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塵壺373号「自由民権運動資料と幻の{三陽雑誌}~三春町史編纂秘話」令和4年8月



塵壺373号「自由民権運動資料と幻の{三陽雑誌}~三春町史編纂秘話」令和4年8月10日発行

  自由民権運動資料と幻の「三陽雑誌」~三春町史編纂秘話

『塵壷』に歴史に係る原稿を掲載する場合には、私にとって“三春町史”が一番大切な参考書です。

索引も入れて全11巻からの町史は他に類を見ない規模で、昭和48年度から始まったこの事業は昭和61年の最終発刊まで約15年を費やし、その資料調査は、北は青森県浪岡町から、南は和歌山県新宮市と高知県高知市までに及んでいます。


その編纂業務が資料調査をはじめいかに大変なものだったかを、当時の事務局員であった大先輩の田中金弥さんに聞く機会がありました。


自由民権運動の執筆者は、故高橋哲夫氏(私の大伯父)で、田中さんと二人で48年の夏に東京の国会図書館など、そして翌年の夏には高知県立図書館などで資料調査を行っています。

当時は、今のような高性能のコピー機もなく、高橋先生から指示のあった個所は、すべてカメラによる接写であり、失敗は許されません。そのため田中さんにとっては、帰町してからフィルム現像が終わるまで心配でならなかったそうです。

初めての国会図書館での資料調査は『河野文書』が主目的だったそうで、その結果“戊辰戦争の際、会津攻めの途中で土佐藩家老の板垣退助が三春の春田橋で河野広中らと会談している”という新たな発見もあったりしましたが、すべてが緊張の連続だったそうです。

 高知での調査を終え、帰路の新幹線の中で田中さんが「先生。資料はどのようにして見つけるのですか?」と尋ねると、「君にはまだ分からないだろうが、真剣に研究を続けていると、不思議なくらい資料のほうからお呼びがかかるのだよ」という思いもかけない答えが返ってきたと話されていました。



 その時は「そんなことはない!」と思っていたそうですが、この言葉が現実となったのは、それから33年後の2007年11月のことで、その年には、70年以上に及ぶ自由民権運動に関する高橋先生の資料すべてが、三春町に寄贈されることになりました。


田中さんはその当時、議会事務局に籍を置き退職間近でしたが、先生宅で寄贈資料の整理のお手伝いを続けていました。

そんなある日、田中さんの友人である仙台市の博物館長の佐藤憲一氏から特別展に招かれ出かけて行きました。

観覧が終わり、館長室で歓談していたとき、信じられない『奇跡』が起こったそうです。

佐藤氏は席を立ち、自分の机の引き出しから古びた冊子を出し「金弥さん。三春にはこの冊子はあるんでしょう?」と尋ねられます。

その冊子を見た田中さんは自分の目を疑ったそうです。

それは何と、幻の雑誌と言われていた三春出身の河野廣中が主催する三春町にあった政治結社「三師社・正道館」が独自で発刊した自由民権運動にかかわる「三陽雑誌」全四巻すべてでした。





東京大学などに一部はあったものの、高橋先生の長年の心血を注いだ調査でさえも全四巻揃っては見つからなかった代物です。

高橋先生の資料が三春町に寄贈されることに理解を示された佐藤氏は「金弥さんにあげるから自由に使ってください」と話されたそうです。


田中さんは、すぐにその場で電話を借りて高橋先生のお宅に連絡をしてそのいきさつを報告したとの事です。


高橋先生も大喜びで、“三陽雑誌”も先生の資料と一緒に三春町に寄贈されることとなった、ということでした。

まさにこのことは、先生が話された「資料のほうからお呼びがかかる」という実体験だという話をしてくれました。






じっくりしっかりと事を行っていれば「吉報が向こうから来ることもある」ということも、私も実体験も重なって最近になって感じ始めています。

この三春町史編纂の陰には沢山の方々の努力とご協力があったことと思います。

さらに、全11巻という町史を発行する三春町の心意気に賛同され、編纂に携わった方々には、監修者も兼務した大竹正三郎氏はじめ、高橋哲夫氏・新田勝彦氏・大沢貞一郎氏・田中正能氏・菅野与氏・大内寛隆氏・田母野公彦氏・遠藤清一氏・渡辺康芳氏・川又恒一氏・渡辺義久氏など三春出身、そして、三春にご縁のある方々が多かったことは、我がふるさと三春町の誇りであると思っております。


     蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春! 拝



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:41 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺372号 「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村家武士団(その1) 令和4年7月発行




塵壺372号 「田村四十八舘」御春輩(みはるのともがら)田村家武士団(その1) 令和4年7月発行


戦国乱世。
田村庄司・三春城主田村氏配下、「御春輩(みはるのともがら)」と記された田村武士団は、田村領「田村庄」「小野保(現小野町付近)」に、各々の所領を本拠とする「舘」、後に云う「田村四十八舘」を築いて迎撃防御体制を整えて有事に備えていました。

「光大寺舘」芦沢村大字光大寺。

三春城主田村氏の一門衆で、橋本修理(芦沢修理太夫)東方与力二十五騎の居舘です。三春田村氏没落後に廃城となります。
 
尚、一騎の騎馬武者には、口取り・やり持ち・挟み箱・歩兵で、その武士の位・身分により3~4人から7~8人の徒歩の家来が付きます。

また、芦沢村には本郷前、字屋形、字岡田前に各々舘跡があったと伝わっており、箭内、土佐、荒井、傳五兵衛等の居住した舘とされています。

「栗出舘」七郷村大字栗出。
門澤左馬之介の居舘、三百六十石。

「鎌場舘」七郷村大字堀越。
佐藤左近が居住。
堀越八幡神社及び花園神社は、佐藤氏の勧請と伝わっています。

「門澤双六山城」七郷村大字門澤。

平貞盛七代の孫である安俊が、源頼朝に仕え、後に門澤○季を称し、奥州門澤深山御座城に居住し、安種に至ります。

時代は下がって、永禄年間に三春城主田村清顕に属し橋本城に移り、その息満定門澤六郎と称し双六山城に居住します。

天正十七年、岩城城主岩城常隆が大軍を率いて田村領に攻め込みます。

この際に、伊達政宗の援兵茂庭定直と共に奮戦して戦死します。

墓所は、門澤常洛寺(現常楽寺)に在ります。

尚、茂庭定直の墓所は門澤宇堂山飛龍寺にあります。







「右近舘」七郷村。
大越紀伊守の長男右近が、三春田村家のお家騒動の折に、相馬方について敗れた紀伊守の没落後に、この地に来て居住したと伝わっています。

尚、大越紀伊守の次男左近は、七郷村大字椚山にあった、「追舘」に居住するとあります。

「小舘」七郷村大字堀越。
小泉藤兵衛が、小泉舘に居住していましたが、永禄二年に小舘に転居してきました。
後に神職となって明石明神前に居を移し、その孫子は代々神職を務めています。

「堀越舘」堀越尾張守六百五十石の居舘。
七郷村大字堀越。

「椚山舘」椚山利家(祐左衛門)の居住。
椚山字十郎内。






七郷村大字牧野には、「牧野村四舘」と称する舘跡があります。

「竹之内舘」佐久間因幡の居住・字竹之内

「牧野舘」佐藤若狭の居住・字牧野

「國ヶ坪舘」渡邊加茂右衛門が居住。字國ヶ坪

「深谷舘」佐久間某が居住。字深谷

四舘の舘主共に三春城主田村氏の臣にして、田村氏改易後帰農しています。
以後、子孫は各々の地にて繁栄しています。

「七郷日輪舘」七郷村大字永谷の中央にありました。
永谷豊前守頼治以下、敷代が居住。周囲三百五十間、高さ五十丈にして、本丸、二ノ丸、三ノ丸などがある大きな館(城)だったようです。
日輪舘の由来は、日向・日当たりが良かったからと伝わっています。

永谷氏は、本姓が箕輪氏で、後に三輪氏と称しています。代々三春田村氏に仕え、天正年間には度々軍功があり、その後裔である治季に至ります。
田村家没落後は、帰農して永谷村の里正で、その子孫は今尚永谷に在ります。







「堀越平舘」七郷村大字堀越にありました。
三輪某の居住と記されています。
三輪氏の家系は、永谷豊前守治則の三男、三輪玄蕃治徳の末裔と伝わっています。


「田村仕置」による三春田村家改易に遭って大多数の田村武士団は主家を救済できなかった伊達家を嫌い旧田村領内の自分の所領にて帰農します。

尚、帰農した田村旧臣は、合戦の敗北による田村家断絶ではなかったために、敗北感を一切持たず、剛腹で武勇に富み一族郎党と共に「御春輩(みはるのともがら)田村武士団」を今に伝えています。


     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝







KFB福島放送「シェア」 ふるさとリポーター 三春

緊急特番が入り12日の火曜日に変更になりました。



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| ryuichi | 03:57 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺371号「目明かし金十郎の生涯」江戸時代庶民生活の実像 阿部善雄著 令和4年6月吉日発行



「目明かし金十郎の生涯」江戸時代庶民生活の実像 阿部善雄著

「目明かし金十郎の生涯」という本を「塵壺」の参考にしては?と先輩から紹介していただきました。

著者は旧三春藩とは隣接する旧磐城守山藩松平家2万石の守山陣屋(現郡山市田村町守山)日記である「奥州守山藩御用留帳」という貴重な史料を発見された研究者で、「目明し金十郎の生涯」は、この「御用留帳」に基づいて書かれています。





主人公である“目明かし金十郎”こと吉田金十郎は実在した人物で、本藩の陣屋がある守山村山中に居住していました。金十郎は、若い頃から博打や遊興の世界にどっぷり漬かり、もっぱら裏の世界で生きてきたいわゆる“やくざ者”で、いつしか顔役になっており、それを請われて目明しになったという経歴の持ち主です。

享保9年(1724年)~元文3年(1766年)までの42年間、徳川幕府でいうと徳川吉宗・家重・家治の時代に約46年もの間“目明かし”を勤めていました。





目明かしというと、私たちは「伝七捕り物帖」や「銭形平次」など“岡っ引きの親分”、そして“十手”を思い浮かべますが、守山藩(江戸以外の諸藩領の目明しも同様)では“十手”を持ちませんでした。
その代わり藩士・名主と変わらない黒紋付の羽織和装の身なりや、刀剣の二本差しである“帯刀”が認められていましたから、時代劇で云う所の同心・与力という姿だったと記されています。

磐城守山藩領は、現在の郡山市田村町の守山から蒲倉・舞木・山田・西田町三丁目など阿武隈川の東岸31ケ村と大洗町松川陣屋管轄の常陸国松川領34ケ村(現在の茨城県大洗町付近)がありました。

目明しである金十郎の管轄は守山藩領だけではなく、隣接する旧三春藩領、天領柳橋など広範囲にわたり、資料の中でも江戸時代の地方の治安や村の様子が短編ながら詳細に描かれています。






博打を摘発されて菩提寺に駆け入りして図々しくも赦免を懇願する農民や、怒濤のように押し寄せる百姓一揆の怒号。また、湯殿山をめざして道中を連れ立った老夫婦の仲睦まじい旅姿、困窮の果てに出奔した親子三人を金十郎が自費で探しに行くも結局行方知らずだったり、“出稼ぎ”と称して三春藩家中でちゃっかり陪臣足軽をやっている農民を摘発したり、阿久津村などの村の顔役に芝居興行を許可することが金十郎の収入なっていた等々、その時を生きた庶民の不安や喜びなど生の声が聞こえて来るようです。


金十郎が活躍した時代、立て続けに起こった大飢饉(だいききん)や大地震、そして長雨など天変地異が庶民の生活にも重大な影響を及ぼし、そうした世情の不安定な中を芝居、湯治、博打などにわずかな楽しみを求めて懸命に生き抜いた人々の姿を余すことなく記されています。

磐城守山藩は、松平氏で徳川御三家である水戸藩徳川家の分家で、水戸家初代徳川頼房の子、光圀の異母弟松平頼元を藩祖(常陸額田藩)としますが、元禄13年(1700)に、その子頼定の時に額田を返上し、新たに田村郡磐城守山をはじめ常陸行方郡、鹿島郡、茂城郡に封を受けました。

当初は鹿島郡松川村に陣屋がおかれましたが、その後宝暦6年(1756)に磐城国守山の地に陣屋が移され守山藩となりました。





当然幕府内での家格が高く、江戸城では仙台伊達氏や長州毛利氏、薩摩島津氏と同じ大広間詰でした。
また、水戸藩は、江戸幕府徳川家特例で江戸に常在し参勤交代がありませんでした。

本家水戸藩同様、分家である守山藩もいわゆる江戸常府で参勤交代が免除されていました。

このような事情から守山藩歴代藩主松平氏は江戸小石川の藩邸に定住し、藩士も代官役の藩士(3人)以外は一度も守山を訪れたことはないのではないかと考えられます。






幕府御家直参旗本家の所領管理もほとんどが同様で、領地を代官や村役人に任せて年貢の徴収だけでしたので、治安を守る現在の警察業務を預かる“目明し”の役割が大変重要になっていました。

尚、最後の守山藩主松平頼之(まつだいらよりゆき)公は、徳川最後となる15代将軍・徳川慶喜公の弟です。


蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝


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塵壺370号 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 三春千葉氏 令和四年5月発行




令和四年5月発行 塵壺370号 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 三春千葉氏


大河のタイトルになっています「鎌倉殿の13人」。

源頼朝を鎌倉殿(かまくらどの)とよんでいますが、この鎌倉殿とは、源頼朝の父である源右馬助義朝が源氏の棟梁として鎌倉に屋敷を構えて坂東・東国の活動拠点にしたことから呼ばれるようになっています。

そして、13人とは、源頼朝の死後、鎌倉2代・頼家の頃から行われ、鎌倉殿を助けて「十三人の合議制」に参加した13人の重臣たちの事で、鎌倉の有力な武家(御家人)から選ばれ、頼家と大江の独占政治の回避とそれら側近に権力が集中するのを嫌う御家人たちの意見を尊重して話し合いで政治を行っていました。


鎌倉殿による平家追討戦に於いて需要な役割を担った岡本信人さん演じる下総国の千葉一族の中興の祖と言われる千葉常胤(ちば・つねたね)もその13人のうちの一人です。 

下総千葉氏は、平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、後の坂東八平氏・関東八屋形の一つ下総千葉氏の末で、公家の為の政治から民衆のための政治へと改革を断行して朝廷へ反旗を翻した「平将門の乱」、そして神田明神三宮御祭神として知られる平将門公に縁のある坂東平氏一門で、中世の房総半島を中心に栄えました。

 また、千葉氏は下総国の任用国司として「下総権介」に任じられていた千葉庄・下総国千葉郡(いまの千葉市附近)の豪族で、佐藤浩市さんが演じる上総介広常らとともに、挙兵から一貫して協力したことで頼朝の信頼を得ています。


「奥入(おくいり)」と称された奥州追討(平泉藤原討伐)東海道方面の軍勢の指揮官として千葉常胤が常陸国や下総国の武士団を率いて参戦しています。


後に千葉氏は、恩賞として東北から鹿児島にいたるまで全国各地に領地を与えられています。尚、平将門(相馬将門)を祖とする相馬野馬追の相馬氏もその一派です。
苗字となる千葉(ちば)の由来については、諸説ありますが君島系園を見ますと「当地の国主が千葉(松か)の花園に舞い降りた天女を娶って子孫繁築した」と、天女にまつわる「羽衣伝説」に
由来する何ともロマンチックな説明が記されています。






平安時代後期、大治元年(1126年)の6月1日に、桓武平氏平高望の子孫、常重(つねしげ)は現在の緑区大椎町から中央区亥鼻付近に本拠地を移し「千葉」を名乗ります。

その千葉の流れを汲む三春千葉氏。

鎌倉時代、南北朝時代を経て室町幕府後期まで繰り広げられた坂東武者を巻き込んだ長い戦乱の世にあって戦国期に下総から撤退して全国に拡散し、その所々で繁栄をする家系で、その一派が三春に住み着き、三春田村氏の与力組下となったと考えられています。
 

三春千葉氏の舘は、戦国時代、三春城主田村氏の構築した防御要の出城、いわゆる「田村四十八舘」の一舘で、その重臣千葉紀伊守が城主を務めた「西方舘」通称「西方の霧舘」です。
西方霧舘の在る西方村は、三春城下の南部に位置し、大滝根川沿いの山麓にある西方霧舘址は、今でも寒暖の差が生じる時節には霧が立ち込め、「霧の舘」の幻想的な姿を彷彿とさせてくれます。






"中妻文化財を守る会"の案内板によれば、「東に大滝根川南西は急崖の要害の地で山裾にある"行井戸"より立昇る霧がこの城にたなびいて神霊を崇めて霧舘と称し、峯続きにある千葉氏の氏神である北辰妙見宮(尊攘王)が、この舘(城)の守護神であるという」と記されています。


現在の千葉市にある妙見本宮千葉神社の御分霊とされ、千葉神社は“星の神様”を祀る珍しい神社で妙見信仰の総本社となっています。

 毎年元旦に西方地区で開催される奇祭「西方水かけまつり」

古老の説明によれば、西方舘主千葉紀伊守が、手勢である配下の与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。



疫病コロナ退散祈願  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝






KFB福島放送シェア「ふるさとリポーター」


三春担当リポーターの私は下記の日程で放送分で登場です。


五月五日こどもの日、そして「端午の節句」の放送と云えば「三春昭進堂のかしわ餅」を紹介せずには入れません。







そして、子供の頃のソウルフード「伊藤精肉店」のハムカツ・・・・グルメんち




さらには、伊藤精肉店2台目店主と、その後継者3代目若主の意外な特技とは・・・・








5月5日放送のシェアですが、三春単独放送に決まりました❣️


スタジオでアナウンサーとゲストが三春昭進堂の柏餅と伊藤精肉店の三春グルメンチを食べていただきます。








食レポも要チェック~ 楽しみです!












内容は見てのお楽しみ!







端午の節句、5月5日のシェア午後4時20分ごろからです💖








さらにテレビ出演が続きます!






Kfb 福島放送「シェア」第二部「あばれる君熱血町自慢!」というコーナーで、5月の月曜日4週にわたって三春特集、あばれる君が三春を散策します。


当三春昭進堂は、トップバッターとして本日5月9日(月)午後6時20分ごろから放送されます💕









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:45 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺369号 「三春舞鶴城2022 バーチャルリアリティー(VR)映像」 2022.4発行




三春滝桜天然記念物指定100周年記念



塵壺369号 「三春舞鶴城2022 バーチャルリアリティー(VR)映像」 2022.4発行


昨今の「城郭」ブームの中、三春城や城下町の往年の姿(江戸期三春城主秋田氏時代)を仮想空間で復元した「三春舞鶴城バーチャルリアリティー(VR)映像」が完成し、登城された皆様を難攻不落と謳われた在りし日の「三春城(舞鶴城)」へ案内します。

 この「三春城VR映像」は、江戸時代の「三春城下御越し絵図」が基になっており、事前にお持ちのスマートフォンに専用アプリ「ストリートミュージアム」(無料)をインストールして「三春城及びその周辺」の現地に足を運んでいただき、アプリに示された指定のポイントでカメラを向けますと、三春城の全景(俯瞰)、三春城本丸・表門内、御殿前、 裏門外、大町四つ角等々の当時の姿画像が見られるという仕組みです。






三春城は、500余年前となる戦国時代に、現在の三春町の中心部にある大志多山を利用した山城です。

この城を築いたのは坂上田村麻呂の末裔とも伝わっている三春田村氏の初代(伝田村氏23代当主)である戦国大名平姓田村義顕公で、永正子年(永正元年1504、もしくは同十三年1516)の築城と伝わっています。 

「三春城下天正絵図」によれば、創建当時の三春城は山頂上の段に櫓2棟の「本丸」、下の段に櫓1棟の「二ノ丸」、そして、南側の中腹に「三ノ丸」を置き、山麓には城主直参の旗本衆「不断衆」はじめ主だった一族郎党の屋敷が配置されていました。

寛永5年に三春城主となった松下石見守長綱公によって近世城郭への改修が大規模に行われ山頂上下の段を「本丸」として土塀や石垣をめぐらし、西中腹に「二ノ丸」、南東中腹に「三ノ丸」が配され建物も8棟を数えました。






後に、蒲生氏城代田丸直昌(石垣大規模改修)、上杉氏代官、加藤氏の時代を経て、江戸期の三春城主秋田氏も歴代城主が改修した城郭に補修を加えながら使用していましたが、天明5年(1785年)の三春大火により御城は全焼します。

その全焼からの復興の中で「二ノ丸」「三ノ丸」は廃し、本丸には建物3棟のみが建てられ「藩主御殿」や「藩庁」は西麓(現三春小学校)へ移設再建されます。






領内防御の戦略としては、「いざ合戦!」となった場合は城に立て籠もっての「籠城戦」ではなく、城主御一門や直参旗本不断衆などの本軍は出撃して領内東西南北の各所に配された「舘」、いわゆる「田村四十八舘」を守る田村衆と共に防御の要として一戦交えるという戦術が採用されていたと考えられます。


三春初代となる田村義顕(卜西)公、正妻は岩城大舘城主岩城常隆の娘です。

弟は三春田村氏を3代に亘り支えた「攻めの月斎」こと田村月斎顕頼(橋本庄七郎)で、周辺諸氏からは「畑に地縛り(雑草)、田に蛭藻(ひるも・藻)、軍に月斎なけりゃよい」と恐れられた軍師です。
記録によると100歳を超えても頭脳明晰の軍略家で田村勢の参謀として戦陣で采配を奮っていたと記されています。



三春2代田村隆顕公は、今話題の武将である陸奥国守護職・伊達左京大夫稙宗(政宗曾祖父)の娘を妻としています。

次弟の起雲斎憲顕(廣顕公・下枝の戦いで戦死。後に息子隆信が継承しこの田村系が鷹巣田村氏の祖)を船引城に、さらにその下の弟である梅雪斎顕基を小野城にそれぞれ封じて領内の守りを固めています。

三春3代田村清顕公は、正妻は相馬家十五代惣領家当主相馬顕胤娘・於北を迎えて三春田村氏の最盛期を迎えます。

後に愛娘「愛姫」を伊達政宗に嫁がせて、伊達氏の後ろ盾を得て、会津蘆名氏の仙道(現中通り地方)侵攻に対抗し、さらには安積・岩瀬方面に出撃して三春田村領の領地を拡大していきます。

しかし、清顕公には後継者となる男子がいないまま戦乱の中で急死します。






突然主を失った田村氏は一時伊達政宗の勢力下に置かれ、清顕の甥の宗顕(孫七郎・後に牛縊定顕)が家督相続をしますが、天正18年(1590)豊臣秀吉の奥羽仕置により改易となり伊達家(白石家)へ吸収合併されます。



三春城の別名「舞鶴城」の命名の由来として、田村義顕公の初入城の日に城の上空に1羽の丹頂鶴が現れ輪を描いて飛んだのでこの吉兆を喜び「舞鶴城」と名づけたという説。そして、もう一つ田村公が築城する際に、領内の安泰を祈願する為に人柱にする美しい娘を探し、領内の光大寺村に「お鶴」という娘がいて大変美しかったので「人柱」として山頂に埋め、その娘の供養もあって舞鶴城と名づけたという伝説が伝わっています。



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塵壺368号「中世の商人 坂東屋富松四郎和泉守氏久」 令和4年3月発行





塵壺368号「中世の商人 坂東屋富松四郎和泉守氏久」 令和4年3月発行


 室町時代、南奥州から北関東で活躍した豪商・坂東屋富松四郎和泉守氏久(富松という名称は世襲)がいました。

商人でありながら和泉守(前・左衛門尉)という官位を拝領し、当時の営業活動全般が取り仕切られている“座”から奥州諸大名を相手に、熊野新宮参詣を案内できる権利「先達職(せんだつしょく)」を購入し「熊野先達職」を保有していました。

熊野先達職というのは、田村庄を管轄する熊野へ行く際に、旅程にある各関所の通行手形の発給手続きや、道中の宿泊施設の手配など現在の旅行代理店業務をすることで手数料を徴収する観光業者的な役職です。

坂東屋富松は、室町幕府より、もう一つ大事な仕事を任されていました。







 それは、室町幕府の将軍職就任や家督継承等の各種慶事の祝い、そして奥州諸氏の京都へ入洛する際の御礼や心配りの付け届け、御祝儀等々を督促・集金して廻ること、さらに、将軍の名前より一文字の拝領や、武将官位の下賜による叙位任官等への勧誘及び申請などを幕府執政に成り代わって行うことでした。


武将官位とは、田村大膳太夫清顕、松下石見守長綱、安東秋田城介實季などに見られる「○○太夫」「○○守」「○○介」のことで「受領名」「官職名」など表されています。


この叙位官位には、幕府への金品の授受が必要とされ、衰退していた室町幕府にとっては正当な財源の一つで、坂東屋富松はその報酬として手数料を取っていました。


伊達政宗の曾祖父である伊達植宗の従四位下・左京大夫任官及び陸奥国守護補任には富松氏久が・・・・

植宗の子晴宗の左京大夫補任やその子輝宗の韓字拝領などの際には富松与一が・・・・

さらに天正十六年、豊臣秀吉の奉行衆の一人で富田一白の書状を伊達政宗のもとに伝えて上洛催足の役を務め、翌十七年から十八年には伊達政宗の元へ伊達氏による会津葦名侵略に対する秀吉の意向や、上方の政情を伝えたのも坂東屋道有・・・というように、坂東屋富松の事業継承者による仲介がありました。

尚、伊達植宗は、坂東屋富松を駆使して官位取得、さらに奥州探題職就任を目指して、巨大山城・桑折西山城を築城して最新の防御設備をすでに備え、信長より先んじて家臣の城下集住も行い、伊達の領土拡大と武家のみならず民衆にも適用される法令を整備した新たな国づくりを行っています。

また、昨今の城ブームの中で“信長より三十年早く城下町を造った武将”として注目を集めています。








「祐玄熊野先達代官職預請文」(青山文書・永享二年)「奥州田村庄熊野先達之御代管領状之事」を見ますと荘園制度の中の熊野新宮領(荘園)で、後の三春藩領の母体となる田村庄の熊野先達との其れなりの関わりが記されています。

室町中期の永享二年(1430)、田村庄熊野先達の代管職を入質して流した田村大蔵祐玄がこの代官職を「坂東屋のつし」から預けられたことに提出した証文が記載されており、今後は先達として参詣の度に一人500文ずつの上分を坂東屋に納めることが記されています。


また、康正二年(1456)「乗々院役者連署奉書」(青山文書・嘉吉元年)には、田村庄司遠末一家(三春田村氏系統?)先達職を湯上坊(磐城守山大元帥明王山内)から買い取った坂東屋道公が田村兵部公へ譲与してその任を安堵したもの。

さらに大永五年(1525)の売券では「田村三分一御道者」の先達職を小祭刑卿覚清が蒲倉蓮光坊(蒲倉大祥院?)へ売却の際の請人に坂東屋富松がなっていると記されています。


板東屋富松は、伊達家だけでなく、田村庄田村氏、白川荘白川氏など他の奥州領主の下でも自身の商売として働いているようで、坂東屋富松の南奥州に於ける活動は現代の総合商社的な役割を担っており、東北北関東の諸大名家への営業活動も、当時の政治経済の中心である京都との文化経済の流通を担って室町幕府とくに政所と深い交渉をもったものとみられています。


これらの活動は、室町時代の中期には始まっており、室町幕府減亡後、豊臣政権とも関係を保ったことから徳川幕府成立前後まで約百五十年は続いたと思われます。

参照文献「坂東屋富松と奥州大名」小林青治(福大史学40/1985.11)









蒼龍謹白  コロナ退散祈願 さすけねえぇぞい三春! 拝







舞木のお稲荷様「初午大祭」 高屋敷稲荷神社 



     令和4年3月6日(日) 祭典 午前10時より

 初午の日の参詣は「福詣り」とも言われ、「福」が授かると言われております。

新型コロナウイルス感染拡大防止から、新しい参拝方式を取り入れて皆様の御参詣をお待ちしています。


「初午」は、和銅4年(西暦711年)2月初午の日(旧暦2月最初の午の日)に、京都伏見稲荷山に稲荷大神様がお降りになられたことに由来しています。








問い合わせ 高屋敷稲荷神社 ☎024-943-6396 郡山市白岩町高屋敷



| ryuichi | 04:07 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺367号 旧鷹巣総鎮守 「大元帥明王・石の宮様」



塵壺367号  旧鷹巣村鎮守「大元帥明王・石の宮様」

三春町で「大元帥明王」と云えば城下山中にある旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社(堂)」(現田村大元神社)の名前が挙げられますが、鷹巣の「石の宮様」とよばれる「鷹巣神社」も明治維新前までは鷹巣総鎮守「大元帥明王」を祀っていました。

明治新政府が神仏分離令を布告した際の明治三年に提出した答弁書と思われる「鷹巣総鎮守大元帥明王由来書」の写しにその詳細が記載されていました。






 鷹巣神社の鎮座する場所は、現在の鷹巣八雲神社の本殿右側より山道を上り、 社の裏となる小高い約10坪ほどの広さの所に、古来より鷹巣の方々が鎮守様「石のお宮様」として祀っている、間ロ二尺 奥行き四尺の総石造りのお宮が二社、明治維新後に集められた十三の小さな祠と共に鎮座しています。





 「石のお宮」に奉られている神様が鷹巣総鎮守「大元帥明王」で、現在の「鷹巣神社」祭神を国之常立命としています。







 そしてもう1社は、源義家公が鎮守府将軍として奥州下向の際、家臣である鎌倉権五郎景政に由来する「五龍神社」で、旧神号「五龍大権現」をお祀りして、この二社を現在でも「石の宮様」と敬ってお参りをしています。







 大元帥明王の勧請は、平安時代となる弘仁十己亥年(819年)2月25日、磐城守山山中村(現郡山市田村町守山町山中)より奉還し、同社神主の柳沼市太夫神が神職として勤仕したと記されています。

その後、応仁の乱後の室町時代となる文明17巳年(1485)、舊(旧)記山中村神主柳沼玄蕃、神人柳沼山ノ守、同民部代則、祭礼には鷹巣村近郷より寄付方控左書を綴奉するとの記載もありました。


 江戸時代中期の文政5年( 1822年 )9月吉日に改築され、建立村惣氏子と刻まれた文字が社裏に見えます。






現在の鷹巣鎮守「八雲神社」の由来は、瀬山にあった天正16年(1588)勧請の牛頭天王を、明治初期に廃仏毀釈神仏離反の命により、祭神を「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」、神社名を「八雲神社」と改めこの地に移したもので、鷹巣地区の総鎮守となっています。


 明治4年、明治政府は江戸時代までの神仏習合を改め後の廃仏毀釈の原点となった神仏分離「神仏判然の令」を下して神道国家の教化の政策を進めて、国中の神社社格の律令制確立を目指し、官幣社、国幣社、府県社、郷社、村社、無格社等の定めにより「村の鎮守神」としての格付の申し渡しが有りました。





 

その折に、鷹巣の鎮守として祀っていた「石のお宮」様は、国の定めによる鎮守である村社としては認められず、鷹巣村では、沼沢村の鎮守「春日神社」を、沼沢・鷹巣両村の鎮守として一緒に祀るようにとの申し渡しがあったと記されています。






 この通達に対して鷹巣の人々は、何とか鷹巣村単独の鎮守の建立を願い、その方策を思案して会議を重ね、遂には瀬山にお祀りされていた戦国時代の三春城主田村家重臣、鷹巣七竈の首長と云われた橋本刑部左衛門貞綱が、尾州津島から勧請したと伝えられている「牛頭天王」を「建速須佐之男命」を御祭神とする鎮守「八雲神社」と定め、当局より承認を得ました。

 それに伴って、泉田地区に新たに社殿を建立して、明治9年になって瀬山の牛頭天王を分霊し、新たに八雲神社として遷座遷宮し、翌年には「奥の院本殿」を建立して鷹巣村の鎮守としました。








 宮司も王政御一新に付き柳沼安芸が御奉仕方を譲位して、新たに鷹巣村田村大和、鷹林和泉(修験・元別当光祥院)の両神主が神勤仕して鷹巣神社頭往右勤請と記されています。

尚、田村大和とは、鷹巣の修験・威徳院賢晃を改名した名前で、後に田村清見と再度改め初代鷹巣小学校の校長となった方で、鷹林和泉は二代目の校長です。





「鷹巣総鎮守大元帥明王由来書」 田村大和 明治三年 

「鷹巣八雲神社由来書」  明治四十四年 田村真記

「田村の庄・鷹巣の里を巡る」橋本史紀(吉正)著 参照




十三体の小さな祠 詳細

・三渡神社 天牟良雲命 琴平様
・熊野神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 鎮護社地
・天 神社 天穂日之命 鎮護所
・愛宕神社 火産霊命  鎮護所
・山神神社 大山津見命 鎮護所
・地 神社 埴山毘賣命 鎮護所
・荒 神社 久延比呂神 鎮護所
・地 神社 埴山毘売命 鎮護所
・戸隠之神社 磐戸別命 鎮護所
・神明社  撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 北之内
・稲荷神社 宇迦之御魂命 鎮護所
・熊野神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 鎮護所
 威徳院賢晃 傳錦汝  右之通御座候也  明治三年 鷹巣村神主 田村大和(威徳院賢晃改名)


追伸、石のお宮様の意味を考えて見ました。
古来より、日本人は自然の山や磐、巨木、海、田圃、屋敷、竈門やトイレ等々に神が宿っていると信じて信仰の対象としてきました。
 近年まで、村の鎮守や氏神屋敷神等は特別な建築はなく、神の降り立つ場所聖域とし、周囲に玉垣(瑞垣)や注連縄で神域と現世の境界を区別し、祭祀を行う神域・神霊の依り代を神籬(ひもろぎ)と称して拝んでいました。
時代が下がって、疫病や飢饉からの回避祈願や江戸中期以降、特に明治初期の廃仏毀釈後になって次第に神殿(神社)が建てられ祀られるようになったと考えています。
神仏習合、村組織や身分制度に定着に伴って、神籬の信仰ではく、神がいるとされる神殿を拝むようになりました。
本殿を始めとする神社の建築も、神体を納めるために造られたものであって、それより古い形式の神社には本殿がありません。


  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  コロナ終息祈願  拝


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