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塵壺389号 令和5年12月発行 「戦国のファースト・レディー~    愛姫・陽徳院、西館殿五郎八姫・天麟院 






塵壺389号 令和5年12月発行

「戦国のファースト・レディー~

   愛姫・陽徳院、西館殿五郎八姫・天麟院 


日本三景の一つ松島に、三春に縁のある伊達政宗の正妻“愛姫(めごひめ)”法名・陽徳院を祀る瑞巌寺、そして、その娘で西館殿とも呼ばれた“五郎八姫(いろはひめ)”法名・天麟院(てんりんいん)が眠る天麟院内の定照殿(じょうしょうでん)(御霊屋)があります。


愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。

そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。


このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。

この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。

政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には後に松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。それから、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸の4人の子を政宗との間に授かっています。






太閤秀吉・豊臣の天下となり聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、今でいうファースト・レディー外交的な役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな、匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、絶えず政宗を“内助の功”で乱世の伊達外交を支えていたと美談が伝わっています。



三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領し幕末まで続きました。


愛姫について、妙心寺百五十三世住持で瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。






愛姫の娘で、西館殿とも呼ばれた五郎八姫・法名天麟院が眠る天麟院内の御霊屋「定照殿」。

天麟院は五郎八姫法名の菩提寺で瑞巌寺の並びにあり、陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられています。本堂・山内は小さいですが横の参道から山に登ると霊廟の「定照」や樹齢300年以上の“はりもみ”の巨木や伊達一族供養塔がある天麟院洞窟群などがあります。





五郎八姫は、越後少将と称された越後高田六十万石の城主松平忠輝の正室です。

忠輝は、徳川家康の六男で側室である茶阿局(さあのつぼね)を母としています。元々家康とは折り合いが悪いと伝わっており、「大阪夏ノ陣」の直後の元和元年(1605)には家康
から勘当を申し渡されます。

翌年、幕府から高田藩も改易され、正室である五郎八姫とも離別させられて飛騨高山から諏訪に流されます。

天和三年(1683)、諏訪大社のある諏訪にて九十三歳の生涯をここで閉じ、貞松院に葬られます。

忠輝と五郎八姫は仲睦まじかったが子供は生まれなかったと言われています。

五郎八姫は、離縁後父の政宗のもとに戻り、以後は仙台城下で暮らします。

このとき、仙台城本丸西館に住んだことから「西館殿」とも呼ばれていました。



     蒼龍謹白  拝   田村に来てみねげ!


| ryuichi | 04:47 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺388号 「三春舞鶴城築城秘話」 令和5年11月10日発行 





塵壺388号 「三春舞鶴城築城秘話」 令和5年11月10日発行 


永正のころ、戦国大名田村義顕公は、三春郷の中心部にある大志多山 (現三春城址)に御城を築き本城としました。

 城主も、田村氏、上杉氏代官、蒲生氏代官、松下氏、そして、秋田氏と移り代わりながら戦国動乱の乱世を乗り越えます。






 秋田氏治世の江戸初期から明治維新後に解体されるまで三春藩主の居城となり「舞鶴城」と呼ばれました。秋田氏の時代に、藩主の御殿は現在の三春小学校のある麓へ移っています。

 現在の城跡には、本丸や二ノ丸、そして、東舘とする三ノ丸跡があり、土塁や石の一部などが残り、遊歩道が設けられた城山公園として整備されています。

また、近年の調査によって城郭の中に江戸時代では最大級の大広間があったことや、全国でも珍しい城主のお風呂場である「御風呂屋」が存在し、主郭ともいうべき「御三階櫓」があったことも解ってきました。








舞鶴城の名前の由来には諸説があります。

田村氏の入城に際して、城の上空に1羽の丹頂鶴が現れて輪を描いて飛んだので、この吉兆を喜び「舞鶴城」と名づけたという説。

 築城に際して、城の安全を期する為の人柱にした「おツル」という娘の名をとったという説。

このおツルという娘は、領内の芦沢村光大寺の娘で大変美しいと評判だったと伝えられていて、今でも光大寺には美人が多く「光大寺美人」と云われています。







 さらに、田村氏は日和田八丁目(諸説あり)から本拠を三春に移し築城という運びとなり、その場所を求めて選定を行う際にまつわる伝説も伝わっており紹介します。

 三春郷で築城に最適と思われる大志田山(現・三春城址、御城山)と、貝山村の白山の山(現・白山比咩神社)の二か所が候補として残ります。

 この築城場所選定の話は、たちまち近在の村々に伝わり貝山村では白山様にお城が出来る事を願っていましたが標高の高い方に築城とするとのお達しがあり、果してどちらの山が高いのかという話が持ち上がり、村人々の一番の話題になっていました。

 そんな騒ぎの最中、1人の娘が大志田山の方が白山様より草履一枚分高いと自信有り気に話してしまいます。

 その話が噂になって田村家中の耳に入り白山の山にお城が出来なくなり、その一声の張本人が貝山村の“おツル”だったと判明し、おツルは村八分になり村から追放されます。

 その後、貝山村では“ツル”と言う名は禁がられ生まれた女の子にも付けなくなりました。


 近代に入り大正時代の頃までに、貝山へ嫁ぐ花嫁に“ツル”と称した方がいましたが、嫁ぐ時に名を“ケサ”と変えて嫁入りしたと伝わっています。







 前途の「人柱」とは、全国各所の築城に於いては神様への御供として人柱(生き埋め)を立てて造営の安全祈願とした伝説です。

 三春城址にも残っていますが、人の代わりに“鶴”と名付けた大石本丸に据えて人柱に替えたのではと考えています。

 尚、前記の貝山村のおツルさんは女ながら気丈夫な人だったから白羽の矢が立ったがその後どうなったかは伝説に表われていません。






 お城の別称でいえば「三春臥牛(舞鶴)城」との記載も認められます。宝暦九(1759)年に記された領内の名所旧跡を集めた『松庭雑談』には「三春臥牛舞鶴城」との記載があります。

 本丸にある「牛石伝説」ともに、『吉事有事、鶴来て城上に舞、故に領内ニ而鶴を殺さず。また不食・不買と云う』という記述があります。

牛石の伝説とは築城のとき木材を運んだ牛が石になったものだと伝えられています。

明治になってから往時の城を偲んで画かれた舞鶴城の図にも『臥牛の城』と記されており、本丸の牛石と舞鶴を併せた名で記されています。



  蒼龍謹白   三春に来てみねぇげ!  拝






三春昭進堂では、「三春舞鶴城」に思いを馳せ、「三春舞鶴城」と命名した栗どら焼きを新発売しました。

北海道小豆を使った自家製あんに"栗の甘露煮"を丸ごと一個入れて、ふわふわの手焼き生地で挟みました。





栗と餡のマッチングは良好で、栗を一個入れるだけで食べた時の贅沢感と幸福感はただのどら焼きとは違います。






| ryuichi | 03:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺387号   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 令和5年10月発行




   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 
 
鎌倉時代中期より室町から戦国時代にかけて、仙道(現福島県中地域)では田村庄司家の勢力基盤を継承した後の三春城主となる平姓田村氏が勢力を拡大していました。

 永享12年(1440)、室町幕府鎌倉公方の奥州の拠点「篠川御所(篠川公方)」(郡山市安積町)を攻め滅ぼした土豪の中に、田村利政公の名が記された資料が残っています。

 また、享徳3年(1454)頃の資料には、三春田村氏の初代・義顕公の祖父・田村直顕公の名が記されています。


 直顕公の時代から天正 18年(1590)の奥州仕置で田村家の終焉を迎えた当主宗顕公まで約150年間(六代)に亘って戦国乱世の時代に伊達氏・畠山氏・大内氏・岩城氏・相馬氏・蘆名氏・二階堂氏・石川氏・白川氏・佐竹氏といった強豪武将たちと亘りあい、時に四面楚歌の様相を呈した時期もありましたが、三春田村氏の活躍はめざましく、領土を護るばかりではなく領土拡張を成し遂げています。

 しかし、三春田村氏3代の清顕公は、激戦の真只中だった天正14 年に後嗣を定めず病没します。

 清顕公の夫人は相馬氏から、そして実母は伊達氏から入嫁しており、これらの要因もあって跡目後見争いとなり田村家中は内紛に発展してしいます。


 やがて伊達派の勝利により伊達政宗公の「田村仕置」を受けて清顕公の甥・宗顕公が後嗣となりますが、天正18年豊臣秀吉の「奥州仕置」によって、田村氏は所領安堵が得られず、戦国大名三春田村氏は消滅してしまいます。







 「御祭舘」御祭小山舘 

旧御祭村小山(三春町御祭)舘主小山左馬之助550石

三春城下の北西隣する旧御祭村は、戦国期には田村四十八舘の一つ小山舘があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

 古文書で見ると、三春札所(前述参照)から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったらしく、当時は、現在の舘下の橋本氏の屋敷までのびていたと思われます。

 江戸中期の秋田藩政下、藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納しました。

以後、明王と牛頭天王の祭礼には御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より御祭の村名を拝領したと伝えられています。

また、地域には「突き舘」、「突き打ち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という地名が残ります。

 戦国時代末期、田村清顕公が苦戦した小浜城の大内定綱の領地塩松(安達郡東部)への街道沿いで三春城の最後の防衛線に位置する舘です。



「七草木舘」七草木舘は、田村氏の一族で石高500石の七草木新助の居城。

ここは田村氏の三春領と、畠山氏の二本松領との境界に近く、御祭の小山城と共に、三春領北西の固めとして築かれたものです。

旧七草木村は、鎌倉時代末には田村庄司家田村氏の娘が地頭を勤めていました。

 その代官は鎌倉幕府滅亡後に上洛して後醍醐天皇の新政府に加わり領地の安堵を受けています。

その後、彼女が相馬重胤に嫁いだため七草木村は一時相馬領となったという記録が残されています。








七草木という地名の由来が伝わっています。

平安時代初期の寛平年間に宇多天皇は“七種粥の節句”をおこないました。

 このとき、竹良某という人が、七種および擂り粉木を献上した際に賞されて七種木の称を賜ったと伝わっています。

後にその子孫の七種木新介という武将が此の地の“築舘山”に舘を築いて移り住み、戦国大名田村氏に仕えた際に出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたとされています。



      蒼龍謹白  さすけねぇぞい田村!  拝







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塵壺386号「田村四十八舘 小野保(おのほ)」R5.9.15




「田村四十八舘・小野保(おのほ)」 御春輩 田村家武士団

天正16年6月、伊達家重臣伊達成実が田村の援軍として大越城の攻略に加勢した際の記録「伊達治家記録」に「町・寺マデ焼払ハレ 敵ハ町構ヲ引退テ 二ノ曲輪三ノ曲輪ヲ堅ク守ル 
因テ攻ムベキ術ナシ云々」と記しています。

これにより大越城が本丸をはじめ「二ノ曲輪」(二ノ丸)、「三ノ曲輪」(三ノ丸)を備えており、大越氏の城を中心とした“根小屋町(城下町)”をも併せて城郭を形成していたことが伺えます。このように三春田村家防御上で領内の主要な城・舘は、大越城のような城郭を形成していたと考えられています。


「小野新町城」三春城主田村氏御一門の田村梅雪斎顕基(三春田村二代隆顕弟)、その子田村右馬頭顕通の居城。
梅雪斎顕盛息の子右馬頭清忠(仙道表鑑)記載有

戦国時代三春城主田村義顕公は、三春入城後、嫡子隆顕を三春におき、さらに本拠の守りを固めるため次男憲顕を船引城主に、そして三男の顕基(梅雪斎)を小野城主に封じたとされ、この頃小野の保に侵攻して勢力下にあったと思われます。


与力衆として、小野六郷の衆の、二瓶主膳正・東方与力十五騎、金田式部少輔(赤沼切戸館主会田遠江頭、菖蒲谷会田左馬助?)・東方与力五十騎そして矢崎加左右衛門・東方与力足軽百五十の記載が見えます。

 平姓を名乗る三春田村一族が、郡山市田村(日和田?)から三春へ城を築きその拠点を移したのは永正年間(1504)の義顕の頃で、岩城地方の大舘城(飯野平城)主、岩城常隆も勢力を伸ばし、小野左右衛門の築いた小野城を攻めて支配下に置いたとされます。


岩城常隆は、三春田村氏との融和の為に娘を田村義顕と結婚させ、娘婿となった義顕に「小野保(おのほ)」、後の小野六郷・飯豊・谷津作・田原井(田原屋)・羽出庭(現小野町)、広瀬・菅谷(現滝根町域)を譲ります。


三春田村氏初代となる義顕は、子の顕基=顕定(梅雪斎)を小野城の小野左右衛門の嗣子として小野城に入城させます。

以後、戦国時代の混乱の中で梅雪斎と、その子右馬頭らは田村領南の要衝小野城を守りこの地域を治めます。



三春田村氏は義顕から隆顕、そして清顕と代を重ねていきますが、天正14年、清顕が急死すると、跡取りの居ない田村の家臣団は後継をめぐって分裂します。

田村月斎や橋本刑部等の清顕夫人の生家伊達氏を頼る派閥と梅雪斎やその子である大越城主田村右馬頭などの清顕の母の生家相馬氏を頼る派閥に分かれて真っ向から対立します。


天正17年、その混乱に乗じた岩城勢(清顕の祖母生家)の侵攻によって小野城は落城したといわれています。


尚、谷津作に残る湯ノ原古戦場は、岩城氏の小野城攻略の折に小野田村勢がこの場所にて数日岩城勢の大軍を食い止めた戦いの跡と伝わっています。

「小野田原谷城」 田村御一門中津川兵衛大夫。 後に家老の宗方右近に預け兵衛大夫は中津川城に住す。



「小野神股城」 城主神股久四郎 ※「古城絵図」には常葉久四郎助と記載。

三春城主田村清顕の臣でしたが、清顕亡き後の田村家中の混乱に際して岩城勢に攻め込まれ和談を申し入れ城を明け渡しています。後に伊達政宗の臣となり仙台城下に居住。



「皮籠石舘」小野新町大字皮籠石。

高屋敷と称され、天正年間より三春城主田村氏の臣、小野城代衆(三十六騎衆)の中野道満(入道)景安の居舘 ※中道との記載もあり

三春田村氏没落後に帰農し、代々その舘跡付近に現在も居住しています。また、その邸内に老桜と鞍掛石と称する石が残っています。




「槻木内舘」郡司主膳の居舘小野新町大字小野新町にありました。

前面に小野市街地を見渡せる南西、小野本城と相対しています。

小野城主田村梅雪等の没落後帰農し、現在もその子孫が麓に居住しています。




「将監舘」三春田村氏の臣、吉田将監の居舘。滝根町大字廣瀬の南東にありました。

「西牧舘」舘主・田村氏の臣 西牧文九郎が居住。旧飯豊村大字小野山神字八升蒔きに在り。

戦国時代末の天正十四年、三春城主田村清顕と会津城主芦名氏との安子ヶ島に於いて合戦の時に西牧氏戦死。安子ヶ島地内にその墓があると伝わっています。




    蒼龍謹白   さすけねぇぞい田村!  拝


| ryuichi | 04:51 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」令和5年8月発行




先に発行した塵壺385号令和5年8月発行の中で記載に疑問が残りました。


コラム欄の「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」の中で、羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子と記載しましたが、正しくは、「三春藩初代藩主安東秋田俊季公の実父安倍安東実季公、そして、その8代前の祖先で、羽賀寺を實季公より約150年前に修繕造営・再建した安東康季公の木造座像と記された資料が多数ございます。


 三春歴史民俗資料館第一回企画展 「安東・秋田氏展」図録をみますと、實季僧姿木造座像の背中に陰刻銘文がありとしるされており、凍蚓(とういん)を名乗った晩年の座像だと考えられています。

正式な衣冠束帯の座像は康季とされていますが、従五位上の衣冠束帯の装束からすると實季自身か、実季の父、愛季とも考えられます。


謎が深まるばかりです・・・・




塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」令和5年8月発行

   小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季公、実季公木造座像 



福井若狭湾に面する小浜市。

その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。







 本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.

その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の実父である実季、そして、その八代前の先祖で小浜寺を再興した中興祖ともいうべき安倍安東康季の木造座像が安置されています。







「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、“鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。


羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。

また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。



鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。

応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。







安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。



三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。






安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の青蓮院門跡尊朝法親王の要請により、先祖の御縁により安東実季が父である盛季の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の修蔵・改修を行っています。

安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。








もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》







羽賀寺梵鐘 秋田俊季公寄進


梵鐘名
若州遠敷郡本浄山羽賀寺者奥州十三湊
安倍康季公再興之地也依是臻
秋田城介實季公八代胤皆其善志然
先師真通雖浦牟百支損日久而不聞
微妙之声兮也九代之檀越秋田河内守
俊季公之以信心心洪鐘令成就有采庶幾
所者檀越貴福寿域千秋牟




銘日
金輪聖皇 地久天長
国家安泰 寺院繁昌
一聞必満 二世願望
洪鐘得益 功徳無量
正保三丙戊年八月吉日
伝燈阿闍梨権大僧都印良秀敬白
大工江州辻村住田中忠兵衛藤原正次


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塵壺384号 「奈良東大寺の大仏さま」小野赤沼村の鋳物師 遠藤金兵衛 2023.7




塵壺384号 「奈良東大寺の大仏さま」小野赤沼村の鋳物師 遠藤金兵衛 2023.7


「奈良東大寺の大仏さま」小野赤沼村の鋳物師 遠藤金兵衛 




「奈良の大仏さま」と小野町赤沼の御縁を耳にして、どうしても大仏さまに御目にかかりたくなり「大人の修学旅行」と洒落込み奈良観光に行ってきました。

高校の修学旅行以来の法隆寺、薬師寺、そして、東大寺。

当時とは違う?同じか?あまりに遠い記憶で忘れかけていた感動が倍増して蘇ってきました。





事前に小野保旧赤沼村金屋の鋳物師遠藤家に「奈良の寺に先祖が造った梵鐘が在った」、そして、「先祖が奈良大仏修理に参加していた」などの話が伝わっているなど、大仏さまとのご縁があると“レクチャー”を受けていましたので、より身近に感じていました。


実際に、東大寺大仏殿に赴き、大仏さまの慈愛溢れるそのお姿を拝観するだけで涙が溢れ時の経つのを忘れてしまいました。






現存されている「奈良の大仏さま」、正確には毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)は、創建造立当初のものではなく、2度の戦火のため罹災しています。

最初は1180年の「源平合戦」というもので、平重衡(たいらのしげひら)が放った火が、大仏殿にも燃え移り焼け落ちてしまいました。

この時は、「俊乗坊・重源」(しゅんじょうぼう・ちょうげん)が、後白河法皇の使者となる「藤原行隆」に東大寺再建を進言するなどして全国より寄付を集め、5年後に東大寺大仏・大仏殿は立て直されました。

この修復に際し、後白河法皇や鎌倉殿・源頼朝といった様々な当代の権力者が造営に寄進したといわれています。







次は、室町末期・戦国時代の1567年の「永禄の兵火」。

東大寺は興福寺などと共に畿内の利権争い戦場と化しました。当時の将軍足利義輝を殺害した三好三人衆と松永久秀が主導権を巡って、南大門付近にて武力衝突・戦乱が繰り広げられました。その際に松永久秀が大仏殿に火をかけ、東大寺の伽藍が全焼して大仏さまも頭と首が焼失し、後に大仏さまの頭部を仮修復して周りを覆い仮の仏殿としましたが、大風によって大破してその頭も取れてしまいました。

その後、大仏さまは首がない状態のままで100年以上、雨ざらしで放置されていたと伝えられています。






1709年の徳川時代にようやく大仏殿と大仏様が再建されます。

この時の復元修復は、三輪僧公慶が貞享元年(1684年)から大仏さま修復・復元のために広く全国に赴いて庶民に大仏さまの功徳を説き、多額の喜捨を集めて大仏さま修理の費用を捻出・確保しました。






元禄4年(1691年)から、鋳物師・広瀬弥右衛門国重らを中心として約5年の歳月を要して、やっと3度目の大仏さまが完成し、翌年には一か月に亘って盛大に開眼供養が行われたと記録にあります。これが現在の奈良の大仏さまとなります。


大仏さまの頭部は江戸時代。体部の大半は、鎌倉時代の補修ですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などは、建立当時である天平時代の部分も残っています。

台座の蓮の花弁に線刻されている華厳経の世界観を表す画も、天平時代のもので大変貴重です。

この大仏修理に赤沼の遠藤氏が鋳物師として参加していたと伝わっています。

後に鋳物師遠藤氏の一族は、当時白川(白河)藩十五万石の領地であった小野保仁井町の赤沼へ移住して小野保、三春領の田村庄をはじめいわき・須賀川などのお寺の梵鐘や半鐘を精力的に製作しています。





その高い技術力は大仏修理の鋳物師のなせる業で、赤沼金屋の鋳物師として現代風に言えば「ブランド」として引く手あまたの受注があったと想像されます。

惜しくもその作品の大半は先の大戦で供出され現存していませんが、供出を免れた梵鐘や半鐘などからもその技術力の高さを垣間見ることが出来ます。

末裔となる遠藤貴美様は、祖先の鋳物師としての作品があるお寺の梵鐘を県内各地に尋ねて丁寧に調べ上げ「赤沼村の鋳物師」を著わしています。


“確かに東大寺には「兜率天(とそつてん)」がある” 司馬遼太郎


       蒼龍謹白  田村に来てみねぇげ!  拝










遠藤先祖の奈良での行動はあくまでも確証の無い、遠藤家の言い伝えです。

昔、父や縁者から聞いていた先祖に関した言い伝えと、実際に先祖製作の梵鐘や半鐘を調べている中で私なりに総合的に判断した推測です。

日本の歴史上、寺の鐘が一番多く製作されたのは江戸時代中期で、二番目は昭和の戦後です。昭和については戦時中に失われた鐘の復元のため、全国で多くの梵鐘や半鐘が製作されました。



一番多い江戸中期については、・・・・江戸初期の島原の乱の後、江戸幕府は徹底したキリシタン禁令政策を施行。「宗門改制度」、「寺請制度」が実施、国内の隅々に寺が創建されたことにより、部落単位に必ず寺が設けられた。


全ての人々が、いずれかの寺の檀家になり、寺からは(寺請証文)なる身分証が交付されることで、檀家住民の動向や戸籍を管理。このシステムから「宗門人別改帳」や「檀家台帳」が作成された。
・・・現代の市町村の役場機能を寺に行わせていた。


この様なことから布施や寄進等で財政的に潤い、寺も梵鐘や半鐘を持つようになった事が、江戸中期に梵鐘や半鐘が多く製作された要因となっている。

江戸中期初頭の地域(現在の福島県)での鋳物師は、会津、梁川、安積日和田、須賀川本町、棚倉、岩城、相馬に存在した。当時奥州地方の鋳物師は多くなかったと思える。


私の推測では、ビジネスチャンスの奥州は先祖にとって魅力の地であったのではないか? 当時の田村地方に先祖以外の鋳物師は存在しておりません。


  「赤沼村の鑄物師」遠藤貴美著 あとがきより


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塵壺383号 「紫雲閣」 旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷 令和5年5月24日発行




塵壺383号 「紫雲閣」 旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷 令和5年5月24日発行








  「紫雲閣」 旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷 



蔵座敷「紫雲閣」は、明治時代の商人吉田誠次郎氏が遺した邸宅で、現在は三春町へ寄贈されて三春町文化伝承館として継承されています。


吉田誠次郎は、三春郷駒板村 (現郡山市中田町駒板) の吉田常三郎の次男として生まれ、三春城下中町の商人「釜屋」宗像善吾の次女と結婚して養子となりました。






釜屋善吾は三春生糸「三春駒」の商標を取得して東京や横浜で生糸商を営み、誠次郎は横浜営業所長として奮闘。


明治28年にはのれん分けして分家・独立し、益々生糸問屋として商いを拡げながら、取引先の外国人向けに錦絵や書画そして骨董の販売を行い、さらに金融業に手を拡げて1代で財を築きました。






分家を機に三春城下に於いて居宅を構え、その折に隣接する紫雲寺に由来したとされる「紫雲閣」も建てられました。

三春の商人の蔵は城下町だけあってちょっと独特な配置があります。







商人の力量である「財産」を自慢するように表通りに面して建てるのではなく、武士階級に遠慮して店舗・屋敷の裏手に建造していました。

これは明治になってもそれは変わりありません。


 この「紫雲閣」もその通りで、表通りから一本奥に入った紫雲寺参道にある自宅の一番奥まった場所に建ててあります。






 その外観は普通の蔵ですが、内部には龍が随所に施され、唐風の間や最高級の材料を惜しげもなく使った茶室等、装飾や部材等々目を奪わんばかりの贅を尽くした造りとなっています。





 また、隣接する紫雲寺の桜や城下を借景とした各部屋からの眺めなど外からは想像することが出来ない趣向となっており近代日本創成期の経済界をリードした豪気な三春商人の経済・文化の交流を考察しながら、粋な遊び心を垣間見ることが出来ます。







 その邸宅は文明開化に沸き立つ東京、そして、海外貿易の本場横浜で商いをする中で養ったと思われる独特な趣向で構成されています。


 中でも紫雲閣2階にある唐風の“漆ノ間(紫雲ノ間)”には床柱に色彩豊かな“龍”が絡みついた立体的な装飾が施されるなど異彩を放った感性で訪れた者を魅了します。






 黒く節目の入った薩摩杉の天井板や、桐の一枚板の透かし彫り入りの欄間に、棕櫚・楓・鉄刀木・柿・黒柿・栗・紫檀・黒壇・欅・櫟・杉と様々な銘木と称される部材を用いて組み上げた床柱・床框・梁部等々・・・彫刻や金具等含めてこれらの部材も当時福島県で開催されたという全国産業博覧会「共進会」で調達して無理やり設えた様にも考えられます。






 外観の蔵と内部が別々の構造を成していて、部材ありきで各座敷の設えを整えていった様子が随所に見受けられ、蔵が先に在って(曳家をして移動した形跡有)、調達した装飾の部材を生かすように内部を1階部分から創り上げていく・・・








正に、大工、左官、建具屋、漆塗師、そして、建主である誠次郎氏の見識と情熱が作り上げた豪華絢爛な遊び心がいっぱ
い詰まった建物です。






 そして、各所に“龍”のモチーフが数多く見られ、名前に“龍”の付く私にはとても心もちが良く居心地の好い空間が広がっています。

 幕末、戊辰戦争では三春藩は御城下に暮らす民の生命と財産を戦火から護るために戦場となって焦土と化すことを避けようと戦を回避しました。









 その土壌があり明治以降には三春の商人は総合商社として福島県経済を引率するリーダーとして活躍しています。

 さらに、三春商人は海外貿易の拠点東京横浜に乗り出します。






 新開港地「横浜」はまさに国内外の貿易商人の活躍する舞台であり、なかでも、日本の主貿易品目である金や絹を扱う不平等条約のしこりが残る中で居留外国商人と取引していた日本・三春の商人は激しい盛衰を繰り返しその動乱期を生き抜いた少数の貿易商達は短期間に莫大な富を築いていきました。






        蒼龍謹白  三春さ来ねげ!  拝 










「移・中山舘」の舘主は本多氏と考えています。
他の資料の訂正箇所や、地域の方々の苗字からも推測されます。

三春田村氏を示す当時物の資料が乏しく参考にできる資料が江戸時代に入って書かれた軍学資料ですので、何らかの理由があってか写し違い等で苗字の相違があったと考えています。











KFB福島放送「シェア」 ふるさとリポートin三春

三春担当の髙橋です。






5月24日(水)午後3時48分から~ 放送されます。


お楽しみに!










三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |