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塵壺392号「私の還暦祝い・・・二つのサプライズプレゼント」 令和6年3月発行




塵壺392号「私の還暦祝い・・・二つのサプライズプレゼント」 令和6年3月発行


私の還暦祝い・・・二つのサプライズプレゼント
 
私事になりますが、辰年の今年1月20日に人生の節目である還暦を迎えました。







その日の午後、一つ目のサプライズなプレゼントがありました。

そのプレゼントは大きな油絵で、その作者は私の大叔父である故高橋哲夫でした。
 
哲夫さんは、自由民権運動などの歴史研究家で有名でしたが、絵の才能も非凡であり、自身による多くの著書の挿入絵なども手掛けており、哲夫さんの絵の収集家や愛好家も多かったと聞き及んでいます。

しかし残念ながら、実家であるわが昭進堂には一枚も絵画はありませんでした。






 その絵をプレゼントしてくれたのは、私の大先輩である田中金弥さんでした。

金弥さんは店に入ると「私の終活の一環として、そしてこれまで続けてきた『塵壺』への高橋先生のご褒美だと思って受け取ってください」と梱包された絵を静かに開封されました。

これには居合わせた妻共々驚き、言葉も出なかったほどでした。
 
この絵の由来をお聞きしますと、大叔父が一番弟子と認めた田中さんが役場を退職するときに「還暦の祝いと一緒に!」と言ってプレゼントしたものということでした。


 その絵は、山間の田んぼの水面に杉の木が映り、あぜ道を農夫が通っていくというもので、その農夫の小さな帽子の色だけが「赤」でした。

 「赤」は邪悪を払うという意味があり、還暦には不可欠な色なのです。

「私も退職後もいろいろありましたが、この絵を家の玄関に大切に飾り、16年間この赤の帽子に感謝しながら“日々これ好日”で過ごしてきました。今度は、龍ちゃんも、あと16年はガンバレ!とのエールの意味も込めて、この絵を実家である三春昭進堂に戻します。これからも多くの愛読者のために『塵壺』を続けながら新しい歴史を築き上げてください。」と言って帰られました。






 この絵を見返しながら、還暦を迎えられた御礼に氏神様である田村太元神社に参拝して仁王門や社殿に設えてある龍の彫刻「雲龍」をじっくりと眺めてきました。

「雲龍」はその全体像をはっきりとは見せてはくれません。

顔が見えている時は、身体はほとんど雲に隠れて見えない。身体がちらっと出た時にはもう顔が見えません。

だから龍というのは世の中・世間と同じで全体を掴む事は永遠に不可能だという意味が込められているということを示していると聞いたことがあります。


 赤い帽子の農夫には「還暦に際して、雲龍が示唆する人生訓を思い返して、これまでの経験値から自分で分かったような気になっていることも全て見つめ直し、これからの人生を謙虚な心で改めて積み重ねて行きなさいよ」とこの絵を持参した金弥さんから改めて人生訓を教授していただいたような気がいたします。


 早速店内に配して、日々研鑽の糧としています。




 

そしてもう一つのサプライズです。ファミリーのような蒼龍御用人会6人の計らいで「還暦祝い」を馬場の湯温泉「三ツ美屋旅館」で開催してくれました。

 還暦の衣装「赤いちゃんちゃんこと頭巾」を身に着けて、家族もご招待を受けての本当に楽しい還暦祝い祝宴です。

 このメンツは、彼らが中学生の頃より35年来の付き合いとなる元アルバイト・スタッフの面々で、公私ともに家族の様な存在です。

父の葬儀の際にもお骨上げをしてもらいました。






 還暦祝宴の前に、いまいずみ写場にて記念撮影があり、メンバーの構成や成り立ちを聞いた今泉社長から「今日だけは肩書や役職を忘れて、中学生に戻ってはしゃいでください!」と云う粋な注意喚起がありました。

そして、「嬉しいねぇ、35年来のメンバーで還暦を祝って・・・幸せだね!」とのお言葉をいただき、我慢していた涙がとめどなく溢れてきました。

本当に幸せ者です。





 こうして還暦を迎えられるのも、これも一重に家族、お客様、友人知人、スタッフの皆さんなど様々な方々のお引き立てを頂戴していること。

さらには、神仏やご先祖様の御加護があっての賜物だと思います。

心より御礼申し上げます。今後ともご指導、ご鞭撻を賜りながら、ご高配、ご贔屓くださいますようお願い申し上げます。






      蒼龍謹白 さすねぇぞい、三春!  拝 


| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺391号 「曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下」 令和6年2月発行



塵壺391号 「曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下」 令和6年2月発行
 

曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下

「令和6年能登半島地震」により被災された皆様のご無事と被災地の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。

この地震の影響で、輪島市門前町にある曹洞宗の諸嶽山總持寺祖院でも、国の登録有形文化財に指定された建物が全壊するなど大きな被害を受けました。







總持寺祖院は、かつての曹洞宗の大本山「總持寺」で、明治31年に発生した火災の災禍により七堂伽藍の大部分を焼失。

これを機に、本山として神奈川県横浜市鶴見へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなっています。


元亨元年(1321年)、本年700回大遠忌を迎える開山太祖、瑩山紹瑾禅師によって開創され翌年には禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。


瑩山禅師の跡を次いだ総持寺第2世・峨山韶碩(がざんじょうせき)禅師(1275〜1366)の門下には、五哲とも二十五哲とも言われる有能な弟子が参禅し、彼らが曹洞禅を全国的に広めたことによって更に門下が増えていきました。






そこで、曹洞宗開祖道元禅師の教えの「相承」と優秀な僧を育むために、峨山禅師の死後の「輪番住職制」で運営されるようになります。

もう一方の大本山永平寺は独住制です。

この輪番住職とは、全国末寺の「五院輪番地」(江戸中期記載17,361寺)から1〜3年おきに輪番住職として總持寺の住職を「五院(塔頭庵主も輪番)」と呼ばれる5つの塔頭寺院(普蔵院107ヶ寺、妙高庵86ヶ寺、洞川庵51ヶ寺、伝法庵49ヶ寺、如意庵58ヶ寺)から各塔頭から1名、計5名が選ばれて75日交代で住職を勤めました。


元和元年、徳川幕府より法度が出されて永平寺と並んで大本山となります。明治維新後の諸嶽奕堂(もろたけ えきどう)大和尚以降は輪住を取りやめ独住制となりますが、貞治3年から明治3年まで約500年間、実に5万人近い僧侶が本山住職を勤めました。

輪番住職の交替期(10月2日)には、上番下番の僧呂や寺院関係者1,000人以上も集まり、短期に住職が変わることで、全国の輪住地寺院から衆僧の往来が絶えず、總持寺と門前町は大変な活況を呈したと言われます。






三春城下からは普蔵院輪番地として清水にある曹洞宗録所萬年山天澤寺。そして、三春藩主に秋田氏が入城以降の「僧録(国僧録)」論争とは別に、藩主菩提寺の曹洞宗録所秋田山龍穏院も宍戸以来、總持寺直末三十六門、洞川庵輪番地となっています。


「能州大本山總持寺輪住心得并一回中手控」安政4年(天澤寺蔵)によれば、天澤寺の属する普蔵院末寺の場合は約50年毎、龍穏院は本山末寺三十六門及び洞川庵末寺数により、数年毎に輪番住職に赴任していました。







その際に赴く和尚は、供回りとして伴僧3名、従者1名を含めた滞在・往来費用は、年代にもよりますが180両は必要との記録が残り在勤中の諸経費はすべて自前だったといいますから事前の貯蓄が必要で天澤寺の記録には10年前から蓄えたと記されています。

また、その蓄えにしても末寺数の多さや藩主や大商人など強大な庇護のある有力寺院の僧侶しか本山の住職は務めることができなかったと思われます。


当家の菩提寺である天澤寺歴代住職の位牌堂を見ますと、御位牌には、「前總持 當寺廿一世 悅巖快禅大和尚禅師」または「前永平兼總寧 當寺 随意會中 霊海崐山大和尚禅師」と記されたお位牌を目にすることができます。







この「前總持」とは、悅巖快禅大和尚が總持寺の輪番前住、又は当住が總持寺に赴いた場合の資格を示し、そして、「前永平兼總寧」は、霊海崩山大和尚が永平寺に赴いた際の資格ないし待遇を示したものだと考えられます。

「随意會中」とは、江戸時代に用いられていた曹洞宗寺院の格式(寺格)「三法幢地(常恒会地、片法幢地、随意会地)」の一つで、3年ごとに1回、参加者七十人以上にて結制安吾を執行する資格を持つ寺格を現していると考えられ「今の世にいふ認可僧堂と同義である」と『總持寺史』では解説しています。



       蒼龍謹白  がんばれ能登! 拝 




三春城下清水 曹洞宗 萬年山天澤寺 歴代住職一覧

開 山 榮峯覺秀大和尚 享徳二年九月二十五日
二 世 以心良傳大和尚 長禄二年一月十九日
三 世 越叟祖超大和尚 明応五年一月二十三日
四 世 満室慶湛大和尚 文明十六年七月二十四日
五 世 聖庵慶富大和尚 永正十四年二月十四日
六 世 心叟道存大和尚 広度寺 宗源寺 天文二十年三月二十九日
七 世 天庵瑞長大和尚 観照寺 弘治三年九月十八日
八 世 音室髙威大和尚 東禅寺 常円寺 松岳寺(桂蔵寺) 永禄七年十二月八日
九 世 龍山怒悦大和尚 天正五年八月二十七日
十 世 天山文漢大和尚 長源寺 慶長七年十月二十日
十一世 峰室太雄大和尚 吉祥寺 真福寺 長泉寺 広沢寺 寛永十一年六月八日
十二世 秀巖文譽大和尚 長盛寺 寛永十三年七月十九日
十三世 耕外大作大和尚 龍光寺 万治元年二月一日
十四世 一安徐麟大和尚 全応寺(天真寺)大本山總持寺輪番住職 元禄十五年一月20日
十五世 髙室麟道大和尚 大本山總持寺輪番住職 正徳四年
十六世 揚山玄播大和尚 享保二年四月八日
十七世 實元祖璨大和尚 寛保元年五月十一日 ※法名祖璨實元の記載有(町史9)
十八世 雲洞眞龍大和尚 寛保元年八月二十八日
十九世 天陰黙丕大和尚 宝暦二年九月十一日
廿 世 霊海崩山大和尚 ※霊海崐山の記載有(町史9)宝暦十三年五月二十三日 
廿一世 悦岩海信大和尚 
    悅岩快禅大和尚(位牌) 宝暦九年四月八日
廿ニ世 即山重觀大和尚 大本山總持寺輪番住職 明和五年三月二十二日
廿三世 享寛戰貞大和尚 天明五年三月二十二日
廿四世 大空洞牛大和尚 ※法名洞牛大空の記載有(町史9)安永六年三月三日
廿五世 石庵正頭大和尚 天明八年二月十七日
廿六世 瑞巖道光大和尚 享和二年二月二十三日
廿七世 悟山寛了大和尚
廿八世 維石俊巖大和尚 大本山總持寺輪番住職
廿九世 便成正覚大和尚
三十世 快運道寧大和尚
丗一世 祖翁達三大和尚
丗二世 洞巖良宗大和尚
丗三世 佛母信元大和尚
丗四世 天狗米三山大和尚
丗五世 洞山道白大和尚
丗六世 耕眞禾山大和尚
丗七世 孝道戒順大和尚
丗八世 満海龍眉大和尚 大本山總持寺輪番住職
丗九世 全嶺恵玉大和尚 ※金領恵玉の記載有(町史9)
四十世 興山豊隆大和尚 ※興山實隆の記載有(町史9)
四一世 英法瑞雄大和尚 
四二世 東旭天秀大和尚
四三世 玉圓道秀大和尚
四四世 忍嶽賢秀大和尚
四五世 禪戒達堂大和尚



秋田山龍穏院 歴代住職 洞川庵輪番住職誌 總持寺住山記

開山 月泉良印大和尚応永七年二月二十四日夜
第二世 無等良雄大和尚 応永三十五年十月十日寂
第三世 龍谷良清大和尚 永亨十二年七月十三日寂
第四世 圓鑑良昭大和尚 康正元年五月十二日寂
第五世 機外良玄大和尚 文明五年三月十九日寂
第六世 鑑能吞昭大和尚 永正三年正月十八日寂
第七世 雲峰良集大和尚 永正十七年十月二十七日家
第八世 察心守鑑大和尚 天文十五年二日五日寂
第九世 草庵守瑞大和尚 永禄九年二月二十五日寂
第十世 光室源瑞大和尚 天正十七年七月八日寂
第十一世 天室宗龍大和尚 慶長十一年九月五日寂
第十二世 舜庵大堯大和尚 元和六年八月四日寂
第十三世 宏菴源奕大和尚 元和六年四月二十九日寂
第十四世 關室雲察大和尚 寛永十五年十二月十六日寂
第十五世 正眼雲祝大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛文七年二月十二日寂
第十六世 本祝松秀大和尚
第十七世 月宮慧閑大和尚  大本山総持寺輪番住職
   (宍戸より三春へ) 元禄六年十月二十三日寂

第十八世 鑑室良亀大和尚 貞享五年三月二十三日寂
第十九世 麟元雲祥大和尚  大本山総持寺輪番住職 正徳四年正月二十五日寂
第二十世 高山本立大和尚  大本山総持寺輪番住職 享保十七年四月十九日寂
第二十一世 大重本孝大和尚 寛延元年十月二十七日寂
第二十二世 海翁祖印大和尚 不詳
第二十三世 泰山活玄大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛延四年正月二十日寂
 月泉派 再公文龍穏院  
 一萬九千二百六十八世活玄和  元文二丁巳年八月十二日
 受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師良悟和尚
  
第二十四世 亮廓普宗大和尚 大本山総持寺輪番住職 明和六年十月十九日寂
 月泉派再公文 
  弐萬参千九百壱拾九世亮廓和尚 宝暦八戊寅年八月七日
 受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師鐵崖和尚

第二十五世 萬巖普白大和尚 天明六年十一月二十四日寂
第二十六世 萬元一如大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛政元年六月十九日寂
 月泉派再公文 弐萬八千九百世 萬元和尚 
 受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師亮廓和尚

第二十七世 九苞丹山大和尚 文化九年十一月十八日寂
第二十八世 本然量義大和尚 大本山総持寺輪番住職 天保九年七月二十五日寂
第二十九世 祥鳳忍瑞大和海 天保泗年十月十五日寂
第三十世   佛國泰然大和尚 大本山総持寺輪番住職 嘉永六年五月二十一日寂
 無端派海蔵寺 四萬七百三十九世 泰然和尚 天保十四年三月十六日
 授業師徳運和尚 嗣法師同 

第三十一世 耕真禾山大和尚 安政五年人月二十一日寂
第三十二世 至仙卍定大和尚 明治九年入月十六日寂
第三十三世 微岩一筋大和尚 明治三十六年正月二十二日寂
第三十四世 大英大和尚 不 群
第三十五世 大機謙道大和尚 昭和四年三月二十一日寂
第三十六世 大心弘道大和尚 昭和三年八月二十六日寂






三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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塵壺390号「高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所」 令和6年1月号 




塵壺390号「高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所」 令和6年1月号 


     高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所 

今も尚、禅定(永遠の瞑想)を求め入定した空海が生き続ける霊域「高野山奥之院」。その入口「一ノ橋」から弘法大師御廟へと続く参道には厳粛な雰囲気が広がっていて、古木に覆われ静寂な空間の中には20万基を超える五輪塔等の供養塔や墓石群が広がっています。
 

その中に、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗、そして、結城秀康といった戦国武将・大名の墓所として約110家の墓所があります。

武田の近くに上杉、そして、信長と光秀、徳川と結城等々・・・敵同士として戦った家中であっても関係なく、安らかに眠っているように感じられます。

これは高野山「御廟」に在る空海・弘法大師のそばで眠りたいとの先人たちの願いがこめられていると伝わっています。


 磐城三春藩秋田家も、同じく高野山に墓所(供養塔)を求めた大名一家で、「奥之院」へ向かう参道「中之橋」の手前右側にあります。

「金剛峯寺境内奥之院地区大名墓総合調査報告(高野町教育委員会編)」を見ますと、三春秋田家の墓所には、大型の五輪塔5基と中型五輪塔9基ほか多数の石塔があると記載されており、秋田家の墓所に五輪塔5基は南北方向に並んでいます。

三春藩初代後室 永壽院殿 本壽院真誉春覚照法 万治3年 盛季母

三春藩初代 真如院殿実岩常固 秋田俊季公 
           慶安2年 勤大阪城番於城中病没 

三春藩2代 陽雲院殿龍天蒼松 秋田盛季公 
            延宝4年 勤大阪城番於城中病没  

三春藩3代 乾元院殿剛山瑞陽 秋田輝季公 享保5年 

三春藩4代 廣運院殿俊徳玄明 秋田頼季公 寛保3年 


 秋田家墓所中之橋の手前右に3代輝季公の嫡子で、秋田伊豆守就季(廣季)公(大通院殿心源自性)の五輪塔もあります。

 就季公は、三春藩家督争いとされる「正徳事件」渦中の人として家督せぬまま正徳5年6月4日に父に先だって亡くなっています。

 この五輪塔は旗本秋田家から秋田本家輝季公の養子を経て4代藩主になった頼季公(家老荒木高村長男)が建立したものです。


 そして、「施主奥州三春城主秋田信濃守安倍頼季 三男秋田安五郎行歳八年而卒」「元文四己未 二月廿三日」と記された供養塔が見えますが、この方は、頼季公の3男で8
歳という幼さで亡くなった慈光院本性長了薫・安五郎・後の秋田民部公です。早世した為でしょうか高野山に供養のための石塔・墓が建てられています。

 尚、5代藩主の秋田延季(治季)公・法名天稟院殿令徳永顕から歴代の藩主は、三春城下秋田家菩提寺高乾院墓所に埋葬されており、以後藩主の高野山への埋葬はありません。(初代俊季公から四代頼季公の分骨された墓も高乾院にあります。)







 しかし、三春8代藩主秋田長季(謐季やすすえ)公だけは、もう一つの秋田家菩提寺である龍穏院の墓所に大仰院殿法鑑高輪大居士の法名で埋葬されています。4代頼季までは高野山、そして、8代の長季(謐季)公は龍穏院にお墓がありますが、他の歴代の藩主は全て高乾院に埋葬されているというのは、家督騒動絡みの家中混乱や祟り伝説等の事情が見え隠れしているような気がします。







 高野山は空海の御廟を中心とする聖域で、古くから奥之院と呼ばれます。承和2年(835)に没した空海・弘法大師、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するその時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で生き続けていると(宗教的に)信じられていて、弘法大師のもとには「生身供(しょうじんぐ)」称して1日2回の食事が運ばれてきます。


 高野山への分納骨の風習は鎌倉時代から始まったとされており、石造の五輪塔を墓石代とし始めたのが戦国期の室町時代末期。

現在は、江戸時代初期造立した諸大名家の五輪塔が多数見受けられます。

 これは徳川家康が高野山を分骨墓提所と定めたため、諸大名がこぞって高野山に墓石を建てたことに由来するとされています。


      蒼龍謹白  拝  さすけねぇぞい三春!


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塵壺389号 令和5年12月発行 「戦国のファースト・レディー~    愛姫・陽徳院、西館殿五郎八姫・天麟院 






塵壺389号 令和5年12月発行

「戦国のファースト・レディー~

   愛姫・陽徳院、西館殿五郎八姫・天麟院 


日本三景の一つ松島に、三春に縁のある伊達政宗の正妻“愛姫(めごひめ)”法名・陽徳院を祀る瑞巌寺、そして、その娘で西館殿とも呼ばれた“五郎八姫(いろはひめ)”法名・天麟院(てんりんいん)が眠る天麟院内の定照殿(じょうしょうでん)(御霊屋)があります。


愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。

そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。


このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。

この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。

政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には後に松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。それから、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸の4人の子を政宗との間に授かっています。






太閤秀吉・豊臣の天下となり聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、今でいうファースト・レディー外交的な役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな、匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、絶えず政宗を“内助の功”で乱世の伊達外交を支えていたと美談が伝わっています。



三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領し幕末まで続きました。


愛姫について、妙心寺百五十三世住持で瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。






愛姫の娘で、西館殿とも呼ばれた五郎八姫・法名天麟院が眠る天麟院内の御霊屋「定照殿」。

天麟院は五郎八姫法名の菩提寺で瑞巌寺の並びにあり、陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられています。本堂・山内は小さいですが横の参道から山に登ると霊廟の「定照」や樹齢300年以上の“はりもみ”の巨木や伊達一族供養塔がある天麟院洞窟群などがあります。





五郎八姫は、越後少将と称された越後高田六十万石の城主松平忠輝の正室です。

忠輝は、徳川家康の六男で側室である茶阿局(さあのつぼね)を母としています。元々家康とは折り合いが悪いと伝わっており、「大阪夏ノ陣」の直後の元和元年(1605)には家康
から勘当を申し渡されます。

翌年、幕府から高田藩も改易され、正室である五郎八姫とも離別させられて飛騨高山から諏訪に流されます。

天和三年(1683)、諏訪大社のある諏訪にて九十三歳の生涯をここで閉じ、貞松院に葬られます。

忠輝と五郎八姫は仲睦まじかったが子供は生まれなかったと言われています。

五郎八姫は、離縁後父の政宗のもとに戻り、以後は仙台城下で暮らします。

このとき、仙台城本丸西館に住んだことから「西館殿」とも呼ばれていました。



     蒼龍謹白  拝   田村に来てみねげ!


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塵壺388号 「三春舞鶴城築城秘話」 令和5年11月10日発行 





塵壺388号 「三春舞鶴城築城秘話」 令和5年11月10日発行 


永正のころ、戦国大名田村義顕公は、三春郷の中心部にある大志多山 (現三春城址)に御城を築き本城としました。

 城主も、田村氏、上杉氏代官、蒲生氏代官、松下氏、そして、秋田氏と移り代わりながら戦国動乱の乱世を乗り越えます。






 秋田氏治世の江戸初期から明治維新後に解体されるまで三春藩主の居城となり「舞鶴城」と呼ばれました。秋田氏の時代に、藩主の御殿は現在の三春小学校のある麓へ移っています。

 現在の城跡には、本丸や二ノ丸、そして、東舘とする三ノ丸跡があり、土塁や石の一部などが残り、遊歩道が設けられた城山公園として整備されています。

また、近年の調査によって城郭の中に江戸時代では最大級の大広間があったことや、全国でも珍しい城主のお風呂場である「御風呂屋」が存在し、主郭ともいうべき「御三階櫓」があったことも解ってきました。








舞鶴城の名前の由来には諸説があります。

田村氏の入城に際して、城の上空に1羽の丹頂鶴が現れて輪を描いて飛んだので、この吉兆を喜び「舞鶴城」と名づけたという説。

 築城に際して、城の安全を期する為の人柱にした「おツル」という娘の名をとったという説。

このおツルという娘は、領内の芦沢村光大寺の娘で大変美しいと評判だったと伝えられていて、今でも光大寺には美人が多く「光大寺美人」と云われています。







 さらに、田村氏は日和田八丁目(諸説あり)から本拠を三春に移し築城という運びとなり、その場所を求めて選定を行う際にまつわる伝説も伝わっており紹介します。

 三春郷で築城に最適と思われる大志田山(現・三春城址、御城山)と、貝山村の白山の山(現・白山比咩神社)の二か所が候補として残ります。

 この築城場所選定の話は、たちまち近在の村々に伝わり貝山村では白山様にお城が出来る事を願っていましたが標高の高い方に築城とするとのお達しがあり、果してどちらの山が高いのかという話が持ち上がり、村人々の一番の話題になっていました。

 そんな騒ぎの最中、1人の娘が大志田山の方が白山様より草履一枚分高いと自信有り気に話してしまいます。

 その話が噂になって田村家中の耳に入り白山の山にお城が出来なくなり、その一声の張本人が貝山村の“おツル”だったと判明し、おツルは村八分になり村から追放されます。

 その後、貝山村では“ツル”と言う名は禁がられ生まれた女の子にも付けなくなりました。


 近代に入り大正時代の頃までに、貝山へ嫁ぐ花嫁に“ツル”と称した方がいましたが、嫁ぐ時に名を“ケサ”と変えて嫁入りしたと伝わっています。







 前途の「人柱」とは、全国各所の築城に於いては神様への御供として人柱(生き埋め)を立てて造営の安全祈願とした伝説です。

 三春城址にも残っていますが、人の代わりに“鶴”と名付けた大石本丸に据えて人柱に替えたのではと考えています。

 尚、前記の貝山村のおツルさんは女ながら気丈夫な人だったから白羽の矢が立ったがその後どうなったかは伝説に表われていません。






 お城の別称でいえば「三春臥牛(舞鶴)城」との記載も認められます。宝暦九(1759)年に記された領内の名所旧跡を集めた『松庭雑談』には「三春臥牛舞鶴城」との記載があります。

 本丸にある「牛石伝説」ともに、『吉事有事、鶴来て城上に舞、故に領内ニ而鶴を殺さず。また不食・不買と云う』という記述があります。

牛石の伝説とは築城のとき木材を運んだ牛が石になったものだと伝えられています。

明治になってから往時の城を偲んで画かれた舞鶴城の図にも『臥牛の城』と記されており、本丸の牛石と舞鶴を併せた名で記されています。



  蒼龍謹白   三春に来てみねぇげ!  拝






三春昭進堂では、「三春舞鶴城」に思いを馳せ、「三春舞鶴城」と命名した栗どら焼きを新発売しました。

北海道小豆を使った自家製あんに"栗の甘露煮"を丸ごと一個入れて、ふわふわの手焼き生地で挟みました。





栗と餡のマッチングは良好で、栗を一個入れるだけで食べた時の贅沢感と幸福感はただのどら焼きとは違います。






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塵壺387号   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 令和5年10月発行




   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 
 
鎌倉時代中期より室町から戦国時代にかけて、仙道(現福島県中地域)では田村庄司家の勢力基盤を継承した後の三春城主となる平姓田村氏が勢力を拡大していました。

 永享12年(1440)、室町幕府鎌倉公方の奥州の拠点「篠川御所(篠川公方)」(郡山市安積町)を攻め滅ぼした土豪の中に、田村利政公の名が記された資料が残っています。

 また、享徳3年(1454)頃の資料には、三春田村氏の初代・義顕公の祖父・田村直顕公の名が記されています。


 直顕公の時代から天正 18年(1590)の奥州仕置で田村家の終焉を迎えた当主宗顕公まで約150年間(六代)に亘って戦国乱世の時代に伊達氏・畠山氏・大内氏・岩城氏・相馬氏・蘆名氏・二階堂氏・石川氏・白川氏・佐竹氏といった強豪武将たちと亘りあい、時に四面楚歌の様相を呈した時期もありましたが、三春田村氏の活躍はめざましく、領土を護るばかりではなく領土拡張を成し遂げています。

 しかし、三春田村氏3代の清顕公は、激戦の真只中だった天正14 年に後嗣を定めず病没します。

 清顕公の夫人は相馬氏から、そして実母は伊達氏から入嫁しており、これらの要因もあって跡目後見争いとなり田村家中は内紛に発展してしいます。


 やがて伊達派の勝利により伊達政宗公の「田村仕置」を受けて清顕公の甥・宗顕公が後嗣となりますが、天正18年豊臣秀吉の「奥州仕置」によって、田村氏は所領安堵が得られず、戦国大名三春田村氏は消滅してしまいます。







 「御祭舘」御祭小山舘 

旧御祭村小山(三春町御祭)舘主小山左馬之助550石

三春城下の北西隣する旧御祭村は、戦国期には田村四十八舘の一つ小山舘があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

 古文書で見ると、三春札所(前述参照)から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったらしく、当時は、現在の舘下の橋本氏の屋敷までのびていたと思われます。

 江戸中期の秋田藩政下、藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納しました。

以後、明王と牛頭天王の祭礼には御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より御祭の村名を拝領したと伝えられています。

また、地域には「突き舘」、「突き打ち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という地名が残ります。

 戦国時代末期、田村清顕公が苦戦した小浜城の大内定綱の領地塩松(安達郡東部)への街道沿いで三春城の最後の防衛線に位置する舘です。



「七草木舘」七草木舘は、田村氏の一族で石高500石の七草木新助の居城。

ここは田村氏の三春領と、畠山氏の二本松領との境界に近く、御祭の小山城と共に、三春領北西の固めとして築かれたものです。

旧七草木村は、鎌倉時代末には田村庄司家田村氏の娘が地頭を勤めていました。

 その代官は鎌倉幕府滅亡後に上洛して後醍醐天皇の新政府に加わり領地の安堵を受けています。

その後、彼女が相馬重胤に嫁いだため七草木村は一時相馬領となったという記録が残されています。








七草木という地名の由来が伝わっています。

平安時代初期の寛平年間に宇多天皇は“七種粥の節句”をおこないました。

 このとき、竹良某という人が、七種および擂り粉木を献上した際に賞されて七種木の称を賜ったと伝わっています。

後にその子孫の七種木新介という武将が此の地の“築舘山”に舘を築いて移り住み、戦国大名田村氏に仕えた際に出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたとされています。



      蒼龍謹白  さすけねぇぞい田村!  拝







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塵壺386号「田村四十八舘 小野保(おのほ)」R5.9.15




「田村四十八舘・小野保(おのほ)」 御春輩 田村家武士団

天正16年6月、伊達家重臣伊達成実が田村の援軍として大越城の攻略に加勢した際の記録「伊達治家記録」に「町・寺マデ焼払ハレ 敵ハ町構ヲ引退テ 二ノ曲輪三ノ曲輪ヲ堅ク守ル 
因テ攻ムベキ術ナシ云々」と記しています。

これにより大越城が本丸をはじめ「二ノ曲輪」(二ノ丸)、「三ノ曲輪」(三ノ丸)を備えており、大越氏の城を中心とした“根小屋町(城下町)”をも併せて城郭を形成していたことが伺えます。このように三春田村家防御上で領内の主要な城・舘は、大越城のような城郭を形成していたと考えられています。


「小野新町城」三春城主田村氏御一門の田村梅雪斎顕基(三春田村二代隆顕弟)、その子田村右馬頭顕通の居城。
梅雪斎顕盛息の子右馬頭清忠(仙道表鑑)記載有

戦国時代三春城主田村義顕公は、三春入城後、嫡子隆顕を三春におき、さらに本拠の守りを固めるため次男憲顕を船引城主に、そして三男の顕基(梅雪斎)を小野城主に封じたとされ、この頃小野の保に侵攻して勢力下にあったと思われます。


与力衆として、小野六郷の衆の、二瓶主膳正・東方与力十五騎、金田式部少輔(赤沼切戸館主会田遠江頭、菖蒲谷会田左馬助?)・東方与力五十騎そして矢崎加左右衛門・東方与力足軽百五十の記載が見えます。

 平姓を名乗る三春田村一族が、郡山市田村(日和田?)から三春へ城を築きその拠点を移したのは永正年間(1504)の義顕の頃で、岩城地方の大舘城(飯野平城)主、岩城常隆も勢力を伸ばし、小野左右衛門の築いた小野城を攻めて支配下に置いたとされます。


岩城常隆は、三春田村氏との融和の為に娘を田村義顕と結婚させ、娘婿となった義顕に「小野保(おのほ)」、後の小野六郷・飯豊・谷津作・田原井(田原屋)・羽出庭(現小野町)、広瀬・菅谷(現滝根町域)を譲ります。


三春田村氏初代となる義顕は、子の顕基=顕定(梅雪斎)を小野城の小野左右衛門の嗣子として小野城に入城させます。

以後、戦国時代の混乱の中で梅雪斎と、その子右馬頭らは田村領南の要衝小野城を守りこの地域を治めます。



三春田村氏は義顕から隆顕、そして清顕と代を重ねていきますが、天正14年、清顕が急死すると、跡取りの居ない田村の家臣団は後継をめぐって分裂します。

田村月斎や橋本刑部等の清顕夫人の生家伊達氏を頼る派閥と梅雪斎やその子である大越城主田村右馬頭などの清顕の母の生家相馬氏を頼る派閥に分かれて真っ向から対立します。


天正17年、その混乱に乗じた岩城勢(清顕の祖母生家)の侵攻によって小野城は落城したといわれています。


尚、谷津作に残る湯ノ原古戦場は、岩城氏の小野城攻略の折に小野田村勢がこの場所にて数日岩城勢の大軍を食い止めた戦いの跡と伝わっています。

「小野田原谷城」 田村御一門中津川兵衛大夫。 後に家老の宗方右近に預け兵衛大夫は中津川城に住す。



「小野神股城」 城主神股久四郎 ※「古城絵図」には常葉久四郎助と記載。

三春城主田村清顕の臣でしたが、清顕亡き後の田村家中の混乱に際して岩城勢に攻め込まれ和談を申し入れ城を明け渡しています。後に伊達政宗の臣となり仙台城下に居住。



「皮籠石舘」小野新町大字皮籠石。

高屋敷と称され、天正年間より三春城主田村氏の臣、小野城代衆(三十六騎衆)の中野道満(入道)景安の居舘 ※中道との記載もあり

三春田村氏没落後に帰農し、代々その舘跡付近に現在も居住しています。また、その邸内に老桜と鞍掛石と称する石が残っています。




「槻木内舘」郡司主膳の居舘小野新町大字小野新町にありました。

前面に小野市街地を見渡せる南西、小野本城と相対しています。

小野城主田村梅雪等の没落後帰農し、現在もその子孫が麓に居住しています。




「将監舘」三春田村氏の臣、吉田将監の居舘。滝根町大字廣瀬の南東にありました。

「西牧舘」舘主・田村氏の臣 西牧文九郎が居住。旧飯豊村大字小野山神字八升蒔きに在り。

戦国時代末の天正十四年、三春城主田村清顕と会津城主芦名氏との安子ヶ島に於いて合戦の時に西牧氏戦死。安子ヶ島地内にその墓があると伝わっています。




    蒼龍謹白   さすけねぇぞい田村!  拝


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