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塵壺386号「田村四十八舘 小野保(おのほ)」R5.9.15




「田村四十八舘・小野保(おのほ)」 御春輩 田村家武士団

天正16年6月、伊達家重臣伊達成実が田村の援軍として大越城の攻略に加勢した際の記録「伊達治家記録」に「町・寺マデ焼払ハレ 敵ハ町構ヲ引退テ 二ノ曲輪三ノ曲輪ヲ堅ク守ル 
因テ攻ムベキ術ナシ云々」と記しています。

これにより大越城が本丸をはじめ「二ノ曲輪」(二ノ丸)、「三ノ曲輪」(三ノ丸)を備えており、大越氏の城を中心とした“根小屋町(城下町)”をも併せて城郭を形成していたことが伺えます。このように三春田村家防御上で領内の主要な城・舘は、大越城のような城郭を形成していたと考えられています。


「小野新町城」三春城主田村氏御一門の田村梅雪斎顕基(三春田村二代隆顕弟)、その子田村右馬頭顕通の居城。
梅雪斎顕盛息の子右馬頭清忠(仙道表鑑)記載有

戦国時代三春城主田村義顕公は、三春入城後、嫡子隆顕を三春におき、さらに本拠の守りを固めるため次男憲顕を船引城主に、そして三男の顕基(梅雪斎)を小野城主に封じたとされ、この頃小野の保に侵攻して勢力下にあったと思われます。


与力衆として、小野六郷の衆の、二瓶主膳正・東方与力十五騎、金田式部少輔(赤沼切戸館主会田遠江頭、菖蒲谷会田左馬助?)・東方与力五十騎そして矢崎加左右衛門・東方与力足軽百五十の記載が見えます。

 平姓を名乗る三春田村一族が、郡山市田村(日和田?)から三春へ城を築きその拠点を移したのは永正年間(1504)の義顕の頃で、岩城地方の大舘城(飯野平城)主、岩城常隆も勢力を伸ばし、小野左右衛門の築いた小野城を攻めて支配下に置いたとされます。


岩城常隆は、三春田村氏との融和の為に娘を田村義顕と結婚させ、娘婿となった義顕に「小野保(おのほ)」、後の小野六郷・飯豊・谷津作・田原井(田原屋)・羽出庭(現小野町)、広瀬・菅谷(現滝根町域)を譲ります。


三春田村氏初代となる義顕は、子の顕基=顕定(梅雪斎)を小野城の小野左右衛門の嗣子として小野城に入城させます。

以後、戦国時代の混乱の中で梅雪斎と、その子右馬頭らは田村領南の要衝小野城を守りこの地域を治めます。



三春田村氏は義顕から隆顕、そして清顕と代を重ねていきますが、天正14年、清顕が急死すると、跡取りの居ない田村の家臣団は後継をめぐって分裂します。

田村月斎や橋本刑部等の清顕夫人の生家伊達氏を頼る派閥と梅雪斎やその子である大越城主田村右馬頭などの清顕の母の生家相馬氏を頼る派閥に分かれて真っ向から対立します。


天正17年、その混乱に乗じた岩城勢(清顕の祖母生家)の侵攻によって小野城は落城したといわれています。


尚、谷津作に残る湯ノ原古戦場は、岩城氏の小野城攻略の折に小野田村勢がこの場所にて数日岩城勢の大軍を食い止めた戦いの跡と伝わっています。

「小野田原谷城」 田村御一門中津川兵衛大夫。 後に家老の宗方右近に預け兵衛大夫は中津川城に住す。



「小野神股城」 城主神股久四郎 ※「古城絵図」には常葉久四郎助と記載。

三春城主田村清顕の臣でしたが、清顕亡き後の田村家中の混乱に際して岩城勢に攻め込まれ和談を申し入れ城を明け渡しています。後に伊達政宗の臣となり仙台城下に居住。



「皮籠石舘」小野新町大字皮籠石。

高屋敷と称され、天正年間より三春城主田村氏の臣、小野城代衆(三十六騎衆)の中野道満(入道)景安の居舘 ※中道との記載もあり

三春田村氏没落後に帰農し、代々その舘跡付近に現在も居住しています。また、その邸内に老桜と鞍掛石と称する石が残っています。




「槻木内舘」郡司主膳の居舘小野新町大字小野新町にありました。

前面に小野市街地を見渡せる南西、小野本城と相対しています。

小野城主田村梅雪等の没落後帰農し、現在もその子孫が麓に居住しています。




「将監舘」三春田村氏の臣、吉田将監の居舘。滝根町大字廣瀬の南東にありました。

「西牧舘」舘主・田村氏の臣 西牧文九郎が居住。旧飯豊村大字小野山神字八升蒔きに在り。

戦国時代末の天正十四年、三春城主田村清顕と会津城主芦名氏との安子ヶ島に於いて合戦の時に西牧氏戦死。安子ヶ島地内にその墓があると伝わっています。




    蒼龍謹白   さすけねぇぞい田村!  拝


| ryuichi | 04:51 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」令和5年8月発行




先に発行した塵壺385号令和5年8月発行の中で記載に疑問が残りました。


コラム欄の「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」の中で、羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子と記載しましたが、正しくは、「三春藩初代藩主安東秋田俊季公の実父安倍安東実季公、そして、その8代前の祖先で、羽賀寺を實季公より約150年前に修繕造営・再建した安東康季公の木造座像と記された資料が多数ございます。


 三春歴史民俗資料館第一回企画展 「安東・秋田氏展」図録をみますと、實季僧姿木造座像の背中に陰刻銘文がありとしるされており、凍蚓(とういん)を名乗った晩年の座像だと考えられています。

正式な衣冠束帯の座像は康季とされていますが、従五位上の衣冠束帯の装束からすると實季自身か、実季の父、愛季とも考えられます。


謎が深まるばかりです・・・・




塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」令和5年8月発行

   小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季公、実季公木造座像 



福井若狭湾に面する小浜市。

その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。







 本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.

その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の実父である実季、そして、その八代前の先祖で小浜寺を再興した中興祖ともいうべき安倍安東康季の木造座像が安置されています。







「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、“鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。


羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。

また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。



鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。

応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。







安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。



三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。






安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の青蓮院門跡尊朝法親王の要請により、先祖の御縁により安東実季が父である盛季の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の修蔵・改修を行っています。

安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。








もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》







羽賀寺梵鐘 秋田俊季公寄進


梵鐘名
若州遠敷郡本浄山羽賀寺者奥州十三湊
安倍康季公再興之地也依是臻
秋田城介實季公八代胤皆其善志然
先師真通雖浦牟百支損日久而不聞
微妙之声兮也九代之檀越秋田河内守
俊季公之以信心心洪鐘令成就有采庶幾
所者檀越貴福寿域千秋牟




銘日
金輪聖皇 地久天長
国家安泰 寺院繁昌
一聞必満 二世願望
洪鐘得益 功徳無量
正保三丙戊年八月吉日
伝燈阿闍梨権大僧都印良秀敬白
大工江州辻村住田中忠兵衛藤原正次


| ryuichi | 06:59 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺384号 「奈良東大寺の大仏さま」小野赤沼村の鋳物師 遠藤金兵衛 2023.7




塵壺384号 「奈良東大寺の大仏さま」小野赤沼村の鋳物師 遠藤金兵衛 2023.7


「奈良東大寺の大仏さま」小野赤沼村の鋳物師 遠藤金兵衛 




「奈良の大仏さま」と小野町赤沼の御縁を耳にして、どうしても大仏さまに御目にかかりたくなり「大人の修学旅行」と洒落込み奈良観光に行ってきました。

高校の修学旅行以来の法隆寺、薬師寺、そして、東大寺。

当時とは違う?同じか?あまりに遠い記憶で忘れかけていた感動が倍増して蘇ってきました。





事前に小野保旧赤沼村金屋の鋳物師遠藤家に「奈良の寺に先祖が造った梵鐘が在った」、そして、「先祖が奈良大仏修理に参加していた」などの話が伝わっているなど、大仏さまとのご縁があると“レクチャー”を受けていましたので、より身近に感じていました。


実際に、東大寺大仏殿に赴き、大仏さまの慈愛溢れるそのお姿を拝観するだけで涙が溢れ時の経つのを忘れてしまいました。






現存されている「奈良の大仏さま」、正確には毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)は、創建造立当初のものではなく、2度の戦火のため罹災しています。

最初は1180年の「源平合戦」というもので、平重衡(たいらのしげひら)が放った火が、大仏殿にも燃え移り焼け落ちてしまいました。

この時は、「俊乗坊・重源」(しゅんじょうぼう・ちょうげん)が、後白河法皇の使者となる「藤原行隆」に東大寺再建を進言するなどして全国より寄付を集め、5年後に東大寺大仏・大仏殿は立て直されました。

この修復に際し、後白河法皇や鎌倉殿・源頼朝といった様々な当代の権力者が造営に寄進したといわれています。







次は、室町末期・戦国時代の1567年の「永禄の兵火」。

東大寺は興福寺などと共に畿内の利権争い戦場と化しました。当時の将軍足利義輝を殺害した三好三人衆と松永久秀が主導権を巡って、南大門付近にて武力衝突・戦乱が繰り広げられました。その際に松永久秀が大仏殿に火をかけ、東大寺の伽藍が全焼して大仏さまも頭と首が焼失し、後に大仏さまの頭部を仮修復して周りを覆い仮の仏殿としましたが、大風によって大破してその頭も取れてしまいました。

その後、大仏さまは首がない状態のままで100年以上、雨ざらしで放置されていたと伝えられています。






1709年の徳川時代にようやく大仏殿と大仏様が再建されます。

この時の復元修復は、三輪僧公慶が貞享元年(1684年)から大仏さま修復・復元のために広く全国に赴いて庶民に大仏さまの功徳を説き、多額の喜捨を集めて大仏さま修理の費用を捻出・確保しました。






元禄4年(1691年)から、鋳物師・広瀬弥右衛門国重らを中心として約5年の歳月を要して、やっと3度目の大仏さまが完成し、翌年には一か月に亘って盛大に開眼供養が行われたと記録にあります。これが現在の奈良の大仏さまとなります。


大仏さまの頭部は江戸時代。体部の大半は、鎌倉時代の補修ですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などは、建立当時である天平時代の部分も残っています。

台座の蓮の花弁に線刻されている華厳経の世界観を表す画も、天平時代のもので大変貴重です。

この大仏修理に赤沼の遠藤氏が鋳物師として参加していたと伝わっています。

後に鋳物師遠藤氏の一族は、当時白川(白河)藩十五万石の領地であった小野保仁井町の赤沼へ移住して小野保、三春領の田村庄をはじめいわき・須賀川などのお寺の梵鐘や半鐘を精力的に製作しています。





その高い技術力は大仏修理の鋳物師のなせる業で、赤沼金屋の鋳物師として現代風に言えば「ブランド」として引く手あまたの受注があったと想像されます。

惜しくもその作品の大半は先の大戦で供出され現存していませんが、供出を免れた梵鐘や半鐘などからもその技術力の高さを垣間見ることが出来ます。

末裔となる遠藤貴美様は、祖先の鋳物師としての作品があるお寺の梵鐘を県内各地に尋ねて丁寧に調べ上げ「赤沼村の鋳物師」を著わしています。


“確かに東大寺には「兜率天(とそつてん)」がある” 司馬遼太郎


       蒼龍謹白  田村に来てみねぇげ!  拝










遠藤先祖の奈良での行動はあくまでも確証の無い、遠藤家の言い伝えです。

昔、父や縁者から聞いていた先祖に関した言い伝えと、実際に先祖製作の梵鐘や半鐘を調べている中で私なりに総合的に判断した推測です。

日本の歴史上、寺の鐘が一番多く製作されたのは江戸時代中期で、二番目は昭和の戦後です。昭和については戦時中に失われた鐘の復元のため、全国で多くの梵鐘や半鐘が製作されました。



一番多い江戸中期については、・・・・江戸初期の島原の乱の後、江戸幕府は徹底したキリシタン禁令政策を施行。「宗門改制度」、「寺請制度」が実施、国内の隅々に寺が創建されたことにより、部落単位に必ず寺が設けられた。


全ての人々が、いずれかの寺の檀家になり、寺からは(寺請証文)なる身分証が交付されることで、檀家住民の動向や戸籍を管理。このシステムから「宗門人別改帳」や「檀家台帳」が作成された。
・・・現代の市町村の役場機能を寺に行わせていた。


この様なことから布施や寄進等で財政的に潤い、寺も梵鐘や半鐘を持つようになった事が、江戸中期に梵鐘や半鐘が多く製作された要因となっている。

江戸中期初頭の地域(現在の福島県)での鋳物師は、会津、梁川、安積日和田、須賀川本町、棚倉、岩城、相馬に存在した。当時奥州地方の鋳物師は多くなかったと思える。


私の推測では、ビジネスチャンスの奥州は先祖にとって魅力の地であったのではないか? 当時の田村地方に先祖以外の鋳物師は存在しておりません。


  「赤沼村の鑄物師」遠藤貴美著 あとがきより


| ryuichi | 04:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺383号 「紫雲閣」 旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷 令和5年5月24日発行




塵壺383号 「紫雲閣」 旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷 令和5年5月24日発行








  「紫雲閣」 旧吉田誠次郎亭別邸 蔵座敷 



蔵座敷「紫雲閣」は、明治時代の商人吉田誠次郎氏が遺した邸宅で、現在は三春町へ寄贈されて三春町文化伝承館として継承されています。


吉田誠次郎は、三春郷駒板村 (現郡山市中田町駒板) の吉田常三郎の次男として生まれ、三春城下中町の商人「釜屋」宗像善吾の次女と結婚して養子となりました。






釜屋善吾は三春生糸「三春駒」の商標を取得して東京や横浜で生糸商を営み、誠次郎は横浜営業所長として奮闘。


明治28年にはのれん分けして分家・独立し、益々生糸問屋として商いを拡げながら、取引先の外国人向けに錦絵や書画そして骨董の販売を行い、さらに金融業に手を拡げて1代で財を築きました。






分家を機に三春城下に於いて居宅を構え、その折に隣接する紫雲寺に由来したとされる「紫雲閣」も建てられました。

三春の商人の蔵は城下町だけあってちょっと独特な配置があります。







商人の力量である「財産」を自慢するように表通りに面して建てるのではなく、武士階級に遠慮して店舗・屋敷の裏手に建造していました。

これは明治になってもそれは変わりありません。


 この「紫雲閣」もその通りで、表通りから一本奥に入った紫雲寺参道にある自宅の一番奥まった場所に建ててあります。






 その外観は普通の蔵ですが、内部には龍が随所に施され、唐風の間や最高級の材料を惜しげもなく使った茶室等、装飾や部材等々目を奪わんばかりの贅を尽くした造りとなっています。





 また、隣接する紫雲寺の桜や城下を借景とした各部屋からの眺めなど外からは想像することが出来ない趣向となっており近代日本創成期の経済界をリードした豪気な三春商人の経済・文化の交流を考察しながら、粋な遊び心を垣間見ることが出来ます。







 その邸宅は文明開化に沸き立つ東京、そして、海外貿易の本場横浜で商いをする中で養ったと思われる独特な趣向で構成されています。


 中でも紫雲閣2階にある唐風の“漆ノ間(紫雲ノ間)”には床柱に色彩豊かな“龍”が絡みついた立体的な装飾が施されるなど異彩を放った感性で訪れた者を魅了します。






 黒く節目の入った薩摩杉の天井板や、桐の一枚板の透かし彫り入りの欄間に、棕櫚・楓・鉄刀木・柿・黒柿・栗・紫檀・黒壇・欅・櫟・杉と様々な銘木と称される部材を用いて組み上げた床柱・床框・梁部等々・・・彫刻や金具等含めてこれらの部材も当時福島県で開催されたという全国産業博覧会「共進会」で調達して無理やり設えた様にも考えられます。






 外観の蔵と内部が別々の構造を成していて、部材ありきで各座敷の設えを整えていった様子が随所に見受けられ、蔵が先に在って(曳家をして移動した形跡有)、調達した装飾の部材を生かすように内部を1階部分から創り上げていく・・・








正に、大工、左官、建具屋、漆塗師、そして、建主である誠次郎氏の見識と情熱が作り上げた豪華絢爛な遊び心がいっぱ
い詰まった建物です。






 そして、各所に“龍”のモチーフが数多く見られ、名前に“龍”の付く私にはとても心もちが良く居心地の好い空間が広がっています。

 幕末、戊辰戦争では三春藩は御城下に暮らす民の生命と財産を戦火から護るために戦場となって焦土と化すことを避けようと戦を回避しました。









 その土壌があり明治以降には三春の商人は総合商社として福島県経済を引率するリーダーとして活躍しています。

 さらに、三春商人は海外貿易の拠点東京横浜に乗り出します。






 新開港地「横浜」はまさに国内外の貿易商人の活躍する舞台であり、なかでも、日本の主貿易品目である金や絹を扱う不平等条約のしこりが残る中で居留外国商人と取引していた日本・三春の商人は激しい盛衰を繰り返しその動乱期を生き抜いた少数の貿易商達は短期間に莫大な富を築いていきました。






        蒼龍謹白  三春さ来ねげ!  拝 










「移・中山舘」の舘主は本多氏と考えています。
他の資料の訂正箇所や、地域の方々の苗字からも推測されます。

三春田村氏を示す当時物の資料が乏しく参考にできる資料が江戸時代に入って書かれた軍学資料ですので、何らかの理由があってか写し違い等で苗字の相違があったと考えています。











KFB福島放送「シェア」 ふるさとリポートin三春

三春担当の髙橋です。






5月24日(水)午後3時48分から~ 放送されます。


お楽しみに!










三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
塵壺382号 令和5年4月21日発行   「田村四十八舘東方要害」 御春輩 田村家武士団8 大越城




塵壺382号 令和5年4月21日発行  

「田村四十八舘東方要害」 御春輩 田村家武士団8 大越城
 
戦国時代の仙道(現福島県県中附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区でした。
 
田村荘司田村氏の流れを汲む三春田村氏は、そのころ伊達(米沢)・蘆名(会津)・畠山(二本松)・二階堂(須賀川)・相馬氏(相馬)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いています。

 三春田村氏は、その状況下の中で、惣領として一族や直臣、そして周辺の国人領主や地侍たちを従えながら、三春田村領内に於いて地侍と地縁的、族縁的な「洞中」の領主連合を形成し、血縁以外の家臣・国人領主たちに「一家」・「一門」などの称号を与えて自己の一族扱いをする事によって、その盟主としての地位を固めて戦国乱世を生き抜こうとしていったと考えています。

 「浮金舘」 為 源次
 
「移・中山舘」 大多和泉 移 (本多和泉)  永禄年間、田村隆顕代「春山舘」 本多信濃

※「移・中山舘」の舘主は本多氏と考えています。

他の資料の訂正箇所があったり地域の方々の苗字からも推測されます。

江戸時代に記された軍記もの「仙道軍記」「仙道記」「仙道表鑑」等々の中で誤字と思われる記載が多数確認されています。

戦国武将三春田村氏の当時物の資料が乏しく参考にしている資料が江戸時代に入って書かれた軍学の資料ですので、写し間違い等で苗字が違っていることもあろうかと思っています。

舘跡周辺に現在お住まいの方々の苗字に納得しています。


 「宮田舘」 宮田惣兵衛

 「南宇津志舘」 菊池兵部太夫 五百二十三石 三春札場迄四里十六丁

 「上宇津志舘」 田村家御家門 田村宮内太夫顕康 月斎一男 七百石 

 「熊耳舘」 熊耳太郎左衛門  六百九十三石 三春札場迄二十四丁

 「石森舘」金堂右エ門  七百六十石  三春札場迄一里二十八丁八間

 「新舘舘」鹿又備前   七百九十石

 「菅谷舘」菅谷隠岐守茂信 (佐藤氏)





「大越城(鳴神城)」 

東方与力五十騎 永禄9年下大越城(朝霧城)より移築 田村氏一族で田村四天王の一人と称された大越田村紀伊守顕光・信貫(橋本氏)一万石(安積六百石、大越二千、牧野三
百五十石)の居城。






 現田村市大越町大字上大越字町の西方、霊泉山脈中にありました。
 田村領では三春本城に次ぐ規模を有し、本丸、北ノ丸、西ノ丸、東ノ丸、 西北丸を有する堅固な城を築き、大越地内に数多くの舘を置きそこに家臣を配置していました。




 
鳴神城の由来は下澤郷と呼ばれていた現大越に築城の折、下大越白井倉より鳴神明神を遷して城中に祀ったことからこの鳴神城と呼ばれるようになったと伝わっています。

城主紀伊守は、三春三代城主田村清顕亡き後の田村家中のお家騒動に際して相馬方として伊達方の田村月斎、橋本刑部らと反目します。







 後に、岩城地方の大館城(飯野平城)主岩城常隆に通じ、反攻の機会を画策しますが及ばず鳴神城を退去しました。








 「下大越城(朝霧城)」向舘 

弘安年間(1278~87)、白鳥出羽守安光が向舘を築きその後7代に渡って居住。後の弘治2年(1556)、山城守仲光が大越に居城を移したという。





 「上大越弾正舘」

大越城主大越紀伊守の臣、荻野弾正の居舘  大越町大字上大越字町中の北方にありました。
 
「廣瀬 大越舘

」大越(橋本氏)玄蕃孫七郎の居舘。

      東方与力五十騎 滝根町大字廣瀬の南東にあり。

 「神俣八幡舘」

永禄年間、神俣太郎左衛門・神又久四郎房親(※小野神俣舘の記載有常葉氏より養子)以来、その子孫が世々居住。
 滝根町大字神俣西部。

田村氏の没落後に帰農してその子孫は今でも神俣を称として住居し繫栄しています。

 「時田舘」
大越紀伊守の臣、時田次郎の居舘 上大越字町東方。


 「白石舘」
三春田村氏の重臣大越城主大越紀伊守の臣、白石蔵人の居住
 現大越町大字上大越字町中の中央にありました。  平地に築かれており濠(ほり)をめぐらした跡が今でも見られます。








 「飯豊舘」

郡司掃部の居舘。東方与力五十騎 飯豊村大字飯豊に在り。 

三春田村家御家門方 郡司豊前 郡司雅樂之助 女子“おさき”は、田村御前(愛姫)に付いて仙台城下建て屋敷住(田母神氏旧記)
 現在、郡司姓を称する方々は、この郡司氏の子孫と伝わっています。

 「平舘」

七郷村大字堀越 三春城主田村氏の臣、三輪某の居住と記されています。

 尚、三輪氏の家系は、永谷豊前守治則の三男、三輪玄蕃治徳の末裔と伝わっています。






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塵壺381号 令和5年4月発行   「田村四十八舘 三春郷外郭要害」御春輩(みはるのともがら)田村衆 




塵壺381号 令和5年4月発行

  「田村四十八舘 三春郷外郭要害」御春輩(みはるのともがら)田村衆 

 戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。


対する防備は、重要拠点とする田村領内の中でも五十騎以上、足軽百名以上の与力武士衆が常駐した舘が記録されています。







 「富沢舘」三春町沢石字富沢

三春領古城絵図には、城主富沢玄蕃の名が見られ、田村清顕死後の田村家中の結束を誓った田母神家に残る血判状にも「富沢居舘富沢伊賀」さらに伊達家臣片倉家に残された田村家家臣録にも「北方与力五十騎」の大将として富沢伊賀守の名が連ねられています。


天正16年に伊達政宗が三春城・田大元帥明王学頭坊に滞在したときには、富沢氏とともに富沢の在郷衆もあいさつに訪れています。

当時騎馬武者が五十騎以上の与力の駐留した舘は、当時の田村領内全体でも13舘位で、それぞれの舘に駐留する各騎馬武者は、各々が自身の一族郎党を引き連れていましたので、手勢とする動員兵力としては騎馬武者の7倍~15倍の兵力がいたと考えられます。

後の資料には、三春城主田村利顕の二男(?)田村(橋本)刑部少輔徳顕(則顕との記載有)が「富澤橋本舘」に住居す。との記載もあります。


橋本刑部少輔徳顕 (貞綱)は、清顕没後田村家中の相馬派と伊達派が対立した際に、伊達氏へ組した三春田村家重臣の一人です。







「青石舘」旧澤石村青石 
舘主 佐久間伊勢より、九代孫左京に至るまで居住


「實澤舘」旧澤石村實沢。

天正年間舘主・實澤山城。永享年間に至り、岩崎山城が居舘


旧澤石村(三春町沢石)五舘跡 

「正楽舘」舘主渡邊雲龍斎

「御舘」舘主橋本玄蕃

「臺(むろ)舘」舘主佐久間豊後

「新舘」舘主某氏若狭  

「長根舘」舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住


「熊耳舘」 

三春本城から最も近い総備え外郭の要害舘のひとつで、規模も大きく三春城を防衛する上で重要な支城でした。

江戸時代に舘跡を調査した記録に「熊耳舘」は「舘主熊耳太郎衛門」とあります。

天正16(1588)年に岩代町の宮森城に在陣した伊達政宗のもとへ挨拶にいった田村家臣の中に熊耳氏がいますが、この熊耳氏について江戸時代に書かれた資料には、田村清顕が家督相続する際に、熊耳掃部助らを旗下に属させたと記されています。

また、清顕の死後、連判状と考えられる文書には、御幕下面々のひとりとして「熊耳又十郎」との記載があり、舘の近くには、南北朝時代の年号の記された石製供養塔がふたつ残されており、その頃からこの地域の中心的な場であったと想像されます。


「柴原舘」 三春町大字中郷字柴原

柴原助左衛門 三百五十石 後、橋本和泉助右衛門、禄高450石。

舘(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、本丸は南北28間、横18間。

この橋本氏は、先に記載した田村家重臣で下枝城の橋本刑部少輔徳顕の一族と伝えられています。

「蛇澤舘」 新田蔵助

「沼澤舘」 沼澤孫兵衛

「貝山舘」舘主 貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁 「田村氏宿老外連名」(片倉文書)

天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住との資料あり(貝山氏文書)

天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに加勢する軍勢の為に田村家中の主力を出撃させた田村氏のすきを狙って、伊達氏の奥州侵略の南下を阻止しようと相馬氏を旗頭とする岩城氏・佐竹氏の軍勢が同盟を結び、時の三春田村領(城主田村宗顕)を攻めます。

この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は、三春城下の防衛役として、一子盛綱とともに貝山城に残り入り相馬勢から城下を護衛しています。

幸い、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、相馬勢は各々領国へ引き上げ戦には至りませんでした。



    蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝

追記
田村家中重臣橋本刑部少輔顕徳
今回の塵壺にはその名前を「徳顕」、また「則顕」との記載のある資料を元にしたのでそのまま記載してあります。




※訂正です。

塵壺379号にて、江戸期に書かれた「奥陽仙道表鑑(抄)」を参照して岩井澤舘の主、常葉城城代を石澤修理亮と記載しましたが、前後の状況と地元の口伝からして石澤姓が誤記載・誤転載で、赤石澤姓・赤石澤修理亮と考えています。

奥羽永慶軍記(抄)、 政宗記(抄)、 奥陽仙道表鑑(抄)、 奥州仙道一覽記(抄) 参照







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塵壺380号 令和5年2月発行 「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参




塵壺380号 令和5年2月発行

「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参


 今年、還暦を迎えるので“一生に一度は「御伊勢詣り」”と云われる伊勢の神宮へ妻を伴って初詣に行ってきました。





かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。

また、外宮・内宮両社に於いて御神楽御祈祷を受けますと、御祈祷の祝詞でお一人お一人の住所と名前が呼ばれます。

自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。





神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)という集落に三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所があることをご存じでしたか?

禅寺「石城山永松寺」という古刹の宇内(境内)にある實季公の墓所は時が止まったかのようにひっそりと佇んでいます。







この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の妹)”です。


即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。

三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。







天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後し
て蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。


同年の「九戸政実の乱」の鎮圧や慶長20年(文禄元年)からの太閤朝鮮派兵、そして伏見城の築城などに従事、「関ヶ原合戦」では、徳川家康より「慶長出羽合戦」に於いて上杉、佐竹(西軍)に与したとの嫌疑をかけられ、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石への転封を命ぜられ常陸宍戸藩初代藩主となりますが水軍を取り上げられ「安東水軍」は終焉を迎えます。







後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。

本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。

幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。






千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。


實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。


また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。

幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。







]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。



「我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓

尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の再建工事が令和5年2月26日より始まります。






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