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塵壺310号 平成29年5月  「雪村-奇想の誕生-」 於東京藝術大学大学美術館
 

「雪村-奇想の誕生-」 於東京藝術大学大学美術館

春陽ノ郷(しゅんようのさと)と呼ばれた三春の桜の中で、瀧桜と人気を二分する雪村桜。 
 今年も “三春さくら” のファンを魅了し大勢の観桜のお客様でにぎわっていました。




その桜の由来となった雪村庵(せっそんあん)の主、画僧雪村の特別展「雪村-奇想の誕生-」が上野にある東京藝術大学大学美術館で開催され、三春人として見に行かねばならないと、三春城下にも桜の便りがちらほらと届き始めた四月初旬に観に出かけました。

先に東京で開かれた三春舞鶴会総会でも町担当者より紹介されていましたので、首都圏在住の三春縁の方々も足を運んだ方も多いはずです。





この「雪村」とは周継(しゅうけい)という法名を持つ禅僧で、雪村は雅号です。他に、鶴船老人、如圭、倹約斎、中居翁などの雅号も称し、俗称は田村平蔵。

晩年に三春在の大田(現郡山市西田町大田雪村)に庵を構え隠棲(後の雪村庵)し、天正十七年、八十余歳の天寿を全うしました。

その画風は、禅をその精神的支柱とする静的素材を中心とした水墨画に、荒々しく動的素材を組み入れ、気迫と活力を導き出すことによって緊張感のある美を創造しています。






生涯は未だ謎に包まれていますが、常陸国(現在の茨城県 常陸大宮市)で戦国武将佐竹氏の一族に長男として生まれた雪村。
 しかし、幼いうちに出家し画業の道へと進みました。

後の世の絵師たちに深い影響を与えたその画法は、ひときわ独創・革新的でありながら、人間味あふれる温かな水墨画を描き続けました。

「西の雪舟」「東の雪村」と言われるほど、故郷である水戸佐竹氏や会津芦名氏、三春田村氏、東国各地を活躍の場としました。

晩年、三春を“終の棲家”として雪村庵を構えますが、その創作意欲は衰えを知らず、しっかりとした技法と、逞しいほどの想像力を用いて傑作と呼ばれる画を次々と世に送り出します。




 雪村の絵の中で一番のお気に入りの「呂洞鬢図(りょどうひんず)」

 今回の特別展のポスターに用いられています。独創的に描かれた構図が特徴の龍を操る志那・宋代に実在したと云われる呂洞鬢という仙人の絵です。
 ユーモラスな顔をしている龍の頭にちょこんと乗った呂洞鬢が、天翔る龍を見上げ、水瓶より小さなこれまた龍を出して自在に操っている様子が描かれています。




 以前から気になっていたんですが、どうも私も名前に龍が付いていますので他人事とは思えず、龍を自由自在に操っているこの呂洞鬢が、当家の女房殿に見えて仕方がありません・・・・





 四月初旬といえば上野の御山は春爛漫、江戸時代より浮世絵になるほどの観桜花見の名所です。
その日も大勢の花見客でごった返していました。

 私などは三春の和菓子屋という仕事柄花見だんごは売っていても“花見の宴”をした記憶はしばらくありませんでしたので、久しぶりの花見を堪能しました。





 また、この日は、東京国立博物館平成館で初日を迎える「茶の湯」展がありましたので、こちらにも臨場してみました。

 国宝の「曜変天目」、「油滴天目」さらには「志野卯花墻」や「黒楽時雨」等々一級品が勢揃いです。
 
織田信長や豊臣秀吉、足利義政、さらには当代きっての茶人千利休や古田織部等々の名だたる武将や茶人に愛されながら時代を超えて人々の心をとらえてきた国宝や重文になる茶道具が一堂に会しています。

「はぁ~!」「うん~ん」「憎らし~!」「へぇ~!」などと声にならない心の叫びが、ため息とともに自然と口から漏れ出してしまいます。





 尚、「雪村」展は平成29年5月21日(日)まで、「茶の湯」展は平成29年6月4日(日)までとなっています。





雪村庵

雪村周継は、十六世紀初めから後半(室町時代後期から戦国時代)にかけて活動した日本を代表する禅宗の画僧で、山水画、人物画、花鳥画などを描きました。

現存する作品だけでも、約二百点が確認されており、その中には国の重要文化財に指定されている作品もあり、郡山市立美術館をはじめ国内外の美術館等に収蔵され、高い評価を得ています。





現在の「雪村庵」は、後世に建てられたものですが、当地が、雪村の晩年(十六世紀後半)に隠棲していた地であることを、明暦四(一六五八)年、三春藩主秋田氏の菩提寺高乾院の僧侶であった-元紹碩が、庵の扁額に、当時の古老の話や伝承をもとに記しています。




庵の裏手の竹林には、雪村の墓と伝えられる花崗岩の大きな石があり、地元の人々により供養されています。






また、庵には、雪村桜、雪村梅と名付けられたシダレザクラとウメの古木があり、春の開花期は、訪れる人々を和ませてくれます。

雪村庵案内板より






      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝

| ryuichi | 05:48 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺309号 「馬場の天女碑」平成版古蹟漫歩 平成29年4月発行



平成版古蹟漫歩「馬場の天女碑」

春、春陽郷と称される三春城下の隅々を歩く。路地をぬけ、桜川や裏道の小さな公園にあるベンチで寛ぐという春を満喫したくなる季節の到来です。
また、郊外では田園風景や道端の地蔵さんや石碑で心が和む、そして地元の人々とのふれあうなかにも三春の魅力を発見します。 

そんな三春城下の魅力の一つ。
馬場尼ケ谷の“馬場の湯”の少し下ったところに「正徳馬場口のお地蔵さん」と呼ばれる地蔵堂があります。

そのお堂の入り口に「天女碑」と刻まれた石碑が建立されています。
台石ともに150センチほどの大きさで、正面に天女碑、向かって右に文化12年(1815年)、左に乙亥暮秋と刻まれてあります。

室町期以降の武家は、嗜みの一つとして謡曲を謡いお能を舞っていました。

江戸徳川幕府、そして三春藩でもこれを奨励し、現三春小学校にあった三春城「御殿」には能舞台もあったと記されています。
三代藩主秋田信濃守輝季公は、元禄十年江戸城で猿楽が催された際、将軍の御前で能楽「鶴亀」を演じています。

また、太元帥明王(田村大元神社)山内にある熊野宮、八幡宮の彫刻には、「海人」「鯉仙人」など謡曲に題材を求めたものが刻まれています。
天女碑のある馬場・尼ケ谷には、大木、坂本、池田などの武家屋敷があり、その人たちも能や謡に励んでいました。

江戸時代末期の天保初年、三春10代藩主秋田肥季(あきたひろすえ)の正室於儕(おせい)の方は、因州(鳥取)鳥取城主池田斎訓の養女でした。
於儕の方御輿入りの際に清涼院という老女が守役として付いてきましたが、後に清涼院に池田姓を名乗らせ、当時の大木家の二男新一を池田家へ養子に迎えさせます。

池田氏と名乗ることになった清涼院は、この新一氏を謡の大家の一つ江戸宝生流家元の内弟子に入れて、10年間研学させます。帰郷後は、藩の謡の指南役として仕えました。

この池田家が尼ケ谷に屋敷を構えたのも大木家との縁故関係です。

その縁も、「能、謡」につながるものでした。

さて、天女碑ですが、能、謡に熱意を込めた大木、坂本などの藩士をはじめ、芸能ごとの上達を願う人々によって記念碑として建てられたものです。
天女は謡曲「羽衣」からの着想であることは言うまでもありません。

江戸期には、路傍に建てられていましたが、三春藩馬術教練場である馬場であった同地内の道路改修の際に、廃仏毀釈・神仏分離の観点からか、仏教関連と勘違いした人達によって、坂本氏宅の池にお地蔵さんと一緒に放棄されていました。

しかし、見かねた鴫原留吉氏、石橋政蔵氏ら当時の馬場尼ケ谷の有志の方々が私財を出し合って、地蔵堂を新築してお地蔵さんを納め、天女の石碑はそのお堂前に据えました。

現在の地蔵堂は、「馬場尼ケ谷界隈で子供の事故がないのはこの地蔵様のお陰」として、永年この御堂を無償修復していた馬場の影山組・やわらぎの湯社長の影山勝男氏により平成17年10月に全面新築され、同地蔵堂講中様へ寄贈したものです。

江戸末期幕末の動乱を経て、お地蔵さんと共に天女の石碑も時代の流れを見てきました。
古い三春広報コラム古蹟漫歩「馬場の天女碑」参照

「武士はお謡(能謡曲)、町人は浄瑠璃(文楽の歌)で日本語の教範としていた」

この国のかたち 司馬遼太郎の言葉より

蒼龍謹白  さすけねえぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:06 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺308号 平成版古蹟漫歩 「八幡町末江戸街道の古蹟」 平成29年3月発行



平成版古蹟漫歩 「八幡町末江戸街道の古蹟」

三春城下入り口の一つ江戸街道は、江戸時代初期の寛永年間に時の三春城主松下長綱(当時の三春3万石)が三春城下の中世城下町から近世の城下町への城下整備の中で開かれたもので、この地方で最も古い街道筋でした。

その後、幕末まで秋田家五万五千石の歴代藩主が、参勤交代の為江戸、三春間の往来を続けて来た道です。

街道は、城下八幡町末の郭外、現在の踊り場から、ヘアーサロン「アクト」と曾田石材店の間を抜け、桜川にかかる旧八幡下橋を渡って八幡様の参道下に出るという、城下町独特のカギの字の道で、今とはちょっと違う道がありました。

因みに、江戸時代の城下絵図を見ると、八幡町から踊り場までの道筋は、三春大神宮前を桜川に向かって左に折れ、大神宮下の神明橋の手前を右折、川沿いに進んで、法華寺下を右折すると、城下郭内と郭外分ける「郭境黒門」がありました。

この黒門を抜けて武田酒店に向かって踊り場に出るといった、ここもカギの字の道筋となっていました。

さて、江戸街道は、現在の並松の旧道坂道を上り、今のバイパスを突っ切って、丘を越えて沼之倉団地入口の向え側、大幸建築作業の横を通り、いわゆる鷹巣街道の出るようになっていました。昔は、並松の地名の由来にもなっていますが、あの坂道の両側には、城下町の入り口らしく松並木が繁っていたと伝わっています。




坂を上り詰めた辺り(現牛舎小屋付近)は、安達太良から吾妻にかけて、奥州連山の白雪が眺められ、遠望の良い場所ですが、江戸後期には「大砲場」と呼ばれていました。
大砲場は、江戸末期の安政の頃、城下北町に屋敷を構えた三春藩士熊田嘉膳(くまだかぜん)淑軒が、8年間、水戸史観・尊王攘夷論の本拠地である水戸藩に留学して習得した反射炉による西洋式の大・小砲製作研究の成果を実験した場所です。
造った大砲を、大砲場の高台に据え、藩主以下家老重臣視察の中で、熊田の指揮により、鉄砲鍛冶師町田貢(北町)が火縄に火をつけ発射!“轟音”が山野に響き渡り、砲弾は西北方向の雲間を縫い平沢の水田に達したといいます。

大砲場から、300米ほど先に行くと、藩庁時代の御仕置場があり、罪人を渡らせた“涙橋”、そして南無阿弥陀仏の六文字を刻んだ供養碑など、雑木林の中に埋もれています。




さらに、もう少し進むと沼之倉山、ここから明治の初年に旧制安積中学(現県立安積高等学校)建築の用材木を切り出したと記録されています。

その付近(現白山荘)の山裾に、白蛇石と呼ばれた大石が、二重に街道に突き出ていました。当時通行する人々は、白蛇が出るといって近寄らなかったといいますが、数度の道路拡張により今はその痕跡を残してはいません。

尚、その先には、御小屋跡があり、参勤の長の道中は、略式の旅姿で旅程をこなしていた殿様以下の隊列が、三春城下の出入り口につけ、ここで仕度替えをして、正式なお姿にて行列を整えて、お国入りしたとされます。

その付近にあったという“天狗橋”も、今は見当たりません。お殿様のお通りとなれば、磐城守山藩(現郡山市田村町守山)境まで、村人総出で掃き清め、奉行役人の下見検見まであったと記録されています。




因みに、三春城下から江戸愛宕下(西新橋愛宕)三春藩江戸藩邸まで参勤の工程は、並松坂~沼之倉~当蓮寺坂(鷹巣手前にあった寺、現在廃寺)~鷹巣~一里塚~ 大井戸清水~蒲倉~荒井~赤沼~守山(松平大学頭二万石城下)~須賀川~笠石~久来石~矢吹~不間瀬~太田川~作山~喜連川~氏家~白沢~宇都宮(宇都宮丸屋小平方が藩の定宿)~雀宮~石橋~小金井~小山~間々田~野木~古河~中田~栗橋~猿手~松戸~粕壁~越貝~佐岡~千寿(現千住)~今戸橋~浅草御門~塩留橋~本所~日本橋~京橋~尾張町~愛宕下三春藩邸。  


    

蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!   拝


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塵壺307号 平成29年2月号 「平成版三春怪奇説・佐塚様の老猫」


塵壺平成29年2月号 平成版「三春怪奇説」佐塚様の老猫

2月22日(にゃん・にゃん・にゃん)は猫の日だそうです。
昨今は空前の猫ブーム!ネコノミクスなどと言う言葉も生まれるなど、癒しの存在として猫好きの人が増えているようです。

そのような流れに逆行しますが、三春には「化け猫」の話がいくつか伝わっています。
江戸期のお家騒動絡みの話がほとんどですが、明治以降に作られた話です。

明治維新後、三春町民は、不安な世情と大火や大雨など天変地異から、憶測が憶測を呼び少しずつ物語が作られていったのでしょう。





 三春藩のお家騒動に絡む“化け猫話”に「腹切り梅」の話がよく取りあげられます。
しかし、このお家騒動は、享保年間に発生し、天明の「滋野火事(怪猫騒動)」の大火までは70年。
また、明治の大火での化け猫騒ぎまでは、なんと170年という時間が経過しています。この時間差に因果を求めるのは無理な話ですが、世情不安のなかで人々は不安を抱き、悪役を作りたかったのでしょう。
化け猫伝説は、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。



下記は、その化け猫伝説の一つ「佐塚様の老猫」という古いお話です。
町役場の南、三春町民俗資料館付近は、桜谷と呼ばれています。
あの高台は、旧藩時代の武家屋敷で、佐塚(秋田)様と云われた秋田廣記500石の家老屋敷がありました。
 佐塚家では、犬を二匹飼っていましたが、猫は絶対に飼わないという家でした。
江戸中期元禄の頃、当時は佐塚家には幾年重ねたかわからない老猫が飼われていました。
いつからか、昼間はゴロゴロとして寝姿ばかり見せていましたが、夜になると、どことなく姿が消えるようになりました。

ある年の5月、佐塚秋田家の若党権助が主用で江戸表に行っての帰途、磐城守山(現田村町守山)から赤沼、鷹巣を過ぎ、今の貝山古内集落に入ったのはとっぷりと日も暮れたころでした。
その道端に当時大きなモチの木があって、その繁った枝が道を覆い昼間でも薄暗く気味の悪いところだったといいます。
気のせいか、急に暗さが増したと思ったら、前の方から無数の三毛猫の群れが、こちらの方を向いて押し寄せてくるではないか・・・
驚いた権助は、逃げ場を失い、傍らのモチの木によじ登ります。
よく見ると、猫の群れの中程に、主家の御老母さまが居るではありませんか!
しかも、御老母様は、鋭い爪を立てて権助めがけて迫ってきます。




権助は、とっさに道中脇差を抜いて、老母の左肩を一突きします。
すると、「ギャー~!」と激しい一声を残して、老母も猫の群れも一瞬で跡形もなく姿を消してしまいます。

それから、半刻して桜谷の主家へ帰宅すると、今起こった恐ろしい出来事を主に打ち明けました。
主に今しがた御老母様は「肩が痛む」と言っていたと告げられます。

よく朝、佐塚家の老猫が、姿を現すのを待って戸を開けたところ、老猫は物凄い形相で飛び出し行方をくらましてしまいました。
それからというもの、佐塚様では猫を飼わない家となったと伝わっています。




三春での化け猫伝説をこういう話の集大成ではなかったと想像力を膨らませています。
また、三春では、昔から猫の出し物の演芸が行われないといわれています。




    蒼龍謹白  さすけねえぞい三春!   拝


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:06 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺306号(平成29年1月)EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2016  


塵壺306号(平成29年1月)EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2016  

EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2016  

“ルイジアナ!・・・・♪” 矢沢永吉コンサートに参戦してきました。
事情があり数年ぶりに、正装である白いスーツを新調し、気分はロックン・ロール♪

やっぱり、年末のE・YAZAWAのライブに行かなきゃ年を越せないって感じです。
 永ちゃんのライブは開場前から大盛り上がりで、郡山からの仲間に加え、全国からの常連の方々の顔を揃え“今日もヨロシク!”の挨拶が飛び交っています。

やはり、E・YAZAWAのライブです。独特の雰囲気に会場全体が包まれています。 
永ちゃんのつもりで粋がっていても、しっかりメタボです。(気持ちはあの日のままですが・・・何か?)ヨロシク!





私も御多分に漏れず、中学の頃に矢沢永吉を知り、高校2年の時に、「時間よ止まれ」を引っ提げての郡山市民会館(現市民図書館駐車場)でソロコンサートがあり、仲間を誘ってスタッフ気取りで手伝いに行ったのが初YAZAWAでした。

この時「何か外的要因の圧力によって己の信念が曲げられそうなときに、何くそって!跳ね返す力を“ツッパリ”というだ!」と教えられました。

当日、来場したお客さんの案内掛をしましたが終了後、永ちゃんから「お疲れ様~ありがとね!」といって握手していただいたのは一生忘れられない思い出でとなっています。以来、矢沢永吉大ファンです。

今回のライブ中MCで「まだまだ矢沢は走り続けます!70になっても80になっても・・・」その言葉通り、永ちゃんは、アラ‘70とは思えないパワフルなステージです。
永ちゃんの歌や言葉、そして生き方を見ていると、真剣にそしてシンプルに生きるということに向かいあってきた一人の男の真の生きざまとして胸に響いてきます。

ライブは、新旧取り混ぜての曲の構成で“世は歌に連れ・・・”という言葉ではありませんが、正に自分の歩んできた道、全てのシーンに永ちゃんの歌やコンサートは欠かせないものだと思います。




人生、立ち止まることも、涙することも、つまずいて、落ち込んで、自分自身がいやになってしまうこともあります。
しかし、みっともなくても、這いずり回ってでも“前を向いて生きていく“というそれ自体に意味があるんだと・・・
すべて認めてくれたうえで、それも“かっこいい!”と思わせてくれる永ちゃん。

コンサートでのMCにもありましたが、「人生は、いろいろあるよ!」でよね?
そんなことがありながら、みんなで大合唱した古いラブソングの時には、両眼から涙がこみあげてしまいました・・・

流行のスタイルが変わるロック・シーンで、あくまでも1つのスタイルにこだわり続けるのはそう簡単なことではありません。
そして、アンコール!”止まらないha-ha”、”トラベリン・バス”の大合唱とビーチタオル投げ!最高の夜でした。永ちゃん、ありがとう!

「人間っていうのは、必ずドアを叩かなきゃいけない時がくるのよ。
その時、叩くって勇気いるよね、怖いしさ。
どうなるのかなんて思うけど、そこで分かれるよね。
叩く人間とそうでない人間に…」 

矢沢永吉語録より



永ちゃん! 永ちゃん! 永ちゃん! 永ちゃん! 永ちゃん!
永ちゃんコールに付き合てくれたみんな、ありがとうね!






来年も、ヨロシク!

「ん!白い寅ちゃん?」・・・・・ち、違いますよ!

蒼龍謹白 さすけねえぞい三春!  拝


| ryuichi | 05:36 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺平成28年12月号「三春田村の名将「斉藤大膳(だいぜん)と久我肥前(ひぜん)」



  三春田村の名将「斉藤大膳(だいぜん)と久我肥前(ひぜん)」

 大坂の陣でクライマックスを迎えたNHK大河ドラマ「真田丸」。
名将として上杉謙信、直江兼続に並び称される真田信繁(幸村)配下が装備を赤で揃えた「真田赤備え」軍勢で活躍し天下の名将「日の本一の兵」のとも讃えられていました。

 真田丸同様、三春田村氏戦国戦史の中で、最大の危機を、わずかな手勢と小さな出城を使い、卓越した戦術と知力をもって数に勝る敵方と死闘を繰り広げ、見事三春領を護り切った戦い抜いた武将が居ました。

戦国期の三春城主田村家の重臣、斉藤舘(現三春町斉藤)舘主・斉藤大膳と白岩風神舘(現郡山市白岩町)舘主・久我肥前。
この三春地方でも戦国乱世といわれたこの時代、三春城主田村氏を取り囲む環境は、群雄割拠、会津芦名、須賀川二階堂、相馬氏、伊達氏、佐竹氏等々周囲に強大な敵があり、正に四面楚歌の状況でした。

斉藤舘と白岩風神舘は、ともに戦国期の三春城主田村義顕が築いた領内防備の後に云う「田村四十八舘」の一角で、須賀川二階堂氏への備えとして三春本城南西の重要な防御の要で、田村家中でも信頼できるこの二人を城主として駐留させていました。

 愛姫が伊達正宗の正室として嫁いだ翌年の天正8年8月、田村家三代清顕の弟孫の八郎重顕(はちろうしげあき)が、岩瀬の塩田、洞樫(現岩瀬村)に出陣しますが、須賀川城主二階堂の臣、浜尾善九郎率いる岩瀬勢の激しい攻撃に会い討ち死にしてしまいます。




斉藤舘址

 勝ちに乗じた浜尾勢は田村領に向かって進撃し、三春の南西部にある大平舘(現郡山市田村町大平)を落とし大善寺舘(同田村町大善寺)をも陥落させ、清顕の大叔父に当たる田村月斎頼顕(田村初代義顕の弟)の守る今泉城(現岩瀬郡今泉)に迫ろうとしていました。

一方、須賀川勢を率いる二階堂氏は常陸佐竹氏を頼み、御代田城(現田村町御代田)に猛攻を加えます。
 そこで、仙台伊達正宗の父である輝宗が仲裁に入り、今泉城は二階堂に渡し、御代田城は田村氏に返させたことで、一応の停戦となりました。
 しかし、勝ち誇る二階堂氏は、須矢部、伊藤、浜尾の各武将に命じて須賀川勢、岩瀬勢を率いて翌三月には、行合、大平(ともに現郡山市)の二方向から三春田村領へ再び侵攻してきました。

 その最前線になったのが、三春城の南西にある斉藤舘と白岩風神舘です。
 二階堂氏の須賀川勢、岩瀬勢は、このそれぞれの侵攻口から斉藤、白岩舘に猛攻を加えます。

この時は、田村勢には伊達の援軍がまだ着陣する前の闘いで、四方に兵を分散させる田村勢の劣勢は誰もが思うところです。



白岩風神舘址


 しかし、斉藤大膳、そして久我肥前は、さすが三春田村氏の中で一、二を争うほどの戦巧者と言われた名将です。
それぞれ与力衆を率いて神出鬼没の戦術を使い必死の防衛戦を展開し二階堂勢を苦しめます。さらには、野戦においても勇猛果敢に打って出て、それぞれの総大将めがけて突撃し死闘を繰り広げます。

須賀川・岩瀬の二階堂勢は、次第に劣勢となり多数の戦死者を出すという痛手を被って敗退します。

この戦は三春田村氏の存亡にかかわる未曽有の危機から救った輝かしい武功だったと伝えられています。

 なぜ、白岩舘が「風神舘」と呼ばれているかといえば、舘北西一帯の安山岩が露出した断崖にある風穴から風が吹き出す音が、風神の風の音の様に聞こえるところから付いたとされています。

後にこの音は、この舘の攻防で戦死した兵の悲しみの叫び声が聞こえてくるとも伝えられるようになり、その激戦の様を今に伝えています。

 現在白岩舘の址には、白岩神明宮、御嶽神社が祀られ戦没者を慰霊しています。

     合掌 蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



〈ワークショップで楽しもう 出張ちょっくら市〉 追加情報(ちょっくら市HPより)

でちょっくら市が出張します。
しかも4日間限定で、コーヒー付きだよemoticon-0162-coffee.gifしかも器は渡辺安里さんのだよemoticon-0105-wink.gif

日にちは、12/20(火)〜12/23(金)まで。
場所は西田町にある『自家焙煎珈琲&ギャラリー 遊の丘』

ワークショップの日程はこちら。
20日(火) 21日(水)
11:00〜
[渡辺安里 小さな小さなやきものつくり]
2500円 定員3名
13:30〜
[新宮百香 あったかウールのギャザースカート]
5000円 定員3名

22日(木)
11:00〜
[渡辺安里 小さな小さなやきものつくり]
2500円 定員3名
13:30〜
[円谷しのぶ お正月の花あしらい 生花]
5000円 定員3名

23日(金)
11:00〜
[渡辺安里 小さな小さなやきものつくり]
2500円 定員3名
ワークショップの予約は12/16(金)の三春ちょっくら市の店頭で10:00からの受け付け開始となりますので皆さまよろしくお願い致しますemoticon-0118-yawn.gif

ご不明な点がありましたら
わたなべあんり090-2388-6068
までお問い合わせ下さい。



| ryuichi | 05:43 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |
塵壺304号「三春城主松下家改易・城引き渡し騒動」



「三春城主松下家改易・城引き渡し騒動」

江戸初期三春藩を治めた松下長綱(ながつな)は、いわゆる豊臣恩顧の大名で、徳川幕藩体制の施策によって、寛永4年(1627)、下野国烏山藩(栃木)から二本松に移され、翌年正月には、石高を3万石に減らされて三春城に入ります。

松下氏は、三春入城後、先の城主田村家の伊達家へ吸収合併以降、久しく荒れていた三春城の城郭や石垣を補修し、城下全体を城郭とする中世城郭都市として、城下町を整備改修して“東北の鎌倉”と呼ばれる現在の三春城下の基礎を作ります。

一方、長綱は、剛腕の反面、短気な人だったと様々な逸話が残っています。
また、城郭や都市の備など在任15年という短期間に、巨大な公共工事をやってのける剛さに無理は伴うのは今も昔も変わりはなく、領民を虐使し“苛剣誅求(かれんちゅうきゅう)”の政治となるのは当然と言えます。



三春城下新町松下家菩提寺州伝寺


そのために領民は、困窮に泣きその暴政と領民の窮状を幕府に訴えるに及びます。
以前より長綱暴政の噂は幕府も把握していましたので、寛永20年、狂疾(気が狂った)、そして切支丹(キリシタン)の嫌疑として、三春藩御取り潰し松下家改易の上城地召し上げの沙汰を下します。
即刻、長綱はわずかな供を連れて正室実家である土佐高知藩主山内忠義(ただよし)に預けられる事になります。

この改易後の三春城の引き渡しには大変な騒動が起こったと「会津藩家世実紀」に記されています。
事の発端は、「三春城地受け取りの節に、警護として近隣諸藩に出動を命じた」という幕府の沙汰が三春城下で謹慎している松下家中の耳に入ったことに始まったとされています。

当時、幕命を奉じた松下家中では三春城を明け渡し、城地及び三春領三万石は召し上げられ幕府代官樋口又兵衛、福村長右衛門の管理支配となり、三春城は隣接する相馬藩相馬義胤が警備にあたっていました。

この時、三春城請取の役を命ぜられたのは寺社奉行上野高崎藩主安藤重長(後の三春二代藩主秋田盛季正室実父)で、下命から将軍家光に受け取り報告までの
およそ一ヵ月の間、三春城下松下家中では非常に険悪な空気が漂っていたと伝わって来ます。

それは、松下家中が、恭順し城明け渡しの準備をしているのに、「抵抗の恐れあり」と近隣諸藩に警護の沙汰を発せられたことを遺憾として、この上は城を奪還・籠城しその心情を訴えて、聞き入れなければ、“城を枕に討ち死に”と決議し、城中に立て籠る準備をしているというものでした。

これを聞き及んだ、長綱の身元引受の土佐山内家は、家老相良某を三春の松下家へ走らせて、「万端首尾よく引渡しますよう」にと説諭させています。




一方幕府は、改めて重長の外に、三春城在番に棚倉城主内藤信照を、目付に使番能勢頼重、永井直元らを任命し、近隣の大名にも出動加勢を命じたとあります。
さらに、会津城主保科正之も城受け取り警護のため江戸を立ち、途中栗橋宿から家臣井深某、馬淵某らを説得のため三春城下に派遣します。
また、磐城平藩内藤家などは、幼君忠興を擁して三百騎を緊急出動させたところもありました。幕閣では、老中白河城主松平式部大輔のほか、老中井伊掃部頭なども参集し、対応を協議します。

しかし、松下家中の抵抗はなく、騒動が収まり無事引き渡しが済んで、翌年には秋田俊季に三春国替えが認可され、三年後の正保五年(1645)八月に、三春五万石城主として三春城に入ります。

  蒼龍謹白   さすけねぞい三春!   拝


| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」三春昭進堂 |