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塵壺321号「三春藩秋田候上席別格年寄衆三春細川(京兆家)氏」平成30年4月




三春藩秋田候上席別格年寄衆三春細川(京兆家)氏

三春藩別格年寄衆(家老)三春細川(京兆家)氏。
祖を清和源氏、室町幕府将軍家足利氏の一門の嫡流細川(京兆家)氏で、御城坂(現在の遠藤病院のお城側の梅花園辺り)に屋敷があり、石高700石でした。

この細川氏、南北朝時代には畿内・四国を中心に一門で8か国の守護職を占める有力大名で、その嫡流である細川京兆家は代々管領に任ぜられ、斯波(しば)氏・畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに数えられた名門です。

尚、細川京兆家の「京兆」(けいちょう)とは、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来し、官位である“右京大夫”の唐(現中国)名「京兆尹」のことであり、細川右京兆とも呼称されていました。

ご存知「水戸黄門」の徳川光圀の官位が“中納言”で「黄門」様と呼ぶのと同様です。

細川家の年譜からは“人よ空(むな)しい(1467年)”の「応仁の乱」が特筆されます。

室町足利幕府の後継者争いに端を発し、斯波(しば)家、そして畠山家の後継者争いも加わり、全国の守護大名が京都に集結し「応仁の乱」の戦乱が起こります。

西軍と称される時の将軍足利義政の息子の義尚(よしなお)派と、東軍と呼ばれた義政弟の義視(よしみ)派との対立に起因し、四職(ししき)家の山名持豊(宗全)が西軍の統帥を務め、東軍の総帥を三管領家右京大夫細川勝元が務めました。
応仁の乱を描いた平成6年NHK大河ドラマ『花の乱』では、野村萬斎が細川勝元、そして山名宗全は萬屋錦之介が演じていました。この細川氏が三春細川氏の祖となります。

結局、11年にも及ぶ戦いの末に、京都はすっかり焼け野原になり、足利義政の子の足利義尚が9代将軍を継ぐことになりましたが、もはや将軍の威光はなく、中央では有力な守護大名が室町幕府の実権を握るようになっていきます。

戦国期の騒乱を経て安土桃山時代と時は移り、細川京兆家は以前の権勢をすっかり失って衰退してしまいます。
家督を継いだ晴元の嫡子細川昭元は、室町最後の15代将軍足利義昭に仕え、後に織田信長に仕えます。

以後、昭元の嫡子元勝(頼範)は、豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の役では豊臣方となり、大坂城落城後は讃岐国に隠棲していましたが、後に妹の嫁ぎ先の秋田実季を頼って当時常陸国宍戸城にあった秋田氏に身を寄せて客分として迎え入れられました。






三春藩(宍戸から転封)の元勝の嫡子義元の代の時に、秋田氏の家臣に列して別格年寄衆(上席家老)として仕えます。

尚、細川昭元と信長の妹“お市”の娘である“お犬”夫妻の間に生まれた長女が三春初代藩主秋田俊季の父実季の正室円光院です。

お市は浅井長政との間に、茶々(淀君)、初(京極高次室)、お江(徳川秀忠室)の三姉妹があり、このお江の子である徳川三代将軍家光と、従姉妹である円光院と実季夫妻の長男が三春藩初代の俊季(としすえ)候で、家光とは又従兄弟となります。

 三春秋田氏は、この由緒により外様大名から譜代並の大名へ格上げされ、さらにこの良縁をもたらしたことで、元勝の息子である細川義元は、秋田氏に好待遇で迎えられます。

義元以降は、宣元(義元の子)、忠元(宣元の子)、孚元(三春藩家老・小野寺泰忠の子で忠元の養子)、昌元(三春藩主・秋田延季の七男で孚元の養子)と続きます。







墓所は、三春城下荒町の三春藩主菩提寺高乾院にあります。

尚、桜谷細川氏はこの細川家の分家で、現在の歴史民俗資料館の場所に屋敷がありました。


    さすけねぇぞい三春!  合掌     蒼龍謹白    拝



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| ryuichi | 05:09 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺320号 平成30年3月発行 三春城下「月斎舘(椿舘)」 田村宮内少輔顕頼入道月斎



はじめに、本塵壺に掲載しています法蔵寺涅槃会の日時について誤った記載がりました。

涅槃会開催は、平成30年3月17日の土曜日午後2時からです。
曜日を日曜と誤記載してしまいました。
訂正させていただきます。





三春城下「月斎舘(椿舘)」 田村宮内少輔顕頼入道月斎

平成30年は、戦国武将三春城主田村清顕と正室“於北(おきた・相馬顕胤娘)”夫妻の一人娘で、伊達政宗の正室「愛姫(めごひめ)」(田村御前、出家院号は陽徳院)の生誕から450年にあたります。

今回は、その愛姫からすると高祖父の弟となる平姓三春田村氏三代(義顕、隆顕、清顕)その初代義顕の弟“田村宮内少輔顕頼入道月斎”のお話です。

顕頼(あきより)入道月斎(にゅうどうげっさい)が、三春城下にて居を構えたとされるのは現郡山広域消防三春分署、光岩寺の北側一帯の丘陵で「月斎舘(げっさいたて)」、そして「椿舘(つばきたて)」とも呼ばれていました。

当時、舘の周辺には椿が繁り、春には丘陵全体が紅く彩られたといわれ、“椿舘”と呼ばれる所以ともなっていました。

義顕の三春入城は、永正元年(1504年)で、応仁の乱から戦国時代へと移行する室町幕府末期の11代将軍足利義澄の頃となります。

月斎が生きた時代は正に“戦国乱世”の真っただ中で三春周辺でも相馬氏、芦名氏、二階堂氏、伊達氏そして佐竹氏などの戦国武将が割拠し田村領は“四面楚歌”的状況でした。

戦国武将である三春田村氏は、三春本城と共に領内の防備体制を構築するために、後に“田村四十八舘”と呼ばれる出城群も領内一円に築き、田村家に近侍する直属の旗本不断衆千騎の屋敷も三春城下本城近くに集中していました。
その中でも、本城防御の要、鬼門とされる乾(戌亥)の方角(東北)にこの舘を築き、戦上手と評判の高かった顕頼月斎を舘主として置き、防備を固めました。
伊達政宗も三春を訪れたとき、この月斎舘で饗応を受けたと古文書は伝えています。

また、田村領内四十八舘の内、上移、丹伊田、木目沢、阿久津等の街道筋の要となる舘には、月斎の息子たちなど配下の者を配していました。

月斎は、当時としては異例の100歳を超すご長寿でしたので、愛姫の父清顕弟の“田村氏顕”と被っているのではないか?とする説もありますが、二人の性格の違いからして、月斎は顕頼一人とみるのが正しいんだろうと思っています。

月斎は、小野城主田村右馬頭顕基入道梅雪斎(二代隆顕の弟)とともに田村家では重きをなし、兄義顕亡き後、甥である隆顕を立てて田村家中をまとめ上げ、その子清顕(愛姫の父)に仕えます。

当時、戦国時代の風潮として“下剋上”がまかり通る世の中にあっても、月斎は主家を立て内紛による田村家分裂を嫌って、晩年までの補佐役として生涯を懸けて田村本家を守り抜きます。


また、合戦においては田村勢の軍師を務め、仙道(現福島の中央部)に謀略に優れた戦国武将として三春田村氏の武名を轟かせ、周辺諸氏からは「陣場に月斎、田にひる藻、畑に地縛り、嫌いもの」と囃子詩に謳われる程“攻めの月斎“として近隣の武将たちには恐れられていました。

清顕死後の家中騒動では伊達方に与し、内紛に乗じて相馬義胤が三春入城を図りますが、月斎は息子の橋本刑部顕徳などと共にこれを撃退しています。
当時、石川、岩瀬、塩松(小浜)などを掌握し、田村領である田村庄・小野保に敵を一歩も入れなかったと記録されています。

一方、現いわき市平窪にある浄勝院所蔵の古文書の中に、月斎の子である田村宮内大輔に送ったとされる遺書が残っています。

雅号“月斎”という名前があらわす通り、その文筆を見ると文才の高さがうかがえ、戦国の世に在って和歌を詠む優雅さと禅宗に帰依し法名も“月斎聖休”とするなど参禅する道心とを兼ね備えた文武両道の武将でもありました。



拝 さすけねぇぞい三春!  蒼龍謹白   合掌







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| ryuichi | 05:14 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺第319号平成30年2月発行 「弘法大師木像、興教大師木像」 三春藩主祈願所真照寺




塵壺第319号平成30年2月発行

   「弘法大師木像、興教大師木像」 三春藩主祈願所真照寺

 明日2月3日は節分、三春城下真照寺の節分会です。
 御祈祷や景品交換などで本堂に上がった際には、ご本尊であるお不動様をお参りください。

その際、御本尊「不動明王」様、「大日如来」様が鎮座する須弥壇の両奥をよくご覧いただければと思います。
 ここには弘法大師木像と興教大師木像が収められています。

これは、天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。








 この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。

 江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。
 家老荒木玄蕃(輝季妹の夫)や、輝季公後妻の実家である佐塚氏が、藩重臣による権力争を憂い藩政の実権を握ろうとして、3代藩主輝季公の嫡男である広季を廃嫡して、代わりに荒木氏から旗本秋田氏に養子に入っていた頼季が藩主の座に就きました。

 この結果、広季(就季に改名)は45歳で亡くなり、代わりに荒木高村の子である頼季が藩主となり、三春藩の実権は荒木氏と佐塚氏に握られます。





 このことに不満を持つ三春藩重臣達と荒木・佐塚氏との争いから、三春藩に於ける藩政の争いと発展し、さらには、徳川幕府譜代幕閣の老中抗争の先端的様相を呈しはじめ、またその波及は藩内の秋田由来の家臣団と、宍戸由来の家臣団の権力争いも加わり、上は幕府閣僚から町方までに及ぶ“お家騒動”の事件となりました。

 幕閣での政争の末に徳川8代将軍徳川吉宗公が介入して裁断を下し、頼季の子である治季(後に延季に改名)を5代藩主に据えて、藩主頼季の閉門、家老荒木玄蕃の蟄居等、多数の犠牲者をだして終幕しました。





「腹切り梅」
亡くなった広季の守役だった滋野は責めを負い切腹を申し渡されます。
その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。






「三春化け猫騒動」
事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。

 また、三春郊外、貝山の泉沢に「御下屋敷」とよばれる荒木玄蕃の屋敷跡があります。

荒木は、幼君を亡きものと企む中で御殿医三宅良庵と老女鳴瀬とを巻き込み、朝の食事に一服盛り、幼君を毒殺したと伝えられています。
 その朝、荒木はこの下屋敷にあって舟形の大きな石を西方村の大滝根川から運ばせている最中でした。もう少しで庭に入るという時に、幼君急死の報せが本城からもたらされたので、悲しみを装って急ぎ登城したといいます。






 その後、“腹切り梅伝説”の忠臣滋野多兵衛の亡霊譚の下りとなりますが、荒木は御城下の上屋敷には居たたまれず、この下屋敷に逃れ大きな番犬数等と警固の武士を配して引き籠ったとされます。

 このとき西方村より運んだ舟形の庭石は、これも滋野の亡霊の祟りで、その後いくら手を尽くしても微動だにせず、庭外に放置されたまま伝説を秘めて風雨にさらされています。 

 古い広報三春コラム「古蹟萬歩」貝山の荒木屋敷参照

      蒼龍謹白   さすけねぇぞい三春!   拝








| ryuichi | 05:37 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺平成30年1月号 「三春秋田氏五万石三春城下年寄衆(家老)屋敷」


 

 三春秋田氏五万石三春城下年寄衆(家老)屋敷

 三春秋田氏五万石の年寄衆(家老職)は、三春舞鶴本城を中心としてその周辺の要所に屋敷を構えていました。

・南町御城坂中段の右側は、城代家老秋田調季規の屋敷です。当初は700石でしたが、寛政の秋田太郎左衛門の時代に1000石に加増されます。
 
秋田由来の出羽の出身で、祖先は安倍季高となります。安倍季高の祖先を辿れば山舘信濃入道になり、代々山舘秋田氏と称して格式第一の重臣でした。
 現在、山舘秋田氏の屋敷は庭園の整備が進んでいます。





・御城坂中段左側の浪岡氏は北畠秋田氏と呼ばれ、鎌倉末期の公卿北畠親房(きたばたけちかふさ)の流れをくむ名門で出身は伊勢です。

 慶長五年の関ケ原の戦後に秋田実季(三春初代俊季の父)が恩賞問題で徳川に異を唱えた罪により伊勢朝熊に流された頃、北畠宇近が秋田姓と500石を拝領して仕官します。後の寛文年間に500石加増され名門の別格宿老として重臣に列せられます。





・荒木氏。
南町の現保健環境センター付近が屋敷跡となります。

荒木氏は三春藩内年寄衆(家老職)より上席の別格の“御両家”として代々浪岡氏とともに城代、あるいは上席家老を勤めました。

 出身は丹波で、丹波波多野家臣細工所城主荒木山城守氏綱の子で、明智光秀家臣となった荒木氏清の子孫です。

 寛文の頃までは600石、内匠の代になり900石に加増され、その当時、御城、藩主御殿以外では荒木屋敷だけに高価な瓦屋根が葺かれていたと伝わっています。

 尚、荒木氏は後の「腹切り梅」「化け猫大火伝説」のモデルになった家老家でもあります。
 






・細川氏。南町(現在の遠藤病院のお城側の梅花園辺り)に屋敷がありました。
 石高700石、出身は山城国、京兆細川(きっちょうほそかわ)右京太夫昭元を祖とする客分家老でした。
 京兆細川氏は、室町末期の“応仁の乱”では東軍の総帥を務めた管領家細川勝元の子孫です。
 尚、初代三春藩主秋田俊季母堂の円光院は、織田信長妹お市・浅井長政夫妻の娘お犬と、細川昭元の間に生まれた娘となります。

・同じく客分家老に列した細川縫殿助氏350石の屋敷が、桜谷の三春町歴史民俗資料館下付近にありました。この細川氏は桜谷細川氏と呼ばれ、前記の細川氏分家です。
 三春秋田家の家臣団の筆頭藩士の中に、藩主に近く、世臣譜に公族と記された「御一門」と呼ばれた家があり、城跡東側清水に屋敷を拝領していました。






・秋田竹鼻氏。竹鼻氏は鹿季次男の家系で屋敷は清水(天沢寺向)です。
津軽安倍氏からの“秋田由来”となる譜代の重臣で石高400石。

・清水山舘秋田氏350石。御城坂山舘秋田氏の分家です。

・秋田中津川氏。中津川家は鹿季の三男の家系 屋敷は南町(現在の高齢者住宅)です。中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。

・秋田檜山(薦土・こもつち)作兵衛季章氏。貞季次男の家系 屋敷は、入清水西側です。秋田由来の譜代の重臣で、檜山姓を名乗っていました。300石でしたが後に500石へ加増されています。

・桜谷佐塚秋田氏。石高は500石で、桜谷細川屋敷の向かい側に屋敷を拝領していました。
 資料から推測するに佐塚広記氏が幕末の動乱期から明治初期にかけて一番活躍した家老です。

・大浦秋田氏。秋田鵜右工門 石高500石。南町遠藤病院裏手にあり荒木屋敷の向。

 幕末の各家当主は、山舘家が秋田調、中津川家が秋田仲之助、竹鼻家が秋田斎、薦土家が秋田作兵衛で、これに小野寺市太夫、秋田(佐塚)広記を加えた6名が最高職の年寄りを勤め、幕末動乱から明治維新の混乱期を乗り切りました。
  
合掌   蒼龍謹白   さすけねぇぞい三春!  拝







現在公開中の映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」
堺雅人さん、高畑充希さん主演です。

「鎌倉ものがたり」の公式スタッフツイッターでも紹介されていますが、美術のスタッフさんから依頼があり、当三春昭進堂も少しだけお手伝いしています。
劇中、夜市のシーンで妖しい茶屋で売っている真っ赤なまんじゅうがあります。






当映画のスタッフさんから依頼があり、そうです当三春昭進堂で製作しました。
この世には無い饅頭がコンセプト、名付けて”黄泉国茶屋特製火の玉饅頭!”です。

映画を観に行った時には、気をつけてご覧下さいね!

はじめの方に登場する“夜市”の黄泉国茶屋店頭です。

乞うご期待(^.^)






古より三春という町は”東北の鎌倉”と呼ばれている北国の小さな城下町です。

希望というか夢は、この鎌倉ものがたりの原作に三春が登場して、映画化の続編に三春のそのロケ地となればいいなあなんと思い描いている次第です。




素敵なセット!スタッフツイッターより


鎌倉ものがたりという映画のお手伝いを、遠く離れた三春の小さな饅頭屋がお手伝いすることが出来たということも何かの御縁なんだろうなあと考えています。

微力ながら映画”鎌倉ものがたり”の宣伝と話題作りに寄与できればと考えています。








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| ryuichi | 05:48 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺317 平成版三春城下古蹟漫歩「不動山」 平成29年12月号




平成版三春城下古蹟漫歩「三春城下不動山界隈」

「不動山」とは、三春城下中心部大町から御免町に位置する小高い石山です。
 戦国時代の天正3年、三春城最初の城主田村義顕が、同地に清水寺を建立し、ご本尊の揚栁観世音菩薩と不動明王尊の二像を安置します。
このために「不動山」と呼ばれたとされています。



 また、奥之院には千手観音を安置したと伝えられ、仏像はいずれも木造で室町中期の作と推定されています。
清水寺は、戦国の田村家から松下家、そして江戸期の秋田家と歴代三春城主が信仰するところとなり、江戸期の記録を見れば三春秋田家三代藩主秋田輝季候は、石高8斗7升9合を寺領として寄進しています。
尚、安永9年火災によって本堂が焼失しますが同年中には再建されています。


 

時は下って、明治維新後の明治2年には神仏分離・廃仏毀釈などにより廃寺となり、同年7月2日の夜、盗賊が押し入り観音堂の扉が破られ仏像はことごとく持ち去られ以来行方が分からなくなっています。





この清水寺は、明治の終わりごろ三春城下大町の回春堂橋元柳平氏がその荒廃を見かねて不動山から芹ケ沢公園に移築して、田村三十三観音の一番札所「無量庵清水寺」址となっています。
 かつては、田村三十三観音の札所として、庶民の信仰を集めていた不動山麓の清水寺山内も、今は山頂の畑地と後免町の上がり口階段に、往年の姿を偲ぶだけとなっていましたが、現在は“不動山散策路”が整備されており、途中には石仏の欠片らしき石などが半分顔をのぞかせていたりして散策を楽しめるようになっています。








戦前まで、不動山西側の麓にはうなぎ料理で有名だった「たま川」(佐々木氏)の建物がありました。
 この敷地は、戦国時代末の天正18年から寛永4年までの40年間は、会津蒲生、会津上杉、二本松加藤と三春を兼領した歴代の代官所が置かれていた場所で、江戸期には旗本秋田氏の代官所となっています。

 この旗本五千石秋田淡路守家は、三春秋田家二代藩主秋田盛季が、幕府規定の「後継者なしの場合は領地召し上げ大名家廃絶」という厳しい禁令の対策として、弟の秋田熊之丞季久公に、七ヶ村五千石を分割し、いわゆる大名分地とし創設された徳川旗本家です。
 この時に三春領からの分割された村は、丹伊田・富沢・荒和田・大倉・新舘・石森(分村)・つくも田の各村となります。





 五千石秋田氏の殿様は、徳川直臣旗本で江戸常駐「定府」となります。江戸屋敷は築地本願寺の西手にあり、領主五千石秋田氏が領地に赴任することはなく、三春城下不動山麓にある不動橋の坂付近に代官屋敷を構えて代官一人が常駐して所領を管理していました。
尚、その代官は、淡州様代官(初代季久官職淡路守にちなんだ通称)と称されていました。

 明治維新、江戸幕府瓦解の後、五千石の領地を召し上げられ俸禄を失った五千石秋田氏は、江戸を離れて三春へ帰藩し、幕末動乱の江戸で暗殺された小野寺市太夫の南町屋敷に入ります。





 慶応3年10月、藩重役の秋田斎、奥村清酒、小野寺金兵衛らが、藩士渡田虎雄の周旋でフランス商人と絹や和紙等の商いをしますが、不慣れな武家商売ですので祖語をきたし契約不履行となり、国際訴訟事件にまで発展します。
驚いた三春藩では、藩費をもって決済し藩の関係者を厳に処します。

 時の江戸留守居役が齢70余の年寄目付小野寺市太夫でした。
 市太夫は、幕末混乱から戊辰戦争の最中には三春藩江戸藩邸を留守居役として預り、上記の不祥事から渡田虎雄らの逆恨みによる私怨により襲撃され非業の死を遂げています。   

  古い広報三春内コラム古蹟漫歩「不動山」参照

     蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!   拝






三春昭進堂のクリスマススペシャルケーキ!
5号生クリーム・チョコ生(4名様用)イチゴ5個 3000円税別 
6号生クリーム・チョコ生(6名様用)イチゴ7個 4000円税別   
7号生クリーム・チョコ生(12名様用)イチゴ12個5000円税別
8号生クリーム・チョコ生(18名様用)イチゴ15個6000円税別
6号 イチゴスペシャルサンド生クリームイチゴたっぷり6000円税別
ご予約をお待ちしています。



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「三春今昔物語 三春城下荒町界隈」 塵壺第316号 平成29年11月発行



塵壺第316号 平成29年11月発行

三春今昔物語 三春城下荒町界隈
三春城下の荒町は、明治に“郭境門”が撤廃されてからは、旧町内では一番広い地域を占め、旧藩時代から明治大正にかけて製糸工場、羽二重工場などもあり商工業が盛んなところでした。

日向町、前の三春中学校敷地跡にあった三盛社は、当時女工員150名を使って操業し、県下でも二本松の双松館と一、二を争う機械製糸工場として聞こえたものですが、先の戦時中に閉鎖してしまいました。

荒町本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、華正院、馬頭観音等が立ち並び、寺町を形成していました。

高乾院や龍穏院は藩主秋田家の菩提寺、家老など藩重臣やそれに付随する家臣の墓所でもあり、藩政時代、お盆の墓参には、家老から軽輩まで、それぞれの格式で行列を組んで墓に参っていました。
この場合、当時の町屋の者はその行列に遠慮して、通り過ぎるのを待って墓参に行く有様で難儀をしていました。
 今に伝わるお盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、こうした混雑を回避する為の日程調整でした。

三春藩主秋田家菩提寺の高乾院は、臨済宗の寺院で、ご本尊さまは室町時代の木造釈迦如来坐像、本堂脇の石段を登った秋田家墓所には、歴代藩主や妻子の墓石が立ち並んでいます。

同じく藩主菩提寺の龍穏院は、秋田氏の三春入部に伴って常陸宍戸(現在の茨城県笠間市)から移された曹洞宗の寺で、本堂は14間に7間半の総欅造りの豪壮な建築で、戊辰戦争では官軍の病院として使用され山内には官軍兵士の墓があります。
その後には自由民権運動の拠点となった三師社が置かれました。
また、本堂裏には宍戸より運んで来た秋田家尊霊塔や三春藩主の中でただ一人同寺に埋葬された8代藩主謐季公の墓所があります。

法蔵寺は、鎌倉時代中期の正応2年開山と伝えられる時宗の寺で、本尊は江戸時代の木造阿弥陀如来坐像、その中に鎌倉時代に作られた胎内仏が納められています。また、木造延命寺蔵立像は甘酒地蔵として信仰を集めています。

馬頭観音は、戦国時代の三春城主田村家三代の清顕が安置したというから約500年も昔からありました。小野の東堂山、堂坂(現郡山市富久山町堂坂)と共に“三観音(馬頭観音)”と呼ばれて庶民の信仰を集めていました。
毎年旧暦の3月17日の縁日には、近郷近在から仔馬の出来た飼主たちが多数参詣して、餅を巻いて無事成長を祈願していたそうです。

光善寺は、江戸時代初期の慶長9年に開かれた浄土真宗の寺で、ご本尊さまは阿弥陀如来です。本堂の欄間を江戸時代後期の白河藩の絵師蒲生羅漢の筆による天女図が飾っています。

荒町口から入る城下への街道は本宮口と小浜海道口がありました。
本宮口は、大正三年の磐越東線開通とともに三春駅が出来てその様が一変します。

また、小浜海道口の方は、二本松領川東三万石の小浜・針道方面との物資輸送、羽二重の川俣まで生糸を運ぶ外、馬、繭、葉タバコなどを荷馬車やトラックで運送するために、今の渋池通りの中ほどから上り二折れしていた道を、現在小浜海道である旧三春中学校西側に沿うように道路を作り直します。
以後、交通の利便性を図って往来がスムーズになり三春城下の発展に寄与しています。
昭和30年代の広報三春内コラム参照

蒼龍謹白 さすねぇぞい三春!   拝







 『真照寺ライトアップコンサート』

 旧三春藩主祈願寺の方丈庭園がライトアップされて、幻想的な雰囲気の中でのコンサートが開催されます!

 平成29年11月12日(日)
 時間: 開場16時30分  
     開演17時(18時40分終演予定)

 場所:真言宗智山派 日乗山 真照寺

 前売2000円  当日2500円

 前売チケットご予約yukazou1@gmail.com





 お問い合わせ 0247622705(真照寺)

 ※中学生以下入場無料(要学生証提示)

出演・小川ロン さすらいの吟遊詩人 
  ・MANAMI  酪王カフェオレのCM曲
  ・パイナップル独りウェイ 西田町在住

 出店:三春昭進堂

 主催 真照寺 エスコートYuka Igarashi







「三春城下紅葉ライトアップ」
三春城下旧三春藩主秋田家祈願寺真照寺庭園回遊式方丈池、旧三春藩総社三春神明宮(三春大神宮)のライトアップが始まりました。

時間:午後6時~午後9時

 息をのむほどの美しさに、真言密教でいう金剛曼陀羅の世界を見るようです。

暖かい恰好でお出かけください。




春陽郷三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:48 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺315号 平成29年10月発行 三春今昔物語平成版「三春城下中町の巻」




塵壺315号 平成29年10月発行 三春今昔物語平成版「三春城下中町の巻」

三春今昔物語平成版「三春城下中町の巻」

三春城下中町は、旧藩政時代から大店が店を構え、商売で繁昌してきた商人の町です。
 毎月の2と7のつく日には“市”が立ち、折り返し糸や葉たばこなどの農産物から、鎌や鍬などの農耕器具、工芸品、そして茶店などが出店していました。

中町本通りには、本陣本店川又氏、桐屋橋本氏、小野屋橋本氏、桑原商店桑原氏等々、幾百年か続いた老舗大店が軒を並べ、県下一の商都として栄えていました。

御免町は侍屋敷で、小堤氏、熊倉氏などの武家屋敷立ち並んでいました。
その御免町から裏町へ抜ける通り、旧代官町には、昭和の初めまで料理屋を営んでいた「玉川」(佐々木氏)でした。

この場所は、江戸時代初期に松下公が三春城主になるまでは、当時三春を治めていた会津120万石所領時代(約70年間)の代官所のあった場所でした。
後の秋田氏藩政下では、旗本五千石秋田氏の代官所となり淡州様代官(初代季久の官職淡路守のちなんだ通称)と称されます。





旧小野屋角から、職人横丁への道の途中の小路には士族と町衆の牢屋がありました。

馬場、尼ケ谷全域は、藩政時代には御厩(うまや)があり、百間馬場が整備され藩士の乗馬鍛錬場がありました。
毎年春には“馬場ノ桜”が見事に咲き誇っていたといいます。

 旧三春藩総社であった三春大神宮は、貝山岩田地内より元禄2年に、現在の場所である「神垣山」に遷宮されます。
 後に明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈、さらには明治の中ころの大雨による土砂崩れなどにより廃れていましたが、昭和6年に当時厄年だった壮年有志の皆様の手により幣殿拝殿の再建拝されました。
 このとき、社殿周辺の敷石や基礎の用いるために当時の三春小学校児童約1700名と教職員は、町内を流れる桜川から川石一人二個を拾い境内に運び上げたと三春町史は伝えています。




 玄侑宗久さんが住職を務める福聚寺は戦国時代の永禄の頃に、日和田三丁目から移され、戦国期の三春城主田村氏田村義顕、隆顕、清顕三代の菩提寺です。

また、前記の代官町玉川の隣地には、お不動山と呼ばれる小高い丘があり、不動尊を祀った清水寺がありました。

 馬場御厩跡には、明治12年には旧士族たちが交付公債出資で製糸工場「厚生社」を創立しますが、士族の商法で事業不振になり、同32年には「三盛社」(日向町にあった前の三春中学校の場所)に合弁されます。

 今の愛宕下の「清酒三春駒」の“佐藤酒造”、以前は“金かぶ酒造”でした。
それ以前は「清酒白つつじ」の“緑川酒造”で、大越伊勢屋の「清酒菊水」とともに、商都三春の銘酒として、中通りのみならず、浜通りの方々にも愛飲されていました。

 明治36年当時の記録によると、田村、安積、安達の三郡酒造醸造連合共進会に於いて「菊水」が一等賞に輝いたとあります。
現在の中町公民館が立つ、旧ベニマル跡地には、かつて田村郡蚕連事務所があり蚕・繭の市が開かれていました。
 これは、大正14年旧三春馬車鉄道会社跡に、三春銀行頭取・山三渡辺商店の社長である渡辺平助氏などの尽力により創設された繭市場の建物でした。

 昔から谷間に開けた三春城下では大火の多い場所でした。
 城下中町も、不幸にして明治になってからも39年と43年の2回大火に遭遇してしまいます。

尚、今の中町本通りの道幅は、この大火の後に拡張された道幅となっています。

  古い三春広報内「三春今昔物語中町の巻」参照


            蒼龍謹白  拝  さすけねぇぞい三春!

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