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塵壺370号 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 三春千葉氏 令和四年5月発行




令和四年5月発行 塵壺370号 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 三春千葉氏


大河のタイトルになっています「鎌倉殿の13人」。

源頼朝を鎌倉殿(かまくらどの)とよんでいますが、この鎌倉殿とは、源頼朝の父である源右馬助義朝が源氏の棟梁として鎌倉に屋敷を構えて坂東・東国の活動拠点にしたことから呼ばれるようになっています。

そして、13人とは、源頼朝の死後、鎌倉2代・頼家の頃から行われ、鎌倉殿を助けて「十三人の合議制」に参加した13人の重臣たちの事で、鎌倉の有力な武家(御家人)から選ばれ、頼家と大江の独占政治の回避とそれら側近に権力が集中するのを嫌う御家人たちの意見を尊重して話し合いで政治を行っていました。


鎌倉殿による平家追討戦に於いて需要な役割を担った岡本信人さん演じる下総国の千葉一族の中興の祖と言われる千葉常胤(ちば・つねたね)もその13人のうちの一人です。 

下総千葉氏は、平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、後の坂東八平氏・関東八屋形の一つ下総千葉氏の末で、公家の為の政治から民衆のための政治へと改革を断行して朝廷へ反旗を翻した「平将門の乱」、そして神田明神三宮御祭神として知られる平将門公に縁のある坂東平氏一門で、中世の房総半島を中心に栄えました。

 また、千葉氏は下総国の任用国司として「下総権介」に任じられていた千葉庄・下総国千葉郡(いまの千葉市附近)の豪族で、佐藤浩市さんが演じる上総介広常らとともに、挙兵から一貫して協力したことで頼朝の信頼を得ています。


「奥入(おくいり)」と称された奥州追討(平泉藤原討伐)東海道方面の軍勢の指揮官として千葉常胤が常陸国や下総国の武士団を率いて参戦しています。


後に千葉氏は、恩賞として東北から鹿児島にいたるまで全国各地に領地を与えられています。尚、平将門(相馬将門)を祖とする相馬野馬追の相馬氏もその一派です。
苗字となる千葉(ちば)の由来については、諸説ありますが君島系園を見ますと「当地の国主が千葉(松か)の花園に舞い降りた天女を娶って子孫繁築した」と、天女にまつわる「羽衣伝説」に
由来する何ともロマンチックな説明が記されています。






平安時代後期、大治元年(1126年)の6月1日に、桓武平氏平高望の子孫、常重(つねしげ)は現在の緑区大椎町から中央区亥鼻付近に本拠地を移し「千葉」を名乗ります。

その千葉の流れを汲む三春千葉氏。

鎌倉時代、南北朝時代を経て室町幕府後期まで繰り広げられた坂東武者を巻き込んだ長い戦乱の世にあって戦国期に下総から撤退して全国に拡散し、その所々で繁栄をする家系で、その一派が三春に住み着き、三春田村氏の与力組下となったと考えられています。
 

三春千葉氏の舘は、戦国時代、三春城主田村氏の構築した防御要の出城、いわゆる「田村四十八舘」の一舘で、その重臣千葉紀伊守が城主を務めた「西方舘」通称「西方の霧舘」です。
西方霧舘の在る西方村は、三春城下の南部に位置し、大滝根川沿いの山麓にある西方霧舘址は、今でも寒暖の差が生じる時節には霧が立ち込め、「霧の舘」の幻想的な姿を彷彿とさせてくれます。






"中妻文化財を守る会"の案内板によれば、「東に大滝根川南西は急崖の要害の地で山裾にある"行井戸"より立昇る霧がこの城にたなびいて神霊を崇めて霧舘と称し、峯続きにある千葉氏の氏神である北辰妙見宮(尊攘王)が、この舘(城)の守護神であるという」と記されています。


現在の千葉市にある妙見本宮千葉神社の御分霊とされ、千葉神社は“星の神様”を祀る珍しい神社で妙見信仰の総本社となっています。

 毎年元旦に西方地区で開催される奇祭「西方水かけまつり」

古老の説明によれば、西方舘主千葉紀伊守が、手勢である配下の与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。



疫病コロナ退散祈願  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝






KFB福島放送シェア「ふるさとリポーター」


三春担当リポーターの私は下記の日程で放送分で登場です。


五月五日こどもの日、そして「端午の節句」の放送と云えば「三春昭進堂のかしわ餅」を紹介せずには入れません。







そして、子供の頃のソウルフード「伊藤精肉店」のハムカツ・・・・グルメんち




さらには、伊藤精肉店2台目店主と、その後継者3代目若主の意外な特技とは・・・・








5月5日放送のシェアですが、三春単独放送に決まりました❣️


スタジオでアナウンサーとゲストが三春昭進堂の柏餅と伊藤精肉店の三春グルメンチを食べていただきます。








食レポも要チェック~ 楽しみです!












内容は見てのお楽しみ!







端午の節句、5月5日のシェア午後4時20分ごろからです💖








さらにテレビ出演が続きます!






Kfb 福島放送「シェア」第二部「あばれる君熱血町自慢!」というコーナーで、5月の月曜日4週にわたって三春特集、あばれる君が三春を散策します。


当三春昭進堂は、トップバッターとして本日5月9日(月)午後6時20分ごろから放送されます💕









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:45 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺369号 「三春舞鶴城2022 バーチャルリアリティー(VR)映像」 2022.4発行




三春滝桜天然記念物指定100周年記念



塵壺369号 「三春舞鶴城2022 バーチャルリアリティー(VR)映像」 2022.4発行


昨今の「城郭」ブームの中、三春城や城下町の往年の姿(江戸期三春城主秋田氏時代)を仮想空間で復元した「三春舞鶴城バーチャルリアリティー(VR)映像」が完成し、登城された皆様を難攻不落と謳われた在りし日の「三春城(舞鶴城)」へ案内します。

 この「三春城VR映像」は、江戸時代の「三春城下御越し絵図」が基になっており、事前にお持ちのスマートフォンに専用アプリ「ストリートミュージアム」(無料)をインストールして「三春城及びその周辺」の現地に足を運んでいただき、アプリに示された指定のポイントでカメラを向けますと、三春城の全景(俯瞰)、三春城本丸・表門内、御殿前、 裏門外、大町四つ角等々の当時の姿画像が見られるという仕組みです。






三春城は、500余年前となる戦国時代に、現在の三春町の中心部にある大志多山を利用した山城です。

この城を築いたのは坂上田村麻呂の末裔とも伝わっている三春田村氏の初代(伝田村氏23代当主)である戦国大名平姓田村義顕公で、永正子年(永正元年1504、もしくは同十三年1516)の築城と伝わっています。 

「三春城下天正絵図」によれば、創建当時の三春城は山頂上の段に櫓2棟の「本丸」、下の段に櫓1棟の「二ノ丸」、そして、南側の中腹に「三ノ丸」を置き、山麓には城主直参の旗本衆「不断衆」はじめ主だった一族郎党の屋敷が配置されていました。

寛永5年に三春城主となった松下石見守長綱公によって近世城郭への改修が大規模に行われ山頂上下の段を「本丸」として土塀や石垣をめぐらし、西中腹に「二ノ丸」、南東中腹に「三ノ丸」が配され建物も8棟を数えました。






後に、蒲生氏城代田丸直昌(石垣大規模改修)、上杉氏代官、加藤氏の時代を経て、江戸期の三春城主秋田氏も歴代城主が改修した城郭に補修を加えながら使用していましたが、天明5年(1785年)の三春大火により御城は全焼します。

その全焼からの復興の中で「二ノ丸」「三ノ丸」は廃し、本丸には建物3棟のみが建てられ「藩主御殿」や「藩庁」は西麓(現三春小学校)へ移設再建されます。






領内防御の戦略としては、「いざ合戦!」となった場合は城に立て籠もっての「籠城戦」ではなく、城主御一門や直参旗本不断衆などの本軍は出撃して領内東西南北の各所に配された「舘」、いわゆる「田村四十八舘」を守る田村衆と共に防御の要として一戦交えるという戦術が採用されていたと考えられます。


三春初代となる田村義顕(卜西)公、正妻は岩城大舘城主岩城常隆の娘です。

弟は三春田村氏を3代に亘り支えた「攻めの月斎」こと田村月斎顕頼(橋本庄七郎)で、周辺諸氏からは「畑に地縛り(雑草)、田に蛭藻(ひるも・藻)、軍に月斎なけりゃよい」と恐れられた軍師です。
記録によると100歳を超えても頭脳明晰の軍略家で田村勢の参謀として戦陣で采配を奮っていたと記されています。



三春2代田村隆顕公は、今話題の武将である陸奥国守護職・伊達左京大夫稙宗(政宗曾祖父)の娘を妻としています。

次弟の起雲斎憲顕(廣顕公・下枝の戦いで戦死。後に息子隆信が継承しこの田村系が鷹巣田村氏の祖)を船引城に、さらにその下の弟である梅雪斎顕基を小野城にそれぞれ封じて領内の守りを固めています。

三春3代田村清顕公は、正妻は相馬家十五代惣領家当主相馬顕胤娘・於北を迎えて三春田村氏の最盛期を迎えます。

後に愛娘「愛姫」を伊達政宗に嫁がせて、伊達氏の後ろ盾を得て、会津蘆名氏の仙道(現中通り地方)侵攻に対抗し、さらには安積・岩瀬方面に出撃して三春田村領の領地を拡大していきます。

しかし、清顕公には後継者となる男子がいないまま戦乱の中で急死します。






突然主を失った田村氏は一時伊達政宗の勢力下に置かれ、清顕の甥の宗顕(孫七郎・後に牛縊定顕)が家督相続をしますが、天正18年(1590)豊臣秀吉の奥羽仕置により改易となり伊達家(白石家)へ吸収合併されます。



三春城の別名「舞鶴城」の命名の由来として、田村義顕公の初入城の日に城の上空に1羽の丹頂鶴が現れ輪を描いて飛んだのでこの吉兆を喜び「舞鶴城」と名づけたという説。そして、もう一つ田村公が築城する際に、領内の安泰を祈願する為に人柱にする美しい娘を探し、領内の光大寺村に「お鶴」という娘がいて大変美しかったので「人柱」として山頂に埋め、その娘の供養もあって舞鶴城と名づけたという伝説が伝わっています。



蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝



| ryuichi | 04:55 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺368号「中世の商人 坂東屋富松四郎和泉守氏久」 令和4年3月発行





塵壺368号「中世の商人 坂東屋富松四郎和泉守氏久」 令和4年3月発行


 室町時代、南奥州から北関東で活躍した豪商・坂東屋富松四郎和泉守氏久(富松という名称は世襲)がいました。

商人でありながら和泉守(前・左衛門尉)という官位を拝領し、当時の営業活動全般が取り仕切られている“座”から奥州諸大名を相手に、熊野新宮参詣を案内できる権利「先達職(せんだつしょく)」を購入し「熊野先達職」を保有していました。

熊野先達職というのは、田村庄を管轄する熊野へ行く際に、旅程にある各関所の通行手形の発給手続きや、道中の宿泊施設の手配など現在の旅行代理店業務をすることで手数料を徴収する観光業者的な役職です。

坂東屋富松は、室町幕府より、もう一つ大事な仕事を任されていました。







 それは、室町幕府の将軍職就任や家督継承等の各種慶事の祝い、そして奥州諸氏の京都へ入洛する際の御礼や心配りの付け届け、御祝儀等々を督促・集金して廻ること、さらに、将軍の名前より一文字の拝領や、武将官位の下賜による叙位任官等への勧誘及び申請などを幕府執政に成り代わって行うことでした。


武将官位とは、田村大膳太夫清顕、松下石見守長綱、安東秋田城介實季などに見られる「○○太夫」「○○守」「○○介」のことで「受領名」「官職名」など表されています。


この叙位官位には、幕府への金品の授受が必要とされ、衰退していた室町幕府にとっては正当な財源の一つで、坂東屋富松はその報酬として手数料を取っていました。


伊達政宗の曾祖父である伊達植宗の従四位下・左京大夫任官及び陸奥国守護補任には富松氏久が・・・・

植宗の子晴宗の左京大夫補任やその子輝宗の韓字拝領などの際には富松与一が・・・・

さらに天正十六年、豊臣秀吉の奉行衆の一人で富田一白の書状を伊達政宗のもとに伝えて上洛催足の役を務め、翌十七年から十八年には伊達政宗の元へ伊達氏による会津葦名侵略に対する秀吉の意向や、上方の政情を伝えたのも坂東屋道有・・・というように、坂東屋富松の事業継承者による仲介がありました。

尚、伊達植宗は、坂東屋富松を駆使して官位取得、さらに奥州探題職就任を目指して、巨大山城・桑折西山城を築城して最新の防御設備をすでに備え、信長より先んじて家臣の城下集住も行い、伊達の領土拡大と武家のみならず民衆にも適用される法令を整備した新たな国づくりを行っています。

また、昨今の城ブームの中で“信長より三十年早く城下町を造った武将”として注目を集めています。








「祐玄熊野先達代官職預請文」(青山文書・永享二年)「奥州田村庄熊野先達之御代管領状之事」を見ますと荘園制度の中の熊野新宮領(荘園)で、後の三春藩領の母体となる田村庄の熊野先達との其れなりの関わりが記されています。

室町中期の永享二年(1430)、田村庄熊野先達の代管職を入質して流した田村大蔵祐玄がこの代官職を「坂東屋のつし」から預けられたことに提出した証文が記載されており、今後は先達として参詣の度に一人500文ずつの上分を坂東屋に納めることが記されています。


また、康正二年(1456)「乗々院役者連署奉書」(青山文書・嘉吉元年)には、田村庄司遠末一家(三春田村氏系統?)先達職を湯上坊(磐城守山大元帥明王山内)から買い取った坂東屋道公が田村兵部公へ譲与してその任を安堵したもの。

さらに大永五年(1525)の売券では「田村三分一御道者」の先達職を小祭刑卿覚清が蒲倉蓮光坊(蒲倉大祥院?)へ売却の際の請人に坂東屋富松がなっていると記されています。


板東屋富松は、伊達家だけでなく、田村庄田村氏、白川荘白川氏など他の奥州領主の下でも自身の商売として働いているようで、坂東屋富松の南奥州に於ける活動は現代の総合商社的な役割を担っており、東北北関東の諸大名家への営業活動も、当時の政治経済の中心である京都との文化経済の流通を担って室町幕府とくに政所と深い交渉をもったものとみられています。


これらの活動は、室町時代の中期には始まっており、室町幕府減亡後、豊臣政権とも関係を保ったことから徳川幕府成立前後まで約百五十年は続いたと思われます。

参照文献「坂東屋富松と奥州大名」小林青治(福大史学40/1985.11)









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舞木のお稲荷様「初午大祭」 高屋敷稲荷神社 



     令和4年3月6日(日) 祭典 午前10時より

 初午の日の参詣は「福詣り」とも言われ、「福」が授かると言われております。

新型コロナウイルス感染拡大防止から、新しい参拝方式を取り入れて皆様の御参詣をお待ちしています。


「初午」は、和銅4年(西暦711年)2月初午の日(旧暦2月最初の午の日)に、京都伏見稲荷山に稲荷大神様がお降りになられたことに由来しています。








問い合わせ 高屋敷稲荷神社 ☎024-943-6396 郡山市白岩町高屋敷



| ryuichi | 04:07 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺367号 旧鷹巣総鎮守 「大元帥明王・石の宮様」



塵壺367号  旧鷹巣村鎮守「大元帥明王・石の宮様」

三春町で「大元帥明王」と云えば城下山中にある旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社(堂)」(現田村大元神社)の名前が挙げられますが、鷹巣の「石の宮様」とよばれる「鷹巣神社」も明治維新前までは鷹巣総鎮守「大元帥明王」を祀っていました。

明治新政府が神仏分離令を布告した際の明治三年に提出した答弁書と思われる「鷹巣総鎮守大元帥明王由来書」の写しにその詳細が記載されていました。






 鷹巣神社の鎮座する場所は、現在の鷹巣八雲神社の本殿右側より山道を上り、 社の裏となる小高い約10坪ほどの広さの所に、古来より鷹巣の方々が鎮守様「石のお宮様」として祀っている、間ロ二尺 奥行き四尺の総石造りのお宮が二社、明治維新後に集められた十三の小さな祠と共に鎮座しています。





 「石のお宮」に奉られている神様が鷹巣総鎮守「大元帥明王」で、現在の「鷹巣神社」祭神を国之常立命としています。







 そしてもう1社は、源義家公が鎮守府将軍として奥州下向の際、家臣である鎌倉権五郎景政に由来する「五龍神社」で、旧神号「五龍大権現」をお祀りして、この二社を現在でも「石の宮様」と敬ってお参りをしています。







 大元帥明王の勧請は、平安時代となる弘仁十己亥年(819年)2月25日、磐城守山山中村(現郡山市田村町守山町山中)より奉還し、同社神主の柳沼市太夫神が神職として勤仕したと記されています。

その後、応仁の乱後の室町時代となる文明17巳年(1485)、舊(旧)記山中村神主柳沼玄蕃、神人柳沼山ノ守、同民部代則、祭礼には鷹巣村近郷より寄付方控左書を綴奉するとの記載もありました。


 江戸時代中期の文政5年( 1822年 )9月吉日に改築され、建立村惣氏子と刻まれた文字が社裏に見えます。






現在の鷹巣鎮守「八雲神社」の由来は、瀬山にあった天正16年(1588)勧請の牛頭天王を、明治初期に廃仏毀釈神仏離反の命により、祭神を「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」、神社名を「八雲神社」と改めこの地に移したもので、鷹巣地区の総鎮守となっています。


 明治4年、明治政府は江戸時代までの神仏習合を改め後の廃仏毀釈の原点となった神仏分離「神仏判然の令」を下して神道国家の教化の政策を進めて、国中の神社社格の律令制確立を目指し、官幣社、国幣社、府県社、郷社、村社、無格社等の定めにより「村の鎮守神」としての格付の申し渡しが有りました。





 

その折に、鷹巣の鎮守として祀っていた「石のお宮」様は、国の定めによる鎮守である村社としては認められず、鷹巣村では、沼沢村の鎮守「春日神社」を、沼沢・鷹巣両村の鎮守として一緒に祀るようにとの申し渡しがあったと記されています。






 この通達に対して鷹巣の人々は、何とか鷹巣村単独の鎮守の建立を願い、その方策を思案して会議を重ね、遂には瀬山にお祀りされていた戦国時代の三春城主田村家重臣、鷹巣七竈の首長と云われた橋本刑部左衛門貞綱が、尾州津島から勧請したと伝えられている「牛頭天王」を「建速須佐之男命」を御祭神とする鎮守「八雲神社」と定め、当局より承認を得ました。

 それに伴って、泉田地区に新たに社殿を建立して、明治9年になって瀬山の牛頭天王を分霊し、新たに八雲神社として遷座遷宮し、翌年には「奥の院本殿」を建立して鷹巣村の鎮守としました。








 宮司も王政御一新に付き柳沼安芸が御奉仕方を譲位して、新たに鷹巣村田村大和、鷹林和泉(修験・元別当光祥院)の両神主が神勤仕して鷹巣神社頭往右勤請と記されています。

尚、田村大和とは、鷹巣の修験・威徳院賢晃を改名した名前で、後に田村清見と再度改め初代鷹巣小学校の校長となった方で、鷹林和泉は二代目の校長です。





「鷹巣総鎮守大元帥明王由来書」 田村大和 明治三年 

「鷹巣八雲神社由来書」  明治四十四年 田村真記

「田村の庄・鷹巣の里を巡る」橋本史紀(吉正)著 参照




十三体の小さな祠 詳細

・三渡神社 天牟良雲命 琴平様
・熊野神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 鎮護社地
・天 神社 天穂日之命 鎮護所
・愛宕神社 火産霊命  鎮護所
・山神神社 大山津見命 鎮護所
・地 神社 埴山毘賣命 鎮護所
・荒 神社 久延比呂神 鎮護所
・地 神社 埴山毘売命 鎮護所
・戸隠之神社 磐戸別命 鎮護所
・神明社  撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 北之内
・稲荷神社 宇迦之御魂命 鎮護所
・熊野神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 鎮護所
 威徳院賢晃 傳錦汝  右之通御座候也  明治三年 鷹巣村神主 田村大和(威徳院賢晃改名)


追伸、石のお宮様の意味を考えて見ました。
古来より、日本人は自然の山や磐、巨木、海、田圃、屋敷、竈門やトイレ等々に神が宿っていると信じて信仰の対象としてきました。
 近年まで、村の鎮守や氏神屋敷神等は特別な建築はなく、神の降り立つ場所聖域とし、周囲に玉垣(瑞垣)や注連縄で神域と現世の境界を区別し、祭祀を行う神域・神霊の依り代を神籬(ひもろぎ)と称して拝んでいました。
時代が下がって、疫病や飢饉からの回避祈願や江戸中期以降、特に明治初期の廃仏毀釈後になって次第に神殿(神社)が建てられ祀られるようになったと考えています。
神仏習合、村組織や身分制度に定着に伴って、神籬の信仰ではく、神がいるとされる神殿を拝むようになりました。
本殿を始めとする神社の建築も、神体を納めるために造られたものであって、それより古い形式の神社には本殿がありません。


  蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  コロナ終息祈願  拝


| ryuichi | 04:13 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺第366号  三春人形(張子) 令和4年新春1月




塵壺令和4年1月号 三春人形(張子)

腰高虎、牛乗り天神、手習草紙、鯛上げ恵比寿、千両牛乗り恵比寿、春駒・・・「三春」らしい店内装飾として多くの三春人形(張子)を店内に配しました。
城下北町の中屋商店の先々代様のコレクションをお借りした「三春人形」たちです。





以前ある雑誌に当店が紹介された折に「店内で三春張り子人形がお出迎えしている・・・・」と記載されていました。

当時、三春だるま市で買い求めた三春ダルマや干支張子を飾っていましたが、この記事を見て「三春」にちなんだ調度品の店内装飾で統一した方がより三春らしさになり、お客様に三春をより一層楽しんでいただけるのではないかと考えて、旧三春農協の組合長だった故古川悟郎氏の収集した故小沢太郎氏作品数点を、悟郎氏の娘さんで“天狗谷の母”と慕う橋本和子さんからお借りして店内に配しておりました。






この度、年代物の新しい仲間たちが加わり、ご来店されたお客様にご覧いただけたらなあと思っております。


三春張子人形は、諸説ありますが、上方の影響を受けたとされる上品な張り子の人形で、見れば見るほど、素朴さと華麗さを兼ね備えた三春の素晴らしい郷土玩具で、世界に誇れる宝だと思います。


これらの三春人形は、江戸時代、三春藩領だった旧高柴村(現郡山市西田町高柴)の住人によって作られはじめました。

明治維新後、文明開化のあおりを受けて古い郷土玩具は新しい時代にそぐわないと冷遇されたり、人形制作に使用される染料にも制限が加えられたりしました。





これにより「デコ屋敷」の張り子や三春駒(木駒)の需要衰退と共に製作・販売も衰えはじめ、ダルマなどがわずかに制作されるまでに衰退していましたが、昭和30年代になって柳宗悦らの推奨する「民藝運動」の影響を受けた大阪のコレクターである本出保治郎氏に力づけられた高柴の人々と故小沢太郎氏がこれを復興させ、現在に伝わっています。

現在では、優秀な後継者の方々が三春だるまや各種のお面、干支の縁起物をはじめ、雛人形や歌舞伎・浮世絵に題材をとる様々な新旧取り混ぜた人形まで多くの種類を製作販売しています。



人形が成立した時期などについて、正確なところはわかっていませんが、江戸時代、文化・文政のころに最盛期を迎え、その当時、非常に優れた人形が作られていたことがわかっています。


高柴の人形師が三春の藩主秋田公の庇護を受けた事は、口伝や、僅かに遺る古文書に徴しても疑う余地のないことではありますが、藩と人形師との間にどのような形で、どの程度の関係があったか等の詳細には解りません。



また、会津藩における「赤べこ」、米沢藩における「笹野彫」などのように下級武士の内職として発達したというような様子はありませんが、口伝によると人形師は三人扶持を給され、城下神社祭礼の際は鳥居内の店張りを特に許されるなどの特典を与えられていたようです。しかし、人形師の身分については士農工商のいずれにも属さぬ、特殊な存在として取扱われたのではないかと思われる節が残されています。


店内の三春人形は、時節によって入れ替えをして様々な三春人形を楽しんでいただこうと考えています。

ご来店の際にはごゆっくりとご鑑賞いただければ幸いです。






三春町郷土人形館(三春郷土人形館・橋元家と白石家の座敷蔵)では、戦前、東北大学の学生(当時)だった、中井淳氏(後関西学院大学教授)と高久田脩一氏(後旧制田村中学の教師で、橋元四郎平氏は高久田氏の教え子)の二人が、三春人形の廃絶を危惧し、私財を投じて収集してくれた、いわゆる「幻のコレクション」と称される「らっこコレクション」を収蔵し、年代物の三春張子人形・三春駒、そして、東北地方のこけしや土人形を展示しています。


尚、「らっこコレクション」とは、二人が仲間たちと住んだ家に名づけた“羅虎山塞(らっこさんさい)”にちなんでいるそうです。


     蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:07 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺365号   「垢潜(あかしろ)集落之沿革と佐久間氏の由来」 令和3年12がち発行





 「垢潜(あかしろ)集落之沿革と佐久間氏の由来」

 沢石「さわやか学級」様に於いて「三春の歴史」のお話をするご縁がありました。

後日、沢石に伝わる貴重な寺社古文書をお借りすることが出来ました。

 「明治三十五年旧澤石村各神社御由緒調査澤石村役場」、「縣社加列願高木神社」、「垢潜集落之沿革」、「現人神社覚書(あらひとじんじゃおぼえがき)」、「沢石村内にある寺社仏閣由来書」等々、はじめて目にする資料です。
 その中に、沢石の佐久間氏に関する興味深い資料が含まれていました。

 先の講演会の時も佐久間姓の多い沢石でのお話で、諸説ある沢石の佐久間氏の由来を調べて伺いましたので、その地域ならではの口伝や言い伝え等々まだまだ調べること(知らないこと)が沢山あると思いました。






 佐久間氏の歴史的背景からの由来としては、本姓は藤原姓を名乗り、播磨国(兵庫県)守護赤松氏に仕えて、知行地の播磨国佐久間郷から佐久間姓を称し、赤松滅亡後(後常葉城主赤松越前守顕則家系)に三春田村氏に仕官したとする説。

 もう一つ、旧織田家家臣 柴田勝家の麾下与力佐久間玄蕃盛政(鬼玄葉)の二男で、柴田家滅亡(親子の中が悪く)に、三春田村氏仕官し重臣田村隼人の養子となった佐久間盛安(隼人正)の一族とする説等々・・・

 室町時代から約100年は続く戦国動乱期の富澤には三春田村氏の防御の要として“田村四十八舘”の一つ、出城「実沢舘」があり舘主実沢山城守が居住し北方守護与力五十騎を統括していました。
 後に、北方守護は田村家一族、富沢舘の富沢氏となり、さらに舘主も佐久間氏(村司佐久間右京太夫の記載が高木神社由来に在り)となり明治維新まで名主として治めます。


 織田信長亡き後天下人となった太閤豊臣秀吉による「奥羽仕置・田村仕置」にて三春田村家の改易となりますが、田村旧臣のほとんどが伊達氏について行かなかったように佐久間氏も富澤・實澤、青石当自分の知行地で帰農し、代々村の名主・村司を勤めてきました。






今回お預かりした資料「垢潜集落之沿革」という書物の中に記載された垢潜の佐久間氏の由来を伝える事柄が記されています。

 平将門が朝廷に反旗を翻し関東一円を手中に収め、自らを「新皇」と自称しますが、平貞盛、藤原秀郷らによって討たれた「平将門の乱」(939年)。

 佐久間氏一族は、平将門の麾下の武将として、「平将門の乱」に参戦しますが将門の敗戦と共落人となり、朝廷より追われる身となります。

 この際に、太平洋岸を一族(佐久間氏)が奥州地へと逃れ、今日の平方面より阿武隈の山脈を越えて岩代國田村領に入り身を潜めて暮らしていました。
 後に小野町辺りに一時「舘」(豊後舘の地名?)を造り住んでいた様な話もありますが詳細は記されていません。

 さらに佐久間伊勢守、豊後守、そして四郎兵衛兄弟十数の同志・家来など一族郎党共々現在の地(垢潜地区)に安住の地を求めました。
 以後約500年もの間「火雷神」を守護神として祀り、一族の墓所を造営して今に伝わっているとしています。








 「垢潜(あかしろ)」という地名は、守護神一族共々にこの地を定めるに際し、武家を捨て武将として戦いに明け暮れた今迄を懺悔(ざんげ)し、戦塵の垢を一切洗い落とすことでこの地を安住の地として潜めたことから「垢潜」と名付けたとしています。

 時は戦国時代です。一族郎党を守るために「長寝舘(富澤舘とも云う)」を造営、畑道を造り生活しながら東西南北に現地を開発してきました。

 そして、田村領主三春田村氏とも交誼をもたらすようになり、北方の備えとして防御の要である富沢(現沢石地区)の守りに仕えます。

 年代は不明ですが長寝舘から移川を越して東方の守りに今の「青石」に出城として舘を築き垢潜から分家、連絡を取りながら山を開き後世に青石村となります。

 明治になって火雷神社の秋祭りには九反(10メートル余)の大旗を立て、垢潜集落「雷神様の旗」の音は實澤、青石、初森へと聞こえたそうで、元来な豪傑も居たもので集落の団結力は察するに余りあると記されています。


 時系列的な再考察も否めない姓氏由来の中で、少しずつ歴史のパズルが繋がっていくようです。









田村四十八舘 

澤石村(三春町沢石)五舘跡



正楽舘 

舘主 渡邊雲龍斎




御舘

舘主 橋本玄蕃




「長寝舘(富澤舘とも云う)


舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住





臺(むろ)舘

舘主 佐久間豊後




新舘

舘主 某氏若狭









      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺364号 KFB福島放送「シェア」“ふるさとレポーター”田村大元神社 R3.11.19発行



KFB福島放送「シェア」“ふるさとレポーター”田村大元神社

私事ですが、この度KFB福島放送「シェア」番組内の地元の自慢やホットな話題を紹介する「ふるさとシェア!」で、ふるさとレポーターとして三春町を担当することになりました。放送時間は約2分強、頻度は月一回程度です。








  

このお話をいただいたときに真っ先に頭に浮かんだのが、子供の頃より祭礼や初詣、そして遊び場として慣れ親しんだ「田村大元神社」でした。

今回は先に放送されました内容をカットされた内容も含めて改めて紹介させていただきます。


田村大元神社は戦国時代の三春城主田村義顕公が三春城内三ノ丸となるこの場所に、旧三春藩領内総鎮守として「大元帥明王社」を郡山市の守山より移してきたのが始まりです。以来、時代と共に歴代殿様は変わりますが明治維新を迎える秋田氏まで続きます。






明治維新以降は「田村大元神社」となっていますが、今でも城下では「明王さま」(訛ってミオさま)と呼んで親しまれています。
伊達政宗も来たことがある・・・伊達政宗公の奥さま「愛姫」が、田村の三代の田村清顕公の娘という縁でこの大元帥明王を三春滞在の際に宿泊所としていました。

また、田村清顕公が宴席を設け、娘婿である伊達政宗以下、伊達成実や片倉小十郎などの伊達の重臣一同、そして、田村家からも当時100歳にもなるだろう田村家軍師田村月斎や、橋本刑部顕徳など田村家の重臣達が一堂に会して「杯」を酌み交わし、伊達・田村両家の戦種祈願や、安泰を願ったことでしょう。


現在、社殿そのものは新しくなっていますが、私も、祭礼や初詣などで拝殿に上がり御神酒を頂戴するたびに、目の前に広がるこの光景は、伊達政宗が、そして、歴代の三春城主が見た同じ光景・風景が広がっているのかなあと、歴史のロマンを感じ殿様気分を味わっています。





江戸時代の祭礼は、旧暦の6月15日、別当職城下新町の真照寺住職の監督指揮により三春藩明王奉行の下で三日三晩行われていました。

その際は近隣より大勢の祭り見物のお客さんが三春城下を訪れ、その監視と整理のために櫓を立て役人が寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと伝わっています。       


現在では新町鎮守「田村大元神社」として「海の日」付近に、宮司以下・神職、神社総代・別火講中等などの方々によって挙行され、祭典掛、御神輿町内渡御、長獅子舞、三匹獅子舞の奉納、さらには神旗持ちや神楽楽人の楽器持ちの子供たちやPTAの子供神輿や燈籠持ちも一緒に参加しています。


夕刻、祭終盤の「還御(かんぎょ)」の頃になれば、上は80代から下は小学生まで連帯感と親密度が深まり、世代も住む環境もまったく違う氏子というだけの様々な人々の人間関係が出来上がっています。

子供の成長には、親の庇護を離れ“世間の荒波”と云えば大袈裟ですが、そこで感じたものが、子供たちの今後の人生にどれだけ役に立つか計り知れませんよね。







そして、もう一つこの神社で紹介したいのはこの随神門(仁王門)に納まる「金剛力士像」、いわゆる「仁王さま」二体です。神社に金剛力士像?仁王様?仁王門と不思議に思う方もいるかと思います。

明治維新まで神仏習合の中で、明治を迎える前年となる慶応三年、仁王門が造られた際に守護神としてこの仁王さまも製作されこの門に安置されたという経緯があります。

明治維新後には仏教色の濃い「金剛力士仁王様」の二尊は、神社にはふさわしくないということで真照寺の軒下に仮安置されてきましたが、戦後になって戻され現在の姿になっています。

金剛力士像と云えば東大寺仁王像に見るような筋肉隆々、胸を反らして悪を威圧する姿を想像しますが、この仁王様を見るとお相撲さんのように全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢はどこか愛くるしいお姿をされており、まるで御利益を求めて参詣された方々に“何か優しく諭している“ようにも見えます。


 歴史と文化の宝庫である小さな城下町三春には、桜の時期以外にも沢山の魅力があります。


三春城下へのお越しをお待ちしています。

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   蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝



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