより船引町以外にも、会津東山温泉や、福島飯坂温泉、いわき常磐湯本温泉など福島県内の各地に滞在し、多くの作品を残しています。

三春町大町に在った川北旅館に一か月ほど滞在して「画会」を開いた際には、北野神社前の道路で行われた盆踊りに夢二が女装して踊ったという逸話もあり、「盆おどり」(大正10年)と題された絵も残っています。



(三春町史より)


三春城下に秋の気配が漂いはじめた大正10年8月27日、東京小石川下富坂町の川端画学校(川端玉章創設の画塾)に通う半五郎少年は、夏休みで郷里である三春に帰省していた。

「川北旅館に竹久夢二という有名な絵描きさんが来ているよ」と母親に教えられた少年は、自分の描いた絵を持って夢二を訪ねた。
一時間ほど隣室で待たされたものの、長髪にナイトキャップをかぶった夢二は少年を画室に招き入れてくれた。










ぼそぼそと話す夢二。少年の絵については何も語らなかった。
長居は失礼、と立ち上がった少年に夢二は声をかけた。

「三春の盆踊りができたら教えてくれ給え」。

突飛な要望に驚いたものの、少年は盆踊りを夢二の前で踊った。

微笑しながら夢二はその姿をスケッチした。

その夜、三春城下北町の北野神社前で行われた恒例の盆踊りの輪の中に、芸者から借りた着物、編笠、青手甲腰巻、白足袋に、おしろいまで塗って踊りまくる夢二の姿があった。
半五郎少年と川北旅館の番頭 ·白石作三(カエル文字書家渡辺弥七さんの奥様の父)そして三、四人の芸者が同行した。







※半五郎少年とは、画家及び美術通信教育などで活躍した磐前半五路(半五郎は本名)。

このエピソードは磐前の著作『随筆、はだかの採点』に所収されている「夢二と盆踊り」、そして玄葉与光著『夢二と福島』を元に紹介したと参照した資料にありました。

後に、助川啓四郎氏は、昭和18年10月、農政通の帝国議会の衆議院議員として満洲に於ける食料事情視察の為の渡満途上、関釜連絡船「崑崙丸」(下関から朝鮮半島釜山の間を運航していた鉄道連絡船)に乗船していた際、朝鮮海峡沖ノ島北東10海里付近の海域にてアメリカ海軍潜水艦「ワフー」の魚雷攻撃を受けて沈没し多数の一般人の乗船者と共に犠牲となっています。

啓四郎氏という理解者(支援者)が居て、益々夢二は画家、詩歌・小説の執筆や、広告デザイン等活動の場を広げマルチに活躍します。

福島との縁も深く刻まれ、現在を生きる私たちに夢と喜びを与えてくれた田村縁となる二人の大先輩に畏敬の念を禁じ得ません。


蒼龍謹白  疫病退散祈願  さすけねぇぞい三春!  拝






三春城下の情報です。



BS朝日「百年名家~築100年の家を訪ねる旅~」。
毎週日曜の昼12:00〜12:55にBS朝日で放送中

出演は八嶋智人と牧瀬里穂、提供:住友林業

次回、令和3年8月22日(日)は、三春城下大町紫雲寺下旧吉田邸(現三春町文化伝承館)を取り上げています。


「百年名家」とは百年以上の歴史を持つ家屋で人々が暮らしている家のこと。人々の営みを支えてきた家屋には、暮らしを彩る様々な工夫があります。






| ryuichi | 04:24 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺360号「三春藩フランス商人との蚕種紙商取引契約不履行事件」令和3年7月発行




「三春藩フランス商人との蚕種紙商取引契約不履行事件」

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け(せいてんをつけ)」でその生涯が描かれ、さらに2024年には新しい一万円札に肖像が使われる「渋沢栄一」。

一橋家家臣、幕臣、明治初頭の官僚を経て実業界に身を投じると、創設に関与した企業は500を数えます。

欧米列強諸国の経済的強大さに対抗するため、日本に近代産業を早急に根付かせて発展させる必要があるという理念を持ち東京株式取引所(現略称: JPX株式会社日本取引所・東京証券取引所)、大阪株式取引所(現JPX・大阪取引所)の設立等をしています。

さらに、民間実業界の総力を挙げて近代社会発展に寄与する為に「東京商法会議所」など、さまざまな経済団体を組織して政府に実業界の要望を積極的に伝えています。    
開国後、海外貿易は諸外国に支配されており、幕府はじめ諸藩や商人皆一様に外国の商社を使うしかなく、金相場相違も相まって外国の商人の独壇場でした。

これを危惧したのが、渋沢はじめ、小栗上野介(幕府勘定奉行「神戸商社」)、坂本龍馬(亀山社中・海援隊)、三野村利左エ門(三井創始者)、岩崎弥太郎(三菱創始者)など幕末の日本で活躍した先進的な経済人でした。

彼らは欧米諸国が日本に対しては武力によるものではなく、経済(商い)による侵略(交易)だということを見抜いていました。







三春にも、武士と外国商人との商いの難しさを物語っている一例があります。

幕末の慶応3年10月、三春藩が関連した「フランス人商人蚕種紙取引引き渡し条約不履行事件」が発生します。

これは、三春藩士奥村清酒が江戸藩邸在府中、藩邸藩重役の秋田斎(いつき)、小野寺金兵衛らが、同じく三春藩士(藩士の家来の陪臣?)渡田虎雄の周旋で横浜駐留のフランス商人と絹や和紙等の商いをしますが、不慣れな武家商売で齟齬をきたして契約不履行となり、国際訴訟事件にまで発展してしまいました。

この頃の日本に来る外国の商人の中には、開国したての新天地で一旗揚げようという胡散臭い輩が多数いたと記されています。

全国の三百諸藩、とくに東国の諸藩は、「出島」で取引経験のある長崎や大阪に貿易の為の藩邸を有する西国の雄藩とは違い外国との商取引は不慣れの為、各所で商い不履行が発生して賠償金騒ぎをおこしています。

三春藩は、この事案について藩費をもって決済して商取引に加わった藩関係者を厳に処しました。奥村清酒は最も重く、知行召し放し、永蟄居、兄奥村権之助に預けとなります。
また、縁坐法によって清酒の父俊蔵の従兄弟にあたる秋田斎も隠居、その他一族数十人がその咎を受けています。

もちろん周旋した渡田虎雄も藩から追放されたということは言うまでもありません。






これらの採決扱いは、江戸留守居役年寄(江戸家老)目付小野寺市太夫公忠でした。

このころ「参勤交代の廃止」、「鳥羽伏見の戦い」の発生などで全国諸藩は国表への帰郷との沙汰が発布されましたので、三春江戸藩邸でも撤収作業が終わり、市太夫は、江戸藩邸留守居役として一人残り、残務整理をしていました。

追放された渡田虎雄とその一味は、今回のフランス商人との条約不履行事件での採決を不服・逆恨みをして、警備手薄な三春藩邸に一人在邸する高齢の市太夫を襲撃し、市太夫は非業の死を遂げてしまいます。

この事件は、武士の海外貿易という商いの不慣れの中で藩の不祥事の処断をめぐって渡田らの私怨を買い、非業の死を遂げ、藩政に殉じたともいえるものでした。






因みに、時間は少し戻りますが、水戸・薩摩脱藩浪士によって大老井伊直弼が討たれた『桜田門外の変』の時に外桜田門の内側にある「内桜田門」の警固を担当していたのは、小野寺市太夫の嫡男小野寺舎人(とねり)でした。

   「疫病退散祈願」  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝



| ryuichi | 04:37 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺359号 奥州本宮宿太郎丸 「御菓子司 こやま」 令和3年6月発行 



    奥州本宮宿太郎丸 「御菓子司 こやま」
 
2019年の台風19号で中心部を流れる阿武隈川が氾濫し、甚大な浸水被害に遭った奥州本宮宿

私の母の里である太郎丸の本宮観音様前にある「小山菓子店」も例外ではなく、1986年「8.5水害」同様、浸水時には一階店舗兼工場が胸のあたりまでの浸水し、大変な被害となってしまいました。





テレビをご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、水害から一年経って小山菓子店は、おばあちゃんと孫娘の営む「御菓子司こやま」としてリニューアルオープンして、お客様に愛される和菓子店として新たな一歩を踏み出し「本宮魂」を見せています。

小山菓子店の小山家は、明治の頃に新潟蒲原郡寺尾(現新潟市西区寺尾)の商家の末弟だった曾祖父が丁稚奉公に出されたのが本宮宿仁井田でした。

才覚があったのでしょう、奉公先の家付き娘と所帯を持ち今の太郎丸にあった二軒長屋で商いを始めます。

はじめは「油げ」や豆腐を手掛けていましたが、後に饅頭屋になり現在に至ります。

この辺は、当三春昭進堂と同じような経緯です。

目の前にある観音様や安達太良神社の祭礼、そして遠くは白沢岩角山高松寺の祭礼などには大八車に饅頭や油げ豆腐を積み込んで商いをしていたそうです。

曽祖父や祖父は、そのご尊顔から愛嬌があり、大変愛想が良く商売向きの人柄だったと聞き及んでいます。

私などは、よく「母親・本宮似で商売向き」と云われる所以なのでしょう。

先に他界した叔父は母の弟で、叔父も小山らしく愛想が良く、仕事が大好きな真面目な商人でした。


本宮は、阿武隈川などが中心部を流れる地理的な要因もあり歴史的に見てもたびたび川の氾濫・洪水浸水被害に見舞われてきましたが、その都度宿場の皆さんで力を合わせて復興し発展を遂げてきました。





母の里というものは、何年たっても何か特別な感情があり、本宮出身だと聞くだけで話が盛り上がります。

特に安達太良神社の秋まつりでの、蛇女,ロクロ首などの見世物小屋や、サーカス、そしてオートバイに乗って大きな樽の中をぐるぐる回るパフォーマンス、さらには全国チンドン屋大会が本宮で開催されたことなど、懐かしい思い出で話が尽きません。


この本宮宿の歴史は戦国時代に今の北町を中心として宿場町が形成されていましたが、秀吉の采配で越後より会津に転封した上杉景勝の重臣直江兼続から、この地を与えられた旧三春田村氏(田村仕置により改易)の臣小沼貞長が、安達太良川以南一帯の荒れ地を造成して南町を造り、以後、奥州街道、会津街道、三春街道、そして相馬街道の交わる交通の要所追分があり各地からの物資集散の中心地として発展してきました。






古くから「花の本宮」とうたわれ、奥州街道屈指の賑わいを見せており、その街並みは、阿武隈川支流である安達太良川を挟んで、江戸側(南側)の上町、中条、下町を「南町」、そして川の北側の荒町、中町、大町を「北町」と区分されていました。

その南町末が太郎丸という地区となります。

また、飯盛り女の多い宿場としても知られ、井原西鶴の「好色一代男」や「一目玉鉾」にも登場し、人形浄瑠璃にも「奥州街道の本宮なくば、何をたよりに奥がよい~♪」と謡われるほどでした。


天正13年11月17日に開戦した伊達政宗最大の危機とされる「人取橋の合戦」の舞台となる本宮人取橋は、本宮宿太郎丸にある今の観音堂から奥州街道と分岐し、五百川沿いの会津街道と瀬戸川とが交わる付近にあります。

この戦いは、同年10月8日、二本松城主畠山義継が、伊達政宗の父輝宗を拉致して伊達勢の追手によって輝宗と義継が同時に討たれるという事案が発生、政宗は父輝宗の初七日が明けると弔い合戦として田村氏・相馬氏の兵を合わせて一万三千の兵(人取橋戦へは7千が出場)を率いて二本松城攻めを開始します。

一方、伊達政宗の仙道(現福島県県中地域)進出を阻止と畠山氏救援のために常陸佐竹義重・義宣を中心に会津芦名亀王丸、須賀川二階堂阿南、岩城城主岩城常隆、石川城主石川昭光、白河城主白川義親・義広など仙道・南奥州の諸大名らが約3万兵にて迎撃し「人取橋」付近にて戦が勃発します。


戦いは圧倒的な数に勝る佐竹以下の連合軍が終始優勢で、伊達勢の老将鬼庭左月斎良直や伊達成実の善戦のお陰で、多数の犠牲者を出しながらも何とか本宮城へ帰還することが出来ました。

尚、この戦いで両軍合わせてあまりにも多くの人が討たれたために、「人取橋」と呼ぶようになったと伝わっています。









「太郎丸」という地名の由来ですが、耶麻郡太郎丸村(現喜多方市豊川町米室)を本拠とした会津芦名氏の家臣に太郎丸掃部(芦名氏庶子)という武将がありました。

天正13年(1585)5月、太郎丸氏は、伊達政宗が会津蘆名氏と戦った「関柴合戦」に際して同じ芦名家の家臣松本備中守が伊達政宗に内応しているという嫌疑があって政宗が占領している桧原への備えとして入田付村に派遣されますが、太郎丸氏もそのまま伊達勢の組下に加わってしまいます。

上記の人取橋の戦いの折にも伊達勢は本宮に本陣を置き最前線の高倉、青田原に軍勢を配して連合軍と対峙していますので、太郎丸氏も伊達勢組下として本宮に布陣していたと思われますが、この辺りに何らかの関りがあったのではないかと考えています。







蒼龍謹白  さすけねえぇぞい三春! 疫病撃退祈願 拝



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塵壺358号 三春城下新町と旧磐城(岩城)街道 令和3年5月発行



塵壺358号 三春城下新町と旧磐城(岩城)街道 令和3年5月発行

自由民権運動研究の第一人者である当家出身の髙橋哲夫氏の著書を、時々読み返しています。
 その中の一冊「福島自由民権運動史 その踏査と研究」のあとがきに、当家に関する初めて知る驚くべき記述がありました。

それは「かつて羽二重(絹織物)工場を営んでいたが大正7年頃には第一次欧州大戦(第一次世界大戦)終了後に到来した世界大恐慌のあおりをうけて経営するささやかな羽二重工場は、ひとたまりもなく倒産し、それからずっと工場は閉鎖…」というものでした。





当三春昭進堂髙橋家の初代民四郎は、三春家畜市場門前である現在の場所に商機を見出して買い求め、商いを始めたとは聞いていました。
また、その商いも様々な商売をしていたと伝わっていますが、まさか羽二重工場を経営していた事、そして、世界恐慌のあおりを受けて倒産し民四郎とおタリ夫妻は途方に暮れたということなどは、昭和8年生まれの父も聞いたことは無いということでした。

その後、妻おタリは持ち前の気の強さで果敢に商売に挑み、現在の饅頭屋に落ちつきますが、夫である民四郎は商売の失敗が響いたのか、読み書きソロバンが堪能ということで弓町新地遊郭や畜産組合での書記や会計の仕事、さらには祭礼での露天商~という下りと相成ります。








幕末から明治初頭より、三春城下新町は三春から磐城(岩城)地方に通ずる旧磐城街道の城下からの出発点として賑わいをみせた新興商人街で、その町割りやセリ市場開設など藩の政策が明治期以降も生かされ、大商人や遊里が軒を並べていました。

今でも新町の民家には一軒一軒「屋号」が付されているのは、当時のなごりです。
自由民権運動家松本芳長の生家「移屋」もその一軒で、初代当主の出身地「移村」に因んだものでしょう。
その他、油屋、春野屋、谷家、岩城屋、仙台屋、亀屋、浜野屋、金屋、飛田屋、山屋、割野屋、長門屋、四海屋、松本屋と呼ばれる家が、明治初頭から昭和40年代にかけて、

大半が農家や職人(大工、石エ、鍛冶)に転向して生活していました。






実は、三春の自由民権運動にとって、その事に重大な意味があり、時の県令三島通庸(みしまみちつね)の時代。旧磐城街道(現国道49号線の原型)の道路改修工事によって自由民権運動の盛んな三春城下を避けて通るルートに変更されたために新町一帯はかつての交通上の要路としての地位を転落して衰退の一途をたどり、商人達は半農や職人
に転向せざるを得なくなったというものです。


上記の「移屋」が新町第一の家であったことは、古老の話やその屋敷跡からも十分うかがわれ、明治十六年に六棟あったといわれる土蔵(酒倉)の中、昭和40年代までは二つだけが残り、その中の一つは「文庫倉」と呼ばれ、おびただしい書籍の類がここに保管されていたのでした。

 現在は一般のお宅となり屋敷の形跡はありませんが、屋敷跡の奥に残る大井戸跡は、かつての酒造に用いられたものであろうと想像できます。






 江戸時代中期、秋田藩政の三春城下における町屋(商工業)は、明和八年の「町内屋号覚」によると、大町62軒、中町4軒、八幡町12軒、北町31軒、荒町30軒、新町43軒の計182軒で、塩問屋·肴問屋·紙問屋·たばこ問屋・鉄問屋·木錦繰綿 茶問屋、炭問屋をはじめ、麹屋、染屋、質屋、薬屋、太物屋(たんもの・呉服屋)·小間物屋·水油、素麺屋などの店が記されています。





 城下町三春は、会津蒲生氏の統治以降、大店が店を構え江戸街道や会津街道、磐城街道、相馬街道、二本松街道の大きな五街道が交わる物流・文化の中心地として栄えます。主産業である米穀をはじめ、いろいろな品物の集散地でもあり、他領からは塩、瀬戸物·綿糸、砂糖、小間物、鍬(農耕具)など多くの物が入り、領内からは米や煙草や繭などが出て行きました。


     蒼龍謹白 With三春城下 さすけねぇぞい三春!  拝


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塵壺357号 「地酒三春駒どら焼き」“酣たけなわ”プロジェクト 令和3年4月




塵壺357号 「地酒三春駒どら焼き」“酣たけなわ”プロジェクト 令和3年4月

“酣たけなわ”プロジェクト“とは、福島県のブランド品化をめざした県菓子工業組合と県酒造組合の共同企画で、県内の酒蔵と菓子屋がペアを組み新しいスイーツを誕生させるというものです。

当三春昭進堂もその立ち上げに加わり、地元三春城下中町の佐藤酒造様の「三春駒黒ラベル」を使った「地酒三春駒どら焼き」を製造・販売することになりました。





三春駒を、一度沸騰させて日本酒の香りや、アルコール成分を飛ばして旨味を凝縮してから調味料として少量添加することにより、味が日本酒の成分でまろやかになり、しっとりふっくらしているように感じます。お酒の苦手な方や、子供さんまで楽しめる美味しいスイーツとなっています。

江戸後期より昭和の終わりころまで旧三春藩領の馬・牛の競り市は、現在の新町真照寺下の広場でおこなわれてきました。
当三春昭進堂は、その旧三春家畜市場の門前に店を構えており、競り市があった当時は市に来る畜産農家の方々に向けたお土産として“おたりまんじゅう”や“大福”等々が喜ばれ、古い帳簿を見ると文字通り飛ぶように売れていたようです。





ここは通称「せり場」と呼ばれ、馬市が隆盛だった頃は、雌馬の市が5月、雄馬の市が11月に大々的に開かれていて全国の馬喰(ばくろう)たちが三春を訪れ、城下は馬市一色の賑わいを見せ、競り市開催時の新町筋には茶屋や露天屋台が大元帥明王下の山中まで建ち並び、夜ともなれば遠来の馬喰や馬を売りに来た百姓たちが繰り出す「遊郭新地庚申坂」からは、お囃子の太鼓が鳴り響き、この界隈は祭礼のごとき賑わいでごった返す程の人出があったと伝わっています。







三春駒(三春産馬)は、後冷泉天皇の天喜年間、 江戸期の三春藩主秋田公の祖とされる安倍貞任を八幡太郎義家が攻めた「前九年ノ役」に、八幡太郎の軍馬として従軍したと伝わっています。





更に、三春田村氏三代の祖田村義顕公の頃、三春城下荒町と、堂坂(現郡山市西田町堂坂)に「馬頭觀世音」を建立して信仰したといわれ、三春地方の馬は古い歴史を有していると思われます。

また、慶長年間の豊臣末期、三春の人渡辺助左エ門が、上杉攻めへ向かう徳川家康公「小田原評定」の小山本陣に、乗馬14匹を奉献したと伝えられています。

正保2年の秋田河内守俊季公三春入府後には、ますます増殖がはかられ、延宝7年(1679)、黒鹿毛刀駿馬を幕府に献じて、大いに名声を博し、以後、藩主参勤の際には、駿
馬の献馬が恒例となっていたと記録されています。





貞享2年(1685)頃からは、藩主が率先して馬匹の改良特励に意をもちい、三春二代藩主信濃守輝季公は、馬奉行、駒付役の制度を設けて産馬改良につとめ、元禄12年には、駒付役藩士を仙台、南部に派遣して五百金を下付して良馬を購入させ領内の古道、岩井沢、葛尾などの放牧適地に貸し与えて増殖を奨励します。同時に競り市法を改め、これにより三春産馬の各声高く、馬の産地として全国に知れわたるようになり、明治14年の国内勧業博覧会に三昏産馬会社から出陳した3才青毛馬が天覧に供されこの外9頭も有功賞を得て、大いに面目をほどこしたと記録されています。





「三春駒どら焼き」の発売と同時に、今年は「丑年」、そして新型コロナ撃退祈願の意味を込めて疫病から人々を守る神様「牛頭天王(ごずてんのう)」の名をいただいた「三春牛頭
天王バターどら焼き」の製造販売を開始しました。




牛だけに、中には粒あんと塩味の利いた有塩バターをトッピングしました。

この三春牛頭天王とは、旧三春畜産協同組合が昭和26年に、三春方部家畜飼養農家一同の畜産振興と牛体守護・家内繁盛、並びに五穀豊穣等を祈願して、家畜に対する報恩感謝の拠り所として“竹寺”の愛称で親しまれている埼玉県飯能市旧吾野村にある医王山薬寿院八王寺の御本尊「牛頭天王」の御分霊を、三春城下新町にある旧三春藩主祈願所である真照寺山内の一角に勧請した御霊ですが、畜産組合解散に際して返納して現在は石碑だけが残っています。





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蒼龍謹白 さすけねえぇぞい三春 拝


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